7月7日(金)、都内で「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」、「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」をハシゴして拝聴、拝見後、最終の高速バスで千葉の自宅兼事務所へ(都心から2時間近くかかる田舎です)。
入浴、仮眠後、明けて7月8日(土)、午前4時半過ぎに起床、猫と自分との朝食を作って一緒に食べ(笑)、5時半には愛車を北に向けて出発。目指すは福島県川内村です。
この日は当会の祖にして、生前の光太郎と最も親しかった草野心平を顕彰する第58回天山祭りで、光太郎と心平の交流についてべしゃくれ、ということで、行って参りました。
遅れてはいけないと思い、早く出たら早く着きまして、まず、川内村での心平の別荘・天山文庫に。以前も書きましたが、ここの建設委員には、光太郎実弟にして心平と親しかった髙村豊周も名を連ねました。
本来、こちらの広場的なスペースが天山祭り会場なのですが、途中でスマホにメールが入り、天候が怪しいのでこちらではなく、村民体育センターで、ということで、そちらに移動。
当方、天山祭り参加は6回目くらいですが、結局、天山文庫では2回だけ、あとはやはり雨天時会場での開催でした。
ステージ前の祭壇的な。心平のこよなく愛した酒がたくさん供えられていました。
開会に先立ち、アトラクション的に音楽演奏。
そして開会。
実行委員長・井出茂氏や遠藤雄幸村長らのご挨拶等。コロナ禍もあったため、お二人にお会いするのも実に久々でした。
献花。
小中一貫となった川内小中学園の子供たちによる自作詩の朗読。
かつて心平が主宰していた『歴程』同人の伊武トーマ氏による心平詩の朗読。
氏とも超久しぶりで、今回はとにかく懐かしい面々にお会いでき、嬉しゅうございました。ただ、同じく『歴程』同人で、天山祭りご常連だった新藤凉子氏が昨年亡くなったのは残念でしたが……。
ここで休憩を挟んで、当方の講演。「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題し、二人のつながり等を30分程でお話しさせていただきました。
今年、光太郎は生誕140周年(ちょっと半端ですが(笑))、ちょうど20歳年下の心平は生誕120周年。お互いに師匠・先輩←→弟子・後輩ではなく、年上の友人←→年下の友人として長いつきあいをし、さらに光太郎歿後は最晩年まで光太郎顕彰に力を注いでくれた心平について、ご紹介いたしました。
レジュメには、最近、国会図書館さんのデジタルデータリニューアルで見つけた、当方もそれまで知らなかった心平の光太郎回想から抜粋で筆写しておきました。いずれも昭和戦前の出来事で、酔いつぶれた心平が目を覚ますと駒込林町の光太郎アトリエのベッドで、ベッドの下にはゲロを吐いた跡がきれいに拭き取られ、光太郎はアトリエのソファーで冬なのに毛布一枚で寝ていたとか、心平が一時期勤めていた『東亜解放』(光太郎が斡旋?)の取材で東北に行った際、早くも1日目で取材費を呑み尽くし、光太郎に電報為替で金を送ってもらったことなど。まったく心平は豪快です(笑)。
その後、地元の子供たちなどによる、伝統芸能「西郷獅子」演舞。
やはり地元の子供たちらによる心平モチーフの紙芝居披露。
うるっと来てしまいました。
閉会後、井出氏のご自宅、小松屋旅館さんへ。
コロナ禍もほぼ落ち着いたということで、11月には心平を偲ぶ「かえる忌」の集いを復活させたいということで、その打ち合わせ。
さらにその後、村内下川内牛渕地区に新たにオープンした古民家カフェ的な秋風舎さんで昼食。
古民家・古建築好きの当方としては、アゲアゲでした(笑)。
店内には心平の書も。
さらに書庫があり、当方のべしゃくりでも触れた、光太郎が題字を揮毫した心平詩集。
さらにアガりました(笑)。
先述の通り、また秋にはお邪魔いたしますが、川内村、実にいい所です。皆様もぜひ足をお運び下さい。
以上、レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
「あの詩集」は、『猛獣篇』。人口に膾炙した「ぼろぼろな駝鳥」などを含む連作詩です。早くから心平の手で出版される計画があったのですが、結局、光太郎生前にはそれが実現せず、没後の昭和37年(1962)になって、心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで発行されました。
心平はその刊行に際し、ハードカバーのきちんとした書籍として、と云ったことも考えましたが、いやまてよ、ここは初期の『銅鑼』などの精神で、一周回ってガリ版刷りだ、と決めました。
ガリ版刷りの手製ですが(制作には当会顧問であらせられた北川太一先生もご協力)、現在、1万数千円くらいで市場に出ています。
光太郎の書いた心平詩集『蛙』や『天』などの題字もほれぼれしますが、この『猛獣篇』の心平筆跡にも心を奪われますね。
ちなみに葉書は当方手持ちのもの。絵葉書で、写真面はノートルダム大聖堂のエクステ彫刻です。
