新聞記事から2件ご紹介します。

まず『宮崎日日新聞』さん、一昨日の一面コラム。

くろしお    コメ愛着

 1924年5月、医学留学の途中でドイツのミュンヘンにいた歌人斎藤茂吉は「夕ひとり日本飯くふ」の詞(ことば)書きを添えて歌を詠んでいる。「イタリアの米を炊(かし)ぎてひとり食ふこのたそがれの塩のいろはや」。
 連日の洋食に飽き、ようやく手に入れたコメ。しかし「?(か)みあてし砂さびしくぞおもふ」と続けて詠んでおり味や食感は日本と少し違ったのではないか。「コメを選んだ日本の歴史」(原田信男著)によると、望郷のさびしさはコメによってさらに増幅したようだ。
 また米国を経てロンドン・パリに留学した経験を持つ詩人の高村光太郎は肉食を謳歌(おうか)した。しかし56歳となった1939年「米のめしの歌」という詩で「米のめしくひ 味噌汁食べて、われらが鍛えた土性骨(どしょうぼね)。われらのいのち 米のめし」とうたい、コメを絶賛している。
 確かに今も外国を旅した人から「苦労したのは食事。日本のコメが恋しかった」という話はよく聞く。パンや肉食を好む人も年齢を重ねてコメ食になったという話も珍しくない。長年培われた食習慣は食の志向を決定づける。食が多様化した現在も日本人のコメへの愛着は信仰に近いといえそうだ。
 ただ2022年度の食料自給率がカロリーベースで前年度と同じ38%、生産額ベースで5ポイント低下の58%と聞くと、コメを中心とする日本の食が危ういと心配する。先進国では最低水準。輸入に頼らず食を守るには本県のような生産基盤の強化が求められよう。

引用されている「米のめしの歌」は、光太郎生前には活字になったことが確認できていない作品です。『高村光太郎全集』には、残された草稿から採録されました。
003
   米のめしの歌004

      一
  茶わんもつのは  ひだりの手。
  箸をもつのは   みぎの手。
  米のめしくひ   味噌汁たべて、
  われらが鍛へた  土性骨。
  低きに居り    高きに住む。
  われらのいのち  米のめし。

      二
  朝日出るのは   野のひがし。
  夕日しづむは   山のにし。
  田植 草とり   稲こきをへて、
  りつぱに仕上げた 倉の米。
  粒々なほ     辛苦のあと。
  われらのいのち  米のめし。

      三
  秤もつのは    みぎの手。
  枡をもつのは   ひだりの手。
  神代ながらの   瑞穂の国は、
  八千万石     民の汗。
  たのむに足り   くへど飽かぬ。
  われらのいのち  米のめし。

草稿の欄外には、「国民歌第二試作」の文字が見えます。「国民歌」は、「文部省撰定日本国民歌」。日中戦争がすでに激化していた昭和13年(1938)、当時の文部省が「日本国民歌運動」の展開を開始しました。

これに先立つ昭和11年(1936)には、日本放送協会大阪中央放送局がラジオ番組「国民歌謡」の放送を開始しており、光太郎作詞の「歩くうた」(昭和15年=1940)も後にラインナップに組み込まれ、ヒットします。国としても同様の運動に本腰を入れ始めたのでしょう。文部省社会教育局による「日本国民歌運動」の主旨は、次のようなものでした。

 文部省に於きましては今般日本国民歌六篇を制定して之を公にすることになりました。我国に於ては現在遺憾乍ら国民の各層を通じて唱和すべき国民の歌と称すべきものが乏しいのでありまして、一段と国民的意識を振起す可き此の国運の大躍進期に際しては殊に其の思ひを深くするのであります。国民歌は一切の国民生活の基調をなす清純雄渾な国民的感情の表現でなければなりません。かゝる歌曲こそ国民の心を一に融和せしめその情操を高め志気を鼓舞するものであります。此度予定せられたる六篇はかゝる趣旨に基き我が国伝統の精神、理想、風物、生活等に取材して制作せられたるものでありまして之に携られた作詞家、作曲家の努力により何れも私共の希望を満たすものを得ました事は喜びに堪へぬ処であります。之が国民の凡てに唱和せられるに至る事を願ふ次第であります。尚文部省に於ては今後も此の企てを継続致すつもりでありますが、之が我が国の音楽文化を向上し、国民的情操の涵養に資する所とならば幸せあります。
  (『青年と教育』第四巻第三号 昭和14年(1939)3月)
 
