2025年07月

昭和6年(1931)、光太郎は三陸沿岸各地を約1ヶ月旅し、宮城県牡鹿郡女川町にも逗留しました。それを記念して毎年開催されている女川光太郎祭、今年も開催されます。

地元紙『石巻かほく』さんに予告記事が出ています。

高村光太郎の足跡しのぶ 講演や朗読、献奏も 女川・来月9日

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第34回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が8月9日午後1時から、女川町まちなか交流館で開かれる。入場無料。
 戦前に女川を訪れ、詩や紀行文を記した光太郎の足跡に触れる。高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が講演するほか、町内外の12人が自ら選んだ光太郎の作品を朗読する。ギタリスト宮川菊佳さん、オペラ歌手本宮寛子さんによる献奏、献歌もある。
 光太郎は1931年夏、女川や石巻市、気仙沼市など三陸沿岸を巡り、多くの詩文を残した。女川湾に面した海岸広場には文学碑が建立されている。
 光太郎祭は地元の有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開催してきた。事務局のメンバーは「光太郎が残した文化や祭りの存在を次の世代の人たちにつなげていきたい」と話す。
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詳しい案内文書等が来ていないのですが、例年通りという連絡があり、おおむね以下のような感じのはずです。ただ、式典等の部が昨年までは14:00からでしたが、『石巻かほく』さんには13:00からと予告されていますので、そうなのでしょう。

女川光太郎祭

期 日 : 2025年8月9日(土)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 13:00~
料 金 : 無料

10:00~ 高村光太郎文学碑へ献花
13:00~ 式典等
 黙祷
 記念講演 「高村光太郎の彫刻(その1)」 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 ご挨拶 女川光太郎の会
 献花の模様動画投影
 光太郎紀行文・詩の朗読 町内外の皆さん
 祝辞
 アトラクション演奏 
ギタリスト宮川菊佳さん、オペラ歌手本宮寛子さん
18:00頃~
 懇親会

午前中に行われる、平成3年(1991)に当時の海岸公園に建てられた光太郎文学碑への献花は関係者で。見たい、という方はご覧下さって結構ですが。碑の建立を機に、翌年から光太郎祭が開催されるようになりました。碑は平成23年(2011)の東日本大震災で倒壊しましたが、令和2年(2020)に再建されています。

碑の建立や光太郎祭の運営に奔走された貝(佐々木)廣氏は震災で津波に呑まれて亡くなり、碑文の一部を揮毫されたり、永らく光太郎祭で記念公演を毎年されたりなさっていた、元当会顧問の北川太一先生も鬼籍に入られました。光太郎をはじめ、それらの皆さんへの思いこめての献花です。

午後の部、メインは町内外の方々(今年は12名だそうで)による光太郎詩文の朗読ですが、前座として当方の講演。最初は北川先生との対談形式で行い、その後10年ほど、光太郎と女川との繋がり、連作詩「暗愚小伝」に基づいて光太郎の生涯を紹介し、それも終わって、昨年は智恵子の生涯について語らせていただいています。今年以降、どうしようかと考えましたが、いつも話の枕として「光太郎は色々な分野に足跡を残した総合的な芸術家だった」ということを語っていることに思い至り、それならその「色々な分野」を一個ずつ取り上げていけばまた10年くらい何とかなるかと考えています。そこで今年と来年は「彫刻」。一般の方にもわかりやすいようにかみ砕いて、光太郎彫刻の成り立ちを語ります。

終了後は会場近くの町中華さんで懇親会。年に一度お会いする方々が多く、それが一つの楽しみです。

今年は土曜日の開催ですし、ご都合のつく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生昨年と今年とは療養のため多く臥床、来年はそろそろ又仕事にかかりたいと思つて居ります、

昭和30年(1955)11月28日 野見山朱鳥宛書簡より 光太郎73歳

余命約4ヶ月、もはや病状は彫刻制作にかかることを許さないほど悪化していたのですが、気持としてはやる気に溢れていたようです。あるいは日記等にも書かれているように、彫刻より「書」をイメージしていたのかもしれません。

