ラジオ放送で、光太郎の肉声が流れます。
NHKラジオ第2 2023年9月4日(月) 20:30~21:00
「朝の訪問」昭和24年11月録音 R1未放送 高村光太郎 聞き手;高橋忠アナウンサー
宮澤清六朗読「原体剣舞連」「春と修羅」
宮澤清六朗読「原体剣舞連」「春と修羅」
詩人で童話作家の宮沢賢治が亡くなって今年で90年になります。賢治本人の音声記録は残念ながら残っていませんが、縁のある人たちの言葉で宮沢賢治を偲びます。1回目は彫刻家で詩人の高村光太郎です。高村光太郎は昭和20年4月に空襲でアトリエを焼け出され、賢治の故郷・岩手県花巻市に疎開しました。昭和24年11月収録「朝の訪問」では、自分の理念や生き方に合った岩手県の土地柄や県民性について語っています。
司会 宇田川清江(元NHKアナウンサー)
解説 保阪正康(ノンフィクション作家)
今回放送されるのは、昭和24年(1949)11月18日、NHK盛岡放送局で録音された光太郎とアナウンサーの対談「朝の訪問」。録音当時には放送されず、公共の電波に乗るのはおそらく今回が初めてだろうということです。
当方は聴いたことがある、というか、カセットテープを所持しております。平成16年(2004)にNHKラジオセンターでそのオープンリールテープが発見され、カセットテープにダビングされたものが、故・北川太一先生経由で当方の元に。「文字起こしをしてくれ」とのことで。
10分あまりのものでしたが、岩手の風土や人々、食べ物などについて、「矍鑠」という年齢でもありませんが、数え67歳の光太郎、しっかりと語っています。文字に起こしたものは北川先生と当方で編んだハードカバーの『光太郎遺珠2006.4』(高村光太郎記念会)に収めてあります。
今年の第67回連翹忌の集いにもご参加下さった、NHKエデュケーショナルの方からこれを放送したい、というお話があり、その後いろいろ情報交換して参りまして、様々なことがわかりました。
まず当時これが放送されずお蔵入りになった理由。GHQの横槍が入ったらしいとのこと。昭和24年(1949)といえばまだ占領は解けて居らず、様々な場面でGHQの許可が必要な時期でした。公的には戦犯としての訴追は免れた光太郎ですが、GHQの判断としては、戦時中、日本文学報国会や大政翼賛会文化部の要職にいた光太郎を出演させるのは好ましくない、という判断だったようです。このあたり、放送と出版とではスタンスが大きく異なったようですね。中央で発行されていた雑誌等への光太郎寄稿は、終戦の翌年、昭和21年(1946)には始まっており、特に光太郎だから、という理由で削除を求められたり発禁になったりということは無かったようです。
NHKエデュケーショナルの方曰く、「当時、NHK放送会館にはGHQのCIEが入っており、放送内容に目を光らせていたことが考えられます」だとのことで。「CIE」は「Civil Information and Educational Section」。「民間情報教育局」と訳され、教育政策、教育行政の監督と指導が主な仕事だったそうですが。また、テープはある放送局員が廃棄せずに保管したため、残ったとのこと。グッジョブですね。
ちなみに戦後、光太郎の肉声が初めて電波に乗ったのは、昭和27年(1952)3月30日と思われます。この時もNHKさんの「朝の訪問」。対談相手は山形の詩人・真壁仁、録音場所は花巻温泉松雲閣でした。この前年には占領が解除となっていました。この時の録音はカセットテープやCDに収録されて市販もされていますし、最近ですとやはりNHKラジオ第2さんで平成28年(2016)に放送されたりもしています。
それからもう1点、今回の「朝の訪問」は、光太郎の対談相手(というか聞き手)が不明だったのですが、当時、盛岡放送局にいた高橋忠アナウンサーと判明しました。高橋の名は『高村光太郎全集』に2回登場します。いずれも昭和23年(1948)の日記です。1回目は放送の出演依頼で、これは光太郎が断っています。2回目は9月21日、盛岡放送局で放送された「宮沢賢治十六回忌に因みて」(『高村光太郎全集』第8巻)の件。これは光太郎本人ではなくアナウンサー(高橋?)が朗読しました。
その後の「朝の訪問」録音時の昭和24年(1949)は日記の大半が失われています。また、賢治の名は出て来ませんが、まぁ、賢治を含む岩手の人々、ということで位置づけるようです。
さらに9月11日(月)には、「賢治を語る 2」として「草野心平、賢治を語る わが文学わが回想」(初回放送 昭和58年=1983 8月11日 ラジオ第2)、「堀籠文之進 賢治の思い出」(同 昭和57年=1982 7月16日 FM盛岡ローカル)も予定されているそうです。
今回放送されるのは、昭和24年(1949)11月18日、NHK盛岡放送局で録音された光太郎とアナウンサーの対談「朝の訪問」。録音当時には放送されず、公共の電波に乗るのはおそらく今回が初めてだろうということです。
当方は聴いたことがある、というか、カセットテープを所持しております。平成16年(2004)にNHKラジオセンターでそのオープンリールテープが発見され、カセットテープにダビングされたものが、故・北川太一先生経由で当方の元に。「文字起こしをしてくれ」とのことで。
