昨日は埼玉県に行っておりました。主目的は、東松山市で開催中の「彫刻家 高田博厚展2023」拝見でした。
そちらに行く前、東松山にほど近い鶴ヶ島市に寄り道。
安養山善能寺さんという寺院です。少し前、こちらにあるお堂の中に光太郎の父・光雲作の仏像と、光太郎の書を板に写したものなどがある、という情報を得まして、そちらを拝観させていただこうというわけで。
目指すお堂は山門を入った境内ではなく、駐車場にありました。
ところが扉に鍵がかかっていまして、寺務所に行ってご住職に開けていただきました。ご住職、これから法事なので、ということで「一瞬でもいいですか?」「一瞬でいいです」。
さすがに一瞬(原義は「一度またたきをするほどの極めて僅かな時間」)とは行きませんでしたが(笑)、許可を得て写真を撮らせていただきました。
光雲作という観音像は、おそらく木彫金箔張り。ただ、箔は剥離している部分もあり、100年程は経っている感じです。また、銘などは確認出来ませんでしたが、いいものであることは間違いないようです。
その右に光太郎書「甘酸是人生」を写した板。鶴ヶ島市と東松山市の間に位置する坂戸市の玄石庵さんの作と思われます。オリジナルの書は花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。平成27年(2015)、当方もちょっとだけ制作に協力させていただいたNHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた書です。花巻の林檎農家・阿部氏に贈られました。「甘酸」は林檎の味にかけています。
さらに堂内には、光太郎の書いた般若心経を写した、おそらく陶板も。
やはり埼玉県のときがわ町にある正法寺さんと言う寺院に、平成11年(1999)、同様の衝立が奉納されており、何か関係があるのかも知れません。正法寺さんのものは全文ですが、こちらは冒頭部分のみ。
善能寺さんのご住職によれば、それぞれ檀家衆からのご寄進、的なお話でしたが、詳しいことを聴いている時間がありませんでした。それでもお忙しい中で対応して下さり、感謝です。
善能寺さんを後に、愛車を北に向け、東松山へ。中心街に着く前、高坂地区を通りましたので、「高坂彫刻プロムナード」にも立ち寄りました。光太郎胸像を含む、高田博厚の彫刻32体が並んでいます。
各地にある同型のものを含め、何度も拝見していますが、何度見てもいいものです。特に東松山のものは、色がいい感じに落ち着いています。
さらに北上し、「彫刻家 高田博厚展2023」会場の市民文化センターさんへ。
昨年から同展会場がこちらになりました。それ以前は市役所向かいの総合会館さんでした。
鎌倉にあった高田のアトリエの一部を再現したコーナー。
同じく鎌倉にあった高田愛用のピアノ。
平成30年(2018)、高田博厚彫刻展の関連行事として行われた堀江敏幸氏との公開対談で同市を訪れられた、故・野見山暁治氏追悼コーナーも設けられていました。
昨年もなされていましたが、高田が肖像を制作した人々などに関する展示も。
光太郎。
同市と高田とを結びつけた、元同市教育長の故・田口弘氏。
光太郎、高田、そして田口氏三人の関連年表。
元は当方が作って、同市での市民講座「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」でレジュメの一部として配付したものです。昨年も展示されていたのかも知れませんが、気づきませんでした。「ありゃま」でした(笑)。
その他、一週間前に開催された「ひがしまつやまアートフェスタin高坂彫刻プロムナード」で、市民の皆さんが作られた彫刻なども。
こんな感じで「彫刻の街」的な進め方もありだな、と思いました。
拝観後、関連行事としての講演会を拝聴。講師は同市にお住まいの陶芸家・畠山圭史氏。
当方は拝見していませんでしたが、令和元年(2019)の連続テレビ小説「スカーレット」で、実技指導やストーリー構成に関わられたそうですし、氏の作品が劇中でも使われたとのこと。
陶芸家としては異色のご経歴の方です。元々、カーデザイナーであらせられたのが、そのお仕事の中で粘土を使ううちに、粘土で形を作る魅力に取り憑かれ、脱サラして陶芸界に入られたとのこと。そこで、同じく粘土で造型を行うお立場から、高田の彫刻について私見を述べられたりなさいました。機械による制作ではない「手」での造型ということで(ご自身の陶器に関してもそうでしたが、「指の跡」という語を多用なさっていました)、相通じるものがある、と。また、そういう点で、光太郎と同じ明治16年(1883)生まれの北大路魯山人の作に衝撃を受けたともおっしゃっていました。
同市の吉澤教育長による終演後の謝辞。
実は当方、亡父の仕事の都合で小5の途中から中2が終わるまで、同市に3年半程居住しておりまして、何と、吉澤教育長、中2の時の同級生、それもわりと仲の良い存在でした。ちょっと前にそういうことが判明し、教育委員会の方を通じて当方の訪問は伝えてありました。この後、約45年ぶりに久闊を叙しました。
閑話休題、「彫刻家 高田博厚展2023」、11月7日(火)までが会期です。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
一昨日は早速お話の桜材の一端 御持参下され、尚又その節貴重な食品まで頂戴、感謝に堪へません、
そちらに行く前、東松山にほど近い鶴ヶ島市に寄り道。
安養山善能寺さんという寺院です。少し前、こちらにあるお堂の中に光太郎の父・光雲作の仏像と、光太郎の書を板に写したものなどがある、という情報を得まして、そちらを拝観させていただこうというわけで。
目指すお堂は山門を入った境内ではなく、駐車場にありました。