「智恵子抄」系の公演情報を2件。

まずは福島から独唱歌曲の演奏会です。

欅の会・日本歌曲コンサートー清水脩の世界ー

期 日 : 2025年8月3日(日)
会 場 : キョウワグループ・テルサホール 福島市上町4番25号
時 間 : 開場 13:00 開演 14:00
料 金 : 1,000円(全席自由)

詩人の高村光太郎と福島県出身の妻、智恵子が題材の曲を演奏します。

プログラム
 第1部「わたしたちとドイツ歌曲」(美しき水車小屋の娘:シューベルト)
  Dos Wondern(さすらい) Wohin?(どこへ?) Am Feirrobend(仕事のあとで)
  Der Neugierige(知りたがる者) Uegengruss(朝の散歩)
  Des Müllers Blumen(水車屋の花) Tränenregen(涙の雨)
  Der Müller und der Bach(水車屋と小川) Des Baches Wiegenlied(小川の子守歌)
  山田耕筰・清瀬保二・間宮芳生・猪本隆・原久貴作品とともに
 第2部「清水脩作品集」
  「奥の細道」より(松尾芭蕉句)
   行く春や 風流の初やおくの 世の人の見附ぬ花や 早苗とる手もとや昔
   笈も太刀も五月にかざれ 旅に病んで
  「智恵子抄」より(高村光太郎詩)
   あどけない話 美の監禁に手渡す者 千鳥と遊ぶ智恵子 風にのる智恵子
   値ひがたき智恵子 レモン哀歌 荒涼たる帰宅


出演 ソプラノ 相田美保 佐藤彰子 みのり 佐藤裕子 藁谷志帆
   アルト  佐藤奈緒美 中村すみれ 細田睦子
   テノール 荒井一成  バリトン 竹沢嘉明
   ピアノ  熊田桂子 窪田綾奈 小林悟 吉田圭祐

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故・清水脩氏の全12曲から成る歌曲集「智恵子抄」から7曲、ピックアップされています。このうち「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」は光太郎生前の昭和30年(1955)の作曲。ソプラノ歌手・小島幸(大3=1914~平19=2007)の独唱会の依嘱作品でした。「風にのる智恵子」「荒涼たる帰宅」は同年、東京交響楽団の依頼により作曲され、同団定期公演でソプラノ歌手・古澤淑子(大5=1916~平13=2001)歌唱、同団伴奏により初演が為されています。「値ひがたき智恵子」は昭和34年(1959)、ソプラノ歌手・内田るり子(大9=1920~平4=1992)の「渡欧記念第五回連続日本歌曲独唱会」への委嘱作品として、「美の監禁に手渡す者」は昭和46年(1971)、テノール歌手・中村健(昭7=1932~)に献呈という形で作曲され、「中村健独唱会」で初演されました。ピアノ伴奏は三浦洋一(昭8=1933~平21=2009)でした。

光太郎があとからあとから「智恵子抄」収録詩篇を作り続けたように、清水氏も4期に分けて作曲しつづけ、完成までに16年かかっています。よほど「智恵子抄」詩篇に思い入れがあったのでしょう。舞楽の楽人であった父の影響もあり、邦楽にも関心を寄せていた氏は、昭和34年(1959)には箏曲、室内楽と朗読のコラボレーションによる「詩のための音楽 智恵子抄より」も作曲しましたし、合唱曲でも「智恵子抄巻末のうた六首」など多くの作品で「智恵子抄」をテキストに使っています。

もう1件、栃木県から朗読の公演。

秋元紀子ひとり語りin宇都宮

期 日 : 2025年8月8日(金)
会 場 : café Mario~休みの国~ 宇都宮市昭和2丁目9-20
時 間 : 開場 9:45 開演 10:00
料 金 : 3,500円+ランチセット1,580円

