作曲家の西村朗氏の訃報が出ました。

「共同通信」さん配信記事。

作曲家の西村朗さん死去 オペラ「紫苑物語」

005 オペラ「紫苑物語」など多くの作品を残した作曲家の西村朗(にしむら・あきら)さんが7日午後8時12分、右上顎がんのため東京都内の病院で死去した。69歳。大阪市生まれ。葬儀は近親者で行った。喪主は妻優子さん。
 NHK・Eテレ「N響アワー」の司会、いずみシンフォニエッタ大阪や草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルの音楽監督を務めた。東京音楽大の教授として後進の指導にも尽力した。
 1977年、エリザベート王妃国際音楽コンクール作曲部門大賞。2013年紫綬褒章。
 19年には、新国立劇場の委嘱で作曲した新作「紫苑物語」が話題を集めた。

『朝日新聞』さん。

作曲家の西村朗さん死去 現代音楽で世界的活躍、N響アワー司会も

 現代音楽の作曲家で、「N響アワー」などの司会でも広く知られた西村朗(にしむら・あきら)さんが7日、右上顎(じょうがく)がんで死去した。69歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻優子さん。
 大阪市生まれ。東京芸大で矢代秋雄、野田暉行に師事。西洋音楽の語法に立脚しつつ、音高やリズムのずれによって多層的な響きを紡ぐ「ヘテロフォニー」の手法を確立した。
 代表作にインドネシアやモンゴルなど、アジア各国の民族の感性を縦横に採り入れた「2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー」など。クロノス・カルテットなど世界的なアーティストから新作委嘱を受け、ウィーン・モデルン音楽祭などで演奏されてきた。2019年、新国立劇場で石川淳の短編を原作にした新作オペラ「紫苑(しおん)物語」が大野和士の指揮で初演され、世界的な話題を集めた。
 武満徹作曲賞など数多くの審査員を歴任した。いずみシンフォニエッタ大阪、10年から草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルの音楽監督も務めた。軽妙な語り手としても知られ、NHK教育「N響アワー」の司会を09年から12年まで務め、現在もNHKFM「現代の音楽」の解説を務めていた。
 東京音大教授。エリザベート国際音楽コンクール大賞、尾高賞など受賞多数。
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西村氏、平成20年(2008)に関西合唱団さんの依嘱で「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」を作曲、同団の第73回定期演奏会で演奏がなされました。翌年には全音さんから楽譜が出版されています。

その後、平成30年(2018)の全日本合唱コンクール第71回大会高校Bグループ(33人以上の大編成)に出場した九州地区代表・鹿児島高等学校音楽部さんが第3曲「レモン哀歌」を歌われました。同部は一昨年の第74回大会では第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」でみごと銀賞に輝きました。

YouTube上に同部の演奏がアップされています。


楽譜集巻頭の氏による「作品解説」。

 関西合唱団の委嘱により作曲。この組曲は、私としては初めて高村光太郎の詩をテキストとして作曲した合唱曲です。ここに用いた詩はいずれも有名なもので、かなり以前から読み親しんでいたものですが、最近になって急に感ずるところが強く深まったものでもあります。ようやくにして詩境に理解が近づいたということかもしれません。
 光太郎(1883~1956)の生涯は日本近代の激動期とも重なっており、伝記などが示すとおり、一人の芸術家としてはその社会的な実生活環境と個人的な内的精神生活の両面において、特異なまでに複雑困難な一生を送ったと言えるでしょう。おそらく、その魂は一生を通じて安息の時を得ることはなかったと思われます。詩集「智恵子抄」(1941)、「典型」「智恵子抄その後」(1950)などには光太郎の魂の孤独と悲哀と絶望が鋭く表現されています。これらは単なる抒情詩集ではありません。より厳しく生と死と人間存在の孤独を描いたものです。晩年、敗戦後の虚脱を経ての隠遁生活のなかで、あるいは、かつてのその清らかな心を病んで先に旅立っていった愛妻、智恵子の思い出だけが老詩人の魂を救い、一点のレモンのように純化されていったのかもしれません。
 光太郎の没後半世紀、「心の時代」と言われて久しい今日ですが、しかしながら「時代の心」は一層貧しくなっているかにも思えます。光太郎の「レモン」は私たちの魂を救ってくれるのでしょうか。
 第1曲は海辺の風光の中での夢幻的な魂の孤独。異界からの千鳥の声と智恵子の遠景。第2曲は峻険な山塊のように残酷に分断されていく二つの意識。魂の呻くような叫びの断章。そして第3曲、レモン哀歌。祈り。


「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」、歌い継がれていってほしいものです。

謹んで氏のご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

【折々のことば・光太郎】

大層あたたかくなりました、皆様おかはり無い事と存じます、小生も元気で毎日仕事してゐます、先日病院へまゐりましたが今月も智恵子に会はずにかへりました、興奮するといけないと思つて案じられます、春先になるといつも悪くなるやうに思ひます、


昭和13年(1938)3月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎56歳

かつて智恵子が千鳥と遊んでいた九十九里浜に暮らす、智恵子の母宛の書簡から。

「家族との面会は興奮状態を引き起こすので控えてほしい」的な指示が智恵子入院先のゼームス坂病院の医師からあったのは確かですが、それにしても光太郎、面会する頻度が極端に落ちました。変わり果てた智恵子の姿を見るにしのびなかったのでしょうか。九十九里で療養していた昭和9年(1934)には、ほぼ毎週、見舞いに訪れていたのですが……。

智恵子は心の病以外にそれ以前から罹患していた結核も進み、余命約半年です。