昨日、別件でご紹介した『広報はなまき』9月15日号からもう1件。
そのタクシー会社はおそらく「藍染タクシー」。斎藤という人物が社長さんでした。営業所の大家さんだった津谷宇之助という人物が、光太郎にゼームス坂病院を紹介したようです。
いいトコ発見! 地域おこし協力隊 自分の内から出る自由なものを大切に‐学びの場を通した地域のつながりを作る。国内外の文化交流を推進する‐ 森川沙紀
「協力隊の任期3年間、あなたのワクワクすることだけをしてください」
昨年着任時のあいさつ回りをしていた際、ある人に言われた言葉です。自分が楽しんでいることは必ず相手にも伝わる―そう信じ、毎日協力隊の活動をしています。
大学の専門が英語で米国に5年間留学していたため、私は英語を生かして地域の人たちとつながりを作りたいと考えています。
昨年度は詩人・彫刻家で晩年の7年を花巻で過ごした、高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳しました。本年度は米国の女性詩人エミリー・ディキンソンと宮沢賢治について学ぶ講座の開催、市内の保育園で英語の歌と絵本の読み聞かせなどを行っています。
協力隊の活動は自由ですが、見たこ
と聞いたこと全て勉強になり無駄なことは一つもありません。全てがつながっている、影響・呼応し合っている―協力隊2年目に学んだことです。
「高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳」についてはこちら。
昨年5月から花巻市の地域おこし協力隊員として活動されている森川沙紀さん。大阪のご出身だそうですが、「大学の時、岩手出身の友人に花巻を案内してもらい自然豊かな花巻が大好きになりました。いつか花巻に移住したいと思い15年、ようやく夢が叶いました」だそうで。いろいろ御苦労もあるかと存じますが、さらなるご活躍を期待いたします。
もう1件、『日本経済新聞』さんの岩手版から。宮沢賢治実弟・清六の令孫たる宮沢和樹氏へのインタビューです。
――「石っこ賢さん」と呼ばれていたそうですね。有名な「雨ニモマケズ」もその中から生まれた?
「これは自分に向けて書いた言葉だ。原稿用紙に書いていないので作品ではない。『丈夫ナカラダヲモチ欲ハナク』と述べた後に『サウイフモノニワタシハナリタイ』と書いた。そういうものに自分はなっていないということだ。祈りの気持ちだったのだろう」
林風舎(岩手県花巻市)の社名は賢治作品「北守将軍と三人兄弟の医者」の登場人物からとった
――賢治そのものがビジネスになっているという指摘があります。
「ビジネス化は大事なことだ。映画やアニメ、美術、演劇、音楽に広がっている。宇宙飛行士の毛利衛さんや野口聡一さん、水沢VLBI観測所(岩手県奥州市)の本間希樹所長も賢治ファンを公言してくれている」 「ただ商品を売るための看板としてしか考えていない人とは全然違う。作品の著作権は切れているが、かつて(私たちの意向を無視して賢治を商業利用された今そこまでされることはなくなった。人格や思いを尊重して使うことには賛成だ」
――スタジオジブリ作品にも影響を与えています。
「アニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を監督した高畑勲さんや鈴木敏夫さんと祖父は何度も会っている。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』など多くの作品に賢治の世界を感じることができる。祖父は賢治のプロデューサーだった」
――岩手ではソーシャルビジネスの起業も盛んです。
「盛岡高等農林の卒業生で海外に出て地元に学校を作ろうとした人もいた。農業の6次産業化が言われるが、当時生産が大変だった納豆の加工の起業に高等農林は関係している。賢治と同級生だった成瀬金太郎の後継者による納豆生産は今も続いている」
――全国植樹祭で天皇陛下が賢治の「虔十」に言及されました。
「賢治さんもここまで来たんだなあと式典会場で思った。『虔十公園林』に『ああ、全く誰が賢く、誰が賢くないかはわかりません』というくだりがある。賢治が虔十に託して語ったように、そのときには皆に認められず、後にならないと価値がわからないこともたくさんある」