プログラム
 Opening act 高村光太郎作『智恵子抄』 朗読:篠崎令子
(キビタノ朗読会)
 太宰治作『恥』  安房直子作『青い花』

名古屋、秩父と好評だった太宰治「恥」と安房直子「青い花」を宇都宮でも語らせていただきます。「恥」は、ある一文がとても気に入っています。その箇所に来ると私の表情が変わると思います。「青い花」は、自分への戒めと思って読んでいます。カフェマリオの手加減しないジンジャーエールと共にお待ちしています!お問い合わせは、下記までよろしくお願い致します。
 グッドフェイス宇都宮 goodface_utsunomiya2019@yahoo.co.jp
 080-2018-3485(小林)
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メインは秋元紀子さんという方の朗読ですが、オープニングアクトとして篠崎令子さんという方による「智恵子抄」朗読がプログラムに入っています。秋元さんが講師を務められている朗読教室の方のようです。

「智恵子抄」系(無論、他の光太郎作品も)、このように音楽や朗読やで、あるいは演劇や映像作品など他のジャンルでも愛され続けて欲しいものです(長くなるので後日改めてご紹介しますが、講談の公演も近々あります)。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おハガキありがと。写真はまたいつかとつてください。このあいだは暗すぎたのだろうと思います。こんどは日のあたつているところでとればいいでしよう。私の病気がもつとなおつたころ。


昭和30年(1955)11月11日 神保明彦宛書簡より 光太郎73歳

交流のあった詩人・神保光太郎の子息に宛てた書簡です。子供に送る手紙は新仮名遣い(促音や拗音を一回り小さいサイズにすることは除く)というのが光太郎のポリシーでした。

この「写真」、どこかで見た記憶があるのですが、今、パッと出てきません。すみません。

光太郎の父・光雲の手になる彫刻(大正12年=1923)が施された祭車が出る祭礼です。

桑名石取祭

期 日 : 2025年8月2日(土)~8月3日(日)
会 場 : 春日神社(桑名宗社)周辺 三重県桑名市本町46番地
時 間 : 8月2日(土) 試楽 (午前0時叩き出し)  8月3日(日) 本楽

 「日本一やかましい祭り」「天下の奇祭」として知られる、桑名市の春日神社を中心に行われる祭です。華麗な装飾を施した最大40台の祭車に鉦や太鼓をつけ、それらを一斉に打ち鳴らす音が、見る者を圧倒させる勢いある勇壮な祭りで、桑名の夏の風物詩として、地元の方に昔から親しまれています。
 本楽では春日神社への巡行を行うため、旧東海道などを練り歩くその姿は荒々しく、勇敢さを感じると言われています。
 立川和四郎富重の彫刻や高村光雲作の飾り物をもつ歴史的にも価値の高い祭車もあり、各地区の住民は総出で参加し、一年一度の最大の娯楽行事ともなっています。
 2007(平成19)年3月7日に国の重要無形民俗文化財に指定され、2016(平成28)年12月1日には、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産代表一覧に記載されました。
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光雲の木彫が施されているのは、「羽衣」という祭車。「組」としては「第一組」、今年は春日神社さんへの渡りが12番目だそうです。
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上の2枚は公式サイトから。

宮大工(株)飛鳥工務店さんのサイトにアップされている写真をお借りします。
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すべて一木造りでしょう。人間業とは思えません。機械でも無理でしょうが。3Dプリンタなら、とも思いましたが木材には対応していないでしょうし、そもそも3Dプリンタも元になる造型がなければどうしようもないわけで。これはこれで文化財に指定されてもおかしくない、というかされるべきものだと考えます。

もう一台、「太一丸」という祭車にも光雲工房作の木彫があしらわれているのですが、こちらの祭車は残念ながらもうしばらく出ていません。担い手不足などが原因とすれば淋しい限りです。それを言えば、全体の数も昨年は40台だったのが今年は39台のようで、それもそうなのでしょうか。石取祭と同時にユネスコ無形文化遺産に登録された、当会事務所兼自宅のある千葉県香取市の「佐原の大祭」でも同様のケースがありました。残る「羽衣」の祭車が出なくなるという事態はあってほしくないものです。

というわけで、ぜひ足をお運びの上、光雲の超絶技巧をご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

当日饗宴の半ばに中座でもするといけないと思ふので、失礼ながら五日には不参にして、自宅から祝福を送ります。何だか心が花やぐ思ひです。


昭和30年(1955)11月3日 髙村豊周宛書簡より 光太郎73歳

「饗宴」は、光太郎実弟の豊周息女(つまり光太郎令姪)の美津枝さん(ご健在です)と、岩波映画社の故・高村武次氏の結婚披露宴です。闘病中でなければぜひとも出席したかったでしょう。

