寒がりの当方としてはあまり来てほしくないのですが、来ちゃった感がありますね、冬。昨日あたりは関東では小春日和でしたが。
『東京新聞』さん、11月13日(月)のコラム。
日本華道社さん発行の月刊誌『ざ・いけのぼう』12月号。「特集・はなのおはなし」という連載から。
高村光太郎は東京美術学校を卒業後、海外へ留学。帰国してから約5年の間に書いた詩を時系列にまとめ、第一詩集として『道程』(大正3/1914年)を出版しました。「冬が来た」は「一九一三年」の項にあり、光太郎30歳、愛妻・智恵子と結婚する前の年の作品のようです。
「公孫樹の木も箒になった」と表現された冬の景色。夏は緑、秋は黄色の葉が生い茂っていた公孫樹の木から、葉がすっかり落ちてしまった様子は、私たちに寒々とした冬を思い起こさせます。
強い言葉で冷たく厳しい冬を表現し、「人にいやがられる」と語っていますが、詩の後半は厳しい冬を歓迎し、高揚する思いが歌われています。
寒い冬に対して、光太郎は他の季節にはない特別な力を感じていたのかもしれません。冬の厳しさが、自分を強く鍛えてくれるように思い、「僕に来い」と呼び掛けたのでしょう。冬の激しいエネルギーを自らの糧とし、どんな苦境も強く生き抜いていくという強い意志を感じます。
同じ項には北原白秋の「雪に立つ竹」も紹介されています。
同誌、華道家元池坊さんの機関誌のような感じですが、一般にも販売されていまして、Amazonさん等でも入手可能です。ぜひお買い求めを。
花巻高村光太郎記念館さんの紹介も載せて下さっています。そこで写真を借りたいということで花巻市役所さんに連絡が行き、ついでに本文の内容も問題ないか見てほしい、ということになったそうで、すると市役所さんから当方に校訂依頼が回ってきました。
というわけで、あちこちで「冬が来た」「冬が来た」「冬が来た」……(笑)。寒さに弱い当方、これから数ヶ月は気の重い日々です。温暖な房総で暮らしているくせに、と、北国の皆さんには怒られそうですが(笑)。
【折々のことば・光太郎】
「宮沢賢治詩集」をやはり青磁社からたのまれています。賢治さんの実家に居る事とて編纂には便利です。未発表の詩も発見されたのでそれも入れます。
花巻の宮沢家に疎開していた折の書簡から。終戦後の翌年から刊行が始まる『組合版 宮沢賢治文庫』の編集作業、戦時中から既に行っていたのですね。
『東京新聞』さん、11月13日(月)のコラム。
「春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず」-。吉田兼好が『徒然草』にこんなことを書いている▼いやいや、春が終われば夏、夏の後に秋がくるのはあたりまえでしょと言いたくもなるか。兼好さんが強調するのは四季の移ろいとはそんなにはっきりしたものではなく、「春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ…」なのだという。つまり、春の中に夏の気配があり、夏のころから秋が忍び込んでいる。季節とはそういう微妙な変化なのだと▼兼好法師に逆らう気はないが、微妙な変化とは言いにくい今年の冬の訪れだろう。強い寒気が流れ込んだ影響で、週末あたりから急に冷え込んできた。東京でも昨日、冬の訪れを告げる北風の「木枯らし1号」が観測された▼11月に入っても最高気温が20度を大きく超える日が続いたのに、この寒さに毛布をあわてて引っ張りだした。夏から一気に冬へ、とはおおげさだが、秋が感じにくかった分、冬に寝込みを襲われた気分になる▼週末に訪れた京都では今年、紅葉が遅れていると地元の方がおっしゃっていた。季節の急な移ろいに紅葉の足並みがついていけないようである▼冷え込みに思い出すのは高村光太郎の詩か。「きっぱりと冬がきた(中略)。きりきりともみ込むやうな冬がきた」。体調管理にはお気を付けいただきたい。小欄、きっぱりと風邪をひいた。
お大事にどうぞ(笑)。
11月10日(金)、『産経新聞』さん大阪版、俳人の坪内稔典氏によるコラム。
お大事にどうぞ(笑)。
11月10日(金)、『産経新聞』さん大阪版、俳人の坪内稔典氏によるコラム。
