11月1日(水)に開催されました「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の件が岩手で報道されましたのでご紹介します。

『岩手日日』さん。

光太郎の思い出後世に 生誕140年記念トークリレー 花巻・太田地区振興会

 太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年を記念しトークリレー「続・光太郎はなぜ花巻に来たのか」を行った。7人のパネリストが、1952年10月までの7年間を花巻市太田山口で暮らした光太郎のエピソードの数々を披露し、聴講者の関心を誘った。
 今年2月に開催した光太郎が太田に疎開するまでのいきさつやエピソードをひもといた講演会に続く企画。高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんの進行で、メインパネリストに林風舎代表取締役の宮沢和樹さん、パネリストに高村山荘がある太田地区に住む人と、太田以外で光太郎と関わりのある人を迎え、2部構成で光太郎との思い出や関わりを聴いた。
 小学1年生の頃に初めて光太郎と会った浅沼隆さん(82)は、秋の学芸会に来賓として参加した光太郎がステージに上がった時には背広姿から赤い衣装を着て白いひげを着けたサンタクロース姿に変わっていたことを紹介。「白い大きな袋に駄菓子をたくさん入れて持ってきて皆に配った。(見たことのない姿に)みんなびっくりして大喜びだった」と振り返った。
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『岩手日報』さん。

高村光太郎 記憶をつなぐ 生誕140年記念トークイベント

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、同市高松の宮沢賢治イーハトーブ館で、彫刻家・詩人の高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年記念事業としてトークイベントを開いた。
 約60人が来場。光太郎と縁がある市民ら6人、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さん(59)=千葉県=と賢治の実弟・清六さんの孫の宮沢和樹さん(59)が登壇した。
 光太郎は宮沢家を頼りに疎開。花巻高村光太郎記念会理事の浅沼隆さん(82)の父親は、住民との交流の場になった旧山口小学校長を務めた。自身も交流し「背が高く体格が良かった。封筒入りの菓子をくれた」と振り返った。
 盛岡一高時代、文芸部員として山小屋(高村山荘)を訪れた菊地節子さん(88)は「マロングラッセに村の人が関心がないことや、牛の尻尾を煮る西洋料理について話す姿が印象的で(当時の)日本人は食に関心がなさ過ぎると話していた」と笑いを誘った。
 宮沢さんは、音楽好きだった光太郎に触れ「賢治はレコードを多く買うほどクラシック好きで、共通する部分だ」と述べた。小山さんは「今の若い人に賢治と光太郎の精神を伝えていくべき」と力を込めた。

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生前の光太郎をご存じの方々の証言はもちろん、報道された以外にも、いろいろな話が聴け、貴重な機会でした。今回のパネラーの方々のうち、直接的には光太郎との交流は無かった皆さんも、海外向けを含め、様々な機会で光太郎について広める活動に当たられていて、有り難い限りです。

当方としましても、交流の輪が広げられたことで、新たな情報の収集につながることを期待しております。それらが入りましたらまたおいおいご紹介して参ります。

【折々のことば・光太郎】

尚厄介とは存じますが近く宮田さんの奥さんと娘さんがそちらに参られる幸便に託して、小生作のブロンズ「手」、木彫「蓮根」、智恵子の切抜絵壹包(箱入)をお届けいたします故お持ち下さるやうお願いいたします、


昭和20年(1945)4月1日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

真壁仁は山形在住だった詩人。激化する空襲のため、父・光雲や自分の彫刻作品、智恵子の紙絵などはほうぼうに疎開させました。紙絵は山形の真壁、茨城取手の素封家・宮崎仁十郎、そして花巻の佐藤隆房(賢治の主治医)の元に。

ところがそれらを疎開させるにしても、鉄道便などもむちゃくちゃな状態で、このように人に頼んで持って行ってもらったりということが多かったようです。「宮田さん」は彫刻家の宮田喜代三。品々を託された宮田の妻は真壁との面識はなく、山形でそれらを渡す際「ほんとに真壁さん?」と何度も確かめたそうです。それにしても紙絵や木彫はともかく、ブロンズの「手」はおそらく10㌔㌘くらいあるのではと思われ、大変だったことでしょう。