2025年08月

毎週金曜日の19:30から、NHK総合さんは東北地方で「鈴木京香の東北オトナ旅」という番組を放映しています。女優の鈴木さん、宮城県のご出身だそうで。この枠は地方によって放映されている番組が違い、関東地方では「首都圏情報 ネタドリ!」が放映されています。

一昨日、7月29日(火)の「鈴木京香の東北オトナ旅」は「青森県十和田市編」でした。千葉の自宅兼事務所ではリアルタイム視聴が出来ませんでしたが、NHKさんの見逃し配信サイト「NHKプラス」さんで拝見しました。
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最初に鈴木さんが向かわれたのが十和田湖。
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しかも光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」でした。
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鈴木さん、幼い頃にも訪れられ、その思い出を辿るという側面も。
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像のポーズで写真撮影、「乙女の像あるあるですね」(笑)。

傍らに立つ光太郎詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)を刻んだ詩碑も取り上げられました。
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ナイスコメントです(笑)。

この後、鈴木さんは「乙女の像」の足をスマホで撮影。
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踵(かかと)が両足ともべたっと地面についていますね。この点に関し、光太郎曰く

あの像では後の足をスーツとひいているが、あの場合には踵が上るのが本当なんだけれども(立ち上がつて姿態を作り)こういうふうにわざと地につけている。彫刻ではそういう不自然をわざとやるんです。あれが踵が上つていたら、ごくつまらなくなる。そういうところに彫刻の造型の意味があります。(「高村氏制作の苦心語る ”見て貰えば判ります” 像の意味は言わぬが花」昭和28年=1953)

光太郎の心の師・ロダンも「説教する洗礼者ヨハネ」などで全く同じことをやっています。

さて、鈴木さん、何ゆえ足の写真なのかというと、一人旅の行った先々でご自分のお顔ならぬおみ足を自撮りなさることにはまられているそうで……。
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ぜひ1冊の本にして出版していただき、「乙女の像」の足も収めていただきたいものです(笑)。

十和田湖の後は、市街へ。十和田市現代美術館さんや、新しくオープンした新刊書店、そこで紹介されたスナックなどを巡られました。

先述のようにNHKプラスさんで9/12(金)午後7:56まで視聴可能です。

NHKプラスさんといえば、もう1件、光太郎がらみが配信中です。8月24日(日)放映の、「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。茨城県の水戸芸術館さんで開催中の「日比野克彦 ひとり橋の上に立ってから、だれかと舟で繰り出すまで」がメインでしたが、愛知県小牧市のメナード美術館さんでの「なつやすみ所蔵企画 えともじ展 文字で読み解く美術の世界」も取り上げられ、同展出品中の光太郎木彫「鯰」(昭和6年=1931)が紹介されています。
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この回、本来は今夜再放送のはずでしたが、高校野球の関係で「日曜美術館」本体が1回休止となった影響でしょう、残念ながら再放送が為されません。NHKプラスさんでは今日の朝9:59まで。視聴可能な方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

不幸な事が起つた。僕は昨日女の胸像を仕上げたと思つたのです。其をめちやめちやにしてしまひました。もう一度やり返さなければなるまい。三週間の損!

光太郎訳 ロダン「手紙」より 明治43年(1910)頃訳 光太郎28歳頃

「芸術家あるある」です。作品をほぼ作り終えたところで改めて見返すと気に入らず、自分で壊してしまう……。光太郎もよくやりました。

ただし「乙女の像」に関しては、もはや自分の命の残り火が少ないとわかっていましたので、それをする時間が残されていませんでした。そのため、光太郎自身でも納得の行く作ではなかったようです。像にサインが刻まれていないのがその一つの傍証です。

令和2年(2020)に集英社さんから刊行された村山由佳氏の小説『風よ あらしよ』。伊藤野枝を主人公とし、『青鞜』時代や辻潤、大杉栄との生活、そして関東大震災直後の一家鏖殺までが描かれ、光太郎智恵子も登場しています。

令和4年(2022)にはNHKさんで全3回でドラマ化。それが再編されて劇場版映画として令和6年(2024)に公開されました。残念ながらこちらには光太郎智恵子は登場しませんが、智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号が重要なアイテムとして繰り返し使われています。
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さて、NHK BSさんで再放送があります。

ドラマ・選 風よあらしよ(1)

NHK BS 2025年8月31日(日) 22:00〜22:50 9月6日(土) 23:10〜00:00

今から100年前。女性の地位は低く、良妻賢母が求められた時代。福岡の片田舎で育った伊藤野枝(吉高由里子)は、東京の女学校へ入学し教師の辻(稲垣吾郎)から「青鞜」の存在を教わり心を掴まれる。貧しい家を支える為の結婚を蹴り、自由を求め再び上京した野枝に才能を感じ取った辻は、彼女に知識を与え、導く。溢れんばかりの情熱を持った野枝はらいてう(松下奈緒)の青鞜社の門をたたき時代の若きアイコンとなる。

【出演】吉高由里子 永山瑛太 松下奈緒 美波 山田真歩 朝加真由美 山下容莉枝
    渡辺哲 栗田桃子 石橋蓮司 稲垣吾郎
【原作】村山由佳  【脚本】矢島弘一  【音楽】梶浦由記

それから、野枝の故郷・福岡県では映画館で劇場版の「バリアフリー上映会」。

福岡に本社を置く『西日本新聞』さんの案内記事。

「風よ あらしよ劇場版」バリアフリー上映会

 女性解放運動家・伊藤野枝を描いた村山由佳さんの同名小説が原作のドラマ「風よ あらしよ」の劇場版を上映する。
 福岡の田舎で育った伊藤野枝は、貧しい家を支えるための結婚を断り上京する。平塚らいてうに感銘を受けた野枝は、らいてうらが中心となって結成された女流文学集団・青鞜社に参加。青鞜社は野枝が中心になり婦人解放を唱える戦う集団となってゆく。野枝を吉高由里子さん、らいてうを松下奈緒さん、野枝の最初の夫辻潤を稲垣吾郎さん、後に生涯のパートナーとなる大杉栄を永山瑛太さんが演じる。脚本は矢島弘一さん、演出は柳川強さん。

開催日 ふくふくホール8月30日(土)①午前11時②午後2時、さいとぴあ9月10日(水)①午後2時半②同6時半、アミカス11日(木)①午後2時半②午後6時半

開催場所 福岡市市民福祉プラザ(ふくふくプラザ) さいとぴあ(福岡市西部地域交流センター)、福岡市男女共同参画推進センター・アミカス4階ホール 〒8100062 福岡県福岡市中央区荒戸3丁目3-39

料金 一般1400円(前売り1200円)、障害者当日600円(視覚障害者の介助者は無料)
参加条件 要申し込み URL 
https://cinema-arci.net/events/
主催・問合せ 九州シネマ・アルチ 092(712)5297 arci1210@bcj.ne.jp
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「バリアフリー上映会」とは、音声ガイドや字幕などを使い、多くの方に楽しんでいただけるように配慮された公開方法です。テレビドラマ版で副音声や字幕が作成されているので、それを転用するのではないでしょうか。

こうした動きが一般的になっていけばいいと思います。

【折々のことば・光太郎】

大きな商人や金持ちの好事家の役に立つ才能を持たないのは惜しい事です。してみれば結局厭に思はないで、君みたいに、僕の選ぶ彫刻を取つてくれるのは、文学家と芸術家だけだといふ事になるのです。


光太郎訳ロダン「手紙」より 明治43年(1910)頃訳 光太郎28歳頃

美術評論家ロジェ・マルクスに宛てたロダンの手紙の一節です。注文主と作者との考えの相違、それにまつわるトラブルなどの「あるある」に関わります。光太郎にもそういうことがありましたが、ロダンの場合はそれがしょっちゅうでした。

全日本合唱連盟さんの下部組織である東京都合唱連盟さん主催の「第80回東京都合唱コンクール」が来週開催されます。上位入賞団体は10月から11月にかけて行われる全国大会の出場権を獲得できる仕組みです。画像は昨年の第79回大会の模様。
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都合唱連盟さんのサイトで、都大会の出場団体、曲目まで公開されています。その中で、「大学ユースの部」に出場される早稲田大学コール・フリューゲルさんが、新実徳英氏作曲の「愛のうた -光太郎・智恵子-男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」から「レモン哀歌」を演奏されるとのこと。本来、サブタイトルにあるとおりオケ伴として作曲されたものですが、公刊されている楽譜は四手連弾のピアノ譜が付されていて、その形で演奏されるのでしょう。

コール・フリューゲルさん、昨年度の「第77回全日本合唱コンクール全国大会」で金賞を獲得したそうで、そのため、今回の都大会では「シード」。出場はされるそうですが審査の対象外で、もう全国大会出場が決まっているとのこと。そういう規程になっているとは存じませんでした。

また、都大会の演奏も課題曲と自由曲それぞれ1曲ずつを演奏する他団体と異なり、課題曲1曲と、自由曲的に4曲の演奏となっています。そのうちの1曲が「レモン哀歌」、他に「早稲田大学校歌」(作詩:相馬御風 作曲:東儀鉄笛 編曲:山田耕筰)、「男声合唱と四手のピアノのための『一人は賑やか』より 一人は賑やか」(作詩:茨木のりこ 作曲:三善晃)、「『リーダーシャッツ21』男声合唱篇より さらに高いみち」(作詩:木島始 作曲:信長貴富)。シード権を得ると、もはやアトラクション的な扱いになるようです。

全国大会では地方予選を勝ち上がっていた団体と同様に、課題曲と自由曲それぞれ1曲ずつの演奏となるそうで、そちらの曲目はまだ不明です。ぜひ全国でも「レモン哀歌」を演奏していただきたいところですが。

都大会の詳細は以下の通り。

第80回東京都合唱コンクール

期 日 : 2025年9月6日(土) 小学生部門 大学職場一般部門 混声合唱の部/同声合唱の部
      9月7日(日) 大学職場一般部門 大学ユースの部/室内合唱の部
      9月21日(日) 中学生部門 高等学校部門
会 場 : 文京シビックホール 東京都文京区春日1-16-21
時 間 : 9/6  10:30~ 9/7 10:15~ 9/21 10:30~
料 金 : 一般 前売り1,500円/当日券2,000円 小学生 前売り800円/当日券1,000円
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コール・フリューゲルさん、1日目の9月6日(土)、予定では18:48~の演奏ということになっています。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

芸術に於て、人は何にも創造しない! 自分自身の気質に従つて自然を通訳する。それだけだ!

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「自分自身の気質に従つて自然を通訳」。優れた音楽も、そういうものなのかもしれません。

7月30日(水)にAmazonさんに注文したところ、届いたのが8月25日(月)でした。時々こういうことがあるんですが何なんでしょうね? 

閑話休題。土曜美術出版さん発行の月刊誌『詩と思想』の8月号です。
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目次的には以下の通り。

 【巻頭言】石川逸子:詩の仕事
 特集 敗戦の記憶・現在の戦争
 【インタビュー】
  河津聖恵×佐川亜紀:河津聖恵さんに聞く
 【アンソロジー】
  金時鐘:在日朝鮮人  八重洋一郎:おお マイ・ブルースカイ  石川逸子:黒い橋
  龍秀美:寓話  堀場清子:影  栗原貞子:ヒロシマというとき
  柴田三吉:ちょうせんじんが、さんまんにん  うえじょう晶:骨笛
  冨岡悦子:忘却にあらがう  河野俊一:今もなお
 【評論】
  高良勉:沖縄戦の記憶と被植民地状況
  中島悦子:高村光太郎の戦後/戦後の谷川俊太郎
  金正勲:李石城の平和への眼差し
  中村純:軍隊と性暴力
  丁章:無国籍在日サラム詩人を生きる―戦後100年をめざして
  岡和田晃:アイヌに対する「文化戦争」、「共生」という包摂、「北方領土」の欺瞞
  永井ますみ:「問天」入力で学んだこと
  佐川亜紀:「戦後」ではなく「敗戦のたいせつさ」―特集について
 【詩作品】38篇
 【詩人論】美濃千鶴:石垣りんを読みかえす
 【連載】郷原宏:歌と禁欲―現代詩論史論 第15回
 【連載】清水茂遺稿集6 場の記憶について
 【この土地に生きて】中原秀雪:詩人丸山薫が現代に遺したもの
 【艀船を泊めて】徐載坤:〈詩の国〉から〈伝統詩歌の国〉への発信
 【私の好きな詩と詩人】江田つばき:実感
 【わが詩の源流】川井麻希/柊月めぐみ/安藤一宏
 【詩人の眼】川島洋:加速する社会と詩
 【バイリンガル・ポエム】苗村吉昭:単線の神さま
 【詩誌評】清水善樹:画像添えの詩は反則か①
 【詩書評】北原千代:白熱した批評
 【研究会だより】中井ひさ子
 【追悼 愛敬浩一】石毛拓郎
 【特別書評】愛敬浩一
 【読者投稿欄】小島きみ子/加藤思何理
 【新刊review】
 【読者投稿作品】
 【選評】
 他

戦後80年ということもあり、特集が「敗戦の記憶・現在の戦争」と題されています。その中で詩人・中島悦子氏による「高村光太郎の戦後/戦後の谷川俊太郎」が6ページ。前半では光太郎が書いた翼賛詩、戦後の詩、それから詩ではなく文章「詩の朗読について」(昭和16年=1941)、「戦争と詩」(昭和19年=1944)から引用しつつ、論じられています。

曰く「高村が戦意高揚の詩を詩を書く背景には、もうひとつ日本語への賛美もあった」「日本語を世界の最上と位置づけ」「詩を書くことが武器をもって戦う事と同一視」。確かに光太郎は日本語をこよなく愛し、日常の口語に内包される機微の美しさといった点についても繰り返し論じていました。それらはへたな国語学者らの論説などよりも胸にストンと落ちるもので、バックボーンとしてきちんとした理論を持った上で詩作に当たっていたことがわかるものです。

それだけに、再び中島氏曰く「それだからこそ自信にあふれた戦争賛美を堂々と書くことができたのだろうか」。たしかにそういう一面はあるでしょう。

そして戦後。連作詩「暗愚小伝」から引用しつつ、戦時中の行動に対する光太郎の真摯な悔恨、反省を高く評価しています。三たび中島氏曰く「その個人の内省は文学史上記憶に値する」。

そして後半では、光太郎とも交流のあった故・谷川俊太郎氏について。昭和6年(1931)生まれの谷川氏が、180度転換した敗戦時の社会、特に学校教育をどのようにとらえていたかなど。

他に「アンソロジー」として、金時鐘氏、栗原貞子などの主に終戦に関わる詩が紹介されています。「おや?」と思ったのが、女性史研究家として名高かった故・堀場清子氏の詩が収められていたこと。「影」と題されたもので、原爆投下直後の広島の様子が謳われていました。氏に被爆体験がおありだったことを失念していました。

その他、ずっと後の方のページで、詩人の愛敬浩一氏の追悼記事(今年5月に亡くなったそうです)が出ており、驚きました。直接存じ上げていた訳ではありませんが、いろいろお世話になっている文治堂書店さんを通じ、氏が主宰されていた同人誌『季刊 詩的現代』の第4号(平成25年=2013)、「特集『道程』からの百年」の載った号をいただきましたので。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『詩と思想』8月号。既に9月号が出ているようで、最新号ではありませんが、何とか入手するなり図書館等で閲覧するなりしていただければと存じます。

【折々のことば・光太郎】

自然は決してやり損はない。自然はいつでも傑作を作る。此こそわれわれの大きな唯一の何につけてもの学校だ。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

こうした一節を読むにつけ、いかにロダンの思想が光太郎の血肉となっているか、という気にさせられます。

『読売新聞』さん、8月18日(月)掲載の記事。

街の裸婦像は時代にそぐわない? 撤去の動き、各地で…小学生「見ていて恥ずかしくなる」

 公園や駅前、橋上にある裸婦像が、公共の場にふさわしくないとして、自治体が撤去する動きが相次いでいる。裸婦像は戦後に撤去された軍人像に代わり、「平和の象徴」として全国各地に建てられたが、「時代にそぐわない」「美術館に展示すべきだ」との指摘も出ている。(高松総局 黒川絵理)