入浴、仮眠後、明けて7月8日(土)、午前4時半過ぎに起床、猫と自分との朝食を作って一緒に食べ(笑)、5時半には愛車を北に向けて出発。目指すは福島県川内村です。
この日は当会の祖にして、生前の光太郎と最も親しかった草野心平を顕彰する第58回天山祭りで、光太郎と心平の交流についてべしゃくれ、ということで、行って参りました。
遅れてはいけないと思い、早く出たら早く着きまして、まず、川内村での心平の別荘・天山文庫に。以前も書きましたが、ここの建設委員には、光太郎実弟にして心平と親しかった髙村豊周も名を連ねました。
本来、こちらの広場的なスペースが天山祭り会場なのですが、途中でスマホにメールが入り、天候が怪しいのでこちらではなく、村民体育センターで、ということで、そちらに移動。
当方、天山祭り参加は6回目くらいですが、結局、天山文庫では2回だけ、あとはやはり雨天時会場での開催でした。
ステージ前の祭壇的な。心平のこよなく愛した酒がたくさん供えられていました。
開会に先立ち、アトラクション的に音楽演奏。
そして開会。
実行委員長・井出茂氏や遠藤雄幸村長らのご挨拶等。コロナ禍もあったため、お二人にお会いするのも実に久々でした。
献花。
小中一貫となった川内小中学園の子供たちによる自作詩の朗読。
かつて心平が主宰していた『歴程』同人の伊武トーマ氏による心平詩の朗読。
氏とも超久しぶりで、今回はとにかく懐かしい面々にお会いでき、嬉しゅうございました。ただ、同じく『歴程』同人で、天山祭りご常連だった新藤凉子氏が昨年亡くなったのは残念でしたが……。
ここで休憩を挟んで、当方の講演。「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題し、二人のつながり等を30分程でお話しさせていただきました。
今年、光太郎は生誕140周年(ちょっと半端ですが(笑))、ちょうど20歳年下の心平は生誕120周年。お互いに師匠・先輩←→弟子・後輩ではなく、年上の友人←→年下の友人として長いつきあいをし、さらに光太郎歿後は最晩年まで光太郎顕彰に力を注いでくれた心平について、ご紹介いたしました。
レジュメには、最近、国会図書館さんのデジタルデータリニューアルで見つけた、当方もそれまで知らなかった心平の光太郎回想から抜粋で筆写しておきました。いずれも昭和戦前の出来事で、酔いつぶれた心平が目を覚ますと駒込林町の光太郎アトリエのベッドで、ベッドの下にはゲロを吐いた跡がきれいに拭き取られ、光太郎はアトリエのソファーで冬なのに毛布一枚で寝ていたとか、心平が一時期勤めていた『東亜解放』(光太郎が斡旋?)の取材で東北に行った際、早くも1日目で取材費を呑み尽くし、光太郎に電報為替で金を送ってもらったことなど。まったく心平は豪快です(笑)。
その後、地元の子供たちなどによる、伝統芸能「西郷獅子」演舞。
やはり地元の子供たちらによる心平モチーフの紙芝居披露。
うるっと来てしまいました。
閉会後、井出氏のご自宅、小松屋旅館さんへ。
コロナ禍もほぼ落ち着いたということで、11月には心平を偲ぶ「かえる忌」の集いを復活させたいということで、その打ち合わせ。
さらにその後、村内下川内牛渕地区に新たにオープンした古民家カフェ的な秋風舎さんで昼食。
古民家・古建築好きの当方としては、アゲアゲでした(笑)。
店内には心平の書も。
さらに書庫があり、当方のべしゃくりでも触れた、光太郎が題字を揮毫した心平詩集。
さらにアガりました(笑)。
先述の通り、また秋にはお邪魔いたしますが、川内村、実にいい所です。皆様もぜひ足をお運び下さい。
以上、レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
あの詩集の原稿はまだドラ社に廻つてゐません。 紛雑なノオトの中から集めるので、時間の少いため遅れてゐるのです。原稿さへまとまれば、印刷はぢき出来るさうです。 既に御払込の由、御気の毒に思ひますが、決して無責任な事はしません。此事一寸、
昭和2年(1927)10月31日 堀久松宛書簡より 光太郎45歳
「あの詩集」は、『猛獣篇』。人口に膾炙した「ぼろぼろな駝鳥」などを含む連作詩です。早くから心平の手で出版される計画があったのですが、結局、光太郎生前にはそれが実現せず、没後の昭和37年(1962)になって、心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで発行されました。
心平はその刊行に際し、ハードカバーのきちんとした書籍として、と云ったことも考えましたが、いやまてよ、ここは初期の『銅鑼』などの精神で、一周回ってガリ版刷りだ、と決めました。
ガリ版刷りの手製ですが(制作には当会顧問であらせられた北川太一先生もご協力)、現在、1万数千円くらいで市場に出ています。
光太郎の書いた心平詩集『蛙』や『天』などの題字もほれぼれしますが、この『猛獣篇』の心平筆跡にも心を奪われますね。
ちなみに葉書は当方手持ちのもの。絵葉書で、写真面はノートルダム大聖堂のエクステ彫刻です。