当方も会員に名を連ねております「高村光太郎研究会」。年に1回、研究発表会を行っており、そこで発表した事柄などを各発表者が論文的な文章にまとめ、これも年1回発行されている機関誌『高村光太郎研究』に載せる、と、活動はこれだけなのですが、その研究発表会が下記の通り催されます。会員外の方も参加自由です。ちなみに組織としての研究会のHP等は存在しません。

第66回高村光太郎研究会

期 日 : 2023年11月25日(土)
会 場 : アカデミー茗台 東京都文京区春日2‐9‐5
時 間 : 13:30~17:00(終了後懇親会あり)
料 金 : 500円(懇親会費別)

研究発表
 「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」 前田恭二氏
 「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」 北川光彦氏
 「智恵子、新たな横顔」 小山弘明

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発表者お一方め、前田恭二氏は武蔵野美術大学さんの教授です。発表題にある「新出“手”書簡」というのは、このブログで令和2年(2020)に4月にご紹介した、『高村光太郎全集』等に漏れていた、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に掲載の光太郎による「手紙」と題する散文と思われます。また、これも発表題中の「口村佶郎」はその「手紙」を送られた相手です。前田氏、当方の投稿を御覧下さったか、あるいは独自にこの文章に辿り着かれるかしたのでしょう。口村佶郎と、光太郎の父・光雲高弟の一人、米原雲海とのからみについて発表されるようで、これは聞き逃せません。

口村佶郎、『高村光太郎全集』にその名が見あたらないのですが、「龍皚」というペンネームを使っており、「口村龍皚」としては『高村光太郎全集』第21巻所収の山川丙三郎宛書簡二三九〇にその名が書かれていました。明治45年(1912)3月、精神学院発行の雑誌『心の友』第8巻第3号に口村の文章が掲載されており、目次では「佶郎」、本文は「龍皚」となっており、同一人物であることが判明しました。

お二人目の発表者は、当会顧問であらせられた北川太一先生のご子息・光彦氏。「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」だそうで。

最後におまけで当方も。「智恵子、新たな横顔」と題しました。同じような題で、平成26年(2014)10月、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「第20回レモン忌」において講演をさせていただきました。その際には、平成2年(1990)、北川太一先生編集になる『アルバム高村智恵子――その愛と美の軌跡――』(二本松市教育委員会)刊行後に発見された智恵子資料(文筆、絵画、写真など)を紹介しました。今回はさらにその後の約10年で発見された新資料等をまとめてみました。

ただ、全てこのブログで少しずつご紹介してきた事柄ではありますので、下記リンクをお読みいただければ済んでしまうのですが(笑)。まぁ、一部は現物も持参します。
 明治35年(1902)智恵子高等女学校時代の写真
 明治40年(1907)智恵子が描いた? 絵葉書
 明治42年(1909)の智恵子を描いたカット
 明治44年(1911)『青鞜』表紙絵
 明治44年(1911)『西洋料理法』装幀
 大正元年(1912)『青鞜』同人 小磯俊子による智恵子評
 大正2年(1913)油絵「樟」モデルの木
 大正12年(1923)『女性日本人』へ寄稿
 大正12年(1923)『婦人之友』が取材
 大正末~昭和はじめ 智恵子愛用の毛布
 昭和3年(1928)『美術新論』に写真掲載

会員外の方も参加自由です。事前予約等も不要です。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】000

御高配により西鉛温泉にまゐり、もつたいない程の病後静養にひたり居候 一週間ほど滞在完全に健康をとりもどしたき念願に有之日々目に見えて体力増進の確信を得申候 清六さんに案内せられて此の仙境に在る事東京の事態を思へば夢のやうに感ぜられ身の幸福を天地に感謝致し居候


昭和20年(1945)6月20日 
佐藤隆房宛書簡より 光太郎63歳

5月16日に花巻の宮沢家に疎開し、翌日から結核性の肺炎でダウンした光太郎、予後を養うため、花巻南温泉峡の一番奥にあった西鉛温泉秀清館(宮沢賢治の母の実家が経営)で一週間の湯治をしました。当時としては珍しい四階建ての日本家屋で、建築設計も行っていた光太郎、その造作に感心しきりでした。残念ながらこの建物は現存しません。