小学生「見ていて恥ずかしくなる」
 高松市中心部にある市中央公園。約3・5ヘクタールの園内には、市出身の文豪・菊池寛や読売巨人軍の名監督・水原茂氏ら計31体の像などが設置されている。その中には、少女2人が向かい合って立つ裸像もある。
 市によると、1989年に地元のライオンズクラブから寄贈された。2023年以降、同園の再整備計画を検討してきた有識者らの会合で「時代にそぐわないモニュメントがある」と指摘され、校外学習で訪れた小学生からも「見ていて恥ずかしくなる」との意見が出た。
 市は「人々の価値観が変化しており、児童の裸像を公共空間で不特定多数が目にするのは望ましくない」と判断。8月下旬に始まる再整備工事で撤去する方針という。
 一方、少女の裸像の作者で、彫刻家の阿部誠一さん(94)(愛媛県今治市)は読売新聞の取材に「撤去は残念だ」と語った。作品名は「女の子・二人」で、1988年の瀬戸大橋開通を記念して制作した。阿部さんは「裸像はみずみずしい命そのもので、橋で成長する四国・本州地域の美しさを表現した。園内に残すべきだと思う」と話した。市から撤去についての連絡はないという。
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「公共空間にたくさん設置、日本だけ」
 全国の記念碑を研究する亜細亜大の高山陽子教授によると、戦前は軍人や偉人の像が公共空間に建てられたが、戦中の金属不足や戦後の連合国軍総司令部(GHQ)の方針で撤去された。代わりに登場したのが裸婦像だった。1951年に東京都千代田区に置かれた「平和の群像」が国内の公共空間で初めての裸婦像とされ、その後、平和や愛の象徴として各地に広まったという。
 高山教授は「公共空間に女性の裸像がたくさん置かれているのは日本だけ。欧州やアジアでは美術館の敷地内や庭園に限られる」と話す。
 女性の裸像の設置場所を巡っては、他の地域でも見直しが進んでいる。
 兵庫県宝塚市にある宝塚大橋には、手のひらの上で裸の女性が踊る像が設置されていた。橋の改修工事に伴い、2021年に撤去され、元の場所に戻すかどうかが議論になった。橋を管理する県は「見たくないとの意見が一定数ある」として設置しない方針を決定。土木事務所で保管している。
 静岡市では、中心部の駿府城公園周辺に女性や少女の裸像が7体設置され、静岡駅前広場にもフランスの画家・ルノワールの裸婦像2体がある。
 難波喬司市長は昨年12月の記者会見で「市内に裸婦像が多すぎる」と語った上で、「しっかり鑑賞できる美術館などに置くのが適切ではないか」と述べた。市は有識者らに意見を求めており、対応を検討している。
 神戸大の宮下規久朗教授(美術史)は「近年、児童の裸に対する社会の目が厳しくなっている一方で、設置から数十年 経た ち、風景に同化している裸像もある。市民から意見を募り、撤去の是非を慎重に判断すべきだ」と語る。
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記事本文には光太郎の名はありませんが、画像として光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。キャプションには「十和田湖畔に建つ乙女の像。高村光太郎の作品(青森県十和田市)」。文脈としては撤去すべきものの例ではなく、記事末尾にある神戸大の宮下規久朗教授曰くの「風景に同化している裸像」の例として挙げられているのだと思われます。舟越保武の「たつこ像」も。そうでないとしたら見識を疑います。

しかし、彫刻に限りませんが、たしかに公共空間に於けるアート作品にはいろいろと微妙な問題がありますね。「なぜそこにその作品があるのか」「そうした作品でなければならないのか」「そこにその作品があることでどんなメリットがあるのか」そして記事の指摘にあるように「デメリットはないのか」。

特にバブル期、そうした議論もされないまま、単に「有名な作家の作品だから」「地元の芸術家にお願いして」「何もないとさびしいから」「予算が組まれたので」的な安易な理由で設置された作品も多いと思われます。中には「ガラクタ」と思われても仕方のないものも少なからずあるような。そんな中で、裸婦像は裸婦像であるが故のセンシティブな問題を孕み、槍玉に挙げられやすいのでしょう。

記事後半にある静岡市の例の中で「市は有識者らに意見を求めており」とありますが、「「有識者」ってどんな人?」「その人らに何の権限があるの?」「ほんとに万人が納得出来る見解が出せる?」という気がします。

この問題は難しいと思います。地方都市の駅前などによくある戦国武将などご当地偉人の像なども、「偉人の像だから」というだけで、像の出来不出来は問題にされず容認されていたり、意味不明の像も「有名な作者のものだからOK、これが理解出来ない人はアートを理解する心が足りないのだ」と丸め込まれたり……。逆に「乙女の像」や「たつこ像」まで「裸婦像」だからというだけの理由で眼の敵にされてはかないません。

結局は光太郎が明治期に文展などの評で主張していた、「その像に「生(ラ・ヴイ)」が見えるかどうか」という基準しかないのでは、とも思われます。一人一人がきちんとした鑑賞眼を持ち、いいものはいい、駄目なものは駄目、といえる素養を身につける必要があるでしょう。それとても人によって基準が異なることは仕方がありませんが……。

また、万人が認めるいいものであっても、設置場所が適当かどうかはまた別の問題です。例えば「考える人」が住宅街のど真ん中にズドンと設置されたとして、誰がそれをありがたがるか、というようなことです。

といって、公共空間にはベンチだの街路灯だのさえあればいいのか、という問題にもなりますし……。まぁ、少なくとも不快だと思う人が一定以上存在しそうなものは、避けて置いた方が無難だなとは思います。

なんだか堂々巡りでまとまりませんが、みなさんもそれぞれ考えてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻に独創はいらない。生命がいる。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

さらにロダンは「模写家たる事を恐れるな。」「此の模写は手に来る前に心を通る。知らぬ処にいつでも独創はあり余る。」「何を生命と呼ぶか。あらゆる意味から君を激動させるもの、君を突き貫くものの事です。」などとも語っていました。

光太郎が大正2年(1913)に智恵子と一夏を過ごした信州上高地。当時の登山道「クラシックルート」上にあり、光太郎智恵子も立ち寄り、詩集『智恵子抄』にも記述がある岩魚留(いわなどめ)小屋について、光太郎智恵子にからめ、『朝日新聞』さんと『毎日新聞』さんが相次いで記事にして下さいました。

先に『毎日新聞』さん。8月21日(木)、栃木版への掲載でした。メインで取り上げられているのは、昭和50年(1975)にあった不幸な出来事。こういうことがあったというのは存じませんでした。

山は博物館 島々谷で山小屋主人が水死 救助行為に災害給付金出ず

 長野県安曇村(現松本市)にある「島々(しましま)谷」の「南沢」で1975年夏、奥原信俊さん(当時50歳)が流され水死した。自分の山小屋「岩魚留(いわなどめ)小屋」の前で、増水した激流を無理に渡ろうとする男性登山者(同27歳)を見過ごせず、手助けしていた時だった。男性は「助けを求めていない」と責任を回避。県警は助けが要るほど危険は迫っていなかったと、遺族への災害給付金不支給を決定。理不尽だとの世論が高まった。
 不幸は北アルプスの上高地に至る道(約20キロ)で起きた。起点の島々集落から沢沿いに徒歩4時間かかる山小屋は、中間を少し過ぎた所にある。悲運の7月13日は大雨が降りやすい梅雨末期で、県によると上高地ではそれまで11日間で458ミリを記録。前日は期間中最大の182ミリも降った。当日も停滞前線のため雨量が増える予報が出ており、実際に午前中は雨が強かった。
  報道などによると、兵庫県明石市の男性は、槍ケ岳を目指していた。朝、登山口で警察官と区長に入山を止められたが強行。午後1時ごろ、右岸から山小屋がある左岸に渡る場所で立ち往生した。橋があるはずが、流失か水没して消えていた。
  奥原さんは、対岸で右往左往して渡れる場所を探す姿を見て、身ぶりで引き返すように促した。聞き入れないので、無事に渡らせるためロープを投げ、端を木に結ぶように指示。反対の端を持っていて流された。7人ほどいた山小屋の客から、警察に通報するよう言われた男性は戻り、途中でキャンプしていた大学山岳部員を介して駐在所に届け出た。
 大阪府寝屋川市でレストランの支配人をしていた次男の英考(ひでたか)さん(71)は、その日に知らせを受け、実家がある島々集落へ向かった。「おやじなら生きているのではないか」と信じていたが、翌日着き、1日たっても増水が収まらない沢を前に「駄目かも」とも思った。この日、捜索隊が山小屋から1・4キロ下流で遺体を発見。衣服がはがれ、体半分が埋まっていたが、英考さんが現場で対面した時は体が清められていた。
 「警察官の職務に協力援助した者の災害給付法」では、水難や山岳遭難で、警察官がその場にいれば当然する救助を義務がない人が行い、けがや死亡した場合、本人や遺族に給付金が出る。この75年、全国で死亡10人、傷病4人の適用例がある。ただ、相手に危険を避ける時間の余裕があれば該当しないとされる。県警は危険度合いや、男性が「渡れなければ引き返す気だった」と主張したことを踏まえ、早々に適用は無理と結論付けた。 地元紙によると、普段救助に当たる山小屋経営者らは「登山者が救助を求めなければ、危険な状態でも手出しする必要がないということか」と態度を硬化。残った休暇で「葬儀に顔を見せず、(穂高連峰へ)出かけた若者に非難が集中」と一般雑誌も取り上げた。当日の岩魚留小屋の客は全国紙に「逆に登山者が流されていたら、小屋の主人は強い非難を受けた」と投書した。
 県議会12月定例会の一般質問で、県警警務部長は、線路上の子供に「汽車がばく進」する状況を適用例に挙げ、「登山者の位置は安全な所、雨も小降り。危険が急迫し、命が危ない状況は認められなかった」と答弁。「お気の毒」と言いつつも「法を適用できないかという方向で検討したが給付は困難」と述べた。質問した県議は、救助隊員の士気低下を心配し再考を要請。警務部長は県内で過去28件の給付を明かし「本当に困難」と答えた。
 別の議員は「濁流を渡るべくしている登山者は、遭難一歩手前と判断し、手を差し伸べたことは当然」と、登山案内人の言葉を紹介。「本能や正義感のもと行動する前に(法が規定する)人命救助か検討し行動に移ることが要請された」と皮肉った。奥原さんの弟は「山男としてやるべきことをやった。だれを恨むものではないが、善意が踏みにじられたことは残念」と話していたという。
 妻ら遺族は12月、県と県警に、法適用が無理ならそれに準ずる措置を要請。知事は「何らかの方法で感謝を表したい」と述べた。
 男性への損害賠償請求訴訟や県警への行政不服審査など、遺族が法的対応を弁護士に依頼する中、男性とは「見舞金」300万円を受けることで合意した。それでも登山雑誌には「あやふやな行動が山小屋の主人を死なせた。登山者は『危険な状態ではなかった』といいはった。ならばなぜその意志を表さなかったのか」と投書が載った。「余計なおせっかいをして死んだといわれ」、妻は精神的に疲労しているとの記事もある。
 県警も76年3月末、「見舞金」300万円を支給。知事は県山岳遭難防止対策協会の会長名で感謝状も出した。「永年にわたり登山案内人として円満な人柄により親しまれ、遭難防止に尽力されました。功労をたたえ感謝の意を表します」とある。日付は8カ月前の遭難日だが、直接触れていない。妻は謝意を示したが、法が適用されず「満足していない。しかし、関係者の声援を受けここまでこぎつけたのはうれしい。主人は間違っていなかった」と語った。法的訴えは取りやめた。
 対応を母と兄に任せた英考さんは父の初七日から山小屋に入った。男性や県警に対し「夏山の時期で、空けておけないとの思いでいっぱい。どうこう考える余裕はなかった」と振り返る。今も「何を言ってもおやじは戻らない。相手の顔も見ていないし、恨む気持ちもない。葬式に出なかったからって、自分もその立場なら隠れていたい」と話す。体調不良などの事情で、山小屋は10年以上前から閉じている。

「山上の恋」の光太郎も往復
 大正以前、長野県松本市から旧安曇村の上高地に行く車道は無く、登山者は島々谷を歩いた。1913年8月から2カ月暮らした彫刻家で詩人の高村光太郎も往復した。
  滞在中、交際していた長沼智恵子が来ると知らせを受け、岩魚留小屋がある所へ迎えに行った。歌人の窪田空穂は「登って来る女性に目を見張った。若く美しい人で、呼吸静かに歩み寄って来る。視線は高村君に一直線に注がれていた」。 この様子を9月5日付東京日日新聞(現毎日新聞)は「美しい山上の戀(こい)」と冷やかした。「美人が登ってくる。今度は青年が下りてくる。視線が合ふと手を引き乍(なが)ら上つていつた。二人が相愛の仲は久しいもので『別居結婚』してゐる仲ぢやもの、智恵子が光太郎を訪ふたと知れた――と岡焼から便りがあつた」
 ちまたで興味本位のうわさ話になる一方、光太郎は智恵子を連れて穂高連峰や明神岳、焼岳、霞沢岳など周囲の山々を写生し、別世界の風光を堪能。2人はここで婚約した。
 島々谷の南を遠回りする梓川の各所に水力発電所を建てるため、今の国道158号と県道が通じ、上高地に車が入ったのは昭和初期だった。
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この事故で亡くなった奥原氏の子息が小屋を引き継いだものの、もうご高齢で体調不良、平成24年(2012)から休業中だそうです。それを引き継ごう、というお話で、『朝日新聞』さんの長野版、8月11日(月)の掲載でした。

(山岳ジャーナリスト近藤幸夫の新・山へ行こう)上高地へのルート /長野県■山小屋復活から未来つなぐ

 北アルプスの玄関口・上高地は、日本の近代登山発祥の地とされています。昭和初期に釜トンネルが開通して自動車で行けるようになるまでは、松本市の島々から徳本(とくごう)峠(2135メートル)を越える約20キロの山道が上高地へのメインルートでした。江戸時代以前から利用されてきたクラシックルートの復活と再生を目指すプロジェクトが現在、進行しています。
 プロジェクト代表を務めるのは昨春、島々に移住した塩湯涼(しおゆりょう)さん(30)。島々から沢沿いの登山道で、徳本峠の手前にある岩魚留(いわなどめ)小屋の営業再開などに取り組んでいます。
 松本市文化財課などによると、岩魚留小屋は1911(明治44)年、農商務省の官舎を転用し、民間会社が設立しました。木造平屋建てで約70平方メートル。現在のオーナー奥原英孝さん(71)が大けがをし、2012年から休業しています。
 クラシックルートは明治以降、著名な登山家や文化人らが通った道です。「日本近代登山の父」と称される英国人宣教師ウォルター・ウェストンや詩人高村光太郎、文豪芥川龍之介らが有名です。
 京都市出身の塩湯さんは、長崎大薬学部、同大大学院を卒業後、福岡市の製薬会社に就職しました。社会人になってから友人と登山を始め、大型連休中に北アルプスの槍ヶ岳の登った際、信州の山々に魅せられました。
 「製薬会社の仕事に不満はなかったけど、それ以上に山に関わる仕事をしたくなった」。入社1年半で退職。南アルプスの山小屋で働いたり、山仕事の会社で森林調査などを手伝ったりしました。
 こうした経験を重ね、山の関係者が集まれる場所を作りたいと考えました。SNSを通じて、島々で古い蔵を改修したカフェを営む山口浩喜(ひろき)さん(57)と知り合いになり、転機を迎えました。
 昨春、山口さんから島々の空き家を紹介され、山で働く人向けのシェアハウス「山小屋の小屋・下駄(げた)屋」を開設。自身も入居し、島々に移住しました。
 島々は、ウェストンの登山ガイドを務めた上條嘉門次の自宅があったほか、今も上高地周辺の山小屋経営者らが住んでいます。日本の近代登山の発展を見守ってきた集落なのです。
 山口さんも移住者です。島々の魅力をアピールし、クラシックルートの整備に尽力しています。奥原さんから岩魚留小屋の後継者探しを頼まれていました。「塩湯君は若いし、人柄もいい。山小屋勤務の経験もあり、みんなで支援すれば岩魚留小屋の復活は可能」
昨年11月、「岩魚留小屋再生プロジェクト」が発足しました。代表は塩湯さん、山口さんが統括に就任し、有志6人で組織を立ち上げました。
 今年9月に老朽化した岩魚留小屋の状況を調べ、改修費用の見積もりをします。クラウドファンディングで資金を募り、来年に改修工事をして27年の営業再開を目指しています。
 プロジェクトは、岩魚留小屋の営業再開だけではありません。クラシックルートは、森林鉄道の軌道跡や炭焼き窯、風穴を利用した建物跡などが残る歴史を伝える道なのです。こうした山岳遺産をめぐるツアーの実施も計画しています。
 塩湯さんは「岩魚留小屋の再生は過去と現在、そして未来をつなぐ試みです。歴史を守るだけでなく、新たな価値を創りたい」と話しています。

同様の件は『毎日新聞』さん長野版でも今年4月に報じられていました。

計画通り営業再開となりましたら、ぜひ一度行ってみようと思っております。みなさまもどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

しかし、理論家よ。昔の単純な友はそんなに仰山な事をしなかつた。そして直ちに、彼自身の内に、自然の内に、君達が図書館の中で探し廻ってゐる真理を見つけた!

