今日10月5日は智恵子の命日「レモンの日」です。忌日として「レモン忌」という場合もあります。漢字で「檸檬忌」とすると梶井基次郎の忌日(3月24日)となりますのでご注意願います。

10月2日付の『しんぶん赤旗』さん。歌人の寺井奈緒美氏の連載で「レモン忌」としてご紹介下さいました。

くねくねTANKAロード 40 レモン哀歌 高村光太郎

007 古典音痴の私が歌碑や句碑を巡り、くねくね遠回りしながら歌のヒントを探すエッセー。10月5日は詩人・彫刻家の高村光太郎の妻・智恵子の忌日「レモン忌」。東京・品川のゼームス坂病院跡地にある「レモン哀歌」の碑を訪れた。
〈そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白くあかるい死の床で〉
   *……*
冒頭だけでも美しく、完成された詩だ。光太郎は歌人でもあり『智恵子抄』にこんな歌がある。
〈光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき〉
 「此所」とは、千駄木にあった二人のアトリエのことだ。ちょうど詩人・室生犀星の散歩コースの途中にあったらしく、『我が愛する詩人の伝記』の中で「白いカーテンの時は西洋葵(あおい)の鉢が置かれて、花は往来のほうに向いていた。あきらかにその窓かざりは往来の人の眼を計算にいれた、ある矜(ほこり)と美しさを暗示したものである」と描写している。下宿住まいだった犀星としては、嫌でも目に入ってくるこの愛の巣を苦々しく思っていたようで、智恵子の印象についても、訪問者を瞬間に見破りバカにしているような「ツメタイ眼」だったと記していて、ひがみっぽい文章に笑ってしまう。
 しかし、犀星が嫉妬する気持ちもわかる。光太郎はニューヨーク、パリへの留学経験があり文芸誌『スバル』で活躍。智恵子も『青鞜』の表紙絵を手がけ、「あたらしい女」として注目された。長男ながら家を継がず子を持たず、智恵子の晩年まで入籍せず事実婚状態だったことも当時では珍しかったと思う。
   *……*
 先月最終回だったテレビドラマ「こっち向いてよ向井くん」を思い出す。自立していたい女性たちが抱く婚姻制度や性役割へのモヤモヤが描かれていて、目が離せなかった。光太郎と智恵子も人がうらやむような「あたらしい」関係に見えるが、因習にとらわれない「たぐいなき夢」を実現するには葛藤もあったようだ。ドラマの主人公・向井くんの「役割を生きない方がずっと難しくない?」というせりふが印象深い。
 翻訳の仕事や木彫小品でも稼げる光太郎に対し、いくら頑張っても経済的に自立した画家の役割を得られない智恵子は、精神を病んでいった。 
 光太郎の「牛」という詩がある。
〈牛はただ為(し)たい事をする/自然に為たくなる事をする/牛は判断をしない/けれども牛は正直だ〉
 人の関係性に完成はない。不格好でも、モヤモヤに正直に牛歩のごとく進んでいきたい。
・唐揚げのレモン係と「そろそろ」と切り出す役はあなたでしたね 奈緒美


きれいにまとめて下さいました。多謝。

智恵子の故郷・福島二本松では、かつて存在した顕彰団体「智恵子の里レモン会」さん主催で「レモン忌」の集いが行われていましたが、会の解散で消滅。代わりに、というわけではありませんが、二本松市として今年から「レモン祭」と称し、智恵子生家・智恵子記念館でさまざまなコンテンツを用意しています。そのうち、生家のライトアップに関して予告記事が出ています。地元紙『福島民友』さん。

智恵子の生家、夜に浮かぶ 10月5日の命日にライトアップ

009 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で、光太郎の詩集「智恵子抄」の「レモン哀歌」でも知られる二本松市出身の洋画家高村智恵子の命日の5日、同市の智恵子の生家・記念館で「蘇る智恵子~生家のライトアップ~」と題した初のイベントが行われる。ライトアップ時は生家を無料開放する。時間は午後5時~同8時。
 「高村智恵子レモン祭」(5日~11月19日)の一環として同館が実施する。当日は生家に智恵子のシルエットを浮かび上がらせるほか、生家内や庭園で竹灯(あか)りや和紙ランプシェードによる演出を行う。
 同レモン祭期間中は、通常は非公開の智恵子の生家2階の特別公開(7日~11月5日の土、日曜日、祝日)や奇跡といわれる智恵子作の実物紙絵の展示(5~17日)、「みんなで作るシンメトリー展・作製編」(5日~11月19日)を行う。
 智恵子の生家・記念館の入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。

今日、それから11月6日(月)~19日(日)に行われるライトアップでは智恵子のシルエットを浮かび上がらせるそうで、その画像がどうしてもう出ているのか不思議なのですが、試しにやってみた際のものなのかもしれません。一般社団法人にほんまつDMOさんのSNSにも上がっていました。
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というわけで、本日のレモンの日(レモン忌)、それぞれの場所で智恵子に思いを馳せていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

書かない方がよかったやうな原稿をかいてしまつて何だかさびしい感じがします、あの日婦人公論にみな渡しました、


昭和15年(1940)11月5日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎58歳

原稿」は翌月の『婦人公論』に載った随筆「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」。翌年には「智恵子の半生」と改題、詩集『智恵子抄』に収められます。

30枚程のものですが、取りかかってから稿了までかなりかかりました。智恵子との日々を文章にまとめてしまうことに少なからず抵抗があったようです。そう思って読むからかも知れませんが、普段の光太郎の文章の持つ理路整然とした感じはなく、思いつくままに後から後から書き足していった感が感じられます。そして行間から嗚咽が聞こえてきそうです。

「青空文庫」さんで全文が読めます。ぜひどうぞ。