過日立ち寄った日本橋の丸善さんではズドンと平積みになっていました。
2023年10月20日 土井善晴著 ミシマ社 定価1,600円+税
「なにもしない」料理が、地球と私とあなたを救う。
AIの発達、環境危機、経済至上主義…基準なき時代をどう生きるか? 人間とは、自由とは、幸せとは。「料理」を入り口に考察した壮大な著!
土井節炸裂、一生ものの雑文集。『ちゃぶ台』の名物連載、ついに書籍化。
レシピとは人の物語から生まれたお料理のメモ。他人のレシピは他人の人生から生まれたもの。でも本来、料理は自分の人生から生まれてくるものです。それがあなたの料理です。つたなくっても、自信がなくっても、私はいいと思います。「味つけせんでええ」というのは、それを大切にすることだと思っているのです。一生懸命お料理すればそこにあなたがいるのです。お料理するあなたが、あなたを守ってくれるのです。――「まえがき」より
目次
まえがき
1 料理という人間らしさ
2 料理がひとを守ってくれる
目次

まえがき
1 料理という人間らしさ
2 料理がひとを守ってくれる
3 偶然を味方にする――「地球と料理」考
4 味つけはせんでええんです
5 料理する動物
6 パンドラの箱を開けるな!
料理研究家の土井善晴氏によるエッセイ集。元々は『生活者のための総合雑誌 ちゃぶ台』(ミシマ社)に連載されたものの加筆・修正だそうです。
第1章「料理という人間らしさ」で、光太郎詩「火星が出てゐる」(大正15年=1926)が引用されています。長い詩なので第一連のみですが。
料理研究家の土井善晴氏によるエッセイ集。元々は『生活者のための総合雑誌 ちゃぶ台』(ミシマ社)に連載されたものの加筆・修正だそうです。
第1章「料理という人間らしさ」で、光太郎詩「火星が出てゐる」(大正15年=1926)が引用されています。長い詩なので第一連のみですが。
要するにどうすればいいか、といふ問は、
折角たどつた思索の道を初にかへす。
要するにどうでもいいのか。
待つがいい、さうして第一の力を以て、
そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
予約された結果を思ふのは卑しい。
正しい原因にのみ生きる事、
それのみが浄い。
お前の心を更にゆすぶり返す為には、
もう一度頭を高く上げて、
この寝静まつた暗い駒込台の真上に光る
あの大きな、まつかな星をみるがいい。
土井氏、この中の「予約された結果を思ふのは卑しい。」に着目され、「結果ではなく今という人生の道中に目的があるのです」と書かれています。そしてそれが料理法にも及んでいくことになります。
テレビ番組の収録にからめ……
料理するとき、材料を見て、なにをつくろうかと思うわけです。たとえ、自分のレシピであっても数字を参考にすると、私が台本に書かれていることを読むのと同じで、文言に囚(とら)われて感性がオドオドして、働かなくなるのです。
それって、何も考えなくてよいから、楽ちんなんですね。おいしいレシピどおりにつくるという結果だけを目的にすると、機械的な作業になって、自分の作る料理でも、無関心、無責任でいられるんです。
それじゃつまらん、ということでしょう。
ところが予定通り、レシピ通りにいかないこともあるわけで……
「あーしたらこうなる」という化学の論理は、自然に生かされる私たちの生活にも、人間関係にも、料理にも当てはまりません。自然も人生も複雑で、そんなに単純にうまくいくはずがないことは、よくわかっているはずです。
だから料理の現場にAIの導入などもってのほか、という方向に話が進みます。そして題名の通り「味付けはせんでええんです」。
事細かに「このメーカーのこの調味料をこう使って、隠し味に××を忍ばせ、火加減はこのくらいで何分何十秒……」という方法は否定されます。逆に大胆に味付けは最低限だけ、あとは食べる人が自分の好みに合わせて塩胡椒(「智恵子抄」ではありません(笑))をふったりしてくれればよい、的なことまでおっしゃっています。和食の理念でもありますね。素材の味を生かすこと。
ストンと落ちました。当方、ケチャップやらマヨネーズやらの調味料でギトギトになったものは大嫌いです。市販のハンバーガーなどは食べられません。コンビニやサービスエリアなどでフランクフルトやアメリカンドッグ等を買う際も、店員さんが辛子とケチャップを付けて下さろうとすると「いりません」。
さらに土井氏曰く、
日本人の清潔感とは、「なにもない」を好むことのあらわれです。なにもないところに、ごく小さな変化が表れるとき、私たちはそれに気づくことができるのです。ですから、味つけは飾りであり、ときに邪魔にさえなるのです。
器に盛られたお料理を見て、季節を喜び、箸でつまんで想像して口に入れるんですね。自分の想像を超えておいしければうれしくなるでしょう。自分で感じとるから、一層おいしくなって楽しめるのです。
だから料理店などでは、シェフ氏やら板前さんやらウェイター・ウェイトレスさんやらが「食材のいわく因縁、つくり方を丁寧に、ときに小さなガッツポーズを入れながら解説」などしなくてよろしい、というわけです。そういうのは「だからうちのシェフはすごいのだ、心して味わえ」と言っているようなものとのこと。これも客が水戸黄門の印籠よろしく「ほおお!」となることを期待しての行動とすれば、「火星が出てゐる」の「予約された結果を思ふのは卑しい。」にも通じ、その通りだと思いました。
同書に挟まっていた、版元のミシマ社さんのリーフレット『ミシマ社通信』。
