11月2日(木)、岩手花巻から帰りましたが、席の暖まる暇もなく吹っ飛び歩いております(笑)。このブログで紹介すべき事項が山積しておりまして、2件分、レポートいたします。
11月4日(土)、銀座王子ホールさんで「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」を拝聴。
ソプラノ歌手・福成紀美子氏のリサイタルですが、プログラムはすべて朝岡真木子氏作曲の歌曲。
ピアノ伴奏(最近は「伴奏」という言い方もあまりしなくなってきているのですが)もすべて朝岡氏。さらに第2部では福成氏が師とあがめるテノールの下野昇氏も加わられました。
下野氏、何とおん歳87歳だそうでした。とてもそう思えない若々しい、しかし若造には出せない円熟味のあるお声での歌唱でした。
ほぼほぼ現代の詩人の皆さんの詩に曲をつけられたものでしたが、野上彰の詩や与謝野晶子の短歌もテキストに使われ、そして第1部のトリが光太郎の「冬が来た」(初演)。
今後も光太郎詩に曲を付け続けていっていただきたいものです。
ちなみに朝岡氏の組曲「智恵子抄」を歌われ、CD(手前味噌で恐縮ですが当方がライナーノートの一部を書かせていただきました)もリリースされた清水邦子氏もいらしていましたし、別宮貞雄氏作曲の歌曲集「智恵子抄」を、ご自身のリサイタルを含め複数の演奏会で積極的に演目に入れられたり、CDをリリースされたりなさっているテノールの紀野洋孝氏もいらっしゃいました。というか、何と当方のすぐ後のお席に座られていました。清水氏が気がつかれて、「紀野さんがいらしてますよ」。「ありゃま」でした(笑)。
昨11月5日(日)、千葉県木更津市へ。同市中央公民館で開催された「第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯」を拝聴して参りました。同市に隣接する君津市出身の画家で、家族ぐるみで光太郎夫妻と交流の深かった柳敬助を取り上げる講座でした。
講師は渡邉茂男氏 (君津市文化財審議会委員)。
柳の生涯に関しては、アウトライン的なところは頭に入っていましたが、詳しくは存じませんで、「へー、なるほど」の連続でした。光太郎智恵子と知り合う以前の話や、熊谷守一や新井奥邃など、光太郎とも関わりのあった人物とやはり交流があったという件など。
光太郎智恵子にも随所で触れて下さいました。
日本女子大学校での智恵子の先輩・橋本八重と結婚し、付き合いが悪くなった(?)柳を非難するというか、揶揄するというか、そんな詩「友の妻」も光太郎は発表しました。執筆は明治45年(1912)7月21日、『スバル』への寄稿は大正に改元された後の8月でした。
光太郎はこの時点では既に柳夫妻から智恵子を紹介されていました。しかし、父・光雲の庇護下を離れて独立独歩でやっていこうと決意したころなので、貧窮するに決まっている生活に智恵子を巻き込む気にはならず、結婚までは考えていなかったと思われます。それが変わるのは、8月末から9月頭、銚子犬吠埼に写生旅行に来ていた光太郎を智恵子が急襲(笑)してからです。その意味では、「友の妻」は、「俺は柳みたいに結婚してデレデレしないぞ」という意思表明だったかもしれません。ちなみに同じく明治45年(1912)に書かれた小品「泥七宝」の中にも「妻もつ友よ/われを骨董のごとく見たまふことなかれ/ひとりみなりとて」という一節があります。これも柳にあてたものでしょう。
その他、柳・光太郎共通の親友、碌山荻原守衛についてもかなり詳しく。
なかなかに充実した内容でした。
柳自身は、大正12年(1923)に若くして病死。その年に日本橋三越で開催された回顧展の開幕日が関東大震災と重なり、多くの作品が焼失しました。そのためもあり、現在では忘れ去られつつある画家の一人です。
講師の渡邉茂男氏 (君津市文化財審議会委員)、来春『不運の人ー柳敬助の評伝ー』という書籍を刊行なさるそうです。まとまった柳の評伝はこれまで一冊もないとのことで(確かに見かけた記憶がありません)、これはぜひゲットしなければ、と思っております。
さて、関係の皆様の今後の活躍を祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
静かな駒込林町も今日は空襲の主戦場となり四辺姿をあらためるほどの状態となりました。それにつけ所持のいろいろのものを諸方の友人知人の許に分散いたしたく近日のうちに智恵子の切抜絵を貴下にお贈りして御所有願ひたく御迷惑ながら御承引願上げます。自宅に置いて煙にしてしまふのも心無きわざと思ひますので此事切にお願いたします。
3月10日といえば、いわゆる東京大空襲の日です。この日の空襲では駒込林町は大きな被害を逃れましたが、その後も空襲は断続的に続き、光太郎自宅兼アトリエは4月13日の空襲で灰燼に帰します。
そうなる前にと、智恵子の紙絵、光雲遺作、そして自分の作品も一部、郊外に住むほうぼうの友人知己のもとに疎開させることにしました。結果的には正しい判断でした。
11月4日(土)、銀座王子ホールさんで「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」を拝聴。
ソプラノ歌手・福成紀美子氏のリサイタルですが、プログラムはすべて朝岡真木子氏作曲の歌曲。
ピアノ伴奏(最近は「伴奏」という言い方もあまりしなくなってきているのですが)もすべて朝岡氏。さらに第2部では福成氏が師とあがめるテノールの下野昇氏も加わられました。
