2025年12月

早いもので、大晦日となってしまいました。今年1年を振り返る最終日です。

10月2日(木)~11月16日(日)
福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館さんで智恵子忌日「レモンの日」にちなむ「高村智恵子 レモン祭」が催され、生家二階部分の特別公開、生家ライトアップなど様々なコンテンツが用意されました。
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10月4日(土)~12月7日(日)
広島県福山市のふくやま美術館さんで「東京藝術大学大学美術館名品展 美の殿堂への招待」が開催され、光太郎ブロンズ「獅子吼」、光太郎の父・光雲らの合作「綵観」、光太郎実弟・豊周の鋳金作品が展示されました。

10月5日(日)
岩手県花巻市の田舎laboさんで「第2回 レモンの日イベント」が行われ、近隣の菓子店等8店がレモンを使った洋菓子などの販売を行いました。
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同日、当会から会報的な冊子『光太郎資料』第64集を刊行いたしました。

10月6日(月)
地上波NHK Eテレさんで「グレーテルのかまど 高村光太郎のレモンコーヒー」の初回放映がありました。出演は瀬戸康史さん、キムラ緑子さん、そして当方でした。再放送が10月15日(水)でした。
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10月9日(木)
学研さんから岡部文都子氏企画編集『マンガで読む 偉人たちの恋文物語 日本編』が刊行されました。「高村光太郎 → 長沼智恵子 私があなたであなたが私だった夢を……」という項を含みます。

10月10日(金)
思文閣出版部さんから松本和也氏著『印象派の超克 近代日本における西洋美術受容の言説史』が刊行されました。全ての章で光太郎に言及されています。
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10月11日(土)~11月24日(月)
さいたま市の埼玉県立歴史と民俗の博物館さんで特別展「大名と菩提所」が開催され、光雲木彫「松平伊豆守信綱坐像」が展示されました。

10月11日(土)~2026年1月4日(日)
札幌市の本郷新記念札幌彫刻美術館さんで「札幌芸術の森開園40周年記念 彫刻三昧 札幌芸術の森美術館の名品50選」展が開催され、光太郎ブロンズ「薄命児男児頭部」が出品されました。
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10月13日(月)
福島県で活動する音楽ユニット風信子さんがCD「風の旅人〜夕焼け空の色はふるさとの色〜」をリリースなさいました。「智恵子抄」オマージュの「本当の空を忘れないで  (二本松)」という楽曲を含みます。

10月18日(土)
神奈川県逗子市の逗子文化プラザホールさんで「逗子アートフェスティバル」の一環としてのコンサート「余白露光2~テルミンと箏~」が開催されました。出演はテルミン奏者の大西ようこさん、箏曲奏者の元井美智子さんで、元井さん作曲の「智恵子抄」がプログラムに入れられました。
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10月19日(日)
愛知県豊橋市の穂の国とよはし芸術劇場PLATさんで「第4回 前川健生テノールコンサート~あいのうた~」公演があり、別宮貞雄氏作曲の歌曲集「智恵子抄」が演奏されました。

同日、地上波日本テレビさんで「遠くへ行きたい ますだおかだ増田が福島へ 名湯に絶品ソースかつ丼!」の放映があり、「智恵子抄」に触れつつ安達太良山が取り上げられました。
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10月25日(土)~2026年1月18日(日)
群馬県高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんで「第127回企画展 愛の手紙-友人・師弟篇-」が開催され、光太郎から水野葉舟宛の書簡2通が展示されました。

11月1日(土)~2026年2月15日(日)
大阪市の国立国際美術館さんで「特別展 プラカードのために」が開催され、谷澤紗和子氏による智恵子紙絵等オマージュ作品「はいけいちえこさま」シリーズの全点が展示されました。
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11月2日(日)
岡山市の岡山芸術創造劇場さんで「劇作家フェスティバル2025 げきじゃ!」の一環として平田オリザ氏脚本の演劇「日本文学盛衰史」公演がありました。光太郎も登場人物の一人でした。

11月3日(月)
与謝野晶子研究の第一人者・逸見久美氏が亡くなりました。父君の翁久允は光太郎と交流があり、御自身の御著書でも光太郎に触れて下さっていました。
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11月8日(土)
台東区の秋葉原ハンドレッド2さんで「四季の朗読会〜秋の部〜」が開催され、光太郎エッセイ「山の秋」が取り上げられました。
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11月13日(木)~30日(日)
茨城県取手市の東京藝術大学大学美術館取手館さんで「取手収蔵棟竣工記念・取手館開館30周年記念 藝大取手コレクション展 2025」が開催され、光太郎彫刻「獅子吼」の石膏原型が展示されました。

11月14日(金)
光太郎に触れられた御著書が複数おありだった作家の嵐山光三郎氏が亡くなりました。
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11月15日(土)・16日(日)
埼玉県熊谷市の中央公民館大ホールで「劇団ダウト第15回公演 れもん」が開催されました。平田俊子氏脚本で、光太郎智恵子だけの二人芝居でした。

11月15日(土)~12月21日(日)
石川県金沢市の石川県立美術館さん他で「令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨復興支援事業 ひと、能登、アート。」が開催され、光雲作の木彫「老猿」が展示されました。関連行事として講座「高村光雲の古仏復元事業」、「《老猿》の彫刻家が見た明治の美術界-高村光雲『幕末維新懐古談』を読む」が開催されました。
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11月18日(火)
平凡社さんからアンソロジー『作家とお風呂』が刊行されました。光太郎詩「湯ぶねに一ぱい」が収められました。

11月20日(木)~11月24日(月)
福岡県久留米市の久留米市美術館さんで写真展「Fixtyle Portrait Fukoka 8th」が開催され、Yasuyuki Ibaraki氏が、「智恵子抄」オマージュの作品を出展なさいました。
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11月21日(金)
三重県津市のブックハウスひびうたさんで、「日本の詩を読もうぜ 第8回 高村光太郎」が開催されました。「読書会」と言われるイベントでした。

11月21日(金)~11月23日(日)
新宿区の演劇倶楽部『座』サロンさんで、「壤晴彦・演技/朗読短期ワークショップ 11月『「ニュアンス』ってどうやって付けるの?」が開催され、「智恵子抄」が教材として取り上げられました。
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11月22日(土)
佐賀市文化会館で開催された「第78回全日本合唱コンクール全国大会の大学職場一般部門」で、早稲田大学コール・フリューゲルさんが、自由曲に新実徳英氏作曲の「愛のうた -光太郎・智恵子-男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」から「レモン哀歌」を演奏され、金賞及び日本放送協会賞を受賞されました。

11月23日(日)
仙台市の八木山市民センターさんで「読書会アパート3号室 11月読書会『智恵子抄』」が開催されました。
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同日、文京区のアカデミー向丘さんで「第68回高村光太郎研究会」が開催され、「智恵子へ寄せる想い」 吹木文音(中島宏美)氏(日本詩人クラブ・栃木県現代詩人会理事)、「雑司ヶ谷の季節――ヒューザン会、智恵子と読売新聞」 前田恭二氏(武蔵野美術大学教授)の2本の発表がありました。

さらに同日、石川県白山市の美川コミュニティセンターさんで「語りとチェロでつたえる~智恵子抄~」公演があり、朗読家・本田和氏による「智恵子抄」朗読が為されました。
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やはり同日、TBSラジオさんで「朗読のヒロバ 第59回 高村光太郎「智恵子抄」」がオンエアされました。

11月24日(月)
栃木県鹿沼市で「《老猿》のふるさと探訪」が行われ、光雲作木彫「老猿」の材となったトチノキの子孫の見学会が催されました。11月29日(土)には児島大輔氏(東京国立博物館保存修復室長)による記念講演会も開催されました。
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11月28日(金)~12月23日(火)
京都府長岡京市のArt Space癒心庵さんで「日本の工芸展」が開催され、光雲木彫「鯉」が展示されました。

11月29日(土)
鹿児島市のカクイックス交流センターさんで劇団風見鶏さんによる「朗読のつどい」が開催され、光太郎詩朗読が為されました。

11月29日(土)・30日(日)
静岡市のギャラリー青い麦さんで劇団静火第17回公演『売り言葉』が開催され、野田秀樹氏脚本の登場人物は智恵子だけの演劇「売り言葉」が上演されました。
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同じ日程で青森市の渡辺源四郎商店しんまち本店さんにおいて「北のまほろば祭り3」の一環として演劇「智恵子と智恵子」公演がありました。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」にまつわる内容でした。

11月30日(日)
港区の赤坂区民センターさんで東京青森県人会さん主催の「 十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」が開催され、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関わる発表などが為されました。
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12月5日(金)
平凡社さんからアンソロジー『パリと日本人 近代文学セレクション』が刊行されました。光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が収められました。

12月7日(日)

地方紙『岩手日日』さんに東京国立近代美術館さんの主任研究員・成相肇氏による「高村光太郎「手」 和と洋、静と動 感じる彫刻」という記事が掲載されました。
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12月10日(水)
文治堂書店さんからPR誌を兼ねた文芸同人誌『とんぼ』第21号が発行されました。当方の「連翹忌通信」が連載されています。

12月10日(水)~2026年1月12日(月)、12月18日(木)~2026年2月11日(水)
二本松市大山忠作美術館さんの改修工事に伴い、同館所蔵品の「移動美術館」がにほんまつ城報館さん、智恵子記念館さんで開催され、智恵子を描いた絵画等が展示されています。
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12月12日(金)
東京都小金井市の小金井宮地楽器ホールさんで早稲田大学コール・フリューゲルさんの第70回定期演奏会が開催され、新実徳英氏作曲の「愛のうた -光太郎・智恵子-男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」から「レモン哀歌」が演奏されました。

12月13日(土)~2026年3月31日(火)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」が開催されています。
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12月16日(火)
世界文化社さんから雑誌『Begin』2026年2月号が発売されました。ミュージアムグッズ愛好家・大澤夏美氏による「博ブツ観」という連載の第32回で「岩手県花巻市で発見 高村光太郎記念館 本革しおり Bookmark」という記事が掲載されました。

12月19日(金)

墨田区のすみだトリフォニーホールさんで「男声合唱団東京リーダーターフェル1925 創立100周年記念定期演奏会2025」が開催され、清水脩氏作曲の「或る夜のこころ」「智恵子抄巻末のうた六首」が演奏されました。
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12月20日(土)
千代田区のワイム貸会議室 お茶の水さん及びZOOM使用のオンラインで「第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ」が開催されました。発表は森下明穂氏(与謝野晶子記念館・学芸員)の「與謝野晶子 美しい本の世界へ」、当方が「美術実作者としての高村光太郎」、そして明星研究会主宰にして歌人の松平盟子氏による「憧憬と戦略 ― 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」でした。

12月20日(土)~2026年2月8日(日)
石川県七尾市の七尾美術館さんで「冬季所蔵品展 私たち七尾美術館PR隊!」が開催され、光雲木彫「聖観音像」が展示されています。
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12月21日(日)
大阪市のあいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホールさんで木管四重奏団「クレモナ」さんの「モダンタンゴ・ラボラトリ第19回定期公演「ほんとうの空」」が開催され、光太郎詩「あどけない話」由来のオリジナル曲「ほんとうの空」が初演されました。

12月30日(火)
人文書院さんから小関素明氏著「大東亜戦争」幻想化と「戦争責任」の精神史』が刊行されました。「第二章 表現者の幻覚と煩悶――「真の自己」の渇望と探究」中に「自我と美感の転相――高村光太郎」という項を含みます。年明けに詳しくご紹介いたします。
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毎月のことで、その都度のご紹介はしませんでしたが、花巻市の道の駅はなまき西南(愛称・光太郎と賢治の郷)さん内のテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に豪華弁当「光太郎ランチ」が販売され、同市のワンデイシェフの大食堂さんでは「こうたろうカフェ」としてのランチの販売が行われました。いずれも主に食を通じて光太郎顕彰に当たられている「やつかの森LLC」さんのメニュー考案、「こうたろうカフェ」では調理も担当なさいました。
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というわけで、今年1年もさまざまな団体、個人の方々が、それぞれの分野で光太郎智恵子、光太郎の父・光雲や実弟・豊周を取り上げて下さいました。ありがとうございます。来年以降もよろしくお願いいたしますとともに、関係の皆様、そしてこのブログをお読み下さった方々にとって、よい新年となりますよう、衷心より祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。


津田青楓『漱石と十弟子』より 明治44年(1911)頃 智恵子26歳頃

戦後になって書かれた津田の回想に書かれた智恵子の言葉です。したがって、智恵子が語ったそのとおりではないのかもしれませんが。

明治末のまだまだ閉塞感の充溢していた時代に、こういうことを言えた智恵子、素晴らしいと思います。おそらく光太郎も似たような考えだったでしょうし、その二人が出会い、結ばれたのはもはや必然だったような気がします。

平成29年(2017)から、【折々のことば・光太郎】、【折々のことば・智恵子】として二人の「ことば」からこれは、と思う一節を取り上げてきましたが、本日で終了します。明日からはまた10年計画で他のコーナーを立ち上げます。

今年1年を振り返る7~9月編です。

7月4日(金)・5日(土)
千代田区の東京古書会館さんで「令和7年 第60回 七夕古書大入札会 一般下見展観」が催され、光太郎歌幅、斎藤茂吉宛書簡などが出品されました。
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7月5日(土)~8月24日(日)
岩手県花巻市立博物館さんで令和7年度テーマ展「戦後80年 戦争と花巻」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

7月5日(土)~8月31日(日)
福島県郡山市立美術館さんで「皇室を彩る美の世界―福島ゆかりの品々―」が開催され、光雲木彫「猿置物 三番叟」が展示されました。
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7月6日(日)
東京都中野区産業振興センターさんにおいて「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」が開催され、女優の一色采子さんらが朗読をして下さいました。同アトリエの保存運動の一環でした。

同日、広島県廿日市のはつかいち文化ホールさんで広島中央合唱団第58回定期演奏会が開催され、鈴木憲夫 氏作曲の 混声合唱曲「レモン哀歌」が演奏されました。
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さらに同日、福島県安達郡大玉村のあだたらふるさとホールで光太郎詩「あどけない話」にちなむ「「ほんとうの空」の村 黒坂黒太郎 コカリナ コンサート」が開催され、黒坂氏作曲の「本当の空の村」が演奏されました。

7月8日(火)~9月23日(火)
愛知県小牧市のメナード美術館さんで「なつやすみ所蔵企画 えともじ展 文字で読み解く美術の世界」が開催され、光太郎木彫「鯰」が出品されました。
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7月11日(金)~10月2日(木)
新宿区の東京オペラシティアートギャラリーさんで「難波田龍起」展が開催され、光太郎の写ったスナップ写真なども展示されました。

7月12日(土)~11月30日(日)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業「昔なつかし花巻駅」」が開催され、昭和初年の花巻駅周辺を模したジオラマ(土屋直久氏、石井彰英氏制作)などが展示されました。
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7月15日(火)~8月21日(木)
同じく花巻市の高村光太郎記念館さんで、4月の二本松市智恵子記念館に続き、花巻南高校家庭クラブさんによる「智恵子のエプロン復刻展示」が行われました。

7月15日(火)~10月26日(日)
千代田区の東京国立近代美術館さんで主に戦争画を集めた「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」が開催され、光太郎著書、寄稿掲載誌等も展示されました。
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7月19日(土)
千葉県野田市の琥珀茶寮あずきさんで「森優子朗読ライブ Teatime Concert in 琥珀茶寮あずき」が開催され、「智恵子抄」詩篇が朗読されました。

7月19日(土)・20日(日)
埼玉県加須市の東武伊勢崎線加須駅北口周辺で「かぞ どんとこい! 祭り」が開催され、光雲作の「蘭陵王面」の展示が行われました。
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7月19日(土)~9月15日(月)
京都市の京都国立近代美術館さんで「きもののヒミツ 友禅のうまれるところ」が開催され、光雲や石川光明、旭玉山らの合作「福禄封侯図飾棚」が出品されました。

7月22日(火)~7月25日(金)
箏曲奏者・元井美智子さんとヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんによる「智恵子抄」朗読を含むコラボ公演、ワークショップが仙台市と花巻市で4件開催されました。7月22日(火)が仙台市のAntique & Cafe TiTiさん、7月23日(水)で花巻市の高村光太郎記念館さんとカフェ羅須さんで2公演、7月25日(金)には再び仙台のとなりのえんがわさんでした。
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7月25日(金)
生活の友社さんから『月刊アートコレクターズ 』No.197 8月号が発行されました。古田亮氏による「バック・トゥ・ザ日本美術 高村光雲「西郷隆盛像」+後藤貞行「ツン」」という記事を含みます。

7月27日(日)
大阪市の住友生命いずみホールさんで「大阪コレギウム・ムジクム創立50周年記念 第131回大阪定期公演《現代(いま)の音楽 ~Music of Our Time~》」が開催され、新実徳英氏作曲 「愛のうた ―光太郎・智恵子― 男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」が演奏されました。
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8月1日(金)
土曜美術出版さんから『詩と思想』8月号が発行されました。中島悦子氏「高村光太郎の戦後/谷川俊太郎の戦後」という稿を含みます。

8月3日(日)
福島市のキョウワグループ・テルサホールさんで「欅の会・日本歌曲コンサート-清水脩の世界-」が開催され清水脩氏作曲の歌曲集「智恵子抄」から抜粋で演奏が為されました。
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8月6日(水)
台東区の東京文化会館さんで「第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~」が開催され、朝岡真木子氏作曲の「組曲 智恵子抄」から「千鳥と遊ぶ智恵子」を清水邦子氏が歌われました。

8月8日(金)
宇都宮市のcafé Mario~休みの国~さんで朗読公演「秋元紀子ひとり語りin宇都宮」が開催され、「智恵子抄」詩篇から抜粋で取り上げられました。
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8月9日(土)
宮城県牡鹿郡女川町の高村光太郎文学碑、まちなか交流館さんで「第34回女川光太郎祭」が開催されました。

同日、東京都中央区の日本橋社会教育会館さんで講談師一龍齋貞奈さんの「入門10周年記念公演〜昭和100年特集〜」が開催され、新作「高村智恵子の恋」が披露されました。同作は8月16日(土)・17日(日)に千代田区のスカイルーム太陽さんで開催された「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜講談前線異常なし〜」、12月24日(水)の「講談協会十二月定席」でも高座にかけられました。
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8月11日(月)
千葉県旭市ご在住で、光太郎詩「犬吠の太郎」をモチーフにした作品を制作されていた版画家の土屋金司氏が亡くなりました。

8月23日(土)~9月15日(月)
新潟県上越市の春日山城跡ものがたり館さんで「第100回謙信公祭」に合わせての企画として光雲作の木像毘沙門天像の一般公開が6年ぶりに行われました。
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8月27日(水)
岩手県立花巻南高等学校文芸部さんの部誌『門』第19号が発行されました。光太郎智恵子に関し、複数の記事で触れて下さいました。

8月28日(木)
第1回ふくしま超短編脚本賞」審査結果が同賞実行委員会から発表され、最優秀賞に「智恵子抄」オマージュの「安達太良SA上り」(真田鰯さん)が選ばれました。
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8月29日(金)
NHKさん東北支局で「鈴木京香の東北オトナ旅 青森県十和田市編」30分パイロット版の放映がありました。10月17日(金)には45分完全版、11月29日(土)にはEテレさんの全国放映が為されました。

8月30日(土)・31日(日)
宇都宮市のアトリエほんまるさんで「劇団 言葉借り旗揚げ公演「智恵子抄」より」が上演されました。
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9月11日(木)~15日(月)

墨田区の両国・エアースタジオさんで演劇「チエコ」公演が行われました。

9月15日(月)
鹿児島県薩摩川内市の川内まごころ文学館さんで「あなたに届ける朗読会vol.8」が開催され、光太郎詩が取り上げられました。
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9月20日(土)~10月13日(月)
千葉県成田市の文化芸術センター なごみの米屋スカイタウンギャラリーさんで「第49回千葉県移動美術館 成田と千葉県立美術館にまつわる5つの物語」が開催され、光太郎ブロンズ「手」が出品されました。

9月25日(木)
鉄人社さんから上明戸聡氏著『改訂版 日本ボロ宿紀行』が刊行されました。光太郎に触れつつ岩手県花巻市の大沢温泉さんが紹介されました。
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9月27日(土)
光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエが残念ながら解体されることとなり、最後の内覧会が行われました。部材は保存されており、移築に向けて動いているところです。

【折々のことば・智恵子】

皆さんおからだを丈夫にして出来るだけ働き仲よくやつていつて たのしくこゝろをもつてお暮し下さい 末ながくこの世の希望をすてずに 難儀ななかにも勇気をもつてお暮しなさい。それではこれで


昭和7年(932)7月12日 長沼セン宛書簡より 智恵子47歳

実母・センに宛てて、遺書のようなこの手紙を書いた2日後の夜、睡眠薬を大量に摂取して智恵子は自殺未遂を起こします。一命はとりとめましたが、この後、智恵子は完全に夢幻界の住人となってしまいます。

今年1年の主な事項を振り返る2回目、4~6月です。

4月2日(水)
日比谷公園松本楼さんに於いて、当会主催の第69回連翹忌の集いを開催いたしました。全国から70名程の皆様がお集まり下さり、ひととき、光太郎を偲びました。
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同日朝、連翹忌にちなみテレビ朝日さん系の「グッド!モーニング」内の「林修のことば検定」で光太郎が取り上げられました。