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「自然を師とせよ」というのがロダンの根本です。それを光太郎も受け継いでいきました。

8月9日(土)に宮城県女川町のまちなか交流館さんで開催された第34回女川光太郎祭につき、仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さんが8月19日(火)に報じて下さいました。

女川で功績しのぶ「光太郎祭」 詩や紀行文を朗読

 1931年に女川町などを旅し、詩や紀行文を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の功績をしのぶ第34回光太郎祭が9日、女川町まちなか交流館であり、来場した約50人が詩や紀行文の朗読に聞き入った。
 ギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)が奏でる旋律に乗せ、11人がそれぞれ詩や紀行文を情感を込めて朗読した。「智恵子は東京に空が無いといふ」で始まる詩「あどけない話」は石巻市万石浦小5年の佐藤結土さんが担当。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」で知られる詩「道程」を女川一中3年平塚功竜さんが読み上げた。
 主催の「女川・光太郎の会」は3月、県から「住みよいみやぎづくり功績賞」を受けた。須田勘太郎会長は「(朗読を聞きながら)光太郎さんが旅した90年以上前の女川を想像してほしい」とあいさつした。
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一読して「あれ、こんだけ?」と思いました。というのは、記者氏に捕まって、これまでのいきさつや光太郎文学碑などについてあれこれ質問を受けたのですが、その内容が反映されていないためです。「ま、他にニュースが多くて紙面を割けなかったんだろう」と思っておりました。

ところがあにはからんや、前日の8月18日(月)、同紙の一面コラムで詳しく紹介されていました。

河北春秋

「牡鹿半島のつけ根のぎゅっとくびれて取れ相(そう)な処(ところ)、その外側の湾内に女川がある」。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が1931年に著した紀行文『三陸廻(めぐ)り』の一節だ▼取材旅行では宮城の石巻、気仙沼、岩手の釜石、宮古などを巡った。立ち寄った宮城県女川町では顕彰活動が続いている。91年には、町民有志が詩などを刻んだ3基の文学碑を海岸に建てた。毎年8月9日、県内外の人が紀行文や詩を朗読する光太郎祭は今年、34回を数えた▼幾多の試練があった。活動の中心だった女川の画家貝広さんは、東日本大震災の津波で亡くなった。碑は流され、一つが見つかっていない▼「町が夜になると急に立ち上がる。ただ海から来た人々への夜の饗宴(きょうえん)の為(ため)にのみあるかと思う程、此(こ)の小さな町が一斉に一個の盛り場となる」「極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている」。紀行文は町民にかつての隆盛を思い起こさせ、気概と誇りを与えた▼主催する「女川・光太郎の会」は3月、県の「住みよいみやぎづくり功績賞」を受けた。しかし、会員は年を重ね負担は小さくないという。光太郎は他者を魅了する女川の自然や気風に着目し、広く発信した。後世に手渡していきたい文学イベントである。(2025・8・18)

最後の一節を読み、当会の祖・草野心平が昭和21年(1946)に書いた「一つの韻律」という文章を連想しました。これは岩手花巻で現在も続く宮沢賢忌日の集いである「賢治祭」に初めて参加しての感想を綴ったものです。

その一節。

 文学者に限らず色んな人々の碑や銅像が全国でならば相当の数にのぼるだろうが、毎年休むことなくこうした催しがそれらの前で行われているということは、賢治祭を除いては恐らく一つもないであろうと、しかも参列者は近郷近在ばかりではないのである。村や町の鎮守の祭とかお盆の行事とかいうように、この催しはもう極く自然に続いて行くだろうし、続けられてゆくことを心から私も希わずにはいられなかつた。

昭和21年(1946)当時ではまさにそういう状況だったのでしょう。その後、こうした個人顕彰の催しはどんどん増えていったと思われます。当会主催の連翹忌の集いもその一つですし、女川光太郎祭も。しかし、中には一時華々しく行われていたものの、無くなってしまったというものもあるでしょう。光太郎関連でも、5月15日に花巻郊外旧太田村の光太郎が蟄居していた山小屋の敷地で行われていた「高村祭」などがそうです(「高村祭」は何とか形を変えてでも復活させたいという機運がありますが)。

やはりそれが「村や町の鎮守の祭とかお盆の行事とかいうように、この催しはもう極く自然に続いて」いたのかどうかというところに、残っているか残らなかったか、または復活させようという意見が出るか出ないかの分かれ目があるように感じます。

「河北春秋」にあるとおり、女川光太郎祭は「後世に手渡していきたい」ものだと改めて感じました。

【折々のことば・光太郎】

到る処に違つた時代の傑作がある。……が同じ愛によつて皆一つに寄る。皆結びつけられてゐる。

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

優れた芸術は時代を越えて愛される、ということが言いたいのでしょう。しかし、当会顧問であらせられた北川太一先生曰く「どんなに優れた芸術でも、後の時代の人々が次の世代へと受け継いでいく努力を怠れば、あっという間に歴史の波の中に呑み込まれてしまう」。実際、そういう例も少なからずありますね。そこで当方、光太郎智恵子らの芸術がそうならないよう、語り継ぐ努力を惜しまぬ所存です。

智恵子の故郷、福島二本松でのイベントです。「二本松市合併20周年記念冠事業」の一環とのこと。

にほんまつ本の市2025

期 日 : 2025年8月30日(土)
会 場 : にほんまつ城報館 福島県二本松市郭内3丁目303−5
時 間 : 10時00分~16時00分 
料 金 : 無料

「本とたわむれる」をテーマに開催する古本市・本にまつわるワークショップなどの1日限りの本のテーマパークです。
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約20店舗が出店する古書市ですが、秋田市からいらっしゃる灯書房さんという古書店さんが、「大人だって読みたい、大人の絵本と高村光太郎の智恵子抄を特設します。」と謳われています。
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タイトルに「智恵子抄」と関した詩集はオリジナルの龍星閣版、白玉書房版、龍星閣の戦後復元版、新潮文庫版などたくさんありますし(それが不幸な「智恵子抄裁判」の元になってしまったのですが……)、智恵子の評伝、研究書、智恵子を主人公とした小説、紙絵の画集など、さまざまな書籍が刊行されています。まるまる一冊ではなく部分的に、というものを含めれば優に百を超えるでしょう。「特設」ということで、それらが並ぶのではないかと思われます。

当方の知る限りでは二本松市内にいわゆる古本屋はありません(ブックオフ系は除く)。良い機会ですのでぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

美は、空気と同じく只である。静かな大地、騒がしい大地、花の咲いた大地、骨を出してゐる大地、季節、動物、花、都会の群集、乗合馬車、船、汽車の中で見る立派な肖像、到る処で、芸術家よ、美は君の美に対する飢渇を医すものを発見する。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

こうしたロダンの主張を受け、後世、光太郎は「美ならざるなし」「乾坤美に満つ」「うつくしきもの満つ」といった短句を好んで揮毫しました。

栃木県から演劇公演の情報です。

「智恵子抄」より

期 日 : 2025年8月30日(土)・8月31日(日)
会 場 : アトリエほんまる 栃木県宇都宮市本丸町1-39
時 間 : 両日とも 11:00- / 17:00
料 金 : 一般 1,500円 U22 1,000円 2回目以降のご観劇は500円引きになります。

劇団 言葉借り とは。できないことばっかりな主宰小鳥遊ばんりが言葉を借りて、力を借りて、演劇を作る集団。

第一回公演となる本公演は、高村光太郎の「智恵子抄」の言葉をお借りします。

ことば 高村光太郎  構成 小鳥遊ばんり  配役 女:井森春 男: 渡邊滉太
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二人芝居のようですが、配役は「光太郎」「智恵子」ではなく、「男」と「女」。先にクレジットされている「女」がメインなのでしょう。固有名詞が与えられていないことから、特定の人物の日常ではなく、「智恵子抄」をモチーフとした普遍的な女と男の物語とでもいったところでしょうか。

また、フライヤー裏面下部に、ちょっと気になる記述。「アイマスク着用のご提案」だそうで、「より言葉を純粋に楽しんでいただく鑑賞方法として、アイマスクを着用しての鑑賞をお勧めいたします」とのこと。「へぇー」という感じです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

現在を過去に結び合せる事は必要である。此事は活きてゐる者に智慧と幸福とを持ち来す。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

いわゆる「温故知新」ということにも繋がるでしょうか。芸術の制作にもあてはまるでしょうし、人の生きざまといった部分にも繋がるような気がします。光太郎智恵子のように、激動の時代に「生」の在り方を試行錯誤した人々のそれは、特に、です。結局智恵子は刀折れ矢尽き、光太郎は何度もつまづいては転び、そのたび立ち上がっては反省して方向転換し、しかし時には誤った道に踏み惑い……。そうした生きざまから我々も学ぶべきことが多々あるはずですね。

ひさびさにテレビ番組の放映情報です。

まず再放送ですが、新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展が取り上げられています。

日曜美術館 アートシーン「難波田龍起」展

NHK Eテレ 2025年8月24日(日) 20:45~21:00

「難波田龍起」(東京オペラシティアートギャラリー 7月11日〜10月2日)ほか展覧会情報


NHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。初回放映が8月17日(日)の朝でした。
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本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住み、光太郎の影響で芸術家となった難波田ですので、番組内でも光太郎の名が連呼されました。ありがたし。
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光太郎がロダンから学んだ「生命」の芸術は、難波田ら後進の芸術家にも受け継がれていった、と。

番組をご覧の上、展覧会そのものにもぜひ足をお運び下さい。

もう1件、やはり再放送系ですが。

わたしの芸術劇場 #21「小平市平櫛田中彫刻美術館(東京都小平市)」

BS11(イレブン) 2025年8月23日(土) 10時35分~11時00分

「美術館」をちょっと堅苦しい場所だと思っている方々へ送る番組。

学芸員の方々が見せ方を工夫したり、今までにないテーマで企画展を開催したり、並々ならぬ苦労と最高のセンスで展示している。そんな美術館を「芸術を体験できる劇場」として捉え、舞台を鑑賞しているようなわくわくした気持ちにしてくれる番組。番組を見た後は、きっと美術館に足を運び、芸術に浸りたくなること間違いなし。

今回の舞台は、「小平市平櫛田中彫刻美術館」。明治生まれの木工彫刻を得意とした平櫛田中は、岡山県の田中家に生まれ10歳で平櫛家の養子となり、実家の田中と養家の平櫛、両方の姓を用いて「平櫛田中(ひらくし でんちゅう)」と名乗る。22年の歳月をかけて制作した国立劇場の《鏡獅子》で、田中の集大成を見ることができるが、107年の生涯で亡くなる直前まで作品を作り続けた。100 歳を超えてもなお創作意欲がつきなかった平櫛田中に、大きな拍手を!

出演:片桐仁

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光太郎の父・光雲の弟子にあたる平櫛田中の旧居跡に建てられた小平市平櫛田中彫刻美術館さんが舞台です。当方もいろいろお世話になっている学芸員の藤井明氏もご出演。

この番組、元々はTOKYO MXテレビさんで放映されていたもので、当該回は令和4年(2022)5月20日が初回放映でした。

ちなみにTOKYO MXさんで令和3年(2021)3月、BS11さんで先月放映された中村屋サロン美術館さんの回では、同館所蔵の光太郎の油彩自画像(大正2年=1913)も取り上げて下さいました。
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今回もちらっとでいいので田中の師・光雲の話になればと思っております。

もう1件。5分間番組で、微妙なところですが紹介しておきます。

国立公園の絶景 5分ミニ(2)

NHK BS 2025年8月27日 00:55〜01:00

国立公園の絶景5分ミニ(2)雲仙天草・大山隠岐・十和田八幡平


5分間で3箇所の国立公園が紹介されます。ちらっとでも光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が映るといいのですが……。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

諸君は、今日の人々が意味する「独創(オリジナル)」とは何をか知つてゐるか。其は「類から離れる事(デパレイエ)」である。

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「独創(オリジナル)」とそれまでの「類」との格闘、芸術家にとって永遠の課題の一つですね。

花巻ネタが続きまして、本日もです。

毎月15日に
道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。メニュー考案をなさっているのは主に食を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんです。

今月分の画像がこちら。
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「牛かつ」、「鰹の南蛮漬け」、「かぼちゃの甘煮」、「茄子の揚げ浸し」、「きゅうりの佃煮」、「卵焼き」、「豆おこわ」、「白六穀ご飯」、「干し柿入り甘酒ゼリー」。

基本的には光太郎が自分で調理したメニューや、使った食材を参考に現代風にアレンジしたものです。

同様のメニュー考案の方法で、調理までやつかの森さんが担当し、市内東和町のワンデイシェフの大食堂さんでランチタイムに饗される「こうたろうカフェ」が、今月29日(金)です。「ハーブのパリパリグリルチキン」「焼き茄子の香味たれ」「オクラと卵の寒天寄せ」「じゃが芋とトマトのバター煮」「サーモンサラダ」「お漬物」「ご飯」「モロヘイヤスープ」「スフレフロマージュ」「コーヒー」だそうで。

ぜひ足をお運び、ご賞味下さい。

【折々のことば・光太郎】

何といふ良い友だらう、野菜の如きは! サラダにしろ、セロリにしろ、此等のものが何で「装飾用」植物よりも美しくないか。

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

自然の造型美についての言ですが、実際に野菜類を自給するようになった戦後の光太郎、もしかするとかつて自分で翻訳したこのロダンの言葉を思い浮かべていたかもしれません。
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昨日に続き、光太郎第二の故郷・岩手花巻からの情報を。今月15日発行の『広報はなまき』。同誌は基本的に1日と15日、月2回の発行で、15日の発行分に為されている連載「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」で、花巻高村光太郎記念館さんで開催されている特別展中原綾子への手紙」関連で、光太郎から歌人の中原綾子に宛てた葉書が取り上げられています。ちなみに同欄の昨年9月15日号掲載分には綾子主宰の雑誌『スバル』に寄稿したエッセイ「みちのく便り」の草稿が紹介されました。
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発信の日付は昭和26年(1951)7月1日。文面は以下の通りです。
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 今日阿部三夫さんからのハガキに
 よりますと七月に御来訪の
 おつもりといふ事ですが、山ももう
 夏の季節となり、相当に暑い日も
 ありますので、二ツ堰からの御徒歩は
 無理かと存ぜられますし、二ツ堰のあの
 運送屋さんは今病気をしてゐて、
 お供もできない次第、 時候のよい時
 までおのばしになつた方がよくは
 ないかと考へられますので此事一寸
 申上げます。 小生打身の方は全治、
 神経痛は少〻残つてゐますが減退しました。

当時、綾子は雑誌『スバル』(第3次)を主宰しており、「阿部三夫」はその編集等に当たっていた人物のようです。原稿の受け渡しなどの用事もあったのか、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を何度か訪れてもいます。

この葉書の翌月の8月21日にも。その日の光太郎日記には「阿部三夫氏と友人一人来訪、ビール4本つまみものをもらふ、詩や歌の朗読をきく、三時辞去。」とあります。

また、前年9月に綾子に送った葉書にも、阿部の来訪の様子が。003

 今朝スバルの阿部三夫さんが友達
 と一緒に来訪、 お名刺の紹介と
 委托のビール五本とを拝受しまし
 た。早速三人でビール三本をいただ
 き、時ならぬ山の会飲をいたし
 ました。阿部氏は自作詩朗読、
 尚浜離宮での写真も拝見し
 ました、ここでお弁当をつかひ、
 正午少し過ぎに辞去されました、
 スバル表紙の事について阿部氏に
 御伝言をたのみましたから、いづれ
 お話あることと存じます。

残念ながら昭和24年(1949)、25年(1950)の光太郎日記は大半が失われており、この時の様子は日記で確認できません。

26年7月1日の葉書では、綾子自身も光太郎の山小屋を訪問したいという旨を阿部から伝えられたと書かれ、しかし今は暑い最中(さなか)、もう少し涼しくなってから、的な返答をしました。

それを受けて綾子の訪問は9月14日・15日に為されました。この件についての光太郎日記。

 午前花巻にゆかうとしてゐる時、中原綾子さん突然来訪。ダツトサンで来た由。花巻行を中止、中原さん今夜田頭さんに泊る事になり、夕方まで談話。いろんな食品をもらふ。開拓の方を案内し、夕方田頭さんにゆかれる(9月14日)

 十二時頃中原さんくる、午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。四時迎ひの自動車来る。中原さん辞去。台温泉泊りの由。(略)中原さん持参の食パン美味、中原さん一年の間に大層年よりじみ、皺など目立つ。胃酸過多といふ。そのためか。顔いろもあし。(9月15日)


「一年の間に大層年よりじみ」とある通り、前年11月にも山小屋を訪問していました。「田頭さん」は屋号で、元太田村長の高橋雅郎宅、「台温泉」は大田村同様、のちに花巻市に編入された湯本村の鄙びた温泉地です。光太郎も何度か宿泊に訪れています。

2回の訪問それぞれの折に、歌人だった綾子は短歌を詠んでいます。

2度目の訪問時のもの。

  奥州街道を行く

 先生の小屋の屋根見ゆ萩すすき 野菊なんどは踏みしだき急ぐ

 すこやかに師おはしまし自在鉤につもれる煤の厚くなり居り

 しぐれかとたちいでて見ればひと叢(むら)のやつかの梢(うれ)を渡る風なり

 みちのくの清水(きよみず)の野に人と見し一世一代の仲秋の月

 さしわたし二(に)千里(せんり)と見る暈(かさ)を着て月の占めたる空ひろし広し

  台温泉にて

 ないしよごとするがやうにも一人来て山の温泉(いでゆ)におくる夜昼

 花巻を過ぎてまた入る山の道太田村とは方角遠(ちが)ふ

 そつとしておきたき心にかかはり無し田舎芸者は広間で騒ぐ

 東京へ帰りたくなきしたごころ相手のあらば心中もせむ

最初の訪問時、さらに昭和31年(1956)4月2日の光太郎逝去時のものなどと併せ、綾子歌集『閻浮提(えんぶだい)』(昭和35年=1960)に収められました。

今回『広報はなまき』で紹介された葉書、綾子歌集『閻浮提』、そして光太郎日記で「新小屋にて色紙五枚揮毫」とあるうちの一枚(「観自在こそ……」)、特別展「中原綾子への手紙」で花巻高村光太郎記念館さんにて展示中です。ぜひ足をお運びの上、実物をご覧下さい。
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【折々のことば・光太郎】

単純は完全である。貧寒は無能である。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

ごてごてとした余計なものをそぎ落とした理想的な「単純」と、「単純」を目指しつつしかし実は中身の乏しい「貧寒」とは似て非なり、ということでしょう。

光太郎第二の故郷・花巻の高村光太郎記念館さんで開催中の「智恵子のエプロン復刻展示」について、2紙が報道して下さっています。

まず『読売新聞』さん、岩手版。

智恵子のエプロン再現 高村光太郎の妻 花巻南高 華やか更紗「酒袋」使用

001 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)の妻・智恵子がデザインし、実際に使っていたエプロンを、県立花巻南高の家庭クラブが再現し、新たに制作した。21日まで、花巻市太田の高村光太郎記念館で展示されている。
 エプロンは、雑誌「婦人之友」の第18巻第7号(1924年7月)で取り上げられた。編集者が光太郎宅を訪れた時、智恵子が「面白い前掛」をしていたと紹介。「厚地の渋い茶色に印度更紗(いんどさらさ)を取り合わせてある、めずらしい形」として、作り方も添えられていた。
 胸当て部分は三角形で、中央に大きなポケットがある。布には酒を搾る時に使った「酒袋」が使われており、智恵子の実家である福島県内の造り酒屋から持ち帰ったとされる。
 製作のきっかけは、一昨年に同館で行われた小山弘明さん(高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会代表)の講演。小山さんが記事を紹介し、「誰か作ってくれないかな」と話したところ、聴いていた同校文芸部の生徒が、別の部活動の家庭クラブに相談し、実現した。
 同クラブの生徒たちは、小山さんの協力を得て、雑誌にあった素材や型紙を参考に製作。酒袋はなかなか見つからず、インターネットで探して入手したという。同クラブの小原優羽奈さん(2年)は「難しいデザインではなかったが、酒袋が硬くてミシンの針が折れた」と明かす。色華やかな紋様があしらわれた更紗が部分的に使われており、菅原美優さん(同)も「今でも通用するデザイン。身近にあった酒袋を使うなど、自然を大事にした智恵子の暮らしを感じた」と振り返る。
 智恵子といえば、光太郎の詩集「智恵子抄」にある「智恵子は東京に空が無いといふ(あどけない話)」が知られているが、小山さんは「大正末は、まだ女性は和装が中心と思われ、エプロンからは画家を目指した智恵子のクリエイティブな一面が感じられる」と話す。


