いただきものの書籍と雑誌をご紹介します。
まず書籍。光太郎と親交のあった、岡山県出身の詩人・永瀬清子の詩集です。
女の生きにくい世の中で身を挺して書き継いだ、勁く、やさしく、あたたかい、〈現代詩の母〉永瀬清子の決定版詩集。
妻であり母であり農婦であり勤め人であり、それらすべてでありつづけることによって詩人であった永瀬清子(1906-95)。いわば「女の戦場」のただ中で書きつづけた詩人の、勁い生命感あふれる詩と短章。茨木のり子よりずっと早く、戦前から現代詩をリードしてきた〈現代詩の母〉のエッセンス。(対談=谷川俊太郎)
目次
先にハードカバーがあっての文庫化ではなく、初めから文庫本としての刊行です。永瀬が亡くなったのが平成7年(1995)、没後30年近く経ったわけですが、この時期に岩波文庫さんのラインナップに入るというのが稀有といえば稀有と思われます。
永瀬の故郷・岡山県赤磐市の教育委員会にお勤めで、永瀬の顕彰活動に当たられている白根直子氏(今回も解説的な《研究ノート》をご執筆)から送られてきました。同市ではこれまでも永瀬について多方面でその名を知らしめる活動をなさっていて、今年は伝記漫画も刊行されましたし、永瀬の名をしっかり後世に伝え続けるぞ、という気概が感じられます。すばらしい。
永瀬は谷川俊太郎氏と交流が深く、その谷川氏による選です。また、谷川氏による「はしがき」、生前の永瀬と谷川氏の対談も収録されており、谷川ファンにもおすすめですね。
残念ながら光太郎が書いた永瀬詩集『諸国の天女』(昭和15年=1940)の序文は掲載されていませんが、「短章ほか」と題された散文を集めた項、谷川氏との対談などで、随所に光太郎の名が出て来ます。
特に「へー」と思ったのが、こちら。
高村光太郎氏がある時夫人のことを
「智恵子は画家でしたが、僕が彫刻家としての立場から、あまりに厳しくその絵を批評したのを本当に今から思うと可哀想なことをしたと思います。芸術家には賞讃と云うことが必要なのです。その事によって心をゆたかにされ、のびてゆけるのです」とおっしゃったことがあり深く心を打たれた。
おそらく同じ時のことを谷川氏との対談の中でも。
高村光太郎先生のところへお寄りしてお話ししていたら、高村先生もやはり奥さんの病気の原因が自分にありはしないかと苦しんだとおっしゃってました。ご自分が彫刻家なので、芸術に対して高い要求を持っているから、智恵子さんが絵を描いているのをちっともほめてやれなかった。そのことが悪かったんじゃないか、といろいろおっしゃいました。結局、お医者さんにも訊いたりしたんですけれども、それは原因じゃないと言われたそうです。
その他、永瀬と光太郎が共に出席し、かの『雨ニモマケズ』が「発見」されたという、昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた宮沢賢治追悼の会の話なども。
ぜひお買い求め下さい。
紹介すべき事項がまだ山積していますので、いただきものつながりでもう一冊。光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんを介して届きました。
目次(抄)
特集Ⅰ 「銀河鉄道の妹・宮沢トシ」を追って
座談 宮沢賢治・トシ研究者 山根知子教授をかこんで
文芸研究 銀河鉄道の妹たちへ
――妹宮沢トシが花巻高等女学校『校友会誌』に託し、
兄宮沢賢治が雑誌『女性岩手』に寄せた思い――
コラム 「宮沢トシの勇進」寄贈に感謝して
特集Ⅱ 聖地開演
一幕 「こども本の森遠野」
二幕 「高村光太郎記念館」
随筆
詩
小説
短歌
戯曲
花南文芸部活動録
編集後記
賢治の妹・トシが通った旧制花巻高等女学校の後身である花巻南高校さん(現在は共学です)。少し前の話ですが、令和元年(2019)、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)そばのスポーツキャンプむら屋内運動場(旧山口小学校跡地 通称・高村ドーム)で開催された第62回高村祭では、当時の同校3年生の生徒さんが光太郎詩朗読をなさってくださいました。ちなみに高村祭はこの第62回を以て休止。おそらく最後の高村祭となるのでしょう。
で、同校文芸部さんで出されているもので、おそらく年刊でしょう。高校生の文芸誌とあなどるなかれ、100ページ超のきちんと印刷製本されたもので、写真等も豊富に使われています。内容的にももりだくさんですし、何より生徒さんたち、それぞれに実にしっかりしたものを書かれています。
特集は賢治没後90年ということもあるのでしょう、賢治の妹・トシがらみ。ノートルダム清心女子大学教授の山根知子氏を招いて同校で開かれた座談会の様子など。当方は山根教授とお会いしたことはないと思うのですが、上記永瀬清子関連で岡山県赤磐市で開催された講演会の講師をなさった方で、奇縁に驚きました。
他の項で光太郎についても触れて下さっています。まず、今年2月に花巻で行われた宮沢和樹氏(賢治実弟清六令孫 林風舎代表取締役)と当方との公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」のレポート。さらに、それとは別に旧太田村の高村山荘、高村光太郎記念館さん訪問記的なものも。ありがたし。