記者の目 生前に作家や詩人としてほぼ無名だった賢治が長命だったらと想像せずにはいられない。起業家や社会活動家になっていただろうか。SNSを駆使して情報発信をしていたかもしれない。 賢治の生年と没年には津波が三陸沿岸を襲った。スーパー台風や大雨、山火事、沸騰する地球。「地質の専門家」なら、人類の活動が地球史で無視できないほど大きくなった「人新世」という時代へのヒントをきっと示したはずだ。
和樹氏とは今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でご一緒させていただきました。
そちらが好評だったということで第2弾が企画されています。まだ細かな情報が公開されていませんが、11月1日(水)、会場は宮沢賢治イーハトーブ館ホールだそうです。
今回は和樹氏、そして先述の森川沙紀さん、さらに生前の光太郎をご存じの複数の方々にパネラーとなっていただき、当方はコーディネーター。いろいろと興味深いお話が聞けるのではないかと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。
【折々のことば・光太郎】
智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました、 昨夜遺骸を自宅に連れてきました、 あはれな一生だつたと思ひます、
光太郎令甥の故・髙村規氏(光太郎実弟・豊周子息)の回想に依れば、まだ存命ということにして、南品川ゼームス坂病院から駒込林町の光太郎自宅兼アトリエまでタクシーで運んだそうです。当時でも遺骸を運ぶには霊柩車等の使用が義務づけられていたのでしょうが、それは面倒だと。
規氏回想から。
だいぶ前のことですが、銀座で高村光雲の木彫の写真展をやった時に千葉の方から電話がかかってきましてね。僕が電話に出たら「あなたは私のことを知らないでしょうけれども藍染橋って言えばわかるでしょう」って言うから、「ああ、よく知ってますよ」って。「そこの角で根津神社のすぐそばなんですが、僕はあの当時智恵子さんが亡くなった時、ハイヤー会社をやってたんですよ。僕は社長で運転手もやってたんです。あなたのお父さんはものすごく機転の利く人で、智恵子さんが亡くなった時、僕に「すぐ迎えに行きたいんだけど、ゼームス坂病院まで回してくれ」って頼まれた。僕はすぐゼームス坂病院へ行った。その時、あなたのお父さんが院長と親しかったせいもあるんだけど、機転を利かせて、智恵子さんを亡くなったことにしてなかったんだって。病気は病気だけれどもまだ生きてることにして、後ろの席へ座らせて帰って来たんですよ。光太郎先生とあんたのお父さんとお付きの人がいて、私が運転して」という話を聞きました。
なんで亡くなった人をハイヤーに乗っけて帰って来られたのか長いこと不思議だなあって思ってたんですが、その電話でやっとわかったんですね。だからね、亡くなってなかったんですよ。実際には亡くなってたけれども、(『碌山美術館報』第34号 「碌山忌記念講演会 伯父高村光太郎の思い出」)
「高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳」についてはこちら。
昨年5月から花巻市の地域おこし協力隊員として活動されている森川沙紀さん。大阪のご出身だそうですが、「大学の時、岩手出身の友人に花巻を案内してもらい自然豊かな花巻が大好きになりました。いつか花巻に移住したいと思い15年、ようやく夢が叶いました」だそうで。いろいろ御苦労もあるかと存じますが、さらなるご活躍を期待いたします。
もう1件、『日本経済新聞』さんの岩手版から。宮沢賢治実弟・清六の令孫たる宮沢和樹氏へのインタビューです。
「雨ニモマケズ」は祈りの言葉 商業化には思い尊重を 宮沢和樹・林風舎社長 賢治没後90年 イーハトーブの経済㊦
賢治作品を現在私たちが読めるのは、賢治の弟、宮沢清六の存在が欠かせない。賢治の死後も原稿の詰まった「兄のトランク」を守り、高村光太郎らの力を借りながら出版社に作品を売り込んだ。清六の孫で賢治の商品を扱う林風舎(岩手県花巻市)社長の宮沢和樹氏は今も愛唱される「雨ニモマケズ」は「賢治の祈りの言葉だった」と語る。
――賢治の残したメッセージは現代的です。先見の明でしょうか。
「ちょっと違う。予言者とも違う。科学の知識と法華経がベースにあった。盛岡高等農林学校では地質を学び、半分はフィールドワークだった。どちらかというと理系人間で、今もし尋ねられたら自分のことを地質の専門家と答えたと思う」
――「石っこ賢さん」と呼ばれていたそうですね。有名な「雨ニモマケズ」もその中から生まれた?
