今日の朝刊を広げて「ああ……」という感じでした。

野見山暁治さん死去 戦没画学生の遺作に光、美術界を先導 102歳

 抽象性の高い伸びやかな画風で戦後の美術界を先導し、戦没画学生の遺作に光を当てたことでも知られる文化勲章受章者の画家、野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)さんが22日、心不全のため福岡市の病院で死去した。102歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、東京と福岡でお別れの会を開く予定。
 福岡県の炭鉱地帯、嘉穂郡穂波村(現飯塚市)で生まれた。1943年に東京美術学校(現東京芸術大)油画科を繰り上げ卒業し、中国東北部へ出征。病気で内地送還され、終戦を迎えた。
 戦後、自由美術家協会に参加(64年退会)。52年に渡仏し、64年までパリなどで制作した。58年に「岩上の人」で具象画家の登竜門だった第2回安井賞を受賞。渡仏中に水墨画など東洋の美への関心をもち、風景などをもとに、色と形が溶け合うような抽象性の高い画風へと変化した。
 帰国後、自宅のある東京のほか、福岡の海沿いにアトリエをもち、空や海、風など、うつろう自然と向き合って制作を続けた。東京国立近代美術館など、各地の美術館で大規模個展が何度も開かれた。
 戦争体験から、戦没画学生の遺族を回って遺作を集めた画集「祈りの画集 戦没画学生の記録」(共著)を77年に刊行。その遺作を展示する美術館「無言館」(長野県上田市)の設立に、作家の窪島誠一郎さんとともに尽力した。
 東京芸術大教授などとして多くの後進を育てた。東京芸大名誉教授。00年に文化功労者、14年に文化勲章。
 日本エッセイスト・クラブ賞の「四百字のデッサン」(78年)や自伝的エッセー「いつも今日」(05年)などを出し、名文家としても知られた。
 体調を崩し、今月8日から入院していた。

■■評伝
 飄逸(ひょういつ)かつ朗らかに語り、画風も生き生きとした筆が魅力だった。しかしそこに潜む、鈍さ、重さ。102歳の人生をまっとうした野見山暁治さんは「近代」を背負い続けた画家だった。
 日本の産業化を支えた産炭地に生まれ、「すべて人工の中」で育った。美術学校を繰り上げ卒業させられ中国の戦地に向かったものの、病のため終戦は内地で迎えた。
 戦後は故郷のボタ山を描いたこともある。その後、華やかなパリで過ごし、伸びやかなタッチを獲得し、実際の風景や写真から心象とも抽象ともいえる画風を確立した。
 絵が売れることや名声には関心がなく、教員時代は多くの学生から慕われた。「無言館」に結実する戦没画学生への思いは強く、文化勲章を受けた後も「友人は戦争で亡くなったのに後ろめたい」と語った。
 晩年まで福岡県のアトリエ近くの海に潜り、活力に満ちた筆の伸びは永遠に元気なのではと思わせるほど最晩年まで衰えを見せなかった。「生き残った」身体をフルに動かした跡であり、100歳にして、絵を描くことは「こんなに楽しいものか」という境地を語っていた。
 産業化で富を生む一方、戦いや多くの矛盾を抱えた近代という時代。野見山さんは、その光と影を身をもって、色と形が溶け合う表現で示した人だった。

■■野見山暁治さんの歩み
1920年 福岡県穂波村(現・飯塚市)生まれ018
 38年 東京美術学校予科入学
 43年 同校油画科を繰り上げ卒業
 48年 自由美術家協会賞
 52年 私費留学生として渡仏(64年まで)
 58年 安井賞
 72年 東京芸術大教授に
 96年 毎日芸術賞
2000年 文化功労者に
 03年 東京国立近代美術館などで個展
 14年 文化勲章
 20年 東京メトロ・青山一丁目駅にステンドグラス
(『朝日新聞』)

直接、光太郎に関わられた方ではないのですが、当方、一度お会いしてお話を伺いました。氏は早世した荻原守衛を除いてほぼ唯一、光太郎が高く評価した彫刻家・高田博厚とパリで親しくなられ、昭和32年(1957)、高田の帰国に伴い、高田が使っていたアトリエを引き継いだ方です。そのため、高田の顕彰に力を入れている埼玉県東松山市に招かれ、平成30年(2018)に作家の堀江敏幸氏と公開対談をなさいました。その際にはおん年97歳。ジーパン姿でいらっしゃり、それがよく似合っていて舌を巻かされたのもいい思い出です。
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その前年に、鎌倉の高田のアトリエ閉鎖に伴い、そちらにあった作品や遺品類等が東松山市に譲渡されることとなり、その際にも一肌脱がれています。そこで、翌年の公開対談に繋がったようです。遺品類の中には、光太郎に関わる品も含まれていました。

また、記事にある通り、長野県上田市に開設された戦没画学生の作品を集めた「無言館」さんの設立にもご協力。この件は、昨年、日本テレビさん系で放映された「24時間テレビ45スペシャルドラマ 無言館」で描かれ、興味深く拝見しました。野見山氏の役は寺尾聰さんでした。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

この間母のなくなりました時はおこころのこもつた御てがみをいただいてあの時大変に慰められました。


大正14年(1925)10月6日 室生犀星宛書簡より 光太郎43歳

前月、光太郎の母・わかが68歳で大腸カタルのため亡くなりました。髙村家(光雲は健在)では、これを機に墓所を浅草の寺院から染井霊園に移し、墓石を新しく建立しました。これが現在も残っているものです。