智恵子の故郷・福島二本松。智恵子生家/智恵子記念館さんでは、智恵子忌日の今月5日(木)から「高村智恵子レモン祭」ということで、さまざなまコンテンツが用意されていますが、それ以外の件を。
まず、『読売新聞』さん福島版から。
続いて地元紙『福島民報』さん。智恵子生家/智恵子記念館さん最寄り駅のJR東北本線安達駅関係です。
まず、『読売新聞』さん福島版から。
レモンサワーの素人気 二本松「奥の松酒造」 1か月半で3500本達成
二本松市の「奥の松酒造」が7月に売り出した「二本松のレモンサワーの 素もと すっかいがな」が、印象的な名前と爽快な酸味で人気を呼んでいる。発売7か月で3500本を売る目標を、1か月半で達成した。市の補助金を活用して開発した新商品で、21日に市役所で報告会が開かれた。
「すっかいがな」は、地元の方言で「すっぱいもの」を意味する。濃縮レモン果汁や同社のかすとり焼酎が原料で、アルコール度数は25%。炭酸水と1対3の割合で割って飲むのがおすすめという。
50万円を上限に事業費の3分の2を支援する市新事業チャレンジ補助金を活用し、同社がにほんまつ観光協会と協力して開発に取り組んだ。レモンサワーにしたのは、詩人・高村光太郎が同市出身の妻・智恵子を詠んだ詩「レモン哀歌」にもちなんでいる。
この日、市役所を訪れた奥の松酒造の遊佐丈治社長は「猛暑も売り上げ好調の追い風となった」と喜び、三保恵一市長は「ふるさと納税の返礼品にすることも検討する」と応じた。
市内の「道の駅『安達』智恵子の里」など、県内各地で販売中。500ミリ・リットル入りの瓶で、希望小売価格は税込み1430円。
奥の松酒造さんの「すっかいがな」、発売当初に「ほう、こんなの出たんだ」と気づいてはいましたが、「レモン哀歌」がらみとは明言されていませんでした。「何だ、やっぱりそうだったんかい」という感じです。続いて地元紙『福島民報』さん。智恵子生家/智恵子記念館さん最寄り駅のJR東北本線安達駅関係です。
30日から「いにしえの安達駅 旧駅舎98年の歩み展」
「いにしえの安達駅 旧駅舎98年の歩み展」は30日、福島県二本松市のJR安達駅東西自由通路西口1階コンコースで始まる。1917(大正6)年の開業から2016(平成28)に新駅舎に引き継がれるまでの歴史を写真などで振り返る。
あだち観光協会の主催。和紙産業と駅誘致の経緯に始まり、駅の発展、出征、無人化反対運動と大規模な町民旅行などの写真パネル約30点を展示。観光協会が保管している旧駅舎の切符売り場、当時使われていた用品などもある。
29日に内覧会を開いた。加藤和信協会長が「安達駅は地域の大きな核であり、ますますにぎやかになっていくよう努める」とあいさつした。地元関係者が「懐かしい」などと熱心に見入った。同展は観覧無料で10月29日まで。10月9日午後1時30分から会場でトランペットとピアノの「ほんとの空」コンサートを催す。
「いにしえの安達駅 旧駅舎98年の歩み展」および「ほんとの空コンサート」についてはこちら。
「芸術の秋」となり、紹介すべき事項が溜まりつつあるので、もう1件。二本松市の『広報にほんまつ』今月号から。
「ほんとの空コンサート」、トランペッターのNoby氏、もう10年前になりますが、光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているモンデンモモさんのコンサート等でご一緒しました。ピアノは一昨年に設置された駅ピアノを使うようです。
「芸術の秋」となり、紹介すべき事項が溜まりつつあるので、もう1件。二本松市の『広報にほんまつ』今月号から。
智恵子講座2023 「智恵子抄」全作品を熟読するパート2~その背景と意味を読み解く~
美と愛に生涯を捧げた高村光太郎と智恵子。2人の波乱万丈の生涯を赤裸々に表現した「智恵子抄」。その核心に肉迫します。
ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
今月十日に父の七回忌、智恵子の三回忌を一しよに法要しました。五日には小生だけお墓まゐりしました。智恵子の事を友達はよくおぼえてゐてくれました。
千葉九十九里浜在住だった智恵子実母宛です。
会 場 市民交流センター
講 師 智恵子のまち夢くらぶ代表 熊谷健一 氏
定 員 20人
参加料 3,000円(全3回分、テキスト代含む)
申込方法 下記までお申し込みください。
◎問い合わせ・申し込み…智恵子のまち夢くらぶ事務局☎(23)6743(受付:9:00~18:00)
「智恵子講座」。以前は外部から講師を招いてということで、当方も何度か務めさせていただきました。このところ、主催の智恵子のまち夢くらぶさん熊谷代表が講師となって開催されています。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
今月十日に父の七回忌、智恵子の三回忌を一しよに法要しました。五日には小生だけお墓まゐりしました。智恵子の事を友達はよくおぼえてゐてくれました。
昭和15年(1940)10月30日 長沼セン宛書簡より 光太郎58歳
千葉九十九里浜在住だった智恵子実母宛です。