今日、9月1日は大正12年(1923)に起こった関東大震災からちょうど100年。
『朝日新聞』さんでは、「(関東大震災100年)帝都被災、おののく文豪たち」と題し、光太郎の名はありませんでしたが、光太郎と交流のあった与謝野晶子、室生犀星、芥川龍之介らの文章等を紹介していました。それぞれ震災時の様子が生々しく記されたもので、貴重な証言記録です。
光太郎が震災時の様子を書いたレポート類は確認出来ていません。しかし、直後には智恵子ともども震災に触れた提言を発表しています。
光太郎のものは、11月に雑誌『女性』第4巻第5号に載ったアンケート回答「アメリカ趣味の流入を防げ――帝都復興に対する民間からの要求――」、同月『報知新聞』に連載された散文「美の立場から」(『中央建築』第2巻第5号 大正13年=1924に転載)がありました。いずれも留学中には都市計画にも多大な興味を持ち、自身で建築設計も行った光太郎ならではのものです。こちらをご覧下さい。
心を病む前の智恵子の提言も、2篇確認出来ています。
まず、やはり11月の雑誌『女性』に光太郎のそれと共に載ったアンケート回答「建設の根源は此処に在り――帝都復興に対する民間からの要求――」。
期間を画して、一都市が思ひきり一掃されるとすれば、この激震の予想を、考量のすべてに入れる事はむしろ、当然すぎる事とおもふ。
首都のあらゆるものが、僅か一世紀にも満たず煙りと消え、陰惨な墓場と化するやうなミゼラブルに、今後われわれは堪へようとするのか。国が歴史を持つやうに、都市の姿にも代々の人々の、堅実な精神と叡智との堆積が聳え輝くやう、そして世紀より世紀へ、累畳(るいでう)されなければ、われわれは文明に恥づべきである。
ゴシツクやルネサンスが、永遠への、偉大な精神的観念に裏づけられる事なくして、あの優美と崇高の生ける姿を現はし得たであらうか。たとへサンマルコやサンピイトロの寺院また数々のフランスの本寺などが、われらの都に花さく夢想はしなくとも、せめてこの都をして永久に生かしめる確信によつて、すべての火は内に燃ゆべきであらう。少くともわれわれの全生命を傾けた、はるかな時代への忠実な寄与として、来るべきものを鼓舞し高め、更によき生命の胚胎の園生(そのふ)とするだけの覚悟がなくては。この考へが人々のこころに潜力となり地盤となつて、芽生えをもつ。
眼をあげて高きものへの、趣味と憧憬(どうけい)とその不撓の力とをもつて、石をとれ、岩石を彫刻せよ。剛堅にしてしかも温かい生命を蔵する石材によつて、焼け失せ蝕まぬわが首都の衣裳となさしめよ。そして山嶽の威風と優美と、森林の荘厳と軽快と、大洋の自由と勢力とを理想せよ。
如何に経済と機械と能率との問題に尽きてゐる事務的な、会社、商会、諸官省にしても、あの無味乾燥な、人をして重苦しい憂鬱の虜(とりこ)とするやうな洋風建築が、どこ迄もどこ迄も拡がつてゆく安価な木造家屋。失はれたわれらの東京の建築に、不朽のものとして真に哀惜に堪へないものが、幾何(いくら)そこにあつたであらう。恵まれない優越国の都であつた。
今日創造される都市として、必然的な基本設備である上下水道、公園、街路、運河、筑港、交通機関、種々の区画、配置、防備其の他の設計については、もとより間然されないであらう。ただけちな制限を費用をおかずに遠大を期されたい。
すべてを破滅し尽した今、われわれの偉大な理想へのよき機会を逸してはならない。建築に対する新らしい道程は開かれてゐる。急がずあせらず、自然界の生長の如く、微細に入念にそして大胆に、生命の奥底に仕事を育たしめよ。
アンケート回答と言いつつ、かなりの長文です。震災発生時、智恵子は福島の実家に帰省中で、その後も東京は大変な状況だったこともあり、しばらく帰って来ませんでした。そこで、この文章、光太郎の代筆ではとも思ったのですが、読点の打ち方など、明らかに光太郎のそれとは異なります。建築についての提言内容などが光太郎の考えともかぶっているのは、光太郎の影響と思われますが。
もう一篇、おなじく11月の雑誌『婦人之友』に載ったアンケート回答「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想――」。
