昨夜、NHKさんのラジオ第2で「声でつづる昭和人物史〜賢治を語る 1」の放送がありました。

2本立ての内容で、前半は光太郎と盛岡放送局高橋忠アナウンサーとの対談「朝の訪問」から。後半は賢治実弟の宮沢清六による賢治詩「原体剣舞連」「春と修羅」の朗読でした。

「朝の訪問」、昭和24年(1949)の録音です。SNS上で花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での録音、と勘違いされている方の投稿がありましたが、盛岡放送局での録音です。おそらく、戦時中に翼賛活動に邁進していた光太郎の肉声を流すのはまかりならん、というGHQの横槍でお蔵入りになっていたものです。

久しぶりに拝聴しました。手元にカセットテープがあるのですが、カセットテープだけに再生すればしただけ劣化が進みますので、めったに再生しません。平成16年(2004)頃、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の依頼で文字起こしをし、そちらを読めば内容は確認出来ますし。

「対談」と分類していますが、相方の高橋アナウンサーは聞き手、ネタふりに徹する感じで、8:2から9:1くらいで光太郎が滔々と語りつづけています。昭和24年(1949)、数え67歳の光太郎、意外と張りのある人間的にも芯の強さを感じさせる声です。

10月30日(月)まで、聴き逃し配信があります。ぜひお聴き下さい。
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ところで、光太郎のしゃべり、あまりにも滔々としすぎていて、ちょっと違和感。「あれ、こんなんだったっけ?」的な。そこで文字起こししたものと見比べながらもう一度聴くと、だいぶ編集されていました。言い淀んだり、言い間違って言い直したりした部分は全てカットです。

例えば、こんな一節。

ええ、不自由って、もし、そういうこと言い出したら、むやみに不自由だけど、ま、あそこに住む以上は、それを織り込んであるんです。だから、もう、何ですね。平気なもんです。ま、それで、て言いますか、覚悟の上だしね。人間の不自由なんてものは、やっぱり一つの欲ですから、あのー、欲、捨てっちまえば何でもない。ただ、その、合理的な食事生活や何かって言うと差し支えるから。

オンエアされたのは赤字の部分で、「何ですね」とか「何て言いますか」、「あのー」といった間投詞的な無意味な部分はほぼすべてカットされていました。そこで会話として聴くと無駄がないため、忙しく感じます。

またそれ以外でも結構ツギハギになっていました。

前は不自由だったですよ。夜はもうほとんど本は読めなかった。で、細かい字のものは、手紙でも読めない。自分が詩を書いたりする時は、新聞紙、こう広げてね、毛筆で一寸角ぐらいの字を書く。それで字を書いた。そうしないと読めない。それから、石油ランプじゃ暗いから、炉で焚き火をしてその灯りで書いた。もう、原始生活の原始生活でしょうな。

全体にこんな感じで、話の流れを損なわない程度に編集が為されています。また、バッサリとカットされている部分も多々ありました。放送枠の関係で、仕方がないのでしょうが。

生放送を除けば、テレビ番組でもそうですね。もう10年前になりますが、渋谷のNHK放送センターさんで「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」のスタジオ収録に立ち会いました。その際は司会の井浦新さん、伊東敏恵アナ、ゲストの作家・平野啓一郎氏によるトーク、オンエアされたのは約3分の1くらいで、「この発言とこの発言の間にこういう発言もあったはずだが無くなってるなぁ、もったいない」という感じでした。まぁ、そんなものなのでしょう。

さて、聴き逃し配信、ぜひお聴き下さい。清六の朗読、それから司会の宇田川清江氏、解説の保阪正康氏のトークもなかなかのものです。

また、以前にも書きましたが、来週は「賢治を語る 2」として、「草野心平、賢治を語る わが文学わが回想」(初回放送 昭和58年=1983 8月11日 ラジオ第2)、「堀籠文之進 賢治の思い出」(同 昭和57年=1982 7月16日 FM盛岡ローカル)もオンエアされます。併せてどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あれから父の一周忌がすむと、今度は智恵子の弟の急病、つづいて死亡といふやうな事があつて寸暇なく心ならずも原稿が遅れましたし、又枚数も少くなりましたが、ともかく別封でお送りしました、遅延のおわびまで


昭和10年(1935)10月23日 宮崎稔宛書簡より 光太郎53歳

智恵子の弟」は、二本松の長沼酒造三代目を継いだ啓助。結局は家業を破産に導いてしまいました。その後は上京し、大学野球早慶戦のダフ屋や廃品回収業のようなこともやって細々と暮らしていたのですが、この月、数え39歳で窮死しました。