携られた作詞家」の一人、斎藤茂吉が昭和13年(1938)12月2日に書いた日記には、以下の記述があります。

文部省ノ池崎参与官ノ所ニ行クト、「国民歌」ノ歌詞ヲ作ツテクレ、北原白秋、佐藤春夫、高村光太郎、茅野雅子、土岐善麿ノ諸君と一シヨ也。

おそらく光太郎にもほぼ同じ頃に依頼があったものと考えていいでしょう。これに応え、光太郎はおそらく二篇の詩を書き上げ、光太郎と組むことになった相棒の作曲家・箕作秋吉に送りました。一篇は「こどもの報告」。そしてもう一篇が「米のめしの歌」です。

このうち、「こどもの報告」の方が採用され、箕作が作曲。楽譜が出版されたり、レコード化されたりしました。
005
    こどもの報告

      一
  めがさめる、とびおきる。
  晴れても降つても、一二三。
  朝のつめたい水のきよさよ。
  こゝろも、からだも、はつらつ。
  お父さまお早うございます。
  お母さまお早うございます。
  みんなもお早う。
  テテチー テテチー
  テタテ チト テタタ ター
  かしこきあたりを直立遙拝。
  それからご飯だ、ああうれし。
  かうしてぼくらのその日がはじまる。
  その日がはじまる。

      二001
  日がくれる、戸をしめる。
  勝つても負けても、ジヤンケンポン。
  夜のたのしいうちのまとゐよ。
  こゝろも、からだも、のびのび。
  お父さまおやすみなさいませ。
  お母さまおやすみなさいませ。
  みんなもおやすみ。
  タタタタ  タテタテ チー
       チテチテ  タテタト ター
  お国のまもりへ直立敬礼。
  それからお寝まき、ああらくだ。
  かうしてぼくらのその日がをはるよ。
  その日がをはるよ。

で、「米のめしの歌」の方はボツ。先述の文部省の趣意では「文部省に於ては今後も此の企てを継続致すつもり」とあったのが、「こどもの報告」を含む第一弾がどれも不評だったためではないかと推定されます。

太平洋戦争開戦前から、既にこうした翼賛詩を書いていた光太郎ですが、まだ真珠湾攻撃以前は国民の心を荒廃から救う、的な意図がメインでした。

『読売新聞』さんから。このところ、同紙では「わたしが見た戦争 戦争投書アーカイブ」として、戦前戦後の投書欄に載った読者投稿を時折再掲しています。下記は6月に紙面に掲載されたようですが、最近、ネット上にもアップされました。終戦翌月の投稿ですね。

進駐軍から貰った煙草の包装に魅入られる…日米の力の差痛感(1945年9月)

 道案内をしてやった進駐軍の兵士からアメリカ煙草を貰った。家に帰って秋窓の灯の下でその外装を眺めている中、次第に私はその豪奢な色彩に魅入られ、何か永い間の飢涸が醫されてゆくような感慨に浸った。それから改めて復員の友人に貰った「ほまれ」の袋をとり出し、これとそれとを引きくらべながら、ここにも懸絶する日米物力の差を見て、今さら愁然たる吐息をついた。
   忘れもせぬ昭和十六年十二月八日。その日開催された中央協力会議の席上で、詩人高村光太郎氏は「全国の工場に美術家を動員せよ」と提言し「健康や精神生活は身辺日常の美の力に培れることを看過すべからず。この美を欠くとき人心は荒廃する」と、いみじくも喝破されたのであったが、やんぬる哉、この提案は、美の何たるかを解せる官僚共によって、全面的な実現を封じられてしまった。
 「無用の用」を抹殺し、美を蔑ろにした結果は、戦時中、恐るべき人心の荒廃となって覿面に現われ、今なほ満目の焦土はこの世の飢餓地獄と化しつつある。この痛烈な現実的証跡を省るなら、せめて専売局よ、殺伐たる「みのり」の袋に色彩を点ぜよ。せめて運輸省よ、客車を明るうして標語ならぬ本格的美術ポスターを掲げてくれ。然らずんば、煙草の外装ひとつからも無批判的な外国文化心酔の傾向が、不幸な劣等感を助長しつつ、やがて滔々と始まるであろうかも知れぬのである。(1945年9月30日)

