11月8日(水)、『毎日新聞』さんの山梨版記事から。光太郎の花巻郊外旧太田村隠棲、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)についてです。
光太郎が蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村、そして「乙女の像」のたつ十和田湖、11月も半ばとなったこの時期、初雪の便りが届く頃です。もう既に降っているかも知れません。そしてこの後、厳冬期ともなれば雪に閉ざされます。
冬空の下、北の大地に粛々と生きた老詩人に思いを馳せていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
数日中に小生 岩手県花巻の方へまゐる事になりました、暫く滞留するつもりで居ります。
実際には「数日中」ではなく、この日の夜行で上野駅から花巻へと旅立ちました。朝から列車待ちの行列に並び、乗車出来たのは夕方でした。翌朝、雨で煙る花巻駅に着き、宮沢賢治の実弟・清六に迎えられました。
岩手県花巻市のJR花巻駅から西へ9キロ余り。彫刻家で詩人としても知られる高村光太郎(1883~1956年)は太平洋戦争後、太田村(現花巻市)の外れの「岩手の山」で7年間、おんぼろ小屋に一人で住んだ。東京にいた時、戦争を支持する詩を多数発表した自らに「暗愚」を見いだし、流刑を意味する「流謫(るたく)」を科した。
戦争詩を最初に書いたのは、日本が日中戦争を始めた1937年と言われる。「事変(じへん)二周年」で<植民地支那にして置きたい連中の貪慾(どんよく)から君をほんとの君に救ひ出すには、君の頭をなぐるより外ないではないか>と戦争を正当化。精神の支柱は、欧米のアジア支配からの解放だった。太平洋戦争開戦の「十二月八日」は<東亜(とうあ)を東亜にかへせといふのみ。彼等(かれら)の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ>と主張。光太郎にとってこの戦争は「大東亜戦争」だった。
44年の詩集「記録」には「特別攻撃隊の方々に」「海軍魂を詠ず」「戦に徹す」などを載せた。
45年4月、東京のアトリエが空襲で焼け、翌月、宮沢賢治の縁で花巻町(同)に疎開。敗戦後の11月、太田村の小屋に落ち着いた。鉱山などで使い古した建物を移築したため、粗末で当初は電気も通じておらず、まるで炭焼き小屋と同情された。光太郎は62歳で、当時は老人とみられた年齢。肺を病み、しばしば吐血して心配されたが、以前から土に根差した文化を理想とし、地方暮らしは希望していたものだった。
そのころ、戦争協力者への糾弾は文学にも広がり、光太郎も対象になった。知人へのはがきには、詩集の「『記録』は大本営を過信した小生の不明の記録となりました」との記述がある。
47年7月号「展望」に、転機となる詩20編の「暗愚小傳(しょうでん)」を発表。自分の精神史を告白した。「真珠湾の日」で<天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した>とあるように、戦争支持のもう一つの柱は天皇崇拝だった。「山林」では<おのれの暗愚をいやほど見たので、自分の業績のどんな評価をも快く容(い)れ、自分に鞭する千の非難も素直にきく>と吐露した。
これに収めなかった詩で、中国の抗日戦争の指導者だった蒋介石に対する「蒋先生に慙謝(ざんしゃ)す」では<天皇の名に於(お)いて強引に軍が始めた東亜経営の夢はつひに多くの自他国民の血を犠牲にし、あらゆる文化をふみにじり、国力つきて破れ果てた。わが同胞の暴逆むざんな行動を仔細(しさい)に知つて驚きあきれ、わたくしは言葉も無いほど慙(は)ぢおそれた>。そして「ブランデンブルグ」で<岩手の山におれは棲(す)む。おれは自己流謫のこの山に根を張つて>と言い切った。
鋳金家で弟の豊周(とよちか)は著書で「本気でむきになって、自分を島流しにした。国家に協力し、いかにうかつだったかを思い、自分の暗愚を感じていた」と振り返った。光太郎は50年発表の詩集「典型」の序文でも「私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、愚劣の典型を見るに至つて戦慄(せんりつ)をおぼえずにゐられなかつた。詩は悪罵せられ、軽侮せられ、処罰せられ、たはけと言はれつづけて来たもののみ」と、嫌悪感を繰り返し表した。
