10月31日(火)~11月2日(木)、2泊3日で花巻に行っておりました。レポートいたします。
10月31日(火)、新幹線を新花巻駅で下車、レンタカーを駆り、まずは宮沢賢治イーハトーブセンターさんへ。翌日、「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」があり、会場設営のお手伝いです。
同センターでは、「ますむらひろし『銀河鉄道の夜 四次稿編』複製原画展」が開催中でした。
設営も終わり、続いて花巻高村光太郎記念館さんへ。
今年は花巻市内、熊の目撃が多発。記念館さんの看板も新たな爪痕だらけでした。
光太郎が同校に勧め、現在も続くホームスパンとぶどうジュースに関する展示。
そして注目すべきは、書。初公開のものを含め、5点の書が出ています。スコーレ高さんや吉田の縁者の方々の所蔵のものです。
光太郎の山小屋(高村山荘)を訪れた生徒さんが持参したお土産の弁当の包み紙に光太郎が書を揮毫したものも。紙もただの紙ではなく生徒さんが染めた夾纈(きょうけち)染めです。
右上の方は表装して掛けているうちに色あせてしまったそうですが。
そして一番驚いたのがこちら。
開幕前にこういうものを展示しますということで市役所さんから画像を頂いていたのですが、それを見て仰天しました。10年前に、陶芸家の方のブログで画像を見て「これは!」と思ったものだったのです。その方は吉田の縁者だったと判明しました。
5点中3点は「智恵子抄」がらみです。詩「晩餐」(大正3年=1914)から「生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ」と「われらのすべてに溢れこぼるゝものあれ」をアレンジした(記憶違いで書き間違えた?)「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」、「人類の泉」(大正2年=1913)から「私にはあなたがある あなたがある あなたがある」。この手の書で「智恵子抄」の詩句を揮毫することは珍しく、それが3点も、というのも驚きでした。
拝見後、隣接する高村山荘へ。紅葉がいい感じでした。
そして宿泊先の大沢温泉さんへ。こちらも紅葉が見事。
さらに部屋でごろごろし、11時頃、出発。イーハトーブセンターさん近くの蕎麦屋さんで早めの昼食。
渡辺えりさんのサインがあって、笑いました。
イーハトーブセンターさんに到着。
勢ぞろいしたパネラーの皆さんと打ち合わせ後、本番。
二部構成で、第一部は、浅沼隆氏をはじめとする、高村山荘のある太田地区にお住まいの方々に、光太郎の思い出を語っていただきました。
第二部は、太田地区以外の方々。宮沢和樹氏は一部、二部、通しです。
皆さんにそれぞれの体験、光太郎への思いなど、時に当方の無茶振りもありましたが、時間いっぱい語っていただきました。
本番中に、驚くべき事実が判明しました。キーワードは「帯留め」。
終了後、光太郎や吉田と交流のあった深沢省三・紅子夫妻令孫の多聞氏や、吉田の令姪にして展示されている書をお貸し下さった丹波とも子氏からいろいろ貴重なお話が伺えました。
そしてレンタカーを新花巻駅で返却、帰途に就きました。
実に充実した3日間でした。
企画展「光太郎と吉田幾世」、11月30日(木)までの会期です。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
「道程再訂版」といふ小さな本が出来ましたから別封でお送りします。内容が以前のと変つてゐます。
『道程再訂版』はこの年1月15日、青磁社から刊行された文庫本です。大正3年(1914)のオリジナル、昭和15年(1940)の「改訂版」とも異なり、この時期であるにもかかわらず翼賛詩を全く含まず、『智恵子抄』との重複は避けながら、生涯の詩作から作品を選び、改訂を加えてある不思議な詩集です。北川太一先生曰く「傾く戦局の中で死を予感する光太郎の意図を伺う事が出来る」。
画像は渡辺えりさんの父君、故・正治氏が4月10日、光太郎から直接貰ったものです。この3日後に、光太郎自宅兼アトリエは空襲で全焼します。
10月31日(火)、新幹線を新花巻駅で下車、レンタカーを駆り、まずは宮沢賢治イーハトーブセンターさんへ。翌日、「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」があり、会場設営のお手伝いです。
同センターでは、「ますむらひろし『銀河鉄道の夜 四次稿編』複製原画展」が開催中でした。
設営も終わり、続いて花巻高村光太郎記念館さんへ。
今年は花巻市内、熊の目撃が多発。記念館さんの看板も新たな爪痕だらけでした。
11月2日(木)には、レンタカーで北上川にかかる朝日大橋を渡っている最中、ふと河岸を見ると何やら黒い塊。もしかすると熊だったかも知れません。市役所さんのホームページには11月1日(水)にその場所で目撃情報があったと記されていました。くわばら、くわばら(死語ですが)。
同館では企画展「光太郎と吉田幾世」が開催中。吉田が初代校長を務め、学校ぐるみで光太郎とお互いに行き来した、盛岡の生活学校(現・盛岡スコーレ高校さん)がらみです。
同館では企画展「光太郎と吉田幾世」が開催中。吉田が初代校長を務め、学校ぐるみで光太郎とお互いに行き来した、盛岡の生活学校(現・盛岡スコーレ高校さん)がらみです。
例によって説明パネルを書かせていただきました。