また、故・北川太一先生著、石黒敦彦氏編、山室眞二氏装丁の『高村光太郎と尾崎喜八』が蒼史社さんから、高村光太郎研究会さんより『高村光太郎研究46』、当会から『光太郎資料63』がそれぞれ刊行されました。
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4月3日(木)~6月29日(日)
和歌山県伊都郡高野町の高野山霊宝館さんで「重要文化財指定記念特別展 大伽藍」が開催され、光太郎の父・光雲作の「仏頭」が出品されました。
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4月4日(金)
宮崎県東諸県郡綾町のぐるーぷ連 劇工房において、「劇団ぐるーぷ連 第134回朗読LIVE がんばれどうぶつ」が開催され、光太郎詩「道程」「牛」が取り上げられました。

4月7日(月)~6月21日(土)
新潟市の敦井美術館さんで「彫刻と金工展」が開催され、光雲作の木彫「ちゃぼ」と「狆」が出品されました。
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4月12日(土)~6月29日(日)
和歌山市の和歌山県立近代美術館さんで企画展「佐藤春夫の美術愛」が開催され、光太郎油彩画「佐藤春夫像」及び佐藤旧蔵のブロンズ「大倉喜八郎の首」が出品されました。

4月19日(土)~6月22日(日)
長野県安曇野市の碌山美術館さんで「春季企画展 特別展示 智恵子紙絵 高村智恵子紙絵 高村光太郎詩稿」が開催されました。
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4月24日(木)~5月23日(金)
東京都中野区の桃園区民活動センターで「『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会」が開催され、光太郎終焉の地・中西利雄アトリエに関する展示が為されました。

4月24日(木)~5月25日(日)
福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館さんで「高村智恵子生誕祭」が開催され、生家二階部分の特別公開、朗読で荒井真澄さん、電子楽器・テルミンの大西ようこさん箏曲の元井美智子さんによる「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」、花巻南高校家庭クラブさんによる「智恵子のエプロン復刻展示」などが行われました。
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4月25日(金)~8月19日(火)
栃木県佐野市の東石美術館さんで「芸術家の目を通した生きものたち」展が開催され、光雲木彫「牧童」が展示されました。
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4月26日(土)~4月29日(火)
茨城県土浦市の百景社アトリエさんで「百景社アトリエ公演2025 売り言葉」の公演がありました。野田秀樹氏脚本の智恵子を主人公とした演劇でした。

4月26日(土)~2026年2月28日(土)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで特別展「中原綾子への手紙」が開催され、2024年に中原のご遺族から寄贈された光太郎から中原宛の書簡や関連資料等の展示が行われています。
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4月30日(水)
生前の光太郎をご存じで、十和田湖観光交流センターぷらっとさんに光太郎胸像「冷暖自知光太郎山居」が飾られている、彫刻家の田村進氏が亡くなりました。

5月1日(木)~5月11日(日)

東京都文京区のIMM THEATERさんで、光太郎も登場人物の一人だった演劇「文豪とアルケミスト 紡グ者ノ序曲(プレリュード)」東京公演がありました。京都公演が京都市の京都劇場さんで5月17日(土)・5月18日(日)でした。12月10日(水)には公演の模様のBlu-rayとDVDがTCエンタテインメントさんから発売されました。
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5月10日(土)
福井市のハーモニーホールふくいさんで「めいおんFukui第16回演奏会」が開催され、野村朗氏作曲の「智恵子抄(連作曲)~その愛と死と~」から演奏が為されました。

5月30日(金)
千葉県佐倉市の志津公民館さんで「朗読のつどい 高村光太郎『智恵子抄』」が開催され、地元朗読サークルこおろぎの輪さんによる朗読が為されました。

6月1日(日)
三重県志摩市の磯部生涯学習センターさんで「大人のための朗読ライヴ」が開催され、地元朗読サークル花笑みさんなどによる朗読が為されました。光太郎詩は「智恵子抄」から取り上げられました。
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6月1日(日)~2026年1月26日(月)
期間中の土・日に神奈川県鎌倉市の鎌倉覚園寺さんで特別開帳が行われ、光雲作の秘仏「後醍醐院法躰御木像」が公開されました。

6月7日(土)
台東区の旧東京音楽学校奏楽堂さんで「第二十二回 二期会日本歌曲研究会演奏会」が開催され、ソプラノ歌手・黒川京子さんによる蒔田尚昊氏作曲の「智恵子抄」より2曲が演奏されました。
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6月10日(火)
文治堂書店さんよりPR誌を兼ねた文芸同人誌『とんぼ』第20号が発行されました。当方執筆の「連翹忌通信 モナ・リザその後」が掲載されました。

6月14日(土)・15日(日)
青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区で「第60回記念十和田湖湖水まつり」が開催され、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されました。
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6月15日(日)
新宿区の早稲田奉仕園スコットホールさんで「木村俊介Concert 『鵲(かささぎ)の橋の上で』in 東京 愛のかたち、様々に~日本と韓国の文学作品から~」が開催され、壤晴彦氏の語り、木村氏とパク・スナ氏の演奏による「智恵子抄」がプログラムに入れられました。秋田公演が9月3日(水)・4日(木)でした。

同日、福島県二本松市の二本松市コンサートホールさんで「藤木大地カウンターテナー・リサイタル 二本松音楽協会第100回定期演奏会」が開催され、佐藤卓史氏作曲の「あどけない話」「からくり歌(初演)」、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が演奏されました。
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6月20日(金)
田畑書店さんから東海大学教授・大木志門氏編『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』が発売されました。

6月22日(日)
神奈川県鎌倉市の笛ギャラリーさんで「民学の会第223回例会 高村光太郎と尾崎喜八~100年を越える文化の縁」が開催され、石黒敦彦氏、山室眞二氏の講演が為されました。

同日、世田谷区のカトリック松原教会さんで「第39回カトリック松原教会チャリティーコンサート~ガリラヤの風かおる丘で~ フィリピン・ミンダナオ島で活動するシスターたちのために」が開催され、ソプラノ歌手・黒川京子さんによる蒔田尚昊氏作曲の「智恵子抄」から演奏が為されました。
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6月28日(土)
千代田区の八木書店古書部さん三階催事場において講座「活字をはみだすもの(第25回)」が開催され、東海大学教授・大木志門氏が「高村光太郎「独居自炊」の思想 ―宮崎稔宛書簡から」の題でお話をなさいました。

6月(日不明)
伝統技法研究会さんから機関誌『伝統技法』第52号が発行されました。十川百合子氏の「中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ」が掲載されました。
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これで今年上半期は終了。明日は7~9月分を掲載します。

【折々のことば・智恵子】

きのふは二人とも悲かんしましたね。しかし決して決して世の中の運命にまけてはなりません、われわれ死んではならない。いきなければ、どこ迄もどこ迄も生きる努力をしませう。皆で力をあはせて皆が死力をつくしてやりませう。

昭和6年(1931)7月29日 長沼セン宛書簡より 智恵子46歳

福島の長沼酒造破産後、母・センらは上京して借家住まい、智恵子ともたびたび会っていました。

翌月には光太郎が新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために1ヶ月の三陸旅行に出ます。その留守中に訪ねてきたセンが、明らかに智恵子の様子がおかしいことに気づきます。心の病の顕在化でした。

毎年この時期に書いておりますが、今年1年の関係事項を3ヶ月ずつ4回に分けて振り返ろうと思います。事項は精選し、主なものにとどめます。

書籍等の発行日は、奥付の記述に従いました。従って、実際の発売日と異なる場合があります。

1月8日(水)
翰林書房さんから佐藤義雄氏・松下浩幸氏・長沼秀明氏共著の『都市空間を歩く 日本近代文学と東京』が刊行されました。「四 高村光太郎『智恵子抄』―千駄木・日暮里」という章を含みます。
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同日、地上波日本テレビさんとBS日テレさんで朗読を題材としたアニメ「花は咲く、 修羅の如く」の放映が始まりました。第1話「花奈と瑞希」で光太郎詩「道程」が取り上げられました。4月30日(水)には第1話を含むBlu-rayディスク上巻がキングレコードさんから発売されました。

1月10日(金)
女性史研究家の堀場清子氏が亡くなりました。著書に智恵子にも触れた「青鞜の時代」などがありました。
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1月27日(月)
千代田区の紀尾井町ホールで朗読赤十字奉仕団さん主催の「チャリティー朗読会 和・輪・話」が開催され、佐藤春夫 作『小説智恵子抄』の一節が取り上げられました。

1月29日(水)
TCエンタテインメントさんから、昨年公演が行われた舞台「文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)」のBlu-rayとDVDが発売されました。光太郎も登場人物の一人でした。
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1月31日(金)~2月24日(月)
青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区で「十和田湖冬物語2025 冬、十和田湖びより」が開催され、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ライトアップが為されました。

1月31日(金)~3月4日(火)
神奈川県鎌倉市の笛ギャラリーで「回想 高村光太郎と尾崎喜八」展が開催されました。
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2月1日(土)
芸術新聞社さんから書道雑誌『墨』2025年1・2月号が発行されました。「昭和を生きた書人、書と言葉 選」という記事で色紙「うつくしきもの満つ」、さらに書論「書について」(昭和14年=1939)の一節が紹介されました。

2月1日(土)~3月29日(土)
品川区のMAKI Gallery天王洲さんで、現代アート作家・清川あさみ氏の個展「Mythic Threads:神話の糸」が開催され、「智恵子抄」オマージュの刺繍作品「女である故に」が展示されました。
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2月8日(土)・2月9日(日)
大阪府吹田市の吹田市民劇場さんで「吹田市民劇場 SHOW劇場 番外編vol.2 a次元のふたり」公演がありました。光太郎智恵子を登場人物とする2人芝居でした。

2月9日(日)
岡山市の岡山芸術創造劇場ハレノワさんで「朗読劇・永瀬清子物語Ⅷ ラビリンスの旅人」が上演されました。岡山県出身の詩人・永瀬清子を主人公とするもので、光太郎も登場人物の一人でした。
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2月10日(月)
地上波NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」で、高杉真宙氏による「智恵子抄 深夜の雪」朗読が組み込まれました。

2月11日(火)
学研さんから佐藤晃子氏著『意味がわかるとおもしろい! 世界のスゴイ彫刻』が刊行されました。「この左手まねできる? 手 作った人 高村光太郎」「サルに何かあった? 老猿 作った人 高村光雲」という章を含みます。
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2月15日(土)
文化資源社さんから『よみうり抄』全五巻の刊行が開始されました。明治期からの『読売新聞』に載った消息紹介記事「よみうり抄」を翻刻したもので、光太郎智恵子も随所に名が挙がっています。

同日、練馬区の個人宅において、シャンソン系歌手・モンデンモモさんの「SAWAMURA BAR.VOL23」が開催され、モモさん作曲の光太郎詩に曲を付けた歌曲が多数演奏されました。同様のコンサートは「BOOK CAFÉ LIVE モモの智恵子抄」として、4月4日(金)に狐弾亭さん(東京都立川市)、5月19日(月)で東京都府中市の府中の森芸術劇場分館さん、6月28日(土)には島根県松江市のギャラリーCさん、9月20日(土)の東京都府中市蔵カフェさんでも開催されました。
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2月16日(日)
神奈川県中郡二宮町の生涯学習センターラディアンさんで「第45回二宮演奏家協会コンサート 日本の名曲 世界の名曲」が開催され、歌曲「レモン哀歌」が演奏されました。
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2月18日(火)
地上波NHK Eテレさんで「NHK高校講座 言語文化 冬が来た(高村光太郎)」の初回放映がありました。

3月1日(土)~5月30日(金)
福島県相馬市立図書館さん、歴史資料収蔵館で「連携企画展 相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」が開催され、光太郎智恵子、光雲に関わる展示が為されました。
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3月5日(水)

毎日新聞出版さんから、『井上涼の美術でござる 二の巻』が刊行されました。『毎日小学生新聞』さんに平成28年(2016)から連載されている井上涼氏による漫画の単行本化で、「高村光太郎の巻」を含みます。

3月6日(木)
横浜市のイギリス館ホールで、「吉川久子 フルートコンサート~日本の風景~」が開催され、光太郎詩「冬が来た」の朗読が組み入れられました。
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3月7日(金)
宮城県歌人協会会長などを歴任された歌人の佐久間晟氏が亡くなりました。昭和26年(1951)、奥様との新婚旅行で花巻郊外旧太田村の光太郎の寓居を訪ねられた方でした。

3月8日(土)
福島県いわき市立草野心平記念文学館さんで文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」が開催されました。澤正宏氏(福島大学名誉教授)、和合亮一氏(詩人)による対談形式で、光太郎にも触れられました。
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3月10日(月)
講談社さんから西川清史氏著『荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日』が刊行されました。「米軍の攻撃は焼夷弾だけではない。爆裂する通常爆弾に高村光太郎は戦慄した。」という項を含みます。

3月14日(金)~3月16日(日)
兵庫県姫路市の劇団プロデュース・Fアトリエで、野田秀樹氏脚本の智恵子を主人公とした演劇「劇団プロデュース・F 第76回アトリエ公演 売り言葉」の公演がありました。
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3月16日(日)
岡山市オリエント美術館さんで「岡山県詩人協会 第10回詩を楽しむ会-智恵子抄-」が開催されました。光太郎詩朗読、詩人の斉藤恵子氏による講演が為されました。

3月17日(月)
宮城県女川町の女川光太郎の会さんが、宮城県の「住みよいみやぎづくり功績賞」を受賞されました。
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3月19日(水)
岩波書店さんから岩波新書の一冊として新関公子氏著『東京美術学校物語――国粋と国際のはざまに揺れて』が刊行されました。光雲、光太郎に触れられています。

3月20日(木)~5月18日(日)
横浜市の神奈川近代文学館さんで特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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3月21日(金)
千葉県浦安市のJ:COM浦安音楽ホールさんで「千葉県立千葉中学校・千葉高等学校合唱部 第17回定期演奏会」が開催され、西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲 レモン哀歌」が演奏されました。

3月28日(金)~6月1日(日)
神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さんで「秘仏三面大黒天立像(高村光雲作)特別御開帳」が行われました。「第二弾」は9月28日(日)~12月8日(月)に行われました。
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3月30日(日)
東京都中央区の王子ホールさんで、「朝岡真木子歌曲コンサート 第8回」が開催され、朝岡氏作曲の「冬が来た」が演奏されました。

同日、小学館さんから『小学館版 新学習まんが人物館 平塚らいてう』が刊行されました。監修・差波亜紀子氏、作画・上川敦子氏、シナリオ・江橋よしのり氏でした。智恵子が登場します。
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明日は4~6月分をご紹介します。

【折々のことば・智恵子】

よしんば親や夫が百万長者でも、女自身に特別な財産でも別にしてない限り女は無能力者なのですよ。からだ一つなのですよ。
昭和5年(1930)1月20日 長沼セン宛書簡より 智恵子45歳

当時の女性が置かれていた社会的地位、そして実家の長沼酒造が前年に破産、それに対し何もできなかった自分を念頭に置いた発言ですが、いまだに上流階級気分の抜けきらない実母を叱咤する内容です。この後には「出来ないものは出来ないのだから、それをきつぱりと断る事の出来ないやうな、なまくらではだめです」という文言も記されています。恐らく保証人としての金銭問題に関わります。実母・センの迷走ぶりからは、出来ないくせに出来るふりをしてやりたがり、さんざん引っかき回してあとは知らんぷりというどこぞの国の首相が想起されます。

こうした破産した実家の後始末に関わる心労も、心の病の大きな引き金の一つになったようです。

昨日の『南日本新聞』(本社・鹿児島市)さんに光太郎の父・光雲の名がちらっと出ました。

写真ないのに西郷像はどう作った? 彫刻家・安藤照が残したミステリー、元鹿児島市立美術館長が制作過程を著書で解き明かす

 元鹿児島市立美術館長の大山直幸さん(71)が「西郷隆盛像 安藤照の制作経過」を自費出版した。「安藤の著作や新聞記事などを基に調べた。今後の研究に使ってほしい」と話している。同書から、西郷像完成までの経緯を振り返ってみた。
 西郷隆盛銅像は1937(昭和12)年、鹿児島市城山町に建立された。高さ(身長)5.25メートル。制作したのは同市出身の彫刻家・安藤照(1892~1945年)だった。
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西郷隆盛の銅像=鹿児島市城山町

 建立計画はその10年前の27年、南洲神社50年祭の記念事業として始まった。翌年、安藤が制作を依頼された。当時36歳。大山さんは「若手彫刻家として実績や活躍ぶりから当然の成り行き」だったと記す。
 安藤は、写真のない西郷の顔を探し、西郷を知る人に聞き取りを行い、孫や血縁者の胸像も制作した。「血縁者の容貌の中に共通するものを捉えることにより、そこから翁の姿を思い描いてみようとしたのだろう」と推測する。
 制作に関する全ては安藤に一任されていた。安藤は「鹿児島に建てること高さ二丈(約6メートル)内外にすることの外、経費も年限も何も制限されてはいないのです」と話している(「鹿児島新聞」30年7月3日付)。
 西郷像の服装は銅像建設奉賛会評議員会が「羽織袴(はかま)の礼装」を希望していたが、安藤の意向も踏まえて「陸軍大将の服」になった。
 そのきっかけとなったのは、安藤が鹿児島から取り寄せた西郷の服。明治初めに千葉県習志野で行われた陸軍特別大演習で着用したものだった。
 「誠に幸いと云う可き(いうべき)は、この習志野に於(おい)て雨の為(ため)シミのはいった服装が、他の遺品と共に今日尚(な)お西郷家に保存せられてある事である。これが今度の銅像製作の第一の足場となったのである」(安藤「大西郷と銅像」)。
 西郷像のモデルの一人に同市出身の洋画家・藤島武二がいた。銅像制作の相談役に就いており、「体格が良かった藤島が陸軍大将の服を着ることになったのだろう」と想像する。
 同書には、安藤と藤島が同席している写真が掲載されている。場所は安藤のアトリエで35年撮影とみられる。大山さんが県立図書館で見つけた。「藤島が相談役として安藤を実際に援助していたことを示すもの」で「藤島の兄二人が翁とともに西南戦争に参加して亡くなっており、藤島自身も銅像制作について特別な思いがあったに違いない」と記している。
 建立場所は当初、上竜尾町の浄光明寺としていた。同寺には東京・上野にある西郷銅像の原型となった高村光雲作の木像があった。この像は空襲で焼失している。
 だが34年、市庁舎移転に伴い跡地が候補地となった。翌年、隣接する旅館の土地まで買収し、建設地として決定した。
 完成した西郷像は築山の上に置かれた。安藤は「人工の及ばざる自然の大いさを感ずる造園的築山風の台座が出来た」と記す(安藤「大西郷と銅像」)。
 除幕式は37年5月23日に行われた。安藤は「南洲翁を語る会」で「除幕式場では、銅像を仰ぎ見ることは出来なかった」と話し、翌日に行われた銅像建立奉告祭に出て「帰りにやっと見上ぐることが出来た」と語ったそうだ。
 大山さんは同書の最後にこの部分を引用し「この時、安藤は南洲翁に何と語りかけ、翁はそれに何と応えたのだろう」と締めくくっている。
 同書はA4判、54ページ、2200円(税込み)。大山さん=099(224)2714。
 大山さんは27日午後2時から、同市の西郷南洲顕彰館で「西郷隆盛銅像の制作の経過について」と題して話す。一般400円(鹿児島市内在住者300円)。敬老、友愛パス持参者、賛助会員は無料。同館=099(247)1100。
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作業着姿の安藤照(左から2人目)と藤島武二(右から2人目)
が写る「西郷隆盛銅像作製関係写真資料」(鹿児島県立図書館蔵)

現在も鹿児島市に立つ西郷隆盛銅像に関して。原型作者は安藤照。記事では触れられていませんが、戦時中に金属供出で失われた初代「ハチ公」の作者です。現在、渋谷駅前に立つ二代目「ハチ公」は安藤の子息でやはり彫刻家の安藤士(たけし)が復刻したものです。

西郷像竣工は昭和12年(1937)。生前のきちんとした写真が1枚も残っていないとされる西郷ですので、制作には苦労があったとのこと。

この点、先行する上野の西郷隆盛像と共通します。こちらは明治31年(1898)の除幕で、東京美術学校に制作が依頼され、光雲が主任となって作られたものです。この折には明治10年(1877)に戦死した西郷の記憶は多くの人が持っていたので、光雲は榎本武揚や西南戦争時の西郷の部下ら、直接西郷を知る人々の意見を参考にしたとも伝わっています。ちなみに光太郎はまだ美校入学前で、制作には参加しませんでした。

記事では上野の西郷像の原型の木型について触れられています。上野の銅像の竣工後、原型は鹿児島に運ばれ、浄光明寺さんという寺院に納められました。下は当方手持ちの古絵葉書です。右下の写真など、何だか仁王像のようですね。
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残念ながらこの原型は戦時中の空襲で焼失してしまいました。

はじめ、鹿児島の西郷像も浄光明寺に立てられる計画だったとのこと。それは存じませんでした。

さて、安藤が制作にかかった昭和3年(1928)の時点では、西郷の死から50年以上経っていましたから、なかなか西郷の顔立ちについての証言を集めるのは大変だったでしょう。