智恵子のソウルマウンテン、福島二本松の安達太良山でのイベントです。プレスリリースから。

「あだたら高原リゾート」にて 光り輝く福島の夏の風物詩「あだたらイルミネーション」7/26(土)開幕! 日本百名山の一つ「安達太良山」を楽しめる

 今年で14年目を迎える「あだたらイルミネーション」は、あだたら高原リゾートの夏の風物詩として、毎年多くのお客様にご好評を博しております。冬はスキー場として親しまれている広大な斜面を舞台に、約65万球のイルミネーションが点灯し、幻想的な空間が広がります。
 花をモチーフとした「ビッグフラワーイルミネーション」や「ひまわり畑」が登場し、山の夜景とともに華やかな雰囲気をお楽しみいただけます。また、夜空に浮かぶ「光の天の川」や、「夏の大三角形」、「北斗七星」といった代表的な夏の星座が、光の粒となって地上を美しく彩ります。さらに、カラフルな可愛らしい動物モチーフのイルミネーションも見逃せません。
 加えて、今年は「あだたらやま」の「あ」に着目したユニークなモニュメント「【あ】のオブジェ」や「【あ】の道」の新たなイルミネーションが登場します。「あだたらやま」という名前は、よく見ると母音がすべてア段で構成されているという特徴を持っており、その一風変わったネーミングにフォーカスした仕掛けとなっています。阿武隈の山並みや安達太良の星空を背景に、思わず「何これ?」と驚き、誰かにシェアしたくなるようなインスタ映えする写真を撮影いただけます。
 昼間は爽やかな自然をたっぷりと満喫し、夜は一転して、幻想的な光の世界に包まれる――そんな心に残る特別な光のイベントとして、皆さまに忘れられない思い出をご提供いたします。この夏は、ファミリーやカップル、ご友人同士など、あだたら高原リゾートでロマンティックな夜をお楽しみ頂ける「あだたらイルミネーション」にご注目ください。
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「あだたらイルミネーション」概要
・開催期間 2025年7月26日(土)~9月21日(日)
 ※8月26日以降は、金・土・日・祝日のみの営業
・営業時間 19:00~21:00 
 ※ロープウェイの上り最終20:30、下り最終20:50
・料金
  入場料 中学生以上700円、小学生以下500円
  入場料+ロープウェイ乗車 中学生以上1,500円、小学生以下1,000円

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イルミネーションとともにお楽しみいただける、新メニュー「光るかき氷」や「光る氷ドリンク」が登場いたします。どちらもワンハンドで持てるので、イルミネーションとの撮影も可能です。
・限定メニュー
  光るかき氷 サイダー味、イチゴ味 600円
  光るドリンク ブルースカイ    600円

【あ】のオブジェ
 ロープウェイ山頂駅の旧スキーゲレンデ展望広場のフォトスポット「あだたらやま」の「【あ】のオブジェ」がイルミスポットに進化して新登場。様々なサイズの「あ」の文字が散りばめら「【あ】の道」もカラフルな光でライトアップされ、昼と夜とで違った魅力 をお楽しみ頂けます。「あ」ぶくまの山々を背景に、豊かな成長を繰り返す「あ」だたらやまで、不思議な「あ」の映え写真を撮ってみてはいかがですか。
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■【あ】のメニューも登場!
 「あ」のオブジェとともに、「あ」をモチーフとした、「あ」のチュロス、「あ」のソフトクリーム、「あ」のかき氷ソフトを発売します。鮮やかな緑の木々や青い空にかざして写真を撮ると、インスタ映え間違いなしです。「あ」だたらやまで「あ」のフードをご賞味ください。
<メニュー>
 ・「あ」のチュロス 600円 ・「あ」のソフトクリーム 500円 ・「あ」のかき氷ソフト 600円
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「あだたら高原リゾート」施設概要