続いて地元紙「岩手日日」さん。

智恵子のエプロン 生徒が復刻 高村光太郎記念館で展示

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、ミニギャラリー「智恵子のエプロン復刻展示」が開かれている。花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)の妻智恵子がデザインし、実際に使用していたエプロンを県立花巻南高校家庭クラブの生徒が復刻。制作過程などと合わせて紹介している。21日まで。
 智恵子は、1886年に福島県二本松市の酒造家長沼家に生まれ、日本女子大学校卒業後、画家・芸術家として活躍。女性運動家・平塚らいてうの「青鞜」の表紙を描いたことで知られる。1914年に29歳で光太郎と結婚し、38年に53歳で病没した。
 復刻は、2023年に同校文芸部の生徒が高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会代表の小山弘明氏による講座を聴講したことがきっかけ。「高村夫妻が理想とした暮らしの様子を具体的に思い浮かべたい」と同高家庭クラブへ制作を依頼した。
 高村夫妻が寄稿していた雑誌「婦人之友」には、智恵子がデザインしたエプロンの図案が残っており、同クラブの小原優羽奈さんと菅原美優さん(ともに2年)が掲載されていた作り方や素材、型紙などを参考に制作。実際のエプロンと同じ「酒袋」を再利用した。
 2人によると、エプロンの制作には、構想を含めて約1ヶ月かかった。また、同クラブや文芸部の生徒は、光太郎が愛用した「キョウケチ染め」のしおりを手作り。4日に同館を訪れ、来館者にプレゼントした。
 小原さんは、「展示を通じてより光太郎と智恵子の暮らしぶりについても知ってもらいたい、菅原さんは「展示を見て2人を知ってもらい、自分でも調べて考えてもらえたらいい」とそれぞれ語った。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入館料は一般350円、高校生・大学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。
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ちなみに同校のサイトにも高村光太郎記念館さんでの展示を行っている旨の記事が出ています。
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展示は明後日まで。もう少し長期間でもいいような気もしますが、おそらく月末には同校の文化祭「花南祭」が開催されるので、その関係ではないかと思われます。

現在、復刻されているのは一点のみ。そこでその一点が、今年4月から5月にかけては、「高村智恵子生誕祭」に合わせて福島県二本松市の智恵子記念館で展示され(下記画像)、先月から明後日にかけては花巻高村光太郎記念館さんでの展示。
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出来うることならもう1~2点作っていただければ、両館での常設展示と言うことも考えられなくはありませんね。

型紙も大正期の『婦人之友』に掲載されましたので、そちらを使っていただければスキルのある方なら制作可能。大量生産で商品化ということも夢物語ではないかもしれません。ご興味おありのかた、ご一考を。

【折々のことば・光太郎】

「叡智」を地(ぢ)(背景)にした「精神」。


光太郎訳ロダン「断片」から 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

光太郎の心の師・ロダンの目指す「創造」を為すための心の在り方です。

無理くりですが、秀逸なデザインを持つ智恵子のエプロンなども、「叡智」を背景としているように思えます。このポテンシャルが油絵の方面でも存分に発揮できていれば、後の悲劇は訪れなかったのに……と思われます。

8月16日(土)、御茶ノ水で「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」を拝聴する前、竹橋の東京国立近代美術館さんに立ち寄りました。こちらで先月から開催されている企画展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」に光太郎がらみの出品物があると、SNSで知ったためです。
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同館公式サイトでは「戦争記録画を含む当館のコレクションを中心に他機関からの借用を加えた計280点の作品・資料で構成される本展覧会」と謳われています。
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お盆中でもなかなかの入りでした。
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基本的には絵画がメイン。
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「アッツ島玉砕」など、以前にも特集展示的な感じで複数並べられた、東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生だった藤田嗣治作品がやはり目をひきました。
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他に梅原龍三郎、猪熊弦一郎など光太郎と交流のあった面々の作品も。
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かの丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」も。
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それらをただ並べてあるだけでなく、いろいろと工夫も。たとえば従軍画家として作曲家の古関裕而と共にミャンマー入りした向井潤吉の場合、戦争画と有名な戦後の民家シリーズの作品とを並べ、一つの文脈で捉えるなど。
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こんな作品も。一見、単なる婦人像に見えますが、よく見ると縫っているのは千人針です。
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その他、プロパガンダ系のポスターなど。
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「現在でも自民党本部に貼ってあるんじゃないの?」というようなものも。ここまでは上の方に画像を貼っておいた出品目録に掲載されているものです。

これら以外に、展示ケースをふんだんに使い、出版物等の展示も充実。昨年、同館で開催された「ハニワと土偶の近代」展と似たような感じだなと思いました。美術館としてこういう展示の方法は、なかなか勇気の要ることだと思います。
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この流れの中に、光太郎の翼賛詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)が展示されていました。
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過日もご紹介した「十二月八日」のページを開いての展示でした。
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同じ並びには日本放送協会(現・NHK)編の『愛国詩集』、大政翼賛会編の『翼賛詩歌』第一輯。共に光太郎の翼賛詩が収められたアンソロジーです。前者には「彼等を撃つ」(昭和17年=1942)「シンガポール陥落」(同)後者には「必死の時」(昭和16年=1941)が掲載されています。
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戦後の出版物も。やはり「ハニワと土偶の近代」展同様、サブカルチャー的なものも積極的に。

水木しげるの『総員玉砕せよ!!』。
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中沢啓治「はだしのゲン」。単行本ではなく、初出掲載誌の『週刊少年ジャンプ』、『市民』が展示され、より生々しい感じです。
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圧倒される展示でした。

続いて階上の常設展示的な「所蔵作品展 MOMATコレクション」。光太郎のブロンズ「手」などがよく出ているのですが、現在は光太郎作品はお休み中でした。

光太郎の親友・碌山荻原守衛の「女」は出ていました。
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その他、いろいろ名品が並ぶ中、階下の「記録をひらく 記憶をつむぐ」とリンクさせる意図もあるのでしょうか、やはり戦争画的なものも多かったように感じました。
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光太郎智恵子と交流のあった津田青楓の「叛逆者」。これなども「記録をひらく 記憶をつむぐ」と併せて見ることで、違った見え方になるような気がしました。
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館を出て、「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」までまだ余裕がありましたので、近くの戦争遺跡を見に。元々、時間があればそうするつもりでした。北の丸公園に、皇居防衛のために設置された「九八式高射関砲」の台座が遺されています。下記画像は国民公園協会さんのサイトから。
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スマホの地図アプリと連動した「道案内」的なサイトが用意されていまして、その通りに歩きました。都心のさらにど真ん中とは思えないような緑陰で、実にいい感じでした。
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しかし、そのサイトが超頓珍漢でして、全然何もない場所に案内されてしまいました。近くをさんざん探しましたが、ありません。慌てて他のサイトに当たってみると、正しくは全く離れた場所だということがわかりました。この手の道案内アプリ、時々こういうことがあるんですが、なぜなのでしょう?

結局断念し、御茶ノ水に向かいました。残念でした。

代わりというと何ですが、さらに前日に足を運んだ戦争遺跡の画像を。場所は当会事務所兼自宅のある千葉県香取市に隣接する旭市です。同市には千葉県立図書館の分館があり、そちらで調べもののついでに立ち寄りました。
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戦時中に香取海軍航空隊の基地があった場所で、空襲などの際に敵機から自機を隠すための掩体壕(えんたいごう)です。
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鎌数伊勢大神宮さんという神社の近く。同社の第二駐車場から徒歩数分です。先月、花巻で見た戦争遺跡同様、粛然とした気持にさせられました。

この手の掩体壕はさらに南の匝瑳市や、北に位置する茨城県鹿嶋市にも現存しています。鹿嶋市のものは以前に行きましたが、特攻兵器・桜花を収納するためのもので、桜花のレプリカも展示されていました。

終戦から80年。こういうものがまた必要になる時代に二度としてはならない、と、改めて思います。

【折々のことば・光太郎】

彫刻に於ける、あらゆる側面からの描形(デツサン)。此が魂を石に下降させ得る呪(まじなひ)である。


光太郎訳ロダン「断片」から 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

不謹慎のような気がしないでもありませんが、上記掩体壕のコンクリートの造型を見て、彫刻的な美しさを感じてしまいました。

昨日は上京しておりました。メインの目的は、講談「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」の拝聴でした。

会場は御茶ノ水のスカイルーム太陽さん。すぐ近くにはニコライ堂さん。
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真打・一龍斎貞橘さんがメインで、午前中から3部に分けての公演。3部それぞれに「助演」ということで、田辺いちかさん、神田伊織さん、そして一龍斎貞奈さんと、二ツ目の方々がワキを固めました。さらに当方が拝聴した第3部では前座(来月二ツ目に昇進されるそうですが)の宝井小琴さん。
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第1部から通しで聴かれた方もいらしたそうですが、当方は第3部のみ拝聴。助演の一龍斎貞奈さんがオリジナルの新作「高村智恵子の恋」を演じられるということで。

初演は8月9日(土)、日本橋社会教育会館で開催された「一龍斎貞奈 入門10周年記念公演〜昭和100年特集〜」でしたが、その際は当方、宮城県女川町での第34回女川光太郎祭に参列しておりまして、聴けませんでした。で、「再演してくれないかな」と思っておりましたところ、さっそく再演。「これはありがたい」と、馳せ参じた次第です。

ちなみに帰ってから調べましたところ、貞奈さん、午前中にも向島の墨亭さんという寄席で「高村智恵子の恋」を演じられていたそうで、そのパワフルさには驚きました。
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もう一つ「ありゃま」がありまして、「夏の太陽講談会」の方、日比谷松本楼さんでの今年の第69回連翹忌の集い、それから先月、中野区の産業振興センターさんで開催した「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」で、「智恵子抄」からの朗読をしていただいたフリーアナウンサーの早見英里子さんもいらっしゃり、隣に座らせていただきました。

さて、開演。

まずは宝井小琴さんによる新作、江戸川乱歩の「黄金の塔」。お馴染み名探偵・明智小五郎や少年探偵団の小林少年と、怪人二十面相との知恵比べ。こういうものも講談のモチーフになるんだ、という感じでした。

続いて一龍斎貞橘さん。演目は「一心太助~楓の皿」。もはや若い皆さんには「ご存じ一心太助」とは言えないでしょうが、太助が魚屋となるまでの顛末。貞橘師匠はこの後の「高村智恵子の恋」の後の大トリで、正統派の「源平盛衰記」から採った「宇治川の先陣争い」も演じられました。意味がぱっと解りにくい古典の文章も、声に出して読むことで非常にリズミカルに聞こえ、細かな意味まで解らなくともそれでいいのだろう、という感じでした。

そして貞奈さんによる「高村智恵子の恋」。

元々、野田秀樹氏脚本・大竹しのぶさん主演の「売り言葉」をご覧になっての着想だそうで、「光太郎の妻」という刺身のツマ扱いではなく、自らの信念に従って自分の足で立とうとする女性であった智恵子を描こうという意図が充ち満ちていました。しかし、智恵子の前にさまざまな困難が立ちはだかってなかなか思うように行かず、それでもへこたれることなく……というわけで。

智恵子の評伝等の類にもあたられてかなり勉強されたようで、感心いたしました。冒頭近くに智恵子の福島高等女学校時代の同級生・大熊ヤスが登場したり(二人の福島弁での掛け合いがユーモラスでした(笑))、この手の二次創作ではほとんど扱われない宮崎与平・渡辺文子との三角関係(光太郎と知り合う前の)なども紹介されたりと。それらや、日本女子大学校での一年先輩・平塚らいてうとのテニス勝負の場面、光太郎と知り合ってからも、駒込林町のアトリエ竣工祝いにグロキシニアの鉢植えを持って行くシーンなどなど、高座卓から身を乗り出さんばかりの熱演。

余談ですが、当会事務所兼自宅のグロキシニア、まだ花を咲かせ続けています。
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そして、連翹忌会場ともさせていただいている日比谷松本楼さん、智恵子が光太郎を追って行った犬吠埼等々のエピソードへと進み、大正3年(1914)の二人の結婚まで。およそ40分程の構成でした。

終演後、早見さんともども、既にお着替えを終えられた貞奈さんと少しお話をさせていただきました。
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その後の光太郎智恵子の、俗世間とは極力交渉を絶って「都会のまんなかに蟄居した」というような生活、智恵子の心の病、そして死、さらに詩集『智恵子抄』といったあたりについては、続編として「高村智恵子の」ならぬ「高村智恵子の」として構想中だそうです。期待大ですね。
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関係の皆さんの、今後のますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

叡智は描形(デシネ)する。が肉づけするのは心だ。

光太郎訳ロダン「断片」から 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「描形」は構想、「肉づけ」が実際の制作という意味でしょうか。どんなに頭を使って構想を練ってもそれだけでは不十分だし、実作する過程でいろいろなものが付け足されたり、逆に不要なものが削り取られたり、そういうものだというロダンの信念でしょう。

造型芸術に限らず、文学や音楽、講談なども含めた舞台芸術等にも言えることだと思います。

智恵子の故郷、福島県二本松市が主催です。

第30回智恵子のふるさと小学生紙絵コンクールの作品を募集します

 高村智恵子のふるさとである二本松市では、「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」を実施し、福島県内および岩手県花巻市の小学生による紙絵作品を募集します。
 子どもたちの美意識と創造性・独創性の一層の育成を図るとともに、二本松市が生んだ芸術家「高村智恵子」をさらに顕彰していただき、あわせて地域の文化振興に寄与することを目的とします。
 今年度、本コンクールは開催第30回目の節目を迎えることから、特別賞「特別智恵子大賞」を設けます。

募集対象 福島県内および岩手県花巻市の各小学校に在学中の児童 
     ※義務教育学校を含みます。
募集部門 小学1年生の部から6年生の部まで6部門
応募規定 応募点数 ひとり1点とします。
作品規格 「画用紙」四ツ切サイズ(380ミリメートル×540ミリメートル)。
     ※規格外の作品は、審査の対象となりません。
表現・作成方法 テーマは自由です。
紙(材質・種類・色などは自由)を切り取り(ハサミ・カッター・ちぎり取るなど何でも自由)、ノリで上記の画用紙等に貼り付けてください。貼り付けてからの絵の具などでの着色も構いません。縦横は自由とします。
(注)次の作品は受け付けられませんので、お送りにならないようお願いいたします。
 ・作品規格に合わない作品
 ・輸送途中に形態が変わったり、紙が剥がれてしまう作品
応募期間 令和7年8月22日から9月5日まで※必着
応募方法
・「応募票」をダウンロードし、必要事項を記入の上、作品裏面の左下に貼付してください。また、作品を所属する学校単位でまとめ、「応募一覧表」をダウンロードし、必要事項を記入の上、ともに下記の送付先に送付してください。
・原則、学校単位での募集としますが、学校にて取りまとめができず個人での応募となる場合は、「応募票」をダウンロードし、必要事項を記入の上、作品裏面の左下に貼付後、下記の送付先に送付してください。応募者の氏名等の間違いがないようご確認ください。詳細は、下部のチラシをご覧ください。

送付先 〒964-8601二本松市金色403-1 二本松市教育委員会文化課 小学生紙絵コンクール係

その他
応募作品は、 他のコンクール等に出品していない作品、かつ著作権、商標権、肖像権等第三者の権利を侵害しないものに限ります。
入賞作品も含めて、応募いただいた作品は返却いたします。
入賞作品の使用権は 、主催者に帰属します。
入賞作品は、展覧会・報道・ 広報 ・ 市ウェブサイト等にて作品、氏名 、学校名、学年を公表させていただきます 。
005
たまたま展示が為されている時期に二本松に行く機会があった場合に、入賞作品群を拝見したことが何度かありました。
 第23回(平成30年=2018)  第24回(令和元年=2019)  第27回(令和4年=2022)

ちぎり絵がほとんどでしたが、時折、智恵子同様、ハサミで紙を切っての切り絵的な手法での作品も入賞しています。

006ちなみに「紙絵」という呼称は光太郎の提唱によって定着しました。昭和26年(1951)6月4日~10日、銀座の資生堂ギャラリーで開催された「高村智恵子紙絵展覧会」の際からで、それまでは「切抜絵」などと称していました。詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)に収められた散文(昭和14年=1939)のタイトルも「智恵子の切抜絵」でした。

「高村智恵子紙絵展覧会」の簡易図録に収められた美術評論家・土方定一の後書き的な文章。

 この展覧会を催すことになつたとき、これらの作品を切抜き絵とするかどうか話しあつた。折よく中央公論社の松下さんが高村さんのところに行かれるときであつたので聞いてもらつたところ、紙絵というジャンルが油絵というようにあつていいだろう、ということであつた。それで紙絵展とした。

なるほど。

さて、紙絵コンクール。これが児童の皆さんに光太郎智恵子へ興味を持つ一つのきっかけとなってもあらえれば、と存じます。また、応募対象が限定されていますが、たくさんのふるっての応募を期待したいところです。今回は30回記念で「特別智恵子大賞」が授与されるそうですし。