本職は彫刻だが、岩手にいる間は彫塑、木彫とも1点の作品も発表しなかった。一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」事務局長補佐の高橋卓也さん(46)は「一般に、自ら与えた罰は流謫と言われるが、実はそれより重い罰を彫刻の封印という形で科し、苦しんだ」と指摘する。
だが、彫刻刀はよく研ぎ、材料の木も乾燥させていた。それでもだ。モチーフを欲する「人体飢餓」で<渇望は胸を衝(つ)く。氷を噛(か)んで暗夜の空に訴へる。雪女出ろ。この彫刻家をとつて食へ。とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。その時彫刻家は雪でつくる。汝(なんじ)のしなやかな胴体を>ともだえた。
知人の手記によると、「岩手山の肩の強さに魅力があり、粘土で手の上で作ってみた」と話していた。高橋さんは「手慰みだろう」と推察する。弟は、光太郎が晩年「気もちが楽しいと木彫が出来る。腹が立つと詩が出来る」とつぶやいたエピソードを紹介し「兄が好んで試みた木彫の小品は、心が豊かな時でなければ、また心に他念が混入してゐる時などでは出来るものではない」と振り返った。
光太郎が彫刻の封印を解いたのは52年。10月に帰京し、青森県の依頼で十和田湖畔に建立する像の制作に取りかかった。仕事が終われば戻るつもりで、「小屋はそのままに」と言い残したが、53年10月の「乙女の像」除幕後に急に体が弱り、帰れないまま2年半後に死去した。死後、いろりの灰の中から土で作ったウサギの頭が出てきた。小屋は「高村山荘」として保存されている。
戦後、小屋で独居の高村光太郎は、寂しくないかと心配されたが、1938年に他界した妻の「智恵子がいるから大丈夫」と答えていた。<智恵子はすでに元素にかへつた。わたくしは心霊独存の理を信じない。智恵子はしかも実存する。私の肉に居る智恵子は、そのままわたくしの精神の極北>と、50年の詩文集「智恵子抄その後」の「元素智恵子」で書いた。
小屋から西へ徒歩5分に、高さ約30メートルの小さい山がある。東京方面の南側に景色が開け、光太郎はここに登っては妻の名を呼んでいたと、地元住民に語り継がれてきた。花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さんは「絶叫していたという人もいれば、ほがらかな感じだったという人もいる」と話す。 同書の「裸形(らぎょう)」で<つつましくて満ちてゐて、星宿のやうに森厳で山脈のやうに波うつていつでもうすいミストがかかり、その造型の瑪瑙(めのう)質に奥の知れないつやがあつた。智恵子の裸形をこの世にのこしてわたくしはやがて天然の素中(そちゅう)に帰らう>と予言した。そこへ、十和田湖畔の像制作の依頼が舞い込んだ。現地視察に同行した建築家は「『智恵子を作ろう』と、ひとりごとのようにいわれた」と書いている。モデルを頼んで裸像を作ったが、出来上がった顔は智恵子だった。 智恵子は紙絵を多数残し、高橋さんは「光太郎先生は死期が近付くと、作品を預けていた知人に『返してほしい』とお手伝いさんに電報を打ってもらい、永眠に間に合った」と話す。
なかなかよくまとまっていますね。光太郎が蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村、そして「乙女の像」のたつ十和田湖、11月も半ばとなったこの時期、初雪の便りが届く頃です。もう既に降っているかも知れません。そしてこの後、厳冬期ともなれば雪に閉ざされます。
冬空の下、北の大地に粛々と生きた老詩人に思いを馳せていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
数日中に小生 岩手県花巻の方へまゐる事になりました、暫く滞留するつもりで居ります。
昭和20年(1945)5月15日 伊藤海彦宛書簡より 光太郎63歳
実際には「数日中」ではなく、この日の夜行で上野駅から花巻へと旅立ちました。朝から列車待ちの行列に並び、乗車出来たのは夕方でした。翌朝、雨で煙る花巻駅に着き、宮沢賢治の実弟・清六に迎えられました。