モーロクらんらん(31) 冬構え
暦の上では8日が立冬だった。今日は冬の3日目だが、さて、冬の備えはできているだろうか。冬への備えを季語では「冬支度」「冬用意」「冬構え」などと言う。これらの語、冬はちゃんと構えて、あるいは十分に用意して迎えるべきものだ、ということを示している。
ところが近年、この冬を迎える気持ちが緩んでいる。暖冬が続き、防寒用具などが整ってきたせいだろうが、たとえば「冬隣(ふゆどなり)」という季語がよく使われるようになっている。
かつて春を待つ喜びを「春隣」と言ったが、その言い方を冬にも転用したのが「冬隣」だ。最新版の歳時記『角川俳句大歳時記』はこの転用を容認し、「春夏秋冬みな隣をつけ」ると言い、「冬隣の場合、寒く厳しい冬に対して身構える緊張感が伴う」と解説している。
その解説の通りだと、「冬支度」でいいではないか。あるいは、「冬構え」のほうがぴったりだ。「冬隣」だと元になった「春隣」の気分がどうしても漂う。つまり、冬を喜ぶ気分になる。
たしかに喜んで冬を待つ気分はあるだろう。スキーが好き、あるいはコタツを囲む暮らしへのあこがれなどは「冬隣」的かも。でも、冬は冬らしく、春は春らしくなければせっかくの季節感がだらしなくなる。つまり、「春隣」を「冬隣」へ転用することに私は反対だ。精神とか感受性がこうした転用から緩むのではないだろうか。
「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食(えじき)だ」「しみ透(とお)れ、つきぬけ/火事を出せ、雪で埋めろ/刃物のやうな冬が来た」。以上は高村光太郎の詩「冬が来た」の一節。やや物騒だが、冬はこの詩のようなものだろう。
日本華道社さん発行の月刊誌『ざ・いけのぼう』12月号。「特集・はなのおはなし」という連載から。
特集四季の花詩~《冬》~
冷たく厳しい冬が強くしてくれる高村光太郎は東京美術学校を卒業後、海外へ留学。帰国してから約5年の間に書いた詩を時系列にまとめ、第一詩集として『道程』(大正3/1914年)を出版しました。「冬が来た」は「一九一三年」の項にあり、光太郎30歳、愛妻・智恵子と結婚する前の年の作品のようです。
「公孫樹の木も箒になった」と表現された冬の景色。夏は緑、秋は黄色の葉が生い茂っていた公孫樹の木から、葉がすっかり落ちてしまった様子は、私たちに寒々とした冬を思い起こさせます。
強い言葉で冷たく厳しい冬を表現し、「人にいやがられる」と語っていますが、詩の後半は厳しい冬を歓迎し、高揚する思いが歌われています。
寒い冬に対して、光太郎は他の季節にはない特別な力を感じていたのかもしれません。冬の厳しさが、自分を強く鍛えてくれるように思い、「僕に来い」と呼び掛けたのでしょう。冬の激しいエネルギーを自らの糧とし、どんな苦境も強く生き抜いていくという強い意志を感じます。
同じ項には北原白秋の「雪に立つ竹」も紹介されています。
同誌、華道家元池坊さんの機関誌のような感じですが、一般にも販売されていまして、Amazonさん等でも入手可能です。ぜひお買い求めを。
花巻高村光太郎記念館さんの紹介も載せて下さっています。そこで写真を借りたいということで花巻市役所さんに連絡が行き、ついでに本文の内容も問題ないか見てほしい、ということになったそうで、すると市役所さんから当方に校訂依頼が回ってきました。
というわけで、あちこちで「冬が来た」「冬が来た」「冬が来た」……(笑)。寒さに弱い当方、これから数ヶ月は気の重い日々です。温暖な房総で暮らしているくせに、と、北国の皆さんには怒られそうですが(笑)。
【折々のことば・光太郎】
「宮沢賢治詩集」をやはり青磁社からたのまれています。賢治さんの実家に居る事とて編纂には便利です。未発表の詩も発見されたのでそれも入れます。
昭和20年(1945)7月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎63歳
花巻の宮沢家に疎開していた折の書簡から。終戦後の翌年から刊行が始まる『組合版 宮沢賢治文庫』の編集作業、戦時中から既に行っていたのですね。