10月24日(火)、『毎日新聞』さんの奈良版記事から。飛鳥時代、「蝦夷(えみし)」と呼ばれた東北方面の人々と都のあった飛鳥との関わりについてです。
大和政権が律令による中央集権化を進めた7世紀ごろ、国への反抗、服従を繰り返した最北の民・蝦夷(えみし)が、恭順の意思を示すため、山田道を飛鳥の京(みやこ)を目指してやって来た。
この連載で万葉時代に入れている時期だ。蝦夷は、「日本書紀」には景行紀から持統紀までに登場。斉明紀(7年間)には32カ所に蝦夷の字が出る。始まりは、6世紀半ば、大和朝廷が地方豪族を任じた国造(くにのみやつこ)の支配地域から外れた東北地方以北の住民を、政権の側から呼んだ名だった。蝦夷の地は、新潟、宮城両県の中部を結ぶ線の北だが、境界は時代により変化している。
この連載で万葉時代に入れている時期だ。蝦夷は、「日本書紀」には景行紀から持統紀までに登場。斉明紀(7年間)には32カ所に蝦夷の字が出る。始まりは、6世紀半ば、大和朝廷が地方豪族を任じた国造(くにのみやつこ)の支配地域から外れた東北地方以北の住民を、政権の側から呼んだ名だった。蝦夷の地は、新潟、宮城両県の中部を結ぶ線の北だが、境界は時代により変化している。
「蝦夷数千、辺境に寇(あたな)ふ(害意を示す)」。首領らを呼び「詔(みことのり)して」今「(景行天皇の世のように)元悪を誅(ころ)さむとす」と言うと首領らは「恐懼(かしこ)みて(恐れ敬い)」、「泊瀬(はつせ)(桜井市)の中流(川の中)に下て、三諸岳(みもろのおか)(三輪山)に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)」った。「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫」、「天闕(みかど)に事(つか)へ奉らむ」。
敏達天皇の訳語田(おさだの)幸玉宮は磐余(いわれ)にあった。蝦夷は、東国からの街道が通じていた名張を経て初瀬の谷の道を下ったのだ。
次は蝦夷との緊張を示す。
647(大化3)年、「渟足柵(ぬたりのき)(新潟市付近)を造りて、柵戸(きのへ)(屯田兵)を置く」。
万葉歌に出る北限地周辺の一つに、東山道は巻十四「東歌」にある「陸奥國」の「安達太良(あだたら)の嶺」(福島県)(3428)がある。高村光太郎の詩集「智恵子抄」が名を広めた。北陸道は、佐渡島の対岸にある神の山「弥彦(いやひこ)」(新潟県弥彦村)(巻十六 3883)。 福島県の南側は防人たちの出身地だ。
蝦夷の生活、姿の描写も「書紀」にある。 659(斉明天皇5)年7月、遣唐使は「道奥(陸奥)の蝦夷男女二人」を伴い、唐第3代の高宗に見せた。
高宗が「此等(これら)の蝦夷の國」の位置を問うと、使者は「國は東北に有り」、蝦夷には「三種有り。遠き者をば、都加留(つかる)(津軽)と名(なづ)け、次の者をば麁(あら)蝦夷と名け、近き者をば熱(にき)蝦夷と名く」と答えた。2人は熱蝦夷で毎年、朝廷に「入(まい)り貢(たてまつ)る」。蝦夷の「國」には「五穀」は無く「肉(しし)を食(くら)ひて存活(わたら)ふ」。家屋は「無し。深山の中にして、樹の本に止住(す)む」。
高宗は初めに「日本國の天皇(すめらみこと)」の平安を尋ね、「日本」の国号の最古の使用例の一つとされるが、誤写の可能性も指摘される。それまで中国書で日本は「倭国」であり、日本人も自ら倭と呼んでいた。
皇帝は2人の蝦夷を見て「身面(むくろかほ)の異(け)なるを見て、極理(きはま)りて(この上なく)喜び怪む(不思議だ)」と珍しがったが、2人は倭人の生活圏に一番近い蝦夷だった。同行させたのは倭国が多様で大きいと示したかったのだろう。わざと異装をさせていたのではないか。蝦夷の地は倭国の外と意識されていたことも分かる。2人は飛鳥に寄っただろうし、7世紀、東国から飛鳥京に行くには、山田道を通った。 西日本で稲作が広がった弥生~古墳時代の紀元前5~紀元6、7世紀、北海道は稲作をせず、狩猟、漁、採集を中心とした続縄文文化の時代だった。同文化は後期(3~6世紀ごろ)には、東北地方北部にも渡り広まる。 稲作は、弥生時代前期に本州日本海側北端の津軽に伝わった後、中期以降は衰退、7世紀末頃までその状態が続く。
