智恵子がその創刊号などの表紙絵を描いた雑誌『青鞜』がらみです。

男女共同参画サテライト講座 「尾竹紅吉と『青鞜』」

期 日 : 2019年8月31日(土)
時 間 : 14:00~15:30
         富山県富山市新富町一丁目2番3号 CiCビル3F
料 金 : 無料
対 象 : 富山市内に在住か通勤・通学している方 定員30名(申込順)
講 師 : 黒﨑 真美さん(富山国際大学付属高等学校非常勤講師)

女性が自由に振る舞うことが難しい時代の問題を、作家の記述・作品を通して学びます。


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尾竹紅吉――なかなか数奇な生涯(特に前半生)を送った女性です。本名・一枝。明治26年(1893)、富山の生まれ。智恵子より7歳年下です。父は日本画家の尾竹越堂、叔父も日本画家で尾竹竹坡。本人も画家を目指し、上京して女子美術学校に入学しましたが程なく中退、平塚らいてうに心酔し、『青鞜』メンバーに加わります。智恵子の跡を継いでその表紙絵を描いたり、記事の執筆にもあたったりしました。

ところが天性の不思議ちゃんだったようで、『青鞜』誌上に、光太郎もパンの会の会合で使っていた鎧橋のメイゾン鴻乃巣で出された、比重の違う5種類の酒を順に注ぎ美しいグラデーションを作る「五色の酒」を紹介したり、吉原の遊郭で娼妓へのインタビューを行ったり(叔父の竹坡が唆したようですが)といった、当時としては破天荒な行動の数々。さらにらいてうと同性愛的な関係にもなったそうで、やがてらいてうと結婚する奥村博史を交え、奇妙な三角関係。結局、『青鞜』を去って行きます。

のち、光太郎の親友、バーナード・リーチと共に陶芸の世界で活躍した富本憲吉と結婚(大正3年=1914)。しばらく落ち着きましたが、戦後には別れています。

同じく『青鞜』の表紙絵を描いた関係で、智恵子と面識がありました。明治45年(1912)7月の『青鞜』には、智恵子がやはり『青鞜』メンバーの田村俊子とともに開催した「あねさまとうちわ絵」の展覧会評を書いています。概ね好意的に書かれていますが、やはり智恵子に対するライバル意識があったようで、少し辛口な部分も。

 「うちわ絵」は沢山青い壁に飾られてゐた。
 六十七本だつたと思ふ。プリミチブなのが随分あつた。けれど室に入るとすぐ「うちわ絵」の色が赤と白にはつきり分れてしまつた。
 強いと思つて見ると青い色と紫が横つちよから、のぞいてゐる。そして一度どつかで見せてもらつた様な気分が、終ひまで、しつこくつき廻つてゐた。どうかすると早稲田文学の色まで引張つて来そうだつた。自分で紙を張つた「うちわ」が面白いと思つた。
 ほかに色んなのが有つたが、渋団扇もあたりまへのも、岐阜団扇も三角のも絵馬のやうな形のも始めて生れて来たやうな姿のも、どれもみな地色が筆者によつて、より以上生かされてゐたのは心持がよかつた。
 長沼氏は、いろんな玩具に趣味をもつてゐられるさうだと或る友人が聞かせてくれたのを思い出すまもなく、「うちわ絵」を見ると同時に、氏の所謂、玩具の面白味のやうな気分が出てゐるのを見つけた。勿論色彩にも。
 いつかゴオガンのノアノアを見た時、うはづつた光りの中に、氏の「うちわ絵」と同じやうな明るさを見出したことも思出された。
 とにかく「アンプレツシヨニズム」なのだともいへさうだつた。紅地にチヤンチヤン坊主を墨でかいたのと、蛇の目の傘をあねさま二人の首がさしてゐるのが面白かつた。
 どれを一本と、殊更とりたてゝ買ふ気にはならないけれど、あの「うちわ絵」みんななら買つてみたいやうに思つた。

 
また、光太郎没後に、当会の祖・草野心平が編んだ光太郎智恵子の周辺人物による回想集『高村光太郎と智恵子』(昭和34年=1959)にも、紅吉(富本一枝)の「一つの原型」という智恵子回想が寄せられました。

 或る日、田村俊子さんが、長沼智恵子さんをともなつて、散歩のついでに訪ねてみえた。私は長沼さんとは初対面である。青鞜のいつかの集りにも見かけなかつたし、『青鞜』の表紙画を描いた人としか知つていなかつた。
 (略)
 長沼さんは、薔薇の花弁でふわりと包めそうな感じの人だつた。紫の荒い矢絣の袷に、びろうどの短いコートのような上着を着物の前で無造作に合せたかたちは、なんとも淑やかで美しかつた。やわらかいからだの線、ゆたかな白色の頬にしぜんの紅みがさして、かきあわせた襟元が清潔に見えた。口数がすくなくて、じかにものをいいかけにくく、私はいちいち田村さんにうけついでもらうような話し方しか、出来なかつた。ふわつとした包み声で、唇がいつしよにものをいわずに、口の中で言葉になり、そこでまた言葉が消えてしまう、そんな、もののいい方だつた。
(略)
 帰りぎわに田村さんが、そのうち、私を長沼さんのところに連れて行くといつた。私が「そのときに、画を見せてください。」というと、
 「遊びに来てくださるのはうれしいが、画は、自分ひとりのものだから誰にも見せない。」
と、断られた。
 私の画を見て、自分の画は見せない、と平気で断る神経に、どうしたわけか私はひどく感心した。
(略)
 長沼さんは見かけよりずつと強靱なものを内にしまつていた。童女のようにあどけなく、美しく澄んだあのつぶらな眼は、おのれひとりを愛した眼である。気質も肌合もまるでちがつてはいたが、田村さんにもおなじものが感じられた。



薔薇の花弁でふわりと包めそうな感じの人」、言い得て妙です。

さて、そんな紅吉に関する講座、智恵子にも触れていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

訳語の専門的に亙るもの、例へば、返相(へんさう)(Le Profil)、肉づけ(Le Modelé)、動勢(Le Mouvement)、面(めん)(Le Plan)、半調色(Le Demi-teinte)、量(Le Volume)などといふ類の多数は、多く自分で考へて適当だと思つたものをを造り又は慣用した。

雑纂「ロダンの言葉 凡例」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

訳書『ロダンの言葉』刊行に際し、巻頭に掲げた凡例から。「動勢」などの語は彫刻用語として、現在も広く使われているようです。