ちなみに昨夜、BSフジさんで放映された「TimeTrip 幕末の肖像-古写真に秘められた謎-」というスペシャル番組を拝見しました。ちょうど西郷の写真やキヨッソーネ筆の肖像画について触れられましたし、光雲の名は出ませんでしたが上野の西郷像も画像として再三使われました。
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他に当方が尊敬してやまない土方歳三や、坂本龍馬、龍馬の妻・お龍の写真についても。

それから、記事では安藤が西郷の軍服を取り寄せ、体格がよかった藤島武二がそれを着てモデルになったというエピソードも紹介されています。西郷の身長は推定180㌢ほど。藤島もそれに近かったのでしょうか。おそらくこの軍服と同じものも、光雲が上野の西郷造成作の際に参考にしています。

昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』に載った光雲の談話から。

西郷さんのきてゐた軍服や長靴、晴子などを取り寄せてもらつて調べて見たところズボンはわたしの胸まで来るし、長靴はももまでもはゐるといふ代物、帽子のあご革は西郷さんの汗や脂で、真つ黒になつてゐたが、これまたわたしの顔を一ト回り半もする長いものでとにかく非常に大男だつたことは、はつきりしたわけだ。

「ズボンはわたしの胸まで来る」、笑えますね(笑)。それはさておき、安藤が鹿児島の西郷像制作にかかっていた頃はまだ光雲は存命でしたので、藤島同様、何らかのアドバイスをした可能性はあるな、と思いました。もしかすると軍服の存在も光雲から教えられたのかも知れません。

それから意外だったのは、藤島の兄二人が西南戦争で西郷と共に戦死、という件。これも全く存じませんでした。

初代ハチ公像などとは異なり、鹿児島の西郷像も上野の西郷像と共に戦時の金属供出は免れたわけで、その点は良かったと思われます。今後とも鹿児島の人々に愛されて欲しいものですし、今回、記事になった元鹿児島市立美術館長の大山直幸氏がなさったように、その制作背景などの研究等がさらに進むことを祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

大空をみて一ぱいにいきをすいませうよ。

昭和3年(1928)10月 長沼セン宛書簡より 智恵子43歳

昭和3年(1928)といえば、光太郎が詩「あどけない話」で「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」と謳った、まさしくその年です。

10年前に智恵子の父・今朝吉が歿して弟の啓助があとを継いでから、徐々に傾き始めた実家の長沼酒造はこの年にはもはやどうにもならない状態に陥り、「あどけない話」が書かれた前日には、不動産登記簿によると長沼家の家屋の一部が福島区裁判所の決定により仮差し押さえの処分を受けています。

そんな中で出した、母を励ます手紙の一節です。しかし、翌年には完全に破産、母と弟は僅かに残った山林などの所有権を巡り裁判沙汰。一家は離散することとなります。

智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰活動に当たられている「二本松市 智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんから今年1年の活動報告的な「文集 2025」が届きました。
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B4判縦長で50枚程のコピーを綴じたもの。手作り感に溢れています。

表紙は智恵子が所属した太平洋画会の後身・太平洋美術会さんに所属され、書籍『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』や絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』などを書かれた坂本富江さん。こちらの会員でもあらせられるということで。

目次を載せておきます。それから裏表紙。
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まず会として行った事業の紹介。けっこう皆さんであちこち出かけられたそうで、そのスナップが裏表紙に載っています。

詩人の吹木文音氏(ご本名・中島宏美さん)もこの会の会員だそうで、先月、都内で行われた「第68回高村光太郎研究会」でのご発表に関しても。

それから花巻南高校文芸部さんの部誌『門』今年8月発行の第19号からのコピー。当会が仲介しまして、4月から5月にかけて二本松の智恵子記念館さんで、「高村智恵子生誕祭」のコンテンツの一つとして同校家庭クラブさんの制作になる「智恵子のエプロン」復刻展示が行われ、文芸部さんと家庭クラブさんの顧問の先生方、生徒さんが観にいらした関係です。近隣の智恵子ゆかりの地を夢くらぶの方にご案内していただきました。

その他、5月に行われた「智恵子純愛通り記念碑建立祭」では、地元の小中高生の皆さんに光太郎詩の朗読を依頼、その際に一言ずつスピーチもしてもらったそうで、その原稿。さらに会員の方々が自由に書かれた文章など。

こうした地域に根ざした草の根の活動も大切なことと存じます。しかり顕彰する人々が居なければ、対象の人物はどんどん歴史の波に呑み込まれて忘れ去られてしまいますので。

来年以降もさらなる活動のご発展を祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

いづれは私達は皆ゆくべき処へおそかれ早かれゆくのですから、人間相手でなし神にむかつて、精一ぱいのよい生き方をして、人間にはどのやうにもあれ決して不平はもつまいと私は決心してやつてゐます。


昭和3年(1928)8月21日 長沼セン宛書簡より 智恵子43歳

智恵子も実母のセンも、クリスチャンだったというわけではありません。したがってここでいう「神」とは漠然としたイメージと思われます。

もうこの頃には実家の長沼酒造は恐慌のあおりで大きく傾き、翌年には破産してしまいます。

新刊、といっても2ヶ月半経ってしまいましたが……。

印象派の超克 近代日本における西洋美術受容の言説史

発行日 : 2025年10月10日(金)
著者等 : 松本和也
版 元 : 思文閣出版
定 価 : 7,000円+税

モネやルノワールなど、日本人がこよなく愛する印象派は、どのようにして日本の美術界に受け容れられてきたのか?

 明治後期に流れこんだ印象派は、日本の洋画界に新たな波をもたらした。なかでも「日本のモネ」と称された洋画家・山脇信徳は、その絵画表現によって注目を集め、印象派の是非をめぐる論争の渦中に立った。第三回文展で褒賞となった《停車場の朝》や、その数年後に描かれた《夕日》などの山脇作品は、画壇・文壇を横断した二度の大論争を巻き起こす。それは、印象派以降の西洋美術が日本に受容される際に生じる反発や葛藤の、いわば象徴的事例であった。
 本書では、山脇信徳とその絵画表現を結節点として、齋藤輿里、高村光太郎、岸田劉生、そして白樺派など、時代のキーパーソンの言論を丹念に読み解きながら、西洋美術の新潮流が日本にもたらした文化的衝突、そしてそれがしだいに「日本化」され超克されていくさまを明らかにしていく。

★★★編集からのひとこと★★★
 今でこそ多くの日本人に愛される印象派。その独特の重ね塗りは「筆触分割」という技法によるものらしいのですが、それが「醜い」とさえ評されていた時代がありました。何が美しく、何が美しくないのか。あるいは何が芸術とそれ以外とを隔て得るのか。それは現代のアートシーンにも通底する問いであり、その意味で時代は絶えず繰り返されているのかもしれません。
 本書では、明治晩年の日本で、絵画の新技法が反発を招きながらも、次第に受け入れられていった過程を跡付けていきます。その議論を通して、時代を越えて鑑賞者・批評者に突き付けられる問いにも迫る1冊です。
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目次
 はじめに 日本の印象派
 Ⅰ
  第一章 山脇信徳へのアプローチ――洋画史・〝日本のモネ〟・言説史
  第二章 西洋美術の新傾向をめぐる言説史――印象派、ポスト印象派を中心に
  第三章 帰朝する新進洋画家――パイオニアとしての有島生馬・齋藤與里・高村光太郎
 Ⅱ
  第四章 「生の芸術」論争・再考――「DAS LEBEN」/「地方色」からみた山脇信徳《停
   車場の朝》
  第五章 山脇信徳作品展覧会をめぐる「絵画の約束」論争・再考――「自己」か「公衆」
   か
  第六章 山脇信徳「断片」の歴史的意義──フォーヴィスム/エキスプレッショニズムへ
 Ⅲ
  第七章 「自然」と「生活」をめぐる岸田劉生の芸術論――白樺派言説を補助線として
  第八章 ヒュウザン会(フュウザン会)展覧会の同時代評価──印象派以降の展開
  第九章 「心的印象」を象徴的に描くこと──萬鐵五郎の「新しい原始時代」
 結論 印象派の超克
 初出一覧
 あとがき

著者・編者略歴
1974年生。立教大学大学院文学研究科博士課程後期課程修了、博士(文学)。現在、神奈川大学国際日本学部教授。日本近現代文学・演劇・美術。著書に、『昭和一〇年代の文学場を考える 新人・太宰治・戦争文学』(立教大学出版会、2015)、『文学と戦争 言説分析から考える昭和一〇年代の文学場』(ひつじ書房、2021)、『戦時下の〈文化〉を考える──昭和一〇年代〈文化〉の言説分析』(思文閣出版、2023)ほか。論文に、「萱野二十一「道成寺」同時代受容分析」(『国語国文』2024. 9)、「見えにくい世界/新しい景色──宮永愛子のオペレーション」(『人文研究』2024. 9)ほか。

特に絵画に注目し、西洋美術の新潮流がどのように日本に受容されていったのか、それも明治末から大正初めに重きを置いて、印象派やポスト印象派の影響が中心に論じられています。

完全な書き下ろしではなく、『大衆文化』『人文学研究所報』などに掲載された論文をベースにされた章もありますが、「大幅な加筆修正を施してある」そうで、多少、繰り返しになる部分はあるものの、ほぼきちんと一本の流れになっています。300ページ超の労作です。

また、人名索引がきちんとつけられているのがありがたいところですね。
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論じられているのは、ちょうど光太郎が明治39年(1906)から同42年(1909)の3年半に亘る欧米留学から帰朝し、実際に肌で触れてきた新しい芸術を日本に根づかせようと、画廊・琅玕洞やヒユウザン会(のちフユウザン会)などの活動に取り組んでいた時期です。そこで光太郎の名はほぼ初めから終わりまで出ずっぱり。章の題名としては「第三章 帰朝する新進洋画家――パイオニアとしての有島生馬・齋藤與里・高村光太郎」のみですが、他の全ての章にその名が刻まれています。

最も注目されているのが、山脇信徳。現在では一般には忘れられかけている存在ですが、明治42年(1909)の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された「停車場の朝」が物議を醸しました。
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光太郎と親しかった石井柏亭は「こんな色彩は日本の風景には存在しない」。光太郎は「作者がそういう色に見えるならそれは作者の自由だ」。いわゆる「地方色論争」です。そこから有名な光太郎の評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)が生み出されました。

残念ながら「停車場の朝」そのものはモノクロ画像が伝わっているだけですが、同時期の山脇の作品を見れば、ほぼどんな感じだったかは想像がつきます。ちなみに本書のカバーにあしらわれているのは山脇の「夕日」と題する作品。明治43年(1910)のものです。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・智恵子】

人間は根本が間違つてさへゐなければお互に其精神の根を信じて、あとの細々した事はすべてゆるしあひ、いたはりあつてゆく外ありません。


昭和3年(1928)4月4日長沼セン宛書簡より 智恵子43歳

とかく排外主義に陥りがちで不寛容な現代人にこそ贈りたい一節です。

 DMM GAMESさんから配信されているオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」。光太郎を含む実在の文豪たちをモデルとしたキャラクターが多数登場し、平成28年(2016)の配信開始以来、根強い人気を保っているようです。

いわゆる「2.5次元」ということで演劇にもなり、既に8作品が作られ、来春には9作目「掬ウ者ノ響歌(コンチェルト)」の公演も予定されています。

5月に都内と京都で上演された8作目「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」のBlu-rayとDVDが、今月、発売されました。キャストに松井勇歩さん演じる光太郎が含まれています。

文豪とアルケミスト 紡グ者ノ序曲(プレリュード)

発行日 : 2025年12月10日(水)
著者等 : 舞台「文豪とアルケミスト」8製作委員会
版 元 : TCエンタテインメント
定 価 : Blu-ray ¥10,890 DVD ¥9,790

2025年5月に東京・IMM THEATER/京都・京都劇場にて上演された、舞台「文豪とアルケミスト」第8弾公演「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」が、Blu-ray&DVDとなって2025年12月10日にリリース!

2枚組のBlu-ray&DVDには本編映像のほかに「メイキング」「キャスト座談会」「アンサンブル座談会」「オープニング全景映像」「アフターイベント映像(全5回)」と、貴重な特典映像の数々を、別ディスクに大ボリュームで収録。さらに、初回生産分限定で「オリジナルステッカー」「ブックレット」の特典も封入となっている。

あらすじ
太宰治らと共に帝國図書館を救い絶筆した北原白秋。転生を選ばず、再び復活を遂げようとする悪しきアルケミストを葬る術を見出すため、負の感情が充満する生と死の狭間に留まっている。一方、石川啄木、高村光太郎そして小泉八雲は、北原白秋を転生させるべく目論み、また久米正雄と直木三十五は、深い親交のある文豪を探し求めていた。そんな折、アルケミスト・ファウストと出会った文豪たちは、「かつて文学で世界を救おうとした青年」について聞かされる。終わらない侵蝕を食い止めるため己の文学を信じ、文豪たちは戦いへと赴く。

キャスト
北原白秋:佐藤永典 石川啄木:櫻井圭登 高村光太郎:松井勇歩 久米正雄:安里勇哉
直木三十五:北村健人 小泉八雲:林光哲 ファウスト:原貴和 青年:松村龍之介
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もう1点、書籍です。

「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみた

発行日 : 2025年11月28日(金)
著者等 : 梅澤亜由美・大木志門・掛野剛史・山岸郁子編
版 元 : ひつじ書房
定 価 : 2,700円+税

2016年に配信開始され、これまで各界に影響を与えてきた人気ゲーム「文豪とアルケミスト」とそのメディアミックス作品を日本文学・文化研究者がそれぞれの専門分野から本格的に検証した論文集。全14本の論文からなり、ゲーム、アニメ、舞台、ノベライズ、朗読、さらにファンの受容、文学館や研究・教育現場との関わりなど多彩な側面からの論考を収録。執筆者:梅沢亜由美、大木志門、掛野剛史、山岸郁子、赤井紀美、今井瞳良、大島丈志、小澤純、影山亮、金子亜由美、構大樹、上牧瀬香、島村輝、芳賀祥子

編者紹介
梅澤亜由美(うめざわ あゆみ)大正大学文学部教授
大木志門(おおき しもん)東海大学文学部教授
掛野剛史(かけの たけし)武蔵野大学教授
山岸郁子(やまぎし いくこ)日本大学経済学部教授
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【目次】
 はじめに なぜ「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみたのか 大木志門
 第1部 キャラクター・関係性・二・五次元文化
 「尾崎一門」の息子(ライバル)たち――「文豪とアルケミスト」における「泉鏡花」と「徳田
  秋声」の「関係性」 金子亜由美
 「文豪」を媒介とした「文豪とアルケミスト」の私小説的受容――志賀直哉を例として 梅澤
  亜由美
 キャラクターを通して文学に相渉るとは何の謂ぞ――「二・五次元文化」の中の「文豪とア
  ルケミスト」 大木志門
 第2部 文アニ・ノベライズ・読書行為
 「物語なき世界」にたむろする――テレビアニメ「文豪とアルケミスト」の理と視聴者 今井
  瞳良
 芥川龍之介と太宰治を結び直す――アニメ版・ノベライズ版『文豪とアルケミスト~審判ノ
  歯車~』の世界観 小澤純
 「文豪」を育てるということ――「おやすみ、カムパネルラ」からのアプローチ 大島丈志
 ノベライズ『君に勧む杯』の文豪たち――現実と空想の間に生きる井伏鱒二・横光利一・佐
  藤春夫 掛野剛史
 第3部 アダプテーション・文劇・朗読
 多喜二転生――あるプロレタリア文学者をめぐるアダプテーション 島村輝
 演じられた文学者――近代文学と演劇が織り成す世界 赤井紀美
 「文豪とアルケミスト」における「朗読」の可能性――横光利一「春は馬車に乗って」を聴く
  という経験 芳賀祥子
 第4部 文学館・学校・公共性
 「文豪とアルケミスト」と文学館・記念館とのタイアップにみる〈関係性〉 影山亮
 〈「文アル」×文学館〉の行方 上牧瀬香
 新美南吉記念館特別展「南吉と読書」と「文豪とアルケミスト」 山岸郁子
 「文豪とアルケミスト」で近代文学の授業を押し拡げる――文学教育を「文豪コンテンツ」で
  支えるために 構大樹

いわゆるタイアップ企画ではなく、独自に編まれたものです。

内容の分析は元より、この手のコンテンツの受容がどのように為され、各方面にどういった影響が及んでいるか、先行する類似企画との比較、今後の展望などなど、多岐に亘る論考の集成です。リアルタイムでの文化史考察という意味でも特異な内容ながら優れたものといえるでしょう。

大御所のエラいセンセイ方は、「こんなものを真面目に論ずるのは大衆への迎合」とお考えなのでしょうか、はなから完全無視、またはそもそもその存在すら眼中にないと思われますが、本書で述べられている通り、現実に各地の文学館等で入場者数に影響を与えたり、取り上げられた文豪の著書や関連書籍の売り上げを左右したり、演劇や朗読など様々な分野に派生したりという現象が起きていますので、無関心でいていいものではありません。

光太郎に関しては、上記「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」にも触れられた赤井紀美氏の「演じられた文学者――近代文学と演劇が織り成す世界」、花巻高村光太郎記念館さんとのコラボ企画等の関係で上牧瀬香氏による「〈「文アル」×文学館〉の行方」の項などでちょろっと触れられている程度ですが、非常に興味深く拝読いたしました(まだ読了していませんが(笑))。提灯記事的な稿の羅列でなく、批判すべき点はきちんと批判するというスタンスにも感心しました。

編者のお一人、大木志門氏は田畑書店さん刊行の『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』を編まれ、神田の古書肆・八木書店さんでの講座「活字をはみだすもの(第25回)◆高村光太郎「独居自炊」の思想 ―宮崎稔宛書簡から」も担当されました。余談ですが、このブログに誘導するためにX(旧ツィッター)に投稿し続けている当会ポストを毎日リポストして下さっています。ありがたし。

というわけで、「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」のBlu-rayかDVD、『「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみた』、それぞれご興味おありの方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・智恵子】

だんだん身内のものがあの世へ旅だつてしまふのは淋しいものですね しかしわれわれもやがてみなそこへゆくのですから さう思つてこの世に居るうちはこの世の事に出来るだけつくしませうね それが人間のつとめでせう


大正14年(1925)10月10日 長沼セン宛書簡より 智恵子40歳

大正7年(1918)には智恵子の父・今朝吉、翌年に末の妹(六女)・チヨ、同10年(1921)には祖母のノシ、同11年(1922)だと三女のミツ、そしてこの年9月光太郎の母・わかが相次いで歿しています。さらに言うなら、2年後にはやはり智恵子妹で四女のヨシも。特に若い妹たちの相次ぐ死は、自らも健康不安を抱えていた智恵子に暗い影を落としたことでしょう。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連で2件。

まず、先月30日(日)に港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」で登壇なさった山本隆一氏が、同フォーラムの様子を報じた地元紙2紙を送って下さいました。そのうち『東奥日報』さんで、同フォーラムの記事の下に以下の記事が載っていました。

東北新幹線・新青森-八戸開業15周年 3駅で記念カード配付

 東北新幹線・新青森-八戸間が4日に開業15周年を迎えるのを記念し、JR東日本は1日から、新青森、七戸十和田、八戸の3駅で「駅カード」を枚数限定で配布する。当日有効の乗車券類か入場券(定期券を除く)を、各駅の新幹線の有人改札で提示すると、1人1枚もらえる。駅カードで3駅を取り上げるのは今回が初めて。
 駅カードは鉄道車両と地域の特色を組み合わせたデザインとなっており、JR東など鉄道会社がキャンペーン企画の一環として制作することが多い。新青森駅のカードはE5系新幹線「はやぶさ」と青森ねぶた、七戸十和田駅はE2系新幹線「はやて」と十和田湖、八戸駅は観光列車「TOHOKU EMOTION」と八戸えんぶりをそれぞれ描いている。
 本県では弘前駅や五所川原駅、深浦駅などが題材となったことがある。
 4日は新青森駅と七戸十和田駅で開業15周年セレモニーなどの記念企画を行う予定。
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七戸十和田駅の駅カードに「乙女の像」があしらわれています。記事本文に「乙女の像」の語が入っていなかったので、掲載紙が送られてくるまで気づきませんでした。

新青森駅、八戸駅のものはこちら。
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「こりゃ欲しいな」と思いまして、ネットオークションのサイトを見てみると、早速売りに出ていました。しかし3枚で8,000円。まぁ、好きな人はその価格でも買うのでしょうが、何だかなぁ……です。

