2026年01月

都内での演奏会情報です。さまざまなコンテンツの用意された「都民音楽フェスティバル」の一環として開催されます。
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日本の歌・シリーズNo.4 日本のうた~歌曲集への誘い

期 日 : 2026年1月30日(金)
会 場 : 東京文化会館小ホール 台東区上野公園5-45
時 間 : 18:15開場/19:00開演
料 金 : 指定席 3,000円 学生割引(U-25):指定席 2,000円
      ハート割引(障害者手帳をお持ちの方):指定席 1,500円

曲 目 : 團伊玖磨:五つの断章 木下牧子:花のかず
      畑中良輔:八木重吉による五つの歌 山田耕筰:幽韻 別宮貞雄:智恵子抄
出 演 :
盛田麻央 Mao Morita/ソプラノ
国立音楽大学院修了。パリ・エコール・ノルマル音楽院、パリ国立高等音楽院修士課程を修了。第12回東京音楽コンクール第2位など。オペラやコンサートに多数出演。二期会会員、国立音楽大学非常勤講師。

紀野洋孝 Hirotaka Kino/テノール
東京藝術大学卒業。宗次エンジェル基金/(公社)日本演奏連盟奨学生として同大学院修士課程を修了。日本歌曲の研究で同大学院博士課程を修了。博士号(音楽)取得。日本トスティ歌曲コンクール2015第2位。令和元年度奏楽堂日本歌曲コンクール第2位。

松浦宗梧 Shugo Matsuura/バリトン
福島県伊達市出身。東京音楽大学声楽専攻卒業。新国立劇場オペラ研修所第25期修了。第36回奏楽堂日本歌曲コンクール歌唱部門 第2位、畑中良輔賞を受賞。オペラ・歌曲の分野で幅広いレパートリーを活かして活動中。声楽を菅野宏昭、阿部絵美子に師事。

森裕子 Yuko Mori/ピアノ
東京藝術大学附属高校、同大学、同大学院修了。シュトゥットガルト音大でソロと歌曲伴奏法を学ぶ。奏楽堂日本歌曲コンクール優秀共演者賞、日本音楽コンクール木下賞(共演賞)。東京藝術大学非常勤講師。日本演奏連盟正会員。
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故・別宮貞雄氏作曲の歌曲集「智恵子抄」がプログラムに入っています。おそらく全9曲「Ⅰ 人に」「Ⅱ  深夜の雪」「Ⅲ 僕等」「Ⅳ 晩餐」「Ⅴ あどけない話」「Ⅵ 人生遠視」「Ⅶ 千鳥と遊ぶ智恵子」「Ⅷ 山麓の二人」「Ⅸ レモン哀歌」が演奏されるのではないかと思われます。

歌われるのは紀野洋孝氏。実演以外にも日本歌曲の研究で東京藝術大学さんの大学院博士課程を修了なさった方ですが、その際に取り上げたのが別宮氏の「智恵子抄」だったそうです。これまでも同曲集をさまざまな機会で歌われたり、CDに組み入れたりされています。

令和元年度奏楽堂日本歌曲コンクール入賞記念コンサート。
第二回 掬月会。

CDも含め、そのほとんどの機会で伴奏を務められた森裕子氏が今回もピアノを弾かれます。同曲集、言葉を大切にしつつ抒情的なメロディーで紡がれ、また全9曲を通してのドラマティックな展開が印象的な作品です。

紀野氏からご案内を頂いたのですが、その日は先約が入っており、伺えません。代わりに、というと何ですが、皆様、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)23 『智恵子抄』第9刷

昭和18年(1943)4月20日 龍星閣 高村光太郎著
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目次
 人に             明治四十五年七月
 或る夜のこころ        明治四十五年八月
 おそれ            明治四十五年八月
 或る宵            大正元年十月
 郊外の人に          大正元年十一月
 冬の朝のめざめ        大正元年十一月
 深夜の雪           大正二年二月
 人類の泉           大正二年三月
 僕等             大正二年十二月
 愛の嘆美           大正三年二月
 晩餐             大正三年四月
 樹下の二人          大正十二年三月十一日
 狂奔する牛          大正十四年六月十七日
 鯰              大正十五年二月五日
 夜の二人           大正十五年三月十一日
 あなたはだんだんきれいになる 昭和二年一月六日
 あどけない話         昭和三年五月十日
 同棲同類           昭和三年八月十六日
 美の監禁に手渡す者      昭和六年三月十二日
 人生遠視           昭和十年一月二十二日
 風にのる智恵子        昭和十年四月二十五日
 千鳥と遊ぶ智恵子       昭和十二年七月十一日
 値ひがたき智恵子       昭和十二年七月十二日
 山麓の二人          昭和十三年六月二十日
 或る日の記          昭和十三年八月二十七日
 レモン哀歌          昭和十四年二月二十三日
 荒涼たる帰宅         昭和十六年六月十一日
 亡き人に           昭和十四年七月十六日
 梅酒             昭和十五年三月三十一日
 うた六首                         
 智恵子の半生         昭和十五年九月
 九十九里浜の初夏       昭和十六年五月
 智恵子の切抜絵        昭和十四年一月

内容的にはそれまでの版と同一ですが、昭和16年(1941)の初版以来、そのままとなっていた誤植を訂正し、全面的に改版がなされました。

かつて光太郎自筆の正誤表を挟んだ初版が市場に出たことがありましたが、これらがすべて反映されています。
智恵子抄正誤表

「智恵子抄」オマージュの作品も展示される写真展です。

UNBOUND#2

期 日 : 2026年1月24日(土)・25日(日)
会 場 : MIL gallery 渋谷区神宮前4-25-28 2F
      MIL 2nd      渋谷区神宮前4-25-29 2F  
時 間 : 1/24 12:00~21:00 1/25 9:00~11:00
料 金 : 無料

いわゆる裏原宿(ウラハラ)。圧巻の56名の作品が展示されます。MIL GallaryとMIL 2ndは隣り合わせです。どなたでもお気軽にお立ち寄りください。

主催者X投稿より

写真が好きな人も、展示は久しぶりな人も、たまたま通りかかった人も。

56人の写真家が、それぞれの「今」を持ち寄る展示UNBOUND #2 を開催します。ジャンルも、撮り方も、距離感もばらばら。だからこそ、きっと一枚くらい、自分の感覚に引っかかる写真があると思います。この展示は、僕自身が「今の写真の面白さ」をちゃんと見たくて、そして、ちゃんと誰かに届けたくてスタートしました。ありがたいことに前回は多くの人が足を運んでくれて、「来てよかった」「思ってたよりずっと良かった」そんな声をたくさんもらいました。

気負わずで大丈夫です。ふらっと入って、数枚見て、出ていくだけでもいい。でももし時間があれば、 
少しだけゆっくり見ていってください。56通りの「今」の中に、あなたの感覚と重なる一枚がきっとあります。
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昨年11月、福岡で開催されたポートレート展「Fixtyle Portrait Fukoka 8th」に、やはり「智恵子抄」インスパイアの作品で参加されたYasuyuki Ibaraki氏という方が、同一の作品を出品なさるようです。
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さすがに福岡は遠いな、と、昨年は欠礼しましたが、ありがたいことに都内での開催ということで、これは行かざぁなるめい、です。ついでというと何ですが、他にも展覧会のハシゴをして参ります。

皆様もぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)22 『詩集 大いなる日に』

昭和17年(1942)4月20日 道統社 高村光太郎著
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目次
 序 秋風辞 夢に神農となる 老耼、道を行く 天日の下に黄をさらさう 若葉 地理の書
 その時朝は来る 群長訓練 正直一途なお正月 初夏到来 事変二周年 君等に与ふ
 銅像ミキイヰツツに寄す 紀元二千六百年にあたりて へんな貧 源始にあり ほくち文化
 最低にして最高の道 無血開城 式典の日に 太子筆を執りたまふ われら持てり
 強力の磊塊たれ 事変はもう四年を越す 百合がにほふ 新穀感謝の歌 必死の時
 危急の日に 十二月八日 鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に 沈思せよ蒋先生
 ことほぎの詞 シンガポール陥落 夜を寝ざりし暁に書く 昭南島に題す

『道程』(大正3年=1914)、『智恵子抄』(昭和16年=1941)に続く第3詩集です。ほぼ全編これ翼賛詩で、前年の『智恵子抄』とのあまりのギャップは、知らない人が読んだらとても同一人物の詩集とは思えないほどといえるでしょう。

しかし、元々ここに収められた詩篇は『智恵子抄』収録の珠玉のそれと並行して書かれていたものです。戦後の詩「元素智恵子」の中では、「うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち/耳に智恵子の声をきく時わたくしは正しい」と書きました。これらの詩篇を書いていた時が「うちに智恵子の睡る時」だったのでしょう。

『智恵子抄』には実に色々な側面がありますが、そのうちの一つとして、次のような面もあったのではないかと考えます。すなわち、智恵子との日々を一冊の詩集にまとめることで、それを総括し、またそうした日々への訣別を宣言するという意味合い。

そして俗世間との関わりを極力避けて、芸術精進に生きようとした智恵子との生活が智恵子の心を病ましめたという反省、悔恨から、180度方向を転換し、自ら積極的に世の中と交わる方面に舵を切りました。もしかすると、そうでもしないと智恵子を失った空虚な自分も心を病むという危機感があったかもしれません。

そうした内面がよく表されているのが、収録されている「最低にして最高の道」(昭和15年=1940)です。戦時アトリエ前ピン

   最低にして最高の道
 
 もう止さう。
 ちひさな利慾とちひさな不平と、
 ちひさなぐちとちひさな怒りと、
 さういふうるさいけちなものは、
 ああ、きれいにもう止さう。
 わたくし事のいざこざに
 見にくい皺を縦によせて
 この世を地獄に住むのは止さう。
 こそこそと裏から裏へ
 うす汚い企みをやるのは止さう。
 この世の抜駆けはもう止さう。
 さういふ事はともかく忘れて
 みんなと一緒に大きく生きよう。
 見えもかけ値もない裸のこころで
 らくらくと、のびのびと、
 あの空を仰いでわれらは生きよう。
 泣くも笑ふもみんなと一緒に
 最低にして最高の道をゆかう。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんが毎月15日に限定10食で出品している弁当「光太郎ランチ」。今年最初の販売が行われました。
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メニューはぶり大根、揚げじゃがいもの甘辛煮、菜花のおひたし、切干大根の酢の物、卵焼き、そば粉クレープ、赤飯、芋羊羹とのこと。

そば粉をパン状にするのは光太郎がよく行っていた調理法です。他も基本的に光太郎日記等から作った料理や使った食材を参考にし、現代風にアレンジしています。メニュー考案やリーフレットの作成はやつかの森LLCさんです。

令和2年(2020)10月から販売が始まり、もう5年以上です。できうるかぎり続けていただきたいものです。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)21 『造型美論』

昭和17年(1942)1月26日 筑摩書房 高村光太郎著
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目次
 素材と造型
 造型小論
  彫刻に何を見る ミケランジエロの彫刻写真に題す 蝉の美と造型 ロダンの素描
  鷗外先生の「花子」 木彫地紋の意義 仏画賛 彫刻性について 展覧会偏重の弊 手
  能面の彫刻美 九代目団十郎の首 本面について アンドレ ドラン 彫刻十箇條
 現代の彫刻
 印象主義の思想と芸術

大正4年(1915)刊行の『印象主義の思想と芸術』、昭和8年(1933)刊行の『現代の彫刻』全文、それから共著で刊行された書籍の光太郎担当部分、さらに前年刊行の『美について』に洩れていた雑誌等に発表した評論などを集めて一冊にしたものです。

昭和18年(1943)の第四刷まで確認出来ています。物資不足が深刻化しつつあり、第四刷ではそれまでの函が無くなり、代わりにカバー装となりました。

光太郎第二の故郷・岩手花巻から。

まずは1月15日(木)発行の『広報はなまき』。毎月15日発行分には最終ページに「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」という連載が為されており、市の施設などに所蔵されている逸品の数々が紹介されています。光太郎に関しても時折取り上げられ、今号も。
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一昨年にご遺族から市に寄贈された、与謝野晶子の弟子にして主に第二期『明星』に依った歌人の中原綾子に宛てた光太郎書簡のうちの一通です。

歌人・中原綾子宛のはがき 太田村山口から発出

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。昭和20年4月の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は、同年5月、宮沢賢治の実家に疎開しました。敗戦後の同年10月には、太田村(当時)の山口地区に移住し、粗末な山小屋(現在の高村山荘)で7年間一人暮らしをしました。
 このはがきは、昭和26年3月に、光太郎が歌人・中原綾子宛てに2枚続けて出したはがきの1枚です。肋間(ろっかん)神経痛に悩まされ、1カ月ほど花巻病院長宅や温泉で療養したことが書かれています。花巻病院長とは、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房のことです。佐藤は、光太郎の花巻疎開にも尽力し、光太郎没後は財団法人高村記念会を設立。光太郎が住んだ「高村山荘」の保存と光太郎の顕彰に力を注ぎました。
 使われているのは昭和26年の年賀はがきですが、光太郎は3月に使っています。ちなみに、お年玉くじ付き年賀はがきは、昭和25年から始まりました。

◎特別展「中原綾子への手紙」
 ■会期…2月28日(土)まで
《同時開催》 ◎高村光太郎花巻疎開80年企画展「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」
 ■会期…3月31日(火)まで


記事にあるとおり、花巻高村光太郎記念館さんで特別展「中原綾子への手紙」が開催中ですが、寄贈された書簡がかなりの量なので、4期に分けての展示です。今回紹介されたものが現在出ているかどうかは不明です。

ちなみに文面は以下の通り。001

おてがみ忝くいただきました。小生今冬
は旧臘おしせまつてから肋間神経痛と
いふものにやられ、中々ひどく字も書けない
位でした。それで一カ月近く、山を不在に
して花巻病院長私宅や温泉に行つて
ゐました。山に帰つてからも痛みはまだ
治らず、雪道歩行困難なので引籠つて
ゐます。不在中の郵便物山積、整理
もつかず、又筆とるのが苦手なので爾
来諸方に御無音失礼してゐます。
御恵贈の小包はたしかに年末年始の頃
無事落手しまして、いろいろ珍らしくいた
だきましたが、発病当時の事とて、つい
其由申上げずにそのままだつたものと思へます
ツヅク

この年の光太郎は結核性の肋間神経痛に悩み、それまで行っていた農作業もほぼ放棄するほど症状が悪化していました。ただ、翌年になると小康状態を得ることになります。 「花巻病院長」は佐藤隆房。宮沢賢治の主治医で、その詩「S博士に」のモデルとしても知られています。宮沢家ともども光太郎の花巻疎開に尽力、宮沢家が昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲で全焼した後、郊外旧太田村に移るまで約1ヶ月間、光太郎を自宅離れに仮寓させてもくれました。「温泉」は隣村・湯口村(現・花巻市)の大沢温泉さんです。

同展についてはこちら。

花巻レポート 高村光太郎記念館特別展「中原綾子への手紙」他。
『広報はなまき』8月15日号。
東北地方紙記事等。

寄贈された書簡の全文を翻字し、画像や解説をつけて図録的な書籍として出版する企画が進行中です(執筆を担当しています)。2度ほどゲラの確認を致しましたが、翻字にしても解説文にしても我ながら誤字脱字が多く「バカか、お前は」と自分で自分を叱りたくなっております(笑)。wordで原稿を作成したのですが、普段使い慣れていないせいかもしれません。そちらに関してはまた改めてご紹介いたします。

さて、特別展「中原綾子への手紙」、2月28日(土)までです。同時開催の「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」ともども、よろしくお願い申し上げます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)20 『美について』

昭和16年(1941)8月20日 道統社 高村光太郎著
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目次
 詩精神 国民的美意識 芸術と国民生活 永遠の感覚 奉祝展に因みて 彫刻家の場合
 美の健康性 芸術上の良知 自分と詩との関係 肖像雑談 言葉の事 美 書について
 気について 比例均衡 美意識について 小刀の味 彫刻新人展評 一彫刻家の要求
 詩人の知つた事ではない 日本語の新しい美 七つの芸術 童謡、民謡、小唄 冬二題
 触目いろいろ 生きた言葉 触角の世界 楽聖をおもふ 日本工業美術界に望む 
 彫刻的なるもの 或る音の幻想 自刻木版の魅力 美の立場から 裸体画について 家
 彫刻鑑賞の第一歩 バーナード・リーチを送る 芸術鑑賞その他 ホヰトマンのこと
 岩石のやうな性格 ロダン逝く 芸術雑話 ガツトソン・ボーグラム先生 芭蕉寸言

さまざまな雑誌等に発表された美術評論、文芸評論の集成で、奥付に依れば『智恵子抄』と同じ日の刊行です。昭和17年(1942)8月31日の第10版まで確認できています。手持ちのものは昭和16年(1941)9月15日の2刷です。

目次部分に誤植が多く、「日本語の新しい美」は「日本語の新しい美を」と「を」が抜けていますし、「ホヰトマン」は「ホヰツトマン」、また、「触角」は「触覚」です(光太郎は昆虫ではありません(笑))。

昨日朝、NHK Eテレさんで放映の「アートシーン」で紹介され、知った次第です。
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KeMCo新春展2026「馬の跳ねる空き地」

