一昨日、昨日と、あちこち吹っ飛び廻っておりました。3回に分けてレポートいたします。

まず7月7日(金)、座・高円寺さんへ。
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渡辺えりさん作の「天使猫」「月にぬれた手」拝見以来、11年ぶりでした。

こちらでは「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~」が開催され、昼公演、夜公演と内容の異なる二本立てでしたが、夜公演の方で光太郎の「智恵子抄」取り上げられるということでお邪魔しました。
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朗読系の公演を聴くといつも感じるのですが、絶対量はともかく、普段の読書の幅が狭い当方としては、実に新鮮でした。光太郎智恵子らに関わらない書籍はあまり読む余裕がありません。公共交通機関を使って移動する際には頭を使わないで済む歴史小説、時代小説、推理小説等は読みますが、それ以外はとんと御無沙汰です。そこで、普段読まないジャンルのものを聴けて、新鮮、というわけです。

また、数十年前に読んだものも、細かな内容等は忘れていて「ああ、そういう話だったっけ」的なことも。今回で云えば「星の王子様」や太宰の短編など。

それぞれに聴きやすい、レベルの高い方々で、いい感じでした。

さて、大トリが「智恵子抄」から。今回のグループの主宰者的な葉月のりこさんという方と、大物ゲスト的な扱いなのでしょう、唐ひづるさんという方。

はじめに「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)をお二人で分担しつつ。お二人の声が一瞬重なり、奇しくもハモったところもあり、ゾクッときました。

その後、プログラムでは「僕等」(大正2年=1913)「おそれ」(大正元年=1911)となっていましたが、掛け合いのように二つの詩を少しずつ交互に朗読されるというスタイルで、斬新だな、と思いました。

どこで区切ったかまでは細かく憶えていないのですが、こんな感じでした。

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫も
無益な千万の波動をつひやすのだ
水の静けさを貴んで
静寂の価(あたひ)を量らなければいけない
僕はあなたをおもふたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり あなたがある
自分はこれに尽きてゐる
僕のいのちと あなたのいのちとが
よれ合ひ もつれ合ひ とけ合ひ
渾沌としたはじめにかへる
すべての差別見は僕等の間に価値を失ふ
あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい
出せば則すなはち雷火である
あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
僕等にとつては凡すべてが絶対だ
そこには世にいふ男女の戦がない
信仰と敬虔けいけんと恋愛と自由とがある
そして大変な力と権威とがある
人間の一端と他端との融合だ
僕は丁度自然を信じ切る心安さで
僕等のいのちを信じてゐる
そして世間といふものを蹂躪してゐる
頑固な俗情に打ち勝つてゐる
二人ははるかに其処をのり超えてゐる
それでいい、それでいい
その夢を現(うつつ)にかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない
その上
この澄みきつた水の中へ
そんなあぶないものを投げ込んではいけない
僕は自分の痛さがあなたの痛さである事を感じる
僕は自分のこころよさがあなたのこころよさである事を感じる
自分を恃たのむやうにあなたをたのむ
自分が伸びてゆくのはあなたが育つてゆく事だとおもつてゐる
僕はいくら早足に歩いてもあなたを置き去りにする事はないと信じ 安心してゐる
僕が活力にみちてる様に
あなたは若若しさにかがやいてゐる
私の心の静寂は血で買つた宝である
あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である
この静寂は私の生命いのちであり
この静寂は私の神である
しかも気むつかしい神である
夏の夜の食慾にさへも
尚ほ烈しい擾乱じようらんを惹き起すのである
あなたはその一点に手を触れようとするのか
あなたは火だ
あなたは僕に古くなればなるほど新しさを感じさせる
僕にとつてあなたは新奇の無尽蔵だ
凡ての枝葉を取り去つた現実のかたまりだ
あなたのせつぷんは僕にうるほひを与へ
あなたの抱擁は僕に極甚(ごくじん)の滋味を与へる
いけない、いけない
あなたは静寂の価を量らなければいけない
さもなければ
非常な覚悟をしてかからなければいけない
その一個の石の起す波動は
あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない
百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない
あなたの冷たい手足
あなたの重たく まろいからだ
あなたの燐光のやうな皮膚
その四肢胴体をつらぬく生きものの力
此等はみな僕の最良のいのちの糧かてとなるものだ
あなたは女だ
これに堪へられるだけの力を作らなければならない
それが出来ようか
あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない
あなたは僕をたのみ
あなたは僕に生きる
それがすべてあなた自身を生かす事だ
御覧なさい
煤烟と油じみの停車場も
今は此の月と少し暑くるしい靄との中に
何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか
あの青と赤とのシグナルの明りは
無言と送目との間に絶大な役目を果たし
はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる
僕等はいのちを惜しむ
僕等は休む事をしない
僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない
私は今何かに囲まれてゐる
或る雰囲気に
或る不思議な調節を司る無形な力に
そして最も貴重な平衡を得てゐる
私の魂は永遠をおもひ
私の肉眼は万物に無限の価値を見る
しづかに、しづかに
私は今或る力に絶えず触れながら
言葉を忘れてゐる
伸びないでは
大きくなりきらないでは
深くなり通さないでは
――何といふ光だ 何といふ喜だ
いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない

もうちょっと短いスパンで交代していたような気もしましたが、こんな感じでした。

「おそれ」は光太郎がまだ智恵子と恋愛関係となる前、これから先、経済的に苦労するに決まっている自分の生活に智恵子を巻き込みたくない、しかし、自分自身も智恵子に惹かれてしまう思いが抑え難い、という苦悩を謳ったもの。

それに対し「僕等」は、「おそれ」の1年4ヶ月後に書かれ、もはや腹を決めて智恵子と二人、手を取り合って苦楽を分かち合っていこう、愛があれば何とかなるさ! という決意の表明。

それを交互に読み合うことで、二つの心の間で揺れ動く光太郎、的なことが表されていました。面白い取り組みだと思いました。

詩の朗読は、ただ単純に詩を羅列していくだけでは、なかなか山あり谷ありの小説等のそれとは異なり、平板になってしまいがちです。山なしオチなし意味なし、ただ単に雰囲気だけ味わってもらえれば……みたいな。そうならないように、と云う工夫の意味もあったのでしょう。

終演後の出演者の皆さん。
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今後ともご活躍されることを祈念いたしております。

その後、中野区野方に移動。「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」を拝見しました。そちらは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

草津に四五日居て今別所に来ました、繭のにほひが温泉のけむりにまじつて古風です、僕につきものの雨が今も降つてゐます。雨を聴きながら湯に入るのは価千両。

昭和2年(1927)7月7日 水野葉舟宛書簡より 光太郎45歳

草津」は群馬県の草津温泉、「別所」は現・長野県上田市の別所温泉。別所の麓の塩田平に当方の亡くなった父親の実家があり、子供の頃から別所温泉にはたびたび参りました。ここ十年程の間にも何度か。