【折々のことば・光太郎】

人間の天才力は穹窿の創造に勝ち誇つてゐる。何処から此の穹窿は来たのだらう。虹から、多分。

光太郎訳ロダン「本寺別記」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「穹窿」は「きゅうりゅう」と読み、本来は大空の意ですが、ここでは本寺(ノートルダム大聖堂)内部のヴォールト(アーチを平行に押し出したかまぼこ型の形状を特徴とする天井様式)を指します。

本当に美しい造型を見た時の舌を巻くような感覚、また、それを感受出来る感性を持つことの大切さ、そういったことを教えてくれる一節ですね。

今年も8月15日が巡ってきました。

特に今年は終戦から80周年ということで、その関係の報道やテレビ番組放映等が多く為されているように感じます。各種メディアの中には、戦時中に軍部や大政翼賛会に加担してしまった反省という視点からのものも多く見うけられています。

そんなこんなで『沖縄タイムス』さん、一昨日の記事。戦時中のメディアや光太郎らの文学作品等の状況、現代におけるそれらの受容の在り方、そして新たな作品までが論じられています。

[混沌の先に 戦後80年 戦争と表現]戦争に向き合い表現模索 小説書き忘却にあらがう 作家の豊永・砂川さん 大きな歴史 自分の言葉に

005 文学や映像などの表現者は、争いが絶えないこの世界とどう向き合おうとしているのか。抵抗の手段となる一方で加担することもある「もろ刃の剣」。戦争を巡る過去を引き寄せ、今を生きる「私」とつなぐ表現を模索する人たちの姿を追う。

 遠くに青い海が輝き、視線を横に向けると広大な土地を占める米軍普天間飛行場が目に入る-。沖縄戦の激戦地だった宜野湾市の嘉数高台公園。日本軍の組織的戦闘が終結したとされる6月23日の「慰霊の日」の前日、学生時代よく訪れたこの場所に足を運んだ豊永浩平さん(22)は「小説を書くことで歴史とつながり、忘却にあらがいたい」と決意を新たにした。
 豊永さんは、沖縄戦を描いた小説「月(ちち)ぬ走(は)いや、馬(うんま)ぬ走(は)い」で、昨年の群像新人文学賞と野間文芸新人賞を受賞した注目の新鋭作家だ。
 受賞作は沖縄戦からの約80年の歳月をさまざまな人の語りによってつづった物語。日本軍兵士の残虐な行為から、現代の若者らが直面する貧困や暴力までが「根っこ」でつながる様を浮かび上がらせた。沖縄戦だけでなく、その後の米軍統治、復帰後も続く基地負担などの矛盾を描き出してきた「沖縄文学」の系譜にも連なる作品だ。
 沖縄で生まれ育ち、基地や戦跡などはずっと身近にあったもの。しかし、過去の記憶と自分たち若い世代が「接続していない」感覚を持ち続けてきたという。本格的に小説を書くようになったのは地元の琉球大に進学してから。「沖縄で物語を書く者として、過去の戦争を避けては通れない」との思いがあった。
 6月に那覇市で開かれたトークイベント。ウクライナやガザなどで続く戦争も念頭に、豊永さんは「おじいやおばあが生きた時代を、どうすれば捉えられるのか。自分たちの(世代の)側から80年前の過去を、どうにか引き寄せたい」と力を込めた。

006 日本人300万人以上が犠牲になったとされる先の大戦。なぜ私たちはあの戦争に突き進み、多くの悲劇を生み出してしまったのか。戦後文学は、そうした問いに向き合い続けてきた。戦場の狂気を描いた大岡昇平の「野火」、原爆投下後の広島を舞台にした井伏鱒二の「黒い雨」…。その水脈は現代の作家にも続いている。
 北海道に侵攻したロシア軍と自衛隊の戦闘を描き、今年マンガ化もされ話題を集める小説「小隊」。著者で芥川賞作家の砂川文次さん(35)もそうした1人だ。
 物語では、自衛隊の小隊長・安達が一つ一つの任務を着実にこなす中で、あっという間に泥沼の戦闘に引きずり込まれてゆく。「命令を淡々とこなすだけで地獄絵図になってしまうことがある」と砂川さん。「描きたかったのは戦争そのものより、そうした不条理だった」と振り返る。
 砂川さんは大学卒業後、陸上自衛隊で6年働いた。北海道の駐屯地でも勤務し、ロシア軍の侵攻を想定した訓練があったという。「小隊」はその経験も基に「単なるシミュレーションでなく、最前線の人たちがどうなってしまうのかを踏み込んで書いてみた」作品だ。
 実際の戦争を体験していない自衛隊員らは、いざ戦闘が始まれば敵兵と殺し合い、必死に生き延びようとするしかない。その中で「平時」の常識やモラルも揺らいでいく。それは自衛隊員に限らず、誰もが巻き込まれうる事態なのではないか。
007 「戦争を過去として切り分けるのは危ない」と砂川さんは憂慮する。「自分たちは戦後に身を置いているけれど、戦前からの土壌の上にも立っている。自虐でも賛美でもなく、戦争を含めた大きな歴史を自分の言葉にしていくことが大事なんだと思うんです」

ジャンル超え惨状描写  文学・映画・アニメまで
 「生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも」。原爆投下直後の広島の地下室で、重傷を負った助産師が取り上げた新たな命。栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」は、各地に生々しい焼け跡が残る1946年3月に発008表された。絶望の淵で生まれた命の息吹をつづる最初期の原爆詩は、今も読み継がれる。
 フィリピンで米軍の捕虜になった大岡昇平の小説「俘虜記」(48年)、広島で目撃した惨状を描いた丸木位里・俊夫妻の連作絵画「原爆の図」(50~82年)…。自身の体験に基づく作品を中心に、戦争を巡る表現はさまざまな分野に広がった。
 沖縄戦の悲劇を伝える53年の映画「ひめゆりの塔」は大ヒット。73年連載開始の中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」は20言語以上に翻訳され、世界中に被爆の実相を伝えた。94年初演の井上ひさしさん作の舞台「父と暮せば」は、生き延びた人々の罪悪感に着目し、死者との対話を描いた。
 「戦後」が年月を重ねる中、表現の営みは世代を超えて続いてきた。70年発表のフォークソング「戦争を知らない子供たち」は、ベトナム戦争のさなかで平和を願う戦後生まれの若者たちの心情をストレートに歌った。
 大岡の小説「野火」を映画化し、2015年に劇場公開した塚本晋也監督は、戦場の「痛み」を喚起させる壮絶な映像で観客の想像力に訴えかけた。16年のアニメ映画「この世界の片隅に」の片渕須直監督は、戦時下の市井の日常を丁寧に描くことで、現在と地続きであると強く印象づけた。009
 タイムスリップした少女が特攻隊員に恋をする汐見夏衛さんの小説「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」(16年)は、20年代に入って交流サイト(SNS)で人気に火が付き、ベストセラーに。誰にも身近な「恋愛」を通し戦争の不条理を伝える物語が多くの若い読者の心を捉えた。

戦意高揚 作家が加担 エンタメに軍部介入 漫画分野は侵害少なく
 国内の戦意高揚のために軍部が目を付けたのがエンターテインメントだった。定番の娯楽だった文学はもとより、子ども向け読み物も言論統制の対象に。一部の作家は積極的に扇動に加担し、戦後に糾弾された。
 「皇軍の苦労が捨石にならぬやうに、もつともつと官民一致を来したい」。1937年に作家林芙美子が新聞に寄稿した檄文(げきぶん)だ。高村光太郎は「神の国なる日本」は「老若男女みな兵なり」と鼓舞し、火野葦平は「万歳を声の続く限り絶叫して死にたい」と書いた。高村や火野ら名だたる文人は戦後、新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾された。
 「日本児童文学の父」とされ、やなせたかしさんに影響を与えた小川未明も例外ではない。童話「僕も戦争に行くんだ」をはじめとする作品で米英への憎悪をあおり「愛国的児童像を繰り返し説いた」と、文学研究者の増井真琴さんは指摘する。
 漫画分野では、32年の第1次上海事変で爆弾を抱えて敵陣に突進し、命と引き換えに道を開いたと010たたえられた「肉弾三勇士」が、田河水泡の人気漫画「のらくろ」などでも描かれ、子どもから英雄視された。
 他方、京都精華大の吉村和真理事長(マンガ研究)は、影響力が小さいとみられていた当時の漫画が「他分野よりは公権力に介入されずに済み、エンタメを生み出す活力を戦後につなぐことができた」とみる。侵害されなかった「自由さ」が漫画を、世界に誇る文化に押し上げたと分析する。
 吉村さんは今年、戦争に関する漫画を集めた巡回展「マンガと戦争展2」を監修。「漫画は、世界中の人々が文化を理解し合うことに役立っている。戦争に利用された過去と異なり、新たな戦争に対抗する文化的な力になったと考えています」

引用されている(一部誤記がありますが)光太郎の詩は、ずばり「十二月八日」。昭和16年(1941)12月8日の開戦の詔勅を聴いて、ほぼ一気呵成に書き上げたものです。この日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していましたが、予定の時刻を過ぎても会議が始まらず、待たされている間に開戦の詔勅が放送され、会議は当初5日間の予定が1日で打ち切りになったそうです。

   十二月八日
戦時アトリエ前ピン
 記憶せよ、十二月八日
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロ・サクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは彼等のジヤパン、
 眇たる東海の国にして
 また神の国たる日本なり。
 そを治(しろ)しめたまふ
明津御神(あきつみかみ)なり。
 世界の富を壟断するもの、
 強豪米英一族の力、
 われらの国に於て否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ。
 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
 われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
 われら自ら力を養ひてひとたび起つ、
 老若男女みな兵なり。
 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
 世界の歴史を両断する
 十二月八日を記憶せよ。

昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』第19巻第2号に発表されました。

毎年、12月8日前後には幼稚なネトウヨどもがこの詩をSNSに挙げて喜んでいます。ついでに言うなら笑ってしまうような誤字だらけで、例えば「本来は「大日本帝国」だが、米英いうところの「ジャパン」」という意味での「彼等のジヤパン」という一節が「我等ジヤパン」となっていたり(笑)。「お前、ほんとに右翼か?」と突っ込みたくなります(笑)。光太郎本人が戦後になってこうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔いて、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。

戦後、光太郎以外の殆どの文学者は、同様の作品を戦時中に発表していたにもかかわらず、それらを「無かったこと」にしたり、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたものだ」と開き直ったりしました。南京大虐殺やらを「無かったこと」にしたい幼稚なネトウヨどもは、戦後の光太郎の深い反省を「無かったこと」にしたいようです。

ちなみに『沖縄タイムス』さんで「新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾」とありますが、同会の創設に関わった壺井繁治なども戦時中は翼賛詩を発表しています。

   鉄瓶に寄せる歌
 
 お前を古道具屋の片隅で始めて見つけた時、錆だらけだつた。
 俺は暇ある毎に、お前を磨いた。
 磨くにつれて、俺の愛情はお前の肌に浸み通つて行つた。
 お前はどんなに親しい友達よりも、俺の親しい友達となつた。

 お前は至つて頑固で、無口であるが、
 真赤な炭火で尻を温められると、唄を歌ひ出す。
 ああ、その唄を聞きながら、厳しい冬の夜を過したこと、幾歳だらう。
 だが、時代は更に厳しさを加へ来た。俺の茶の間にも戦争の騒音が聞えて来た。

 お前もいつまでも俺の茶の間で唄を歌つてはゐられないし、
 俺もいつまでもお前の唄を楽しんではゐられない。
 さあ、わが愛する南部鉄瓶よ。さやうなら。行け! 
 あの真赤に燃ゆる熔鉱炉の中へ! 

 そして新しく熔かされ、叩き直されて、
 われらの軍艦のため、不壊の鋼鉄鈑となれ!
 お前の肌に落下する無数の敵弾を悉くはじき返せ!

まさに「おまいう」(そろそろ「死語」ですが)ですね。ちなみにその壺井には吉本隆明らの手によって、特大ブーメランが帰って来、詩壇から抹殺のような感じになったようです。
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だからといって、200篇ほどの翼賛詩文を乱発した光太郎の罪が消える訳ではありません。それでもそれを悔い、7年間もの蟄居生活を送ったことは評価されるべきでしょう。それを「無かったこと」にするのは許されることではありませんね。

【折々のことば・光太郎】

此の美の力がわれわれの感覚外で、われわれを擒にしてゐるのか。眼が見えずに見えるのか。其の幻術は建築の力によるのか。其の不朽な現前の功によるのか。其の平静な壮麗の徳によるのか。此の不可思議物は、特殊な一感覚に制限された範囲を超えて受感性に力を及ぼす。


光太郎訳ロダン「夜の本寺」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「本寺」はノートルダム大聖堂。夜間の暗闇の中であっても荘厳な美が幻想的に押しよせてくるように感じられる不思議、というわけです。

「十二月八日」を書いた頃の光太郎も押しよせてくる「大東亜共栄圏」「八紘一宇」といった幻想の「擒(とりこ)」と化してしまっていたのではないでしょうか。

光太郎の父・光雲の木彫の特別公開が為されています。

『上越タウンジャーナル』さん記事から。

高村光雲の「木造毘沙門天像」6年ぶり一般公開 春日山城跡ものがたり館で9月15日まで

 新潟県上越市の春日山城跡本丸跡北側に建つ「毘沙門堂」の本尊で、明治期を代表する仏師で近代木彫界の巨匠、高村光雲(1852〜1934)が制作した「木造毘沙門天像」が同市大豆の「春日山城跡ものがたり館」で一般公開されている。2025年9月15日まで。8月23、24日に開催される「第100回謙信公祭」に合わせた展示で、公開は2019年以来6年ぶり2度目となる。入館無料。
 郷土の戦国武将、上杉謙信は仏教を守護する四天王の一つ、毘沙門天を敬い、自らを毘沙門天の化身と信じ、軍旗には「毘」の一字を用いていた。出陣前に毘沙門天を安置した毘沙門堂に籠もり、戦勝祈願を行ったと伝えられる。
 上杉謙信が信仰した銅造の毘沙門天像は、上杉家の移封に伴い会津を経て米沢に移り、米沢城本丸の御堂に安置されていたが、1849年(嘉永2年)の火災で損傷。その後、1928年(昭和3年)に高村光雲が修復した。その際、像のかけらを体内に収めた木造の分身像を制作し、1930年(同5年)に完成。当時の春日村に寄贈された。翌年、寄贈を受けた旧春日村が毘沙門堂を建立し、木造毘沙門像を安置。現在、春日地区町内会長連絡協議会が所有し、毘沙門天奉賛会が管理している。関係者によると、毘沙門堂に安置されているのはレプリカだという。
 今回公開された木造毘沙門天像は高さ41cm。左手にやりを持ち、よろいで身を固め、怒りの表情をたたえる。訪れた人たちは貴重な像の姿をガラス越しにじっくりと眺めていた。大豆町内会長で、毘沙門天奉賛会の新保稔会長(71)は、「謙信公が拝んで出陣したといわれる像の凛々しい姿をご覧いただければ」と話している。会場には木造毘沙門天像のほか、謙信公祭の歴史などを紹介するパネルも掲示している。
 午前9時から午後4時30分まで。8月23日は午後8時30分まで観覧可能。
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6年ぶりの公開だそうですが、6年前が初公開で、上越市の埋蔵文化財センターさんでの公開でした。

今回は春日山城史跡広場内の春日山城跡ものがたり館さん。8月23日(土)・24日(日)に開催される「第100回謙信公祭」に合わせての企画だそうです。

工房作を含め、光雲の木彫は日本各地で未だに崇敬の対象となっているものが多く、常時見られるものもあれば、今回のように特別展示、期間限定ご開帳といった措置になる場合もあります。今年も神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺で「秘仏三面大黒天立像」、同じ神奈川の鎌倉覚園寺さんでは「後醍醐院法躰御木像」の特別ご開帳が為されました(後者はまだ開催中です)。

このように、決して「死蔵」とならないようにしていただくのはありがたいことです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

其の美を会得する為めに、構図の主題を知る必要はない。此処では律度が君臨する。此が其の主権である。此が其の玉座である。


光太郎訳ロダン「ランスの本寺」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「ランスの本寺」はノートルダム大聖堂のことです。光太郎と同じく、心の師・ロダンもこよなくこの建築を愛しました。

ここでいう「主題」は造形作品のモチーフやモデル。「何を作ったか」は最重要の命題ではなく、その作品の美を構成する一つの要素に過ぎず、それよりも「律度」。「いかに作られているか」の方に重きを置くべしということです。

講談の公演情報です。

夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜講談前線異常なし〜(仮)

期 日 : 2025年8月16日(土)・17日(日)
会 場 : スカイルーム太陽 千代田区神田駿河台2-4-3 藤沢ビル5F
時 間 : 【一部】10:30開演 【二部】13:00開演 【三部】15:30開演
料 金 : 予約2,000円 当日2,200円
出 演 : 一龍斎貞橘
       助演 16(土) 1部いちか 2部伊織 3部貞奈
          17(日) 1部紅純 2部琴鶴 3部お楽しみ!

予約問合せkoudankai@gmail.com 熱い夏に熱い講談を! カレーもあるよ!