唐に行った蝦夷の説明と続縄文文化の特徴は重なる部分がある。
「夷」は中国では、東方の未開蛮族を指す。蝦夷は蔑称だが、強さも意味した。「乙巳(いっし)の変」(645年)で殺された蘇我入鹿の父親で、自宅に火をかけて死んだ大臣の名は蝦夷だ。「壬申(じんしん)の乱」(672年)の大海人皇子方の「豪傑」の一人に鴨君蝦夷がいる。
斉明紀には、「渡嶋(わたりのしま)の蝦夷」が出る。「渡嶋」は北海道とみられるが、斉明4年には「阿倍引田臣比羅夫、肅愼(みしはせ)を討ちて、生羆(ひぐま)二つ・羆の皮七十枚を獻(たてまつ)る」。ヒグマは北海道に生息し本州にはいない。
「書紀」は蝦夷と肅愼を区別した。
斉明6年3月にも、阿倍臣に肅愼国を討たせた。臣が「陸奥の蝦夷」を船に乗せて行くと、「渡嶋の蝦夷」が海辺に居て「肅愼が我らを殺そうとする」と助けを求めた。戦いとなり「賊破れて己が妻子を殺す」。5月には一転して「石上(いそのかみの)池(いけ)の邊(ほとり)」(天理市)で「肅愼四十七人に饗(あへ)たまふ(饗応した)」。
「書紀」は、蝦夷と肅愼の関係には触れていない。現在のアイヌ文化の形成は13世紀以後とされる。 7世紀、飛鳥に来た蝦夷はどんな文化、歴史を持っていたのか。以上のように、なお不明な点が多い。
「蝦夷」というと、平安初期の阿弖流為と坂上田村麻呂との戦いや、さらに平安末期の前九年・後三年の役などが有名ですが、それらより遡る飛鳥時代、蝦夷とヤマト王権との関わりを追っています。
それ以前から、ヤマト王権と小競り合いがあった蝦夷のうち、降伏したり捕虜になったりした者たちは「俘囚」として全国各地に強制的に移住させられるなどしていました。西日本でも蝦夷風の蕨手刀が出土するのがその証左。ちなみに鬼婆伝説で有名な観世寺さん(智恵子生家近く)で「鬼婆の出刃包丁」として伝えられ、展示されているのは蕨手刀です。
それでも「まつろわぬ」者たちも存続し、阿弖流為の乱に繋がりますし、処遇改善を求める俘囚の反乱なども頻発、平将門の挙兵もそうした流れの中に位置づける説もあります。遣唐使に連れられて海を渡ったという「蝦夷男女二人」も俘囚でしょう。
飛鳥京を経て唐の都・長安に渡った蝦夷。もしかすると「飛鳥には空が無い」「長安にも空が無い」とつぶやいたかも知れません。1,300年後に「東京に空が無い」と語った智恵子、蝦夷の血を色濃く受け継いだであろうその出自から、「あどけない話」が読み取れる気もします。無理くりですが(笑)。さらに言うなら、若い頃から北方の風土に惹かれ続け、ついに晩年には花巻郊外に隠棲した光太郎にも蝦夷の血が受け継がれていたのかも知れません。いっそう無理くりですが(笑)。
飛鳥時代ついでに奈良時代がらみで。
テレビ番組の再放送情報です。
平家南都焼き討ちに負けるな!大修理始まる奈良の象徴五重塔に匠がしかけた驚きの技!運慶が学んだ阿修羅の秘密!無著と法相六祖と天平彫刻を徹底比較!大迫力ドローン映像。
光太郎の評論「」(原題は「日本美の源泉」)が使われます。
ぜひ御覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
只今はとりあへず妹の家に立退いてゐますが五月中旬には岩手県花巻町の宮沢賢治さんの実家にまゐります。一時そこに滞在して木彫材料を得て仕事する気でゐます。これからは諸方を行脚いたします。
4月13日の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎。その月のうちには花巻への疎開を決意していました。
