新聞記事から2件ご紹介します。

まず、光太郎も登場する小説、柳川一氏の『三人書房』書評。今月初めの『読売新聞』さんから。

『三人書房』柳川一著  乱歩謎解き 賢治・大観ら鍵 評・金子拓(歴史学者・東京大教授)

 今年は江戸川乱歩が大正12年に「二銭銅貨」でデビューして100年という節目の年である。乱歩こと平井太郎は、デビュー前の大正8年2月から翌年10月にかけ、二人の弟と「三人書房」なる古本屋を営んでいた。自製のスクラップブック『 貼雑はりまぜ 年譜』によれば、店は本郷区駒込林町の団子坂上にあった。
 本書の書名にもなっている表題作「三人書房」は、そこに持ちこまれたある謎を解く物語であり、語り手はこの店に身を寄せていた乱歩の友人井上勝喜である。 本篇ほんぺん により作者はミステリーズ!新人賞を受賞した。本書にはその続篇4篇が併録され、いわゆる連作短篇集の体裁になっている。続篇のうち3篇が書き下ろしであり、すべて語り手が異なるという工夫がなされている。
 二作目の「北の詩人からの手紙」には宮沢賢治が謎解きの重要人物として登場する。『新校本 宮澤賢治全集』第十六巻下によると、賢治は大正7年から翌年3月まで妹トシの看病のため在京しているから、三人書房開業とかろうじて重なる。乱歩と賢治に接点があったかも、という設定にワクワクする。
 それだけでない。有名どころでいえば、宮武外骨や横山大観、高村光太郎も登場する。大観が語り手の一人となる一篇「秘仏堂幻影」は、デビュー直後の大正12年が舞台である。153 頁ページ からページをめくった瞬間、そうか、と驚かされた。この年は乱歩にとってだけでなく、大観にとっても重要な年であったわけか。
 あの謎や、登場人物のあの行動が、乱歩ののちの作品にこうつながってくるという仕掛けも巧妙で、語り口も乱歩のそれを強く意識しているとおぼしく、大正の雰囲気がただよう。本書は物騒な謎というより日常の謎に近い謎解きの物語であるが、そんな謎に 嬉々きき としてたわむれる乱歩の姿が 頬笑ほほえ ましい。その兄の姿を羨望のまなざしで見つめる二人の弟。次弟通は平井蒼太の筆名で小説を書いたことでも知られる。二人のことをもう少し知りたい人には、鮎川哲也の名著『幻の探偵作家を求めて』を薦めたい。(東京創元社、1870円)

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もう1件、過日、ちらっとご紹介しましたが、『福島民報』さんから。

創作に励み切磋琢磨 福島県いわき市の東日大昌平高文芸部 県文学賞入賞、活躍続く

 いわき市の東日大昌平高文芸部が近年、県文学賞で入賞を果たすなど目覚ましい活躍を遂げている。現在部員5人が在籍し、今年で顧問17年目を迎える斎藤久子教諭と切磋琢磨(せっさたくま)しながら短歌や俳句の創作に打ち込む。
 2000(平成12)年の開校とともに創部した。部員に短歌や俳句、小説などの指導をしながら斎藤教諭も創作をする。
 県文学賞では、2020(令和2)の第73回で当時の3年生が短歌部門で青少年奨励賞、2021年の第74回で斎藤教諭が短歌部門で準賞、昨年の第75回で仁田かのんさん(2年、当時1年)が短歌部門で青少年奨励賞をそれぞれ受賞。今年の第76回では猪狩冴空さん(2年)が詩部門、根本悠平さん(3年)が俳句部門でそれぞれ青少年奨励賞に輝き、同部としては4年連続入賞を果たした。
 県高校文芸コンクールでの活躍も顕著で、猪狩さんは今年の散文、短歌の両部門で優秀賞を受け、短歌部門で来年の全国高校総合文化祭への出場が内定している。
 創作に向かう感性を磨こうと、部員は市内外の美術館や偉人の生家での研修にも励む。二本松市出身の洋画家・高村智恵子の生家では「智恵子抄」を朗読したり、「レモン哀歌」にちなんで実際にレモンをかじったりして作品の世界に触れた。斎藤教諭は「現場に行かなければ分からないことがある。実体験を大事にしている」と話す。
 現在、部員は来年3月に発行する部誌「閃光」の編集作業を進めている。今後の活動について仁田さんは「さまざまなジャンルに挑戦し、うまく言語化できるようにしたい」、渡辺紗月さん(1年)は「多くの人に読んでもらえるような作品を作りたい」と目標を語った。
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高校の文芸部というと、過日、このブログで岩手県立花巻南高等学校文芸部さんについてご紹介しましたが、こちらは智恵子の故郷・福島県。ただし、同県の地区区分は沿岸部が「浜通り」、山間部が「会津」、その中間が智恵子の生まれた二本松を含む「中通り」で、記事にある東日本国際大学附属昌平高さんは「浜通り」のいわき市にあります。いわきと云えば、当会の祖・草野心平の出身地。そこで、記事にある「部員は市内外の美術館や偉人の生家での研修にも励む」とある中には心平生家も含まれているのかな、と思います。

それが浜通りの智恵子生家まで足を運んで下さり、「「智恵子抄」を朗読したり、「レモン哀歌」にちなんで実際にレモンをかじったりして作品の世界に触れ」て下さったそうで、すばらしいですね。顧問の先生の「現場に行かなければ分からないことがある。実体験を大事にしている」というお言葉に全てが集約されているような気もします。

今後ともさらなるご活躍を、と祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

子供等を何とかして純粋に聡明に育てなければ日本の今後があやぶまれます。又昔の状態に逆戻りするのでは情けない事ですから是非とも心ある者の努力が必要です。

昭和20年(1945)9月12日 水野葉舟宛書簡より 光太郎63歳

終戦から約1ヶ月、少しずつ「戦争」への省察が始まっています。やがてその矛先が自らの戦争責任へと向かっていき、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)などに繋がります。

で、「子供等を何とかして純粋に聡明に育てなければ日本の今後があやぶまれます」。戦前からそういう考えはありましたが、特に戦後は具体的な行動でそれを実現しようともしていきます。この後移住する旧太田村の山小屋では、近くの山口分教場(のちに山口小学校)や太田中学校、盛岡だと県立美術工芸学校や生活学校(現・盛岡スコーレ高校さん)などにたびたび通い、若い世代へのエールを送り続けました。