そういえば、今月初めに開催された、花巻高村光太郎記念館企画展「光太郎と吉田幾世」の関連行事としての当方の同題の講座にも、顧問の先生と生徒さんがお一人、聴きに来て下さっていました。
若い世代の皆さんに光太郎やそこに連なる人々の世界を広く知っていただきたい、というのが当方の目指す点のひとつでして、そうした意味ではこちらの取り組みは非常にありがたく存じますし、「文学の聖地」として花巻を盛り上げようという生徒さんたちの熱意には心打たれました。
ちなみに智恵子の故郷・福島でも、いわき市の高校の文芸部さんが智恵子に関するもろもろを……という件が昨日の地方紙『福島民報』さんで報じられています(改めて後日紹介します)。
この国もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思う今日この頃です。
【折々のことば・光太郎】
小生今に智恵子観音といふ彫刻を作りますから、それに一度紫陽花を生けてください。
「智恵子観音」。ここでは具体的に語られていませんが、昭和25年(1950)に太田村の山小屋と志戸平温泉で神崎清と行った対談「自然と芸術」中に以下の発言があります。
智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもりです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。できあがったら、あれの療養していた片貝の町(千葉県)におきたいと考えています。
この構想は、さらに2年経って昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として具現化します。
まず書籍。光太郎と親交のあった、岡山県出身の詩人・永瀬清子の詩集です。
永瀬清子詩集
2023年10月13日 永瀬清子著 谷川俊太郎選 岩波書店(岩波文庫) 定価1,050円+税女の生きにくい世の中で身を挺して書き継いだ、勁く、やさしく、あたたかい、〈現代詩の母〉永瀬清子の決定版詩集。
妻であり母であり農婦であり勤め人であり、それらすべてでありつづけることによって詩人であった永瀬清子(1906-95)。いわば「女の戦場」のただ中で書きつづけた詩人の、勁い生命感あふれる詩と短章。茨木のり子よりずっと早く、戦前から現代詩をリードしてきた〈現代詩の母〉のエッセンス。(対談=谷川俊太郎)
目次
はしがき(谷川俊太郎)
[詩]
『グレンデルの母親』――(歌人房、一九三〇)より
『グレンデルの母親』――(歌人房、一九三〇)より
『諸国の天女』――(河出書房、一九四〇)より
『大いなる樹木』――(桜井書店、一九四七)より
『美しい国』――(爐書房、一九四八)より
『焰について』――(千代田書院、一九五〇)より
『山上の死者』――(日本未来派発行所、一九五四)より
『薔薇詩集』――(的場書房、一九五八)より
『永瀬清子詩集』――(昭森社、一九六九)より
『海は陸へと』――(思潮社、一九七二)より
『続 永瀬清子詩集』――(思潮社、一九八二)より
『あけがたにくる人よ』――(思潮社、一九八七)より
『卑弥呼よ 卑弥呼』――(手帖舎、一九九〇)より
[短章ほか]
『諸国の天女』――(河出書房、一九四〇)より
『女詩人の手帖』――(日本文教出版、一九五二)より
『蝶のめいてい 短章集1』――(思潮社、一九七七)より
『流れる髪 短章集2』――(思潮社、一九七七)より
『焰に薪を 短章集3』――(思潮社、一九八〇)より
『彩りの雲 短章集4』――(思潮社、一九八四)より
渦巻の川――わが詩作の五十年(永瀬清子)
《対談》やさしさを教えてほしい(永瀬清子・谷川俊太郎)
《研究ノート》(白根直子)
永瀬清子自筆年譜
先にハードカバーがあっての文庫化ではなく、初めから文庫本としての刊行です。永瀬が亡くなったのが平成7年(1995)、没後30年近く経ったわけですが、この時期に岩波文庫さんのラインナップに入るというのが稀有といえば稀有と思われます。
永瀬の故郷・岡山県赤磐市の教育委員会にお勤めで、永瀬の顕彰活動に当たられている白根直子氏(今回も解説的な《研究ノート》をご執筆)から送られてきました。同市ではこれまでも永瀬について多方面でその名を知らしめる活動をなさっていて、今年は伝記漫画も刊行されましたし、永瀬の名をしっかり後世に伝え続けるぞ、という気概が感じられます。すばらしい。
永瀬は谷川俊太郎氏と交流が深く、その谷川氏による選です。また、谷川氏による「はしがき」、生前の永瀬と谷川氏の対談も収録されており、谷川ファンにもおすすめですね。
残念ながら光太郎が書いた永瀬詩集『諸国の天女』(昭和15年=1940)の序文は掲載されていませんが、「短章ほか」と題された散文を集めた項、谷川氏との対談などで、随所に光太郎の名が出て来ます。
特に「へー」と思ったのが、こちら。
高村光太郎氏がある時夫人のことを
「智恵子は画家でしたが、僕が彫刻家としての立場から、あまりに厳しくその絵を批評したのを本当に今から思うと可哀想なことをしたと思います。芸術家には賞讃と云うことが必要なのです。その事によって心をゆたかにされ、のびてゆけるのです」とおっしゃったことがあり深く心を打たれた。