■ロープウェイからの絶景、薬師岳パノラマパークからの雄大な景色を一望
 「日本百名山」の一つに数えられる安達太良山は、標高1,700mで夏でも涼しい環境で大自然を満喫できます。あだたら山ロープウェイに乗って約10分の空中散歩を楽しんだ後、山頂駅からは阿武隈山系や福島市街地を一望。さらに、散策道を10分程歩いたところにある「薬師岳パノラマパーク」では、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる、青く澄みきった空と絶景の大パノラマが楽しめるほか、山肌にはハートの形を発見することができ、見どころいっぱいです。
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■食堂・売店「富士急レストハウス」では夏メニューを販売開始
 暑い夏にぴったりのひんやりメニューを販売いたします。雪のようなふわふわ食感の「あだたらスノーアイス」や、夏の暑い日であだたらスノーアイスもさっぱりと味わえる「梅と蒸し鶏のおろしうどん」、かき氷をたっぷりのせた「かき氷そば」など夏限定メニューをご賞味いただけます。
<メニュー>
 ・あだたらスノーアイス  600円 ・梅と蒸し鶏のおろしうどん950円 
 ・かき氷そば       800円 ・冷やし担々麺      950円
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■絶景露天風呂「あだたら山奥岳の湯」でリフレッシュ!
 標高約950mに位置する「あだたら山奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂です。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。
【施設概要】
 ・営 業 日 年中無休 ※メンテナンス休業あり
 ・営業時間 10:00~19:00(最終入館18:30)
 ・施設内容 内湯(9㎡)、露天風呂(20㎡)※男女別
 ・利用料金 大人800円/小人(4才~小学生)500円
 ・泉質 単純酸性温泉
 ・適応症 神経痛 筋肉痛 関節痛 運動麻痺 慢性消化器病 冷え性 疲労回復
      健康増進 慢性皮膚病
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「あだたら高原リゾート」営業概要
 ・営業時間 8:30~16:30 ※日によって異なり、定休日もあります(HPをご参照下さい)
 ・お問い合わせ 福島県二本松市奥岳温泉  TEL:0243-24-2141
 ・アクセス 
  車/
東京から東北自動車二本松IC(約150分) 国道459号岳温泉経由県道386号(約20分)
  鉄道/東京駅→郡山駅(東北新幹線約90分)、郡山駅→二本松駅(東北本線約25分)、
     二本松駅→岳温泉(福島交通バス約25分)、岳温泉からタクシー約10分

現地は標高も高く、湿気も少ないので爽やかな感じです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

放送を聞かれた由、自分できいても声が不健康をあらはしてゐるやうにきこえました、

昭和30年(1955)10月29日 舟川栄次郎宛書簡より 光太郎73歳

「放送」は10月18日にNHKラジオでオンエアされた、当会の祖・草野心平との対談「芸術よもやま話」。平成8年(1996)にNHKソフトウェアさんから発売されたCD「昭和の巨星 肉声の記録~文学者編~ 室生犀星/高村光太郎」に収録されています。
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17分余りの対談で、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」にも触れています。この頃はほとんど臥床していることが多かったものの、書簡にあるほど不健康そうではなく、むしろ矍鑠とした感があるのですが……。

花巻レポート最終回です。

7月23日(水)、旧太田村の高村光太郎記念館さんでコンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」の準備を始める前、先日始まった特別展を拝見。

まずは玄関を入ってすぐ、「智恵子のエプロン復刻展示」。
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花巻南高校家庭クラブさんの力作です。エプロン自体は一昨年から昨年にかけて制作され、模造紙の説明資料は今年4月から5月、二本松の智恵子記念館さんで展示された際のものが転用されています。その際に当方が作ったパネル2枚も差し上げたので、一緒に並んでいます。

思えばこの高村光太郎記念館さんでの市民講座で講師を務めさせていただいた際にこのエプロンについても触れ、「どなたか作って下さいませんかね」と呟いたのがきっかけでした。呟いてみるもんですね(笑)。

