一昨日から始まっていました。
日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―
期 日 : 2023年8月22日(火)~10月9日(月・祝)
会 場 : 東京国立博物館 本館1階14室 東京都台東区上野公園13-9
時 間 : 9時30分~17時00分
休 館 : 月曜日 祝日の場合は翌火曜日
料 金 : 一般1,000円 大学生500円
日本人として初めてチベット・ネパールを訪れた僧河口慧海(1866~1945)の収集品は、その大半が甥の河口正氏によって東北大学に寄贈された後、姪の宮田恵美氏の相続分が昭和48年(1973)に当館に寄贈されました。チベット旅行の収集品のみならず、遺愛の品も含まれることが特徴ですが、平成11年(1999)の東洋館開館30周年記念特集「河口慧海将来品とラマ教美術」以来、まとまった公開の機会に恵まれませんでした。
今回、客員研究員田中公明氏や同石松日奈子氏等との再調査の知見を踏まえつつ、寄贈から50年を記念してあらためてその全容をご覧いただきます。
なお、寄贈品の一部である「西蔵服の河口慧海師肖像」は本館18室「近代の美術」にて9月12日から12月10日まで展示いたします。また、本館14室会場には、図書資料として第1回チベット旅行時の収集品を東京美術学校(現東京藝術大学)で展示した際に刊行された『河口慧海師将来西蔵品図録』(明治37年・1904)もあわせて展示いたします。
河口慧海は、光雲・光太郎父子と交流がありました。大阪出身なのですが、髙村家に近い東京の本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。
下記画像では、左が光雲、右が慧海です。
さて、今回の展示。
「企画展」や「特別展」という扱いではなく、常設展示的な「総合文化展」の一環。それでも第14室がまるまるそれにあてられ、慧海関連の25点の出品物が並んでいます。
その中に、光雲作の「檀木釈迦如来立像」(昭和3年=1928)と、光雲、それから光雲三男にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の合作という扱いで、「誕生釈迦仏立像」(大正~昭和初期)。「檀木釈迦如来立像」の方は木彫と思われますし、「誕生釈迦仏立像」は鋳像でしょう。
ちなみにサムネイル的に使われている最上部の画像にある木彫の像は、昭和10年(1935)、藤岡光田作の「入蔵沙門(河口慧海立像)」。藤岡は光雲の弟子の一人です。
こりゃ、観に行かなきゃな、という感じでして、近いうちに行って参ります。皆様もぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
先日叢書中の小生作の題名を申上げて置きましたが、其後病人の容態皆あしく、ちゑ子の外父が最近重態に陥り医者からは絶望を宣告され、毎日注射で過して居る次第、小生匆忙の日を暮し、原稿の整理もまだ出来てゐません、
結局、光雲は約2週間後の10月10日、数え83年の生涯を終えました。胃潰瘍から進行した胃ガンでした。
河口慧海は、光雲・光太郎父子と交流がありました。大阪出身なのですが、髙村家に近い東京の本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。
下記画像では、左が光雲、右が慧海です。
さて、今回の展示。
「企画展」や「特別展」という扱いではなく、常設展示的な「総合文化展」の一環。それでも第14室がまるまるそれにあてられ、慧海関連の25点の出品物が並んでいます。
その中に、光雲作の「檀木釈迦如来立像」(昭和3年=1928)と、光雲、それから光雲三男にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の合作という扱いで、「誕生釈迦仏立像」(大正~昭和初期)。「檀木釈迦如来立像」の方は木彫と思われますし、「誕生釈迦仏立像」は鋳像でしょう。
ちなみにサムネイル的に使われている最上部の画像にある木彫の像は、昭和10年(1935)、藤岡光田作の「入蔵沙門(河口慧海立像)」。藤岡は光雲の弟子の一人です。
こりゃ、観に行かなきゃな、という感じでして、近いうちに行って参ります。皆様もぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
先日叢書中の小生作の題名を申上げて置きましたが、其後病人の容態皆あしく、ちゑ子の外父が最近重態に陥り医者からは絶望を宣告され、毎日注射で過して居る次第、小生匆忙の日を暮し、原稿の整理もまだ出来てゐません、
昭和9年(1934)9月27日 井上康文宛書簡より 光太郎52歳
結局、光雲は約2週間後の10月10日、数え83年の生涯を終えました。胃潰瘍から進行した胃ガンでした。