10月5日(木)が智恵子の命日「レモンの日」ということで、その故郷、福島県二本松市での顕彰事業もろもろが、今年から「レモン祭」と名付けられました。新しい取り組みも含まれています。
高村智恵子レモン祭
期 日 : 2023年10月5日(木)~11月19日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井漆原町35
休 館 : 水曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円
子供(小・中学生) 個人:210円 団体:150円
■みんなで作るシンメトリー展 ~作製編~
智恵子も数多く生んだシンメトリー作品を、オリジナルで作成できます。
作成いただいた方には、粗品(今季限定)をプレゼントいたします。
作成いただいた方には、粗品(今季限定)をプレゼントいたします。
皆様の作品は、ひとつの作品に仕上げ、次回自主事業開催時に展示いたします。
実施期間 10月5日(木)~11月19日(日)
実施期間 10月5日(木)~11月19日(日)
■蘇る智恵子 ~生家のライトアップ~
智恵子の命日に生家がライトアップされます。
ライトアップを堪能するとともに、智恵子への哀悼の意を表しませんか?
実施期間 10月5日(木) 午後5時~午後8時 11月6日(月)~19日(日) 開館時間内
■智恵子の生家 2階公開
公開日
10月7日(土)~9日(月)、14日(土)~15日(日)、21日(土)~22日(日)、28日~29日(日)
11月3日(金)~5日(日)
■奇跡といわれる「紙絵」の実物展示
展示期間 10月5日(木)~17日(火)
例年行われている智恵子居室を含む生家二階部分の公開、智恵子紙絵の実物展示に加え、新たな取り組みとして、生家のライトアップ、シンメトリー紙絵の制作体験が盛り込まれました。
心を病んで入院していた智恵子によって南品川ゼームス坂病院で作られたシンメトリーの紙絵はこんな感じです。
光太郎の回想が残っています。
模様の類は紙を四つ折又は八つ折にして置いて切りぬいてから紙をひらくと其処にシムメトリイが出来るわけである。さういふ模様に中々おもしろいのがある。はじめは一枚の紙で一枚を作る単色のものであつたが、後にはだんだん色調の配合、色量の均衡、布置の比例等に微妙な神経がはたらいて来て紙は一個のカムバスとなつた。十二単衣に於ける色襲ねの美を見るやうに、一枚の切抜きを又一枚の別のいろ紙の上に貼はりつけ、その色の調和や対照に妙味尽きないものが出来るやうになつた。或は同色を襲ねたり、或は近似の色で構成したり、或は鋏で線だけ切つて切りぬかずに置いたり、いろいろの技巧をこらした。此の切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたのは、下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見えて不可言の美を作る。(「智恵子の切抜絵」昭和14年=1939)
「下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見え」るという「切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたの」は、たとえばこれ。
智恵子の並々ならぬ造型感覚が見て取れますね。
こうしたシンメトリーの紙絵(もうちょっとシンプルなものだったとは思いますが)、智恵子が心を病む前から手がけていたという証言が残っています。光太郎智恵子と親しかった詩人の尾崎喜八の回想から。
智恵子さんは後の紙絵の大家で、立派な工芸家だと思いますがとっても折り紙がお上手だったんです。我々が作る幼稚な折鶴とか云ったものでなく、とってもすばらしいもので、それをもうすでにいわゆる、そのシンメトリカルに紙をたたんでシンメトリカルに切ると、あるきそくに立派な模様ができる。ああいうものをすでにやっていらした。それを三つになる女の子のために作って下さった。オバチャマに頂いた、とそれをもって帰って来た事があります。(「尾崎喜八氏聞き書き―智恵子三十年忌―」 請川利夫著『高村光太郎論』昭和44年=1969所収)
「三つになる女の子」は、尾崎の長女・榮子さん。平成28年(2016)までご健在で、当方も智恵子の思い出を聴かせていただいたことがあります。大正14年(1925)のお生まれでしたので、「三つ」ということは、数えなら昭和2年(1927)、満なら同3年(1928)、いずれにしてもまだ智恵子の心の病が誰の目にも顕在化する以前です。
