光太郎と親交のあった、岡山県豊田村(現・赤磐市)出身の詩人・永瀬清子の伝記漫画です。

マンガふるさとの偉人 詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ

2023年3月24日 シナリオ 和田静夫 マンガ 藤井敬士 赤磐市教育委員会発行

 この度、第2期岡山県赤磐市の“マンガふるさとの偉人「詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ」”が、岡山県出身在住のマンガ家藤井敬士さんにより完成しました。
 永瀬清子(ながせ きよこ)は、明治39年(1906年)岡山県豊田村(現:岡山県赤磐市)の旧家に生まれ、高等女学校に通う頃から短歌や詩を投稿し、家庭を持った後も家事や育児をしながら詩を書き続け、昭和5年(1930年)24歳で初めて出版した詩集で注目を浴び、平成7年(1995年)に89歳で亡くなるまで詩や随筆・絵本を書き、後進の育成にも努めた「ふるさとの偉人」です。
 完成したマンガは、市内小学校で郷土学習の授業に活用されるほか、一般を対象とした永瀬清子展示室での企画展開催、図書館でのマンガ原画展開催などが計画されています。
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だいぶ前に赤磐市教育委員会さんからいただいていたのですが、市のホームページで取り上げられたら紹介しよう、と思っていたところ、なかなか情報がアップされません。

そうこうしているうちに、制作の助成に入って下さったB&G財団さんのサイトに紹介が出(ちなみにB&Gさん、広くこの「マンガふるさとの偉人」シリーズの助成を行っていて、花巻出身で親族が光太郎と関わりがあった佐藤昌介もラインナップに入っています)、さらに地元紙『山陽新聞』さんで記事になりました。

永瀬清子さん生涯を漫画に 赤磐 市教委が刊行 詩人志した逸話、功績紹介

001 赤磐市教委は市出身の詩人永瀬清子さん(1906~95年)の生涯を描いた漫画「詩人 永瀬清子物語」を刊行した。「現代詩の母」と称された創作活動とともに、女性の社会進出や後進の育成に尽力した功績を伝える。
 永瀬さんは佐藤惣之助に師事し、詩集「グレンデルの母親」「諸国の天女」などを発刊。県内では女性詩人が立ち上げた詩誌「黄薔薇(ばら)」を主宰した。
 漫画は少女期から晩年まで時代ごとに10章で構成している。投稿した短歌が入選したり、詩集を取り寄せ感銘を受けたりし、詩の道を志した少女時代の逸話を紹介。宮沢賢治を慕い、東京で高村光太郎や萩原朔太郎らと交流を深め、詩人として成長する姿を記した。
 45年に岡山に戻った後も、農作業をしながら詩作に励んだことや、詩の添削に熱心に取り組んだエピソードも取り上げた。
 B6判、104ページ。岡山市のイラストレーター藤井敬士さんが作画を担当した。B&G財団(東京)の助成を受け3千部作製。県内の図書館や学校などに配り、赤磐市内の図書館で貸し出している。
 編集に携わった市教委の白根直子学芸員は「子どもたちに将来の夢をかなえる参考になればと思い、少女時代を丁寧に描いた。漫画を通じて、永瀬さんの詩への思いを知ってほしい」と話している。


というわけで、光太郎も登場。

まずは宮沢賢治が歿した翌年の昭和9年(1934)2月16日、当会の祖・草野心平がお膳立てをし、光太郎や永瀬も出席して新宿モナミで開催され、「雨ニモマケズ」が「発見」されたという宮沢賢治追悼会のシーン。
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さらに、詩集『諸国の天女』(昭和15年=1940)への序文執筆を頼むため、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れてのシーン。
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駒込林町アトリエにて3 昭和16年(1941) 光太郎59歳このシーンでは光太郎、着物の上に白い上着を羽織っていますが、彫刻制作用のブルーズ(作業着)です。昨年でしたか、このころの光太郎やアトリエ兼住居の写真を参考のために提供して欲しいという依頼があり、右の画像(昭和16年=1941)をお送りしたのでそれが反映されたようです。残念ながらアトリエ兼住居については詳細は描かれていませんでしたが。

また、こちらも描かれませんでしたが、永瀬と光太郎との交流は光太郎最晩年まで続きました。

戦後に故郷の豊田村に戻って農業のかたわら詩作を続けた永瀬に、花巻郊外太田村で同じく農作業に従事していた光太郎から励ましの書簡が送られました。詩集『美しい国』(昭和23年=1948)の受贈礼状に曰く「松木村といふところではたらいて居られるあなたの姿まで目に見えるやうに思はれ、よんで心が慰められます 働き過ぎてからだをこはさぬやう切にいのります」。

そして光太郎が亡くなる前年の昭和30年(1955)、インドのニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨の「アジア諸国民会議」に、永瀬が婦人団体代表として参加する際には、「裏の山へ植林に行くようなお気持で行つてらつしやい。」という歓送の辞を贈りました。

かつて自らが留学のために洋行してから約半世紀。その頃と比べものにならないほど近くなった「外国」。そういった感覚が「裏の山へ……」という一言に表されているようです。

その他、錚々たるメンバーが登場。与謝野晶子、上田敏、宮本百合子、ご存命のところで谷川俊太郎氏などなど。

さて、奥付画像を貼っておきます。必要な方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

「道」無しには人は生きられません。自己の当然を信ずれば信ずる程その当然の中にいかなる道があるかを知らねばなりません。


昭和5年(1930)3月21日 真壁仁宛書簡より 光太郎48歳

「道」は詩「道程」(大正3年=1914)などの頃から光太郎が追い求めていたテーマの一つですが、昭和初期、この書簡にもある「当然」も生涯のキーワードとしてよく使われるようになっていきました。

ただ、翌年には満州事変が起こり、いわゆる十五年戦争の時代に突入します。すると、その流れも「当然」と捉えられるようになり、さらに智恵子の心の病も顕在化、光太郎にとっての最大の暗黒の時代へと入って行くことになります。