期 日 : 2026年1月8日(木)~2月7日(土)
会 場 : 慶應義塾ミュージアム・コモンズ 東京都港区三田2-15-45
時 間 : 11:00~18:00
休 館 : 土日祝 特別開館 1月24日(土)、2月7日(土)臨時休館 1月26日(月)
料 金 : 無料

 2026年の干支は「午(うま)」。古来より、馬はその力強さ、美しさによって、移動・輸送から狩猟・農耕、娯楽まで、さまざまな場面で文明の発展を支えてきました。新年の幕開けを飾る本展覧会では、慶應義塾の多様なコレクションから、馬にまつわる稀覯本(きこうぼん)、絵巻物、浮世絵、埴輪など多様な作品を一堂に集め、馬と人との永い関係をたどり、改めてその魅力に迫ります。
 また、特別企画として、慶應義塾ゆかりのさまざまな芸術家が手掛けた、慶應義塾幼稚舎内雑誌『仔馬』の表紙原画もあわせてご紹介いたします。

主な出品作品
 『ポリグラフィア』、ヨハネス・トリテミウス著、1561年、慶應義塾図書館
 『ラテン語時禱書』、1480年頃、西洋中世写本コレクション、慶應義塾図書館
 二重橋楠公銅像、楊斎延一画、1899年、ボン浮世絵コレクション、慶應義塾図書館
 馬形埴輪、古墳時代後期、文学部民族学考古学専攻
 「ギバサン(四季のための二十七晩)」舞台写真、小野塚誠撮影、個人蔵
 『仔馬』、慶應義塾幼稚舎(撮影:村松桂(株式会社カロワークス))
 仔馬、岡本太郎、1965年、慶應義塾幼稚舎
 「『じゃじゃ馬馴らし』マーティン・ハーヴェイとN・デ・シルヴァ主演 プリンス・オブ・ウェールズ劇場」、小山内演劇絵葉書コレクション、慶應義塾図書館
 熊野新宮神宝図、宇治田忠郷撰、寛政6年(1794)、慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)
 群馬図、雲渓永怡筆、室町時代、常盤山文庫(慶應義塾寄託)
 アキレウスとヘクトール、ハンス・ゼーバルト・ベーハム作、 1518-30年頃、慶應義塾
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「主な出品作品」、そしてフライヤーに皇居前広場の「楠正成像」を描いた錦絵(明治32年=1899)。東京美術学校として請け負い、光太郎の父・光雲が主任となって制作されたものです。
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描いたのは楊斎延一。明治期の浮世絵師です。

同じ三枚組の「西郷隆盛像」も手がけ、そちらは江戸東京博物館さんに収蔵されており、同館が改修中だった一昨年には上野の東京都美術館さんで開催された「館外展示 出張!江戸東京博物館」で展示されました。
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当方、そちらをあしらったクリアファイルを所持しております。
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昨日の「アートシーン」で気づき、知っていれば1月17日(土)の上京時に行ったのに、と思ったのですが、土日祝は休館ということで、結局だめでした。

他に馬にまつわる内外の考古資料や古典籍、江戸期の絵巻、岡本太郎の書、さらには手塚治虫の『リボンの騎士』まで出ています。

ぜひ足をお運びください。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)19 『詩集 智恵子抄』

昭和16年(1941)8月20日 龍星閣 高村光太郎著
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目次
 人に             明治四十五年七月
 或る夜のこころ        明治四十五年八月
 おそれ            明治四十五年八月
 或る宵            大正元年十月
 郊外の人に          大正元年十一月
 冬の朝のめざめ        大正元年十一月
 深夜の雪           大正二年二月
 人類の泉           大正二年三月
 僕等             大正二年十二月
 愛の嘆美           大正三年二月
 晩餐             大正三年四月
 樹下の二人          大正十二年三月十一日
 狂奔する牛          大正十四年六月十七日
 鯰              大正十五年二月五日
 夜の二人           大正十五年三月十一日
 あなたはだんだんきれいになる 昭和二年一月六日
 あどけない話         昭和三年五月十日
 同棲同類           昭和三年八月十六日
 美の監禁に手渡す者      昭和六年三月十二日
 人生遠視           昭和十年一月二十二日
 風にのる智恵子        昭和十年四月二十五日
 千鳥と遊ぶ智恵子       昭和十二年七月十一日
 値ひがたき智恵子       昭和十二年七月十二日
 山麓の二人          昭和十三年六月二十日
 或る日の記          昭和十三年八月二十七日
 レモン哀歌          昭和十四年二月二十三日
 荒涼たる帰宅         昭和十六年六月十一日
 亡き人に           昭和十四年七月十六日
 梅酒             昭和十五年三月三十一日
 うた六首                         
 智恵子の半生         昭和十五年九月
 九十九里浜の初夏       昭和十六年五月
 智恵子の切抜絵        昭和十四年一月

意外といえば意外ですが、『道程』(大正3年=1914)に次ぐ第二詩集です(『道程』改訂版を除く)。

龍星閣主・沢田伊四郎の発案で編まれ、それまでの全作品の中から、智恵子に関わるものの抄出ということで、「抄」の一字が附されました。ただ、ここに収められなかった智恵子関連の文筆作品はけっこうあります。作品の選択はほぼ光太郎の意志に依ったものと思われますが、連続性などを意識してのことのようです。

例えば智恵子に語りかける口調で書かれた詩の間に、そうでない客観描写の作品を挟むというようなことは光太郎が避けました。そのため、日比谷松本楼での一コマを謳った「涙」(大正元年=1912)などは割愛されています。

短歌も「うた六首」、それから「樹下の二人」に附された「みちのくの安達ヶ原の……」以外にも智恵子モチーフの作が複数あるのですが、採用されませんでした。短歌の方は詩と異なり、手控えの原稿を残していなかったからかもしれません。

太平洋戦争開戦直前に出版されたこの『智恵子抄』、冒頭の「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」に戦時の女性らは出征する男性たちに対する自らの思いを重ね合わせ、男性陣は残された恋人がそう思ってくれているであろうとの思いを胸に戦地に赴きました。

一人の女性に対する愛を一冊にまとめた我が国では前例のなかったこの詩集は、そうした世相も背景に広く世に受け入れられ、戦時にも関わらず、版元の龍星閣が休業を余儀なくされる昭和19年(1944)までの間に13刷まで版を重ねました。

昨日は今年初めて上京し、新宿のSOMPO美術館さんで「開館50周年記念 モダンアートの街・新宿」を拝見して参りました。
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ちなみに同館を訪れるのは平成16年(2004)の「高村光太郎展 彫刻、絵画、書――「いのち」の造型」展以来、21年半ぶりでした。
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今回は、近代美術の発信地の一つとして大きな役割を担うこととなった新宿界隈に焦点を当てるもので、そこに文学とのからみも語られ、総合的にとらえようという試みでした。

まずエレベータで5階へ。そこから4階、3階と下る順路となっている、よくあるパターンでした。まずは「ⅰ章 中村彝と中村屋 ルーツとしての新宿」。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の小品2点「灰皿」と「香炉」(撮影禁止)が、いきなり最初にお出迎え。
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その後は守衛同様、中村屋サロンの主要メンバーで新宿にアトリエを構えた中村彝が中心でした。

その流れで「コラム1 文学と美術」。
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白樺派が大きく取り上げられ、ロダンや武者小路実篤、岸田劉生などが語られます。光太郎は中村屋サロンとともに白樺派の一員でもありました。右上は光太郎も寄稿した『白樺』第1巻第8号ロダン号(明治43年=1910)。

ここにフォービズムの影響を色濃く受けた光太郎の自画像(大正2年=1913)。
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同じ新宿の中村屋サロン美術館さんの所蔵で、同館の常設展示(コレクション展)にしょっちゅう出ているのですが、考えてみるとそちらに最近足を運んで居らず、久々に拝見しました。

光太郎とも交流のあった美校の後輩にして歌人の宮柊二の叔父・宮芳平の「歌」(大正4年=1915)。宮は中村彝に師事した画家でした。
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大正3年(1914)、美校在学中の宮は文展に出品するも落選。すると、宮は審査員だった森鷗外の観潮楼(光太郎アトリエ兼住居の近くです)に乗り込んで、なぜ落選だったのかと問い詰めるという暴挙に出ました。結局、鷗外にうまいこと言いくるめられて(笑)矛先を収め、以来、鷗外と個人的に交流するようになるのですが。そのあたり、鷗外の短編小説「天寵」に語られています。ちなみに今回の出品作「歌」も文京区立森鷗外記念館さんからの借り受けです。
無題
その「天寵」が載った『ARS』の創刊号(大正4年=1915)。光太郎も『ロダンの言葉』の一部を寄稿しています。
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『ARS』といえば、版元の阿蘭陀書房は北原白秋の実弟・鉄雄が社主。まさに「文学と美術」が現出されている一角でした。同様に、光太郎と親しかった岸田劉生による、これまた光太郎の盟友の一人・武者小路実篤の肖像(大正3年=1914)。
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ネットや各種書籍によく画像が載っているのですが、東京都現代美術館さんの所蔵だそうで、そうだったのか、という感じでした。

ⅱ章は「佐伯祐三とパリ/新宿 往還する芸術家」、ⅲ章が「松本竣介と綜合工房 手作りのネットワーク」。松本も光太郎と交流があり、解説パネルにその旨記述がありました。ありがたし。
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そして今回のフライヤーやポスターに使われている目玉作品「立てる像」(昭和17年=1942)。過日ご紹介したパナソニック汐留美術館さんでの「美しいユートピア 理想の地を夢みた近代日本の群像」展では、こちらの下絵がフライヤーに使われています。松本も最近またあちこちで取り上げられる機会が増えてきたように感じています。

最後は現代につながる展示となり、終了。

昨日は開幕して間もない休日ということで、けっこう賑わっていました。皆様もぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)18 『道程』改訂普及版

昭和15年(1940)11月20日 山雅房 高村光太郎著
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目次
 道程
  失はれたるモナ・リザ  明治四十三年十二月十四日
  画室の夜        明治四十四年一月十二日
  寂寥                       明治四十四年三月十三日
  声           明治四十四年五月二十日
  新緑の毒素       明治四十四年六月十一日
  はかなごと
  地上のモナ・リザ    明治四十四年七月六日
  父の顔         明治四十四年七月十二日 
  泥七宝         明治四十四年七月――翌年六月
  ――に         明治四十五年七月二十一日
  或る夜のこころ     大正元年八月十八日
  おそれ
  犬吠の太郎       大正元年九月二十六日
  さびしきみち      大正元年十月八日
  梟の族         大正元年十月二十日
  或る宵         大正元年十月二十三日
  郊外の人に       大正元年十一月二十五日
  冬の朝のめざめ     大正元年11月三十日
  戦闘          大正元年十二月十四日
  人に          大正二年二月十八日
  人類の泉        大正二年三月十五日
  山           大正二年十一月四日
  冬の詩         大正二年十二月六日
  牛           大正二年十二月七日
  僕等          大正二年十二月九日
  道程          大正三年二月九日
  愛の嘆美        大正三年二月十二日
  婚姻の栄誦       大正三年三月六日
  万物と共に踊る     大正三年三月九日
  瀕死の人に与ふ     大正三年三月十四日
  晩餐          大正三年四月二十五日
  五月の土壌       大正三年五月十六日
  秋の祈         大正三年十月八日
 道程 以後
  わが家         大正五年
  小娘          大正六年
  無為の白日
  海はまろく
  雨にうたるるカテドラル 大正十年十月
  沙漠
  クリスマスの夜     大正十一年一月
  冬の送別        大正十一年四月
  五月のアトリエ     大正十一年五月
  ラコツチイ・マアチ   大正十一年十一月
  落葉を浴びて立つ    大正十一年十一月
  樹下の二人       大正十二年三月
  鉄を愛す        大正十二年五月
  氷上戯技
  珍客
  葱
  車中のロダン      大正十四年
  後庭のロダン      大正十四年二月
  十大弟子        大正十五年
  聖ジヤンヌ       大正十五年
 猛獣篇 時代
  清廉          大正十三年十二月
  傷をなめる獅子     大正十四年
  狂奔する牛
  鯰           大正十五年
  苛察          大正十五年
  雷獣          大正十五年六月
  龍           大正十六年
 【編纂者の言葉】 三ツ村繁蔵

奥付では「百五十部限定版」「書店版」と同じく昭和15年(1940)11月20日となっていますが、実際には昭和16年(1941)4月25日に「普及版」が出されました。「書店版」にあった函は廃され、カバー装になりました。以後、版型やカバーデザインを変えつつ昭和18年(1943)までに9刷を重ねました。

手持ちのものは昭和17年(1942)10月20日の8版。カバー無しの裸本ですが、見返しに編集者兼詩人だった小池吉昌宛の献呈署名が書かれています。コレクションの中で唯一の光太郎署名本です。あまり署名や識語の有無にこだわらないのですが、一冊くらいあっても良いかな、と購入しました。

重版の裸本で、蔵書印や書き込みもあり、そうなると市場価値は500円~1,000円というところですが、サイン入りということで、たしか18,000円くらいで入手しました。ほとんどサイン代です(笑)。

「智恵子抄」、「ほんとの空」の語を使われてしまっては、紹介しないわけに参りません(笑)。

【東京開催】二本松市移住出張相談会

期 日 : 2026年1月18日(日)
会 場 : ふくしまぐらし相談センター窓口 千代田区有楽町2-10-1東京交通会館8F
時 間 : 10時30分~17時00分 ※ご相談1回あたり約45分×6回
料 金 : 無料

二本松市移住出張相談会とは
 「ふくしま市町村出張相談デスク」として、二本松市の移住担当職員と福島県の移住相談員(※)がタッグを組み、皆さんの移住などに関する相談を受け付ける1日だけの相談会です。
※福島県が東京有楽町に設置する移住相談窓口「ふくしまぐらし相談センター」の相談員。

 移住って何から始めればいいの・・・という移住全般の相談から、移住してから不安なこと、市町村に住んでいないとわからないリアルなことなど・・・移住生活に興味はあるけれど具体的にイメージできない方、移住に向けて一歩踏み込んだ話をしたい方など、ぜひこの機会にお気軽にご相談ください。

福島県二本松市はこんなところです
 首都圏から新幹線で約2時間程度。「智恵子抄」で詠われた『ほんとの空』が広がる二本松市は城下町として栄え、温泉や里山など田舎暮らしをしたい方の望むものが揃う一方、病院や公園などの遊び場も多く、子育て世帯も住みやすい街です。福島県の中でも、県庁所在地である福島市と、人が多く集まる商業都市である郡山市のちょうど中間地点に位置しており、利便性にも優れています!

ご相談内容の例
 地域おこし協力隊制度・募集情報のご紹介
 二本松市での暮らし、仕事、住まいについてのご相談
 具体的な移住支援制度についてのご紹介
 子育て支援についてのご案内
 移住された方の事例についてのご紹介

お問い合わせ 二本松市秘書政策課総合政策係 移住窓口
 〒964-8601 福島県二本松市金色403番地1
 電話 0243-24-7120 ファックス 0243-22-7023
 Mail sougouseisaku@city.nihonmatsu.lg.jp
001
000
申し込み〆切が1月15日(木)まででしたが、まだ空きがあるかもしれませんし記録のためにもご紹介しておきます。

ところで、フライヤーにある「Uターン」と「Iターン」は解りましたが、「Jターン」というのは存じませんでした。「J」の字面からして、「U」まで戻らなくても途中まで、という意味なのかと思って調べたら、そんな感じでした。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)17 『道程』改訂版 書店版

昭和15年(1940)11月20日 山雅房 高村光太郎著
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目次
 道程
  失はれたるモナ・リザ  明治四十三年十二月十四日
  画室の夜        明治四十四年一月十二日
  寂寥                       明治四十四年三月十三日
  声           明治四十四年五月二十日
  新緑の毒素       明治四十四年六月十一日
  はかなごと
  地上のモナ・リザ    明治四十四年七月六日
  父の顔         明治四十四年七月十二日 
  泥七宝         明治四十四年七月――翌年六月
  ――に         明治四十五年七月二十一日
  或る夜のこころ     大正元年八月十八日
  おそれ
  犬吠の太郎       大正元年九月二十六日
  さびしきみち      大正元年十月八日
  梟の族         大正元年十月二十日
  或る宵         大正元年十月二十三日
  郊外の人に       大正元年十一月二十五日
  冬の朝のめざめ     大正元年11月三十日
  戦闘          大正元年十二月十四日
  人に          大正二年二月十八日
  人類の泉        大正二年三月十五日
  山           大正二年十一月四日
  冬の詩         大正二年十二月六日
  牛           大正二年十二月七日
  僕等          大正二年十二月九日
  道程          大正三年二月九日
  愛の嘆美        大正三年二月十二日
  婚姻の栄誦       大正三年三月六日
  万物と共に踊る     大正三年三月九日
  瀕死の人に与ふ     大正三年三月十四日
  晩餐          大正三年四月二十五日
  五月の土壌       大正三年五月十六日
  秋の祈         大正三年十月八日
 道程 以後
  わが家         大正五年
  小娘          大正六年
  無為の白日
  海はまろく
  雨にうたるるカテドラル 大正十年十月
  沙漠
  クリスマスの夜     大正十一年一月
  冬の送別        大正十一年四月
  五月のアトリエ     大正十一年五月
  ラコツチイ・マアチ   大正十一年十一月
  落葉を浴びて立つ    大正十一年十一月
  樹下の二人       大正十二年三月
  鉄を愛す        大正十二年五月
  氷上戯技
  珍客
  葱
  車中のロダン      大正十四年
  後庭のロダン      大正十四年二月
  十大弟子        大正十五年
  聖ジヤンヌ       大正十五年
 猛獣篇 時代
  清廉          大正十三年十二月
  傷をなめる獅子     大正十四年
  狂奔する牛
  鯰           大正十五年
  苛察          大正十五年
  雷獣          大正十五年六月
  龍           大正十六年
 【編纂者の言葉】 三ツ村繁蔵