「中央協力会議」は、大政翼賛会の主催で、地方代表、各界代表の議員を選定、それらを一堂に集め、とりあえず下意上達の姿勢を見せ、国民の士気を高揚しようと始めたものです。光太郎も各界代表の議員(岸田国士の推薦で就任)として、昭和15年(1940)12月の臨時協力会議、翌年の第一回会議に出席し、発言しています。しかし、投稿にある昭和16年(1941)12月8日の第二回会議は、ちょうど開戦の日と重なったため、議員が集められたものの、それどころではなく流会となりました。

したがって、投稿の「詩人高村光太郎氏は「全国の工場に美術家を動員せよ」と提言」は実際には行われなかったのですが、そのあたりの経緯は戦中戦後の混乱期なので、投稿者もわからなかったのでしょう。実際には行われなかった提言ですが、会議に先立ち、こんな提言をするというのは報道されており、投稿者はそれを読んだのだと思われます。

工場に“美”を吹込め 高村氏・美術家の新奉公を促す

 国民士気の源泉は健康な精神生活にある、しかも健康な精神生活は身辺日常の健康美の力に培はれてゐることを見逃す事が出来ない、しかも戦ひが長期になれば人心がともすれば荒廃するからこれを緩和し同時に工場に働く産業戦士の頭を精神的な方向に向けるために美術家を総動員して大工場の食堂、休憩室、合宿所、病院などの設計に合理的な美を与へるばかりでなく壁面彫刻や■■をどしどし活用すべきである、一方いまのやうな時局は絵だけかいてゐてよいのだらうかとの美術家たちの気迷ひを一掃して明確な方向を示すことにもなると考へてゐる

昭和16年(1941)12月5日の『大阪毎日新聞』から採りました。「■」は活字が潰れ、判読不可能でした。

やがて太平洋戦争の敗色が濃厚となるにつれ、「国民の心を荒廃から救う」的な光太郎の意図は、変容していきます。すなわち、「滅私奉公」→「尽忠報国」→「挙国一致」→「七生報国」。

下記は大戦末期の、特攻隊を讃美する詩。『高村光太郎全集』では、やはり初出掲載誌不詳で残された草稿から採録していましたが、数年前、初出誌『陸軍画報』第13巻第2号(昭和20年=1945 2月1日)を入手しました。
006
同誌、「特輯・全軍特攻」と銘打ち、特攻各隊の戦果や、散華した隊員達の遺詠なども載せています。
001 007
粛然とした気持にさせられます。しかし、彼らを無条件に「英霊」と讃えるのでもなく、逆に「犬死に」とディスるのでもなく、こうした悲劇がくり返されることの無いように、と考えて行動していくのが、現代に生きる我々の使命なのではないかと存じます。

【折々のことば・光太郎】

昨日午后二時に無事帰宅しました。今度はいろいろ御世話様に相成り御礼の申様もありません、斎藤さん御夫婦にも何卒よろしくお伝へ下さい。 長い間ちゑ子を中心に生活してゐたため、今ちゑ子の居ない此の家に居るとまるで空家に居るやうな気がします。病気のちゑ子がふびんでなりません。どうぞよろしく御看護願ひ上げます。


昭和9年(1934)5月9日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心を病んだ智恵子、もはや自宅での看護は不可能、と、千葉九十九里浜に移り住んでいた智恵子の母・センの元に預けます。智恵子がかつて「空が無い」と評した東京ではなく、自然豊かな九十九里浜で、母親や妹夫妻(斎藤さん御夫婦)に囲まれて暮らすことで、恢復を願ったのでしょう。

シニカルな見方をすれば、智恵子を棄てた、とも云えるかも知れませんが、そこまでは云いたくないところです。