それにしても、ゼームス坂病院で作られた智恵子のシンメトリーの紙絵、まさに光太郎の云う通り「紙は一個のカムバスとなつた」状態ですね。複数のシンメトリー作品を組み合わせたものなど、まさにこの紙絵が奇跡と云われる所以の一つでしょう。
残念ながら智恵子を偲ぶレモン忌の集いは、主催されていた智恵子の里レモン会さんが解散してしまったため無くなりましたが、当方も期間中に一度足を運ぼうと思っております。みなさまもぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
先年智恵子が造つて置いてくれた梅酒をのみました、感慨無量です、彼女はまだ生きてゐます、
『智恵子抄』所収の詩「梅酒」の光景です。光太郎手控えの草稿に依れば、この書簡の2日後に書かれています。
例年行われている智恵子居室を含む生家二階部分の公開、智恵子紙絵の実物展示に加え、新たな取り組みとして、生家のライトアップ、シンメトリー紙絵の制作体験が盛り込まれました。
心を病んで入院していた智恵子によって南品川ゼームス坂病院で作られたシンメトリーの紙絵はこんな感じです。
光太郎の回想が残っています。
模様の類は紙を四つ折又は八つ折にして置いて切りぬいてから紙をひらくと其処にシムメトリイが出来るわけである。さういふ模様に中々おもしろいのがある。はじめは一枚の紙で一枚を作る単色のものであつたが、後にはだんだん色調の配合、色量の均衡、布置の比例等に微妙な神経がはたらいて来て紙は一個のカムバスとなつた。十二単衣に於ける色襲ねの美を見るやうに、一枚の切抜きを又一枚の別のいろ紙の上に貼はりつけ、その色の調和や対照に妙味尽きないものが出来るやうになつた。或は同色を襲ねたり、或は近似の色で構成したり、或は鋏で線だけ切つて切りぬかずに置いたり、いろいろの技巧をこらした。此の切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたのは、下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見えて不可言の美を作る。(「智恵子の切抜絵」昭和14年=1939)
「下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見え」るという「切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたの」は、たとえばこれ。
智恵子の並々ならぬ造型感覚が見て取れますね。
こうしたシンメトリーの紙絵(もうちょっとシンプルなものだったとは思いますが)、智恵子が心を病む前から手がけていたという証言が残っています。光太郎智恵子と親しかった詩人の尾崎喜八の回想から。
智恵子さんは後の紙絵の大家で、立派な工芸家だと思いますがとっても折り紙がお上手だったんです。我々が作る幼稚な折鶴とか云ったものでなく、とってもすばらしいもので、それをもうすでにいわゆる、そのシンメトリカルに紙をたたんでシンメトリカルに切ると、あるきそくに立派な模様ができる。ああいうものをすでにやっていらした。それを三つになる女の子のために作って下さった。オバチャマに頂いた、とそれをもって帰って来た事があります。(「尾崎喜八氏聞き書き―智恵子三十年忌―」 請川利夫著『高村光太郎論』昭和44年=1969所収)
「三つになる女の子」は、尾崎の長女・榮子さん。平成28年(2016)までご健在で、当方も智恵子の思い出を聴かせていただいたことがあります。大正14年(1925)のお生まれでしたので、「三つ」ということは、数えなら昭和2年(1927)、満なら同3年(1928)、いずれにしてもまだ智恵子の心の病が誰の目にも顕在化する以前です。
それにしても、ゼームス坂病院で作られた智恵子のシンメトリーの紙絵、まさに光太郎の云う通り「紙は一個のカムバスとなつた」状態ですね。複数のシンメトリー作品を組み合わせたものなど、まさにこの紙絵が奇跡と云われる所以の一つでしょう。
残念ながら智恵子を偲ぶレモン忌の集いは、主催されていた智恵子の里レモン会さんが解散してしまったため無くなりましたが、当方も期間中に一度足を運ぼうと思っております。みなさまもぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
先年智恵子が造つて置いてくれた梅酒をのみました、感慨無量です、彼女はまだ生きてゐます、
昭和15年(1940)3月29日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎58歳
『智恵子抄』所収の詩「梅酒」の光景です。光太郎手控えの草稿に依れば、この書簡の2日後に書かれています。
梅酒
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。