吉田が雑誌『婦人之友』との関わりも深いということで、同誌の誌面を拡大したパネル、スコーレ高校さん所蔵の古写真なども。そして注目すべきは、書。初公開のものを含め、5点の書が出ています。スコーレ高さんや吉田の縁者の方々の所蔵のものです。
光太郎の山小屋(高村山荘)を訪れた生徒さんが持参したお土産の弁当の包み紙に光太郎が書を揮毫したものも。紙もただの紙ではなく生徒さんが染めた夾纈(きょうけち)染めです。
右上の方は表装して掛けているうちに色あせてしまったそうですが。
そして一番驚いたのがこちら。
開幕前にこういうものを展示しますということで市役所さんから画像を頂いていたのですが、それを見て仰天しました。10年前に、陶芸家の方のブログで画像を見て「これは!」と思ったものだったのです。その方は吉田の縁者だったと判明しました。
5点中3点は「智恵子抄」がらみです。詩「晩餐」(大正3年=1914)から「生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ」と「われらのすべてに溢れこぼるゝものあれ」をアレンジした(記憶違いで書き間違えた?)「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」、「人類の泉」(大正2年=1913)から「私にはあなたがある あなたがある あなたがある」。この手の書で「智恵子抄」の詩句を揮毫することは珍しく、それが3点も、というのも驚きでした。
拝見後、隣接する高村山荘へ。紅葉がいい感じでした。
そして宿泊先の大沢温泉さんへ。こちらも紅葉が見事。
さらに部屋でごろごろし、11時頃、出発。イーハトーブセンターさん近くの蕎麦屋さんで早めの昼食。
渡辺えりさんのサインがあって、笑いました。
イーハトーブセンターさんに到着。
勢ぞろいしたパネラーの皆さんと打ち合わせ後、本番。
二部構成で、第一部は、浅沼隆氏をはじめとする、高村山荘のある太田地区にお住まいの方々に、光太郎の思い出を語っていただきました。
第二部は、太田地区以外の方々。宮沢和樹氏は一部、二部、通しです。
皆さんにそれぞれの体験、光太郎への思いなど、時に当方の無茶振りもありましたが、時間いっぱい語っていただきました。
本番中に、驚くべき事実が判明しました。キーワードは「帯留め」。
太田村での7年間の蟄居生活中、光太郎は、きちんとした「作品」としての彫刻を一点も発表しませんでした。しかし昭和23年(1948)、盟友の武者小路実篤に送った書簡に、「やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎない」とあります。また、昭和22年(1947)に山小屋を訪れた詩人の竹内てるよや、浅沼隆氏の、山小屋で蝉の彫刻を見た、という証言がありますし、三重県の東正巳から、彫刻材として椿の木片や、珊瑚の一種である「ヤギ」というものが贈られ、それで蝉を彫りたい、的なことを礼状にしたためています。しかし、現物は確認出来ていません。
その蟬の帯留めを、和樹氏のお母さまが光太郎からもらった、という話が和樹氏から語られ、「どひゃー」となった次第です。しかし残念ながら、宮沢家にも現物は残っていないそうで……。
そんなこんなで午後4時過ぎ、つつがなく終わり、途中、中華屋さんで夕食を摂って宿へ。
翌11月2日(木)朝、再び花巻高村光太郎記念館さんへ。
この日は企画展「光太郎と吉田幾世」関連行事としての講座講師です。
約1時間半、光太郎と吉田、さらに『婦人之友』について、スライドショーを使いつつ話しました。近いうちにYouTubeに動画が上がると存じます。その蟬の帯留めを、和樹氏のお母さまが光太郎からもらった、という話が和樹氏から語られ、「どひゃー」となった次第です。しかし残念ながら、宮沢家にも現物は残っていないそうで……。
そんなこんなで午後4時過ぎ、つつがなく終わり、途中、中華屋さんで夕食を摂って宿へ。
翌11月2日(木)朝、再び花巻高村光太郎記念館さんへ。
この日は企画展「光太郎と吉田幾世」関連行事としての講座講師です。
終了後、光太郎や吉田と交流のあった深沢省三・紅子夫妻令孫の多聞氏や、吉田の令姪にして展示されている書をお貸し下さった丹波とも子氏からいろいろ貴重なお話が伺えました。
そしてレンタカーを新花巻駅で返却、帰途に就きました。
実に充実した3日間でした。
企画展「光太郎と吉田幾世」、11月30日(木)までの会期です。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
「道程再訂版」といふ小さな本が出来ましたから別封でお送りします。内容が以前のと変つてゐます。
昭和20年(1945)2月14日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳
『道程再訂版』はこの年1月15日、青磁社から刊行された文庫本です。大正3年(1914)のオリジナル、昭和15年(1940)の「改訂版」とも異なり、この時期であるにもかかわらず翼賛詩を全く含まず、『智恵子抄』との重複は避けながら、生涯の詩作から作品を選び、改訂を加えてある不思議な詩集です。北川太一先生曰く「傾く戦局の中で死を予感する光太郎の意図を伺う事が出来る」。
画像は渡辺えりさんの父君、故・正治氏が4月10日、光太郎から直接貰ったものです。この3日後に、光太郎自宅兼アトリエは空襲で全焼します。