下野氏、何とおん歳87歳だそうでした。とてもそう思えない若々しい、しかし若造には出せない円熟味のあるお声での歌唱でした。
ほぼほぼ現代の詩人の皆さんの詩に曲をつけられたものでしたが、野上彰の詩や与謝野晶子の短歌もテキストに使われ、そして第1部のトリが光太郎の「冬が来た」(初演)。
「きつぱりと冬が来た 八つ手の白い花も消え 公孫樹の木も箒(はうき)になつた」と、「き」を多用して冬の硬質な空気感を表現しようとした光太郎。朝岡氏の曲も僅か数秒のピアノの鋭い前奏でその感じがよく表されていましたし、その後の展開にも光太郎の世界観が滲み出ていました。ある種、行進曲風な部分などもあり、本郷区駒込林町団子坂上の木枯らし吹きすさぶ冬の街路を大股に闊歩する光太郎の姿が浮かんでくるような……。また、福成氏の歌唱も「きつぱり」感満載でした。
他の曲では、構成の妙を感じました。第1部だと「冬が来た」を含め、「四季折々」的に組んだ箇所、第2部では楽しい「食べ物シリーズ」。一人の詩人によるものでなくても充分にこういうことが可能なんだ、と思いました。
終演後。
全て終わった後のホワイエ。他の曲では、構成の妙を感じました。第1部だと「冬が来た」を含め、「四季折々」的に組んだ箇所、第2部では楽しい「食べ物シリーズ」。一人の詩人によるものでなくても充分にこういうことが可能なんだ、と思いました。
終演後。
今後も光太郎詩に曲を付け続けていっていただきたいものです。
ちなみに朝岡氏の組曲「智恵子抄」を歌われ、CD(手前味噌で恐縮ですが当方がライナーノートの一部を書かせていただきました)もリリースされた清水邦子氏もいらしていましたし、別宮貞雄氏作曲の歌曲集「智恵子抄」を、ご自身のリサイタルを含め複数の演奏会で積極的に演目に入れられたり、CDをリリースされたりなさっているテノールの紀野洋孝氏もいらっしゃいました。というか、何と当方のすぐ後のお席に座られていました。清水氏が気がつかれて、「紀野さんがいらしてますよ」。「ありゃま」でした(笑)。
昨11月5日(日)、千葉県木更津市へ。同市中央公民館で開催された「第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯」を拝聴して参りました。同市に隣接する君津市出身の画家で、家族ぐるみで光太郎夫妻と交流の深かった柳敬助を取り上げる講座でした。
講師は渡邉茂男氏 (君津市文化財審議会委員)。
柳の生涯に関しては、アウトライン的なところは頭に入っていましたが、詳しくは存じませんで、「へー、なるほど」の連続でした。光太郎智恵子と知り合う以前の話や、熊谷守一や新井奥邃など、光太郎とも関わりのあった人物とやはり交流があったという件など。
光太郎智恵子にも随所で触れて下さいました。
日本女子大学校での智恵子の先輩・橋本八重と結婚し、付き合いが悪くなった(?)柳を非難するというか、揶揄するというか、そんな詩「友の妻」も光太郎は発表しました。執筆は明治45年(1912)7月21日、『スバル』への寄稿は大正に改元された後の8月でした。
光太郎はこの時点では既に柳夫妻から智恵子を紹介されていました。しかし、父・光雲の庇護下を離れて独立独歩でやっていこうと決意したころなので、貧窮するに決まっている生活に智恵子を巻き込む気にはならず、結婚までは考えていなかったと思われます。それが変わるのは、8月末から9月頭、銚子犬吠埼に写生旅行に来ていた光太郎を智恵子が急襲(笑)してからです。その意味では、「友の妻」は、「俺は柳みたいに結婚してデレデレしないぞ」という意思表明だったかもしれません。ちなみに同じく明治45年(1912)に書かれた小品「泥七宝」の中にも「妻もつ友よ/われを骨董のごとく見たまふことなかれ/ひとりみなりとて」という一節があります。これも柳にあてたものでしょう。
その他、柳・光太郎共通の親友、碌山荻原守衛についてもかなり詳しく。
なかなかに充実した内容でした。
柳自身は、大正12年(1923)に若くして病死。その年に日本橋三越で開催された回顧展の開幕日が関東大震災と重なり、多くの作品が焼失しました。そのためもあり、現在では忘れ去られつつある画家の一人です。
講師の渡邉茂男氏 (君津市文化財審議会委員)、来春『不運の人ー柳敬助の評伝ー』という書籍を刊行なさるそうです。まとまった柳の評伝はこれまで一冊もないとのことで(確かに見かけた記憶がありません)、これはぜひゲットしなければ、と思っております。
さて、関係の皆様の今後の活躍を祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
静かな駒込林町も今日は空襲の主戦場となり四辺姿をあらためるほどの状態となりました。それにつけ所持のいろいろのものを諸方の友人知人の許に分散いたしたく近日のうちに智恵子の切抜絵を貴下にお贈りして御所有願ひたく御迷惑ながら御承引願上げます。自宅に置いて煙にしてしまふのも心無きわざと思ひますので此事切にお願いたします。
昭和20年(1945)3月10日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳
3月10日といえば、いわゆる東京大空襲の日です。この日の空襲では駒込林町は大きな被害を逃れましたが、その後も空襲は断続的に続き、光太郎自宅兼アトリエは4月13日の空襲で灰燼に帰します。
そうなる前にと、智恵子の紙絵、光雲遺作、そして自分の作品も一部、郊外に住むほうぼうの友人知己のもとに疎開させることにしました。結果的には正しい判断でした。