7月7日(金)、座・高円寺さんでの「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」拝聴後、高円寺駅前で牛丼を掻き込み(笑)、高田馬場経由で西武新宿線野方駅へ。概ね同じ方角でしたので助かりました。公演のハシゴで、「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」会場のBook Trade Cafe どうひんさんに。
こちらはカフェ兼古書店。古書店と云っても、ちょっと変わったシステムで「ハードカバーの書籍をお持ち下されば、書棚にあるお好きな書籍と交換させていただきます」だそうで。
その書棚がこちら。
画像右の方に、室町時代の雪村周継筆「呂洞賓図(りょどうひんず)」。店名の由来でしょう。中国の仙人・呂洞賓が瓶から小さな竜を呼び出し成長させるさまが描かれており、お客さんが持ちよった書籍が次へと広がり……という、このお店のコンセプトを表しているようです。人の多い都内だと、こんなシステムも成り立つのですね。
その書棚をそのまま大道具として使い、今回の二本立ての演劇公演が行われました。
第一部、『カラノアトリエ』、差異等たかひ子さんという方の作。こちらは短く、20分程でした。サブタイトル的にに「ポエトリーリーディング」と題され、中原中也の詩などが使われました。
光太郎智恵子とは直接関わらないものでしたが「アトリエには作家志望の男がひとり 理想の少女に「君が知りたい」と問い掛ける 少女は答える 「わからない」「だって、貴方が書いてくれないから」 アトリエにまだ産声は響かない ノートは未だに白いまま 煙草の煙で薄汚れて行く」ということで、ある意味、光太郎智恵子の関係性にも通じるなと思いました。
『智恵子抄』収録の多くの詩篇は、元々、一冊の詩集としてまとめられることを意図したものではなく、光太郎も特に智恵子の姿を書きとどめておこう、というつもりもそれほどありませんでした。智恵子が心を病んでからの「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(同13年=1938)あたりにはそういった意図も見え隠れしますが。
逆に智恵子の姿を残そう、と考えたのは、彫刻で。作品の現存が確認できませんが(おそらく空襲で焼失)、複数の「智恵子の首」が作られました。
また、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、智恵子の俤をとどめるものです。
こうした作を通し、光太郎が智恵子の姿を表現し尽くせたかどうか、などと考えさせられました。
休憩を挟んで、『トパアズ』。こちらは完全に光太郎智恵子の世界をモチーフにしたものでした。約60分の長丁場。
西瓜すいかさんという方の脚本で、ありがたいことに、コピーを希望者に無料配付というので、いただいて帰りました。
智恵子の心の病については、百家争鳴、実に様々な要因が指摘されていますが、今回の舞台では、ある意味、智恵子自身が自分に「かくあるべし」という枷を嵌めて自らを追い込んだ的な要素が濃い、という描き方だったように思われました。実家の長沼酒造の窮状などを光太郎にひた隠しにしようとする姿などが強調され、光太郎を世事に巻き込みたくない、そういった部分で光太郎に頼りたくない、という智恵子の意図が、過大な緊張や心労を呼んだというような……。
過去には「無言の圧」で光太郎がそうさせた一種のモラハラ、という解釈で書かれたものも存在しますし、芸術至上の脳天気な光太郎が智恵子の苦悩を見くびっていた、という描き方になっていたものもありました。しかし、今回の舞台は、光太郎がかなり心配して手を差しのべようとしながらも、智恵子の方でそれを拒絶し……的な設定と思われ(違っていたらすみません)、なるほど、そういう事態も充分考えられるな、と思いました。
そうした脚本のもと、末永全さん、三枝ゆきのさん、光太郎智恵子を熱演され、本当にこんなやりとりがあったんじゃないか、という気がしました。お二人はこの舞台に向け、智恵子の故郷・福島二本松や染井霊園の髙村家墓所なども訪問なさり、インスピレーションを受けられたそうで、それがかなり生かされているように感じました。
また、キャパ20ほどの狭い空間での公演ということで、大劇場にはない一体感といいますか、臨場感といいますか、そういったものも感じられました(第一部、第二部ともに)。これが大きなステージでのそれだと、絵空事感が感じられてしまうような……。
関係の皆様の、今後とものご活躍、ついでにいうなら再演なども祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
夏の暑さに閉口してゐます。訪問客と話するのも苦痛に思ひます。もすこし涼しくなつてからおめにかかりたいと思ひます。