10分あまりのものでしたが、岩手の風土や人々、食べ物などについて、「矍鑠」という年齢でもありませんが、数え67歳の光太郎、しっかりと語っています。文字に起こしたものは北川先生と当方で編んだハードカバーの『光太郎遺珠2006.4』(高村光太郎記念会)に収めてあります。
今年の第67回連翹忌の集いにもご参加下さった、NHKエデュケーショナルの方からこれを放送したい、というお話があり、その後いろいろ情報交換して参りまして、様々なことがわかりました。
まず当時これが放送されずお蔵入りになった理由。GHQの横槍が入ったらしいとのこと。昭和24年(1949)といえばまだ占領は解けて居らず、様々な場面でGHQの許可が必要な時期でした。公的には戦犯としての訴追は免れた光太郎ですが、GHQの判断としては、戦時中、日本文学報国会や大政翼賛会文化部の要職にいた光太郎を出演させるのは好ましくない、という判断だったようです。このあたり、放送と出版とではスタンスが大きく異なったようですね。中央で発行されていた雑誌等への光太郎寄稿は、終戦の翌年、昭和21年(1946)には始まっており、特に光太郎だから、という理由で削除を求められたり発禁になったりということは無かったようです。
NHKエデュケーショナルの方曰く、「当時、NHK放送会館にはGHQのCIEが入っており、放送内容に目を光らせていたことが考えられます」だとのことで。「CIE」は「Civil Information and Educational Section」。「民間情報教育局」と訳され、教育政策、教育行政の監督と指導が主な仕事だったそうですが。また、テープはある放送局員が廃棄せずに保管したため、残ったとのこと。グッジョブですね。
ちなみに戦後、光太郎の肉声が初めて電波に乗ったのは、昭和27年(1952)3月30日と思われます。この時もNHKさんの「朝の訪問」。対談相手は山形の詩人・真壁仁、録音場所は花巻温泉松雲閣でした。この前年には占領が解除となっていました。この時の録音はカセットテープやCDに収録されて市販もされていますし、最近ですとやはりNHKラジオ第2さんで平成28年(2016)に放送されたりもしています。
それからもう1点、今回の「朝の訪問」は、光太郎の対談相手(というか聞き手)が不明だったのですが、当時、盛岡放送局にいた高橋忠アナウンサーと判明しました。高橋の名は『高村光太郎全集』に2回登場します。いずれも昭和23年(1948)の日記です。1回目は放送の出演依頼で、これは光太郎が断っています。2回目は9月21日、盛岡放送局で放送された「宮沢賢治十六回忌に因みて」(『高村光太郎全集』第8巻)の件。これは光太郎本人ではなくアナウンサー(高橋?)が朗読しました。
その後の「朝の訪問」録音時の昭和24年(1949)は日記の大半が失われています。また、賢治の名は出て来ませんが、まぁ、賢治を含む岩手の人々、ということで位置づけるようです。
さらに9月11日(月)には、「賢治を語る 2」として「草野心平、賢治を語る わが文学わが回想」(初回放送 昭和58年=1983 8月11日 ラジオ第2)、「堀籠文之進 賢治の思い出」(同 昭和57年=1982 7月16日 FM盛岡ローカル)も予定されているそうです。
それぞれぜひお聴き下さい。ネットでの聴き逃し配信もあるようです。
【折々のことば・光太郎】
この療法はまづリンゲル液をももに注射してから(此は体力の補充の意味)、更に臀部へ硫黄剤の発熱作用を持つ薬液を筋肉注射し、三十九度から四十度の熱を出させます。患者は随分苦しいらしいのですが、又その為興奮を誘致して注射した夜から翌日あたりへかけてかなり看護に骨折れますけれど、発熱してくると酒にでも酔つたやうになり、それから眠ります、一日位ねむつてさめると幾分前よりも騒がぬやうになるように見うけます、
心を病んだ智恵子のため、精神医学者・諸岡存(たもつ)が行っていた「発熱療法」の様子です。硫黄剤が使われるようになる以前は、毒素の薄いマラリア菌で熱を出させていたとのこと。いずれにしてもあまり効果はなかったようです。
ちなみに先月亡くなった森村誠一氏の小説『新・人間の証明』では、この施術後の熱を下げるために智恵子に解熱作用のあるレモンを食べさせていた、という話になっています。その可能性も捨てきれません。
【折々のことば・光太郎】
この療法はまづリンゲル液をももに注射してから(此は体力の補充の意味)、更に臀部へ硫黄剤の発熱作用を持つ薬液を筋肉注射し、三十九度から四十度の熱を出させます。患者は随分苦しいらしいのですが、又その為興奮を誘致して注射した夜から翌日あたりへかけてかなり看護に骨折れますけれど、発熱してくると酒にでも酔つたやうになり、それから眠ります、一日位ねむつてさめると幾分前よりも騒がぬやうになるように見うけます、
昭和10年(1935)1月11日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳
心を病んだ智恵子のため、精神医学者・諸岡存(たもつ)が行っていた「発熱療法」の様子です。硫黄剤が使われるようになる以前は、毒素の薄いマラリア菌で熱を出させていたとのこと。いずれにしてもあまり効果はなかったようです。
ちなみに先月亡くなった森村誠一氏の小説『新・人間の証明』では、この施術後の熱を下げるために智恵子に解熱作用のあるレモンを食べさせていた、という話になっています。その可能性も捨てきれません。