同日刊行された「百五十部限定版」と内容、紙型は同一です。「百五十部限定版」で青いクロス貼りの表紙に金押しされていた「獅子の顔」素描は空押しになり、見返しに印刷されていた光太郎署名はありません。定価は「百五十部限定版」が4円80銭、こちらは2円80銭です。

さらにこの後「普及版」が刊行されます。

このブログ中、昨年の大晦日に書いた記事で少しだけご紹介しておいた新刊書籍ですが、改めて。

「大東亜戦争」幻想化と「戦争責任」の精神史 擬態に対峙する詩人たち

発行日 : 2025年12月30日
著者等 : 小関素明著
版 元 : 人文書院
定 価 : 6,800円+税

戦後社会に瀰漫する欺瞞と擬態、その正体を暴く

開戦の報に国民が覚えた高揚感。そして敗戦後、その熱狂をまるで“なかったこと”のように振る舞い始めた国民。この巨大な断絶の深淵には何が横たわっているのか。「大東亜戦争」という呼称が国民に与えた幻想と、戦後の空虚な平和主義の根源にある欺瞞を解き明かし、我々が未だ直視できずにいる「戦争責任」に対峙する。

著者 小関素明
1962年生まれ。立命館大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、立命館大学教授。専門は近代日本政治史・近代日本政治思想史。著書に『日本近代主権と「戦争革命」』(日本評論社、2020年)、『日本近代主権と立憲政体構想』(日本評論社、2014年)、『現代国家と市民社会』(共編著、ミネルヴァ書房、2005年)、『新しい公共性』(共編著、有斐閣、2003年)など。
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目次
 はじめに
 序章 情念に分け入る精神史をめざして
  1 本書の問題意識――「戦争協賛」と「戦争責任」の思想化に向けて
  2 本書の分析課題と視座
  3 本書で使用する史料について
 第Ⅰ部 「大東亜戦争」の幻影と煩悶
  第一章 日米開戦の衝撃と翻弄
   1 開戦の衝撃と変貌する詩人たち
   2 「宣戦の詔書」の作用――高揚感の国民的拡がり
   3 「大東亜戦争」の特性と天皇制の関涉
  第二章 表現者の幻覚と煩悶――「真の自己」の渇望と探究
   1 自我と美感の転相――高村光太郎
   2 表現の原郷への帰還と「本当の自己」との葛藤――野口米次郎
   3 言語表現の新境の眺望と天皇
  第三章 「大東亜戦争」道義化の蹉跌
   1 「国民文学」の蹉跌と「大東亜戦争」聖戦化の限界
   2 「メシア国家」の幻影――「近代の超克」論の限界
   3 「戦意高揚」戦略の限界
  第四章 敗戦時における国民の擬態の前景化
   1 心的空白状態の到来
   2 「民主化」受容の屈曲――他動的「国民主権」の到来
   3 死の至近化と言葉の限界効用
 第Ⅱ部 孤塁からの開削
  第五章 「荒地」への収斂
   1 「戦争体験」の特質とその思想化
   2 「紙屑を捨てない」主体性――「何も信じない」ことを原点に
   3 詩作のオントロギー—―「詩の特権性」としての「在らざるものの力」の創造
  第六章 「橋上の人」の写像と射程
   1 「直接性」への懐疑――庶民感覚と兵士の目線への不信
   2 「荒地」という「可能性」――文明の蘇生に向けて
   3 「橋上」からの近代批判
  第七章 戦後社会の擬態の摘発
   1 「深い絶望」の探求
   2 バチルスとしての教説的「平和主義」に抗して――『死の灰詩集』批判
   3 病巣への肉迫
  第八章 戦争責任の実効化と言語表現の新地平
   1 「意味の回復」と愛への覚醒
   2 金子光晴における象徴主義の刷新
   3 表現のアポリアを超えて
   4 孤独の快楽と可能性としての「間隙」への対峙
  終章「大東亜戦争」と「戦争責任」の精神史から見えてくるものは何か
 あとがき
 事項索引
 人名索引

第二章「表現者の幻覚と煩悶――「真の自己」の渇望と探究」中に「1 自我と美感の転相――高村光太郎」という項がありますが、そこ以外にも随所(特に前半)で光太郎に触れられています。

タイトルに「大東亜戦争」の語が使われていますが、右翼がよく「あの戦争は欧米列強の植民地支配から東亜を解放するための聖戦だった」という文脈でその語を使うのとは異なります。著者・小関氏は、「 「大東亜戦争」という呼称は、日米開戦四日後の一九四一年一二月一二日の閣議において定められた呼称であり、日本の戦争目的を粉飾するための独善性が色濃く投影されており、学術用語としてはアジア・太平洋戦争という呼称の方が相応しいのはいうまでもない」としつつ、「しかし、当時の日本国民のほぼすべてが、アジア・太平洋戦争ではなく、「大東亜戦争」という呼称に表象された理念に魅了されて戦争に同調し、協力した。(略)それをアジア・太平洋戦争という学術用語に置き換えたのでは、戦争に同調した国民の心理と情念に肉迫しにくい」というスタンスから、「大東亜戦争」で統一されています。

そして「世界の大国米国と戦端を開くに際して、甚大な犠牲が予想されるにもかかわらず、多くの国民はどのような感覚で開戦を受感し、高揚感にとらわれたのか、敗戦後に自ら戦争目的に雷同し陶酔した直近の過去にどう向き合ったのかということの検証」といった点が本書のテーマと位置づけられています。

そこで前半では、光太郎、三好達治、野口米次郎といった、翼賛詩を数多く書いた詩人たちの作品を俎上に乗せ、作者自身の内面の剔抉、それらの作品の受容状況といったところが語られます。

他に坂口安吾や太宰治、武者小路実篤、火野葦平らの小説家、斎藤茂吉ら歌人等にも言及されますが、メインは詩。これについてはこのように語られています。

 なぜ詩なのか。それは詩の特質ともいうべき言葉の精妙さと関連している。短縮した表現で人間の内面世界を表さなければならない詩は、散文以上に言葉の濃度と旋律に重きが置かれる。読み手は濃密な言葉と旋律に載せられた表現者の内面世界を解凍し、それに共感、心服したり、覚醒させられたりする。それが読み手に影響を与えるためには、詩は読み手にも共通する思いを掬い取るとともに、それを明晰化し、さらには一歩先んじていることが必要である。

そうしてそういう機能を担った光太郎の翼賛詩考察。なかなかに鋭い視点でした。特に光太郎ファンとして心が痛んだのは、「撃つ」という語に関して。

まぁ、「撃ちてし止まん」などとプロパガンダ的スローガンに使われ、当時の流行語のような側面もあったと思いますが、光太郎も複数の翼賛詩で「撃つ」という語を多用しています。しかし小関氏にかかれば「これはさらに露骨にいえば敵を「殺す」ということである」「高村は「殺す」、「みなごろし」という直截な表現を避けながら、事実上敵を「殺す」ということに「この生活の一切をかけ」る決意を「美の世界を守りぬこう」という覚悟に重ね合わせて述べているが、「撃つ」というベールを被せた表現に逆に表現者の苦渋と義務感のうち混じった壮絶さを感じさせる」。

この生活の一切をかけ」「美の世界を守りぬこう」は、詩「決戦の年に志を述ぶ」(昭和18年=1943)の一節です。更にいうなら小関氏曰く「ここに芸術性は何もない」。まったくその通りです。しかし、「こうした詩こそ光太郎の真骨頂」と涙を流して有り難がる愚物が多いのも現状ですが。
無題
平時であれば決して許されない殺人教唆的な物言い、さらにはこうした詩に鼓舞されて戦場へ赴いた多くの前途有為な若者たちが逆に「撃」たれたこと、それらを深く悔いて、戦後の光太郎は花巻郊外旧太田村に7年間の蟄居生活を送ることになります。そこは本書の主旨ではないので、戦後の壮絶な蟄居生活にはほとんど触れられていないのが残念といえば残念ですが。

後半はほとんどの国民が「敗戦後、その熱狂をまるで“なかったこと”のように振る舞い始めた」ことの検証。ここでは天皇制の問題にも触れつつ、鮎川信夫や金子光晴、吉本隆明ら、「荒地派」がメインです。同派は「敗戦後の日本社会の気運がいかに欺瞞に覆われ、それを看過してやり過ごすことがいかに人間の存在を歪めるかということを詩表現のモチーフとして拘りつづけた一群の詩人たち」と位置づけられています。まぁ、それはそうなのでしょう。ただ、金子などは数は少ないながらも戦時中にコテコテの翼賛詩を書いていたことにはほとんど触れられていないようで、その上で論じていただければ、という気はしました。

それにしても戦後80年、そして実にきな臭い状況に陥っているこの国を二度と誤った道に進ませないためにも、こうした問題を考える上で実に示唆に富んだ書籍です。ぜひお買い求めを。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)16 『道程』改訂版 百五十部限定版

昭和15年(1940)11月20日 山雅房 高村光太郎著
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目次
 道程
  失はれたるモナ・リザ  明治四十三年十二月十四日
  画室の夜        明治四十四年一月十二日
  寂寥                       明治四十四年三月十三日
  声           明治四十四年五月二十日
  新緑の毒素       明治四十四年六月十一日
  はかなごと
  地上のモナ・リザ    明治四十四年七月六日
  父の顔         明治四十四年七月十二日 
  泥七宝         明治四十四年七月――翌年六月
  ――に         明治四十五年七月二十一日
  或る夜のこころ     大正元年八月十八日
  おそれ
  犬吠の太郎       大正元年九月二十六日
  さびしきみち      大正元年十月八日
  梟の族         大正元年十月二十日
  或る宵         大正元年十月二十三日
  郊外の人に       大正元年十一月二十五日
  冬の朝のめざめ     大正元年11月三十日
  戦闘          大正元年十二月十四日
  人に          大正二年二月十八日
  人類の泉        大正二年三月十五日
  山           大正二年十一月四日
  冬の詩         大正二年十二月六日
  牛           大正二年十二月七日
  僕等          大正二年十二月九日
  道程          大正三年二月九日
  愛の嘆美        大正三年二月十二日
  婚姻の栄誦       大正三年三月六日
  万物と共に踊る     大正三年三月九日
  瀕死の人に与ふ     大正三年三月十四日
  晩餐          大正三年四月二十五日
  五月の土壌       大正三年五月十六日
  秋の祈         大正三年十月八日
 道程 以後
  わが家         大正五年
  小娘          大正六年
  無為の白日
  海はまろく
  雨にうたるるカテドラル 大正十年十月
  沙漠
  クリスマスの夜     大正十一年一月
  冬の送別        大正十一年四月
  五月のアトリエ     大正十一年五月
  ラコツチイ・マアチ   大正十一年十一月
  落葉を浴びて立つ    大正十一年十一月
  樹下の二人       大正十二年三月
  鉄を愛す        大正十二年五月
  氷上戯技
  珍客
  葱
  車中のロダン      大正十四年
  後庭のロダン      大正十四年二月
  十大弟子        大正十五年
  聖ジヤンヌ       大正十五年
 猛獣篇 時代
  清廉          大正十三年十二月
  傷をなめる獅子     大正十四年
  狂奔する牛
  鯰           大正十五年
  苛察          大正十五年
  雷獣          大正十五年六月
  龍           大正十六年
 【編纂者の言葉】 三ツ村繁蔵

大正3年(1914)刊行のオリジナル『道程』から詩篇を抜粋し、さらにその後の作品を加えて刊行されました。表紙に昭和11年(1936)の雑誌『歴程』初出のペン素描「獅子の首」を金押しであしらっています。

昭和17年(1942)に、この詩集により同16年度の第一回帝国芸術院賞を受賞。出版された昭和15年(1940)には光太郎は大政翼賛会中央協力会議議員にも就任し、上梓や受賞にはそのための箔づけというかご褒美というか、そういう匂いが感じられます。

ご当地フレーム切手を除き、唯一、光太郎肖像が切手デザインに使われた平成12年(2000)の「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集に含まれる80円切手は、この詩集に関わります。これは昭和15年(1940)から同20年(1945)までの題材8種類を1シート10枚構成にしたものでした。
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展覧会情報のご紹介を続けてきましたので、もう1件。

美しいユートピア 理想の地を夢みた近代日本の群像

期 日 : 2026年1月15日(木)~3月22日(日)
      前期1月15日(木)~2月17日(火) 後期2月19日(木)~3月22日(日)
会 場 : パナソニック汐留美術館 港区東新橋1-5-1 パナソニック東京汐留ビル4階
時 間 : 10:00~18:00 2月6日(金)、3月6日(金)、20(金)、21 (土)は午後8時まで開館
休 館 : 毎週水曜日 ただし2月11日と3月18日は開館
料 金 : 一般 1,200円 65歳以上 1,100円 大学生・高校生 700円 中学生以下 無料
      土曜日・日曜日・祝日は日時指定予約(平日は予約不要)

ユートピアは、イギリスの思想家トマス・モアの小説タイトルで、「どこにもない場所」を意味します。同じくイギリスの社会思想家、ウィリアム・モリスは自著『ユートピア便り』の中で、暮らしと芸術の総合を唱え、今ここにある課題をみつめ、どこにもない理想を夢みています。その思想が紹介された20世紀の日本でも、ユートピアは暮らしをめぐる課題と理想となりました。そして20世紀を通じあらゆる場所で、美術、工芸、建築など幅広いジャンルを結ぶ共同体が模索されます。新時代の異文化体験を通して近代化しつつあった日本は、かつての日本でもなく、同時代の世界のどこにもない場所だったのです。

この展覧会では暮らしにまつわる過去をたずね、未来を夢みるさまざまな運動を、「ユートピア」と呼びます。そして「美しさ」にまつわる芸術、装飾工芸、建築デザインにテーマを絞り、暮らしの中の「美しいユートピア」をみつめます。さらに「美しいユートピア」の歴史をたずねるだけでなく、未来への手がかりとします。美しい暮らしを求める20世紀日本のユートピアをたずね、当時の来るべき世界を振り返り、今日のユートピアを思い描く方法を探ります。

第1章 ユートピアへの憧れ 
 西欧に憧れ、アジアにめざめる。
雑誌『白樺』、「民藝」運動などから20世紀日本の理想主義が芽生える
 ジョン・ラスキン、ウィリアム・モリスの影響を受けた20世紀日本の理想主義を紹介します。20世紀初頭の大正デモクラシーに象徴される当時の日本では「民」が一つのキーワードでした。西欧美術に憧れ、自由と個性を尊重し自らのルーツを振り返った雑誌『白樺』。その白樺派同人たちの交流の中から柳宗悦が中心となり、民衆の暮らしの中の美を説いた「民藝」運動は、「民」をめぐる前後の理想主義を代表します。

第2章 たずね求める 周縁、国外でのフィールドワーク
 民家研究、民具調査など「民」をめぐるフィールドワークが、ジャンルや国境を越えてミュージアムを育む
 近代化するみずからの足元をみつめた、民家や民具などをめぐるフィールドワークを紹介します。農山漁村や周辺地域、民族をたずねる交流はジャンルや国境を越えて、失われてゆく「民」を記録し、未来へつなぐ「ミュージアム」を育みました。渋沢敬三が計画し今和次郎や蔵田周忠(ちかただ)も参画した国立の民族学博物館構想の図面も展示いたします。

第3章 夢みる 都市と郊外のコミュニティ
 関東大震災後、郊外アトリエや芸術家村が生まれる。その交友から「新人画会」が理想を戦後へつなぐ
 蔵田周忠や立原道造など、建築家や詩人、芸術家による関東大震災後の郊外アトリエや芸術家コロニーへの夢を紹介します。1920年代の都市化と鉄道網の発達は郊外住宅地の発達を促しました。分離派建築会の会員であった蔵田は、モリスに倣った田園のユートピアを目指し、世田谷や杉並に文学者や芸術家たちが集って住むモダンで快適なコミュニティを設計しました。同時期、アトリエ村の一つ、池袋モンパルナスの交友に始まる「新人画会」の理想はのちに戦後美術の出発点とされました。

第4章 試みる それぞれの「郷土」で
 山本鼎、宮沢賢治、竹久夢二、ブルーノ・タウト…郷土や「ドリームランド」で表現者の実践が始まる
 山本鼎の農民芸術運動や宮沢賢治の活動、竹久夢二、ブルーノ・タウトの美術工芸運動は、「ドリームランド」としての「ふるさと」に、美しい暮らしをもたらす協働の実践でした。同時代、前後して官民による郷土改良や産業化が始まりました。山本鼎の日本農民美術研究所で制作された工芸品やそのデザイン画、宮沢賢治によるドローイング、タウトデザインによる工芸品などを展示します。

