新聞各紙で光太郎ゆかりの人物およびそのご子孫が取り上げられたりし、光太郎の名も出ることが相次いでいる三回目、亡くなられたお父さまが光太郎と交流がおありだった、劇作家・女優の渡辺えりさんです。

えりさん地元の『山形新聞』さん。

渡辺えりのちょっとブレーク (220)演劇を続け、訴える平和 舞台「ガラスの動物園」の稽古が始まった。

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005 ローラ役の吉岡里帆さんとは、この日が初対面。ローラ役にぴったりだと思い、私が手紙を出して実現したキャスティングだ。芯が強く純粋でまっすぐなイメージ。会ってみると私が想像していた通りの、まじめで細やかな方だった。ジム役の和田琢磨さん(山形市出身)は先日、私の母校の山形西高演劇部とのワークショップに参加していただいた。山形県民特有の純朴で礼儀正しい気質の方で、信頼できると思った。
 トム役の尾上松也さんはまだ10代の頃、私が歌舞伎を演出した際に出演していただいた。その後、ミュージカル「狸御殿」で親子役で共演した。その時の舞台美術は、山形市出身の絵本作家荒井良二さんだった。
 尾上さんとは、コロナ禍の2020年、本多劇場で2人芝居を上演した。「ガラスの動物園」の後日談「消えなさいローラ」で、探偵役を演じていただいた。尾上さんがテレビドラマ「半沢直樹」の撮影で忙しい最中、午前9時からの稽古を1週間という無謀なスケジュールで行った。緊急事態の公演が大好評で、「こうなったら本編もやろう!」と誓い合った企画が、今回の2本立て公演である。
 私が山形県民会館で文学座の「ガラスの動物園」を見たのは、1971(昭和46)年11月19日の夜、16歳の時だった。その日の昼間は、全共闘の火炎瓶で東京・日比谷公園の松本楼が全焼した。そして、71年は前年の11月に自決した三島由紀夫の葬式があった年だ。
 ベトナム戦争が終わったのは75年。反戦活動が続き、アメリカとの安保条約や地位協定に対する不安と不満が爆発し、日本人のアイデンティティーを問う活動が盛んになっていた時代であった。
 そんな中で見た「ガラスの動物園」のローラは私自身と重なり、世の中の常識と保身で縛ろうとする母親は自分の母と重なった。号泣したまま、席からしばらく立ち上がれなかった。
 公演後、西高演劇部の先輩に誘われ、アポなしで楽屋へ行った。トム役の江守徹さんは何事もなかったようにボテ(張りぼて)をトラックに運び、ジム役の高橋悦史さんは楽屋をほうきで掃いていた。「長岡輝子先生の楽屋はどちらですか?」と先輩が尋ねると、案内してくださった。
 アマンダ役で演出も手がけた長岡さんとローラ役の寺田路恵さんは、同じ楽屋にいらした。先輩は、役者を目指すための方法や覚悟などさまざまな質問をした。長岡さんは、宿泊していた八洋館までの移動を含めて1時間余りも付き合ってくださった。
 あの日の出会いがなければ、私はこうして演劇を志すことはなかった。
 あの日から52年。ともに楽屋を訪ねた先輩は突然の病で異界に旅立った。高村光太郎と智恵子がよく2人で食事していた松本楼の全焼に胸を痛めていた父も、昨年亡くなった。今回の舞台は、11月23日に山形市でも上演する。新しいやまぎん県民ホールで長年の夢がかなう。
 「ガラスの動物園」の時代設定は37年4月26日。ナチスと手を組んだフランコ将軍によるゲルニカの絨毯(じゅうたん)爆撃があった日だ。国際法を破った初めての攻撃とも言われる。その庶民を狙った無差別攻撃は、のちの広島、長崎の原爆投下へとつながっていった。時代は繰り返し、ウクライナ戦争は終わらない。戦争の残酷さは今もまだ止められない。私にできるのは、諦めずに演劇を続けて平和を訴えることしかない。
(俳優・劇作家、山形市出身)

舞台「ガラスの動物園」は、アメリカの劇作家、テネシー・ウィリアムズが昭和19年(1944)に書いた戯曲です。世界全体が閉塞的状況だったともいえる1930年代後半のセントルイスを舞台に、アメリカ下層階級一家の日常を描いています。

日本でも繰り返し舞台化されていて、昭和46年(1971)、文学座の長岡輝子さん、江守徹さん、高橋悦治さんによる公演をご覧になったえりさんの、演劇の道を志すきっかけになった作品だそうです。

その「ガラスの動物園」と、後日譚である「消えなさいローラ」の二本立てを、吉岡里帆さん、尾上松也さん、和田琢磨さんで上演とのこと。演出はえりさんです。
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えりさんが山形で「ガラスの動物園」をご覧になった日、東京日比谷公園ではいわゆる日比谷暴動事件が起こり、沖縄返還闘争の学生デモ隊によって、連翹忌会場として使わせていただいてる(当時は違いましたが)日比谷松本楼さんが焼け落ちました。

松本楼さんは、光太郎や木下杢太郎・北原白秋等による芸術至上主義運動「パンの会」会場としても使われたり、明治末には光太郎智恵子が訪れてアイスクリームを食べたりといった記録が残っています。

アイスクリームの件は新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)に掲載(オリジナル『智恵子抄』には無し)されている詩「涙」に書かれており、光太郎と交流のおありだったえりさんのお父さま、「あの松本楼が……」というわけだったのでしょう。

ちなみに地上波テレビ朝日さんで昨日放映されていた「午後もじゅん散歩」。平成30年(2018)放映の回を編集し直したものだそうでしたが、高田純次さんが信州善光寺さんに行かれるというので拝見しました。
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光太郎の父・光雲の名は出ませんでしたが、光雲とその高弟・米原雲海による仁王像が納められた仁王門。

で、この番組、後半はテレビ通販です。すると、松本楼さん。驚きました。
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しかも、ゆかりの文人ということで、漱石と光太郎。
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通販で扱った商品は、松本楼さんのデミグラスハンバーグとビーフシチューを冷凍食品にしたものでした。
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ところで、過日、えりさんから突然電話が掛かってきまして(いつものことですが(笑))「今、エッセイ書いてるんだけど、昭和46年に松本楼さんが焼けた経緯、わかる?」。当方も焼けたことは存じていましたが、詳しいいきさつまでは存じませんでした。それどころか焼けたのが二度目というのは存じていたものの、一度目は明治38年(1905)の日比谷焼き討ち事件と思い込んでいて、実は大正12年(1923)の関東大震災だったという有様。汗顔の至りです。

閑話休題、演劇を通して平和の尊さを訴え続けられているえりさん、今後ともご活躍なさるを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子の三回忌が近づきました。五日は今年は防空訓練最終の日にあたるので十日にのばして法事をします、今年は父の七回忌にもあたりますから丁度一緒に父の命日に営むわけです、 満二年たつたのですが、まだ昨日のやうに思はれます。


昭和15年(1940)9月30日 長沼セン宛書簡より 光太郎58歳

太平洋戦争開戦までは未だ1年以上間があるのですが、「防空訓練」。光太郎の周辺もだいぶきな臭くなっていました。