新刊です。

父、高祖保の声を探して

2023年8月15日 宮部修著 思潮社 定価1,800円+税

昭和前期の抒情詩 いま ここに
 蛾は/あのやうに狂ほしく/とびこんでゆくではないか/みづからを灼く 火むらのただなかに/わたしは/みづからを灼く たたかひの/火むらのただなかへ とびこんでゆく/あゝ 一匹の蛾だ(「征旅」)
 「わたしは「征旅」の中に父の唯一の声を聞き出すことが出来た。これが本書の執筆動機なのだ。わたしはあえて「征旅」を父の辞世の詩と判定した。」(「おわりに」)

 堀口大學に『雪』の詩人と評され、ビルマに戦没した高祖保。その抒情詩の世界を元新聞記者の85歳の息子が精緻に辿る。出征直前の詩「征旅」に響く声とは――肉親ならではの渾身の評伝。
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目次
 はじめに
 第一章 詩人、高祖保の肖像
  幼年時代の苦悩
  ゆるぎない人間関係
  編集者魂
  詩の限界はどこまで広がるか
  エピグラフの効果
  詩と長歌の間に
  横書きの効果
 第二章 父の声
  第一詩集『希臘十字』 モダニズムにとりつかれて
  第二詩集『禽のゐる五分間写生』 詩に俳味をとりこむ
  第三詩集『雪』 「礼儀正しさ」
  第四詩集『夜のひきあけ』 戦火のもと誕生した生命
  追悼全詩集『高祖保詩集』収録の未刊詩集『独楽』 父の詩の新展開
  『独楽』の巻頭に突如、現れた詩「征旅」について
  辞世の詩 達観の八行、強烈なリズム
 おわりに
 年譜


高祖保(明治43年=1910~昭和20年=1945)は、岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)に生まれ、父の死後、9歳で母と共に母の実家のあった滋賀県彦根に移り住みました。旧制中学時代から詩作に親しみます。國學院大學師範部を卒業し、横浜で叔父の経営する貿易会社に入社、のち、社長となったものの、昭和19年(1944)に出征し、翌年にはビルマ(ミャンマー)で戦病死しています。

昭和初め、高祖の個人雑誌に近かったという『門』に、確光太郎は2回寄稿しています。

最初が創刊号(昭和3年=1928)に載った詩「その詩」。
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   その詩

その詩をよむと詩が書きたくなる。
その詩をよむとダイナモが唸り出す。
その詩は結局その詩の通りだ。
その詩は高度の原(げん)の無限の変化だ。
その詩は雑然と並んでもゐる。
その詩は矛盾撞着支離滅裂でもある。
その詩はただ奥の動きに貫かれてゐる。
その詩は精算以前の展開である。
その詩は気まぐれ無しの必至である。
その詩は生理的の機構を持つ。
その詩は滃然と空間を押し流れる。002
その詩は転落し天上し壊滅し又蘇る。
その詩は姿を破り姿を孕む。
その詩は電子の反撥親和だ。
その詩は眼前咫尺に生きる。
その詩は手きびしいが妙に親しい。
その詩は不思議に手にとれさうだ。
その詩は気がつくと歩道の石甃(いしただみ)にも書いてある。

昭和2、3年(1927、1928)頃が、光太郎の文筆が最も旺盛だった時期で、まさにその時期の作。光太郎の詩論的なものもよく表されています。高祖はこの詩を受けとって感激し、座右に近い形にしていたとのこと。

さらに、同誌終刊号(昭和5年=1930)には「詩そのもの」という散文も寄せています。こちらも散文詩のような趣で、いい文章です。

 ヸタミンは抽出出来る。生命そのものは抽出出来ない。生命はいつでも物質にインカルネイトする。詩そのものの抽出も亦不可能である。詩はいつでも素材にインカルネイトする。真の詩人は、いかなる素材、いかなる思想をも懼れない。詩が生命そのものの如き不可見であり又遍在である事を知るからである。第二流の筆技詩人のみ、詩の為に素材を懼れ、詩に求む可きは詩の抽出なりと思惟する。是れ生命とヸタミンとを倒錯する者に類する。

また、昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け翼賛詩集『をぢさんの詩』の編集に高祖があたりました。光太郎本人による同書の序文には「なほこの詩集の出版にあたつて一方ならず詩人高祖保さんのお世話になつた事を感謝してゐる。」と記されています。平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他が出品されています。
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さて、前置きが長くなりましたが、本書は高祖の子息・宮部修氏(おん年85だそうで)のご執筆。昨年、土曜美術社出版さん発行の雑誌『詩と思想』が高祖の特集を組み、そちらに寄稿されていた、高祖の顕彰に当たられている清須浩光氏にいろいろご質問等させていただいたところ、清須氏から宮部氏に当方が紹介されたようで、宮部氏から直々に届きました。感謝に堪えません。

当方、高祖の詩は、手元にあるいくつかの詞華集や古雑誌(光太郎作品が掲載されているもの)にたまたま載っていた何篇かを読んだだけで、その全貌的なものは存じませんでした(光太郎オマージュの詩もあって微笑ましい感じでした)。で、本書にかなりの作品を掲載、また、宮部氏による的確な解説や考察が為され、その変遷の様も知ることができ、なるほど、こういう詩人だったか、と思った次第です。光太郎には書き得ない、透徹した美しい言葉を紡ぎ(ある種、難解な部分はあって、それは宮部氏もご指摘なさっていますが)、もっと広く世に知られるべき詩人だな、と存じました。

高祖は昭和20年(1945)、出征したビルマで戦病死。光太郎がいつその死を知ったか不明ですが、翌昭和21年(1946)には追悼文を書き、その死を惜しんでいます。その頃の光太郎は花巻郊外旧太田村の山小屋で独居中。当初は友人知己を呼んで岩手の山村に文化部落を作る、昭和の鷹峯だ、というような無邪気な夢想もあったのですが、徐々に自らの戦争責任への内省が進み、「わが詩をよみて人死に就けり」という心境に達します。その裏には、高祖ら、交流のあった人々の戦死を知ったことも大きく影響していたのではないかと思われます。

さらに本書では、光太郎以外に堀口大学、岩佐東一郎、田中冬二、井上多喜三郎、百田宗治らとの交流についても。光太郎も草野心平・尾崎喜八等の系統とは別に、これらの人々ともつながりがあって、そうした部分でも興味深く感じました。

といううわけで、ぜひ、ご購読下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさんの健康は目に見えてよくなつたやうに見うけ、喜びました。身体がよくなれば自然と頭の方もよくなる事かと考へます。御看護の御苦労をお察し申上げます。皆様のお心づくしを忝い事に存じます。


昭和9年(1934)6月29日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心の病の療養のため智恵子を預けた九十九里の智恵子実母宛。「健康は目に見えてよくなつた」は結核性の疾患の方。残念ながら「身体がよくなれば自然と頭の方もよくなる事」は叶いませんでした。