和歌山と新潟から、それぞれ光太郎作品が出ている展覧会の情報です。

まず和歌山。光太郎筆の油絵が出ています。

小企画展「原勝四郎と同時代の画家たち」

期 日 : 2023年10月7日(土)~12月24日(日)
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 本展のみ 一般350円、大学生240円
      特別展「原勝四郎展 南海の光を描く」一般800円、大学生500円

 本展では、特別展「原勝四郎展 南海の光を描く」の開催に合わせ、当館の洋画コレクションを中心に、一部借用作品も交えて、原勝四郎(1886-1964)と同時代に活躍した画家たちの作品を紹介します。
 原勝四郎は、和歌山県立田辺中学校を卒業後、1905(明治38)年から1906(明治39)年と、1909(明治42)年から1916(大正5)年の二度、画家を志して上京しています。その後1917(大正6)年末から1921(大正10)年4月までフランスに赴きました。帰国後は故郷の田辺へと戻り、1931(昭和6)年からは現在の白浜町に移住して絵を描き続けました。
 原が東京にいた期間は、ヨーロッパ留学から帰国した若い美術家を中心に、新しい美術表現が次々に紹介されていた時期です。今回の展示では、東京美術学校西洋画科の教授であり、原も通った白馬会葵橋洋画研究所の設立者である黒田清輝をはじまりに、原が東京で面識を得て生涯にわたって兄事することになった山下新太郎や、原と同世代の画家たちの作品を通して、原も体感していたであろう、明治時代末から大正時代にかけての東京の美術動向をまず紹介します。
 原がフランスに赴いたのは、ちょうど第一次世界大戦の最中であったこともあり、原自身の絵画学習には困難が伴いました。しかし原に先んじて、またその後に続いてヨーロッパに留学し美術を学んだ日本人は多く、 藤田嗣治のようにパリで大きな成功を収めた画家も生まれます。本展では続いて、原がフランス滞在中に交流をもった青山熊治や長谷川潔など、同時期にフランスへ留学していた日本人画家たちの作品を紹介します。
 帰国後の原は、田辺と白浜を拠点に、画壇とは距離をとって制作を続けました。しかし、1年に1回、戦前は二科展、戦後は二紀展への出品を自らに課し、それが唯一と言っていい中央での作品発表の機会でした。 本展最後には、原を経済的に支援した大阪の実業家、山本發次郎が収集の対象とした佐伯祐三や、原が交流を持った小出楢重らの作品と、戦後、二紀会への参加を促し、親しい交流を持った鍋井克之や、戦前から親交のあった熊谷守一らの作品を通して、1920年代から戦後にかけての絵画を紹介します。
 原が活躍した同じ時代の作品をご覧いただくことで、原自身の表現の特徴もより明確に見えてくるはずです。 どうぞ「原勝四郎展」と合わせてご観覧ください。
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同館と田辺市立美術館さんの共催で特別展「原勝四郎展 南海の光を描く」が開催されており、そちらと「同時開催」という扱いで、館蔵品等の中から大正・昭和前期の様々な作家の作品を出しています。黒田清輝、岸田劉生、有島生馬、梅原龍三郎、萬鉄五郎、藤田嗣治ら光太郎と交流のあった面々の作、さらにロダンのブロンズも。出品目録はこちら

光太郎の油彩画「佐藤春夫像」(大正3年=1914)も。佐藤が和歌山出身ということもあり、同館ではこれまでもそれなりの頻度でこの絵を出して下さっていますし、他館への貸し出し等も行って下さっています。当方、同館蔵と思い込んでいましたが、「個人蔵」とあり、寄託品なのでしょう。

もう一件、新潟。こちらは書です。

2023年第3回展 茶の湯を楽しむ-併設展 墨の魅力

期 日 : 2023年9月30日(土)~12月17日(日)
会 場 : 駒形十吉記念美術館 新潟県長岡市今朝白2丁目1番4号
時 間 : 午前10:00~午後5:00
休 館 : 月・火曜日(祝日・振替休日の場合は開館し翌日が休館)
料 金 : 一般 500円 団体 400円 団体は20名様以上
      大学・高校生 300円  中学・小学生 100円

 茶道は「総合芸術と言われ、日本の伝統文化を代表するもので、その精神は、禅宗の考え方に基づいています。」などと言われると、なんだか面倒そう、難しそうと思ってしまいます。
 日本を代表するグラフィックデザイナー田中一光氏は、「知性と感性を誇りとする最も新しい感覚の遊び」であり「さまざまな領域の美の融合を演出できる世界」であり「茶会は環境全体がインスタレーションであり、茶事はパフォーマンス」と言います。殆ど現代アートではないですか?
 難しく考えずにぜひこの不思議の世界を体験してみましょう。今回はお茶会の形式で作品を展示いたしました。茶会とは客をもてなして「一座建立(こんりゅう)」を楽しみ、主客が直心の交わりをもつこと。そのため道具の取り合わせやお料理の仕立てに、亭主の個性が表徴されます。
 茶会に招待されと思ってぜひ作品をご覧ください。
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003昭和12年(1937)、新潟長岡で光太郎の父・光雲の作を集めた「高村光雲遺作木彫展観」が開催され、その観覧のため訪れた光太郎が、地元の美術愛好家グループ(駒形十吉も含みます)に揮毫して贈った色紙が展示されています。

短歌で「ちちよけふ子は長岡のはつなつにいとどこほしくおん作を見し」。

「こほし」は「こひし」に同じ。漢字で書けば「恋し」です。

一昨年、同館で開催された「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」展に、光太郎写真などの関連資料と共に出品され、拝見して参りました。その時以来の展示のようです。

茶会をイメージしての展示ということで茶道具の逸品や、茶掛けとしての書の優品が出ています。出品目録はこちら

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日秋葉原駅より葱一俵配達有之、荷札紛失いたし居りますが、これは必ず立川貴下の御厚情と拝察、青物不足の昨今ことにありがたくおうけとりいたしました、右略儀ながらとりあへず御礼まで申述べます、


昭和17年(1942)1月26日 佐藤信哉宛書簡より 光太郎60歳

太平洋戦争開戦から2ヶ月足らずですが、既に食料不足は深刻でした。

佐藤は立川農事試験場の場長。その妻、すみ子(スミ)は、亡き智恵子の数少ない親友の一人で、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島出身でした。スミの姉・ヤヱが日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし同じく日本女子大学校卒だった妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在しました。左下の写真、左端が智恵子、後列中央がスミ、大正5年(1916)の撮影です。
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光太郎、大正15年(1926)にはやはり佐藤夫妻から贈られた葱をモチーフに、ずばり「葱」という詩も書いています。この詩を刻んだ詩碑が、農事試験場の後身・東京都農林総合研究センターの一角に平成8年(1996)に建てられました。