昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は中野区で開催された朗読公演「くつろぎの朗読」拝聴でしたが、その前に駒場東大前の日本近代文学館さんで調べもの。
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コロナ禍以後、初めてで、数年ぶりでした。

SNSで花巻の方から「ご存じかも知れませんが、ある雑誌の×巻×号に光太郎のアンケート回答が載っている」という情報がもたらされ、当方が作成した光太郎文筆作品リストと照らし合わせてみると記載がなく、またその雑誌はよく行く国会図書館さんに収蔵がないので行った次第です。

ところが、実際に閲覧してみると、「あれ? これ、知ってるぞ」。帰ってから調べてみると、なんとまあ、リストにそのアンケート回答を載せるのを忘れていました。チョンボでした。しかしチョンボに気がつけたのを良しとしましょう。

まぁ、それでも他の雑誌に載った戦後の光太郎訪問記で、「これは」というものが見つかったりもし、無駄足には成らずに済みました。

さらに帰りがけ、受付兼ミュージアムショップで、ポストカードを1枚ゲット。
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光太郎と親しかった木下杢太郎の詩集『食後の唄』(大正8年=1919)をモチーフにしたもの。一番左の画像は杢太郎自身の描いた同書の挿画ですが、杢太郎や光太郎が中心メンバーだった芸術至上主義運動「パンの会」の様子を描いたものです。で、右下の緑色の帽子を被ってこちらを振り向いているチョビひげの人物が、光太郎と言われています。同館のポストカード、光太郎の『有機無機帖』由来のものは存じておりましたが、こちらは「ありゃ、こんなのあったんだ」でした。

その後、中野へ。東中野駅でJRを降りて、昼食を摂りつつぶらぶら歩き、「くつろぎの朗読」会場のオルタナティブスペースRAFTさんへ。
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江戸川乱歩の短編「火縄銃」との2本立てでしたが、「智恵子抄」の方が長い時間を取って下さいました。
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読み手は声優・ナレーターの出口佳代さんという方。よどみなくしっとりとした大人のお声で、実に聴きやすい朗読でした。

「高村光太郎の智恵子抄を、時系列に沿って、解説をナレーションしながら読んでいきます」という予告が出ていましたが、その通りで、適度に時代背景や事実関係などの解説を交えつつ展開。

朗読された詩は「人に(いやなんです)」、「僕等」、「我が家」、「道程」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「あどけない話」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「風にのる智恵子」、「レモン哀歌」、そして戦後の「元素智恵子」。それ以外に智恵子書簡も。

クラシック系のCDをBGMに使われていました。バッハのカンタータBWV147「主よ、人の望みの喜びよ」や「G線上のアリア」、サティの「ジムノペディ」、ベートーベンのピアノソナタ「悲愴」など。選曲も的確でしたし、さらに感心したのは、長めの詩の朗読の際、BGMが終わると同時に朗読も終わるという実にナイスなタイミングの取り方。舌を巻きました。

「智恵子抄」。こういう展開になる、とわかっていても、やはり聴いていてじーんと来てしまいました。

終演後、少しお話をさせていただき、その後、中野の街へ。

中野と言えば、光太郎終焉の地です。会場のオルタナティブスペースRAFTさんから少し南下すると、桃園川緑道。川は暗渠となっており、地上部分は石畳の歩道が延々東西に続いています。西に1㌔ちょっと歩くと、緑道沿いにそこだけ時が止まったかのような建物。
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戦後、水彩画家の中西利夫が自身のために建てたアトリエですが、利夫はこのアトリエをほとんど使うことなく昭和23年(1948)に急逝。その後、貸しアトリエとなり、イサム・ノグチがここを使った後、昭和27年(1952)10月に花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎が入りました。ここで生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作した光太郎、翌年には一時的に太田村に帰ったものの、もはや健康状態が山での生活に耐えられず、またここに戻り、昭和31年(1956)4月2日早暁、ここでその生涯を閉じました。翌年の第一回連翹忌もここで行われています。

当時中学生で、光太郎にかわいがられた中西家子息・利一郎氏がご存命の頃、3回、中に入れていただきました。その最後の機会は、平成28年(2016)、当方も出演させていただいたATV青森テレビさん制作の「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」という番組のロケの際でしたので、いや、もう7年も経つか、という感じでした。

このアトリエの保存・活用運動が起こっているのですが、その後、どうなっているのか……。
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というわけで、まとまりませんが、都内レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

きたない本ですが「大いなる日に」といふ詩集を出しましたので別便でお贈りいたしました。


昭和17年(1942)4月30日 篠田定吉宛書簡より 光太郎60歳

前年の『智恵子抄』に続く、光太郎第三詩集です(昭和15年=1940の『道程 改訂版』は除く)。それまでとは一変し、翼賛詩一辺倒。さらに翌年には年少者向けの『をぢさんの詩』、そしてその翌年には『記録』と、光太郎黒歴史詩集の出版が相次ぎます。
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画像はこの夏、信州安曇野の碌山美術館さんで開催された「特別企画 生誕140周年高村光太郎展」の際にお貸ししたもろもろのうち黒歴史三点セット。これこそ光太郎詩の真髄、と涙を流して有り難がる愚かとしか言いようのない自称・研究者が居るのには呆れます。