土井氏同様、なかなか気骨のある出版社さんのようです(笑)。
さて、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
わざわざお使でお見舞下され忝く存じます、今焼跡でお話しいたして居るところです、御丹精の青いもの筍など何よりありがたく、又雑誌も拝受、お礼までいただき恐縮しました。
本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居は4月13日の空襲で全焼しました。そのことを伝え聞いた婦人之友社で火事見舞いの使者として社員(?)を派遣、前月の『婦人之友』への光太郎寄稿の原稿料、さらに野菜や筍を貰った礼状です。
アトリエ兼住居が全焼ということで、手元に紙もなく、何とまあ焼け跡に落ちていたコンクリートブロックの破片に上記の文面を書いて(筆記用具は持っていたのか、借りたかしたのでしょう)、使者に託しました。同誌の4月号(奥付は4月1日ですが、実際の発行はかなり後)に載ったものからの引用ですが、コンクリートブロックに書かれた現物が現残していたら不謹慎かも知れませんが実に面白いと思います。
土井氏、この中の「予約された結果を思ふのは卑しい。」に着目され、「結果ではなく今という人生の道中に目的があるのです」と書かれています。そしてそれが料理法にも及んでいくことになります。
テレビ番組の収録にからめ……
料理するとき、材料を見て、なにをつくろうかと思うわけです。たとえ、自分のレシピであっても数字を参考にすると、私が台本に書かれていることを読むのと同じで、文言に囚(とら)われて感性がオドオドして、働かなくなるのです。
それって、何も考えなくてよいから、楽ちんなんですね。おいしいレシピどおりにつくるという結果だけを目的にすると、機械的な作業になって、自分の作る料理でも、無関心、無責任でいられるんです。
それじゃつまらん、ということでしょう。
ところが予定通り、レシピ通りにいかないこともあるわけで……
「あーしたらこうなる」という化学の論理は、自然に生かされる私たちの生活にも、人間関係にも、料理にも当てはまりません。自然も人生も複雑で、そんなに単純にうまくいくはずがないことは、よくわかっているはずです。
だから料理の現場にAIの導入などもってのほか、という方向に話が進みます。そして題名の通り「味付けはせんでええんです」。
事細かに「このメーカーのこの調味料をこう使って、隠し味に××を忍ばせ、火加減はこのくらいで何分何十秒……」という方法は否定されます。逆に大胆に味付けは最低限だけ、あとは食べる人が自分の好みに合わせて塩胡椒(「智恵子抄」ではありません(笑))をふったりしてくれればよい、的なことまでおっしゃっています。和食の理念でもありますね。素材の味を生かすこと。
ストンと落ちました。当方、ケチャップやらマヨネーズやらの調味料でギトギトになったものは大嫌いです。市販のハンバーガーなどは食べられません。コンビニやサービスエリアなどでフランクフルトやアメリカンドッグ等を買う際も、店員さんが辛子とケチャップを付けて下さろうとすると「いりません」。
さらに土井氏曰く、
日本人の清潔感とは、「なにもない」を好むことのあらわれです。なにもないところに、ごく小さな変化が表れるとき、私たちはそれに気づくことができるのです。ですから、味つけは飾りであり、ときに邪魔にさえなるのです。
器に盛られたお料理を見て、季節を喜び、箸でつまんで想像して口に入れるんですね。自分の想像を超えておいしければうれしくなるでしょう。自分で感じとるから、一層おいしくなって楽しめるのです。
だから料理店などでは、シェフ氏やら板前さんやらウェイター・ウェイトレスさんやらが「食材のいわく因縁、つくり方を丁寧に、ときに小さなガッツポーズを入れながら解説」などしなくてよろしい、というわけです。そういうのは「だからうちのシェフはすごいのだ、心して味わえ」と言っているようなものとのこと。これも客が水戸黄門の印籠よろしく「ほおお!」となることを期待しての行動とすれば、「火星が出てゐる」の「予約された結果を思ふのは卑しい。」にも通じ、その通りだと思いました。
同書に挟まっていた、版元のミシマ社さんのリーフレット『ミシマ社通信』。
土井氏同様、なかなか気骨のある出版社さんのようです(笑)。
さて、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
わざわざお使でお見舞下され忝く存じます、今焼跡でお話しいたして居るところです、御丹精の青いもの筍など何よりありがたく、又雑誌も拝受、お礼までいただき恐縮しました。
昭和20年(1945)4月17日 羽仁もと子宛(推定)書簡より 光太郎63歳
本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居は4月13日の空襲で全焼しました。そのことを伝え聞いた婦人之友社で火事見舞いの使者として社員(?)を派遣、前月の『婦人之友』への光太郎寄稿の原稿料、さらに野菜や筍を貰った礼状です。
アトリエ兼住居が全焼ということで、手元に紙もなく、何とまあ焼け跡に落ちていたコンクリートブロックの破片に上記の文面を書いて(筆記用具は持っていたのか、借りたかしたのでしょう)、使者に託しました。同誌の4月号(奥付は4月1日ですが、実際の発行はかなり後)に載ったものからの引用ですが、コンクリートブロックに書かれた現物が現残していたら不謹慎かも知れませんが実に面白いと思います。