ところが扉に鍵がかかっていまして、寺務所に行ってご住職に開けていただきました。ご住職、これから法事なので、ということで「一瞬でもいいですか?」「一瞬でいいです」。
さすがに一瞬(原義は「一度またたきをするほどの極めて僅かな時間」)とは行きませんでしたが(笑)、許可を得て写真を撮らせていただきました。
光雲作という観音像は、おそらく木彫金箔張り。ただ、箔は剥離している部分もあり、100年程は経っている感じです。また、銘などは確認出来ませんでしたが、いいものであることは間違いないようです。
その右に光太郎書「甘酸是人生」を写した板。鶴ヶ島市と東松山市の間に位置する坂戸市の玄石庵さんの作と思われます。オリジナルの書は花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。平成27年(2015)、当方もちょっとだけ制作に協力させていただいたNHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた書です。花巻の林檎農家・阿部氏に贈られました。「甘酸」は林檎の味にかけています。
さらに堂内には、光太郎の書いた般若心経を写した、おそらく陶板も。
やはり埼玉県のときがわ町にある正法寺さんと言う寺院に、平成11年(1999)、同様の衝立が奉納されており、何か関係があるのかも知れません。正法寺さんのものは全文ですが、こちらは冒頭部分のみ。
善能寺さんのご住職によれば、それぞれ檀家衆からのご寄進、的なお話でしたが、詳しいことを聴いている時間がありませんでした。それでもお忙しい中で対応して下さり、感謝です。
善能寺さんを後に、愛車を北に向け、東松山へ。中心街に着く前、高坂地区を通りましたので、「高坂彫刻プロムナード」にも立ち寄りました。光太郎胸像を含む、高田博厚の彫刻32体が並んでいます。
各地にある同型のものを含め、何度も拝見していますが、何度見てもいいものです。特に東松山のものは、色がいい感じに落ち着いています。
さらに北上し、「彫刻家 高田博厚展2023」会場の市民文化センターさんへ。
昨年から同展会場がこちらになりました。それ以前は市役所向かいの総合会館さんでした。
メインの高田の彫刻群。2室使っての展示でした(昨年は1室だけだったような……)。
光太郎も詩のモチーフにしたフランスの詩人、レオン・ドゥーベルなど、主として肖像彫刻群が中心でした。鎌倉にあった高田のアトリエの一部を再現したコーナー。
同じく鎌倉にあった高田愛用のピアノ。
平成30年(2018)、高田博厚彫刻展の関連行事として行われた堀江敏幸氏との公開対談で同市を訪れられた、故・野見山暁治氏追悼コーナーも設けられていました。
昨年もなされていましたが、高田が肖像を制作した人々などに関する展示も。
光太郎。
同市と高田とを結びつけた、元同市教育長の故・田口弘氏。
光太郎、高田、そして田口氏三人の関連年表。
元は当方が作って、同市での市民講座「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」でレジュメの一部として配付したものです。昨年も展示されていたのかも知れませんが、気づきませんでした。「ありゃま」でした(笑)。
その他、一週間前に開催された「ひがしまつやまアートフェスタin高坂彫刻プロムナード」で、市民の皆さんが作られた彫刻なども。
こんな感じで「彫刻の街」的な進め方もありだな、と思いました。
拝観後、関連行事としての講演会を拝聴。講師は同市にお住まいの陶芸家・畠山圭史氏。
当方は拝見していませんでしたが、令和元年(2019)の連続テレビ小説「スカーレット」で、実技指導やストーリー構成に関わられたそうですし、氏の作品が劇中でも使われたとのこと。
陶芸家としては異色のご経歴の方です。元々、カーデザイナーであらせられたのが、そのお仕事の中で粘土を使ううちに、粘土で形を作る魅力に取り憑かれ、脱サラして陶芸界に入られたとのこと。そこで、同じく粘土で造型を行うお立場から、高田の彫刻について私見を述べられたりなさいました。機械による制作ではない「手」での造型ということで(ご自身の陶器に関してもそうでしたが、「指の跡」という語を多用なさっていました)、相通じるものがある、と。また、そういう点で、光太郎と同じ明治16年(1883)生まれの北大路魯山人の作に衝撃を受けたともおっしゃっていました。
同市の吉澤教育長による終演後の謝辞。
実は当方、亡父の仕事の都合で小5の途中から中2が終わるまで、同市に3年半程居住しておりまして、何と、吉澤教育長、中2の時の同級生、それもわりと仲の良い存在でした。ちょっと前にそういうことが判明し、教育委員会の方を通じて当方の訪問は伝えてありました。この後、約45年ぶりに久闊を叙しました。
閑話休題、「彫刻家 高田博厚展2023」、11月7日(火)までが会期です。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
一昨日は早速お話の桜材の一端 御持参下され、尚又その節貴重な食品まで頂戴、感謝に堪へません、
昭和19年(1944)4月13日 内山義郎宛書簡より 光太郎63歳
以前にもご紹介しましたが、当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人だった内山義郎に宛てた葉書で、10年ちょっと前に入手しました。住所が「比企郡今宿村」となっています。東松山市に隣接する現在の鳩山町です。どうも内山が疎開していたのではないかと考えられます。「観音院」という寺院、令和元年(2019)に行ってみましたが、建物は残っていたものの既に廃寺状態でした。