過日ご紹介しました「一龍斎貞奈 入門10周年記念公演〜昭和100年特集〜」で、「高村智恵子の恋」が演目に入り、ぜひ拝聴に伺いたかったのですが、あいにく第34回女川光太郎祭とブッキングでした。すると、一龍斎貞奈さんのX(旧ツイッター)アカウントに以下の投稿
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これは聴かざあなるめいと、予約いたしました。8月16日(土)ということで、ラッキーでした。翌日ですとまたブッキング(テレビ番組の収録です)でしたので。

さらに貞奈さんのX(旧ツイッター)投稿から。

【高村智恵子についてのボヤキ】006
昨日は、「高村智恵子の恋」を初口演した。
相変わらず計画を守れない私は、前日まで台本が仕上がらず独演会でトリネタで語るクオリティとして全く仕上がっていなかっただろう・・・

が、私自身としては台本の構成と人物描写について「及第点かな」と、自信過剰な自己評価をしよう。

そもそも高村智恵子の人生について興味を持ったのは2002年のスパイラルホール。
野田秀樹さん脚本監督・大竹しのぶさん主演の一人芝居「売り言葉」。

高村光太郎の詩は、中学の教科書で「レモン哀歌」「あどけない話」を習ったという記憶があったくらいで良く知らなかった。
『むかしの芸術家のラブレターが文学になるんだな~』くらいの認識だったように思う。

「売り言葉」は、妻を愛しその死を嘆き悲しみ光太郎の見た美しい智恵子への愛を、その真逆から映し出したお芝居だった。

私の講談に取り入れたこの場面。
「あんたの見るあの南天の色と、私が見る南天の色が同じとは、限んねぇよない」

これは、私が14歳のころに同じく感じた事だった。

内弁慶で無口で恥ずかしがりやなのに、なぜか大胆不敵で自意識過剰。

この辺りの人物解釈も私の共感を生んだ。

智恵子と光太郎が恋人同士になる前、
「私がこれほど高村さんをお慕いしているんだから、高村さんだって少なからず私に好意を持ってくださっているはず・・・」
と思いつつも、お見合いのために故郷へ帰るという智恵子を引き留めない光太郎に、涙を流す。

私の台本のこのシーンを、昨日評価してくださる方が多くいらっしゃって、それだけでも「高村智恵子の恋」はまずまず「及第点」を取れたと自負する。

この部分に、私が表現したかったすべてが詰まっていた。それが観客に少なからず伝わったのであれば、これほどやりがいのある仕事はないよね、と思ったり、思わなかったり、ラジバンダリ。

結婚生活が始まり、幸せな暮らしも束の間、数々の苦境に立たされて、やがて心を病んでいく智恵子。
むしろ後半の人生こそ、令和の女性たちにぜひ聞いていただけたら嬉しい。

そんなわけで、後半は「智恵子の変」をいずれの場で口演したいと思います。

智恵子の異変。
光太郎の能天気さに対する純愛文学への変。
光太郎の変心。

まぁ、智恵子も私も変なんだ。
しかし、恋するって素晴らしい。
恋できるって素晴らしい。

そんな私の「智恵子の変」。こうご期待。

「期待」しております(笑)。ただ、この手の公演の場合、急遽出演者や演目が変更になったりする場合があるようですが、そうならないことを祈ります。

【折々のことば・光太郎】

自然、とは天と地とである。人々は此の天と地との間で苦しみ又考へる。

光太郎訳ロダン「フランスの自然」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

古今の人々が「天と地との間で苦しみ又考へる」その生きざまを語る、という意味では、講談にも通じる一言ですね。

8月9日(土)は、光太郎が昭和6年(1931)に訪れた女川町の中心街で第34回女川光太郎祭でしたが、そちらが始まる前、町内の出島(いづしま)に愛車で踏み入れました。

出島は太平洋に浮かぶ島で、以前はフェリーで渡るしかありませんでした。しかももう一箇所、江島という島も廻るルートで、かなり時間がかかっていました。出島なら泳いで渡れない距離でもありませんが、さすがにそれは……(笑)。
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昨年12月、島民の方々の悲願であった本州との架橋が為され、車で行けるようになりました。女川光太郎祭主催者・女川光太郎の会の須田勘太郎会長が出島にお住まいで、「いいところだよ」というお話を以前から聞いており、一度行ってみようと思いつつなかなか果たせないで居りましたが、車で行けるようになったので良い機会と思った訳です。
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本州側から見たその橋。「出島大橋」と名付けられました。
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町の中心部から20分程です。
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昭和6年(1931)、光太郎は出島には降り立たなかったようですが、女川港から次の目的地・気仙沼へ向かう船上で出島の様子を見、紀行文「三陸廻り」の第七回「気仙沼」に書き残しています。

 女川から気仙沼へ行く気で午後三時の船に乗る。軍港の候補地だといふ女川湾の平和な、澄んだ海を飛びかふ海猫の群団が、網をふせた漁場のまはりにたかり、あの甘つたれた猫そつくりの声で鳴きかはしてゐる風景は珍重に値する。湾外の出嶋(いづしま)の瀬戸にかかるとそこらの小嶋が海猫の群居でまつ白だ。此鳥の蕃殖地としては青森県の蕪嶋(かぶしま)が名高いが、此の辺にもこんなに沢山棲んでゐようとは思はなかつた。彼等はいち早く魚群を見つけて其上に円陣をつくる。彼等と漁船とは相互扶助の間柄だと人がいふ。「名ばかり」といふ礁を通り過ぎて外洋に出ると、船は南方二十余キロの金華山を後ろにして針路一直線に北に向ふ。

橋を渡って島に入り、まずは北側の出島港へ。遠景に出島大橋が見えています。
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昭和8年(1933)の昭和三陸地震の後に建てられたと思われる碑がありました。同じ碑は女川駅前にも残っています。
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この際は、3㍍ほどの津波が女川を襲い、死者1名(宮城県全体では308人)だったとのこと。
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港のすぐそばの高台にある永清寺さんという寺院には、東日本大震災後に「いのちの石碑」が建てられました。震災直後に当時の女川第一中学校さん(現在は統合)に入学した生徒さんたちが授業の中で発案したもので、町内21箇所の津波到達地点より高い場所に避難の目印として建てられました。設置費用をどうするかということになった際、かつて光太郎文学碑が100円募金で建てられたことに倣い、生徒さんたちが募金活動を展開、約1,000万円をあっという間に集め、第1号碑は震災翌年に除幕されました。

活動の中心メンバーの一人、鈴木智博さんは、かつて複数回、女川光太郎祭で光太郎詩文の朗読をなさって下さっていました。
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永清寺さん。
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本堂向かって右手に「いのちの石碑」。こちらは平成27年(2015)、8番目に建立されたものです。
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表面には、生徒さんたちが授業の中で詠んだ俳句が刻まれています。全21基、ほぼすべて異なる句です。裏面のステンレスのプレートには、英語や中国語などで表の碑文の訳が。

愛車をUターンさせ、南下。当方、古代史、考古学、民俗学等にも興味がありまして、「出島遺跡」を見学。縄文時代から平安時代くらいまでの複合遺跡で、ストーンサークルが残っています。
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ただ、ストーンサークルと言っても、秋田大湯の環状列石のような整然とした配置にはなっていません。それでもかえって古代の人々の力強さを感じましたが。
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さらに南下して、寺間港へ。
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こちらにも「いのちの石碑」が設置されています。永清寺さんの碑に続き、9番目に建てられました。場所は厳島神社さんの鳥居脇。若干わかりにくい場所で、うろうろしてしまいましたがたどり着けました。
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近くにはやはり昭和三陸津波の碑も。
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本殿まで上り、この地の平安、道中安全を祈願。

この後、宿泊先のホテルエルファロさんに一旦戻り、昨日レポートいたしました第34回女川光太郎祭に参列というわけです。

以上、女川レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

――何処から始める。――始めは無い。諸君の眼にとまつた所に立ち停りなさい。

光太郎訳「ロダン手記 中世期芸術への入門―原則」より
大正5年(1916)訳 光太郎34歳

東日本大震災後、被災地の皆さんも、とにかく「眼にとまつた所」から復興の第一歩を踏み出したのでしょう。

8月9日(土)、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町での第34回女川光太郎祭に参加して参りました。レポートいたします。

まず午前10時、平成3年(1991)に当時の海岸公園に建てられた光太郎文学碑への献花。当方、センターを務めさせていただき、光太郎に、それから碑の建立やその後の女川光太郎再開催に尽力され、平成23年(2011)の東日本大震災の津波で亡くなった貝(佐々木)廣氏に、そして碑文の一部を揮毫され、かつては毎年光太郎祭で講演をなさっていた当会元顧問・北川太一先生にという思いで、万感の思いを込めて献花いたしました。
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午後からの式典会場・まちなか交流館さんに移動、セッティング。
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会場内には、かつての光太郎祭パンフレットや写真など。
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無理だと思われつつも開催された、震災の年の光太郎祭の様子も。
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北川先生は御健康上の理由でこの頃には欠席なさっていましたが、翌年からまた車椅子でのご参加。その頃から考えると、女川の町の復興もかなり進んだことに感慨深い思いでした。
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今年2月、県から授与された「住みよいみやぎづくり功績賞」の賞状。
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さて、午後1時、開幕。
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まずは黙祷。
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この後、オープニングアクト的に当方の講演。今年は光太郎の彫刻について、ひとくさり語らせていただきました。カーヴィングとかモデリングとか、制作手法についてがメインでした。

その後、いよいよ本番となり、主催者・女川光太郎の会の須田勘太郎会長のご挨拶。
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須田善明女川町長のご祝辞。
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午前中の文学碑への献花の模様を撮影した動画をプロジェクタで投影し、その後、メインアクトの町内外の皆さんによる光太郎詩文朗読。
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海外の方も。
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例年通り、ギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏。

朗読して下さった皆さん。
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「献奏」ということで、宮川氏。
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初期のころから毎年いらして歌われていたオペラ歌手・本宮寛子氏は、今年、膝の手術をなさった直後ということで残念ながらご欠席。代わりに、というか、本宮氏の伴奏をなさる予定だった石巻ご在住の田代雅美さんによるピアノ演奏。
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女川光太郎の会事務局で、貝(佐々木)廣の奥様・英子さんによる締めのご挨拶。
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終了後、近くの町中華さんでの打ち上げ。
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生前の貝(佐々木)廣氏と懇意にされていた方が、氏から送られてきた絵手紙などをごっそりお持ち下さり、当方も氏とのさまざまな思い出を胸に拝見し、胸が熱くなりました。

このような気のおけない集まりです。来年以降も末永く続くことを祈念いたしておりますし、これまで以上の多くの皆さんのご参加をお待ち申し上げております。

【折々のことば・光太郎】

もとより、自然は人の眼を避けない。人間は見さへすればよいのである。


光太郎訳「ロダン手記 ヹヌス――「ミロのヹヌスへ」――」より
大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「ヹヌス」はヴィーナス。かの「ミロのヴィーナス」を見てのロダンの感想から。いかに自然を自然に見ることが大切か、光太郎はロダンから学びました。

昨日8月9日は、昭和6年(1931)に新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くため、光太郎が東京を出発した日です。それを記念して、立ち寄り地の一つだった宮城県女川町では、地元有志の皆さんが平成初期から「女川光太郎祭」を開催して下さっています。

昨日は第34回。
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詳しくは帰りましてからレポート致します(まだ女川に居りまして)。

一応、画像を何枚か上げておきます。
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現在、女川町はわりと本格的に雨が降っています。運転に気をつけつつ、焦らずゆっくり千葉まで帰ろうと思っております。

昨夜から光太郎ゆかりの地、宮城県女川町に愛車を駆って来ております。
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午後10時頃到着。もう少し早く着く予定でしたが、夕食は石巻の寿司屋さんでいただくのがルーティンとなっており昨夜も立ち寄りましたところ、激混みで1時間以上待ちとなったため、到着が遅くなりました。
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今日は女川まちなか交流館さんで第34回女川光太郎祭です。

朝のうちに散歩。

宿泊させていただいているエルファロさん。東日本大震災後に程なく開業したトレーラーハウスのホテルです。
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女川駅。
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町役場前の震災慰霊碑。
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港まで出て、光太郎文学碑。
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この時点でまだ5時台でしたが、土曜日ということもあるのでしょう、既に親子連れの釣り客の皆さんで賑わっていました。
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光太郎祭、文学碑への献花が10時、式典(当方の講演、町内外の方々の光太郎詩文朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんらのアトラクション献奏など)が午後1時です。

詳細は明日、レポート致します。

8月6日(水)、新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展を拝見後、上野に足を向けました。次なる目的地は東京文化会館さん。モダニズム建築の巨匠・前川國男の設計です。音楽ホールとしては珍しく、かつてテレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられました。もっとも同番組、ヘーベルハウスさんの単独提供となってから「『建築の巨人たち』じゃねーか」と突っこみたくなっているのですが(笑)。
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こちらの小ホールで、「第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~」を拝聴。
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「駅伝」の名に相応しく、15:30から20:00まで、50名超の歌い手の皆さん、10名以上のピアニストさんが演奏し継いでいくという催しでした。
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最後の「日本歌曲研究会」さんの部で、朝岡真木子氏作曲の「組曲 智恵子抄」から「千鳥と遊ぶ智恵子」を清水邦子氏が歌われるので、最終休憩の前、18:30頃参上いたしました。いきなり受付付近に朝岡氏がいらっしゃり、ご挨拶させていただきました。

休憩中の小ホール。
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こちらには初めて足を踏み入れましたが、小ホールといいつつ、へたな施設の大ホールより素晴らしいと思いました。ステージは確かに狭いのですが、天井の高さがそれを感じさせず、実際、後ほど演奏が始まると音響効果はえもいわれぬものでした。

来年、大規模改修が始まるそうですが、オリジナルの雰囲気はそのままにリニューアルされることを強く望みます。

「ロシア歌曲研究会」さんの後、「日本歌曲研究会」さん。
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朝岡氏作曲の「千鳥と遊ぶ智恵子」。清水氏は組曲の中の一曲だけを取り出すのは難しいとおっしゃっていましたが、どうしてどうして秀逸な演奏でした。

トリをつとめられた前澤悦子氏、令和4年(2022)の「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」など、朝岡氏作曲のコンサートご常連で、この日も「智恵子抄」ではありませんでしたが、朝岡氏作曲の「日の光」(詩:金子みすゞ)を清水氏とデュエットなさったりもされました。

「日本歌曲研究会」さんの終演後。
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さらにグランドフィナーレは、おそらく今回の駅伝に参加されたほぼ全ての歌い手さん(プラスアルファもいらしたような……)による「歓喜の歌」サビの部分大合唱。伴奏はピアノ連弾でした。

すべて終演後のホワイエ。
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関係の皆さまのますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

芸術による思想の伝導は、生の伝導と同じく、熱情と愛との仕事である。

光太郎訳「ロダンの芸術」(ユージエヌ カリエール)より
大正5年(1916)訳 光太郎34歳

この項、元々、『高村光太郎全集』第1巻から始め、光太郎の詩文から「人生訓」的なものを紹介するというコンセプトでしたが、第12・13・20巻の日記や第14・15・21巻、さらに補遺である「光太郎遺珠」の書簡からの引用になって、当初の意義が薄れてしまっていました。

今日からは第16~18、20巻の翻訳の巻から元に戻して「人生訓」的な言葉を拾います。翻訳なので光太郎自身の言葉と言えませんが、やはり原語を日本語に変換する過程で光太郎の思想も入っていますし、多くはそれらの言葉が光太郎の血肉となっていますので。

まずは訳書『ロダンの言葉』(大正5年=1916)の序文的な文章から。ここで言う「芸術」は、彫刻などの造型芸術に限らず、文筆や音楽など、すべてのジャンルに当てはまるものと思われますね。

昨日は上京しておりました。

メインの目的は上野の東京文化会館さんでの「第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~」の拝聴でしたが、その前に新宿まで足を伸ばし、東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展を拝見。

洋画家・難波田龍起(明38=1905~平9=1997)は旧本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)にあった光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住み、光太郎の影響で芸術の道に入った人物です。はじめ詩作を志し、大正末には光太郎に詩稿を見てもらうなどしたものの、どうもそちらはものにならなかったようで(後々まで続けますが)、後に画家として立つことになります。智恵子も通っていた太平洋画会に一時加入しました。画の分野では川島理一郎、松本竣介、詩の方面では宮崎丈二など、その交友圏は光太郎とかなりの部分で重なっていました。光太郎との交流は光太郎最晩年まで続き、中野のアトリエを足繁く訪れた他、昭和28年(1953)に光太郎が花巻郊外旧太田村に一時帰村した際には同行しています。

そこで、「難波田龍起」展、「光太郎と交流の深かった画家」という点が前面に押し出されています。ただ、光太郎自身の作品等は展示されないということで、このブログでもご紹介せずにいました。
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出品リストが以下の通り。
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会場内。撮影可でした。
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初期の頃はそれほど特徴がない感じに見えましたが、戦後になって抽象の度合いが色濃くなると、豊かな個性の発露が感じられました。
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サイケなガシャガシャしたイメージではなく、静謐さも湛えているように見えるのは、色調が抑えられているせいかと思いました。

展示の終わり近くにスナップ写真などがケース内に並んでおり、光太郎も。見たことがあるような無いような写真でした。
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キャプションには「1953年」とありますが、光太郎日記を参照してみますと、どうも昭和29年(1954)1月5日のようです。

一月五日 火
晴温 終日在宅、難波田龍起氏子供さん3人同道来訪、リンゴ進呈、

一月十四日 木
晴、くもり、 ひる頃難波田さんくる、先日子供さんのとつた写真数枚もらふ、よくとれてゐる、

展覧会詳細は以下の通り。

難波田龍起

期 日 : 2025年7月11日(金)~10月2日(木)
会 場 : 東京オペラシティアートギャラリー 新宿区西新宿3-20-2
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 月曜日 (8月11日、9月15日は開館)
      月曜祝休日の翌火曜日(8月12日、9月16日) 8月3日[日](全館休館日)
料 金 : 一般1,600円[1,400円]/大・高生1,000円[800円] 中学生以下無料

 難波田龍起(1905-1997)は、戦前から画業を始め、戦後はわが国における抽象絵画のパイオニアとして大きな足跡を残しました。大正末期に詩と哲学に関心をもつ青年として高村光太郎と出会い、その薫陶を受けるなかで画家を志した難波田は、身近な風景やいにしえの時代への憧れを描くことで画業を開始します。戦後になると抽象へと大きく制作を進め、海外から流入する最新の動向を咀嚼しながらも情報に流されず、また特定の運動に属することもなく、独自の道を歩みました。その作品は、わが国における抽象絵画のひとつの到達点として高く評価されています。
 東京オペラシティアートギャラリー収蔵品の寄贈者である寺田小太郎氏が本格的な蒐集活動にのりだし、さらにコレクションを導くコンセプトのひとつである「東洋的抽象」を立てたのも、孤高の画家難波田龍起の作品との出会いがきっかけでした。難波田が東京オペラシティアートギャラリーの所蔵する寺田コレクションの中心作家となっていることは言うまでもありません。
 本展は難波田龍起の生誕120年を機に、当館収蔵品はもとより、国内の美術館の所蔵品、また個人蔵の作品などもまじえ、難波田の画業の全貌を四半世紀ぶりに紹介し、今日的な視点から検証するものです。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変突然ですが 御預り願つておりました智恵子の紙絵を御送附いただきたく思います 手許で見たくなりましたので…永い間、御預りいただいてゐましたこと深謝にたへません。鉄道便箱づめにして御送り下さい。同封の送料で何卒よろしくお願いします。

昭和31年3月27日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎74歳

亡くなる6日前のもので、現存が確認できている光太郎最後の書簡です。『高村光太郎全集』には脱漏していましたが、現物が花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されており、展示されたことも。

この時点では長い文面を自ら書き記す力はほとんど残っていなかったようで、借りていた貸しアトリエの大家である中西富江に代筆して貰っています。ただし、翌日には喀血・血痰が一旦治まり、散文「焼失作品おぼえ書」の最後の一枚を自ら書き、周囲を驚かせました。

生涯最後の書簡が最愛の妻・智恵子や第二の故郷・花巻(佐藤は光太郎を花巻に招いた一人)であることに、何やら象徴的なものを感じます。

光太郎第二の故郷、岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんで、光太郎の実際に作った献立、使った食材などを参考にされてメニューを考案、さらに調理も担当なさっているこうたろうカフェ。遅ればせながら7月31日(木)の分をご紹介します。
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メニュー的にはリーフレット掲載順に「紫蘇のスカッシュ」「アトランティックサーモンステーキ」「豚肉のキクラゲ卵炒め」「夏野菜のラタトゥイユ」「茄子とピーマンの素揚げ」「春雨の彩り酢の物」「しそ巻きご飯」「季節の漬物」「梅と柘榴の二色ゼリー」「コーヒー」。何だか以前より品目が多いような気がしました。夏バテ予防という観点からボリューミーにされたようです。ラタトゥイユあたりは光太郎、明治期にパリで食していたのではないかと思われます。

リーフレットには光太郎が作ったドジョウ汁の紹介が書かれていますが、さすがにそれは再現されていませんでした。

やつかの森さん、今年は毎月末に「こうたろうカフェ」を展開され、毎月15日には道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」のメニュー考案をなさっています。「光太郎ランチ」はもうすぐですね。

次回の「こうたろうカフェ」は8月29日(金)。メニューも既に予告されています。「ハーブのパリパリグリルチキン」「焼き茄子の香味たれ」「オクラと卵の寒天寄せ」「じゃが芋とトマトのバター煮」「サーモンサラダ」「お漬物」「ご飯」「モロヘイヤスープ」「スフレフロマージュ」「コーヒー」だそうで。

ぜひご堪能下さい。

【折々のことば・光太郎】

このごろいたみが少しつよいので閉口しています、


昭和31年(1956)3月1日 宮崎春子宛書簡より 光太郎74歳

確認出来ている限り、最後の自筆書簡から。宿痾の肺結核のため、もはや肺には健康な部分が残っていなかったとのことです。

保存運動を展開している、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエ関連です。

協同組合伝統技法研究会さんという建築関係の組織があり、そちらの会報『伝統技法』の第52号が6月に発行されています。同会サイトには先月末に情報がアップされました。

会報52号 発行しました

会報52号を発行しました!

今回の目次は
●杉並に残る民家 高橋 政則
●婦人之友社社屋に学ぶ〜引き継がれた有機的建築 伊郷 吉信
●髙井鴻山記念館の張付壁 大平 茂男
●村野家住宅の茅葺き屋根の修理 大平 茂男
●飯田喜四郎先生が1月4日に亡くなられました 大平 茂男
●文化財建造物の保存修理に思うこと 大平 秀和
●中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ 十川

となっております。
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サイト上の情報ではなぜか執筆者名が苗字しか書かれていませんが、当方も所属する中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の中心メンバーのお一人、十川百合子さんによる「中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ」という文章が6ページにわたって掲載されています。
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施主である水彩画家・中西利雄のプロフィール、当該アトリエについて、ここを借りた光太郎とのからみ、そしてこれまでの保存運動の報告等。

奥付画像を載せておきます。必要な方、ご参考までに。
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ところで、アトリエについて、非常に残念なご報告があります。

現所有者の意向で、10月から11月頃に解体されることが決定したそうです。

これまで、中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会としては、現地での保存をまず第一に考えて交渉等を重ねて参りましたが、力及ばずでした。

そこで今後はプランB・次善の策として、どこか適当な場所に移築、という方向で動かざるを得ません。その移転候補地等も全く白紙に近い状態です。モダニズム建築家・山口文象設計という建造物としての重要性だけでなく、光太郎終焉の地という付加価値があるため、できれば近くにと思いますが、それも不可能であれば離れた場所でも仕方がないでしょう。信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)などがそうした例ですが、まったくゼロになってしまうよりどれだけましか、ということになります。

移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。場所さえ提供していただければ、あとは何とかできそうな構想にはなっています。

保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生の容態はさつぱりよくなりませんが少しづつ原稿を書いて居ます原稿が書けなくなる日もあることでせう


昭和31年(1956)1月31日 宮崎春子宛書簡より 光太郎74歳

余命2ヶ月あまり、ほぼ病臥の生活となりましたが、調子のさほと悪くない時は原稿執筆も行っていました。詩では前年暮れには『読売新聞』に寄稿した「生命の大河」、同じく『中部日本新聞』などの三者連合に「開びゃく以来の新年」、NHKラジオに「お正月の不思議」。散文は雑誌『新潮』、『みづゑ』、『家の光』、『国立博物館ニュース』、『地上』、『旅行の手帖』などに。

新刊、というか、増補改訂を伴う復刊です。

増補改訂 名作・迷作エンジン図鑑 その誕生と発展をたどる

発行日 : 2025年8月27日
著者等 : 鈴木孝
版 元 : グランプリ出版
定 価 : 3,800円+税

自動車メーカーで数々のエンジン開発に携わり国内外の博物館に出向いて調査、著者自らが描いたイラストとともにわかりやすく解説する決定版!
工学博士でエンジンの権威である著者が、ヨーロッパ、アメリカ、日本で開発された新旧の自動車用、飛行機用、舶用、戦車用、機関車用、産業用、汎用まで、広く59点のエンジンを選び、博物館や所蔵先に足を運んで徹底調査。そのエンジンの誕生と技術的背景を、著者自らが描いたイラストを用いて詳しく平易に解説する。ページが180度近く開く「PUR製本」を採用して、読みやすさにも配慮。さまざまなエンジンの誕生の経緯をこの一冊で知ることができるので、開発者をめざす方はもちろん、エンジンに興味のある方には最適の書。
※本書は品切れていたロングセラーの『名作・迷作エンジン図鑑』(2013年8月31日発行)をベースに、2017年1月25日刊行の『古今東西エンジン図鑑』の内容を盛り込み、大幅に増補してカバーデザインを一新した増補改訂版です。
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目次
 序文 過去の技術に学ぶ大切さ/飯島晃良(日本大学理工学部教授)
 はじめに
 ■草創期
  第1章 人類が火を手に入れた エンジンの原点はプロメテウス?
  第2章 水くみを命じられて作った人類初のエンジン ホイヘンスのエンジン
  第3章 まるで近代芸術の奇妙なオブジェ セイヴァリエンジン
  第4章 初の実用内燃機関の燃料はシダ植物の胞子 ニエプスのエンジン
 ■産業用
  第5章 天秤棒を用いてポンプを作動 ニューコメンエンジン
  第6章 55トンの天秤棒を付けた ワットの蒸気エンジン
  第7章 初めて商品となった内燃機関 ルノワールのエンジン
  第8章 石油に替えて石炭で回した ディーゼルエンジンとジェットエンジン
 ■自動車用
  第9章 高速2輪馬車 チャリオット
  第10章 あっちこっちから悪口の的となった キュニョーの蒸気自動車
  第11章 ボイラーマン泣かせ 蒸気バスエンジン
  第12章 創業から終焉まで空冷で押し通した フランクリン
  第13章 R・ディーゼルが作れなかったディーゼル自動車 ザフィアエンジン
  第14章 フランス陸軍が発想した 木炭自動車
  第15章 ラバウルで捕えられてジープに見染められ? ガス電L型エンジン
  第16章 ディーゼル乗用車の日本初 アカデミックエンジン
  第17章 ニューヨークバス・ラプソディーを奏でた GMエンジン
  第18章 木曽谷の奥で待っていた 帝国陸軍の軍用車エンジン
  第19章 玉座に座り損ねた DB52 100式エンジン
  第20章 ガス電(日野重工)の有終の美を飾った V形12シリンダーディーゼルエンジン
  第21章 放浪の果て親に巡り会えたが、再び放浪の旅に消えた ヒノサムライのエンジン
  第22章 偉大な技術者の躓き ケタリングと本田宗一郎
  第23章 一気に30%の燃費向上を果たした 日野EP100エンジン
  第24章 お役人のひとことが生んだ世界初 高圧コモンレール燃料噴射システム
 ■航空用
  第25章 正道を駆け上がり、奇想天外ぶりを発揮した クレマン・アデァ
  第26章 設計者と一緒にポトマック川に投げ込まれた マンリーのエンジン
  第27章 ないない尽くしの世界初アルミエンジン ライト兄弟のエンジン
  第28章 うっかりミスでモーターを発明した
 シーメンスの互い違いに回るロータリーエンジン
  第29章 日本初の国産91式戦闘機の原点となった ブリストルジュピターエンジン
  第30章 プロペラと一緒に自分自身も懸命に回った ル・ローンエンジン
  第31章 お腹が大きいミス・ビードルを追っかけた男 P&Wエンジンとライトエンジン
  第32章 高村光太郎の乙女に見守られ、湖底に眠った 「天風」とその親「神風」
  第33章 優等生の席にちゃっかり座り込んで世界記録を立てた 川崎エンジン
  第34章 的矢六兵衛エンジン!? ガス電「初風」
  第35章 MIT(マサチューセッツ工科大学)に捕虜となった ガス電「ハ143」
  第36章 シリンダーにピストンを2つ入れた ユンカース ユモ成層圏エンジン
  第37章 サン・テグジュペリに愛され、山本五十六も
誘って星に向かった アリソンエンジン
  第38章 ソ連でも生まれていた 四角顔のユンカースエンジン
  第39章 お騒がせ、ひとり玉座のブリストル スリーブバルブエンジン
  第40章 ガス灯から生まれた最後の2500馬力 「ハ51」
  第41章 ドイツから持ち帰った戦闘機Me163の写真とスケッチを元に
緊急開発された ロケット戦闘機「秋水」
  第42章 仲間が分かれ分かれになって落っこちた H−Ⅱロケット
 ■舶用
  第43章 天と地を逆にしてみたらという機転から誕生 サイドレバーエンジン
  第44章 正真正銘の名エンジン 戦艦「三笠」のエンジン
  第45章 頭とお尻に燃焼室がある変なディーゼルエンジン 氷川丸のエンジン
  第46章 自動車用ディーゼルが里子に出されて日本初の舶用ディーゼルに?
 池貝4HSD10型ディーゼルエンジン
  第47章 休みなしで働き続ける“月月火水木金金”エンジン 艦本エンジン
  第48章 帝国陸軍の潜水艦に搭載 ダイハツ ヘッセルマンエンジン
  第49章 ヒノサムライの血を引き漁場レースを制した 日野舶用エンジン
 ■戦車用
  第50章 ブリキの玩具と揶揄された 日本の戦車
  第51章 ヨーロッパと同時期に開発した 池貝戦車用小型ディーゼルエンジン
  第52章 東京学芸大学の倉庫で見つけた 戦車エンジン
  第53章 ディーゼルの宋主国ドイツを征した V2エンジン
 ■機関車用
  第54章 ツェッペリン号で名を挙げ、トラブルでも名を成した マイバッハエンジン
  第55章 跳梁跋扈のSボート対策で生まれた 三角エンジン
 ■汎用
  第56章 崑崙の高嶺の彼方に大地を削る 日野建機用エンジン
  第57章 往年の名機と最新の名機との邂逅 その1 日野最古参DSエンジン
  第58章 往年の名機と最新の名機との邂逅 その2 最先端E13Cエンジン
  第59章 取り残されたディーゼルエンジンを救う 下町の黒煙フィルタ
 エピローグにかえて
 参考文献
 謝辞

古今東西(「今」はほとんど入っていませんが)の先人たちが開発した各種エンジンを図版入りで紹介するものです。構成は、ほぼ実用には至らなかった「草創期」、産業革命を引き起こしたワットの蒸気機関などの「産業用」、その後は搭載された乗り物ごとに「自動車用」「航空用」「舶用」「戦車用」「機関車用」、さらに「汎用」。

著者の鈴木孝氏は、日野自動車の研究開発部にいらした方で、最終的には副社長まで務められ、日本自動車殿堂(そういう機構が存在するのは存じませんでした)入りされました。本書はその鈴木氏が書かれた『名作・迷作エンジン図鑑』(平成25年=2013 グランプリ出版)、『古今東西エンジン図鑑』(平成29年=2017 同)を併せて一冊にまとめたもののようです。

「航空用」の中に「第32章 高村光太郎の乙女に見守られ、湖底に眠った 「天風」とその親「神風」」と、光太郎の名を出して下さいました。直接的には光太郎に関わる訳ではありませんが、平成22年(2010)に東京大学さん他による十和田湖の地形調査の際に水深60㍍の湖底で偶然発見され、同24年(2012)に引き上げられた旧日本陸軍の「一式双発高等練習機」に搭載されていたエンジン「天風」についてです。
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カバーにも「天風」イラストが。
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「一式双発高等練習機」は昭和16年(1941)に制式採用されたもので、開発・製造に当たったのは立川飛行機。エンジン「天風」は日立航空機製。
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昭和18年(1943)に、秋田県の能代飛行場から青森県の八戸飛行場へ向かう途中、十和田湖に着水し水没(原因は不明だそうです)した一機(搭乗員4人中、助かったのは1人だけだったとのこと)が、先述の通り平成24年(2012)に引き上げられ、大きく報道されました。

鈴木氏曰く、

 戦争が終わりそれから8年目の秋、1953年10月、あたかも水に没した少年航空兵を見守るかのごとく、高村光太郎の乙女の像が、その湖畔に紅葉を塗らす涙雨の中で除幕された。彼らの魂は癒され、長い眠りについたに違いない。(略)そして2012年9月5日、ついに陸揚げは成功したのである。水没してからちょうど69年目の同じ秋であった。1つの時代の結晶が、その魂が、せめて最後の残存機体を見てくれという叫びとなり、難渋を極めた作業者全員の執念を呼び起こし、乙女に見守られてふたたび地上に戻ったのである。叫んでくれた御霊に、ただ心からの黙祷を捧げるものである。

光太郎自身にそういう意図がどの程度あったか不明ですが、地元では「乙女の像」に平和祈念の意味合いもあると伝えられていますので、この記述もあながち牽強付会とはいえますまい。

引き上げられた機体は、一時、青森県立三沢航空科学館で展示されていたようですが、現在は製造元の立川飛行機の後身・立飛ホールディングスさんの手に戻り、同社で保管されています。
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ちなみに著者の鈴木氏、戦前のお生まれで、故郷の長野県の飛行場で、戦時中、実際に現役の一式双発高等練習機をご覧になったことがおありだそうで。

あたかも戦後80年。他の戦時中の各種エンジンについての項は特に興味深く読ませていただきました。バリバリ文系の当方には全く理解不可能の箇所もありましたが。それでも読めてしまうのは、鈴木氏の丁寧な語り口のおかげでしょう。

というわけで、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生あの小屋に居りました頃は忠善さまにいろいろお世話にあり、東京に来てからも、忠善さまのあの立派なお姿を思ひうかべていました、 御本家はじめ部落中の人がどんなにか力をおとされたことでしょう。あとのさびしさをお察しいたします。

昭和31年(1956)1月7日 駿河タニ宛書簡より 光太郎74歳

駿河忠善は、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれた駿河重次郎の甥。前月には東京中野のアトリエにも顔を見せていました。まだ壮年でしたが、伐木中の事故で亡くなってしまったとのこと。