「これは自分に向けて書いた言葉だ。原稿用紙に書いていないので作品ではない。『丈夫ナカラダヲモチ欲ハナク』と述べた後に『サウイフモノニワタシハナリタイ』と書いた。そういうものに自分はなっていないということだ。祈りの気持ちだったのだろう」
林風舎(岩手県花巻市)の社名は賢治作品「北守将軍と三人兄弟の医者」の登場人物からとった
――賢治そのものがビジネスになっているという指摘があります。
「ビジネス化は大事なことだ。映画やアニメ、美術、演劇、音楽に広がっている。宇宙飛行士の毛利衛さんや野口聡一さん、水沢VLBI観測所(岩手県奥州市)の本間希樹所長も賢治ファンを公言してくれている」 「ただ商品を売るための看板としてしか考えていない人とは全然違う。作品の著作権は切れているが、かつて(私たちの意向を無視して賢治を商業利用された今そこまでされることはなくなった。人格や思いを尊重して使うことには賛成だ」
――スタジオジブリ作品にも影響を与えています。
「アニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を監督した高畑勲さんや鈴木敏夫さんと祖父は何度も会っている。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』など多くの作品に賢治の世界を感じることができる。祖父は賢治のプロデューサーだった」
――岩手ではソーシャルビジネスの起業も盛んです。
「盛岡高等農林の卒業生で海外に出て地元に学校を作ろうとした人もいた。農業の6次産業化が言われるが、当時生産が大変だった納豆の加工の起業に高等農林は関係している。賢治と同級生だった成瀬金太郎の後継者による納豆生産は今も続いている」
――全国植樹祭で天皇陛下が賢治の「虔十」に言及されました。
「賢治さんもここまで来たんだなあと式典会場で思った。『虔十公園林』に『ああ、全く誰が賢く、誰が賢くないかはわかりません』というくだりがある。賢治が虔十に託して語ったように、そのときには皆に認められず、後にならないと価値がわからないこともたくさんある」
記者の目 生前に作家や詩人としてほぼ無名だった賢治が長命だったらと想像せずにはいられない。起業家や社会活動家になっていただろうか。SNSを駆使して情報発信をしていたかもしれない。 賢治の生年と没年には津波が三陸沿岸を襲った。スーパー台風や大雨、山火事、沸騰する地球。「地質の専門家」なら、人類の活動が地球史で無視できないほど大きくなった「人新世」という時代へのヒントをきっと示したはずだ。
和樹氏とは今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でご一緒させていただきました。
今回は和樹氏、そして先述の森川沙紀さん、さらに生前の光太郎をご存じの複数の方々にパネラーとなっていただき、当方はコーディネーター。いろいろと興味深いお話が聞けるのではないかと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。
【折々のことば・光太郎】
智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました、 昨夜遺骸を自宅に連れてきました、 あはれな一生だつたと思ひます、
昭和13年(1938)10月6日 難波田龍起宛書簡より 光太郎56歳
直接の死因は長く煩っていた粟粒性肺結核でした。光太郎令甥の故・髙村規氏(光太郎実弟・豊周子息)の回想に依れば、まだ存命ということにして、南品川ゼームス坂病院から駒込林町の光太郎自宅兼アトリエまでタクシーで運んだそうです。当時でも遺骸を運ぶには霊柩車等の使用が義務づけられていたのでしょうが、それは面倒だと。
規氏回想から。
だいぶ前のことですが、銀座で高村光雲の木彫の写真展をやった時に千葉の方から電話がかかってきましてね。僕が電話に出たら「あなたは私のことを知らないでしょうけれども藍染橋って言えばわかるでしょう」って言うから、「ああ、よく知ってますよ」って。「そこの角で根津神社のすぐそばなんですが、僕はあの当時智恵子さんが亡くなった時、ハイヤー会社をやってたんですよ。僕は社長で運転手もやってたんです。あなたのお父さんはものすごく機転の利く人で、智恵子さんが亡くなった時、僕に「すぐ迎えに行きたいんだけど、ゼームス坂病院まで回してくれ」って頼まれた。僕はすぐゼームス坂病院へ行った。その時、あなたのお父さんが院長と親しかったせいもあるんだけど、機転を利かせて、智恵子さんを亡くなったことにしてなかったんだって。病気は病気だけれどもまだ生きてることにして、後ろの席へ座らせて帰って来たんですよ。光太郎先生とあんたのお父さんとお付きの人がいて、私が運転して」という話を聞きました。
なんで亡くなった人をハイヤーに乗っけて帰って来られたのか長いこと不思議だなあって思ってたんですが、その電話でやっとわかったんですね。だからね、亡くなってなかったんですよ。実際には亡くなってたけれども、(『碌山美術館報』第34号 「碌山忌記念講演会 伯父高村光太郎の思い出」)
そのタクシー会社はおそらく「藍染タクシー」。斎藤という人物が社長さんでした。営業所の大家さんだった津谷宇之助という人物が、光太郎にゼームス坂病院を紹介したようです。