エプロンについては以下をご参照下さい。
智恵子のエプロン。
世田谷文学館「コレクション展 衣裳は語る──映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事」レポート
東北レポート その1 岩手花巻なはんプラザ 「五感で楽しむ光太郎ライフ」。
「五感で楽しむ光太郎ライフ」報道。
花巻南高校文芸部誌『門 ⅩⅧ』。
みちのく随想 私たちのリレー。
高村智恵子生誕祭 音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた/「智恵子のエプロン」復刻展示。
二本松レポート その2 光太郎智恵子聖地巡礼。

近々、『読売新聞』さんの岩手版で紹介されるはずです。一昨日、電話で取材を受けました。

続いて奥の展示室にて「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業 昔なつかし花巻駅」を拝見。
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メインのジオラマは平成30年(2018)に同館で開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際にも制作をお願いした石井彰英氏と、お友達の土屋直久氏の合作。前回は石井氏に大変な御苦労をおかけし、ご自身でも「もうこりごりだ」的なこともおっしゃっていたので、その後当方は依頼を遠慮していたのですが、今回は当方を飛び越えて直接石井氏に依頼が行きました。「一人では無理」ということで、土屋氏を巻き込んで、というか、今回、土屋氏が主導で制作されたそうで、石井氏の名はクレジットされていませんでした。
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前回は戦後すぐの光太郎在住時をイメージして作っていただきましたが、今回の設定は昭和6年(1931)。さらに前回は花卷市内の光太郎と関わりのあるところをだいたいの位置関係で押し込んだ感じでしたが、今回は花巻駅周辺のみを、ほぼ正確な配置で。
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上の画像で、中央上の方が東北本線花巻駅。左の中段が花巻電鉄の駅、下段が軽便鉄道の駅。花巻電鉄、軽便鉄道ともに、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモチーフの一つと言われています。
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精巧な出来栄えに目を見張りました。

周囲の壁には軽便鉄道関連で味のある古写真など。
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「光太郎と花巻電鉄」の際に作っていただいたジオラマも、通常の第2展示室に。
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その向かい側では、特別展「中原綾子への手紙」も開催中。
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というわけで、現在の記念館さんは非常に盛りだくさんです。

隣接する(といっても数百㍍)高村山荘。
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その奥の「雪白く積めり」碑。
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この後、コンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」となりました。

そちらを2公演、つつがなく終え、出演者のお二人、箏の元井美智子さん、朗読の荒井真澄さんともども大沢温泉山水閣さんに宿泊。
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翌朝、以前は宿泊棟「菊水館」として使われ,、光太郎や当方も泊まった(健在の頃は当方も定宿でした)「ギャラリー茅」で、「トトロとジブリとカンヤダと」展を三人で堪能。先月も拝見しましたが、その際は自炊部さんに宿泊で、同展は別料金だったのが、今回のように山水閣さんに泊まれば無料です。それは存じませんでした。
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フロントに戻り、チェックアウト。フロントにはジブリプロデューサーで「カンヤダ」展仕掛け人でもある鈴木敏夫氏の筆になる「雨ニモマケズ」屏風。
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続いて、大沢温泉さん近くの「山の駅 昭和の学校」さんへ。
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廃校になった小学校を使った施設で、館内は昔の商店街をイメージし、所狭しと昭和の品々が並んでいます。
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実際に小学校だった頃に、児童さんが作った卒業記念のオブジェ。郷土ゆかりの偉人ということでしょう、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)がモチーフです。
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その後、元井さんのリクエストで、花巻東高校さんの大谷翔平選手・菊池雄星選手のモニュメントへ。こちらは当方初めてでした。
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最近は市内周遊のレトロジャンボタクシー「どんぐりとやまねこ号」のコースにも入るなど、すっかり新たな観光地化していて、この日も賑わっていました。
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最後は市の中心部に戻り、賢治御用達、さらに光太郎もよく足を運んだやぶ屋さんで昼食。ここでお二人と別れ、帰途に就きました。お二人はさらに宮沢賢治童話村に行かれたそうですが。