もう1件。やはり地元紙の『秋田魁新報』さんで12月20日(土)に掲載された記事です。

遠い風近い風[畑澤聖悟]神秘の十和田は田沢と共に

 今年で3年目となる「北のまほろば祭り」は、私が主宰する渡辺源四郎商店の定例イベントである。本拠地である青森市の渡辺源四郎商店しんまち本店で、秋から冬にかけて、月終わりの週末にリーディングや一人芝居など、語り芸を中心に短編2、3本を上演する。今回は11月~来年1月に実施。毎回、期間中に計8~12作品が集まることから、「北の小さな演劇祭」を名乗っている。
 先月の公演タイトルは「千古水澄む十和田湖いだき」。ズバリ、十和田湖がテーマである。ゲストに秋田の「けやはす演劇部」を招いた。おととし1月にあきた芸術劇場ミルハスで上演された県民参加型ミュージカル「欅(けやき)の記憶・蓮(はす)のトキメキ」の出演者有志を中心に結成した劇団で、昨年に引き続きの登板である。
 演目は「神秘の十和田は田沢と共に」。秋田を憂う謎の集団「秋田賢人会議」が秘密会議を行う。県境にまたがる十和田湖を青森県が独り占めしようとしている。そうはさせじ。「十和田湖が名実ともに秋田のものであることを強く意識させるためには、物語を利用せばいい!」とリーダーが号令する。
 十和田湖、田沢湖、八郎湖を巡る「三湖伝説」を、都合のいい「秋田史観」で改変しようと試みるのだ。台本を持った演者8人によるリーディング公演であるが、歴史うんちくあり、アクションあり、ギャグあり。盛りだくさんの28分。客席は沸きに沸いた。劇団代表である伊藤展洋氏の記念すべき初の作・演出作品。堂々のデビューである。
 迎え撃つ「小なべの会」は、渡辺源四郎商店の若手によるユニット。これまで劇団内ワークショップ、台本評論、作詞作曲、演出練習などの活動を経て、今回が初公演となった。演目は「智恵子と智恵子」(沼畑枝里作・演出)。十和田湖畔に立つ裸像、通称乙女の像が主人公。制作途中の像が、作者の高村光太郎が寝ている間に動き出し、歌ったり漫才をしたりする。コント風の展開だが、亡き妻、智恵子への高村の愛情が徐々に浮かび上がってくる。ゲストに負けぬ大受けであった。
 終演後はロビーで出演者、スタッフ、観客が入り乱れての座談会「まほろばトーク」。そして乾杯。そのまま打ち上げになだれ込んだ。大量に持ち込まれた秋田の美酒とお土産がありがたい。
 私が「欅の記憶・蓮のトキメキ」の演出を担当させてもらってから間もなく3年。あの日、演劇の世界に足を踏み入れた彼らは、自作を引っ提げて遠征するまでになり、アウェーの観客を大いに喜ばせた。そして、初めて私の手を離れて芝居を打ったウチの若手たち。みんな楽しそうに芝居談義をしている。これはすごいことである。報われた気がした。空きビルを大工仕事で劇場に改装したのも、身銭を切って劇団を19年続けてきたのも、何もかもこのためだったのではないか。
 けやはすの面々とは「またね」と言って別れた。また、いい芝居やりましょう。そして、楽しく飲みましょう。芝居は終われば何も残らないが、縁は続くのである。
 (劇作家・演出家、五城目町出身、青森市住)

このイベントについても事前に把握できていませんでした。公式サイトにやはり「乙女の像」の語が無く、さらに演目題名も「智恵子と智恵子」ということで、「高村」の語を書いていただければ見逃さなかったのですが、「智恵子」だけでは検索網でカバーしきれません。
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ちなみに「千古水すむ十和田湖いだき」という「青森市民の歌(愛市の歌)」の歌い出しの一節を総題にした3本仕立ての演劇公演で「神秘の十和田は田沢と共に」「十和田湖のこわい話」そして「智恵子と智恵子」だったそうです。智恵子の顔を持つ「乙女の像」の制作意図が、光太郎曰く「人間の心の中を、内部を見る。そういう一種の感じをうけたんで、その一つの人間が、同じものが、どこを見ているかわからないが、とにかく向かいあって見合っている――片方は片方の内部で、片方は片方の外形なのです」ということで、「智恵子と智恵子」だったのでしょう。

「乙女の像」が主人公というと、10年ちょっと前に十和田湖国立公園協会さんでから刊行された能町みね子氏の『十和田湖アイドル伝説! 乙女の像S 解散の危機 !?』が思い出されました。

これからも「乙女の像」、地元で、さらに全国区で愛されてほしいものです。

【折々のことば・智恵子】

この世に生れて来た甲斐に、どれだけの事が成功するか、各自に与へられた力の最善を尽して一生の使命を果すので、誰れにとつても生やさしい面白いおかしい事ではなく、いつも目的を最高の処に置いて立派な、悔いのない、あゝこれでよかつたと、生の終りに自分で感謝する事の出来る生涯を築く覚悟がなければなりません。


大正11年(1922)12月1日 長沼啓助・禎子宛書簡より 智恵子37歳

大正7年(1918)に歿した父・今朝吉の跡を継いで長沼酒造を任された弟・啓助と、その妻となった禎子との若い二人に宛てた書簡から。

智恵子自身、昭和13年(1938)に南品川ゼームス坂病院でその生涯を閉じる際、「あゝこれでよかつたと、生の終りに自分で感謝する事の出来る生涯」だったのでしょうか……。

光太郎の父・光雲の作品が出ています。

冬季所蔵品展 私たち七尾美術館PR隊!

期 日 : 2025年12月20日(土)~2026年2月8日(日)
会 場 : 石川県七尾美術館 石川県七尾市小丸山台1-1
時 間 : 午前9時〜午後5時
休 館 : 毎週月曜日  (1/12は開館)、1/13
      12/29(月)から1/3(土)までの6日間
料 金 : 一般350円(280円) 大学生280円(220円) 高校生以下無料
      ( )は20名以上の団体料金

 令和6年能登半島地震により1年9カ月にわたって臨時休館を余儀なくされた当館。臨時休館中には文化財レスキューや市内学校への出前講座などを行っていました。
 そんな中、臨時休館が続く当館の状況を知った七尾市立小丸山小学校の5年生(当時)が、再開館に向けて自分たちにできることはないかと考え、昨年の総合学習の一環として「震災に負けずに立ち上がろう。七尾美術館PR隊」という活動を行ってくれました。
 その活動内で、子どもたちに当館所蔵品の中からお気に入りの作品ベスト3を挙げてもらい、それを元に学芸員が展示品を選抜・展示計画を作成しました。
 そして、子どもたちには自分たちなりの視点で作品の見どころを伝える「作品解説」を書いてもらいました。
 子どもたちの「作品解説」とあわせてお楽しみください。

同時開催 まなざしの先
 「目は口ほどに物を言う」ということわざがあるように、私たちの「目」は時に言葉以上に相手に感情を訴えかける力があります。
 それは喜びであったり、悲しみであったり、あるいは怒りであったりと様々ですが、相手の顔を見た時に、思いがけない感情に気づき、ドキッとした経験は誰しもあるのではないでしょうか。
 本テーマではこの「まなざし」に着目。現代絵画を中心に、写真や工芸などの当館所蔵品のうち、まなざしや視線、あるいは表情が印象的な作品を展示します。
 それぞれの作品の「まなざしの先」に何があるのか、皆さまも思いを馳せてみてください。
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004案内文にある通り、昨年1月の能登半島地震により同館は臨時休館となり、地震発生の際に開催中だった企画展示「彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜」は途中で打ち切られました。

2年近くの休館中、被害の少なかった石川県立歴史博物館さんでの出開帳「令和6年能登半島地震復興応援特別展 七尾美術館 in れきはく」などを行ってきましたが、今秋から再開とのことで、喜ばしく存じます。

「彫刻って面白い!」「七尾美術館 in れきはく」にも出品された、光雲作の聖観音像(昭和6年=1931)が今回も展示されます。七尾市出身の実業家で、美術品コレクターでもあった池田文夫氏(1907~87)が蒐集した美術工芸品「池田コレクション」の一つです。他に多く作られた聖観音像と少し趣が異なり、工房作かな、という感じもします。

地元の小学校さんの協力も入った展示だそうで、タイトルに「七尾美術館PR隊」。すばらしい取り組みですね。

訪れるだけでも復興支援の一環となります。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・智恵子】

人間はお互に助け合はねばならないでせう 人を教へるとか 又は与へる力があるなぞと誰しも思ふものはないことゝ思ふけれど 元来信仰の問題は知識ではなく(知も一部ではあるが)随て教へるなどゝいふ事とは遠いことのやうに私は思ひます

大正10年(1921) 斎藤辰之介宛書簡より 智恵子36歳

斎藤は智恵子と同郷の彫刻家。光雲の孫弟子にあたります。のち、二本松霞ヶ城に建てられた光太郎詩碑の建立に尽力しました。

斎藤の母が智恵子の妹・ミツの肺結核による東京病院(のちの慈恵医大病院)入院に付き添っており、末期の患者にどんな話をしたらよいのか、といった質問に対する返答の一節です。

ミツは翌年死去。その遺児・春子はのちに当時の一等看護婦の資格を取得、智恵子晩年のゼームス坂病院での付き添いを務めることとなります。

昨日は上京、「第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ」に出演しておりました。
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会場は御茶ノ水のワイム貸会議室さんでしたが、zoomによるオンラインでの同時配信も行われました。
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カメラで司会者・発表者の顔を写す部分、パワーポイントのスライドショーとも連動させての部分もある配信だということで、時代は進んでいるんだなぁ、という感じでした。このあたりの新技術や風潮が広まったのだけは、コロナ禍による良かったことだと思います。

当方を含む3人の発表。

まずは大阪堺の与謝野晶子記念館学芸員・森下明穂氏。「与謝野晶子 美しい本の世界へ」と題してのご発表でした。
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主に装幀に関わるお話で、どんな人物がどういう感じで晶子著書の装幀を行ったか、といったお話を、画像をふんだんに使われてのご発表でした。

なるほど、発表題にある通り美しいものが多く、各装幀者や晶子のこだわりといったものが垣間見えました。また、時期による流行のような点も。
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主な装幀者は、藤島武二、中澤弘光、有島生馬、石井柏亭、津田青楓、正宗得三郎、山本鼎など。光太郎の人脈ともほぼ重なる人々です。

それから、光太郎というより、実弟の豊周と昵懇の間柄だった広川松五郎。ここで広川が出てくるか、と、驚きました。
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挿画についてもお話があり、すると、光太郎にも触れられました。光太郎は晶子の夫・寛の著書では装幀を手がけましたが、晶子の著作では装幀は行っていません。しかし、光太郎の挿画は使われています。
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右下が大正9年(1920)の『晶子短歌全集 第三巻』に載った光太郎の挿画。ちなみにあと2点は第一巻、第二巻の藤島武二、中澤弘光によるものです。

この光太郎の挿画については当方の発表の中でも触れましたので、現物も持参し、会場に展示させていただきました。他の光太郎装幀本・挿画の載った書籍、ついでに彫刻も。
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続いて当方の発表。
無題
今回のシンポジウムの総題が「『明星』と美術」ということでしたので、新詩社メンバー中、美術実作者として活躍した光太郎についてしゃべれ、ということで担ぎ出されました。

第一期『明星』(明治33年=1900~同41年=1908)、その後継誌ともいうべき第一期『スバル』(明治42年=1909~大正2年=1913)、その少し後くらいまでにスポットを当て、光太郎を取り巻く当時の文学界・美術界などについて、光太郎との関わりからべしゃくらせていただきました。

そのために今回作成したのが、下記の人物相関図。
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はなはだ不完全なもので、しかも線が錯綜して見づらいものですが、とりあえずこのくらいかな、という感じです。本当はあと30人ほどは入れたいところですし、線の結びつきも、両端にいるこの人物とこの人物がこういう関係があったというのを、もうこれ以上線が引けないということで随分と割愛しています。たとえば右上の方にいる荻原守衛と右下の方に配した斎藤与里が留学仲間だったとか、これも右上の方にある『少女世界』に晶子も寄稿していたとか、同様に下の方には光太郎が度々寄稿した『文章世界』だの『詩歌』だの『早稲田文学』だのも配したものの、名を出した人物でこれらに寄稿している人物がいるはずで、その線は書いてありません。

これが大正後半や昭和に入ると違った様相を呈します。また、与謝野夫妻なり、啄木なり白秋なり守衛なりを中心に据えればまた異なる感じの相関図が出来上がるでしょう。それぞれがご専門の方々がそれらを造り、つなぎ合わせて畳一枚分くらいの大曼荼羅のようなような相関図が出来れば面白いな、などという話もさせていただきました(笑)。

これを作ったことで、自分でも今までわかっていなかったことがおぼろげながら見えてきた感じがしました。すなわち、なぜ光太郎が様々な分野に手を出していたのか、です。美術方面では彫刻、絵画、装幀、書、建築、美術評論など、文学方面では詩、短歌、俳句、随筆、翻訳、戯曲など。もちろんそれぞれに才能があったからですが、それ以外に光太郎自身、好奇心というか、新しいことに挑戦しようという積極性というか、そういうものがあって、いろいろやったわけです。ここまではこれまでもそう思っていたのですが、今回、相関図を作ったことで、光太郎のそうしたマルチな才能が周囲から重宝されていたと思いあたりました。

光太郎と同世代の人物たちにしてみれば、一世代前の巨匠たち(黒田清輝、藤島武二、与謝野寛、森鷗外など)に頼みにくいことも光太郎になら頼めるし、光太郎としても留学からの帰朝後、父・光雲を頂点とする日本彫刻界とは距離を置いたので生活の途に困り、仕事の注文が入ればありがたいと、まぁ、ウィンウィンの関係だったと言えるのではないでしょうか。

しかし光太郎も唯々諾々と各注文に応じていたわけでもなく、けっこう毒をしのばせたりもし、一筋縄ではいかなかったとも感じました。

休憩後、最後のご発表は主催の明星研究会をとりまとめてらっしゃる歌人・松平盟子氏。
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時系列に沿って『明星』発刊の前後からの新詩社と美術家たちの関わりなどについてのお話。題して「憧憬と戦略 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」。

第一期『明星』が単なる短歌雑誌ではなく、後の『白樺』同様、美術にも軸足を置いていたという件、そこには与謝野寛の西洋美術への「憧憬」があり、また、翻訳文学の紹介や、晶子を含む女性を積極的に登用し、それまでにない誌面が作られていったという流れでした。そこが主宰の寛の「戦略」ですね。光太郎も留学先から翻訳を寄稿しています。

特に関わりが深かったのが、黒田清輝や藤島武二(共に光太郎の美校時代の恩師でもあります)らの白馬会、さらに一條成美や長原孝太郎(止水)、そして美術家ではありませんが、美校の教壇にも立った(やはり光太郎の恩師に当たります)森鷗外。そして鷗外と親しかった原田直次郎などにも触れられました。

そういう『明星』のコンセプトを反映させた晶子短歌の実際の表現といった点にも言及されました。
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第一期『明星』がそうした雑誌であったからこそ、美校在学中の光太郎がぜひ書かせてくれ、と、新詩社に加入したんだろうなと、実感が湧きました。単なる短歌の雑誌に留まるものであったなら、光太郎がそれほど関心を示したとも思えません。
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さて、zoomによるオンラインでの同時配信が行われましたが、アーカイブ配信(有料)もするそうです。詳しくはこちらにある連絡先まで。

同シンポジウム、来年には第20回記念とのこと。今後の関係の皆様のますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

旧冬私ども結婚の節は御多用の御内をお揃で御臨席下されましてありがたく存じました。また其折は結構なお祝ひを頂戴いたし御礼を申上げます


大正4年(1915)1月3日 柳八重宛書簡より 智恵子30歳

前年12月22日、上野精養軒で行った光太郎との結婚披露宴参列への礼状から。「お揃」は、八重の夫・柳敬助も出席したことを指します。

八重は智恵子の日本女子大学校での先輩、敬助は光太郎の留学仲間。明治44年(1911)、柳夫妻が光太郎智恵子を引き合わせました。元々は智恵子の方から、先輩芸術家の話を聴く一環として留学帰りの光太郎を紹介して欲しいと持ちかけたのですが、柳夫妻としても、帰朝後に荒れた生活を送っていた光太郎を案じ、「芸術の話ができる女友達でも出来れば」と、応じたと思われます。

雑誌新刊です。

『Begin』2026年2月号

発行日 : 2025年12月16日
版 元 : 世界文化社
定 価 : 745円+税

●大特集:2025年の人気モノランキング!  2026年の大モノ先駆けスクープ!「Begin Best 100」
●第2特集:「本当に使える」北欧デザインの雄 イノベーターの“革新”を学ぶ
●第3特集:いつもの年末年始を10倍回復させる!「リカバリーギフトCATALOG」

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主に男性向けのシャレオツなグッズを紹介する雑誌です。

「ミュージアムグッズ愛好家」なる肩書きの大澤夏美氏という方による「博ブツ観」という連載が為されており(今号は第32回だそうで)、「岩手県花巻市で発見 高村光太郎記念館 本革しおり Bookmark」のサブタイトルで、そのままずばり、高村光太郎記念館で販売されているしおりをご紹介下さいました。ありがたし。
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問題の(別に問題もありませんが(笑))しおり、モチーフは本文で詳しく語られていますが、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)に隣接するトレの壁に自らが彫りつけた明かり採りの窓です。
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トイレの内部から見ると「光」の文字が反転して見えるわけで。現在ではトイレも套屋で覆われていますが、裏側から右上画像のように外光が差し込むさまが見られるようになっています。
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この反転バージョンを、同館ではロゴや、今回のしおりなどさまざまなグッズに使用しているというわけです。ところでしおり、イタリアの牛革製だそうで、それは存じませんでした。

ただ、現在の物販はというと、二重三重四重五重にいろいろ面倒くさい問題がありまして、非常に品数が少ない状態です。もっとうまくやれよ、と言いたいのですが……。

閑話休題、大澤氏曰く

 一枚のしおりをきっかけに、光太郎と智恵子、そして山荘に射し込む「光」という小さな物語へと誘われたのかもしれません。まだしばらく続く寒い季節の読書時間に、そんな“自分だけの光”を運んでくれるしおりを忍ばせてみるのも、悪くないのかも。

なるほど。

さて、『Begin』2月号、Amazonさんなどでも扱っています。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・智恵子】

こんどといふこんどこそは、何がなんでもいゝ絵をかいて そして生活をしてゆかなければ 私はかうしてはゐられないのですから 今からいそいでかゝなければならないのですから

大正2年(1913)8月12日 長沼セン宛書簡より 智恵子28歳

結婚前の二人でしめしあわせ、光太郎が先行滞在していた信州上高地に智恵子も追って行くのですが、そのための旅費を実家の母親に無心する手紙の一節です。もっとも、そうした事情は一切語らず、いわばだまし討ちですね。結果的には金銭を送ってもらい、上高地で光太郎と合流、二人は婚約を果たします。

アンソロジーものの新刊です。

パリと日本人 近代文学セレクション

発行日 : 2025年12月
著者等 : 高村光太郎、林芙美子ほか 著 和田博文 編
版 元 : 平凡社
定 価 : 2,200円+税

日本人は憧れの都をどう描いたか――第一次世界大戦期から1960年代にかけてのパリにまつわるエッセイ、小説、詩のアンソロジー。

第一次世界大戦期にあたる1910年代から、五月革命が勃発する1960年代後半まで、多くの日本人が花の都パリを訪れた。彼らの目に、激動の時代のパリはどう映ったのか。最先端の美術に触れ、新たな画風を模索した蕗谷虹児、職を辞して、異国の街で思索を紡いだ森有正……。小説家や画家、哲学者など、多彩な人々によるパリを描いた31編のエッセイ・小説・詩を一冊に編む。
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目次
 第1章 憧憬の都市と、第一次世界大戦の空襲・長距離砲 第一次世界大戦以前のパリと日
 本人
  巴里の旅窓より  与謝野晶子
  雨にうたるるカテドラル  高村光太郎
  ルノワル先生  梅原龍三郎
  戦争の空気に包まれたる巴里(抄)  島崎藤村
  リュウ・ドュ・テアトルの頃  長谷川昇
  爆弾下の巴里──千九百十八年三月──  吉江喬松
  巴里の此頃  森田恒友
 第2章 ツーリズムの時代、リベリテ・エガリテという幻想 一九二〇年代~三〇年代前半
 のパリと日本人
  パリー  岡本一平
  牢屋の歌  大杉栄
  日本贔屓  獅子文六
  巴里の懺悔  芹沢光治良
  秋の一日  九鬼周造
  レヴュウ『パリゼット』  白井鐵造
  私の巴里四年  蕗谷虹児
  佐伯君の死とその前後  伊藤廉
  夜のモンマルトル  酒井潔
  異国食餌抄  岡本かの子
  『滞欧画信』より  竹久夢二
  泥手・泥足  金子光晴
  巴里の片言  林芙美子
 第3章 ファシズムの跫音、占領下のパリ ファシズムの時代のパリと日本人
  革命祭  野上弥生子
  ルーヴルの立退き  大森啓助
  巴里の雨  久生十蘭
  街頭スケッチ  関口俊吾
 第4章 哲学思想・ソルボンヌ・五月革命 一九四五年の敗戦~一九六〇年代末のパリと日
 本人
  渡仏前後  小川国夫
  私のエコール・ド・パリ地図  辻邦生
  わが哲学時代から  辻邦生
  パリの冬とその街  森有正
  ソルボンヌの壁新聞  開高健
  パリ・その象徴  草野心平
  「五月革命」のパリから  朝吹登水子
 編者エッセイ パリの視覚装置と、オルセー美術館  和田博文
 あとがき

「パリ」に特化したアンソロジーで、リアルタイムでのパリ、あるいは日本に帰ってから記憶を記したものなどがほとんどのようです。

のべ30名程の詩文が採択されていますが、登録情報としては「高村光太郎、林芙美子ほか 著」となっている他、帯に大きく印刷されている「はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです」は、本書に採択されている光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)の一節です。