おそらく同じ時のことを谷川氏との対談の中でも。
高村光太郎先生のところへお寄りしてお話ししていたら、高村先生もやはり奥さんの病気の原因が自分にありはしないかと苦しんだとおっしゃってました。ご自分が彫刻家なので、芸術に対して高い要求を持っているから、智恵子さんが絵を描いているのをちっともほめてやれなかった。そのことが悪かったんじゃないか、といろいろおっしゃいました。結局、お医者さんにも訊いたりしたんですけれども、それは原因じゃないと言われたそうです。
その他、永瀬と光太郎が共に出席し、かの『雨ニモマケズ』が「発見」されたという、昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた宮沢賢治追悼の会の話なども。
ぜひお買い求め下さい。
紹介すべき事項がまだ山積していますので、いただきものつながりでもう一冊。光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんを介して届きました。
門 ⅩⅦ
2023年8月24日 岩手県立花巻南高等学校文芸部目次(抄)
特集Ⅰ 「銀河鉄道の妹・宮沢トシ」を追って
座談 宮沢賢治・トシ研究者 山根知子教授をかこんで
文芸研究 銀河鉄道の妹たちへ
――妹宮沢トシが花巻高等女学校『校友会誌』に託し、
兄宮沢賢治が雑誌『女性岩手』に寄せた思い――
コラム 「宮沢トシの勇進」寄贈に感謝して
特集Ⅱ 聖地開演
一幕 「こども本の森遠野」
二幕 「高村光太郎記念館」
随筆
詩
小説
短歌
戯曲
花南文芸部活動録
編集後記
賢治の妹・トシが通った旧制花巻高等女学校の後身である花巻南高校さん(現在は共学です)。少し前の話ですが、令和元年(2019)、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)そばのスポーツキャンプむら屋内運動場(旧山口小学校跡地 通称・高村ドーム)で開催された第62回高村祭では、当時の同校3年生の生徒さんが光太郎詩朗読をなさってくださいました。ちなみに高村祭はこの第62回を以て休止。おそらく最後の高村祭となるのでしょう。
で、同校文芸部さんで出されているもので、おそらく年刊でしょう。高校生の文芸誌とあなどるなかれ、100ページ超のきちんと印刷製本されたもので、写真等も豊富に使われています。内容的にももりだくさんですし、何より生徒さんたち、それぞれに実にしっかりしたものを書かれています。
特集は賢治没後90年ということもあるのでしょう、賢治の妹・トシがらみ。ノートルダム清心女子大学教授の山根知子氏を招いて同校で開かれた座談会の様子など。当方は山根教授とお会いしたことはないと思うのですが、上記永瀬清子関連で岡山県赤磐市で開催された講演会の講師をなさった方で、奇縁に驚きました。
他の項で光太郎についても触れて下さっています。まず、今年2月に花巻で行われた宮沢和樹氏(賢治実弟清六令孫 林風舎代表取締役)と当方との公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」のレポート。さらに、それとは別に旧太田村の高村山荘、高村光太郎記念館さん訪問記的なものも。ありがたし。
そういえば、今月初めに開催された、花巻高村光太郎記念館企画展「光太郎と吉田幾世」の関連行事としての当方の同題の講座にも、顧問の先生と生徒さんがお一人、聴きに来て下さっていました。
若い世代の皆さんに光太郎やそこに連なる人々の世界を広く知っていただきたい、というのが当方の目指す点のひとつでして、そうした意味ではこちらの取り組みは非常にありがたく存じますし、「文学の聖地」として花巻を盛り上げようという生徒さんたちの熱意には心打たれました。
ちなみに智恵子の故郷・福島でも、いわき市の高校の文芸部さんが智恵子に関するもろもろを……という件が昨日の地方紙『福島民報』さんで報じられています(改めて後日紹介します)。
この国もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思う今日この頃です。
【折々のことば・光太郎】
小生今に智恵子観音といふ彫刻を作りますから、それに一度紫陽花を生けてください。
昭和20年(1945)7月3日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎63歳
「智恵子観音」。ここでは具体的に語られていませんが、昭和25年(1950)に太田村の山小屋と志戸平温泉で神崎清と行った対談「自然と芸術」中に以下の発言があります。
智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもりです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。できあがったら、あれの療養していた片貝の町(千葉県)におきたいと考えています。
この構想は、さらに2年経って昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として具現化します。