今日明日と、早世した碌山荻原守衛を除き、光太郎がほぼ唯一高く評価した同時代の日本人彫刻家・高田博厚がらみの情報を。
今日は信州安曇野発のイベント情報です。信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん記事から。
今日は信州安曇野発のイベント情報です。信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん記事から。
世界的彫刻家・高田博厚の功績再評価 豊科近美で15日にイベント
世界的な彫刻家・高田博厚(1900~87)の功績を再評価する朗読と音楽のイベントが15日、高田の彫刻作品を常設する安曇野市豊科近代美術館で催される。安曇野の歴史にまつわる研究や講演活動を展開する任意団体・あづみ学校(岩隈久代表)が「日本の近代彫刻史を知る上で地勢的に恵まれた安曇野の魅力を市民の手でより高めたい」と企画した。
欧州で活躍し、ノーベル賞作家ロマン・ロランら一流の思想家や芸術家と交流した文筆家でもある高田の著書『私の音楽ノート』を岩隈代表が朗読する。元松本市音楽文化ホール専属オルガニストの原田靖子さん=安曇野市=が、約100年前の製造とみられる西川オルガンの「リードオルガン」(足踏み式)で、著者ゆかりの名曲を朗読に乗せて奏でる。
石川県出身の高田は、近代彫刻の父・ロダンの影響を受けた彫刻家・高村光太郎(1883~1956)との出会いを機に彫刻の道へ進み、渡仏した。その西洋的な作品群は、穂高出身の彫刻家で東洋のロダンと称された荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)と高村がともに潮流を盛り上げた日本近代彫刻の系譜を継ぐ。
欧州の修道院風建築が特徴的な市豊科近代美術館は、公立美術館で最大となる高田の彫刻作品約200点を収蔵する。美術館建設を切望した旧豊科町が遺族の承諾と厚意を得て、高田作品を誘致した開館経緯がある。岩隈代表は「(碌山美術館が作品を収める)地元ゆかりの碌山や高村に対し、高田への評価や認知はこの地域でまだまだ。3人の作品に触れられる安曇野の潜在的な価値を市民が共有し合う機会に」と話す。
午後2時開演。大人2500円。問い合わせや申し込みはあづみ学校(電話090・8018・5424)へ。
記事にあるとおり、同館では高田の彫刻200点ほどを収蔵し、常設で展示しています。光太郎胸像(昭和34年=1959)も含まれています(現在、展示中かどうかはわかりかねますが)。
かつてミュージアムショップでゲットしたポストカード(左)とA4判クリアファイル(右)。クリアファイルの方は右上に光太郎が居ます。
それから、個人的には日本初のオルガンといわれる西川オルガンが使われる、というのが気になるところではあります。
お近くの方、ぜひどうぞ。
明日は埼玉県東松山市から、やはり高田関連の情報をお伝えします。
【折々のことば・光太郎】
大変遅れましたし、又だんだん切りつめて短くなりました、 おまけに詩の主題が少々へんなので、果してどうかとおもひます、一度御検読の上、雑誌に不都合のありさうな時は掲載中止に願ひます、「婦人之友」の例もありますから此点気にかかります、
栗本は中央公論社の編集者。この書簡は翌年元日発行の『婦人公論』に掲載された詩「必死の時」に関わります。
「「婦人之友」の例」は、この年7月、『婦人之友』に掲載された詩「事変はもう四年を越す」が、発売後に問題視され、店頭で頁が破り取られる処分を受けたことを指します。
さみだれけむるお濠の緑のかなたに、
赤い煉瓦のぶざまな累積、
高いアンテナと黒い明治の尖塔と、
その又上に遠く悲しくさむざむと
墓のやうな議事堂のやせたドオム、
この支離滅裂なパノラマのいちばん下を
ひけ時の群衆と電車がうごく。
この一節が当局により「宮城の濠を中心とせるパノラマを支離滅裂となすは不穏当」とされました。
光太郎、国会議事堂の建築に関しては、昭和11年(1936)、竣工当初からけちょんけちょんに評していました。
新議事堂のばかばかしさよ。迷惑至極さよ。何処に根から生えた美があるのだ。猿まねの標本みたいでわれわれは赤面する。新議事堂の屋根の上へ天から巨大な星でも墜ちて来い。(「某月某日」)
記事にあるとおり、同館では高田の彫刻200点ほどを収蔵し、常設で展示しています。光太郎胸像(昭和34年=1959)も含まれています(現在、展示中かどうかはわかりかねますが)。
かつてミュージアムショップでゲットしたポストカード(左)とA4判クリアファイル(右)。クリアファイルの方は右上に光太郎が居ます。
それから、個人的には日本初のオルガンといわれる西川オルガンが使われる、というのが気になるところではあります。
お近くの方、ぜひどうぞ。
明日は埼玉県東松山市から、やはり高田関連の情報をお伝えします。
【折々のことば・光太郎】
大変遅れましたし、又だんだん切りつめて短くなりました、 おまけに詩の主題が少々へんなので、果してどうかとおもひます、一度御検読の上、雑誌に不都合のありさうな時は掲載中止に願ひます、「婦人之友」の例もありますから此点気にかかります、
昭和16年(1941)11月19日 栗本和夫宛書簡より 光太郎59歳
栗本は中央公論社の編集者。この書簡は翌年元日発行の『婦人公論』に掲載された詩「必死の時」に関わります。
「「婦人之友」の例」は、この年7月、『婦人之友』に掲載された詩「事変はもう四年を越す」が、発売後に問題視され、店頭で頁が破り取られる処分を受けたことを指します。
さみだれけむるお濠の緑のかなたに、
赤い煉瓦のぶざまな累積、
高いアンテナと黒い明治の尖塔と、
その又上に遠く悲しくさむざむと
墓のやうな議事堂のやせたドオム、
この支離滅裂なパノラマのいちばん下を
ひけ時の群衆と電車がうごく。
この一節が当局により「宮城の濠を中心とせるパノラマを支離滅裂となすは不穏当」とされました。
光太郎、国会議事堂の建築に関しては、昭和11年(1936)、竣工当初からけちょんけちょんに評していました。
新議事堂のばかばかしさよ。迷惑至極さよ。何処に根から生えた美があるのだ。猿まねの標本みたいでわれわれは赤面する。新議事堂の屋根の上へ天から巨大な星でも墜ちて来い。(「某月某日」)