おはがき延着のためたぶんもう遅れた事と存じますし、また感想をのべるとしては事件の結審までみてからのことです。尤もその刑法上の処罰の如何等のことはさして私の注意をひいてゐる問題ではありません。ただ殺人に関する同胞の心理上のある一点に、大きな疑問をもつてゐるからです。
当時としては最先端の精神科医療をうたっていた同院、その入院費用には前年に亡くなった光太郎の父・光雲の遺産が役立ちました。
『朝日新聞』さんでは、「(関東大震災100年)帝都被災、おののく文豪たち」と題し、光太郎の名はありませんでしたが、光太郎と交流のあった与謝野晶子、室生犀星、芥川龍之介らの文章等を紹介していました。それぞれ震災時の様子が生々しく記されたもので、貴重な証言記録です。
光太郎が震災時の様子を書いたレポート類は確認出来ていません。しかし、直後には智恵子ともども震災に触れた提言を発表しています。
光太郎のものは、11月に雑誌『女性』第4巻第5号に載ったアンケート回答「アメリカ趣味の流入を防げ――帝都復興に対する民間からの要求――」、同月『報知新聞』に連載された散文「美の立場から」(『中央建築』第2巻第5号 大正13年=1924に転載)がありました。いずれも留学中には都市計画にも多大な興味を持ち、自身で建築設計も行った光太郎ならではのものです。こちらをご覧下さい。
心を病む前の智恵子の提言も、2篇確認出来ています。
まず、やはり11月の雑誌『女性』に光太郎のそれと共に載ったアンケート回答「建設の根源は此処に在り――帝都復興に対する民間からの要求――」。
期間を画して、一都市が思ひきり一掃されるとすれば、この激震の予想を、考量のすべてに入れる事はむしろ、当然すぎる事とおもふ。
首都のあらゆるものが、僅か一世紀にも満たず煙りと消え、陰惨な墓場と化するやうなミゼラブルに、今後われわれは堪へようとするのか。国が歴史を持つやうに、都市の姿にも代々の人々の、堅実な精神と叡智との堆積が聳え輝くやう、そして世紀より世紀へ、累畳(るいでう)されなければ、われわれは文明に恥づべきである。
ゴシツクやルネサンスが、永遠への、偉大な精神的観念に裏づけられる事なくして、あの優美と崇高の生ける姿を現はし得たであらうか。たとへサンマルコやサンピイトロの寺院また数々のフランスの本寺などが、われらの都に花さく夢想はしなくとも、せめてこの都をして永久に生かしめる確信によつて、すべての火は内に燃ゆべきであらう。少くともわれわれの全生命を傾けた、はるかな時代への忠実な寄与として、来るべきものを鼓舞し高め、更によき生命の胚胎の園生(そのふ)とするだけの覚悟がなくては。この考へが人々のこころに潜力となり地盤となつて、芽生えをもつ。
眼をあげて高きものへの、趣味と憧憬(どうけい)とその不撓の力とをもつて、石をとれ、岩石を彫刻せよ。剛堅にしてしかも温かい生命を蔵する石材によつて、焼け失せ蝕まぬわが首都の衣裳となさしめよ。そして山嶽の威風と優美と、森林の荘厳と軽快と、大洋の自由と勢力とを理想せよ。
如何に経済と機械と能率との問題に尽きてゐる事務的な、会社、商会、諸官省にしても、あの無味乾燥な、人をして重苦しい憂鬱の虜(とりこ)とするやうな洋風建築が、どこ迄もどこ迄も拡がつてゆく安価な木造家屋。失はれたわれらの東京の建築に、不朽のものとして真に哀惜に堪へないものが、幾何(いくら)そこにあつたであらう。恵まれない優越国の都であつた。
今日創造される都市として、必然的な基本設備である上下水道、公園、街路、運河、筑港、交通機関、種々の区画、配置、防備其の他の設計については、もとより間然されないであらう。ただけちな制限を費用をおかずに遠大を期されたい。
すべてを破滅し尽した今、われわれの偉大な理想へのよき機会を逸してはならない。建築に対する新らしい道程は開かれてゐる。急がずあせらず、自然界の生長の如く、微細に入念にそして大胆に、生命の奥底に仕事を育たしめよ。
アンケート回答と言いつつ、かなりの長文です。震災発生時、智恵子は福島の実家に帰省中で、その後も東京は大変な状況だったこともあり、しばらく帰って来ませんでした。そこで、この文章、光太郎の代筆ではとも思ったのですが、読点の打ち方など、明らかに光太郎のそれとは異なります。建築についての提言内容などが光太郎の考えともかぶっているのは、光太郎の影響と思われますが。
