2泊3日の旅で、宮城県に行って参りました。レポートいたします。

8月8日(火)、自宅兼事務所から愛車を北に向け、出発。途中、石巻のお寿司屋さんで2年半ぶりにがっつり寿司を食べ、牡鹿郡女川町へ。
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こちらも2年半ぶりに、トレーラーハウスのホテル・エルファロさんに宿泊。
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翌8月9日(水)が、第32回女川光太郎祭でした。昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月三陸沿岸を旅した中で、女川にも立ち寄ったということで、平成4年(1992)から光太郎を顕彰するために開催されているイベントです。コロナ禍のため、4年ぶりの通常開催となりました。

午前10時、平成3年(1991)に建立され、翌年からの女川光太郎祭開催のきっかけとなった、光太郎文学碑へ献花。
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平成23年(2011)の東日本大震災ではこの碑も倒壊し、碑の建立に奔走された貝(佐々木廣)氏も津波に呑まれて亡くなりました。

震災後、約10年間、倒れたままの状態でしたが、令和2年(2020)には再建。しかし、碑面には津波の傷跡が生々しく残っています。
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刻まれている短歌(海にして……)と詩「霧の中の決意」は、光太郎の筆跡を使いましたが、紀行文「三陸廻り」は光太郎の自筆稿がが残っていなかったので、当会顧問であらせられた北川太一先生が書かれました。
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その北川先生も、碑の再建を見ることなく亡くなられました。

そこで、光太郎本人、貝(佐々木)廣氏、北川先生と、それぞれに思いを馳せながら、献花させていただきました。

ちなみに碑と同じ敷地内には、津波で横倒しになった旧女川交番が震災遺構として保存されています。
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そちらの説明パネルには、かつての女川町を描いた貝(佐々木)廣氏のスケッチも。
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さて、午後2時、文学碑近くのまちなか交流館さんで、式典。
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前座として当方の記念講演。コロナ禍前から、光太郎の生涯を少しずつご紹介していたのですが、今回は最晩年の話をさせていただきました。

続いて主催の女川光太郎の会・須田勘太郎会長のご挨拶。さらに先程の献花の様子を動画で投影いたしました。
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メインアクトは、町内外の方々による、光太郎詩文の朗読。
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ギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏を務められ、北川先生が高校教諭でいらした頃の教え子の方も朗読をなさいました。
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オペラ歌手・本宮寛子さんによるアトラクション演奏。
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須田善明町長、そして貝(佐々木)廣氏の奥様・英子さんのご挨拶。
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仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さっています。

 4年ぶりに光太郎祭 朗読や生演奏、ファンらがしのぶ 宮城・女川

 戦前に宮城県女川町で紀行文や詩を残した詩人の彫刻家高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、同町まちなか交流館であった。新型コロナウイルスの影響で中止が続き、4年ぶりの開催。県内外からファンら約30人が参加した。
 県内や秋田県、東京の中学生から大人まで10人が朗読。ギターの生演奏に合わせ、二本松市出身の妻智恵子への愛をうたった「レモンの哀歌」や「あどけない話」などを感情を込めて披露した。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が講演し、作家太宰治の実兄で青森県知事だった津島文治が光太郎に制作を依頼したという彫像「乙女の像」について解説。「制作時、肺結核になったが、助手の力を借りて完成させた。多くの人に愛される作家として最期を迎えた」と話した。
 光太郎は1931年に女川を訪れ、数々の詩歌などを残した。光太郎祭は地元有志らが92年から開催している。
 光太郎の会の須田勘太郎会長は「毎年8月9日に集い、先人の思いをつないでいきたい」と語った。
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無事閉会し、近くの中華料理店で打ち上げ。
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志を同じゅうする人々が集えることのありがたさを噛みしめました。4月の連翹忌碌山忌などもそうでしたが。

こちらの催しも、末永く続くことを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

先日訃報をいただいた時は実に驚きました、生前宮沢賢治さんとゆつくりお話をし合ふ機会もなく過ぎてゐましたが此の天才といふに値する人を今失ふ事は小生等にとつて云ひやうもなく残念な事でした、


昭和8年(1933)9月29日 宮沢清六宛書簡より 光太郎51歳

生前に一度だけ会った、しかしその才能を高く評価していた宮沢賢治が没したのは9月21日。光太郎の13歳年下でしたので、数え38歳での早世でした。

その2年前、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯に来るということで、賢治は光太郎に花巻へも立ち寄って、再会したいと希望していましたが、それは果たせませんでした。おそらく光太郎は三陸への行き帰りも月に一便だけの東京~三陸間の汽船を使ったと思われ、その都合もあったのではないかと思われますし、光太郎の三陸旅行中に智恵子の心の病が顕在化し、早く帰ってこいと云う連絡でもあったのではないでしょうか。