そんなこんなで充実の2泊3日でした。皆さまもこの夏、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

リンゴ感謝、今年は東北も不作ときいてゐましたが、二六園ではやはりいつものやうに立派なのが出来たと見えて見事です。中西夫人にもお分けしてよろこばれました。


昭和30年(1955)10月19日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎73歳

「二六園」は、光太郎を花巻に招いた一人、花巻病院の佐藤隆房院長が自宅敷地内に作ったリンゴ園です。

7月23日(水)に開催いたしましたコンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」についてレポートいたします。

ご出演は、「声」が仙台ご在住のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さん、「箏」で都内からお越しの箏曲奏者・元井美智子さん。お二人での公演、さらにテルミン奏者の大西ようこさんを加えてのトリオでの公演をこれまでもなさっています。

「東北ツアー」と銘打って、7月22日(火)と7月25日(金)には荒井さんのテリトリーの仙台で2公演。間に挟まる7月23日(水)は光太郎第二の故郷・花巻で。当初、花巻では小さめのホールなどを借りて、とお考えだったそうですが適当な会場が取れず、そんなこんなの中で「高村光太郎連翹忌運営委員会の主催ということにすれば、高村光太郎記念館で開催可能」という話になって、こちらにお鉢が回ってきました(笑)。

こちらも独自に「市街地のカフェ羅須さんも借りられますよ」と情報を流しておいたところ、「じゃあ2公演やってしまいましょう」とパワフルなお二人(特に元井さん)が(笑)。

さて、まずは旧太田村の高村光太郎記念館さん。
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リハーサル風景。
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右上画像、像の背後のスピーカーと変に重なり、「乙女の像中型試作」がスマホで写メ(死語ですね(笑))を撮っているように写ってしまいました(笑)。

13:00から本番。
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平日の昼間にもかかわらず、そこそこのお客様がお集まり下さり、感謝に堪えませんでした。
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およそ1時間のプログラムを終え、速攻で撤収。2公演目のカフェ羅須さんへ。
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急いでセッティングし、リハ。
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ちなみにギャラリーも兼ねる羅須さんでは、現在、岩手の花々を撮った地元の方の写真展が開催中です。
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今朝の『岩手日日』さん。しれっと一般人のような顔をして写っているのは当方で、前日にご挨拶に伺った際にたまたま取材が入り、映り込んだ次第です(笑)。
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閑話休題、16:00から2公演目の本番。ここが宮沢賢治の親友だった藤原嘉藤治ゆかりの場所ということで、賢治作品も盛り込みました。光太郎も疎開でお世話になっていた宮沢家も指呼の距離ですし。
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こちらの方が少し長いプログラムで、17:00過ぎに終演。

2公演ともいい感じにまとめられました。開催にご協力下さった地元の皆さん、平日にもかかわらずお越しいただいたお客様方に、厚く御礼申し上げます。

この後、3人で花巻南温泉峡・大沢温泉山水閣さんに宿泊いたしました。

こんな感じで、当会を主催とすれば高村光太郎記念館さん(二本松の智恵子生家も)での公演が可能です。通常は「やらせてくれ」と言ってもそういう使用方法はできません。また、羅須さんなど当方のお世話になっているところには仲介も致します。場合によっては宿の手配も。全国の演者の皆さん、ご検討下さい。ただし、高村光太郎記念館さん(二本松の智恵子生家も)では公演料は取れません。光太郎智恵子の聖地中の聖地でできる、という点だけがメリットです。また、流石に当方の全然存じ上げない方は紹介できないかな、という感じでもありますのでよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

もう稲刈はすんだでせうか、小屋のあたりの栗が今ごろはさかんに落ちる頃と思ひます、子供達がよろこんでとりにいつてるでせう。何かにつけて山がなつかしく感じられます。


昭和30年(1955)10月8日 浅沼政規宛書簡より 光太郎73歳

浅沼ら、旧太田村の人々への書簡は概して村を懐かしむ内容が主でした。

昨日まで2泊3日で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

7月22日(火)、東北新幹線新花巻駅前で借りたレンタカーでまず向かったのは、同駅からそう遠くない花巻市博物館さん。
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こちらでは「令和7年度テーマ展 戦後80年 戦争と花巻」が開催中で、光太郎に関わる展示もあるだろうと思い、お邪魔しました。