前年には陸軍軍医学校での講習を受ける為に上京していた賢治の主治医だった佐藤隆房に花巻疎開を勧められていましたし、焼失してしまったと思われるものの、宮沢家からの誘いの書簡等もあったと思われます。
「蝦夷」というと、平安初期の阿弖流為と坂上田村麻呂との戦いや、さらに平安末期の前九年・後三年の役などが有名ですが、それらより遡る飛鳥時代、蝦夷とヤマト王権との関わりを追っています。
それ以前から、ヤマト王権と小競り合いがあった蝦夷のうち、降伏したり捕虜になったりした者たちは「俘囚」として全国各地に強制的に移住させられるなどしていました。西日本でも蝦夷風の蕨手刀が出土するのがその証左。ちなみに鬼婆伝説で有名な観世寺さん(智恵子生家近く)で「鬼婆の出刃包丁」として伝えられ、展示されているのは蕨手刀です。
それでも「まつろわぬ」者たちも存続し、阿弖流為の乱に繋がりますし、処遇改善を求める俘囚の反乱なども頻発、平将門の挙兵もそうした流れの中に位置づける説もあります。遣唐使に連れられて海を渡ったという「蝦夷男女二人」も俘囚でしょう。
飛鳥京を経て唐の都・長安に渡った蝦夷。もしかすると「飛鳥には空が無い」「長安にも空が無い」とつぶやいたかも知れません。1,300年後に「東京に空が無い」と語った智恵子、蝦夷の血を色濃く受け継いだであろうその出自から、「あどけない話」が読み取れる気もします。無理くりですが(笑)。さらに言うなら、若い頃から北方の風土に惹かれ続け、ついに晩年には花巻郊外に隠棲した光太郎にも蝦夷の血が受け継がれていたのかも知れません。いっそう無理くりですが(笑)。
飛鳥時代ついでに奈良時代がらみで。
テレビ番組の再放送情報です。
再 興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心
NHK BSプレミアム 2023年11月14日(火) 23:00〜00:00平家南都焼き討ちに負けるな!大修理始まる奈良の象徴五重塔に匠がしかけた驚きの技!運慶が学んだ阿修羅の秘密!無著と法相六祖と天平彫刻を徹底比較!大迫力ドローン映像。
奈良興福寺が守り続けてきた天平の心と国宝の数々を探る▽秘仏続々登場!北円堂運慶作の弥勒・無著・世親や南円堂康慶作の観音・法相六祖▽古代と中世のハイブリッド?五重塔が美しい理由▽高村光太郎たたえた天平彫刻の写実と歴代美術史家が絶賛した無著像のリアルを徹底比較▽康慶の仏像に異を唱えた藤原氏!その革新性とは▽東大大学院日本建築研究の海野聡と奈良博彫刻担当の山口隆介が天平の心と中世の職人と仏師の思いに迫る
【出演】興福寺貫首 森谷英俊 奈良国立博物館学芸部主任研究員 山口隆介
東京大学大学院工学系研究科准教授 海野聡
【語り】柴田祐規子 【朗読】小澤康喬
BS8Kさんで今年2月に初回放映があった番組で、2KのBSプレミアムさんでも3月と7月に放映がありました。【語り】柴田祐規子 【朗読】小澤康喬
光太郎の評論「」(原題は「日本美の源泉」)が使われます。
ぜひ御覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
只今はとりあへず妹の家に立退いてゐますが五月中旬には岩手県花巻町の宮沢賢治さんの実家にまゐります。一時そこに滞在して木彫材料を得て仕事する気でゐます。これからは諸方を行脚いたします。
昭和20年(1945)4月30日 西出大三宛書簡より 光太郎63歳
4月13日の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎。その月のうちには花巻への疎開を決意していました。
前年には陸軍軍医学校での講習を受ける為に上京していた賢治の主治医だった佐藤隆房に花巻疎開を勧められていましたし、焼失してしまったと思われるものの、宮沢家からの誘いの書簡等もあったと思われます。