他に光太郎と関わりの深かった面々の作品も多数掲載されています。与謝野晶子、梅原龍三郎、草野心平、岡本一平など。

ちなみに編者の和田博文氏は、同じ平凡社さんから『日本人美術家のパリ 1878-1942』という書籍も刊行されています。アンソロジー系でも筑摩書房さんからちくま文庫の一冊として『猫の文学館Ⅰ 世界は今、猫のものになる』など。

ぜひお買い求め下さい。000

【折々のことば・智恵子】

ほんとうに両人のいたづらをお目にかける様なものなのです。極りのわるひ展覧会です。くだらないものと御承知で、見にいらしつて下さいまし。

「『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会」案内状より
明治45年(1912) 智恵子27歳

光太郎と知り合った翌年、光太郎の手を離れた画廊・琅玕洞で開催された田村俊子の「あねさま人形」と智恵子の「うちわ絵」の二人展案内状から。

ことによると文面の執筆は田村かもしれませんが。

花巻レポートの承前です。

12月15日(月)、旧太田村の高村光太郎記念館さんにて「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」拝観の前、同じく旧太田村の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに立ち寄りました。
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まず農産物等の直売や土産物等の販売を行っている「すぎの樹」さんで、林檎を箱買いして自宅兼事務所に発送(左下)。この季節のルーティンです。後述のやつかの森LLCさんから既に大量に送られてきている(右下)のですが、いくらあっても困りませんので(笑)。
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「すぎの樹」さんの正面の壁には光太郎を描いた大きな壁画。
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その右下に、弁当やお総菜を販売なさっているミレットキッチン花(フラワー)さんがあります。
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こちらでは毎月15日、豪華弁当「光太郎ランチ」を限定10食で販売中。ちょうど15日でしたので、「どれどれ」と見に行きました。

この時点で13:00近かったのですが、残り2食。
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売り切れていたら画像が出せないなと思っていたのでラッキーでしたし、逆に全然売れていなくても悲しいところで、いい塩梅でした。

現物を見るのは3度目でした。最初は販売が始まった令和2年(2020)のお披露目会の折、2度目はやはりたまたま15日に訪れ、ゲットして帰って妻と二人でいただいた一昨年の冬。今回は1泊2日の初日で、既に新幹線車内で駅弁を食した後だったので購入はしませんでした。

メニューの考案には、地元で主に食を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが担当されています。そのやつかの森さんから送られてきた画像。
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品目は「チキンの照り焼き」「牛すき煮」「大根とさつま揚げの煮物」「卵焼き」「さつま芋入り蒸しパン」「青豆入り麦ご飯」「大学芋」「みかん」。今月は当方の好物が並んでおり、こりゃ食べたかったな、というメニューでした。

それにしても、この諸物価高騰の折、変わらず800円というのがすごいと思います。令和2年(2020)の段階では800円だと安くはないな、という感じでしたが、現在ではお手頃価格感です。なし崩し的に諸物価高騰に馴らされてしまっているようで、逆に怖いなと思いました。壺が大好きな無策な政府の思う壺にはまっているようで(笑)。

今年はこれで終了ですが、来年以降も愛され続けることを祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

この繁雑な世の中に出て奮闘するには随分よく心身をきたへて置かねばなりませんよ くれぐれも祈ります


明治42年(1909)2月7日 鈴木謙二郎宛書簡より 智恵子24歳

鈴木謙二郎は、明治40年(1907)に智恵子が父・今朝吉やきょうだいと共に宿泊した福島相馬の原釜海岸にあった金波館という宿で知り合った、その当時の旧制米沢中学生です。智恵子は7歳年下の鈴木と姉弟のように親しくなり、確認できている限り明治44年(1911)まで文通を続けていました。

のち、鈴木は山形県伊佐沢村村長や長井市教育委員などを歴任します。
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監修させていただいた「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」の関係で、12月15日(月)・16日(火)と1泊2日で花巻に行っておりました。

14日(日)にちょっとした降雪があったそうで、郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんはこんな感じ。
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入ってすぐ、「おっ!」と思ったのがこちら。まだ正式に展示が始まってはいなということですが、花巻南高校さん書道部の生徒さんたちの書。

追記:書道部さんではなく、授業で書道を選択された生徒さんたちだそうでした。
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すべて違う生徒さんの作品で、それぞれ思い思いに光太郎詩の一節を書いて下さっています。「卒業記念」的な意味合いもあるそうで。こういうのを見ると、不覚にもうるっときてしまいます(笑)。

同校の文芸部さんと家庭クラブさんにはいろいろとお世話になっていますが、今度は書道部さんも巻き込んだか、という感じでした(笑)。若い世代に光太郎を知ってもらうという意味でも、良い試みですね。

奥の企画展示室へ。
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花巻と光太郎を結びつけたキーパーソンである宮沢賢治との繋がりに焦点を当てました。
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2人が実際に顔を合わせたのは、大正15年12月のたった1度だけでした。しかし、2人の天才は、それぞれの作品を通してお互いを深く敬愛していましたし、残念ながら賢治が歿してからになりますが、その結びつきはより強固なものとなっていくことになります。

昭和8年(1933)に賢治が亡くなり、すぐ翌年には光太郎も編集者として名を連ねた『宮沢賢治全集』の刊行が始まります。光太郎が関わった賢治の全集は4種類。それらにより、生前は無名の地方詩人に過ぎなかった賢治の名が世に広く知られていくことになります。

そこで今回の展示では、光太郎が関与した4種類の全集にスポットを当て、それらの成立過程やさらに派生して刊行された書籍、それらに関わった人々の思いといったところを前面に押し出しました。

最初の文圃堂版全三巻(昭和9年=1934~同10年=1935)。
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それを補完する形で出された十字屋版(昭和14年=1939~昭和19年=1944)。
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『全集』とは冠されていませんが、戦後の日本読書購買利用組合『宮沢賢治文庫』(昭和21年=1946~同24年=1949)。
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そして筑摩書房版(昭和30年=1955~同32年=1957)。
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装幀、題字揮毫は全て光太郎です。特に筑摩書房版は、光太郎のこの手の仕事の最後のものとなりました。

賢治作品を世に出す強い意志を持って臨んだ実弟の清六、賢治の親友だった藤原嘉藤治についても詳しく紹介されています。当会の祖・草野心平についても。
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テレビモニターでは、昭和11年(1936)、光太郎が碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」碑除幕式の様子。碑の近くの桜地人館さんで常時上映されているものです。
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桜地人館さんでは、戦後の光太郎書も貸して下さいました。これまで門外不出だったものですが。
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右上は、藤原嘉藤治の顕彰をなさっている瀬川正子氏ご提供の写真。世に出るのは初めてではないかと思われるものです。

賢治の遺言で、没後に配付された「国訳妙法蓮華経」。
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なかなかに充実した展示でした。

その他、同時開催中の4月に始まった特別展「中原綾子への手紙」(2月28日(土)まで)。
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先月末まで開催されていた企画展「昔なつかし花巻駅」に出品されていたジオラマは、第一展示室に移動されていました。
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その後、隣接する高村山荘(光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋)へ。
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少し早かったのですが、寒いので(笑)、宿泊先の光太郎も愛した大沢温泉さんへ。
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最近は予約を取るのもけっこう一苦労です。

翌朝(昨日ですが)、再び高村光太郎記念館さんに。この日はNHKさんの取材ということで。余裕を持って行きましたので、まずまた山荘に。夜のうちに新たに雪が降り積もることもほぼなく、助かりました。
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さらに奥の「雪白く積めり」碑。この地下には光太郎の遺髯が埋まっています。
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碑の前の広場。熊の足跡でしょうか。
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明らかに狐や兎ではありません。

裏山の智恵子展望台からの眺め。
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記念館に戻り、取材を受けました。NHKさん以外に地方紙『岩手日日』さんにも。

NHKさんには、「民間通信員」という制度があり、業務委託された民間の方が取材、撮影なさり、放送局でそれを編集し放映するシステムになっています。今回いらしたのは旧知の北山公路氏。花巻のタウン誌『Machicoco』の編集・発行もなさっている方です。
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早速昨日のうちに夕方のローカルニュースで流れ、ネットにも出ました。

高村光太郎と宮沢賢治のつながり紹介する企画展 花巻

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 詩人で彫刻家の高村光太郎と花巻市出身の詩人で童話作家の宮沢賢治のつながりを紹介する企画展が、花巻市で開かれています。
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 花巻市の「高村光太郎記念館」で開かれている企画展では、光太郎が賢治の作品に出会って賢治の家族と交流を深め、賢治の死後に発行された全集の編集や装丁を手がけた過程などが、4種類の全集などとともに紹介されています。
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 また、賢治の作品を広めた、賢治の弟の清六や賢治の親友の藤原嘉藤治の功績も一緒に紹介されていて、昭和11年に市内に設置された「雨ニモマケズ」が刻まれた賢治の詩碑の除幕式を撮影した動画を見ることができます。
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 企画展を監修した高村光太郎研究者の小山弘明さんは「生前は無名だった賢治が世界的に有名になった過程に、光太郎が関わっていたことを広く知ってほしい」と話していました。
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 また、主催する花巻市生涯学習課の菊池功昇課長補佐は「賢治と花巻の関わりは広く知られているが、光太郎と花巻の関わりについても、もっと市民に知ってほしい」と話していました。
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 この企画展は、来年3月末まで開かれています。

次回は来年2月21日(土)、関連行事として、清六令孫にして林風舎代表取締役・宮沢和樹氏、藤原嘉藤治の顕彰を勧められている瀬川正子氏とのトークショーの際に参ります。

というわけで、皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・智恵子】

この福島がいゝ人もあるか知れませんが私には一向よくもありませんねー 住めばみやこの習にて人気少ない家郷の山川もしのぶの空にすむ身には降りしきる五月雨につけ何となうなつかしう存られ候

明治34年(1901)7月5日 安田卯作宛書簡より 智恵子16歳

安田卯作は智恵子の母校・油井村の油井小学校に勤務していた教師です。この年、同校高等科を卒業した智恵子は福島町(現・福島市)の町立高等女学校に進み、大熊ヤスら同級生とともに町内の弁護士方に下宿していました。3ヶ月程でホームシックになっていたようです。

「しのぶの空」は女学校近くの信夫山(しのぶやま)に関わります。『古今和歌集』や『小倉百人一首』に収められた源融(河原左大臣)の有名な歌「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」も背景にあるでしょう。

そして故郷の山川を「偲ぶ」と、信夫山の「しのぶ」の掛詞(かけことば)。智恵子少女の教養の高さが窺えます。また、その筆跡の見事さも。
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今年5回目(たぶん(笑))、そして今年最後となりますが、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。
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先週末に高村光太郎記念館さんで、監修させていただいた「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」が始まりまして、そちらの拝観。さらに来春開催予定の関連行事としてのトークイベントの打ち合わせ。
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隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんなどに寄り(ほぼいつも代わり映えしないのですが(笑))、現在は光太郎ゆかりの大沢温泉さんに宿泊しております。
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今日また朝から記念館さんに参り、企画展につきNHKさんの取材を受け(ローカルニュース用でしょう)、それで帰ります。

詳しくは帰りましてからお伝え致します。

テレビ放映情報です。

まずはアーカイブ映像の使い回しですが。

日本歌手協会歌謡祭プレミアム

BSテレ東 2025年12月17日(水)  19:00〜21:00

毎週水曜日は懐かしの名曲をたっぷりと聴くことが出来る2時間!赤、青、黄色・・・曲名や歌詞に「色」が入ったカラーソングをいろいろとお届けします!

「ルイジアナ・ママ」飯田久彦 「黒百合の歌」織井茂子 「イルカにのった少年」城みちる
「黒い花びら」湯原昌幸 「黒姫ものがたり」小沢あきこ 「桃色吐息」川中美幸
「赤と黒のブルース」鶴田浩二 「砂の十字架」中村晃子 「青い山脈」青山和子
「赤い花白い花」芹洋子 「真赤な太陽」秋元順子 「悲しき口笛」三山ひろし
「命くれない」瀬川瑛子 「白い花の咲く頃」岡本敦郎 「白い蝶のサンバ」森山加代子
「白いブランコ」ビリー・バンバン 「シクラメンのかほり」キム・ヨンジャ
「黄色いシャツ」浜村美智子
「黄色いさくらんぼ」牧山直江(スリー・キャッツ)、あべ静江、山田邦子
「みずいろの手紙」あべ静江 「月がとっても青いから」菅原都々子 「緑の地平線」青木光一
「新雪」高道(狩人) 「天使の誘惑」黛ジュン 「みかん色の恋」ずうとるび
「渡り鳥」三沢あけみ 「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ 「長崎の女」春日八郎
「亜麻色の髪の乙女」貴津章 「夏色のナンシー」早見優 「悲しい色やね」上田正樹

出演者 <司会>合田道人
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昭和39年(1964)にリリースされた、故・二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」の映像が使われます。これまでも同じ系統の番組で何パターンかが流されてきています。
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作詞は故・丘灯至夫氏。智恵子の故郷にして歌の舞台にもなっている二本松に近い小野町のご出身でした。
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二本松市では正午の防災無線のチャイムが「智恵子抄」です。


もう1件、番組ではなくCMですが、今月からオンエアされるようになったJR東日本さんの「大人の休日倶楽部」CMが「青森・奥入瀬」篇です。

冒頭にいきなり光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。
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ぼーっとテレビを見ていて突然「乙女の像」が写り、仰天しました(笑)。厳密にいうと「乙女の像」のある休屋地区は「奥入瀬」ではないのですが、よしとしましょう(笑)。

「大人の休日倶楽部」CMは、20年もの長きにわたり吉永小百合さんが出演されていましたが、今年から竹野内豊さんにバトンタッチされ、3月から放映されていた「福島・会津」篇に続いて2作目です。
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奥様役はJRさんでお名前を公表されていませんが、河井青葉さんという女優さんのようです。

お二人はJRバスに乗って、十和田湖から奥入瀬渓流へ。
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まさに今、現地はこんな感じなんでしょうね。

15秒バージョンとと30秒バージョンの2種が制作されています。



今後、ぜひ花巻篇や安達太良山篇、九十九里浜篇なども作っていただきたいものです(笑)。

【折々のことば・智恵子】

芸術の問題から、魂の事を除外しては――表現の技巧ばかりの事では――われわれを感動させる事は不可能です。


アンケート「好きな俳優=その理由=」より 大正13年(1924) 智恵子39歳

全ての芸術にあてはまることですね。

『毎日新聞』さん12月11日(木)夕刊に載った、比較文学・比較芸術ご専門の東京大大学院教授・今橋映子氏の玉稿です。

美の越境 「新美術」を世に送り出す

 明治大正期、洋画の世界では、古美術ではないという意味での「新美術」をいかに世に広め、画家たちが自活でき、そして作品として評価されるか――が、大きな課題となっていた。
 岩村透(1870~1917年)という東京美術学校教授で美術批評家は、「要は食えないという問題をどうするか」を、若い美術家たちのために真剣に考え、新美術を売るための場所や戦略を考えた。
 その一つの解決法が、現代の画廊にあたる「新美術店」(あるいは「画堂」とも称す)の創設である。12(大正元)年開店の「画博堂」は岩村の強い勧めによるものであったという。岩村自身は同世代の工芸家たちとともに、「吾楽殿」(11年)を創始し、そこで最先端の工芸作品を厳しい相互批評で創り、一般市民に販売するという方策も立てた。
  同じく10年に、彫刻家で詩人であったあの高村光太郎も、「琅玕洞(ろうかんどう)」という画堂を開いたことは知られているだろうか。光太郎もまた洋画のみならず版画や工芸まで広くジャンルを越境する作品を展覧しようとしたのである。
 今回、埼玉県立近代美術館で単館開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展(2026年1月18日まで)は、光太郎と同世代、岩村より半世代若い写真家と洋画家、共に埼玉生まれの優れた創作家二人の、それぞれの歩みを堪能できる展覧会である。
 ただそれだけでない。今回は、銀行家の裕福な実家のお陰もあって、その富を画堂の創設や美術家支援に惜しみなく使った野島康三の活動と、彼と協働した斎藤与里の活動にも焦点を当てる、盛りだくさんの展覧会になっている。
 斎藤は野島に油彩画の技法を教えた存在だが、彼らは師弟というより、友人あるいは同志と言うべきだろうか。
 驚くのは野島の「兜屋画堂」(19~20年)、およびその後自邸を画堂とした活動(22~34年ごろ)で取り上げられた「新美術家」の名前である――梅原龍三郎、関根正二、村山槐多(かいた)、中川一政、恩地孝四郎といった洋画家たちのみならず、岡田三郎助を筆頭とする装飾美術家、藤井達吉や富本憲吉、高村豊周(とよちか)といった工芸家たち、あるいは山本鼎(かなえ)の児童画まで、ジャンルを超えた新しい才能が次々と紹介されたのである。
 野島自身は写真史ではいまやよく知られる存在で、岸田劉生の画風を思わせるような重厚なピクトリアリズム写真からスタートし、30年代には日本におけるモダニズム写真の根拠地となった雑誌『光画』(32~33年)の同人(他に中山岩太、木村伊兵衛、伊奈信男)であり、表現者であり、出資者でもあった。ここでもまた、日本の新興写真の支援者であったという見方ができる。
 10年代以降、東京には多くの画堂が開店し、新美術は、文展のような公的展覧とは別のルートを持つことで、社会と繋(つな)がり、顧客を得て、批評や評価の機会を得ることができた。つまり近代のアバンギャルド芸術は、こうした「場」の創始と不可分な関係にあったのだ。
 野島・斎藤の二人展は埼玉を機縁として、深く新美術創出の歴史へと私たちを連れていく。彼らのコラボレーションの熱気にあてられつつ、できるならば将来、吾楽殿、琅玕洞や兜屋画堂で開かれた展覧会そのものの再現展に立ち会えないだろうか――そんなむちゃな空想に浸りつつ、北浦和公園の深まる秋の小径(こみち)をたどった。
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野島康三「チューリップ」(1940年、京都国立近代美術館蔵)
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斎藤与里「秋海棠」(50年、埼玉県加須市蔵)
 
埼玉県立近代美術館さんで開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展をご覧になっての評というか随想というか、です。

光太郎と共にヒユウザン会(のちフユウザン会)を立ち上げた斎藤与里はともかく、野島康三という写真家については、当方、寡聞にして存じませんでした。ただ、野島が経営していたという「兜屋画堂」は、光太郎が開いた琅玕洞ともども日本近代美術史を論じた文献等に時折その名が出てくるので記憶の片隅にありました。

兜屋及び、その後、自邸を画堂とした中での出品作家に、光太郎実弟にして家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ鋳金家の豊周の名が上げられています。そこで、文治堂書店さんから発売された『髙村豊周文集』を繙いてみたところ、第4巻に以下の記述がありました。

 大正八年には装飾美術家協会が結成された。広川君や私などの青年の工芸運動に大先輩が協調してくれた結果を示したのが此の協会だ。岡田三郎助、長原孝太郎、藤井達吉といふ先生方が集つた。広川、髙村、西村敏彦、原三郎、その他の若手がみな一緒になつた。築地の精養軒で華々しい旗上げをして、第一回展を神田神保町の兜屋画堂で開いた。これは模範的な最高級画廊として当時の野島康三氏が経営に当たられたものだつた。
(「広川松五郎追憶」 昭和28年=1953)

「広川君」は豊周の盟友にして染織工芸家の広川松五郎です。

その他、兜屋画堂については随所で触れられていました。なるほど、という感じでした。ただ、光太郎と野島には深い関わりはなかったらしく、『高村光太郎全集』には野島の名は出て来ません。

玉稿では、兜屋に先行する光太郎の琅玕洞にも触れて下さいました。文脈としては連載のタイトルにもなっている「美の越境」ということで、「光太郎もまた洋画のみならず版画や工芸まで広くジャンルを越境する作品を展覧しようとしたのである」。

確かに琅玕洞では、斎藤、正宗得三郎、柳敬助、濱田葆光、荻原守衛、岸田劉生、津田青楓らの油彩画、石井柏亭の版画、西洋画の複製などの他、藤井達吉の工芸作品なども並べました。しかしそれらだけでは売り上げは芳しくなく、与謝野夫妻の短冊、父・光雲の伝手で板谷波山の陶器、伝統的な木工作品なども扱っています。そのあたりは経営していくためには、背に腹は替えられぬという判断においてであったようです。それでも経営的にはまるで成り立たず、僅か一年で大槻弍雄(つぐお)に譲渡されてしまいます。

さて、埼玉県立近代美術館で開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展、出品目録にその名はありませんでしたが、光太郎や豊周の名がキャプションに出たりといったことはありそうです。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
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【折々のことば・智恵子】

冬の朝しづかに銀葉の上、一すぢほのかなけむりを見つゝ玉露を飲むはこよない。甘美な刺戟が味覚に浸み、どこか奥底にとゞくとき感情は尽きぬ流れになる。併私達多くは言葉なく感じ、理解し、各々の無言のうちに心充つる静寂にして白熱する朝夕が生活におとづれたのをしる。