もう一篇、おなじく11月の雑誌『婦人之友』に載ったアンケート回答「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想――」。
おはがき延着のためたぶんもう遅れた事と存じますし、また感想をのべるとしては事件の結審までみてからのことです。尤もその刑法上の処罰の如何等のことはさして私の注意をひいてゐる問題ではありません。ただ殺人に関する同胞の心理上のある一点に、大きな疑問をもつてゐるからです。
もとより、かかる事件の忌はしい事は、法律にもとるからばかりでありますまい。また動機の如何もつまりは打算の問題です。われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。
言わずもがなですが、震災直後のドサクサに紛れ、憲兵大尉・甘粕正彦が、無政府主義者・大杉栄とその妻・伊藤野枝、そして甥っ子の橘宗一少年を惨殺した事件に関わります。野枝は智恵子とほぼ入れ違いに『青鞜』メンバーとなりましたし、光太郎は大杉等の活動に理解を示し、シンパに近い立ち位置でした。
ちなみに、ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子がそれを知っていたかどうか……。
昨年ドラマ化もされた村山由佳氏の小説『風よ あらしよ』などの影響で、もう少し大杉・野枝夫妻らの殺害について各種メディアで紹介されるかと思っていましたが、そうでもありません。いわゆる朝鮮人虐殺や「福田村事件」などについてはそれなりに取り上げられていますが(どこかの知事は相変わらずだんまりを決め込むようですけれど)。
100年経っても、防災に対する意識、大災害後の心構え等、学ぶべき点はたくさんありますね。
【折々のことば・光太郎】
智恵子入院後やはり同じ容態のやうです、十日毎に病院へ会計に参りますが家族の者は面会せぬ方がよいといふのでもう二十日以上もあひません。
セツは智恵子実妹。前年、九十九里浜で半年あまり智恵子を引き取ってくれていました。九十九里へは毎週のように見舞いに行っていた光太郎ですが、この書簡にあるように「家族の者は面会せぬ方がよい」と言われ(それを免罪符にしてしまっていたような気もしますが)、ゼームス坂病院へは会計に行くだけのことが多かったのは事実です。
言わずもがなですが、震災直後のドサクサに紛れ、憲兵大尉・甘粕正彦が、無政府主義者・大杉栄とその妻・伊藤野枝、そして甥っ子の橘宗一少年を惨殺した事件に関わります。野枝は智恵子とほぼ入れ違いに『青鞜』メンバーとなりましたし、光太郎は大杉等の活動に理解を示し、シンパに近い立ち位置でした。
ちなみに、ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子がそれを知っていたかどうか……。
昨年ドラマ化もされた村山由佳氏の小説『風よ あらしよ』などの影響で、もう少し大杉・野枝夫妻らの殺害について各種メディアで紹介されるかと思っていましたが、そうでもありません。いわゆる朝鮮人虐殺や「福田村事件」などについてはそれなりに取り上げられていますが(どこかの知事は相変わらずだんまりを決め込むようですけれど)。
100年経っても、防災に対する意識、大災害後の心構え等、学ぶべき点はたくさんありますね。
【折々のことば・光太郎】
智恵子入院後やはり同じ容態のやうです、十日毎に病院へ会計に参りますが家族の者は面会せぬ方がよいといふのでもう二十日以上もあひません。
昭和10年(1935)3月22日 齋藤セツ宛書簡より 光太郎53歳
セツは智恵子実妹。前年、九十九里浜で半年あまり智恵子を引き取ってくれていました。九十九里へは毎週のように見舞いに行っていた光太郎ですが、この書簡にあるように「家族の者は面会せぬ方がよい」と言われ(それを免罪符にしてしまっていたような気もしますが)、ゼームス坂病院へは会計に行くだけのことが多かったのは事実です。
当時としては最先端の精神科医療をうたっていた同院、その入院費用には前年に亡くなった光太郎の父・光雲の遺産が役立ちました。