第5章 ふりかえる/よみがえる ユートピアのゆくえ
 戦後復興をデザインする芸術・建築と、「失われてゆく世界」を記録し未来への手がかりを求める運動が前後して生まれ…
 戦後まもなく、芸術、建築による都市再生に着手した群馬県高崎の文化活動家・井上房一郎と、彼に協力した建築家レーモンド夫妻や磯崎新。そして高度経済成長期の大きく変貌する都市と社会で向かうべき方向を模索して、日本の伝統的な共同体を実測調査し図面化した60年代後半からの「デザイン・サーヴェイ」。それらの動きは芸術と民衆の力を原動力に未来への手がかりをつかもうとしたものです。
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関連行事

ミュージアムコンサート「美しいユートピアをたずねて」
展覧会で紹介する群馬音楽ホールを拠点とする群馬交響楽団の演奏、そして音楽と美術と建築をめぐるトークをお楽しみいただくコンサートです。2回とも同じ内容です。

Program エリック・サティ:ジュ・トゥ・ヴー/ピアソラ:リベルタンゴ 他
出 演 群馬交響楽団 弦楽カルテット
トーク 服部想之介(声優)
日時 2月7日(土)
 ①午後1時30分~午後2時10分(開場午後1時)
 ②午後4時~午後4時40分(開場午後 3時30分)
定 員 各回110名、要予約
聴講費 無料(ただし本展の観覧券が必要です)
会場 パナソニック東京汐留ビル 5階ホール
*未就学児はご遠慮ください。
*展覧会観覧には、事前の日時指定予約が必要です。

展覧会記念講演会「祖父、清六から聞いた宮澤賢治」
宮澤賢治の8歳年下の弟、祖父清六から聞いた「賢治さんの美術、宗教、科学に対しての考え方。日常での様子。
自分へ向けて書いた『雨ニモマケズ…』の願い。」を、残された資料、家族写真などをスクリーンに映しながらお話しいただきます。

講 師 宮澤和樹氏(宮澤賢治、8歳下の実弟清六の孫、株式会社林風舎代表取締役)
日 時 2月14日(土)午後2時~午後3時30分(開場午後1時30分)
定 員 150名、要予約
聴講費 無料(ただし本展の観覧券が必要です)
会 場 パナソニック東京汐留ビル 5階ホール
*未就学児はご遠慮ください。
*展覧会観覧には、事前の日時指定予約が必要です。

キーワードは「ユートピア」。この国にそれを現出しようと活動した人々の軌跡を追うもので、一種の地政学な要素を含みつつ、しかしその対象が特定の地域ではなく架空の「ユートピア」。なるほど、そういうアプローチもありか、と感じました。

光太郎に関しても軽く関わります。「第1章 ユートピアへの憧れ」で白樺派が取り上げられ、光太郎も写った「白樺創刊十周年記念写真」(大正8年=1919)が出ます。それから「第4章 試みる それぞれの「郷土」で」には宮沢賢治関連の展示品(賢治記念館や林風舎さんの所蔵品)がたくさん並びますので、光太郎も寄稿した雑誌『農民芸術』など。
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他にも出品目録に依れば賢治関連で、現代の賢治著書に装画をした吉井忠による絵画「花巻豊里町 宮沢政次郎氏(賢治父)宅」が「第2章 たずね求める 周縁、国外でのフィールドワーク」に出品されます。「豊里町」は「豊沢町」の誤植ではないかと思うのですが……。誤植と言えば、「グスコーブドリ」とすべきところも「グスコンブドリ」となっています。当方、賢治に関してそれほど詳しいわけではないのでよくわかりませんが、最初の構想では「グスコンブドリ」だったとか、そういうわけではありませんよね。

賢治関連が多数出品ということで、関連行事として賢治実弟・清六令孫の和樹氏による講演が予定されています。ちょうどその1週間後には花巻で、賢治の親友だった藤原嘉藤治の顕彰をなさっている瀬川正子氏、それから当方と3人でのトークイベントも企画されており、和樹氏、大忙しですね。

どうせならその日に拝見に伺おうかと日程を調整しております。皆様もぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)15 『現代の彫刻』岩波講座世界文学第七回配本

昭和8年(1933)6月5日 岩波書店 高村光太郎著
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目次
 実技家の場合 概観 二つの源流について 時間的一瞥 フランスの彫刻 ブルデル
 マイヨル デスピオ ベルナアル 「ぢか彫り」騒動 穏健群 形式主義群団 ドイツの彫刻
 イギリスの彫刻 残余の諸国

「岩波講座世界文学」はいわゆる分冊もの。光太郎はこれ以外にも長沼重隆や辰野隆らとの共著で第9回配本『近代作家論』にも執筆しています(のちほどご紹介します)。

50余ページのペーパーバックですが、ロダン亡き後の世界の彫刻界についての非常にわかりやすい概論です。

光太郎の父・光雲の木彫が出ている展示です。

令和八年第一回企画展「雪あかりと春のきざし」

期 日 : 2026年1月10日(土)~3月24日(火)
会 場 : 東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 毎週水曜・木曜
料 金 : 大人 1,000円(800円)ペア 1,800円  高・大学生 800円(600円)
      小・中学生 500円(400円)  ( )内団体料金

冬の静寂、春を予感させる彩々
 凍てつく夜、天上の光を吸い込んだ雪は地上に降り積もることで自らが柔らかなあかりとなりました。それは暗闇の中で自らを保つ、つかの間の希望を象徴しています。
 やがて、その白一色の世界の中から水や土、花の芽のやわらかな色がにじみ出、春を待ち望む心が起こす生命の兆しを感じさせます。
 本展では、この繊細でドラマチックな季節の移ろいを表現した選りすぐりの名品が一堂に会します。
 日本画の幽玄な光と影。洋画の重厚なマチエール。土から生まれた陶芸の温もり。生命を刻む木彫の静かな力。観る者の心の風景を鮮やかに変える、静かな感動の一期一会をぜひ。

◆主な展示品◆
横山大観《神国日本》、《瀑布(ナイアガラの滝、万里の長城)》、北大路魯山人《梅に月》、吉田登穀《浄地》、下村観山《田子の浦》、橋本雅邦《老松霊鷹》、狩野芳崖《江山一望之図》、高村光雲《狗犬》、山崎朝雲《建国》、圓鍔勝三《聖徳太子》、平野富山《稚児普賢》《七福神》、板谷波山《葆光彩磁椿文花瓶》ほか
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リニューアル前の同館には一度伺ったことがありまして、その際にはやはり光雲作の木彫「牧童」が出ていました。
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この作品は繰り返し展示されているもので、今回もこれかと思ったのですが、そうではなく「狗犬」という作品でした。
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「狗犬」と題されていますが、狛犬ですね。像高など画像だけではわかりませんが、さほど大きなものでもなさそうです。木目の生かし方が絶妙ですね。

ほぼ同じ顔を持ち、阿吽の口を呈している獅子頭は複数の作例があり、各地で何度か拝見しましたが、全身像は見たことがありません。まあ、あっても何ら不思議ではないのですが。
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阿吽の口の狛犬、獅子頭、そして沖縄のシーサー、さらには仁王像など、民俗学的に興味深いところでもあります。遡ればエジプトのスフィンクスも源流は同じだとか。

来週あたり拝見に行こうかと思っております。ついでに佐野ラーメンでも食べてこようかな、と(笑)。皆様もぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)14 『続ロダンの言葉』普及版

昭和4年2月28日 叢文閣 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
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目次
 アウギユスト ロダン(オクターヴ ミルボー)
 若き芸術家達に(遺稿)
 ロダン手記
  花について
  女の肖像
  芸術家の一日
   庭園の朝 古代彫刻の断片 庭園の夕 
  ゴチツクの線と構造
   ゴチツク建築家は写真家である 面と相反と 釣合の知識 石のレース細工 外陣
   くりかた
  芸術と自然
   古代芸術―ギリシヤ 古代芸術の豊かさは肉づけにある 高肉とキヤロスキユロ
    ローマ及ローマ芸術 アメリカの為に
  ゴチツクの天才
   ノートルダム サン トウスターシユ 彫刻に於ける色調について 十八世紀 断片
    五部のスレスコ 手紙
  ギユスターヴ コキヨ筆録
  ジユヂト クラデル筆録
  フレデリク ロートン外二三氏筆録
  ポール グゼル筆録
   「岡の上にて」より 「ロダンの家にて」より フイデヤスとミケランジユ 女の美
  「本寺」より(手記)
   断片 ムラン マント ネエル アミヤン ル マン ソワツソン シヤルトル

正続2冊セットで並製本として刊行され、内容的には大正9年(1916)に同じ叢文閣から出た初版と同一です。カバーの背文字は光太郎本人の筆。表紙絵はロダンの素描です。

当方手持ちのものは最終刷となった昭和12年(1937)9月20日の版です。

光太郎筆の油彩画「自画像」(大正2年=1913)が出ています。

開館50周年記念「モダンアートの街・新宿」

期 日 : 2026年1月10日(土)~2月15日(日)
会 場 : SOMPO美術館 新宿区西新宿1-26-1
時 間 : 10:00~18:00(金曜日は20:00まで)
休 館 : 月曜日、1月13日(火)
料 金 : 一般(26歳以上)1,500円 25歳以下 1,100円 小中高生 無料

 1976年7月、SOMPO美術館は新宿に開館しました。このたび、SOMPO美術館の開館50周年を記念し、新宿をテーマとした展覧会を開催いたします。
 日本の近代美術(モダンアート)の歴史は、新宿という地の存在なくしては語れません。明治時代末期の新宿には新進的な芸術家が集まりました。そして、新宿に生きる芸術家がさらに芸術家を呼び込み、近代美術の大きな拠点の一つとなりました。本展は、中村彝、佐伯祐三から松本竣介、宮脇愛子まで、新宿ゆかりの芸術家たちの約半世紀にわたる軌跡をたどる、新宿の美術館として初めての試みです。

ⅰ章 「中村彝と中村屋 ルーツとしての新宿」
 新宿に創業した中村屋のもとに新進芸術家たちが集い、サロンが生まれました。中村彝(つね)をはじめ、中村屋にゆかりの作家を取り上げます。
コラム1 文学と美術
 1910年に創刊された雑誌『白樺(しらかば)』を中心に、新宿に生きた文学者や画家たちにゆかりの作品を紹介します。

ⅱ章 「佐伯祐三とパリ/新宿 往還する芸術家」
 佐伯祐三は、パリと新宿を行き来しながら活動しました。アトリエの建つ下落合の風景を描いた作品を中心に展示します。
コラム2 描かれた新宿
 1923年に発生した関東大震災からの復興で変貌を遂げた街を描いた版画集『画集新宿』『新東京百景』を中心に、大正から昭和初期の新宿の風景を描いた作品を紹介します。

ⅲ章 「松本竣介と綜合工房 手作りのネットワーク」
 松本竣介(しゅんすけ)は綜合(そうごう)工房を構え、雑誌『雑記帳』を刊行しました。竣介を中心に、二科会や『雑記帳』で活動をともにした作家たちを取り上げます。

ⅳ章 「阿部展也と瀧口修造 美術のジャンルを超えて」
 阿部展也(のぶや)(芳文)のアトリエには、瀧口修造を始めとする芸術家たちが集まりました。彼ら/彼女らの交流は、既存の美術の枠を超えた豊かな作品群を生み出していきました。
エピローグ 新宿と美術の旅はつづく
 新宿に生まれた版画家・清宮質文(せいみやただふみ)。静かな叙情あふれる静謐(せいひつ)な清宮の版画によって、本展の幕をとじます。


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光太郎の「自画像」は、「コラム1 文学と美術」の中で展示されています。
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やはり新宿区の中村屋サロン美術館さんの所蔵で、同館の常設展示(コレクション展)ではほぼ常時出ているものです。

「新宿」といえば、その中村屋サロン、さらに落合文士村。ⅰ章では中村屋サロンがメインで、荻原守衛や斎藤与里ら、光太郎とも縁の深かった面々の作品が並んでいます。その流れで「コラム1 文学と美術」。やはり光太郎と親しかった岸田劉生、有島生馬など。「おっ」と思ったのは宮芳平。シブいところが出ているな、という感じでした。それから、光太郎も寄稿した『白樺』の第1巻第8号(明治43年=1910)と『ARS』の創刊号(大正4年=1915)もこの並びでしょうか。

光太郎、落合系ではメインの佐伯祐三とは直接の関わりはなかったようですが、松本竣介主宰の『雑記帳』には寄稿をしています。また、林芙美子は自著『放浪記』で光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)に触れるなど、かすかな繋がりが。

週末、ぽこっと時間が空きましたので、拝見に伺おうかなと考えております。みなさまもぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)13 『ロダンの言葉』普及版

昭和4年2月28日 叢文閣 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
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目次
 ロダンの芸術(ユージエヌ カリエール)
 ロダン手記
  ヹヌス 原則 フランスの自然 ランスの本寺 夜の本寺 本寺別記
  断片(「本寺」、「真のロダン」其他より) 手紙
 ジユヂト クラデル筆録
 ポール グゼル筆録
  肉づけ 芸術に於ける神秘 動静 断片
 カミーユ モークレール筆録
 フレデリク ロートン筆録
  古代芸術の教訓(一)  同(二) 断片
 ロダンの手帳(クラデル編)

正続2冊セットで刊行され、内容的には大正5年(1916)に阿蘭陀書房から出た初版、同10年(1921)の目黒分店版と同一です。それらがハードカバーでしたが、こちらは並製の廉価版で、繰り返し版を重ねました。当方手持ちのものは最終刷となった昭和12年(1937)9月20日の版です。

カバー背の題字は光太郎自身の揮毫、描かれている裸婦像はロダンの素描です。同一の図案は明治43年(1910)、親友の水野葉舟の小説集『おみよ』のカバーにも使いましたが、同書はこのデッサンのために「風俗壊乱」とされて発禁になってしまいました。

佐藤忠良ら光太郎のDNAを受け継ぐ次世代の彫刻家たちはこの並製本を刷りきれるほど読んだようです。

地方紙『岩手日報』さん、昨日の記事から。

書で迫る高村光太郎 県高校教員展 盛岡

 県高校教員書道展(県高校教育研究会書道部主催)は12日まで、盛岡市盛岡駅西通のキオクシアアイーナで開かれている。墨痕鮮やかな力作が来場者の目を引きつける。
 書道教育に携わる28人の約80点を展示。「高村光太郎に寄せて」の共通テーマに沿って詩文をつづったり、好きな言葉や思いなどをしたためたりして、内容も形式も自由で個性が光る作品が並ぶ。
 事務局を務める盛岡市立の伊藤聖子教諭(43)は「教員の研さんの場であり、訪れる方との交流の機会にもなっている。好きな作品を見つけ、書を身近に感じて欲しい」と願う。
 午前9時~午後5時(最終日は同4時)。各日先着10人に色紙などのプレゼントがある。入場無料。
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この書道展についてはまったく存じませんでした。会場のキオクシアアイーナさんのサイトには先月の時点で予告が出ていましたが、「岩手県高等学校で書道を教えている教員による、地域交流を目的とした楽しい書作展です。」というだけで「高村光太郎」の文字が入っていませんで……。

調べたところ、テレビ岩手さんのローカルワイド「5きげんテレビ」でもちらっと紹介されていました。こちらでも「県内の高校で書道を教えている教員たちのバラエティ豊かな作品が並ぶ教員書道展。毎日先着10名様に今年の干支「午」にちなんだ作品のプレゼントもあります。もしかしたら知っている先生の作品もあるかもしれませんよ。」ということで、光太郎の名が出ていませんでした。
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会期は3日間だけで今日までだそうです。もう少し長くてもいいような気がしますね。それならば光太郎がらみの作品だけでも、花巻の高村光太郎記念館さんか、道の駅はなまき西南さんあたりに巡回して下さるとありがたいのですが……。記事に添えられた写真では、左から2点目の幅が光太郎の書論「黄山谷について」(昭和30年=1955)の一節です。曰く「何よりも黄山谷の書は内にこもつた中心からの気魄に満ちてゐて、しかもそれが変な見てくれになつてゐない。強引さがない」。黄山谷(黄庭堅)は中国北宋時代の書家で、自身も独自の書を残した光太郎がことに愛した一人です。

ちなみに花巻高村光太郎記念館さんでは、現在、花巻南高校さんで芸術書道を選択なさった生徒さんたちの光太郎詩文の書が展示されています。先月伺った際、ちょうどその展示が始まるところでした。同校サイトでも紹介されています。
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光太郎自身は自らを「書家」と定義したことはありませんが、独特の優れた書を多く残し、またその書論も同時代では抜きんでた炯眼によって書かれたものでした。今後とも光太郎と書について、掘りさげられた企画が為されることを切に望みます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)12 『ロダン』 アルス美術叢書普及版

昭和3年(1928)4月4日 アルス 高村光太郎著
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目次
 一、一個の全球
 二、親ゆづり
 三、善い姉さんと腹の出た家と
 四、始まり
 五、実地修行
 六、修道院
 七、下働きと仕立女工
 八、総決算と新時代
 九、苦境と愉楽と
 十、振出しへ返る事
 十一、自己の道
 十二、「歩む人」と「地獄の門」と
 十三、胸像群
 十四、記念像群及「バルザツク」の彫刻的意義
 十五、一九〇〇年以後
 十六、晩年、死、死
 十七、「小さい花子」

昨日ご紹介した、前年刊行の通常版と本文の紙型は同一で、ハードカバーではなくペーパーバックとして出されたものです。

もう少し早くご紹介するべきところでしたが、日付を勘違いしておりました。明日の公演です。

大人のための朗読会『あの空、あの声』-ふるさとの記憶-

期 日 : 2026年1月12日(月・祝)
会 場 : 成増アートギャラリー 東京都板橋区成増3丁目13-1
時 間 : 14:00~15:00 
料 金 : 無料

出 演 : 朗読ワークショップ声流
演 目 : 鹿児島感傷旅行/向田邦子 海酒/田丸雅智 あどけない話/高村光太郎 ほか

遠く離れても、深く心に刻まれた場所…ふるさと  いろいろな想い出、風の匂い、日差し、親しかった人びと…その場所を振り返るとき人は皆、胸を締め付けられる ふるさとを思い起こす朗読会です。
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主催は板橋区成増図書館さん。朗読ワークショップ声流さんによる「大人のための朗読会」は定期的に開催されているようです。平成31年(2019)には『道一その先』のサブタイトルで行われ、やはり光太郎詩「道程」がプログラムに入っていました。

今回は「『あの空、あの声』-ふるさとの記憶-」だそうで、「空」といえば「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。」の「あどけない話」(昭和3年=1928)ですね。

それからフライヤーを見て一瞬、「あどけない話」と同じく『智恵子抄』所収の「梅酒」(昭和15年=1940)かと思ったのですが、田丸雅智氏の「海酒」。やはり主人公が不思議なバーでメニューに書かれた「海酒」の文字を「梅酒」と勘違いするストーリーです(笑)。

ご都合つく方、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)11 『ロダン』アルス美術叢書 24

昭和2年(1927)4月17日 アルス 高村光太郎著
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目次
 一、一個の全球
 二、親ゆづり
 三、善い姉さんと腹の出た家と
 四、始まり
 五、実地修行
 六、修道院
 七、下働きと仕立女工
 八、総決算と新時代
 九、苦境と愉楽と
 十、振出しへ返る事
 十一、自己の道
 十二、「歩む人」と「地獄の門」と
 十三、胸像群
 十四、記念像群及「バルザツク」の彫刻的意義
 十五、一九〇〇年以後
 十六、晩年、死、死
 十七、「小さい花子」

光太郎が終生敬愛したロダンの書き下ろし評伝です。

最終章「小さい花子」は、ロダン彫刻のモデルを務めた確認出来ている限り唯一の日本人・花子こと太田ひさを岐阜に訪ねたレポートです。ひさは森鷗外の短編小説「花子」にも描かれました。

このところ新聞記事ネタが続いていますので、続けます。

昨日の『読売新聞』さん他、地方紙でも同じ記事が出ていました。

[岩手のお風呂2026⑦大沢温泉「湯治屋」]冬の自然美墨絵の世界 文化人魅了 心安らぐ情緒

 しんしんと雪が降る昨年12月上旬、大沢温泉「湯治屋」(花巻市)の本館には、続々と温泉客が入っていった。古い日本家屋のようなたたずまいの本館の建築年代はわかっていないが、板敷きの廊下や障子などは昭和の趣を残し、どこか郷愁を感じさせる。
 窓から雪の様子を眺めながら廊下を歩くと、奥にあるのが混浴の大露天風呂「大沢の湯」だ。風呂にゆっくり肩までつかって景色を眺めると、粉雪の白と、山々の墨色といった美しい自然のコントラストが広がる。眼下に流れる豊沢川や、川をまたぐ「曲り橋」、川の奥にある 茅葺かやぶ き建築のギャラリー「菊水舘」も含め、まるで絵画のような風景にほれぼれする。
 「3月にも来たんだけど、この雪景色が見たくてリピーターになったよ」。神奈川県から訪れた男性(66)はリラックスした表情でそう話す。この自然が数々の温泉客を魅了してきたのだろう。
 ずっと変わらぬ冬景色はもちろん、弱アルカリ性で無色透明の湯は保温性が高く、一度入浴すれば体の中から湧き出る温かさが長く続くという。
 大沢の湯は約1200年前に坂上田村麻呂が傷を癒やしたという伝説が残り、江戸末期には盛岡藩主・南部利剛が湯治に訪れたという由緒ある温泉だ。
 数々の文化人にも愛されてきた。幼い頃に何度も訪れた花巻出身の宮沢賢治は、教師時代に生徒たちを連れて来たこともある。戦時中に花巻に疎開していた彫刻家の高村光太郎は戦後もたびたび足を運び、「本当の温泉の味がする」と評した。
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 大沢温泉は、古い建物の「湯治屋」と新しい旅館「山水閣」、ギャラリー「菊水舘」の三つからなる。近年ではスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーらも湯治屋を定期的に訪れているといい、その縁からジブリ関連の企画展が開催されている。
 湯治屋の支配人・西村真之介さん(53)は、「人の息づかいや人間らしさが感じられる」と魅力を語る。かつては農家や漁業者が仕事が一息ついた冬の時期に数週間投宿して体を休めた。滞在中は海の幸と山の幸などを物々交換したり、漁業者は来期に向けて漁網を手直ししたりし、英気を養っていたという。そうした湯治文化が今につながっており、当時の建物が残る湯治屋では名残を感じられる。
 「変わらぬ文化と自然、そして大沢の湯。絶対の自信があります」と、西村さんは胸を張る。せわしない世間を一時忘れ、心を安らげる力が温泉にはある。

畳の部屋余韻に浸って 
 温泉や公衆浴場は入浴はもちろん、その後の「余韻」に浸るのも 醍醐だいご 味だ。すぐ帰るなんてもったいない。
 湯治屋の待合室は畳の部屋で、温泉を堪能した後、ここで寝っ転がるのが至福の時間だ。1人だったらぼんやりとするのもいいし、友人と訪れたら卓を囲んで会話を楽しむのもいい。漫画もテレビもあり、ゆったりとした時間を過ごすことができる。
 壁にかかっているのは、宮沢賢治が幼い頃に大沢温泉を訪れた100年以上も前の写真。岩手の偉人もこの温泉に触れたのかと、感慨深い思いになった。
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戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、光太郎が何度も宿泊した大沢温泉さんの紹介記事です。

当方も花巻出張の際には可能な限りこちらを利用させていただいております。現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」の関係で、先月も泊めていただきました。次回は同展関連行事のトークイベントのため来月お邪魔します。

豊沢川添いの雪見の露天風呂は格別ですし、記事の最後に紹介されている畳の部屋もマストです。当方、着いた日には夕方、それから朝と、ここで地元紙『岩手日報』さんや『岩手日日』さんに目を通すのがルーティンです。

皆様方も是非どうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)10 『天上の炎』

大正14年(1925)3月25日 新しき村出版部 エミイル・ヹルハアラン著 高村光太郎訳
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目次
 序詩 未来 新しい都 昔の信仰 私の眼よ 誇 機械 熱烈な生活 港の突堤で
 今日の人に
 健康 死者 問題 機会 トンネル 波止場で 私の都 わが友風景 木蔦
 東西南北 森
 花の方へ 並木の第一樹 散歩 或る夕暮の路ゆく人に 題跋詩 私の集

大正10年(1921)刊行の『明るい時』に続き、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(1855~1916)の詩集の翻訳です。

元々、函とカバーが付いていましたが、手持ちのものには欠けています。完全な状態のものはほとんど市場に出ません。

しばらく訳書の紹介が続きましたが、共著を除いて翻訳以外はしばらく出版されませんでした。大正期には光太郎自身、「翻訳をやると一番安全に金になつたから、たとえば「ロダンの言葉」なども一つは生活のために書いた」(「遍歴の日」昭和26年=1951)と述懐しています。

戦前に亡くなった智恵子、その写真は30葉くらいしか確認できていません。それもお嬢様だった少女時代のものが多く、光太郎との結婚後のものは少ない状況です。3年ほど前に、国立国会図書館さんのデジタルコレクションのリニューアルに伴い、昭和3年(1928)4月16日、日比谷の東京会館で撮られた光太郎の父・光雲の喜寿祝賀会でのショットを見つけましたが。
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そんな中、ずっと気になっていた写真がありました。平成5年(1993)発行の『週刊女性』第37巻第14号(左下)や、昭和57年(1982)、暁教育図書さん発行の『日本発見人物シリーズ 大正の女性群像』(右下)に載っていたもの。
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かなり鮮明な写真であるにもかかわらず、いつ、どこで撮られたものか把握出来ていませんでした。

その謎がようやく解けました。

きっかけは1月6日(火)の『東京新聞』さん、「政党政治への期待は、恨みに変わって… 希望を失った民衆は「新しさ」を求め、「国家や天皇」に流れた」という記事。

記事自体は慶応大学さんの松沢裕作教授(日本近代史)への取材を通し、1920年代頃の国家主義が台頭した時代を追うもので、女性参政権運動にも触れられ、その一翼を担ったのが平塚らいてうだったため、「東京・新宿の中村屋に集う婦人参政権運動を進める青鞜社の旧同人たち=1929年6月26日(日本電報通信社撮影、共同)」というキャプションで、下記の写真が載りました。ちなみに記事本文にはらいてうや智恵子の名も『青鞜』誌名も書かれていませんでしたが。
1929年6月26日(日本電報通信社撮影、共同)
右から二人目がまさしく智恵子。拡大するとこんな感じです。
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昭和4年(1929)6月26日というと、キャプションの通り新宿中村屋で『青鞜』旧同人の同窓会的な集まりが持たれ、そのショットでした。この模様は当時の『朝日新聞』で報じられています。
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写真も添えられていましたが、不鮮明な上に、肝腎の智恵子は野上弥生子の陰に隠れ、顔がはっきり写っていませんでした。
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これとほぼ同時に写されたのが、『東京新聞』さんに載ったもので、上記の『週刊女性』などに載った写真はここから採られたものでした。

『朝日』記事には写っているメンバー全員の氏名が並び順に紹介されており、それを信用すると下記のようになります。
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「小野よし子」「藤浪和子」はそれぞれ創立メンバーの保持研子、物集和子です。大正12年(1923)に殺害された伊藤野枝や、カナダ在住だった田村俊子がいないのはともかく、富本一枝(尾竹紅吉)、木内錠子、中野初子、岡本かの子、岡田八千代らの姿も見えないのは残念ですが。

しかし智恵子、凜とした目つきですね。いわゆる「目力」に圧倒されそうです。この2年後には心の病が顕在化するのですが……。

とにかく写真が少ない智恵子、この後も新たなショットが見つかることを祈念いたします。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)9 『リリユリ』

大正13年(1924)5月10日 古今書院 ロマン・ロラン著 高村光太郎訳
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目次 なし

『リリユリ(Liluli)』は光太郎が敬愛していたロマン・ロラン(1866~1944)の戯曲。大正7年(1918)に原典が刊行されました。光太郎、2年後には片山敏彦、尾崎喜八、倉田百三、高田博厚らと「ロマン・ロラン友の会」を立ち上げます。

昨年開催されたイベントの報道が最近為されていますので、ご紹介しておきます。

まず、11月13日(木)~11月30日(日)に茨城県取手市の東京藝術大学大学美術館取手館さんで開催され、光太郎の卒業制作「獅子吼」石膏原型が展示された「藝大取手コレクション展2025」につき、同市の『広報とりで』今月号。

発見~開館30周年と収蔵棟完成を祝う祭典! 「藝大取手コレクション展2025」

 令和6年に開館30周年を迎えた東京藝術大学大学美術館と、 未来の学生たちの作品を十分に保管できるスペースを持った取手収蔵棟が同年竣工したことを記念し、「藝大取手コレクション展2025」が令和7年11月13日から30日まで開催されました。取手東小学校の3年生も学校行事でコレクションを鑑賞しました。鑑賞した児童からは「いろいろな作品が見られて楽しかった。作品ごとに違う雰囲気や面白さがあった」と話し、“アートのまち取手”ならではの貴重な体験をしました。
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学校教育との連携は大切なことですね。未来のアーティストや評論家などが生まれる一つのきっかけとならないともかぎりませんし。

続いて11月30日(日)に港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」につき、青森の地方紙『東奥日報』さん。同紙では翌日にもすでに報道して下さったのですが、改めて昨年大晦日に長い記事にして下さいました。

十和田湖の未来を語る東京フォーラム 11月30日に東京で開催 先人の思いを礎に「感動体験」が人を呼ぶ好循環へ

 山は富士、湖水は十和田、広い世界に一つずつ――。明治・大正期の文人で、俳句や美文で十和田湖や奥入瀬渓流の自然美を世に紹介した大町桂月が、蔦温泉で没して100年。今や十和田八幡平国立公園は本県を代表する観光地となっています。「十和田湖の未来を語る東京フォーラム」が11月30日、東京都港区の赤坂区民センターで開かれました。大町の人柄や功績、本県との関わりを振り返り、十和田湖と周辺地域の未来に視線を向けたフォーラムの様子を紙面で採録します。

蔦温泉で二度越冬
 フォーラムは東京青森県人会の主催で、参加者の皆さんは十和田湖の歴史、自然、文化、観光に詳しい方々による講演とパネルディスカッションに熱心に耳を傾けていました。大町桂月(以下、桂月)の足跡をたどり、業績を後世に伝える活動を続けている「大町桂月を語る会」の谷川妙子事務局長は、桂月が「日本の昔の好い人情が東北のこの地にまだ残されている」と話していたことや、二度の越冬時にはユーモラスな絵と文で厳冬期や春の雪解けなども楽しんだ滞在の様子を書き残していることを紹介しました。
 また、「『十和田湖一帯の地は山水の衆美(しゅうび)を集め啻(ただち)に日本に秀絶(しゅうぜつ)するのみならず世界に冠絶(かんぜつ)す』という美文で固めた請願文が大きな反響を呼びました」と、筆の力で国立公園に大きく押し上げた桂月の功績をたたえました。

湖の感動を表した像
 十和田湖のシンボルとして愛されている「乙女の像」について、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が制作に至る経緯などを解説しました。像の設立は国立公園15周年を記念して、十和田開発の功労者である大町桂月、青森県知事の武田千代三郎、十和田村長で県会議員の小笠原耕一の三氏の功績を讃える目的で、詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が制作。高村は、桂月と同様に自分が湖から受けた感動をそのまま正直に表す思いで像を造ることとし、完成後の像は自分の手を離れて十和田湖の自然の中に溶け込むことを願っていたというエピソードを紹介しました。

感動体験から保護・活用へ
 初任地が十和田湖事務所だったという環境省自然環境局国立公園課長の長田啓さんは、「自然豊かな日本で一番贅沢な通勤路だった」と話し、会場を沸かせました。その上で、十和田八幡平国立公園は環境省が世界に誇れる国立公園を作る「国立公園満喫プロジェクト」において全国の先行的な取り組みを進める地域の一つに選ばれていることを紹介。訪れた人の感動体験が公園を「守ろう」という意識づけになり、利用によって得られる利益が保護に回る好循環を目指しています。神秘的な自然美、十和田神社の信仰といった歴史文化を守りながら宿泊施設の整備などで滞在環境の上質化を進め、国内外からより多くの訪問者が来ることへの期待を伝えました。
 ゼネラル・プロデューサー山田安秀氏は、地域の歴史や自然文化の複合的な価値と、将来を考える機会になればと話し、パネルディスカッションを締め括りました。
 フォーラムの最後に登壇した桂月のひ孫にあたる大町芳通さんは、「桂月が愛した十和田の素晴らしい自然を青森の観光資源として維持、活用することを知恵を持って成し遂げていただき、地元がもっと発展するよう祈っています」と謝辞を述べ、会場からは大きな拍手が送られました。

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この他、大町桂月の詳細なプロフィール、フォーラム登壇者の全氏名と肩書き、東京青森県人会役員の方々からの「応援メッセージ」などが掲載されていますが、長くなるので割愛します。

また改めてご紹介しますが、十和田湖では今月末から来月末にかけ、「乙女の像」ライトアップも為される「第28回十和田湖冬物語」というイベントも開催予定です。ぜひ足をお運び下さい。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)8 『明るい時』

大正10年(1921)10月15日 芸術社 ヹルハアラン著 高村光太郎訳
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目次
 序文
 明るい時
  一 おうさんらんたるわれらのよろこび     二 無言のままわれらの歩く
  三 この野蛮な柱頭              四 夜の空はひろがり
  五 いつでも、かほど純真にふかい     
  六 あなたは時としてあのなよやかな美を示す
  七 おう! 戸を叩かせて置かう        八 あどけない頃のやうに
  九 わかい、気のやさしい春は         一〇 しづかに来て                        
  一一 火のやうな恍惚の眼をして        一二 長い間私のくるしんでゐた時 
  一三 どういふわけか何故なのかいはれは何か
  一四 黄金と花との階段をしづしづ降りる    
  一五 私はあなたの涙に、あなたの微笑に       一六 私はあなたの二つの眼の中に
  一七 われらの眼を愛するため                   一八 われらの愛の園に、夏はつづく
  一九 あなたの明るい眼、あなたの夏の眼が   二〇 言つてごらん                        
  二一 われら自身以外の一切のものを            二二 おお! この幸福!                  
  二三 生きませう               二四 われらの口の触れ合ふやいなや
  二五 底知れぬ深さ神のやうに聖い       二六 たとひもう、こよひ                  
  二七 からだを捧げるとは、魂のある以上   
  二八 われらのうちにたつた一つの心やさしさ  二九 炎に花咲く美しい庭は                
  三〇 もし万一にも                        
 小曲二章
  小さな聖母  サンジヤンさま
 二篇
  風をたたふ  吾家のまはり

ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(1855~1916)が、妻のマルト・マッサンとの日々を謳った連作詩「明るい時」の翻訳を根幹としたものです。後の『智恵子抄』が想起されます。

光太郎による序文では、「詩の翻訳は結局不可能である。意味を伝へ、感動を伝へ、明暗を伝へる事位は出来るかも知れないが、原(もと)の「詩」はやはり向うに残る。其を知りつつ訳したのは、フランス語を知らない一人の近親者にせめて詩の心だけでも伝へたかつたからである。」と記されています。言わずもがなですが、「フランス語を知らない一人の近親者」は智恵子です。

今日明日と、遡って旧臘中の報道をご紹介します。

まず、12月28日(日)付けの『朝日新聞』さん岩手版。

花巻の鉛温泉・藤三旅館本館と白猿の湯 国登録有形文化財に

 多くの文豪が滞在、執筆したことでも有名な岩手県花巻市の鉛温泉・藤三旅館本館と白猿(しろざる)の湯が、国登録有形文化財(建造物)に登録される見通しになった。国の文化審議会が11月、文部科学相に答申した。
   藤三旅館本館は豊沢川沿いに建つ1941年建築の木造3階建て。南面東寄りに唐破風(からはふ)造りの玄関が突出し、入母屋(いりもや)屋根になっている。内部は各階の廊下の南北に客室が並んでいる。
 岩盤をくりぬいた白猿の湯は深さが1・3メートルあり、浴槽に立って入る。浴槽の周囲の床は石敷きで重厚な造り。上部は吹き抜けで開放的な雰囲気だ。
 県内の登録有形文化財(建造物)は今回を含めて111件になる。
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花巻の有形文化財建築といえば、ここと山一つはさんだ花巻温泉さんの旧松雲閣別館、市街地の旧菊池家住宅西洋館と、それぞれ光太郎の足跡が残る建造物です。そして今回も。「多くの文豪が滞在」とあるうちの一人が光太郎です。戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、確認出来ている限り、昭和23年(1948)に3回、一泊ずつ宿泊しています。

まず4月25日の日記。

朝、村長さん来訪、どこかへ一緒に遊びにゆきたしと誘はる。今日円万寺観音山の祭に行く予定の旨答へる。午后村長さんも観音山に来て夕方より鉛温泉に一泊する事約束。(略)四時頃村長さん奥さん尋ね来る、五時辞去。 奥さんと共に二ツ堰。村長さんも自転車でくる。共に鉛温泉行。七時過着、入浴、酒、夜食。

「観音山」は親しくなった僧侶にして仏教学者の多田等観が暮らしていた山、「二ツ堰」は当時鉛温泉方面に走っていた花巻電鉄の駅です。「尋ね」は「訪ね」の誤記ですね。

翌26日。

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同浴場にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。 沼田の吉二さんといふ人村長さんを訪ね来り、濁酒一升もらひ皆でのむ。 吉二さん(村の肴配給掛)と同宿。朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。

続いて5月11日。

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳あたらし。 入浴、抹茶、夕飯後又抹茶、甚だ快適なり。入浴客も少し。椛沢さんも喜ぶ。 夜宿の主人と帳場の老人話にくる。史跡の話などきかせる。椛沢さん詩の朗読をしてきかせる、夜十一時半に至る。自然風呂の方の温泉に入浴。一人も客無し。十二時頃ねる。 セキも多く出ずよくやすむ。 雨もふらず。心地よし。

「椛沢さん」は椛沢佳乃子。戦時中からの知り合いで、東京から訪ねてきたお茶の先生です。

翌12日。

朝七時頃までねてゐる。 入浴。 朝食後抹茶。 午后一時十七分の電車にてかへる事にきめ、中食をたのむ。談話、休憩、入浴、十二時中食丼なり。会計をすます。五百円と少し。少々やす過ぎると思ひしが帰宅後うけとりを調べると宿料一人分のみ記入しあり。余の分をとらざりしと見ゆ。宿の主人電車まで送り来る。県道が秋田大曲の方へ開ける由語る。今は客二百名位。八月には千名余になる由。

「三階三十一号室」には当方も一度泊めていただきました。ほぼ当時のままのようでした。

さらに5月18日。

午后支度して宮崎さんと一緒に出かけ、二ツ堰より電車にて鉛温泉。 乗車中豪雨降る。後止み、晴れる。温泉にては前と同じ31号室(三階)。宮崎さんも喜ばる。鉛の共同風呂に入浴。この湯甚だよろし。あまり混雑せず。持参の玉露を入れたりする。休憩。 夜食時濁酒半分ばかりのむ。 幾度か入浴、十時頃ねる。

「宮崎さん」は姻戚の茨城在住だった詩人・宮崎稔です。

翌朝。

午前八時〇七分の電車にて花巻西公園まで。弁当のむすびをもらふ。宿にて米を少し返却し来る。会計全部にて435円也。

確認出来ているのはこの三泊ですが、昭和24年(1949)と25年(1950)の日記が失われている他、それ以外の時期にも日記が抜けている時期もぽつぽつあり、もう少し多いかもしれません。

生前最後の談話筆記「花巻温泉」でも、大沢温泉さん、台温泉さんなどとともに鉛温泉さんに詳しく触れています。

 花巻の駅から一時間かかって、やっとたどりつく四つ目の駅、鉛温泉は、かなり上った山奥の湯で、今はラッセルがあるから心配はないが、私がいた頃は雪が降ると電車が止って厄介だった。
 鉛温泉の湯は昔から名湯とされている。非常に大きな湯舟が一軒別棟でできていて、一杯の人が入っている。その様を小高い所から見下せるが、まるで大根が干してあるように人間の像がズラリと並んで、それは壮観である。
 たいていの温泉は引湯だが、鉛はじかに湯が湧いている。湯の起りの底の砂利を足でかき廻すとプクプクあぶくが出てきて身体中にくつついてピチンとはねるのも面白いが、大変薬効のある湯といわれている。
 昔は男女混浴で、お百姓さんや、土地の娘さんや、都会の客などがみんな一緒に湯を愉しんでいたが、だんだんに警察がうるさくなって、「男女区別しなけりやいかん」ということで、形式的に羽目を立てた。が、これがまた一層湯を愉しくした。
 はじめのうちは男女両方に分れて入っているが、土地の女というのが男以上に逞しくて、湯に入りながら盛んにいいノドをきかせる。と、男の方はこれに合せて音頭をとりだし、しまいに掛け合いで歌をはじめ、片方が歌うと片方が音頭をとるというわけで、羽目をドンドンと叩くからたまらない、羽目がはずれて大騒ぎになる。なんとも云えない愉しさだ。
 宿もこんな山の中によく建つたと驚くような大きなもので、鉄筋コンクリート建である。


この「鉄筋コンクリート建」が、今回、有形文化財登録になるという本館と思われますが、冒頭の記事では「木造」となっています。思うに純粋な木造ではなく、コンクリートとの折衷ではないかと。

ちなみに『朝日』さんでは暮れに報じていてその時点で気づいたのですが、既に11月には地元で報道が為されていました。

IBC岩手放送さんのローカルニュース。

鉛温泉・藤三旅館と白猿の湯が国の登録有形文化財に 岩手・花巻市

 岩手県花巻市の鉛温泉にある旅館と浴室用の建物2件が、新たに国の登録有形文化財に登録されることになりました。
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 国の登録有形文化財に登録されるのは、花巻市鉛の「鉛温泉藤三旅館本館」です。この建物は1941年に建てられ突き出した玄関の屋根が曲線の美しい唐破風造(からはふづくり)となっています。
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 もう1件は、この旅館の浴室用の建物「白猿の湯」です。建設時期は昭和の前期で、中には岩盤をくり抜いた深さ約1.3メートルの大浴槽があり、上が吹き抜けとなっています。県内にある国の登録有形文化財は、今回を含め111件となります。
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『朝日』さんに戻りますが、「多くの文豪が滞在、執筆したことでも有名」とあるうち、「滞在」には宮沢賢治が含まれます。童話「なめとこ山の熊」に「腹の痛いのにも利けば傷もなほる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありといふ昔からの看板もかかつてゐる」という記述があります。元々、藤三旅館の経営者だった藤井家は宮沢家とは親戚関係でした。熊といえば、つい先日、宿泊した際には白猿の湯ではない豊沢川沿いの露天風呂で熊とニアミスがあり肝を冷やしました。

また「執筆」は田宮虎彦。「銀心中」という短編小説はこの宿をモデルにし、ここで書かれたそうで、公式サイトでもそのあたりが紹介されています。忘れ去られつつある作家に光を当てるのも大事ですが、先述のようにいろいろ書き残している光太郎ももっと前面に押し出していただきたいのですが……。

ところで、光太郎が泊まったというと、鉛温泉さんよりやや南の大沢温泉さん。こちらの自炊部は江戸時代の建築ですし、光太郎も愛した露天風呂「大沢の湯」も歴史あるなかなかの風情で、一説には能舞台を模した造りとも言われているようです。こちらもぜひ有形文化財登録を目指してほしいものです。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)7 『回想のゴツホ』

大正10年(1921)4月22日 叢文閣 エリザベツト・ゴツホ著 高村光太郎訳
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目次
 小序 
 一 準備
 二 はじまり
 三 再び仏蘭西へ
 四 をはり
 附録 ゴオガンに宛てた手紙 最後に就てのゴオガンの手紙 略年譜 挿画目録

フィンセント・ヴァン・ゴッホの妹であるエリザベットによる兄の回想録です。

これも本来カバー付きですが、手元のものはカバーが欠けています。カバー付きが市場に出ることはまずありませんので半分諦めているのですが、若松英輔氏のモクレン文庫さんで数年前に出ました。その稀少価値をご存じなかったのか、超廉価で。気づいた時には既に売れていました。

明日からは昨年暮れの報道等を紹介しますが、それに先だって松の内の間に正月っぽいネタを。

元日の『日本経済新聞』さん文化面から。

騎馬像は馬も上手い? 名将支える相棒、国内150体巡る  山口洋史(元JRA職員)

 伊達政宗、山内一豊、前田利家、井伊直政――。武将たちをたたえる騎馬像を見上げた時、注目されるのは主役の偉人だ。となると、下の馬は見過ごされがち。
 馬好きの多くは、生きた馬の美しさに魅了されて、彫像は見向きもしない。かくいう私も同類。仕事の前に馬に乗れると聞いて日本中央競馬会(JRA)に就職したくらいだ。
 騎馬像の馬を意識したきっかけは、2011年のイタリア旅行だ。ずっと見たかったダヴィデ像への道すがら、騎馬像に出会った。コジモ1世だ。馬は丸々と肥え、頭が小さく、軽快に動いているように見えた。でも、私が好きなのはサラブレッド。ちらっと見て、通り過ぎた。
 その後も騎馬像に出会う。フェルディナンド1世、エマニュエル2世、マルクス・アウレリウス帝。妙に印象に残った。
 帰国後しばらくして馬事講座のネタ探しをしていた時、ふと騎馬像を思い出した。案外面白いのでは。とはいえイタリアには簡単には行けない。日本の騎馬像でも巡るか。なんとなく始まったが、結局150ほどある各地の像を制覇した。
 日本の騎馬像でまず外せないのが皇居外苑(がいえん)にある楠木正成像だ。騎馬像巡りで最初に見た像だが、馬をずっと見てきた私でも驚くほど、とにかく馬が上手(うま)い。正成がイケメンなのもいい。
 1900年に完成したこの像は、別子銅山200年記念事業として当時の東京美術学校(現東京芸大)を代表する芸術家が集まって作った。高村光雲が正成の顔を作り、歴史画家の川崎千虎が史実を踏まえて甲冑(かっちゅう)の図案を作り、彫刻家の後藤貞行が実際の馬の解剖もしながら馬を担当した。原型作りに3年、完成まで10年かけた。
 馬はグーッと力を入れて進もうとするが、正成が手綱を引く。顎がぐっと後ろに引っ張られた馬は興奮しているのか、前膝を高く上げて目を見開いている。胸前、前肢の付け根、おしりの筋肉も盛り上がって、全身に力を蓄えている。
 「この体勢はありえない」。写実性を重視した後藤は、光雲に抗議したという。だが誇張やデフォルメで、前進する力とそれを引き留める力が拮抗する緊張感が伝わる。
 完成当初は馬が大きいという批判もあったらしいが、現代の目で見ると逆に馬が小さく、首も少し短く感じるかもしれない。ただ、とにかくエネルギーはすごい。
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 正成像は、日本でほぼ最初に作られた近代的な騎馬像だ。これだけ人と時間と費用をかけて最初からこんなものを作ったら、後続はどうしても似てしまう。
そんな中、独自路線を行く像もある。
 例えばJR鹿児島本線伊集院駅前にある島津義弘像。馬は後肢をぐっと曲げて踏ん張り、頭を左に少しひねりながら前半身を高く上げている。馬の首の部分の筋肉の力強く張り詰めた膨らみ、全身の流れるような美しいライン。前歯や後歯、歯が生えていない歯槽間縁も正確に作られている。同じ騎馬像でも馬の力強さを別の形で描写した彫刻家の中村晋也の想像力に圧倒される。

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 ところが、そもそも馬を理解せずに作られたものもある。馬の肢(あし)は人間の脚とは違う。私が見た限りでは、馬の肢が本来とは逆向きに、まるで人の腕や脚のように曲がった像が2体ほどあった。
 こんなの許せない――。当初はそう思った。でも、騎馬像を見ていくうちに考えは変わった。馬のひづめや蹄鉄(ていてつ)の正確さまで、ちゃんと捉えているのは彫刻家の北村西望ぐらい。それでも多くの像は、地域で大切にされている。精いっぱいの思いが込められている。
 愛知県吉良町(現西尾市)といえば、忠臣蔵の吉良上野介の地元だ。ここには、6体もの上野介の騎馬像があった。日本中に悪役と思われても、地元はこの殿を支えるという意気込みだろうか。
 北海道江別市の榎本公園にある榎本武揚像の馬は、いかにも騎馬像らしいダイナミックさはない。でも華奢(きゃしゃ)な体にもかかわらず目はキリッとしていて、武揚の指示をじっと待っている。旧幕府、新政府の両方で重用された偉人も、相棒の馬といつも一緒にあちこち回ったのかもしれない。
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 船に乗りレンタカーを借りて佐渡島の山奥の公園にたどり着くと合戦開始目前、2人の騎馬兵が向き合う像があった。馬の像はやや詰めが甘いところがあるものの、全体としてダイナミックだ。
 ところがはるばる来た公園の近くにあるのは公衆トイレぐらい。30分ほど見ていたが、そばを通るのはトイレを目指す地元の人ばかり。せっかくの騎馬像、もう少しかっこつけてあげてほしいが、史実に忠実に場所を選んだ結果なのだろう。
 作り手や設置者の思い、あるいは何かしらの事情が垣間見える騎馬像は、今の時代にも新たに作られている。どうせなら愛される像を作ってほしい。願わくば、馬にもどうか気を使ってあげてほしい。

当会としての今年の年賀状図案に使った皇居外苑の「楠木正成像」を真っ先に挙げて下さいました。ありがたし。

執筆された山口氏、元JRA職員とのことで、見方が違いますね。楠公像に関しては「前進する力とそれを引き留める力が拮抗する緊張感」という評がまさに我が意を得たり、という感じでした。

楠公像の馬を担当した後藤貞行は、このために東京美術学校に雇われました。光雲が当時の校長だった岡倉天心に頼み込んでの実現でした。後藤が「この体勢はありえない」と言ったエピソードは、光雲の談話筆記『光雲懐古談』を昭和42年(1967)に中央公論美術出版さんが『木彫七十年』の題で復刊した際に附された、光雲三男にして家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ豊周による「あとがき」に語られています。

 楠公の馬は左足を勢いよくあげ、踵を上へまげている。ここが問題になった。馬の専門家である後藤さんは馬の足というものはあんなにあがるものではない、それは嘘だといって反対した。けれども父が話すには、嘘でも馬が勢い込んで走ってくるところを手綱をぐっとひきしぼる、勢いが余って足があがる、その動きの激しいところをみせるためにも、また銅像全体としてみて、颯爽とした形のいいところをみせるためにも、例え嘘でもよいから片足をあげないと格好がつかない、そういうことを父はいったけれども、後藤さんは何しろ正確なことを尊ぶ本当の研究家だから、嘘になるから私は出来ないという。それで非常に困ってしまった。父は、いや芸術というものはそういうものではない、時には嘘でもよいのだ。その嘘を承知の上で作った方がかえって本当に見えるんだ。本当の馬のように作ると、かえって、少しも馬の勢いが出てこない、動勢というものがあらわれてこない、それではなんにもならない。嘘が本当にみえればそれでよいのだから、その気持ちをのみこんでもらわなくてはいけないということを、銅像制作の主任としての立場から、父はめんめんとして後藤さんを口説き、やっとのことで嫌がる後藤さんに承知してもらったという。