散文「画室の冬――ある日の日記――」より 昭和2年(1927) 智恵子42歳

雑誌『婦人之友』第21巻第2号に掲載された長い文章の一節です。公に発表されたものとしては智恵子の最後の文章となりました。

12月7日(日)、地方紙『岩手日日』さんに載った記事です。ご執筆は東京国立近代美術館(MOMAT)さんの主任研究員・成相肇氏。ネット上に見当たらず、同紙独自なのか、よくある通信社等の配信記事なのか判然としませんが。

手は物語る…1 高村光太郎「手」 和と洋、静と動 感じる彫刻

000 東京国立近代美術館のコレクションの中から、「手」にまつわる作品を紹介していきましょう。時代や表現方法を問わずさまざまに表されてきた手の図像の中に、美術の魅力の手掛かりを探ります。
 ちょうど新聞紙片面の横幅くらいの高さの大きなブロンズ製の手。詩人として も知られる高村光太郎(1883~1956年)の彫刻です。あるとき自身の左手をじっと見ていると「自分の手でないやうな気が」して、「何か大きなものの見えない手が不意に形を現はした」かのように思えた。そして、おもむろに「施無畏印(せむいいん)」(奈良の大仏と同じポーズ)の形にしたときに感じた「自分の手の威厳」と「霊光」をどうにか再現しようと思った、と光太郎は述べています。
 実際、この作品のてのひらに正対して眺めてみると、仏像のように穏やかで落ちついた印象です。そういえば光太郎の父・光雲は江戸時代に仏師からキャリアを始めた彫刻家でした。
 この作品で何より興味深いのは、台座に対して手が少し横を向いている点です。この台座は作者が彫った木ですから、角度にも意図が込められています。そこで今度は台座に対してまっすぐ向き合ってみると、たちまち緊張した指の筋肉が際立ち、ダイナミックな動きが立ち現れます。光太郎は近代彫刻の祖とされるオーギュスト・ロダンを日本に紹介した人物でもありました。この手の力強いひねり、張り詰めた劇的な筋肉の動きは、まさしくロダンからの影響といえるでしょう。
 「霊光」はこのひねりにこそ宿っています。すなわちこの作品には、一点において和と洋が、静と動が、同居しているのです。ほんのわすかな角度の差で、洋の東西が大きくシフトする。真横から見ると鳥のような優美な形をしたこの「手」は、まさしく近代の彫刻が飛躍しようとする一瞬を凝縮した作品なのです。
 当館ウェブサイトでは、本作のブロンズ部分を台座から引き抜いてみる解説動画や、作品を全方向から見られるデータも公開しています。自宅でも、ぐるぐるといろんな角度から眺めて楽しんでみてください。

前半に引用されている「自分の手でないやうな気が」「何か大きなものの見えない手が不意に形を現はした」などは、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に載った光太郎の「手紙」と題する散文の一節です。筑摩書房『高村光太郎全集』にもれていたものですが、「手」に関して最も多くが語られており、しかもほぼ制作リアルタイムのもので、これを参照しなければ「手」の考察は不可能と言っていいくらいのものです。MOMATさんでも気づいて下さったかという感じでした。

その後の「角度」の話や「和と洋」「動と静」といった解釈、確かにその通りですね。ただ、同じ光太郎生前鋳造の「手」でもMOMATさんのもの(有島武郎・秋田雨雀旧蔵)と朝倉彫塑館さん所蔵のもの(朝倉文夫が購入したもの)では微妙に角度が異なり、そのあたり詳細な考察が為されることを期待します(或いは既に為されているかもしれませんけれど)。それを言えば、台座の形状、ブロンズの仕上げ(つやの有無)もかなり異なります。

最後に「当館ウェブサイトでは、本作のブロンズ部分を台座から引き抜いてみる解説動画や、作品を全方向から見られるデータも公開しています」とありますが、「台座から引き抜いて……」はこちら、「全方向から見られるデータ」はこちらをご参照下さい。

「手」は、同じ型から鋳造されたものが数多く存在します。ぱっと思いつくだけで、 国立東京近代美術館(MOMAT)さん、朝倉彫塑館さん、髙村家、碌山美術館さん、花巻高村光太郎記念館さん、島根県立美術館さん、たましん美術館さん、呉市立美術館さん、岩手大学さん、千葉県立美術館さん、山口県宇部市さん(なぜか中国地方に多いのが不思議です)。その他の公的機関でもまだ所蔵があるような気もしますし、オークションに出たこともあります(ただ、中には「レプリカ」と断られているものもあるようで)。

各地で「手」をご覧になる方、上記のような点に注意して観て下さい。ちなみに当方、また明後日、花巻で観て参ります。

【折々のことば・智恵子】

あなた御自身、如何なる方向、如何なる境遇、如何なる場合に処するにも、たゞ一つ内なるこゑ、たましひに聞くことをお忘れにならないやう。この一事(いちじ)さへ確かならあらゆる事にあなたを大胆にお放ちなさい。 それは最も旧く最も新しい、生長への唯一の人間の道と信じます故。

アンケート「新時代の女性に望む資格のいろいろ」より
 大正15年(1926) 智恵子41歳

この一節も、智恵子の言葉としてはよく引用されるものの一つです。

結局、智恵子は「あらゆる事にあなたを大胆にお放ち」出来なかったと思われますが……。

文治堂書店さんからPR誌を兼ねた文芸同人誌『とんぼ』の第二十一号が届きました。同社は当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著作をはじめ、光太郎がらみの出版物を多く刊行なさっており、当会としてはいわば先代からのおつきあい。そこでいつのまにか連載を持つことになっていて、「連翹忌通信」の題で書かせていただいています。
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そうそう持ちネタがあるわけでもなく、また、読者層も少々異なるようなので、このブログに書いたようなことを換骨奪胎したり、逆に膨らませたりして書いています。

今号は「マドモワゼル・ウメ」。

光太郎が智恵子と知り合う直前にいい仲だった、淺草雷門のカフェ「よか楼」の女給・お梅に関してです。光太郎は詩「食後の酒」(明治44年=1911)に「マドモワゼル・ウメ」としてお梅を謳った他、複数の詩文で彼女について書き残しています。

 雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

当時、よか楼では女給の顔写真を載せた新聞広告を盛んに出していたというので、お梅も写っているだろうと思い、調査した件を書きました。
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結果、かなりのパターンの広告が見つかったのですが、女給の名が記されて居らず、お梅と断定できるものはありませんでした。

ところが、こうした広告でないところで、お梅の写真を確認できました。
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掲載されていたのは、光太郎実弟にして家督相続を放棄した光太郎に代わり髙村家を継いだ豊周による『光太郎回想』という書籍です。

豊周曰く

兄の好きになる女性は、ずっと通して顔だちに共通のところがある。いわば智恵子風の平たい丸顔で、お梅の顔も智恵子に似ていたと後から気がついた。それから推して、若太夫の顔もそんな風で、兄ははじめて智恵子と会ったとき、「若太夫に似ているな」と第一印象で思ったそうだ。

「若太夫」はお梅の前に入れ込んでいた、吉原河内楼の娼妓です。彼女については『とんぼ』の前号に書きました。

「光太郎回想」には3種類の版があります。まず、有信堂から昭和37年(1962)に刊行されたオリジナル、続いて、その全文にさらに他の光太郎に関する短文等を併せて編まれ、同じ有信堂から昭和47年(1972)に刊行された『定本光太郎回想』、そして名著の復刻的なコンセプトのシリーズ「人間叢書」のラインナップで平成12年(2000)に刊行された日本図書センター版です。
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手許には、最も本文の分量が多い『定本光太郎回想』しかありません。数十年前、オリジナルと定本を比較し、こっちの方が内容が充実している、というわけで「定本」のみを購入しました。ところが、オリジナルと「定本」では掲載されている画像の種類が異なり、お梅のそれを含む「定本」に載っていない写真がオリジナルにたくさんありました。逆も又然りでしたが。購入時にはそこまでは気づきませんでした。

そんなこんなを今号の『とんぼ』に書きました。

奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。頒価600円だそうで。
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今日の記事最上部リンクからも注文可と思われますが。

ちなみにオリジナル『光太郎回想』には、他にも昭和31年(1956)4月2日に光太郎が亡くなった際の死に顔の画像も出ています。さすがにここに載せるにはためらいますが……。

【折々のことば・智恵子】

日本にだつて一人ぐらゐ、正しい事のために利害なんかを度外に置いて、大地にしつかりと誠実な根を持ち、まつすぐに光りに向つて、その力いつぱいの生活をする喬木のやうな政治家があつてもいゝだらうとおもひます。さういふ政治家なら有頂天になつて投票することでせうとおもひます。


アンケート「棄権――総選挙に誰れを選ぶか?」より
 大正13年(1924) 智恵子39歳

この時代、女性には選挙権がありませんでしたが、もしあったらという仮定の下での回答です。

後の部分では「私達がほんとに尊敬し信ずることの出来る政治家が出てくれなければ、棄権するよりほかないかとおもはれます。情実や術数の巣のやうな政党なんかてんでだめですね。」とも。

100年経っても「利害」「情実や術数の巣のやうな政党」に牛耳られているこの国の現状を見て、泉下の智恵子はどう思うでしょうか……。

コンサート情報、2件ご紹介します。

開催日順に、まずは都内から男声合唱。

男声合唱団東京リーダーターフェル1925 創立100周年記念定期演奏会2025

期 日 : 2025年12月19日(金)
会 場 : すみだトリフォニーホール 東京都墨田区錦糸1-2-3
時 間 : 18:30開演
料 金 : S席 3,000円 A席2,000円
      プレミアムチケット特別席 ペア特別席と5,000円の寄付で10,000円

創立100周年を迎える男声合唱団東京リーダーターフェル1925が、記念すべき節目にすみだトリフォニーホール大ホールで贈る四部構成の記念演奏会です。第一ステージではこれまでに委嘱された小品集と一青窈さんの〈ハナミズキ〉を米国の詩人アーサー・ビナードの英訳版で演奏。続くステージではシューベルトの男声合唱名曲集を弦楽五重奏とともに、さらに第3ステージでは鈴木憲夫先生の本邦初演作を第4ステージでは当団にゆかりのある仲間と一緒に高村光太郎作詞 清水脩作曲の〈智恵子抄〉を、最後に長年にわたりお付き合いのある韓国男声合唱団を迎えて韓国曲「ポリバ」や「なつかしい金剛山」を共演。多彩な作品と100年の歴史が紡ぐハーモニーを心ゆくまでお楽しみください。今回はMCによる曲目紹介もありますので初めて男声合唱を聴く方にも分かりやすい演奏会にしておりますのでぜひご来場お待ちしております。

プログラム
 第1ステージ 委嘱作品小品集
  夜明けのうた 岩谷時子作詞 いずみたく作曲 安藤由布樹編曲
  竹田の子守歌 京都府民謡 和田和宏編曲
  牛深ハイヤ節 熊本県民謡 相澤直人編曲
  江戸木遣り唄 東京都民謡 土田豊貴編曲
  A HundredYears一青窈作詞 アーサー・ビナード英訳 マシコタツロウ作曲 和田和宏編曲
 弟2ステージ シューベルト男声合唱曲集
  夜 春へ ナイチンゲール 水上の精霊の歌
 第3ステージ 創立100周年記念委嘱作品
  宇宙の塵となって… 塔和子作詞 鈴木憲夫作曲
 第4ステージ ターフェルの仲間たちと共に
  或る夜のこころ 高村光太郎作詞 清水脩作曲
  智恵子抄巻末のうた六首 高村光太郎作詞 清水脩作曲
  ポリバ(麦畑) 韓国歌曲
  クリウンクムガンサン(懐かしい金剛山) 韓国歌曲

出演
 合唱:男声合唱団東京リーダーターフェル1925 
    男声合唱団東京リーダーターフェルジルヴァーナー1995

 指揮:樋本英一 佐藤洋人 岩佐義彦 金弘植  ピアノ:高取達也 大下さや香
 ギター:宮下祥子 弦楽五重奏:尾原記念五重奏団
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男声合唱の古典の一つ、清水脩氏作曲の「智恵子抄巻末のうた六首」(昭和39年=1964)、同じく清水氏の「或る夜のこころ」(昭和40年=1965)が演奏されます。共に定番すぎて却って最近は取り上げられる機会が多くない曲だと感じます。

それにしても創立100周年というのがすごいと思いました。100年前はまだ大正ですから。

もう1件、大阪から器楽系です。

『クレモナ』モダンタンゴ・ラボラトリ第19回定期公演「ほんとうの空」

期 日 : 2025年12月21日(日) 
会 場 : あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール
      大阪市北区西天満4丁目15-10
時 間 : 開場: 13:00 / 開始: 13:30 / 終了: 15:30
料 金 : S席 6,000円 A席 5,000円 B席 4,000円 (当日各500円増) 

空を聴く。音楽を超える体験を 東京には空がない、と言った高村智恵子。星月夜を描いたゴッホ。そして私たちは音楽で、「ほんとうの空」を描きます。

プログラム(一部抜粋)
 坂本龍一:戦場のメリークリスマス・Aqua・東風 
 ピアソラ:ブエノスアイレスの冬・1960年のナイトクラブ・天使の復活 
 オリジナル曲:ほんとうの空 ― クレモナが贈る最新作
  ※ほか、坂本龍一・ピアソラ作品を中心にお届けします。
出演者
 『クレモナ』モダンタンゴ・ラボラトリ
 森脇佑季 fl 上野舞子 sax 松田あやめ hrn 久保田ひかり fg
2016年結成。「アストル・ピアソラ」の遺志を継ぎ、クラシック音楽の「次の100年」へ繋げる、新しいスタイルの木管四重奏団。国内唯一の「ピアソラ専門」の室内楽団であり、これまで50曲以上を手がけ、全ての楽譜を自分たちの手でオリジナルアレンジをし、暗譜で演奏をする。対位法を駆使して新たな音響効果に挑戦し、歌口の異なる4本の管楽器それぞれの限界に挑戦したアドリブ・ソロの数々、まるで4本で演奏しているとは思えないような卓越した新しいサウンド、クリアな音像とストイックな演奏スタイルは、他のアンサンブルの追随を許さない。
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「智恵子抄」に収められている「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」からのインスパイアで、オリジナル曲「ほんとうの空」が初演され、それをコンサート自体のタイトルに持ってきて下さいました。

カフェでの公開練習をなさったり、X(旧ツィッター)instagramで練習の様子を動画で公開なさったりと、出演者の方々のコンサートにかける意気込みがうかがえます。

それぞれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・智恵子】

恋愛、母性愛、全人類に対する平等愛、すべて熱烈な願望の火と燃ゆる愛の生活こそ、人間の最上のものであるこの事に一点の疑義はありません。


散文「生き甲斐のある悩みを悩め」より 大正13年(1924) 智恵子39歳

「恋愛は婦人最上のものか」の総題で、宮本百合子、原阿佐緒、神近市子らの文章と共に、雑誌『女性』第5巻第2号に掲載されました。
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智恵子の熱量が伝わってくる一節ですね。

現在開催中の企画展示についての報道を2件。いずれも『毎日新聞』さんから。

まず、北海道版。札幌の本郷新記念美術館さんの「彫刻三昧(ざんまい)―札幌芸術の森美術館の名品50選」についてです。

著名作家の名品、彫刻三昧-50選 本郷新記念美術館/北海道

 展覧会「彫刻三昧(ざんまい)―札幌芸術の森美術館の名品50選」が、札幌市中央区の本郷新記念札幌彫刻美術館で開かれている。ロダン、高村光太郎、佐藤忠良をはじめとする国内外の著名作家の作品50点を展示している。2026年1月4日まで。
 展覧会は、札幌芸術の森(南区)開園40周年を記念して開催。収集してきた彫刻コレクションから50展を選んだ。印象派の画家、ルノアールの彫刻も含まれ、2点展示。ブロンズ「ヴェールを持つ踊り子」(1908年)は優美な動きを感じさせる。ルノアールは晩年、リウマチに苦しみながら弟子と共に彫刻を制作した。 日本の近代彫刻の先駆け荻原守衛の作品も展示している。ブロンズ「文覚」(同年)は筋骨隆々とした男性が厳しい表情で腕を組む。荻原は渡仏して、近代彫刻の父ロダンに影響を受けた。 休館日は月曜と年末年始(12月29日~1月3日)。問い合わせは同館(011・642・5709)へ。
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光太郎作品は「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)。
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明けて1月4日(日)までの会期です。ただ、前日まで年末年始休館ですが。

続いては大阪国立国際美術館さんの「特別展 プラカードのために」。

「周縁」を問う、7人の闘い 特別展「プラカードのために」 大阪・国立国際美術館

 生活者の視点から創作を続け、既存の制度や構造に問いを投げかける7人の作家の作品を集めた特別展「プラカードのために」が大阪市北区の国立国際美術館で開かれている。
 タイトルは出展作家の一人で、時代に先駆けたフェミニズム作品で再評価が進む田部光子さん(1933~2024年)が、61年に発表した文章から取っている。当時の安保闘争や三池闘争、米公民権運動、コンゴ動乱などを背景に<大衆のエネルギーを受け止められるだけのプラカードを作>り、<たった一枚のプラカードの誕生>によって、社会を変える可能性を記した文章だ。思いは同年制作の5点のコラージュ作品「プラカード」(61年)に結実した。
 本展を企画した同館主任研究員の正路佐知子さんは<たった一枚のプラカード>とは「行き場のない声をすくいあげ、解放の出発点となるような、生きた表現の象徴でもある」と指摘。それが本展を貫く一つの道標となっている。
 田部さんは福岡発の前衛芸術家集団「九州派」(57~68年)の主要メンバーとして活躍。90年代からは海外にも活動の場を広げ、10年代まで旺盛な創作活動を続けた。本展では「プラカード」や、同時に発表された妊娠からの女性解放をうたったオブジェ「人工胎盤」(61年、04年に再制作)など28点を展示している。
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 壁一面に色とりどりの切り絵が並び、天井からもつり下がる。谷澤紗和子さん(82年生まれ)の作品群だ。11枚組みの新作インスタレーション「目の前に開ける明るい新しい道」(25年)のほか、洋画家・切り絵作家の高村智恵子(1886~1938年)への手紙などを切り絵にした連作「はいけいちえこさま」など女性表現者の先達との架空の「対話」によって生み出されたシリーズを展示。
 「目の前に~」のうちの一作「お喋りの効能(西瓜(すいか))」は、中国の民間芸術「剪紙(せんし)」作家、庫淑蘭(クー・シューラン)さん(1920~2004年)の作品を基にしている。庫さんは季節の表象としてスイカを配置したが、谷澤さんはスイカがパレスチナ連帯のモチーフとして知られていることもふまえ、現代の視点で再構成した。作品を縁取る枠に並ぶ切り抜き文字は、無政府主義者の大杉栄らが虐殺された甘粕事件について智恵子が書いた文章。谷澤さんの作品は幾重にも覆われた「周縁化」のベールを一枚ずつめくり内にあるものを見つめる視点を持つ。「切り絵」という芸術もまた、美術史の中では周縁化されてきた。
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 暗い地下道を男が何かつぶやきながら歩いている。飯山由貴さん(88年生まれ)の映像作品「In−Mates」(21年)はそんな場面から始まる。飯山さんは社会の周辺に置かれた人々への聞き取りや記録資料を糸口に個人と社会の関係を考察し、作品づくりに取り組んできた。「In~」は、戦前に東京都内の精神科病院に隔離入院していた2人の朝鮮人患者の看護日誌を基に、関東大震災時の朝鮮人虐殺などの歴史を追う。22年、東京都人権プラザでの上映を「企画趣旨に合わない」などとして都が認めず問題となった。美術館での上映は初。
 「In~」は、川崎市出身の在日コリアンのラッパー、FUNIさんが、看護日誌に残った2人の言葉や葛藤を自身の肉体を通して「再現」し、現在まで続く差別の歴史を重ね合わせていく。冒頭から登場する地下道は、彼らが隔離された精神科病院にも、在日コリアンらが置かれた、あるいは私たち自身が置かれた閉塞(へいそく)した状況にも見える。自由への問いは、さまざまな自由を知らぬ間に手放しつつある私たちへも鋭く突き刺さる。
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 ひときわ大きな空間をひときわ大きな空間を使っているのが福岡県八女市在住の牛島智子さん(58年生まれ)の新作インスタレーション「ひとりデモタイ箒(ほうき)*筆*ろうそく」(25年)だ。牛島さんは地元の産業や歴史に根ざした素材を使ったインスタレーションで知られる。 本作は八女和紙とコンニャク糊(のり)で作った二十七角形の巨大な「フィールド」の上に、家や箒、ろうそく、筆などを模した造形物が置かれ、天井からは牛島さんの詩や言葉を記した和紙のカードがつるされる。家の屋根の上に座っているのは一人の女性。歴史的に「家」に閉じ込められてきた「家婦」(家庭の中で仕事をする妻)がその外に出ている姿だ。 牛島さんは展示室の空間を見て「すぐに革命前夜の沸き立つイメージが出てきた」と語る。あらがうのは「私」であり、でも、一人一人が集まれば「隊」にもなる。タイトルにはそんな思いも込められている。
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 このほか、労働と支配の関係を問う笹岡由梨子さんのインスタレーション▽複数の男性と女性1人による自身の共同生活を撮影し、家族や結婚の常識を問う金川晋吾さんの写真シリーズ▽08年から宮城県で暮らし、制作する志賀理江子さんの映像インスタレーションなど。来年2月15日まで。

