光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』、9月15日号に光太郎が2箇所。
最終ページの連載「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」では、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書「大地麗」が取り上げられています。
記事にあるとおり、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隠棲中の昭和25年(1950)、村役場の新築落成記念に贈られた書です。
ただし「快諾」とは行かなかったようで……。以下、佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』から当時の村長・高橋雅郎の談話を元にした一節。
いよいよ落成したので、先生に何か記念の額を書いていただきたいと思ったのでしたが、役場のできたのは十一月の末の頃の相当寒い時で、先生はすでに筆をおさめて、今年中は何も書かないという時でした。山口小学校の校長さんの浅沼さんなどが行ってたのんでも到底書いてもらえまいし、村長が自身行ってもおおよそことわられるだろう、結局この使は線のやさしいそして先生が気楽にものを考えられるであろう女の人がよいではないかとなりました。
村長さんは、奥さんのアサヨさんに「書いてもらう使は、しょっちゅう先生のところへ出入りして気のおけないお前がいいよ。お前にいってもらうことだな。うまく引き受けてくれればいいし、ことわるにもお前だら先生も気楽だろう。」ということで、アサヨさんが使に行きました。間もなく帰ってき、「承知しました。」という返事に村長さんは飛上がるほど喜びました。
その後、光太郎、翌年1月の『婦人公論』に、この書に関する詩を寄稿しました。
大地うるはし
村役場の五十畳敷に
新築祝の額を書く。
「大地麗(だいちうるはし)」、太い最低音部(バス)。
書いてみると急にあたりの山林が、
刈つたあとの萱原が、
まだ一二寸の麦畑のうねうねが、
遠い和賀仙人の山山が
目をさまして起き上がる。
半分晴れた天上から
今日は初雪の粉粉が
あそびあそびじやれてくる。
冬のはじめの寒くてどこか暖い
大地のぬくもりがたそがれる。
大地麗(だいちうるはし)と書いた私の最低音部(バス)に
世界が音程を合せるのだ。
大地無境界と書ける日は
烏有先生の世であるか、
筆を投げてわたくしは考へる。
『広報はなまき』にも記述のある役場の落成式典で撮られた写真がこちら。
ところで、写真と言えば、『広報はなまき』に載った写真。
光太郎、先述の高橋雅郎村長、そして当時の村議会議長。現在、花巻で宮沢賢治の顕彰活動等にも取り組まれている泉沢善雄氏の大伯父さま(お祖父様のお兄様)だそうで、驚きました。
さて、『広報はなまき』。光太郎の名がもう1件出て参りますが、長くなりましたので、明日。
【折々のことば・光太郎】
今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく恢復してくれればいいと念じてゐます、
千葉九十九里浜に移り住んでいた、智恵子の実母・セン宛書簡から。「うまく恢復してくれればいい」との願い空しく、宿痾の粟粒性肺結核のため、この日の夜遅く、智恵子は亡くなりました。
この書簡が書かれた直後、かの「レモン哀歌」に描かれた情景が実際にあったのだと思われます。
最終ページの連載「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」では、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書「大地麗」が取り上げられています。
記事にあるとおり、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隠棲中の昭和25年(1950)、村役場の新築落成記念に贈られた書です。
ただし「快諾」とは行かなかったようで……。以下、佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』から当時の村長・高橋雅郎の談話を元にした一節。
いよいよ落成したので、先生に何か記念の額を書いていただきたいと思ったのでしたが、役場のできたのは十一月の末の頃の相当寒い時で、先生はすでに筆をおさめて、今年中は何も書かないという時でした。山口小学校の校長さんの浅沼さんなどが行ってたのんでも到底書いてもらえまいし、村長が自身行ってもおおよそことわられるだろう、結局この使は線のやさしいそして先生が気楽にものを考えられるであろう女の人がよいではないかとなりました。
村長さんは、奥さんのアサヨさんに「書いてもらう使は、しょっちゅう先生のところへ出入りして気のおけないお前がいいよ。お前にいってもらうことだな。うまく引き受けてくれればいいし、ことわるにもお前だら先生も気楽だろう。」ということで、アサヨさんが使に行きました。間もなく帰ってき、「承知しました。」という返事に村長さんは飛上がるほど喜びました。
その後、光太郎、翌年1月の『婦人公論』に、この書に関する詩を寄稿しました。
大地うるはし
村役場の五十畳敷に
新築祝の額を書く。
「大地麗(だいちうるはし)」、太い最低音部(バス)。
書いてみると急にあたりの山林が、
刈つたあとの萱原が、
まだ一二寸の麦畑のうねうねが、
遠い和賀仙人の山山が
目をさまして起き上がる。
半分晴れた天上から
今日は初雪の粉粉が
あそびあそびじやれてくる。
冬のはじめの寒くてどこか暖い
大地のぬくもりがたそがれる。
大地麗(だいちうるはし)と書いた私の最低音部(バス)に
世界が音程を合せるのだ。
大地無境界と書ける日は
烏有先生の世であるか、
筆を投げてわたくしは考へる。
「烏有先生」は、漢の司馬相如「子虚賦」に登場する架空の人物。「烏有」は訓読すれば「烏 ( いづ ) くんぞ有らむや」、反語で「どうして有るだろうか、いや、有るはずがない」の意。大地に国境が無くなることは現実にはあり得ないのだろうか、ということになります。
『広報はなまき』にも記述のある役場の落成式典で撮られた写真がこちら。
ところで、写真と言えば、『広報はなまき』に載った写真。
光太郎、先述の高橋雅郎村長、そして当時の村議会議長。現在、花巻で宮沢賢治の顕彰活動等にも取り組まれている泉沢善雄氏の大伯父さま(お祖父様のお兄様)だそうで、驚きました。
さて、『広報はなまき』。光太郎の名がもう1件出て参りますが、長くなりましたので、明日。
【折々のことば・光太郎】
今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく恢復してくれればいいと念じてゐます、
昭和13年(1938)10月5日 長沼セン宛書簡より 光太郎56歳
千葉九十九里浜に移り住んでいた、智恵子の実母・セン宛書簡から。「うまく恢復してくれればいい」との願い空しく、宿痾の粟粒性肺結核のため、この日の夜遅く、智恵子は亡くなりました。
この書簡が書かれた直後、かの「レモン哀歌」に描かれた情景が実際にあったのだと思われます。
レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう