昨日は都内で第66回高村光太郎研究会でした。レポートいたします。

同会、当方も会員に名を連ねておりますが、年に一回、会員および会員外の方にもお願いし、研究発表を行っています。

会場は文京区のアカデミー茗台さん。
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昨日の発表者は3名でした。

まず、武蔵野美術大学さんの教授・前田恭二氏。発表題は「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」。
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「新出“手”書簡」というのは、このブログで令和2年(2020)に4月にご紹介した、『高村光太郎全集』等に漏れていた、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に掲載の光太郎による「手紙」と題する散文(大正7年=1918制作の光太郎ブロンズ「手」に関わります)で、「口村佶郎」はその「手紙」を送られた相手です。

口村佶郎について当方も調べは進めていましたが、よくわからない人物でした。それが、前田氏のご発表でいろいろとわかり、目からウロコの連続でした。

まず『芸術公論』の主幹であったという事実。そこで同誌は個人発行に近いマイナーな雑誌だったため、「手紙」と題する散文が令和2年(2020)まで見つけられなかったのも無理はない、とフォローして下さいました。

それから「手紙」の載った『芸術公論』第3巻第1号には、「名誉毀損事件ニ付青山泰石氏ガ彫刻家米原雲海ノ不正行為ニ関シ東京区裁判所ニ於ケル證言左ノ如シ 口村佶郎ニ対スル名誉毀損事件ニ関シ證人トシテ陳述書」という記事が載っているのですが、この「名誉毀損事件」につき、詳細に。

ことは島根県に建てられた出雲松江藩初代藩主・松平直政の銅像に関わります。元々、地元の青山泰石という彫刻家が像の建立を計画し自ら制作するつもりでいたのが、他の団体の推挙等により、光太郎の父・光雲高弟の米原雲海(やはり島根出身)が制作することになったという出来事がありました。この件に関し、口村が『芸術公論』誌上で米原を糾弾、それに対し、米原側から名誉毀損の訴えが起きたというものです。

その裁判の渦中に光太郎が口村に宛てた「手紙」が『芸術公論』に載ったということで、その末尾近く、「濁流の渦巻くやうな文展芸術の波は、私の足の先をも洗ひません。汚せません」とあり、そこから光太郎の立ち位置も垣間見える、といった内容でした。

また、米原と言えば、光雲と共に信州善光寺さんの仁王像も手がけていますが、それに関しても似たようなスキャンダル的なものもあったとのこと。

組織としての高村光太郎研究会では、研究発表会での発表者に発表内容をまとめた論文的なものを寄稿してもらっての(それ以外の訳の分からない寄稿もあるのですが(笑))機関誌『高村光太郎研究』を発行しています。次号は来年4月発行予定。詳しくはそちらに前田氏が詳しく書かれることでしょうから、それを御覧下さい。

お二人目の発表は、当会顧問であらせられた北川太一先生ご子息・光彦氏。
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「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」と題され、光太郎智恵子、さらに同時代あるいは先行する様々な分野の人々がどのように「美」というものを捉え、目に見えるよう具現化していったのか、その根底にあったものは……的なお話をなさいました。

ある意味、比較文化論的な内容で、名が挙がった人物は、レジュメの1ページ目だけでも高田博厚、ロマン・ロラン、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、コロンブス、ガリレオ、ケプラー、ニュートン、コペルニクス、ベーコン、エラスムス、モンテーニュ……。

光太郎智恵子に関しては単体で扱うのではなく、様々な「流れ」の中でどう位置づけられるのか、どういうところからどう影響を受け、それをさらにどう後世に伝えていったのかなど、確かにそうした捉え方も必要だなと改めて感じました。

三人目に当方。「智恵子、新たな横顔」ということで、智恵子に関して直近約10年で発見された新資料等をまとめてみました。
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画像は使用したパワーポイントのスライドですが、最近流行りのモノクロ画像をカラー化するというアプリで古写真をカラー化したものを載せてみました。智恵子に関し新たな資料が発見されるにつれ、言わばよくわからない存在だったモノクロの智恵子から、身近な現実の智恵子へと変貌しつつあるという意味を込めました。

一番言いたかったのは、かつて吉本隆明が『智恵子抄』をして「高村の一人角力(ずもう)」と評し、伊藤信吉や他の論者も同様のことを書き、現代のジェンダー論の方々も頭から『智恵子抄』を様々なハラスメントの象徴して捉えている事への異議です。

智恵子側の資料の発掘が進んでいなかった吉本や伊藤の時代はさておき、現代のジェンダー論の方々は智恵子の書き残したものなどは無視し、最初からアレルギー反応。「光太郎というフィルターを通してではなく、もっと智恵子という人物を直接的に見ようよ」ということです。それは逆に『智恵子抄』を「類い希なる純愛の詩集」と手放しで讃美する見方に対しても言えますね。確かに様々なハラスメントが見え隠れはするので。

この件に関しては新資料の紹介と共に、うまくまとまりますかどうか自信はありませんが、やはり来春刊行の『高村光太郎研究』に書かせていただきます。

発行の頃、またご紹介します。

終了後、窓の外。カーテンを開けたら夕焼け空がいい感じでした。
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その後、懇親会。楽しいひとときでした。
以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

そのうち太田村といふ山間地方に丸太小屋を建てるつもり。追々その地に最高文化の部落を建設します。十年計画。 戦争終結の上は日本は文化の方面で世界を圧倒すべきです。


昭和20年(1945)8月19日 寺田弘宛書簡より 光太郎63歳

8月10日の花巻空襲で疎開先の宮沢賢治実家も焼け出され、この頃は旧制花巻中学校元校長・佐藤昌宅に厄介になっていました。その後、9月には花巻病院長・佐藤隆房宅に移りますが、10月には郊外旧太田村へ。その構想は終戦後直ぐに持ったようです。

ただ、終戦4日後、まだ自らの戦争責任に関する反省は見られませんで、「戦争終結の上は日本は文化の方面で世界を圧倒すべき」と戦時中の延長のような考えですし、太田村移住も「最高文化の部落を建設」という無邪気な夢想に近いものでした。