こちらに関しては、年が明けてから行こうと思っています。年内はまだあちこち足を運ぶ予定がつまっていまして。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・智恵子】

すべてを破壊し尽した今、われわれの偉大な理想へのよき機会を逸してはならない。建築に対する新しい道程は開かれてゐる。急がずあせらず、自然界の生長の如く、微細に入念にそして大胆に、生命の奥底に仕事を育たしめよ。

散文「建設の根源は此処に在り」より 大正12年(1923) 智恵子38歳

関東大震災を受けての文章の一節です。

昨日の青森での大地震には驚きました。地震そのもので亡くなった方がいなかったようなのは不幸中の幸いですが。

光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海作の木彫についてです。地方紙『信濃毎日新聞』さんから。

100年ぶり 善光寺仁王門の木彫り像2体の修復始まる

 善光寺(長野市)は2日、仁王門内に設置されている三宝荒神像と三面大黒天像の修復を始めた。善光寺事務局によると、両像の修復作業は100年余ぶり。同日は、文化財修復の専門家が像表面に積もったほこりを、はけを使って丁寧に落としていた。
 両像は、1919年(大正8)年に彫刻家の高村光雲と弟子の米原雲海が作った木彫り像。仁王門内の東側で守護矢を手に持つ三宝荒神像は、災害から寺や参拝者を守る。同門内の西側にある三面大黒天像には、五穀豊穣(ごこくほうじょう)の願いが込められている。
 この日は文化財修復を専門とする藤白彫刻研究所(東京都)の藤曲隆哉代表(43)=東京都=ら5人が三面大黒天像の清掃を進めた。高さ約3・5メートルある像の周辺に組んだ足場を使い、像の頭を黒く染めたほこりを丁寧に払った。
 作業は4日まで続き、像の欠落箇所の修復などを予定している。長野市内の大沢真弓さん(79)は「毎朝(像の)お顔を見ている。きれいになってお出迎えしてくれるのが楽しみです」とほほ笑んだ。
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記事を読んで「あれっ?」と思いました。たしか10年くらい前にも補修が入っていたような……という気がしまして「100年ぶり」というのに引っかかりを覚えました。

ところが調べたところ、10年前に補修されていたのは善光寺史料館さんで展示されている3分の1スケールの雛形でした。今回のものは仁王門で仁王像の裏側に据えられている完成作です。

画像にある三面大黒天像と対になっている三宝荒神像の方も補修が入り、記事が出たのが12月3日(水)。2日(火)に作業開始で4日(木)には終わるとのことですから、それほど大々的な補修ではないようです。もう既に元の通りに据えられているのではないかと思われます。

気になるのが褪色した彩色ですが、おそらくそれはそのままなのでしょう。彩色にまで手を入れるとなると、その場では不可能でしょうし、3日ばかりで終わるとも思えません。

ちなみに仁王像の方は、最初に制作された際にあえて彩色は施さなかったそうです。

光雲の談話筆記「善光寺仁王尊の製作 参考資料と新しき意企」(大正8年=1919)から。

 由来仁王像は大抵着色したものであるが、我々は少しく考ふる処があつて今度は殆ど着色をしなかつた。彩色をしようとしても我々の期待に添ふ丈の立派の着色をして呉れるものゝ無いのが其理由の一つであるが又一方着色が出来たとしても、何十年何百年経過する内には自然彩色は剥落して醜いものとなる。此場合は勢い着色の修理をすると云ふ順序となり、此修理を重ねる場合には、遂に製作当初の価値を失ふ事になるのは明らかな事である。此意味から無彩色の方が此像の存する限りは、製作当初の真価を永劫に伝へる事が出来ると云ふ理由で彩色をしなかつたのである。一体着色すると云ふ事は木の継ぎはぎの無様を隠す事にも利用されたものであるから、彩色をしないと云ふ為には、木地の無様をかくす事が出来ず、従つて醜くない様に仕上げなければならなかつたから、此辺の苦心は着色以上な処があつた。又此仁王には玉眼を入れなかつた。此理由も、要するに無着色の理由と同様である。

なるほど、と思わされました。

しかし、裏側に配した三面大黒天像と三宝荒神像は彩色を行ったわけで、そこの違いがよくわかりませんが。

これらの計4体、令和4年(2022)のご開帳時、に夜間のライトアップ、翌朝に通常の状態とを拝見して以来、見に行っておりません。来年あたりは久々に参拝しようかなと思いました。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・智恵子】

われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。


アンケート「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想――」より
大正12年(1923) 智恵子38歳

関東大震災直後のドサクサで、アナーキスト大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、そして大杉の甥の橘橘宗一少年を、憲兵大尉・甘粕正彦らが虐殺した事件に対しての感想です。しごくまっとうな意見ですね。

光太郎は大杉らのグループに対し、シンパのような立ち位置でした。

ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子はそれを知らなかったのではないかと思われます。

都内からシンポジウムのご案内です。

第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ

期 日 : 2025年12月20日(土)
会 場 : ワイム貸会議室 お茶の水 Room B  千代田区神田駿河台2-1-20
      Zoom オンライン (定員100名)
時 間 : 14時~16時30分
料 金 : 2,000円

 『明星』は、文芸と美術が共鳴しながら鮮度の高い情報を発信し続けた目覚ましい雑誌でした。
 創刊時の明治33年4月こそタブロイド紙の体裁でしたが、同年9月から雑誌スタイルに移行し、41年11月に終刊するまで、文芸と美術が相互に響き合う斬新な美学としてそれは続いたのです。アールヌーヴォーの影響を受けた一條成美の初期の表紙は若者の心を捉えるのに十分でした。
 しかし、何と言っても『明星』を画期的な文芸誌にしたのは、美術団体「白馬会」との密接なかかわりによるものです。「白馬会」は黒田清輝らを中心に結成されましたが、メンバーのうち藤島武二、和田英作らは『明星』の表紙を印象的に飾りました。また、与謝野晶子の有名な歌集『みだれ髪』『小扇』の装丁と表紙は藤島によるものです。同じく「白馬会」の中澤弘光は、詩歌集『恋衣』の表紙・挿画を手始めに、多くの晶子歌集や『新訳源氏物語』『新訳栄華物語』の表紙・挿画を彩ることになります。
 忘れてならないのは、『明星』同人で、彫刻家・詩人の高村光太郎の存在です。
 今回は、『明星』と美術との記念碑的なかかわりを多角的に探ってみたいと思います。
 対面とZoomとのハイブリッドで開催いたします。

●申し込み手順● 下記 ① から ② へ進んでください
①.以下の口座に、参加費一人2千円、をお振り込み願います
 三井住友銀行 下丸子支店(普通)3897723
 受取人名:AKIKO 2005 YEAR ダイヒヨウ マツダイラ メイコ
②.お振込み後に、下記にアクセスして必要事項を記入し送信していただいてお申し込みが完了します。オンラインの方には前日を目途にZoomアクセス先をメールで送ります
●申し込み〆切● 12月18日(木)15:00(定員100名)

●プログラム● 講演
 「與謝野晶子 美しい本の世界へ」 森下明穂(与謝野晶子記念館・学芸員)
 「美術実作者としての高村光太郎」 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会・代表)
 「憧憬と戦略 ― 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」 松平盟子(歌人) 
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というわけで、明星研究会さん主催のシンポジウムです。

発表が、同会主宰の松平盟子氏、大阪の与謝野晶子晶子記念館学芸員・森下明穂氏、そして当方。テーマが「美術」なので「明星」→「美術」とくれば「光太郎」ということで、担ぎ出されました。

松平氏、森下氏のお話は必聴。当方はオマケですが(笑)、以下のような感じです。

全体としては光太郎も参加した第一次『明星』の時代から、その後継誌『スバル』、そして第二次『明星』が始まった頃に焦点を当て、明治30年代後半から大正10年頃までを中心に、垣根が低かった当時の文学界・美術界、そこにおける光太郎の立ち位置、そんな話をさせていただきます。

資料として、まず光太郎を中心に据えたその頃の人物相関図を作ってみました。軽い気持で作り始めたのですが、後から後から「この人物とも関わっていたっけ」「誰々も○○の一員だったなぁ」などと増え続け、総勢150名ほどになってしまいました(笑)。増やせばもっと増えるのですが、きりがないのでやめました。甚だ不完全なものですが、これを作ったことでかなり自分自身の勉強になりました(笑)。

それから『明星』をはじめ主に新詩社に関係する雑誌への光太郎の寄稿状況、新詩社関係者の著作への関わり(序文執筆、装幀、挿画、題字揮毫など)をまとめた表も。さらにパワーポイントのスライドショーでは装幀、挿画、題字揮毫に加え、依頼されて制作した彫刻や肖像画なども投影する予定ですし、現物も持って行けるものは持参して展示します。

御茶ノ水のワイム貸会議室さんでの対面型、お越しになりにくい方のためにZoom オンラインと2本立てです。ぜひどうぞ(出来ればお越し頂くのがベストですが)。

【折々のことば・智恵子】

必要以外何物も有(も)たない事(或る程度の必要をも満さなくても差支ないこと)=貧乏なこと。 本能の声を無視しないこと。 どんな場合にも外的な理由に魂を屈しないこと。 赤裸(せきら)なこと。


散文「貧しく、飾らず、単純であれ」より 大正12年(1923) 智恵子38歳

「生活の倦怠を如何にして救ふか」のテーマで、原阿佐緒、山川菊江らのそれと共に掲載された文章の一節です。智恵子の書いたもののうち有名なものの一つで、この一節はよく取り上げられています。

定収入というものを持たず、徐々に世間に認められてはいたものの、売れっ子というわけではなかった光太郎。まして智恵子はこの時期、描いた絵が売れるということはまったくなく、かつかつの生活でした。

『智恵子抄』に収められた光太郎のエッセイ「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

 彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。

こうした状況も智恵子を追い詰めた一つの要因であったことはまちがいないでしょう。

それよりも、智恵子自身が「こういう生活に不満を抱いてはいけない」と自らに言い聞かせていたわけで……。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展情報です。

高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで

期 日 : 2025年12月13日(土)~2026年3月31日(火)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(日)~1月3日(土)
料 金 : 一般 350(300)円 高校生・学生250(200)円 小中学生150(100)円
      ( )内は20名以上団体料金 高村山荘は別途料金 

 高村光太郎は、当時、無名だった宮沢賢治の作品に出会い、宮沢賢治を広く後世に知らしめるための大きな役割を果たしましたが、37歳で早逝した宮沢賢治の今日に至る評価に高村光太郎が関与したことは一般的には知られていません。
 賢治没後の昭和9年(1934)、光太郎も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会では、実弟の清六がトランクに入った賢治の遺稿を披露しました。その中の手帳には「雨ニモマケズ」の詩もあり、光太郎をはじめとする著名人たちが感銘を受け、全集刊行へと動き出します。
 当企画展では、光太郎が携わった4つの「宮沢賢治全集」に注目し、編集や装幀作業に係わるエピソードや宮沢賢治評について紹介します。また、賢治没後、清六と共に藤原嘉藤治が、文圃堂版と十字屋版の全集に編纂者の一員として携わっていたことにも焦点をあてています。

関連行事 トークイベント 光太郎と賢治―宮沢賢治全集ができるまで―
 2026年2月21日(土) 10:00~11:30
 なはんプラザ コムズホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号
 講師 
  宮沢和樹 株式会社林風舎代表取締役
  瀬川正子 株式会社共同園芸取締役 第35回(2025年)イーハトーブ賞受賞
  小山弘明 高村光太郎連翹忌運営委員会代表

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光太郎が携わった4つの「宮沢賢治全集」」は、以下の通りです。

・文圃堂書店版『宮沢賢治全集』 全三巻 昭和9年(1934)~同10年(1935)
・十字屋書店版『宮沢賢治全集』 全六巻+別巻一 昭和14年(1939)~同19年(1944)
・日本読書購買利用組合『宮沢賢治文庫』 既刊六冊 昭和21年(1946)~同24年(1949)
・筑摩書房版『宮沢賢治全集』 全十一巻 昭和30年(1955)~同32年(1957)

このうち、『宮沢賢治文庫』は「全集」と冠されていませんが、先行する十字屋書店版に収録されていなかった作品も網羅するつもりで刊行が始まったものです。ただ、当初予定は全十一冊でしたが、第五冊及び第八冊以降が未刊のまま中絶してしまいました。

これら四種類の現物や、成立過程、周辺人物などについての解説パネルで構成されます。

解説パネルを執筆させていただきましたが、書き始めたら「あれも書きたい、これにも触れたい」で止まらなくなり(笑)、50枚程になってしまって、とても全てを出せませんので「ここから適当にセレクトして下さい」とお願いしました。パネルにならなかった稿も含め、図版を入れた冊子が作られ、販売される予定です。よろしければお買い求め下さい。
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詳細はまた改めて紹介いたしますが、来春2月21日(土)に花巻駅前のなはんプラザさんで関連行事としてのトークイベントが行われ、登壇いたします。こちらもぜひどうぞ。

ところで、企画展自体の詳細情報が、まだ花巻市さんのサイトに上がっていません。今月1日発行の『広報はなまき』には、トークイベントと共に小さく紹介されていますが。
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この手の企画展示の情報などは遅くとも1ヶ月前位には出していただきたいのですが、いつもギリギリ、下手すると始まってから出されます。もうそういうもの、という感じになってしまっているようで……。

追記 12月10日(水)に市の方で詳細情報を出しましたので、最上部、リンクを貼りました。

同時開催で、4月に始まった特別展「中原綾子への手紙」も2月28日(土)まで開催しています。併せてご覧下さい。

【折々のことば・智恵子】

芸術――文学の使命は、それら一切のコンヴエンシヨンを如何に離れて、輝く天然の光りのうちにその全きを理法と愛とに生きむがため、一切を鋳なほし、息づまつた熱鬧に涼風をおくる、天に向つてあげる烽火ではあるまいか。

散文「現代日本の文学に対するアマチユアの注文と感想」より
大正12年(1923) 智恵子38歳

この文章は文学全般をイメージしてのものですが、光太郎同様、智恵子も賢治作品を愛していました。「輝く天然の光りのうちにその全きを理法と愛とに生きむがため、一切を鋳なほし、息づまつた熱鬧に涼風をおくる、天に向つてあげる烽火」、まさに賢治作品を彷彿とさせられます。

当会の祖・草野心平の回想「光太郎と賢治」(昭和31年=1956)から。 

 ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。

光太郎第二の故郷、花巻市内のワンデイシェフの大食堂さんで、月に一度出店されている「こうたろうカフェ」。主に食を通じて光太郎顕彰を進められているやつかの森LLCさんによるものです。12月3日(水)が今年最後の出店だったとのことでした。1764766631726

今月は以下のメニュー。

・鶏肉のハニーマスタード焼き
・ひじきの煮物
・糸コンの胡桃和え
・大学いも
・季節のサラダ
・漬け物
・舞茸ご飯
・彩り野菜のコンソメスープ
・栗ぜんざい
・抹茶入り玄米茶

現地では初雪も降り、しかもかなり積もったそうで、冬本番。メニュー的にも冬らしい感じが出ています。
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やつかの森さんからのメールの一節。

季節のサラダはクリスマスツリーをイメージしました。光太郎の手作りのお汁粉を栗ぜんざいとして搗き立てのお餅を入れました。さつまいも、カボチヤ、蕪、大根など野菜たっぷりです。舞茸たっぷりのご飯も好評でした。

栗ぜんざいに西瓜の皮の味噌漬けを添えました。シャキシャキして軽めの塩加減で激ウマです。


基本、光太郎が自炊した献立や使った食材などを参考にメニューを組み立てられています。なかなか考えるのも大変だと存じますが、アレンジの仕方は現代風なので、そうそうネタ切れになることもないのでしょう。間を置けば同じ品目があってもいいわけですし。

来年も御馳走が饗され続けることを祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

巣籠つた二つの魂の祭壇。こゝろの道場。並んだ水晶の壺の如く、よきにせよ不可なるにせよ、掩ふものなく赤裸で見透しのそこに塵埃(ちりほこり)をとゞむるをゆるさない。それ故、清らかなるものに膏(あぶら)を沃(そゝ)ぎ、深められ掘り下げらるべき、内の世界――自らの性情と仕事に対し――血をもつてむかふ。それ故こゝに根ざす歓喜と苦難とは、更に新しく恒(つね)に無尽に、私達の愛と生命(せいめい)とを培ふ。


散文「病間雑記」より 大正12年(1923) 智恵子38歳

理想とすべき生活の在り方への言及です。文体はともかく、内容的には光太郎の追い求めていたそれとの驚く程の一致が見られます。そんなに肩肘張らず気楽に行こうよ、みたいな。

智恵子もこうした考えに至る過程を、光太郎によって強制されたある種のマインドコントロールとする見方もあれば、智恵子自身、そうした生きたかを求めていたとも考えられますし、何とも言えません。












智恵子の故郷・福島県二本松市の大山忠作美術館さん。同市出身の文化勲章受章画家にして、繰り返し上演された朗読劇「智恵子抄」で智恵子役を演じられた女優・一色采子さんのお父さまである大山忠作画伯の作品を収蔵・公開なさっています。

照明設備の改修工事が入るとのことで、今月から来年2月いっぱいまで休館だそうです。そのため、12月10日(水)~1月12日(月)でにほんまつ城報館さん、そして12月18日(木)~2月11日(水・祝)に智恵子記念館さんへ「移動美術館」という形で出開帳が行われます。一部、日程がかぶっていますので、作品を分散しての実施のようです。
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鯉の作品をはじめ、縁起物や高村智恵子に関する作品等の展示」とあり、おそらく智恵子モチーフの作品は智恵子記念館さんに出るのでは、と思われますが、それも複数あるのでにほんまつ城報館さんと分散されるかもしれません。

サムネイルに使われているのは、同館の目玉の一つ、「智恵子に扮する有馬稲子像」(左下)のためのスケッチ。昭和51年(1976)、「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」中の北條秀司作の「智恵子抄」(一色さんの朗読劇もこちらが元です)で智恵子役だった有馬稲子さんを描いたものです。
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右上がスケッチですが、当方手元にはモノクロ画像しかありません。現物を一度、同館で拝見しましたところ、茶色のコンテで描かれているようでした。

ちなみに完成作(左上)に書かれている有馬さんのサインは、平成25年(2013)に同館で行われた有馬さんと一色さんのトークイベントの際に書いていただいたものです。

確認できている限りスケッチはもう1枚残っており(左下)、そちらは完成作と同じ衣裳のもの。今回、そちらの展示もあるかもしれません。
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他にも先述の通り画伯には智恵子モチーフの作品が複数ありますので、いっそそれらを全て出してほしいものです。右上は同館でクリアファイルやポストカードとして販売している「霧」(平成7年=1995)。他にもありますし、さらに画伯は光太郎詩の一節を書かれた書も残されています。ただ、智恵子記念館さんは手狭、画伯の完成作は100号超の大作が多く、なかなか難しいかも知れませんが。

さて、移動美術館の情報は『広報にほんまつ』今月号から拾いましたが、そちらには他の智恵子関連情報も載っていたので併せてご紹介します。

まず同市の合併20周年記念ページ。令和になってからの市のできごとをふりかえる中で、昨日もご紹介した橋本堅太郎氏作の智恵子像「今 ここから」除幕(令和3年=2021)と、今年も行われた智恵子生家ライトアップの初回(令和5年=2023)のスナップ。
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名誉市民の大山画伯と橋本氏の紹介。
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第30回智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」入賞者決定、表彰式実施という件。
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合併20周年という二本松市さん、今後とも「智恵子の故郷」を一つのハイライトとして行っていただけるとありがたいところです。

【折々のことば・智恵子】

苟且(かりそめ)にも恋愛によるならば、一切を投げ出して純真に自然に徹し、自然に傾倒し、そこに殉教的な信仰を持する事によつて、清らかな一途の道が開かれると思ひます。


アンケート「哀憐な美しさを見ます――「心中」の新らしい見方――」より
大正11年(1922) 智恵子37歳

雑誌『女性日本人』第3巻第9号の特集「心中=芝居=大東京」中のアンケート回答から。近松門左衛門の「曽根崎心中」や、その当時も少なくなかった心中事件についてのものです。智恵子の回答は全体に「心中」に対して否定的な見方です。

「自然に傾倒し、そこに殉教的な信仰を持する事」「清らかな一途の道」、ここに光太郎と共に送ろうと考えていた自身の理想的な生活の在り方が表されているように感じます。ただ、生涯の道と定めた絵画は進展せず、子宮後屈症の手術、結核性の肋膜炎、インフルエンザ、盲腸炎などで、健康状態はすぐれない日々が続き、相次ぐ家族の病死もあって、陰鬱な影の立ちこめていた日々でした。

智恵子の故郷・福島県の地方紙『福島民友』さん記事。

きらめく安達駅、東西口をライトアップ 二本松、2月1日まで

 二本松市のあだち観光協会は1日、安達駅イルミネーション点灯式を行った。2年目の今冬は、新たに智恵子像、折り鶴オブジェの足元を彩るなど発光ダイオード(LED)を2千個増やし、東西口合わせて約8千個が輝きを放っている。点灯は午後4時半~同10時。来年2月1日まで。
 駅利用者ににぎわいとぬくもりを届けようと行っている。東口には阿武隈川の流れをイメージした青色のイルミネーションを新設した。
 加藤和信会長は「多くの人に楽しんでもらえるよう点灯を昨年より1時間延長した。にぎわい創出へ努めていく」とあいさつした。
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JR東北本線安達駅は、二本松市に合併された旧安達町にあり、智恵子生家/智恵子記念館さん最寄り駅です。ただ、徒歩では20分以上かかりますが。