この件は『光雲懐古談』本文には記述がありません。それを書き残して置いてくれた豊周、グッジョブですね。もちろん、こうした措置を執った光雲、その提案をのんだ後藤もですが。まぁ、こうしたデフォルメは彫刻としては初歩的な技法ですが。しかし、こうした点、山口氏曰く「作り手や設置者の思い」を知った上で見るのと、そうでないのとではまるで見方が変わってくると思われます。

午年の今年、全国に150体以上あるという騎馬像、少し注意して観てみてください。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)6 『ロダンの言葉』目黒分店版

大正10年(1921)11月28日 目黒分店 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
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目次
 ロダンの芸術(ユージエヌ カリエール)
 ロダン手記
  ヹヌス 原則 フランスの自然 ランスの本寺 夜の本寺 本寺別記
  断片(「本寺」、「真のロダン」其他より) 手紙
 ジユヂト クラデル筆録
 ポール グゼル筆録
  肉づけ 芸術に於ける神秘 動静 断片
 カミーユ モークレール筆録
 フレデリク ロートン筆録
  古代芸術の教訓(一)  同(二) 断片
 ロダンの手帳(クラデル編)

大正5年(1916)に阿蘭陀書房から出た初版と装幀は異なりますが、中身の紙型は同一のようです。阿蘭陀書房は大正6年(1917)に社名をアルスと改称、そのあたりのバタバタもあってか『ロダンの言葉』の重版が十分に出来なかったようで、目黒分店版が刊行されました。

のちほどご紹介しますが、叢文閣からの正続2冊組の普及版も出されます。

松の内の間に正月っぽいネタを片付けてしまおうと思います。

『京都新聞』さん、元日の「社説」。

社説:新しい年に 京都、滋賀に希望の物語紡ごう

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 京都の書店で、画集の上に「檸檬(れもん)」を置いて出てきたと小説に書いたのは、梶井基次郎である。
 病床にあった詩人高村光大郎の妻は、レモンを<きれいな歯ががりりと嚙んだ(略) 天のものなるレモンの汁はぱつとあなたの意識を正常にした>(智恵子抄(ちえこしょう))
 私たちの舌と多くの芸術家を刺激してきた酸っぱいレモンが、京都で作られている。5年ほど前から始まった挑戦の結実だ。
 仕掛けたのは農産物加工品の製造・販売会社「日本果汁」(京都市下京区)。健康志向で拡大する国産レモンの需要に、生産が追いつかない。取引のある農家や専門家に、京都での栽培を打診する。

未来を刺激する実り 
 舞鶴、亀岡、木津川、京田辺など府内20超の農家が手を上げた。行政や企業の支援も得て、耕作放棄地を活用。防寒対策など2年ほどの試行錯誤で木が根付く。
 実の凍結を防ぐため、黄色になる前に早摘みする工夫で、先月に終えた年間収穫は7トン前後。「京檸檬」として加工品用に出荷し、地元の宝酒造(伏見区)が酎ハイ、ロマンライフ(山科区)が洋菓子に用いるなど商品化している。
 日本果汁の河野聡社長は「新たな特産品で持続可能な地域づくりに貢献できれば。目標は10年以内に100トン。生食や京料理などでの使用にも広げたい」と話す。
 府南部では鮮烈なグリーンのレモンが、茶園やネギ畑のそばで実っていた。緑の競演だ。<がりりと嚙んだ>ら通常より酸味が柔らかい。京の名前が良く似合う。多くの人の口に届いてほしい。

つなぎ、つながる多様性
 本紙は昨年から一つの地域で、複数の地方版を読めるように紙面を改めた。京都、滋賀で多くの人やグループ、団体が「わがまち」の資源を生かしたり、新たに作り出したりして地域社会を動かすニュースを連日、報じている。
 そこから読み解けるのは「つながり」「つなぐ」ことの大切さだ。糸をたぐり京滋に希望の物語を紡ぐ-。次の主役は、あなたやあなたの周囲の人かもしれない。
 政治には、そうした営みを後押しする方策を求めたい。
 30年来続けてきた国の少子化対策は、めぼしい効果をもたらしていない。結婚や出産、子育てについて行政が環境を整えることは重要だが、いずれも個人の自由であり、それでただちに出生率が持ち直すわけではない。
 結婚をためらう非正規労働者など雇用環境の改革、「伝統的な家族観」を女性に押しつける考え方など、複合的な社会の障壁を除くことが必要である。「多様性」と「寛容」が鍵になろう。
 ここ10年、政府が旗を振った「地方創生」も残念ながら、地域社会を疲弊させた面が大きい。官邸と霞が関が中央統制を強め、自治体間で住民や税金、補助金を奪い合わせたからだ。
 国は人口や経済成長をコントロールできるという幻想の物語を振りまき、真に必要な改革から逃げてきたのではないか。政府推計で、15年後には生産年齢人口(15〜64歳)が今より1100万人も減る。不都合でも直視したい。
 その点で、地方創生について政府自身が検証報告で行き詰まりを認め、昨年6月に閣議決定した今後10年の基本構想に「人口減少を正面から受け止め、誰もが安心して生活できる適応策を講じる」と明記したのは意義深い。
 地域社会の持続的な発展には、性別や世代、国籍を問わず支え合い、参加し、ゆるやかに連帯する暮らしと働く場が欠かせない。

政治が亀裂深めるな 
 それを支えるのは、医療・介護や教育施設、交通網、農林漁業といった広義のインフラだろう。東京大や同志社大で教えた経済学の泰斗、故宇沢弘文氏は「社会的共通資本」と呼んだ。
 人口減への適応策として、国と自治体は、その維持を優先すべきだ。「縮むまち」に合わせて、身の丈を整える青写真を各自治体は描く時ではないか。
 それを国は支えつつ、自らも人口減・低成長に即した「日本のかたち」を示し、「成熟型」の社会保障や財政、経済戦略を再構築すべきである。負担のわかちあいなど厳しい面もあろうが、次世代へのツケ送りは慎まねばならない。
 心配なのは、つながり、共に生きるより、交流サイト(SNS)を介して対立や不確かな情報をあおり、自分と考えの違う人や少数者、外国人を排撃する動きだ。
 昨秋、高支持率で出発した高市早苗政権は、その波頭に乗っているかに見える。持論や右派の支持層向けの言葉が、日本を分かつ壁を築いていないか。
 分断の溝を埋めるのは、誰もを包み込む地域社会に違いない。

よくある話のマクラに光太郎智恵子が使われるパターンですが(笑)、それも大歓迎です。マクラにさえ使われなくなったらゆゆしきことです。

「京檸檬」のブランド名で、レモンの栽培が拡がっているとのこと。調べてみたところ、社説で紹介されている日本果汁さんとロマンライフさんが会員企業、宝酒造さんが協賛企業として名を連ねている「京檸檬プロジェクト協議会」という団体さんがいろいろと頑張ってらっしゃるようです。
011
耕作放棄地の活用など、意義のある取り組みですね。「京檸檬」と漢字にしているのもシャレオツなイメージです。まぁ何であっても「京××」としただけで垢抜けした感じになるような気がしますが(笑)。

意外と寒い京都ですが、「実の凍結を防ぐため、黄色になる前に早摘みする工夫」だそうで、そうすると智恵子の故郷・福島や光太郎ゆかりの岩手でも不可能ではないかもしれません。関係の方、ご一考をお願いしたいところです。

さらに社説では少子化や地方の問題、分断主義や排外主義の台頭への憂慮等も語られています。この国が「美しい国」であるために為すべきことは何なのか、年頭に当たって考えたいものです。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)5 『自選日記』

大正10年(1921)9月17日 叢文閣 ウォルト・ホイットマン著 高村光太郎訳
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目次
 序。大英帝国島に於ける諸君へ
 幸福な時間の命令 懇望する友への返事 系統――ヷンヹルサルとホヰツトマン
 古いホヰツトマン及びヷンヹルソルの墓地 母方の屋敷地……二つの昔の家族の内部
 ポマノクと、私の子供として又若者としての其処での生活 
 私の最初の読書――ラフアイエツト 印刷所――昔のブルツクリン 成長――健康――為事
 渡しに対する熱情 ブロードヱーの光景 乗合馬車旅行と馭者 芝居も歌劇も
 八年間――性格の源泉――結果――一八六〇年 南北戦争の開始
 国民の蹶起と義勇兵の志願 驕慢の気……ブルランの戦、一八六一年七月
 昏迷は去る――別の事が始まる 戦線にて 最初のフレデリツクスパーグ戦の後
 ワシントンに帰る 負傷のまま戦場に置かれた五十時間 病院の光景と人物
 専売特許局病院 月光下のホワイト ハウス 一軍隊病舎 コンネチカツトの一患者
 二人のブルツクリンの子供 分離派軍の一勇者 チヤンセラースヸルからの負傷兵
 夜戦、一週間余以前の事 最も勇敢な兵卒は名も知られずに居る 或る代表的患者
 私の訪問準備 傷病兵運搬車の行列 重傷――青年 戦時の壮観中最も元気あるもの
 ゲツチスバーグの戦 騎兵の野営 ニユーヨークの一兵卒 手製の音楽 
 アブラハム リンカーン 炎熱期 兵卒と談話と ヰスコンシンの一士官の死 病院の概観
 静かな夜の散策 兵卒中の霊的性格者 ワシントン附近の牛の群 病院の混雑 戦線にて
 奨励金支払 流言、異動、其他 ヷージニヤ 一八六四年の夏
 アメリカに適する新らしい軍隊組織 一英雄の死 病院の光景――偶発事
 ヤンキーの一兵卒 南方に於ける合衆軍の捕虜 脱走兵 戦争地獄図の一瞥
 贈物――金銭――分つた事 ノートブツクからの数項 第二ブルランからの一患者
 軍医――援助の欠乏 到る処青 模範病院 軍隊中の子供達 一看護婦の葬式
 兵卒にとつての女性看護へ 南軍の逃避兵 瓦斯燈下の政庁 就任式
 戦時に於ける外国政府の態度 天候―天候も此の時勢と照応するか 就任式舞踏会
 政庁に於ける一光景 古典的一ヤンキー 傷病兵 大統領リンカーンの死
 シヤーマン軍の歓呼――その突然の停止 リンカーンの善き肖像無し
 南軍から放免された合衆軍の捕虜 ペンシルヷニアの一兵卒の死 凱旋軍隊 大観兵式
 西部の兵卒達 一兵卒のリンカーン観 二人の兄弟、一人は南、一人は北
 痛ましい患者がまだゐる カルフーンの真の記念像 病院閉鎖 模範的兵卒 「痙攣的」
 三個年の総〆 百万の死の同じく総〆 真の戦争は書物の中に決して無い 中間の一節
 新らしい主題に入る 長い農家の小径に入る事 泉と流とに 初夏の起床喇叭
 真夜中に渡る鳥 くまん蜂 シダー(杉)の実 夏の風物と安逸
 日没のかをり――鶉の声――ハーミツト鶫 池の畔の七月の午後 ローカストとケチヂツド
 木の教訓 秋日小景 天空――昼と夜――幸福 色彩――対照 七六年十一月八日
 烏、烏……海岸の冬の一日 海浜の空想 トマス ペーンの追憶 二時間の氷上の渡船
 春の前奏曲――嬉戯 一つの人間の奇癖 或る午後の光景 門は開かる 大地、土
 鳥、鳥、鳥 星に満ちた夜 マリン、マリン……遠方の物音 日光浴――裸体 樫の木と私
 五行詩 初霜――おぼえ……三人の若者の死 二月の日 メドーラーク……日没の光
 樫の木の下での思ひ――夢 クロヷーと刈草の匂 知らぬもの
 鳥の啼声……馬薄荷……われら三人 ヰリヤム カレン ブライヤントの死
 ハドソン河を遡る 幸福とラズベリーと 放浪家族の一標本 湾から見たマンハツタン
 人間的な英雄的なニユーヨーク 魂にとつての時間 麦わら色其他の蝶
 夜の記憶……野生の花 遅蒔の礼儀……デラヱヤ河――昼と夜と
 渡船及河の光景――昨冬の夜 チエストナツト街の最初の春の日
 ハドソン河をアルスター郡に遡る JBの家に於ける日々――芝火――春の歌
 隠者に会ふ……アルスター郡の滝 ヲルター デユモントと彼のメダル ハドソン河の光景
 市の二つの地域、或る時間 セントラル、パーク散歩と談話 美しい午後、四時から六時
 大汽船の出発……ミネソタ艦上の二時間 盛夏の日夜 博覧会の建物――新市庁――河遊び
 河の上の燕 長い西遊旅行を始める 寝台車にて ミズーリ州
 ローレンスとトピーカ、カンサス州 平原、(及び口演しなかつた演説)
 デンヷーへ――国境の出来事 キノーシヤ山嶺の一時間 手前勝手な「発見」
 新らしい感覚、新らしい歓喜 蒸気動力、電信、其他 アメリカの脊骨
 パーク……芸術的容姿 デンヷーの印象 南に向ひ――やがて又再び東に
 果たされなかつた望――アーカンサス河 静かな小さなお伴――コレオプシス
 詩に於ける平原(プレーリー)と大野原 スパニツシユ高峯――野原の夕暮
 アメリカ独特の風景 地上最も重要な流 平原の対比者――樹木の問題 ミシシピ流域文学
 訪問記者の一記事 西の女……無言の将軍 大統領ヘイズの演説 セントルイス備忘
 ミシシピー河の幾夜 われら自身の国土の上 エドガー ポーの真意義
 ベトーヴエンの七部合奏曲 荒い自然の一暗示 森の中の遊びぐらし コントラルトの声
 ナイヤガラを有利に見る カナダへの旅 狂人と一緒に居た日曜日
 エリヤス ヒツクスの追憶 偉大な土着人の増加 合衆国カナダ間の関税同盟
 セント ローレンス水路 荒凉たるサグネー河 エターニテー及びトリニテー岬
 シクチミとハハ入江 住民――美食 杉の実のやうな――名称 トマス カライルの死
 アメリカ的見地から見たカライル 旧友の一二――コルリツジの一小片
 一週間のボストン訪問 今日のボストン 四詩人に対する私の讃辞
 ミレーの絵画……最後の数項 島――そして一つの注意 私の備忘録の見本
 今一度私の生れ故郷の砂と嵐と 炎暑のニユーヨーク 「カスター将軍の最後の集軍」
 或る古馴染――追憶 老年の発見 R、W、エマーソンへの最後の訪問
 他のコンコルド所見 ボストン コンモン――更にエマーソン
 オシヤン的の夜――最も親しい友達 ほんの一艘の新らしい渡船 ロングフエローの死
 新聞を起す事 吾等も其一部である大不安息 エマーソンの墓にて 当今の事――私事
 或書を読みかけた後 最後の告白――文学の試験標準 自然と平民主義と――道徳性
 附録(英国版の為一八八七年に書かれたもの)

原典はアメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン(1819~1892)の日記で、雑誌『白樺』などに断続的に訳出掲載されたものの単行本化です。

その自然崇拝的態度などに、光太郎は共感を寄せていたようです。ただ、ホイットマン、南北戦争時には北軍を鼓舞する詩篇を書いてもいます(負傷兵の看護に当たるなどの慈善活動も行いましたが)。のちの15年戦争時に光太郎が大量の翼賛詩文を書き殴った一つの源流が、ここにも見えるような気がします。

暮れから年始にかけ、新聞各紙や地方自治体の広報誌などで光太郎智恵子、その父・光雲の名が散見されていまして、明日から少しずつご紹介して参ります。

その前に、ちょっと先の開催ですが申し込み〆切が迫っているイベントを。

近代文学講座 作家たちの異文化体験

期 日 : 2026年1月16日(金)、1月23日(金)、1月30日(金)
会 場 : 久里浜コミュニティセンター 神奈川県横須賀市久里浜6丁目14番2号
時 間 : 13時00分~15時00分
料 金 : 無料

文学好きの皆さん、近代日本文学の巨匠たちが海外で体験した異文化との出会いに興味はありませんか?

