9月10日(日)、最後の訪問先、東京国立博物館さんに着きました。
常設展的な総合文化展の中で、光太郎の父・光雲や光太郎と交流のあった僧侶・河口慧海をメインとした「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」が開催中です。
チベットからの将来品などが中心ですが、サムネイル的に使われているのは、光雲の弟子・藤田光田作の慧海像。これが観たかったので足を運びました。河口が持ち帰った白檀に光雲が彫った釈尊像。
同趣旨の作が平成28年(2016)、慧海の出身地・大阪堺市で開催された「河口慧海生誕150年記念事業 慧海と堺展」に出たのですが、そちらは念持仏のような小さいものだったようです。
もう1点、光雲原型で、光雲三男の豊周による鋳造仏。やはり釈尊ですが、「天上天下唯我独尊」のポージングをとった誕生仏です。
制作年代がはっきりしないのですが、いい感じですね。
他は将来品の仏像等。世界史的には「仏像」というものの源流に近いと思われますが、当方、やはり日本風にアレンジされた仏像の方に親しみを感じます。
拝観後、他の展示室もざっと拝見。
第18室は「近代の美術」。同館目玉の作の一つ、光雲の「老猿」が時折出る部屋です。残念ながら「老猿」はお休み中。
しかし、光太郎の親友・碌山荻原守衛の「北条虎吉像」と「女」が出ていました。
「女」は最近の鋳造だそうですが、古色を着けての仕上げ。
石膏原型からの3D計測によって作られたそうで、今後、ブロンズの鋳造はこの方式が主流になっていくのかな、と思いました。
9月12日(火)から展示替えとなり、残念ながら「女」はお休みに入っています。逆に高村真夫筆の「河口慧海師像」が新たに出ています。高村は新潟出身の画家。たまたま同じ「高村」で、光太郎等との血縁関係はありません。
「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」は10月9日(月)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
それから小生の木彫小品の事ですが誌上で紹介して下さる御厚意をありがたく存じます、小生の彫刻は数が多く出来ないので割に高く譲つてゐるので如何かと思ひますが、小品例へば蟬とか小果とかいふ類のものを百円にしてゐます、又丸額(一尺二寸位)の「シシ合ひ彫り」を百二十円位にしてゐます、やすく頒ちたいのですが手間がかかるのでどうしてもその位になります、床の間へ置くやうな所謂置物といふやうな大きさになると五百円以上になります、心ぐるしいけれどやむを得ません、
翌年、更科が発行していた雑誌『大熊座』に載った「高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布」の広告に関わります。
広告の「フシシ合ひ彫り」は「シシ合ひ彫り」の誤植。漢字では「肉」と書いて「しし」、レリーフのことですね。
広告は出したものの、昭和12年(1937)の時点では、木彫の作品はほとんど手がけなくなっていました。僅かに未完に終わった「鯉」が知られている程度です。ただし、知られざる木彫作品がどこかにひっそりと眠っている可能性も否定できません。
常設展的な総合文化展の中で、光太郎の父・光雲や光太郎と交流のあった僧侶・河口慧海をメインとした「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」が開催中です。
チベットからの将来品などが中心ですが、サムネイル的に使われているのは、光雲の弟子・藤田光田作の慧海像。これが観たかったので足を運びました。河口が持ち帰った白檀に光雲が彫った釈尊像。
同趣旨の作が平成28年(2016)、慧海の出身地・大阪堺市で開催された「河口慧海生誕150年記念事業 慧海と堺展」に出たのですが、そちらは念持仏のような小さいものだったようです。
もう1点、光雲原型で、光雲三男の豊周による鋳造仏。やはり釈尊ですが、「天上天下唯我独尊」のポージングをとった誕生仏です。
制作年代がはっきりしないのですが、いい感じですね。
他は将来品の仏像等。世界史的には「仏像」というものの源流に近いと思われますが、当方、やはり日本風にアレンジされた仏像の方に親しみを感じます。
拝観後、他の展示室もざっと拝見。
第18室は「近代の美術」。同館目玉の作の一つ、光雲の「老猿」が時折出る部屋です。残念ながら「老猿」はお休み中。
しかし、光太郎の親友・碌山荻原守衛の「北条虎吉像」と「女」が出ていました。
「女」は最近の鋳造だそうですが、古色を着けての仕上げ。
石膏原型からの3D計測によって作られたそうで、今後、ブロンズの鋳造はこの方式が主流になっていくのかな、と思いました。
9月12日(火)から展示替えとなり、残念ながら「女」はお休みに入っています。逆に高村真夫筆の「河口慧海師像」が新たに出ています。高村は新潟出身の画家。たまたま同じ「高村」で、光太郎等との血縁関係はありません。
「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」は10月9日(月)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
それから小生の木彫小品の事ですが誌上で紹介して下さる御厚意をありがたく存じます、小生の彫刻は数が多く出来ないので割に高く譲つてゐるので如何かと思ひますが、小品例へば蟬とか小果とかいふ類のものを百円にしてゐます、又丸額(一尺二寸位)の「シシ合ひ彫り」を百二十円位にしてゐます、やすく頒ちたいのですが手間がかかるのでどうしてもその位になります、床の間へ置くやうな所謂置物といふやうな大きさになると五百円以上になります、心ぐるしいけれどやむを得ません、
昭和12年(1937)11月9日 更科源蔵宛書簡より 光太郎55歳
翌年、更科が発行していた雑誌『大熊座』に載った「高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布」の広告に関わります。
広告の「フシシ合ひ彫り」は「シシ合ひ彫り」の誤植。漢字では「肉」と書いて「しし」、レリーフのことですね。
広告は出したものの、昭和12年(1937)の時点では、木彫の作品はほとんど手がけなくなっていました。僅かに未完に終わった「鯉」が知られている程度です。ただし、知られざる木彫作品がどこかにひっそりと眠っている可能性も否定できません。