平成28年(2016)に新駅舎が完成、令和3年(2021)には光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家、故・橋本堅太郎氏の最後の作品「今 ここから」が設置されました。これが記事にある「智恵子像」です。

その「今 ここから」もイルミネーションで飾られ、とのこと。上記記事にその画像がありませんでしたが、あだち観光協会さんのX(旧ツィッター)投稿にありましたので、お借りします。
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実にエモーショナルですね。
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右上が『民友』さん記事にある「阿武隈川の流れをイメージした青色のイルミネーション」でしょう。
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ちなみに折り鶴のモニュメントは駅の改修前からあったもので、こちらも智恵子がらみと言えばそうなのでしょう。智恵子は南品川ゼームス坂病院で紙絵を作り始める前段階として、まずは折り鶴から始めましたので。

日が暮れてからでないと仕方がないので、なかなか見に行けないところですが、お近くの方などはぜひどうぞ。

明日も二本松・智恵子系のネタで。イベント目白押し・怒濤の11月も終わり、ネタが減って参りましたので小出しにします(笑)。

【折々のことば・智恵子】

 豊かな自然の嘆美、幸福は芸術から私(わたくし)へくる。その愛と光りは、苦しく寂しい、透徹した情熱です。
 恋愛は咲き満ちた花の、殆ど動乱に近いさかんな美を、私の生命に開展(かいてん)した。生命と生命に湧き溢れる浄清(じやうせい)な力と心酔の経験、盛夏のやうなこの幸福。凡ては天然の恩寵です。あゝ恋愛と芸術と、私にはこれを同時にお答へする外しかたがありません。


アンケート「私の最も幸福と感じた時」全文 大正6年(1917) 智恵子32歳

光太郎と結婚披露を行って約2年後のアンケート回答です。この時期にはまだ自分の将来に無限の可能性が拡がっているという感覚だったのでしょう。やがて一生の仕事と定めた絵画の道が頓挫していくのですが……。

11月30日(日)、港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」に出演させていただきました。
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いろいろといただきものがあってウハウハしていたところ、翌日になってやはり十和田湖関連で、しかし逆にいただきたくないものをいただいてしまいました。

青森の彫刻家・田村進氏の奥様からの喪中葉書。
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田村氏、4月30日(水)に亡くなられていたそうですが、存じませんで驚きました。過日お伝えした仙台の佐久間晟氏と同様でした。昭和8年(1933)のお生まれで、満92歳ということでした。

田村氏、中泊町にある太宰治(本名・津島修治)の銅像を作られたことで有名です。
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小説『津軽』(昭和19年=1944)中の、かつて津島家で働いていた女中さん・越野タケとの再会のシーンだそうで、太宰ファンの方なら「ああ、これか」でしょう。

やはり佐久間氏と同じく、田村氏も生前の光太郎をご存じでした。昭和28年(1953)10月23日、前々日に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式に出席した光太郎は、青森市の野脇中学校で催された文芸講演会で登壇、「乙女の像」などについて講演を行いました。また、光太郎と共に、像の制作に関わった当会の祖・草野心平や建築家の谷口吉郎、青森県と光太郎を仲介した佐藤春夫らも。若き日の田村氏は除幕式にも参列されて、さらにこの講演会もお聴きになり、終演後には光太郎とお話もなさったそうで。

「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」の際には、十和田湖畔の「観光交流センターぷらっと」さんについても語らせていただきました。大町桂月や「乙女の像」にかかわる展示が為されているよ、ということで。その「ぷらっと」さんに、田村氏ご制作の光太郎胸像も展示されています。
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題して「冷暖自知光太郎山居」。光太郎が、昭和20年(1945)10月から同27年(1952)10月までの7年間、戦時中の戦争協力を恥じ、岩手県花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で蟄居生活を送っていた当時の肖像彫刻で、直接のモチーフは、昭和24年(1949)10月、太田村の光太郎のもとを訪れた写真家の濱谷浩が撮影した写真です。
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「冷暖自知」とは「仏法の悟りは、人から教えてもらうものでなく、氷を飲んでおのずからその冷暖を知るように、体験して親しく知ることのできるものである。」(岩波書店『広辞苑』)の意。『智恵子抄』にも収められた大正元年(1912)作の光太郎詩「或る宵」中、「彼らは自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた/曾て裸体のままでゐた冷暖自知の心を―― 」という一節に使われています。

題字揮毫は、晩年の光太郎と親しく交わり、その没後は筑摩書房『高村光太郎全集』の編集に当たるなどした、光太郎顕彰第一人者にして当会顧問であらせられた故・北川太一先生です。
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レリーフでの習作を経て、平成25年(2015)に完成、平成29年(2017)には十和田市に寄贈、翌年に「ぷらっと」さんでの展示が始まり、その年の秋には寄贈のセレモニーが開催されました。かつて当会主催の連翹忌の集いにもご参加下さっていた田村氏でしたが、この時にお会いしたのが最後となってしまいました。

青森市内にある氏のアトリエ(「彫夢」と書いて「ほるむ」だそうで)が公開されているという情報を、青森山田高校さんのサイトで少し前に知りました。それを読んで「田村さん、まだお元気なんだな」と思っておりましたが、逆でした。同サイトには亡くなったことが書かれていませんでしたが、亡くなったがためにアトリエを公開ということだったようです。

アトリエには光太郎胸像「冷暖自知」の石膏原型も保管されています。
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最上部に掲げた喪中葉書によれば「冬期間閉鎖」だそうですが、いずれまた青森方面に行く際にはご焼香がてら足を運んでみようと思っております。

遅ればせながら、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・智恵子】

「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふよりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。

アンケート「女なる事を感謝する点」より 大正5年(1916) 智恵子31歳

完璧とは言えませんが、光太郎には「男尊女卑」という考えはほぼ無かったようで、かなりの部分で光太郎も家事労働を分担していました。そうした意味では智恵子は同時代の女性たちと較べると恵まれていた部分がありました。

しかし、それだけに女性の置かれている立場に対する眼が開かれてしまったところもあったかもしれません。婚家や夫にこき使われている女性たちの中には、それを「理不尽」と感じることすら出来ていなかった女性も多かったように思われます。

一昨日、都内港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」関連です。
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青森県の地方紙二紙が報道して下さいました。

『東奥日報』さん。

十和田湖の価値、未来へ 国立公園化に尽力・大町桂月没後100年 東京でフォーラム

 十和田湖や奥入瀬渓流を愛し、その名を全国に広めた高知県出身の文人・大町桂月(1869〜1925年)が蔦温泉で没して100年。今や青森県を代表する観光地となった十和田湖の未来を語るフォーラムが30日、東京都港区の赤坂区民センターで開かれた。パネリストらは大町の功績を振り返りつつ、自然、歴史、文化、観光などの視点からその価値をいかに継承していくか意見を出し合った。
 大町は、請願文を起草するなど十和田湖周辺の国立公園化に尽力した。「大町桂月を語る会」の谷川妙子事務局長は「美文で固められた請願文は大きな反響があった。筆の力で候補地に押し上げた」と説明した。
 大町らの功績をたたえる顕彰碑は詩人・彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)が制作、今は「乙女の像」として知られる。「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」の小山弘明代表は碑の制作経緯などを解説した。
 フォーラムには大町のひ孫に当たる大町芳通さん(69)も出席し、「桂月の愛した十和田の素晴らしい自然が活用され、地元がもっと発展するよう祈っています」と謝辞を述べた。
 東京青森県人会が主催、約70人が参加した。運営に当たった七戸町出身の山田安秀さんは「大町ら偉人たちが築いた土台を再認識することで、新しい未来をつくるための自信につなげたい」と話した。
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『デーリー東北』さん。

十和田湖の価値、再発見 ゆかりの文化人、足跡たどる 東京都内で県人会フォーラム

 東京青森県人会は30日、十和田湖について考えるフォーラムを東京都内で開いた。参加者約70人が、十和田湖に縁が深い文人の大町桂月や彫刻家の高村光太郎の歩みなどに理解を深め、多角的な視点から青森を代表する景勝地の歴史的価値を再発見した。
 第1部は、十和田奥入瀬観光機構元事務局長の山本隆一さんらが講演。第2部では、有識者が十和田湖の魅力を全国に広めた桂月や「乙女の像」を制作した高村の足跡、日本と米国の国立公園の違いなどについて解説した。
 「大町桂月を語る会」事務局長の谷川妙子さんは、桂月が起草した十和田湖を中心とする国立公園設置に関する請願文が、名文として大きな反響を呼んだエピソードに触れ「十和田を愛した桂月は、筆の力で国立公園の候補地に押し上げた」と紹介した。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明さんは、乙女の像の制作秘話を披露。作家の佐藤春夫が、当時の津島文治知事に高村を紹介した逸話などを明かした。参加者は、各登壇者の話に興味深そうに耳を傾け、十和田湖の歴史について思いをはせていた。
 ゼネラルプロデューサーとしてイベントを統括した山田安秀さん(七戸町出身)は取材に「大町桂月や高村光太郎といった非常に大きな存在が十和田湖に関わっていたことを若い世代に知ってもらい、未来につないでもらえれば将来は明るくなるのではないか」と話した。

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続いて、いただいてきた品々をご紹介します。

まずは聴衆の皆さんにも配られた配付資料で、トークイベントの際に登壇された谷川妙子氏率いる「大町桂月を語る会」さん作製の2種。

A4判両面印刷二つ折りの桂月紹介リーフレット。
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随所で光太郎や「乙女の像」にも触れて下さっています。

A2判両面印刷の「「奥羽一周記」現代訳マップ」。
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桂月が最初に雑誌『太陽』で十和田湖を紹介した明治41年(1908)の旅の記録です。

広げると、こんな感じ。
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これらは今回のイベントのために作られたのではなく、さまざまなところで活用されているのでしょう。

「乙女の像」制作の際、光太郎の助手を務めてくれた野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二子息の竜氏からは、図録を2冊戴いてしまいました。

まず、お父さまのカタログ・レゾンネ(作品集)。昭和59年(1984)、日動画廊さんでの個展開催にあわせての発行でした。
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他の作家の作品とともに画像が収められている図録は手元にありましたが、まとめて拝見したのは初めてで、実に興味深いものでした。やはり光太郎のDNAを感じますし、キリスト教の洗礼を受けての作品などには、同じく光太郎の世界観を受け継いだ舟越保武にも通じるような。

竜氏、お父さまは小坂圭二ですが、母方のお祖父様は、画家の夏目利政(明26=1893~昭43=1968)ということで、平成9年(1997)に青梅市立美術館さんで開催された「夏目利政展」の図録も。
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夏目の画業は日本画からのスタートでしたが、のちに油彩画に転じています。小坂圭二同様、作品群画像をまとめて見たのは初めてで、これも驚嘆すべきものでした。

そして夏目利政と言えば、光太郎を知る前の智恵子が、利政の父・音作(象牙彫刻師だったとのこと)の家に下宿をしていたことでも知られています。明治40年(1907)に日本女子大学校を卒業した智恵子は、卒業生用の楓寮に入寮していましたが、同42年(1909)、楓寮が閉鎖となりました。おそらくその直後は寮近くの女子大学校の先輩だった永野初枝宅に一時的に厄介になったようですが、同じく女子大学校の同級生だった幡ナツ(旧姓・小松)が夫の英二と共に住んでいた本郷区動坂町(現・文京区本駒込)の夏目宅を紹介してくれたとのこと。同44年(1911)春まで、智恵子はここに住んでいたようです。

下は夏目家で撮られたショット。
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残念ながら写っていませんが、この時、数え16歳で既に日本画を描いていた利政もその家に暮らしていました。利政は智恵子が描く油彩画に興味を示し、智恵子もいろいろアドバイスをしたそうです。

下って昭和20年(1945)、利政は岩手県胆沢郡真城村(現・水沢市)に疎開。その後、光太郎も花巻の宮沢賢治実家に疎開。その宮沢家も終戦5日前の花巻空襲で全焼し、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅に転がり込んでいた光太郎の元に、利政がやってきます。どういう伝手(つて)だか、利政を案内したのは賢治実弟の清六でした。

昭和20年(1945)9月1日の光太郎日記の一節。

訪問客、清六さんが夏目利政氏佐々木さんといふケイオウ生徒をつれてくる、夏目氏は智恵子が止宿し居れる頃の事を話しくれる。その為水沢より来訪し来れるなり。

その後も9月25日には宮沢家で利政と会っています。

さらに下って昭和25年(1950)11月、当時の水沢町公民館で「智恵子切抜絵展」が1日だけ開催されましたが、その際に尽力したのが、智恵子紙絵の3分の1ほどを預かっていた花巻病院長・佐藤隆房と利政でした。パンフレット(ガリ版)を利政が制作、さらに記憶にある智恵子と、おそらくこんな感じだったろうという南品川ゼームス坂病院での紙絵制作中の智恵子を描いたカットを載せ、12ページにわたり智恵子についての思い出等を執筆しています。
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このパンフレットについては小坂竜氏、ご存じなかったそうで、これからコピーのコピーを取ってお送りする予定です。

続いて、上記『デーリー東北』さん記事にもお名前が挙げられている山本隆一氏からいただいたのがこちら。

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十和田市の相馬菓子舗さんで販売されている「十和田アップルケーキ」。リンゴの果肉を練り込んだずしりと重いパウンドケーキです。スポンジのしっとり感と当方大好物のリンゴのシャキシャキした歯触りのバランスが絶妙でした。箱に「乙女の像」をあしらっていただき、ありがたい限りです。ロゴの昭和感もたまりません(笑)。

そんなこんなで、いろいろといただけてそれもありがたいうえに、また各方面に人脈を拡げることもでき、実に有意義でした。

関係の皆様の今後のますますのご活躍と、十和田湖の発展を切に祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

さまざまな時代に、まことの芸術家達が、それぞれ自身の生命を掘り下げて行つた。その作品は、いきていまも、私達の前に息づく、それ等のものは、魂をめざめさせる、恰も自然が私達をめぐむ恵のやうに、清らかに力強く、押迫つて透徹する、私はそれ等の彫刻を愛し、それ等の絵画を思慕してやまない。心の底からその作者を尊敬し、又は崇拝してゐる。


散文「女流作家の美術観」より 大正5年(1916) 智恵子31歳

素晴らしい作品を残した先人へのリスペクトは大切なことですね。

こう語っていた智恵子自身、「紙絵」で、後代の人々から「思慕」や「尊敬」、「いきていまも、私達の前に息づく」という感覚を得る事が出来ています。しかし、その「紙絵」が心を病んでからのものだったことは残念と言えば残念です。

昨日は港区で開催された東京青森県人会さん主催の「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」に出演しておりました。

明治期に十和田湖の景勝美を広く世に紹介し、国立公園指定の礎を築いた大町桂月没後100年を記念してのもので、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が、元々は国立公園指定15周年、桂月ら「十和田の三恩人」を顕彰するモニュメントであることから、当方にも「乙女の像」についてしゃべれという依頼があった次第です。
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会場は赤坂見附の赤坂区民センターさん。
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当方も出演させていただいたトークイベントは3階ホールで14:15からでしたが、その前に13:00から4階会議室で展示品の公開が行われました。

桂月の書幅。
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十和田湖を紹介した桂月の紀行文「奥羽一周記」が載った『太陽』(明治41年=1908)。

桂月没後に、光太郎の姉貴分・与謝野晶子が桂月をモチーフに詠んだ歌の幅。
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桂月は晶子の「君死に給ふこと勿れ」(明治37年=1904)を痛烈に批判しましたが、論争が終われば遺恨はさらりと流し、晶子は桂月を偲ぶ歌を詠んだりもしたわけです。

この幅は大阪堺の与謝野晶子記念館さんからお借りしたものだそうですが、こちらが展示されるという情報は事前に得ていませんでしたので驚きました。ちなみに会場に入って数㍍先に下がっているこれを見た瞬間にキャプションを見ずとも「あ、晶子だ!」とわかりまして、自分を褒めたくなりました(笑)。まぁそれほど独特な筆跡だからなのですが。

そして、光太郎作の「大町桂月メダル」。「乙女の像」除幕式(昭和28年=1953)に際し150個が鋳造され、関係者に配付されたもので、光太郎最後の完成作となったものです。
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14:15、3階ホールでトークイベント開幕。

2部構成で、第1部は4人の方々がお一人ずつ十和田湖や桂月、光太郎などについて語られました。
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トップバッターは環境省自然環境局国立公園課長の長田啓氏。そもそもの国立公園というシステムについてや、十和田湖畔の事務所で勤務されていた際のお話、十和田湖周辺の現状など。続いて十和田市議・中尾利香氏。ご実家が桂月と交流がおありだったそうで。
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お三方め、山本隆一氏。現在の肩書きは「十和田湖畔乙女の像研究会代表」とのことですが、定年退職される前は十和田市役所や十和田奥入瀬観光機構にお勤めで、『十和田湖乙女の像のものがたり』の刊行や十和田湖観光交流センターぷらっと」での展示などなどで十数年来お世話になっている方です。最後にお会いしたのが令和4年(2022)の1月で、久闊を叙させていただきました。

ちなみに上記画像のQRコード、詳細な資料へのリンクとなっていますので、御覧下さい。スマホで読み取ってそちらで見るか、PCに転送するかですね。

第1部最後はインテリアデザイナーの小坂竜氏。「乙女の像」制作に際し光太郎の助手を務めた彫刻家・小坂圭二(野辺地町出身)の子息です。
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右上画像は「乙女の像」除幕式(昭和28年=1953)の際の記録動画の一コマ。光太郎の背後で光太郎と佐藤春夫(光太郎と青森県の仲介役でした)に傘を差し掛けているのが父君です。ここに父君が映っていたというのは当方も気がついていませんでした。

休憩後、第二部。
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第一部に引き続き長田氏、十和田市の「大町桂月を語る会」谷川妙子事務局長、桂月の故郷・高知で桂月の名を冠した日本酒を製造販売されている土佐酒造代表取締役・松本宗己氏、米国ご出身で比較文化研究家のシエナ・ラッチ・デイリー氏、そして当方が登壇。モデレータで主催団体の山田安秀氏の進行でした。
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当方は「乙女の像」について語らせていただいたのですが、何せ時間が短く、意を尽くし得ませんでした。平成29年(2017)には十和田市でたっぷり時間をいただいて講演をすることができましたが、またそうした機会がどこかであれば、と祈念いたしております。

当方、桂月や国立公園のシステムなどについてはそれほど詳しいわけではありませんでしたので、谷川氏、松本氏の桂月がらみのお話、シエナ氏によるアメリカのnational parkと日本の国立公園の相違など、こちらも興味深いかぎりでした。

最後に桂月令曾孫の大町芳通氏による謝辞。
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いずれYoutubeでイベントの模様がアップされるそうですので、またその際にはお伝えいたします。

閉幕後は、近くの中華料理店で懇親会。この際には小坂氏や、芳通氏とは別の桂月令曾孫と同じテープルに着かせていただき、またいろいろな話で盛り上がりました。

さらに小坂氏からは貴重な書籍をいただいてしまいました。山本氏にいただいたものやイベントの配付資料ともども、明日ご紹介いたします。

十和田湖、それから同一地域といえる奥入瀬渓流や蔦温泉、旅行ブームの最盛期と比較すると人出はかなり減ったとのこと。さらに近年はコロナ禍が追い打ちをかけました。しかしその後回復傾向にあり、また、長田氏のお話では、周辺の廃墟と化したエリアの整備も少しずつ進んでいるとのこと。皆様方にはぜひ現地に足をお運びになり、「乙女の像」を御覧いただきたいものです。

ちなみにイベント前日の一昨日、NHK Eテレさんで全国放映された「東北ココから 鈴木京香の東北オトナ旅 青森県十和田市編」、NHK ONEさんで配信されています。併せて御覧下さい。

【折々のことば・智恵子】

少なくも自己といふものに思ひ至りし程のものならば田子作のおかみさんも行き当り申すべき新旧思想の衝突に候。


散文「マグダに就て」 明治45年(1912) 智恵子27歳

智恵子が唯一『青鞜』に寄せた文章の一節です。幸い、この号を入手することができました。表紙は前年の創刊号と同じ、智恵子によるもの(ウイーン分離派の画家、ヨーゼフ・エンゲルハルト作品の模写)です。
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「マグダ」はズーダーマン作、島村抱月が翻訳した脚本で、松井須磨子主演、文芸協会の第3回公演として有楽座で上演されました。オペラ歌手・マグダがかつて自分と子供を捨てた男に復縁を迫られ、「家の名誉」的な発想でマグダの父親がマグダに復縁か死か、どちらかを選べと迫るというストーリー。結局、マグダはどちらも拒否します。この内容が「風紀紊乱」ということで、内務省から上演禁止の警告。抱月は終末部分を公演中に改変して上演継続の許可を取りつけました。

制作サイドは自立した新しい女性を描く意図でしたが、この程度の選択はごくあたりまえのこと(「田子作のおかみ」云々)に過ぎない、と、智恵子。さらにこの程度で上演禁止とは何事か、という意図も見え隠れします。

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