横須賀市の久里浜コミュニティセンターでは、2026年1月16日・23日・30日の3回にわたり「近代文学講座 作家たちの異文化体験」を開催します。夏目漱石や高村光太郎、横光利一、島崎藤村といった文豪たちが異国の地で何を見つめ、どんな思いを抱いたのかを深く学べる貴重な機会です。

第1回 1月16日(金曜日)13時00分~15時00分 漱石、光太郎のロンドン
第2回 1月23日(金曜日)13時00分~15時00分 横光利一、金子光晴のパリ
第3回 1月30日(金曜日)13時00分~15時00分 島崎藤村、林芙美子のパリ

講師 奥出健氏(元大学教員)

申込方法 以下のいずれかの方法でお申し込みください:
 往復はがき 1月6日(火曜日)必着
 久里浜コミュニティセンター窓口にご来館(返信用郵便はがき持参)
 電子申請
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3回にわたっての文学講座で、取り上げられるのは夏目漱石、高村光太郎、横光利一、金子光晴、島崎藤村、林芙美子。その市ゆかりの芸術家について詳しくというのは時折見かけますが、市としての講座でいろいろな人物を幅広く扱うこの手のものは珍しいような気がします。

光太郎についてはロンドンだそうですが、光太郎のロンドン滞在は明治40年(1907)6月から翌年6月までのまる一年でした。ロンドンの前にはニューヨークに1年4ヶ月ほど、ロンドンの後はパリに渡って1年。その間にスイス経由のイタリア旅行も1ヶ月ほど行っています。

まず腰を落ちつけたニューヨークでは日本で培われた価値観を根底から覆され、人種差別の洗礼も受けました。最後のパリでは近代芸術家として、さらに一人の人間としての開眼。間に挟まれたロンドン滞在中には、大きな転機というものが無かったように感じられますが、そのあたりどう扱われるのだろうと思っております。

イギリスにはニューヨークからホワイトスター社の客船・オーシャニック号で渡り、サザンプトンで上陸、ロンドンに向かいました。ニューヨークでも世話になった東京美術学校の先輩・白瀧幾之助が先に渡英しており、当初はその下宿に厄介になるなどまたその力を借ります。その後、パトニー地区の下宿に落ちつき、ザ・ロンドン・スクール・オブ・アートや一般人向けの技芸学校ポリテクニックに通います。その間、バーナード・リーチと知り合ったり、先にパリに渡っていた荻原守衛が訪ねて一緒に大英博物館に行ったり、逆にパリの守衛の元を訪れたりもしました。やがてチェルシー地区に転居、フランス語の勉強を急ぎ、満を持して渡仏します。留学の最終目的地はあくまでパリでした。

光太郎晩年の回想「父との関係」(昭和29年=1954)から。

私はロンドンの一年間で真のアングロサクソンの魂に触れたやうに思つた。実に厚みのある、頼りになる、悠々とした、物に驚かず、あわてない人間のよさを眼のあたり見た。そしていかにも「西洋」であるものを感じとつた。これはアメリカに居た時にはまるで感じなかつた一つの深い文化の特質であつた。私はそれに馴れ、そしてよいと思つた。

イギリスの雰囲気や国民性には好感を持っていたようですが、ただ、美術の部分ではあまり学ぶところはないと感じていたようです。やはり晩年の回想「青春の日」(昭和26年=1951)から。

イギリスの彫刻には、中世期のものを除いてはあまり興味はなかつたし、絵もどうしても好きにはなれなかつた。バーン ジヨーンズなども嫌いではないが、心から惹きつけられない。ブレークなどは、ひかれるところと嫌いなところが半分半分ぐらいずつある。リーチは現代画家の中で、オーガスタス ジヨーンを賞めたが、僕にはそれほどに思えない。イギリスという国の伝統の中に、どこか芸術を私有物的、一地方的にリミツトしたがる傾向があつて、それが絶えず新しい芸術の気運を阻んでいるのではないかという気がした。

なかなか鋭い見方ですね。

ついつい筆が止まらなくなりましたが(笑)、そんなこんなのロンドン体験、今回の講師の奥出健氏という方がどのように語っていただけるのかな、という感じです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)4 『続ロダンの言葉』

大正9年(1920)5月28日 叢文閣 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
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目次
 アウギユスト ロダン(オクターヴ ミルボー)
 若き芸術家達に(遺稿)
 ロダン手記
  花について
  女の肖像
  芸術家の一日
   庭園の朝 古代彫刻の断片 庭園の夕 
  ゴチツクの線と構造
   ゴチツク建築家は写真家である 面と相反と 釣合の知識 石のレース細工 外陣
   くりかた
  芸術と自然
   古代芸術―ギリシヤ 古代芸術の豊かさは肉づけにある 高肉とキヤロスキユロ
    ローマ及ローマ芸術 アメリカの為に
  ゴチツクの天才
   ノートルダム サン トウスターシユ 彫刻に於ける色調について 十八世紀 断片
    五部のスレスコ 手紙
  ギユスターヴ コキヨ筆録
  ジユヂト クラデル筆録
  フレデリク ロートン外二三氏筆録
  ポール グゼル筆録
   「岡の上にて」より 「ロダンの家にて」より フイデヤスとミケランジユ 女の美
  「本寺」より(手記)
   断片 ムラン マント ネエル アミヤン ル マン ソワツソン シヤルトル

前作『ロダンの言葉』の補遺的に刊行されました。大正6年(1917)に亡くなったロダンの追悼的な意識もあったでしょう。

上野のトーハクさんで元日から始まっている企画展示です。

博物館に初もうで

期 日 : 2026年1月1日(木)~1月25日(日)
会 場 : 東京国立博物館 台東区上野公園13-9
時 間 : 9時30分~17時00分 毎週金・土曜日および1月11日(日)は20時00分まで
休 館 : 月曜日 1月12日(月・祝)は開館
料 金 : 東博コレクション展観覧料でご覧いただけます。一般1,000円、 大学生500円

新年恒例の「博物館に初もうで」は、2026年は1月1日(木・祝)13時より開催します
 東京国立博物館(館長:藤原誠)は、2026年は1月1日(木・祝)13時より開館し、恒例の正月企画「博物館に初もうで」を開催します。
 干支をテーマにした特集展示や、長谷川等伯筆 国宝「松林図屛風」(1月1日(木・祝)~1月12日(月・祝) 本館2室にて展示)をはじめ、本館、東洋館の各展示室で、新年の訪れを祝して吉祥作品や名品の数々をご覧いただけます。
 また、当館アンバサダーであり、世界的に活躍する日本画家・千住 博氏より、新作《ウォーターフォール》をご寄贈いただくことになり、1月1日〜1月12日まで本館大階段上にて特別に展示します。1月1・2・3日には本館前ステージでは和太鼓、獅子舞、吟剣詩舞など、新春限定の企画も開催します。
 新たな年のスタートは、ぜひ当館でお迎えください。

常設展示を新春らしくおめでたいものや干支にちなんだ作品で揃え、「博物館に初もうで」としゃれこみましょう、というコンセプトで毎年行われている企画です。
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サムネイル的に使われているのが、後藤貞行作の木彫「馬」(明治26年=1893)です。

光太郎の父・光雲の4歳年下だった後藤は変わった経歴を持つ彫刻家です。旧幕府の騎兵所や、維新後は陸軍省の軍馬局などに勤務した後、馬の彫刻を作りたい一心で光雲の門を叩いて木彫を学び、さらに東京美術学校に奉職、皇居前広場の楠木正成像の馬や、上野の西郷隆盛像の犬などを任されました。

というだけならこのブログでこの展示をわざわざ紹介しませんが、旧臘に発行された『東京国立博物館ニュース』の第783号(2025-2026年12・1・2月号)でこの「馬」が紹介され、「師の高村が1893年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品するために制作した老猿(ろうえん 重要文化財、当館蔵)と同じ木から、本作を彫り出したと述べています」との記述。実物を何度か拝見していましたが、これは存じませんでした。
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光雲が「老猿」に使った木材は、栃木県鹿沼市の山林に自生していた栃の巨木でした。昨年は鹿沼でそのあたりに関するイベント等も行われています。そのあたり『東京国立博物館ニュース』では「高村は老猿の材木を求めて栃木県鹿沼市で直径2メートルほどの巨大なトチの木を購入し、東京都台東区の自宅まで運びました。後藤がこのトチの木の調達に尽力したこともあって、材木の一部を譲りうけたのでしょう」と記されています。

いわば「老猿」とこの「馬」、兄弟だったのですね。
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そう思って観ると、また見え方が違ってくるような気がします。

他に群馬県大泉町出土の馬型埴輪や、長谷川等伯筆の「松林図屛風」なども出ているとのこと。それから関連行事として1月10日(土)には本物の馬がトーハクさんにやってきての「在来馬とのふれあい」イベントなども企画されています。
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ぜひ足をお運びください。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)3 『ロダンの言葉』(近代思潮叢書 第五編)

大正5年(1916)11月27日 阿蘭陀書房 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
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目次
 ロダンの芸術(ユージエヌ カリエール)
 ロダン手記
  ヹヌス 原則 フランスの自然 ランスの本寺 夜の本寺 本寺別記
  断片(「本寺」、「真のロダン」其他より) 手紙
 ジユヂト クラデル筆録
 ポール グゼル筆録
  肉づけ 芸術に於ける神秘 動静 断片
 カミーユ モークレール筆録
 フレデリク ロートン筆録
  古代芸術の教訓(一)  同(二) 断片
 ロダンの手帳(クラデル編)

光太郎初の訳書です。元々、フランスにも『ロダンの言葉』という書物は存在せず、さまざまなところで発表されたロダンの談話を光太郎が集めて一冊にまとめました。

装幀は光太郎自身。函題字は光太郎が得意とした白黒反転の「籠書き」文字で書かれています。

当方手持ちのものは大正7年(1918)10月20日改訂増補五版です。

毎年のルーティンで、昨日の元日は九十九里浜に初日の出を拝みに行っておりました。

九十九里浜と行っても南北にやたら長く、昭和9年(1934)に智恵子が半年余り療養していた旧片貝村(現・九十九里町)はその中央あたり、ここ数年行っているのは自宅兼事務所のある香取市に隣接する旭市で、浜の北端近くです。

大晦日に見た天気予報では、日の出を観るにはあまり良い条件ではなさそうでしたし、自宅兼事務所を出た5時半頃の段階ではやはり雲が多めでした。それでも雲の切れ間から木星などが見え、一縷の望みを抱きつつ愛車を駆って浜を目指しました。

着いた時はこんな感じ。
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ここ数年で、最も条件の良くない感じでした。

ちなみに去年(左下)と一昨年(右下)は同じ場所でこんな感じでした。
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ここまでは行かなくとも、雲の隙間から少しでも陽光が差すのを期待して待ちました。これもルーティンですが、待つ間に流木を集めて焚き火。
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午前6時45分、日の出の時刻を過ぎました。
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やはりだめでした。7時過ぎまでねばりましたが、「あのあたりにお日様があるんだろう」とわかる程度。
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しっかり見えなかったのは令和2年(2020)以来でしたが、ま、こういう年もあるさと思いつつ、帰りました。

自宅兼事務所に着いて、庭から撮った画像。
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正午前、妻と二人で自宅兼事務所から徒歩15分程の諏訪神社さんへ初詣。

一帯は公園となっており、一角には大熊氏廣原型作の伊能忠敬像が鎮座ましましています。大正8年(1919)の作です。忠敬は九十九里の生まれですが、香取の商家に婿養子に入り、隠居後に実測による日本地図の製作に当たりました。地元の偉人です。
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諏訪神社さん、正面から行くと約130段の石段。しかもけっこうきつい勾配です。
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例年、初日の出の太陽にお願いしている今年一年の平穏無事、光太郎智恵子界隈の盛況をこちらでお願いして参りました。

余談ですが本殿右の椎の巨木は、平成21年(2009)にTBSさん系で放映された大沢たかおさん主演のドラマ「JIN-仁-」で、内野聖陽さん扮する坂本龍馬が腰かけた木です。物語では長崎の設定でしたが。
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今年1年、皆様方にも幸多からんことを祈念いたしております。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)2 『印象主義の思想と芸術』(近代思潮叢書 第五編)

大正4年(1915)7月26日 天弦堂書房 高村光太郎著

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目次
 一 概観(印象主義の名称。アングル。ドラクロワ。クールベ。印象派画家の態度、主張。)
 二 エドワール マネ(附 モリゾ。エヷゴンザレ。カサツト。)
 三 クロード モネ(附 新印象派画家)
 四 アルフレ シスレー
 五 カミーユ ピサロ
 六 オーギユスト ルノワール
 七 エドガー ドガ(附 フオラン。ラフハエリ。ロートレク。)
 八 ポール セザンヌ(附 後期印象派)
 九 附言
 年表

光太郎初の美術評論集。書き下ろしです。昨日の『道程』同様、本来はカバー付きでしたが手持ちのものはカバー欠です。

令和8年(2026)となりました。あけましておめでとうございます。
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これまで毎年、300通ほど送っていました年賀葉書ですが、今年は大幅に削減させていただきまして、最低限の枚数といたしました。こちらからは送っておらず、しかしいただいた方には返信いたします。

やはり郵便料金の大幅値上げが大きく、こちらから送って返答していただくにも心苦しいという判断です。苦渋の決断ですが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

さて、ここ数年、元日はこのネタで攻めておりますが、光太郎智恵子、光雲のからみで、区切りのいい周年がどうなっているかのご紹介。年齢は数え年です。

140年前 明治19年(1886) 光太郎4歳 
智恵子、そして 光太郎のすぐ下の弟妹・道利としづ(静子)の双子が誕生しました。

130年前 明治29年(1896) 光太郎14歳 
下谷高等小学校を卒業し、東京美術学校の予備校的な共立美術館に入学しました。
光雲が、上記画像にあります皇居前広場の「楠木正成像」木型制作の慰労金として東京美術学校から慰労金100円を受け取りました。

120年前 明治39年(1906) 光太郎24歳
東京美術学校西洋画科を中退し、3年半にわたる欧米留学に出ました。
最初に滞在したニューヨークで、親友となる碌山荻原守衛の知遇を得ました。

110年前 大正5年(1916) 光太郎34歳
阿蘭陀書房から訳書『ロダンの言葉』を刊行しました。

100年前 大正15年/昭和元年(1926) 光太郎44歳
片山敏彦、尾崎喜八、高田博厚らと「ロマン・ロラン友の会」を結成しました。
宮沢賢治と生涯最初で最後の出会いを果たしました。
光雲が東京美術学校を退職、同校初の名誉教授の称号を与えられました。

90年前 昭和11年(1936) 光太郎54歳
宮沢賢治詩碑第1号として花巻町に「雨ニモマケズ」後半を刻んだ碑が建立されました。碑の文字は光太郎の揮毫でした。

80年前 昭和21年(1946) 光太郎64歳
賢治実弟・宮沢清六と共に日本読書組合版『宮沢賢治文庫』編集をはじめました。
自らの半生と戦争責任を振り返る連作詩「暗愚小伝」を執筆し始めました。

70年前 昭和31年(1956) 光太郎74歳
4月2日、中野の中西利雄アトリエで、その生涯を閉じました。

というわけで、今年は光太郎没後70周年、智恵子生誕140周年です。いまのところあまり聞こえてこないのですが、それらを冠したイベント等が多く行われることを期待いたしております。

本年もこのブログをどうぞよろしくお願いいたします。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)1 詩集『道程』

大正3年(1914)10月25日 抒情詩社 高村光太郎著

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目次
一九一〇年 失はれたるモナ・リザ 生けるもの 根付の国
一九一一年 画室の夜 熊の毛皮 人形町 甘栗 庭の小鳥 亡命者 鳩 食後の酒 寂寥
 声 風 新緑の毒素 頽廃者より 「河内屋与兵衛」 髪を洗ふ女 「心中宵庚申」 夏
 なまけもの 手 金秤 はかなごと めくり暦 地上のモナ・リザ 葛根湯 夜半 けもの
 あつき日 父の顔 泥七宝 ビフテキの皿
一九一二年 青い葉が出ても 赤鬚さん あをい雨 友の妻 ――に 夏の夜の食慾 
 或る夜のこころ
 おそれ 犬吠の太郎 さびしきみち カフエにて 梟の族 冬が来る
 カフエにて 或る宵 夜 狂者の詩 郊外の人に 冬の朝のめざめ カフエにて 師走十日
 戦闘
一九一三年 人に カフエにて 深夜の雪 人類の泉 山 よろこびを告ぐ 現実 冬が来た
 冬の詩 牛 僕等
一九一四年 道程 愛の嘆美 群集に 婚姻の栄誦 万物と共に踊る 瀕死の人に与ふ 晩餐
 五月の土壌 淫心 秋の祈

光太郎第一詩集にして、記念すべき最初の単独著書でもあります。元々はカバー付きで出版されましたが、手持ちのものはカバー欠です。

200部ほどが刷られ、さらにごく少部数の特装本も作られました。また、「新詩社版」という小型本も存在したようです。時代を突き抜けたこの詩集、後に口語自由詩の確立に大きく貢献したと評されますが、リアルタイムでの売れ行きはさっぱりで、初版残本を改装した「再版」が数回出されています。おそらく手持ちのものを含め、現在残っている初版の多くは、光太郎が友人知己に贈ったものが古書市場に出たと推定されます。

下って昭和に入り、「改訂版」「再訂版」等が出されますが、収録詩篇はかなり異なります。戦後には「復元版」「文庫版」が出て、漸く内容的には同じものが出されました。それらもあとでご紹介いたします。

四畳半の書庫が三方こんな状態でして、蔵書数がいったいどのくらいあるのか把握出来ていません。
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おおむね種別毎にリストアップしましたが、その文書ファイルも複数、総冊数はカウントしていません。

記録のためにもこのブログで、基本、1日1冊ずつご紹介して参ります(旅先からの投稿の場合はお休みします)。10年計画です(笑)。或いは10年では終わらないかも知れません。ま、その前に当方が死んだら「歩み尽きたらその日が終りだ」(光太郎詩「山林」昭和22年=1947)です(笑)。

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