4年ぶりの通常開催です。
期 日 : 2023年8月9日(水)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料
昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月、三陸沿岸を旅しました。
そこで、偉人が訪れた町である、ということで、女川町に四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)、地元ご在住の貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。
翌年、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力された、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。
その後、同様の形式で女川光太郎祭が連綿と続きました。北川先生のご講演も毎年恒例となり、おみ足を悪くされ、外出が困難となった平成21年(2009)まで続けられました。
平成23年(2011)3月11日、東日本大震災。女川町は20㍍もの津波に襲われ、中心部は壊滅。その津波に呑まれ、貝(佐々木)氏も還らぬ人となりました。四基あった光太郎文学碑も二基は流失、メインの碑は倒壊し、永らく倒れたままとなりました。
その年は光太郎祭どころではないだろう、と思っていたのですが、津波の被害を免れた小学校を会場に開催。貝(佐々木)氏の奥様・英子さんが遺志を継がれてのことでした。
平成24年(2012)からは仮設住宅内コミュニティスペース、仮設商店街内集会所などと会場を転々としつつも続き、北川先生もまた訪れられるようになり、さすがに以前のように長いご講演は無理となったものの、当方との対談形式や、短めのご講話といった形でお話下さいました。平成25年(2013)からは当方が講演をさせていただいておりました。
ところがコロナ禍。令和元年(2019)を最後に通常開催は見送られることとなり、関係者の方々による文学碑への献花のみが行われ続けました。この間に、倒壊した文学碑の復旧が済み、当方は東日本大震災10周年の令和3年(2021)3月11日、碑の拝見と町主催の追悼式へ出席のため、行って参りました。
そして、今年。女川光太郎祭、四年ぶりの通常開催となります。
午前10時から復旧した文学碑への献花。碑が倒れていた10年間は光太郎祭会場で碑の写真に献花していましたが、碑そのものへの献花となります。
午後2時からは碑近くのまちなか交流館さんで式典系。町内外の方々による光太郎詩文の朗読(「風にのる智恵子」「牛」「あどけない話」「レモン哀歌」「火星が出てゐる」「あの頃」「人に」「三陸廻り(抄)」)、おそらくアトラクション的に音楽演奏、それから当方の講演も復活します。今年は光太郎の最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作、そして逝去あたりの話をさせていただきます。
ご興味のおありの方、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
ちゑ子はどうも頭が悪くて一寸心配です、神経を痛めてゐるのでまづ気ながに療養する外ありません、年齢から来る症状かとも思ひます、
昭和6年(1931)の光太郎三陸廻り中に、誰の目にも顕在化した智恵子の心の病。光太郎、この時点ではまだ更年期障害の昂進、程度の認識で居たようです。
昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月、三陸沿岸を旅しました。
そこで、偉人が訪れた町である、ということで、女川町に四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)、地元ご在住の貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。
翌年、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力された、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。
その後、同様の形式で女川光太郎祭が連綿と続きました。北川先生のご講演も毎年恒例となり、おみ足を悪くされ、外出が困難となった平成21年(2009)まで続けられました。
平成23年(2011)3月11日、東日本大震災。女川町は20㍍もの津波に襲われ、中心部は壊滅。その津波に呑まれ、貝(佐々木)氏も還らぬ人となりました。四基あった光太郎文学碑も二基は流失、メインの碑は倒壊し、永らく倒れたままとなりました。
その年は光太郎祭どころではないだろう、と思っていたのですが、津波の被害を免れた小学校を会場に開催。貝(佐々木)氏の奥様・英子さんが遺志を継がれてのことでした。
平成24年(2012)からは仮設住宅内コミュニティスペース、仮設商店街内集会所などと会場を転々としつつも続き、北川先生もまた訪れられるようになり、さすがに以前のように長いご講演は無理となったものの、当方との対談形式や、短めのご講話といった形でお話下さいました。平成25年(2013)からは当方が講演をさせていただいておりました。
ところがコロナ禍。令和元年(2019)を最後に通常開催は見送られることとなり、関係者の方々による文学碑への献花のみが行われ続けました。この間に、倒壊した文学碑の復旧が済み、当方は東日本大震災10周年の令和3年(2021)3月11日、碑の拝見と町主催の追悼式へ出席のため、行って参りました。
そして、今年。女川光太郎祭、四年ぶりの通常開催となります。
午前10時から復旧した文学碑への献花。碑が倒れていた10年間は光太郎祭会場で碑の写真に献花していましたが、碑そのものへの献花となります。
午後2時からは碑近くのまちなか交流館さんで式典系。町内外の方々による光太郎詩文の朗読(「風にのる智恵子」「牛」「あどけない話」「レモン哀歌」「火星が出てゐる」「あの頃」「人に」「三陸廻り(抄)」)、おそらくアトラクション的に音楽演奏、それから当方の講演も復活します。今年は光太郎の最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作、そして逝去あたりの話をさせていただきます。
ご興味のおありの方、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
ちゑ子はどうも頭が悪くて一寸心配です、神経を痛めてゐるのでまづ気ながに療養する外ありません、年齢から来る症状かとも思ひます、
昭和8年(1933)7月5日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳
昭和6年(1931)の光太郎三陸廻り中に、誰の目にも顕在化した智恵子の心の病。光太郎、この時点ではまだ更年期障害の昂進、程度の認識で居たようです。