とにかく夏の暑さを苦手としていた光太郎。夏場には執筆された原稿の数もやはり少ないようです。
まだ梅雨明けとはなりませんが、連日蒸し暑く、自宅兼事務所の猫も、このブログを書いているたった今、背後の廊下でのびています(笑)。
こちらはカフェ兼古書店。古書店と云っても、ちょっと変わったシステムで「ハードカバーの書籍をお持ち下されば、書棚にあるお好きな書籍と交換させていただきます」だそうで。
その書棚がこちら。
画像右の方に、室町時代の雪村周継筆「呂洞賓図(りょどうひんず)」。店名の由来でしょう。中国の仙人・呂洞賓が瓶から小さな竜を呼び出し成長させるさまが描かれており、お客さんが持ちよった書籍が次へと広がり……という、このお店のコンセプトを表しているようです。人の多い都内だと、こんなシステムも成り立つのですね。
その書棚をそのまま大道具として使い、今回の二本立ての演劇公演が行われました。
第一部、『カラノアトリエ』、差異等たかひ子さんという方の作。こちらは短く、20分程でした。サブタイトル的にに「ポエトリーリーディング」と題され、中原中也の詩などが使われました。
光太郎智恵子とは直接関わらないものでしたが「アトリエには作家志望の男がひとり 理想の少女に「君が知りたい」と問い掛ける 少女は答える 「わからない」「だって、貴方が書いてくれないから」 アトリエにまだ産声は響かない ノートは未だに白いまま 煙草の煙で薄汚れて行く」ということで、ある意味、光太郎智恵子の関係性にも通じるなと思いました。
『智恵子抄』収録の多くの詩篇は、元々、一冊の詩集としてまとめられることを意図したものではなく、光太郎も特に智恵子の姿を書きとどめておこう、というつもりもそれほどありませんでした。智恵子が心を病んでからの「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(同13年=1938)あたりにはそういった意図も見え隠れしますが。
逆に智恵子の姿を残そう、と考えたのは、彫刻で。作品の現存が確認できませんが(おそらく空襲で焼失)、複数の「智恵子の首」が作られました。
また、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、智恵子の俤をとどめるものです。
こうした作を通し、光太郎が智恵子の姿を表現し尽くせたかどうか、などと考えさせられました。
休憩を挟んで、『トパアズ』。こちらは完全に光太郎智恵子の世界をモチーフにしたものでした。約60分の長丁場。
西瓜すいかさんという方の脚本で、ありがたいことに、コピーを希望者に無料配付というので、いただいて帰りました。
智恵子の心の病については、百家争鳴、実に様々な要因が指摘されていますが、今回の舞台では、ある意味、智恵子自身が自分に「かくあるべし」という枷を嵌めて自らを追い込んだ的な要素が濃い、という描き方だったように思われました。実家の長沼酒造の窮状などを光太郎にひた隠しにしようとする姿などが強調され、光太郎を世事に巻き込みたくない、そういった部分で光太郎に頼りたくない、という智恵子の意図が、過大な緊張や心労を呼んだというような……。
過去には「無言の圧」で光太郎がそうさせた一種のモラハラ、という解釈で書かれたものも存在しますし、芸術至上の脳天気な光太郎が智恵子の苦悩を見くびっていた、という描き方になっていたものもありました。しかし、今回の舞台は、光太郎がかなり心配して手を差しのべようとしながらも、智恵子の方でそれを拒絶し……的な設定と思われ(違っていたらすみません)、なるほど、そういう事態も充分考えられるな、と思いました。
そうした脚本のもと、末永全さん、三枝ゆきのさん、光太郎智恵子を熱演され、本当にこんなやりとりがあったんじゃないか、という気がしました。お二人はこの舞台に向け、智恵子の故郷・福島二本松や染井霊園の髙村家墓所なども訪問なさり、インスピレーションを受けられたそうで、それがかなり生かされているように感じました。
また、キャパ20ほどの狭い空間での公演ということで、大劇場にはない一体感といいますか、臨場感といいますか、そういったものも感じられました(第一部、第二部ともに)。これが大きなステージでのそれだと、絵空事感が感じられてしまうような……。
関係の皆様の、今後とものご活躍、ついでにいうなら再演なども祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
夏の暑さに閉口してゐます。訪問客と話するのも苦痛に思ひます。もすこし涼しくなつてからおめにかかりたいと思ひます。
昭和2年(1927)8月26日 山本稚彦宛書簡より 光太郎45歳
とにかく夏の暑さを苦手としていた光太郎。夏場には執筆された原稿の数もやはり少ないようです。
まだ梅雨明けとはなりませんが、連日蒸し暑く、自宅兼事務所の猫も、このブログを書いているたった今、背後の廊下でのびています(笑)。