その光太郎自身も3ヶ月後には不帰の客となります。やはり太田村山口地区の人々は「どんなにか力をおとされたこと」と思われます。

キーワードは「上野公園」です。

まずは雑誌の新刊。

月刊アートコレクターズ No.197 8月号

発行日 : 2025年7月25日
版 元 : 生活の友社
定 価 : 952円+税

近年酷暑が続く夏に、肝を冷やす待望の企画を実施!恐怖と一口に言ってもその内実は様々です。そこで、今回は恐怖にまつわる様々な感情を切り分けながら、それらを表現としてどのように昇華させているのか、特にそのテクニックについてインタビューや寄稿、グラビアを通して探求します。表現を扱う美術雑誌ならではの切り口で、恐怖の見方を伝授します。
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目次
 【巻頭特集】徹底解剖 恐怖の裏側
  ◇エキスパートに学ぶ、恐怖の作法
   高橋洋 「リング」「霊的ボリシェヴィキ」/押切蓮介 「サユリ」「ミスミソウ」
   外山圭一郎 「サイレントヒル」「SIREN」/
   平山夢明 「ダイナー」「『超』怖い話シリーズ」
  ◇寄稿
   春日武彦 恐怖を分解する─なぜ人は恐怖に惹かれるのか
   廣田龍平 機械論的妖怪の潜勢的恐怖─俗信の怖さについて
   布施英利 ホラーとテラー……脳の中の恐怖
   佐々木敦 現代の「空気」を映し出すホラー/アート
  ◇対談
   田中俊行╳渡辺シヴヲ いと奥深し ! オカルトコレクションの世界

  霊能力者Miyoshiに聞く ! もっと知りたい幽霊Q&A
  中村麗子が選ぶ三つの感情で味わう本当に怖い絵
 ◇グラビア
  畏れの魔力 金子富之/山本じん/阪東佳代/池田一憲/平良志季/高資婷/岡本東子
   鶴川勝一/吉田然奈/柳生忠平
  非現実に花咲く恐怖の甘美 髙木智広/椎木かなえ/石黒光/髙橋美貴/
   Sui Yumeshima /亀井三千代/篠原愛/藤浪理恵子/冥麿/貳來/羅展鵬/飴屋晶貴
   立島夕子/生熊奈央/三塩佳晴/多賀新
  自分と世界の緊張感系 内田あぐり/深海武範/佐藤温/高見基秀/村上早/池田ひかる
   内田すずめ/大河原愛/市川友章/林銘君/日野之彦/海老原 靖/佐藤T 
   井上光太郎/髙木優希
  デフォルメする恐怖 丸尾末広/駕籠真太郎/中村宏/かつまたひでゆき/夜乃雛月
   BURUMORI /添田奈那
  恐怖は屹立する 牟田陽日/船橋つとむ/ウチダリナ/武本大志/マンタム/山本雄大
   川上勉/林美登利/水村芙季子
 【連載】
  鹿島茂 リュシアン・ヴォージェルの夢 編集者一族の出会い
  水沢勉 色と形は呼び交わす 佐藤直樹 はじまりも終わりもなくつながる
  古田亮 バック・トゥ・ザ日本美術 高村光雲「西郷隆盛像」+後藤貞行「ツン」
  森孝一 思考の径路 陶芸家・五代高橋楽斎の作品にみる在り方
  田辺一宇 古今亭まくら話 見えたんだから仕方ない……ってな噺
  飯島モトハ アート&スイーツ 徳光健治個展/ANDY COFFEE チョコドーナッツ

 Contemporary Art Now/展覧会ガイド 他

 表紙デザイン:河北秀也、栗林成光 高資婷「蜘蛛と蝶」2024年 絹本着色 6号F

東京藝術大学大学美術館さんの教授・古田亮氏の連載「バック・トゥ・ザ日本美術」で、上野公園に集中する美術館等の成り立ち、明治期に上野公園で盛んに行われた博覧会について、光太郎の父・光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」他の銅像などについて4ページ。
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現存する建造物などについては知ってるつもりで意外と知らなかったことが多く、「そうだったのか」の連続でした。

特集はこの季節らしく「徹底解剖 恐怖の裏側」。紹介されている数々のあやかしアート作品画像は夢に出てきそうです(笑)。添えられた文章には「読まなきゃよかった……」というようなおどろおどろのものも(笑)。当方、子供の頃からビビリのくせに怪談系は好きで、しかし読了後「読むんじゃなかった……」と後悔することばかりでした。この年になっても同じことの繰り返しです(笑)。その他、日本的な「恐怖」と、欧米式のそれとの相違の考察など、興味深いものでした。

続いてやはり上野公園。コンサートのご案内です。以前、ちらっとご紹介し、その後失念していました。

第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~

期 日 : 2025年8月6日(水)
会 場 : 東京文化会館 小ホール 台東区上野公園5-45
時 間 : 15:00開場 15:30開演
料 金 : 一般4,000円 学生2,000円 全席自由 再入場可
無題
出演 二期会研究会10団体
<予定時刻/出演研究会>
 ■15:30~
  オペレッタ・ミュージカル研究会《ヨハン・シュトラウス2世の喜怒哀楽》
  ・ヨハン・シュトラウス2世 「春の声」 「ウィーンの森の物語」 「芸術家の生涯」 ほか
   赤澤 舞・小林晴美・推屋 瞳・中野礼美・松本順子・森山由美子・茂木真由美
   渡辺佳子・黒田晋也 [ピアノ] 山中聡子
  ロシア東欧オペラ研究会《喜怒哀楽にそって》
  ・グリンカ『ルスランとリュドミラ』より "なんと嬉しいことだ~我が勝利は近い"
  ・ボロディン『イーゴリ公』より "もう長い年月がたった"
  ・チャイコフスキー『イオランタ』より "誰を私のマチルダに比べよう"
   渡部智也・牧野舞子・古川精一 [ピアノ] 小笠原貞宗
  イタリアオペラ研究会《イタリア・オペラの喜怒哀楽》
  ・F.チレア『アドリアーナ・ルクヴルール』より
    第1幕 "私は創造の神の卑しい僕" "あなたの中に母の優しさと微笑みを"
    第2幕 "苦い喜び、甘い責め苦"  第4幕 "哀れな花よ"
   折田千絵・黒田千佐代・杉本美代子・石橋佳子・伊藤潤・浜田和彦
   [ピアノ] 篠宮久徳
 =休憩(10分)=
 ■16:40~
  フランス歌曲研究会《フランス~喜怒哀楽を歌う》
  ・フォーレ「賛歌」 ・デュパルク「ため息」 ・シャブリエ「幸福の島」
  ・ドビュッシー 歌曲集『忘れられし小唄』より "そはやるせなき"
  ・ドビュッシー「家なき子のクリスマス」 ・マスネ「夏の朝」
  ・ラヴェル歌曲集『5つのギリシャ民謡』より "何と楽しい!"
   森朱美・坂本貴輝・中村優子・浅木百合子・安岐美香 [ピアノ] 松場知子・森夏野
  ドイツ歌曲研究会《アルバン・ベルク生誕140周年に寄せて》
  ・A.ベルク「7つの初期の歌」
   1)夜 2)葦の歌 3)夜鳴きうぐいす 4)冠されし夢 5)部屋の中で 6)愛の頌歌 7)夏の日々
   近藤悦子・田口久仁子・刀根敬子・杉下友季子 [ピアノ] 赤塚太郎
  合同演奏『ナブッコ』行け、我が想いよ
 =休憩(10分)=
 ■17:40~
  英語の歌研究会《Girls Chattering!!》
  ・G.メノッティ『泥棒とオールドミス』より
   "こんにちは、ミス・ピンカートン" "私の恋人は船乗りに"
  ・L.バーンスタイン『キャンディード』より "ウィー・アー・ウーマン"
  ・A.サリヴァン『ミカド』より "私達は学校帰りの3人娘"
  ・S.ソンドハイム『リトル・ナイト・ミュージック』より "田舎の週末"ほか
   佐橋美起・大田中早苗・落合知美・川口美和・川畑順子・小針絢子・高居洋子
   長濵厚子・西野伸子・野澤知佳・伯田桂子・向井優希 [ピアノ] 原島慈子
  オペラワークショップ研究会《Gioia, rabbia, tristezza e piacere! 心の綾を声にこめて》
  ・G.ヴェルディ『リゴレット』より
   "ジョヴァンナ、私後悔しているの、お父様に言わなかったことを"
  ・G.ヴェルディ『アイーダ』より
   "まぁ!お父様!~もう一度見られるのだぞ、あの芳しき森"
  ・U.ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』より "貴女のそばでは、僕の悩める魂も"
   平野真理子・福岡万由里・藤野祐子 [助演] 谷川佳幸・大井哲也 [ピアノ] 服部尚子
  イタリア歌曲研究会《ヴォルフ=フェッラーリの喜怒哀楽》
  ・E.ヴォルフ=フェッラーリ 「若者よ、なんて素敵に歩くの!」 「道行く若者よ」
   「遠く離れて」 「若者たちよ、若く美しいうちに歌いなさい」 ほか
   石原友利子・大町加津子・里村照子・鈴木葉子・高木照子・竹之内淳子・永瀬祐紀乃
   村田由紀子・鴨川太郎 [ピアノ] 山岸茂人
 =休憩(10分)=
 ■18:50~
  ロシア歌曲研究会 《喜怒哀楽にそって》
  ・ロシア民謡「ああ、夜よ」 ・シーシキン「夜は輝く」
  ・ビラーシ「秋が来ると(キーウの鳥の歌)」
  ・チャイコフスキー「ただあこがれを知る人だけが」Op.6-6
  ・チャイコフスキー「フローレンスの歌」Op.38-6
   高柳佳代・福成紀美子・清水知加子 [ピアノ] 小笠原貞宗
  日本歌曲研究会《詩人の哀しみと懊悩》
  ・松下倫士「うつくしいもの」より  "心よ" "ふるさとの山"
  ・朝岡真木子「智惠子抄」より "千鳥と遊ぶ智惠子"
  ・髙田三郎「啄木短歌集」より "やわらかに"
  ・猪本隆「悲歌」 ・猪本隆「わかれ道」 ・朝岡真木子「日の光」より "日の光" 
   斉藤京子・清水邦子・白須ヒロミ・前澤悦子 [ピアノ] 松浦朋子
 合同演奏「第九」
 終演予定20:00

*演奏中の出入りは出来ません。休憩中にお願いします。
*時間は目安です。早めのご来場をお願いします。
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「駅伝コンサート」と銘打たれています。何が「駅伝」かというと、別に歌い手の皆さんが走りながら歌うわけではなく(笑)、15:30から20:00までの長丁場を歌い継ぐ、というわけで。今回で第18回ですから、恒例の伝統行事なのでしょう。存じませんでした。

最終走者(笑)、「日本歌曲研究会」さんの中で、朝岡真木子氏作曲の「組曲 智恵子抄」から「千鳥と遊ぶ智恵子」を清水邦子氏が歌われる予定です。

招待券を頂いており、このステージのみ聴きに行く予定です。さすがに最初から最後までとなると、おなかいっぱいになるでしょう(笑)。

皆さまも是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

年末年始のお小遣いの足しにもと思つて少々送ります、小生はやはりねたりおきたりしてゐます、


昭和30年(1955)12月22日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取ってくれた、その姪の春子宛書簡から。幼児二人を抱えて未亡人となった春子には、気づかいを忘れませんでした。

こうして昭和30年(1955)が暮れて行きます。

長野県の松本平地区をカバーする『市民タイムス』さん、先週の記事から。

荻原碌山のブロンズ像「坑夫」 生徒が初の洗浄作業

 安曇野市穂高東中学校の生徒と隣接の碌山美術館の職員が23日、同校に設置されている、穂高出身の彫刻家、荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)の代表作「坑夫」のブロンズ像を磨く作業をした。偉人の功績に思いをはせながら、長年風雨にさらされ付着した汚れを取り除いた。
 前身の穂高中学校が昭和29(1954)年に開校した際、旧南安曇教育会のはからいと遺族の理解で正面玄関の前庭に設けられて以降、親しまれてきた同校のシンボルだ。美術部員4人が、洗浄剤とブラシで汚れを落とし、蜜ろうワックスを塗布して布で磨き上げると、酸性雨による雨だれ模様が一掃され、輝きを取り戻した。
 「坑夫」は碌山が巨匠ロダンに師事し、パリの美術学校で学んでいた1907年の制作。イタリア人男性がモデルの力強い作風で、日本近代彫刻の礎を築いた傑作と称される。2年生の小林要太さんは「作業に関わり、碌山は地元の宝だとあらためて感じた」と話した。3年生の山田朱里部長は、総合的な学習の時間で碌山を学んだり、清掃の時間に同館の掃除を行ったりしてきた同館との交流を振り返り「素晴らしい芸術が日常にある恵まれた環境」と感謝した。
 碌山の十三回忌に合わせ遺族が前身校に寄贈した「小児の首」をシンボルとする穂高南小や、同館が開校記念として「坑夫」を贈った穂高西中から、メンテナンスの相談が寄せられていたことを受け、碌山ゆかりの作品を屋外に設置する穂高西小や穂高北小へも同館職員が出向き、作業を済ませた。
 いずれも初めての取り組みで、碌山美術館の武井敏学芸員は「先人や関係者たちの思いが宿るもの。芸術的価値を伝える作品性が保たれれば」と話している。
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記事では光太郎に触れられていませんが、守衛の「坑夫」(明治40年=1907)はパリ留学中の習作で、当時ロンドン留学中だった光太郎がパリの守衛の元を訪れ、これを見せられて感銘を受け、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた作品です。そうした経緯もあって、昭和29年(1954)に当時の穂高中学校さんにこの像が設置された際、題字を光太郎が揮毫しました。上の画像に題字のパネルも写っています。
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酸性雨による金属劣化の問題はかなり前から指摘されています。主に工業地帯をかかえる大都市圏での話ですが、自然豊かな安曇野あたりでも無関係ではないのですね。

同館のX(旧ツイッター)投稿に、メンテナンスのビフォー(左)/アフター(右)それぞれの画像が出ています。
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全体に緑青に覆われていたような感じでしたが、ブロンズ本来の色合いに戻ったように見えますね。ワックスのおかげでしょうか、かなり光沢も出ているような。生徒さんたち、グッジョブです。

当方、SNSで神戸の「彫刻みがき隊あのね会」の方々と繋がっています。主に野外彫刻のメンテをボランティアで行われている方々で、「どこどこの彫刻をきれいにしました」的な投稿を見るたび、頭の下がる思いでいます。


自治体などの中には、こうした野外彫刻や石碑など、建てて建てっぱなし、あとは知ったこっちゃない、というスタンスが見られるところが珍しくありませんが、一方でこうした皆さんもいらっしゃるというのは素晴らしいことだと思います。そして今回の穂高東中さんの取り組みも。

また、一昨年には、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、除幕70周年を記念して、地元の皆さんを中心に、雨の中で大規模な清掃が行われました。

こうした活動がもっともっと広まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

又拓本をお預かりいたし忝く存じます、

昭和30年(1955)11月28日 硲真次郎宛書簡より 光太郎73歳

硲真次郎は詩や美術評論なども書いていた人物。光太郎とは戦前からの付き合いでした。「拓本」が何の拓本なのか、同時期の日記等を見ても詳細は書かれていません。もしかすると、上記の光太郎が揮毫した「坑夫」題字プレートの拓本か、とも思ったのですが、硲と安曇野との関係が確認できません。
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これよりも、晩年の光太郎が好んだ中国の書家の碑から採った拓本と考えた方がつじつまが合うような気もします。

講談の公演情報です。

一龍斎貞奈 入門10周年記念公演〜昭和100年特集〜

期 日 : 2025年8月9日(土)
会 場 : 日本橋社会教育会館 東京都中央区日本橋人形町1丁目1番17号
時 間 : 開場17:20 開演:17:45
料 金 : 2,500円

演 目 : 「高村智恵子の恋」他一席
出 演 : 一龍斎貞奈 ゲスト 神田あおい

私が師匠貞心の元へ入門して10年…記念の講談会を開いていただきます。絶賛チケット発売中! ぜひよろしくお願いいたします✨ 「昭和講談ガールズ(あおい&貞奈)」結成記念 トークタイムでは懐かしのあの歌を二人が歌います!

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講談で智恵子。前例があります。神田紫さんという方が「智恵子・光太郎」という演目を持ちネタの一つになさっていて、平成20年(2008)には智恵子の故郷・二本松でも高座がありました。聴きに行けませんでしたが。
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講談と言えば、「炎の歌人 与謝野晶子」という演目をテレビで2回拝見したことがあります。最初は神田京子さんという方。確か、晶子の弟分・光太郎にもちらりと触れて下さったような記憶が残っています。2度目は神田陽子さんという方。お二人とも歯切れの良いテンポで晶子と鉄幹、そこに山川登美子が絡むドラマを語られていました。
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また、講談ではなく創作落語で桂幸丸師匠の「幸丸流 智恵子抄」、光太郎の父・光雲を主人公とした鈴々舎馬桜師匠の「名人傳」を拝聴したことも。

今回の「高村智恵子の恋」も、ぜひ聴きたかったのですが、あいにく同じ日に女川光太郎祭ですので不可能。残念です。

御都合つく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】
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先日は宮崎丈二兄に托された“花霞”のちらしなど珍らしく拝見、

昭和30年(1955)11月28日
硲真次郎宛書簡より 光太郎73歳

清酒「花霞」。福島二本松の智恵子の実家・長沼酒造の銘酒で、大正12年(1923)の関東大震災直後、東京ではとにかく物が不足していたことから、光太郎が取り寄せ、自ら荷車を引いて売り歩いたとのこと。ラベルや引札も光太郎自身が木版で作りました。引札は二本松の智恵子記念館さんに展示されています。その懐かしい自作の引札を硲が届けてくれたというわけです。
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古雅 清醇 ゐなかざけ 花霞
大酒はもとより大毒。のまずにすむなら酒はのまぬが一番。もしのむなら安くてわるい酒は禁物。高くてもよい酒が結構なれど安くてよい酒なら尚ほ結構な道理でございます。
岩代の田舎酒この花霞(ハナガスミ)はどんなに信用されてもよいほど醇良で価もまづ安い方。風味は人のすきずきながら古雅で精妙で灘とは又違つて趣がふかいといふ評判でございます。
高くてわるい酒に悩まされてゐる方にはこのお酒をおすすめいたします。

  銘酒 花霞分譲会
仮取次所 本郷区駒込林町二十五 高村氏アトリエ方

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