受付で入館料を払うと、まず展示室に入る前の最初のショーウィンドウ的なコーナーに、いきなり38式歩兵銃や99式短小銃、軍刀など。のっけから粛然とした気持にさせられました。
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展示室に入ると、満州事変(昭和6年=1931)の頃から戦後までのリアル資料がずらり。
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花巻とその周辺地域に関わる品々が多く、時期はずれていましたが宮沢賢治が勤務していた花巻農学校の卒業生に関わるものなども。
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いわゆる「青い目の人形」。よくぞ残っていたものです。
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墜落した特攻機の残骸。
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戦死した搭乗員などの多くは、光太郎の書いた翼賛詩に心ふるわせながら戦地に赴いて行き、露と消えていきました。

そうした兵士への弔辞の一部。
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戦争末期には光太郎の詩もこんな感じになっていました。戦後になってその罪深さを感じて当然だったでしょう。他のほとんどの文学者は同じような作品を書いても「あれは軍の命令で仕方なく書いたのだ」と開き直ったり、自らの年譜の中でこの手の作品は無かったことにしたりしましたが。

その光太郎がらみ。

まずは昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲関連で、詩「非常の時」の一節を刻んだ碑の拓本が出ていました。
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碑そのものは、旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内にあります。そもそもはこの詩を贈られた花巻病院長にして戦後は財団法人高村記念会を立ち上げた佐藤隆房医師の顕彰碑です。翌日撮ってきました。
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正面の題字は当会の祖・草野心平の揮毫。両サイドに「非常の時」の一節が光太郎自筆拡大で。元になった書は高村光太郎記念館さんで展示されています。空襲時の極限下で自らの危険を顧みず負傷者の救護にあたった佐藤ら医師や看護師、看護学校生を讃える内容のため、コロナ禍の最中に同じように頑張った現代の医療従事者へのエールともなる、と、少し注目もされました。

詩は終戦直後の9月に行われた病院の表彰式で光太郎自身が朗読しました。その際に表彰された女性への表彰状。
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こんなものも残っていたんだ、と、うるっときました。

その花巻空襲関連の展示。
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投下された(最新鋭のロケット弾も使われたということで、その場合は「発射された」)爆弾の破片も。「うわぁ」という感じでした。
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空襲時、光太郎は豊沢町の宮沢賢治実家に疎開していましたが、そこにも火の手が廻り、必死に消火にあたろうとしたものの、結局はどうにもできませんでした。その際に光太郎が被っていた鉄兜と手にしていた鳶口が現存しています。高村光太郎記念館さんの倉庫に眠っているのでしょう。眠らせておくのならいい機会なのでこちらに貸せばいいものを……と思うのですが、苦言を呈させていただければ、このあたりの連携がまるでなっていないというのが現状です。

直接光太郎に関わる展示がもう1件。戦後の昭和27年(1952)になってからの話ですが、藤根村(現・北上市)の元小学校教師・高橋峯次郎関連です。
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やはり拓本で、高橋が光太郎から贈られた書を写した石碑のもの。
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この碑も北上市内に現存します。小学校教師だった高橋が、戦死した教え子たちなどの供養のため建てた観音堂の境内です。光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京する直前に、高橋が光太郎に観音像の制作を依頼したのですが、無理、ということで代わりに贈られた書で、他にも複数の揮毫例がある観音讃仰の詩が刻まれています。

他に、光太郎と交流のあった岩手で育った画家・松本竣介の絵。
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やはり光太郎と交流のあった写真家・内村皓一の写真。「そういえば内村は大陸にいたんだっけ」でした。
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そして、花巻周辺に残る戦争遺跡などについても。
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最後は花巻らしく賢治の言葉を引用して終わっていました。
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陳腐な表現ですみませんが、実に考えさせられる展示でした。

時間もあるし、ということで、実際に戦争遺跡を見て回りました。以前から気になっていたのですが、場所がわかりにくく、事前に調べておかないとたどりつけそうにない感じで、今回初めて足を運びました。

まず若葉町の「防空監視哨聴音壕」。
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敵機の襲来をいちはやく察知するための施設です。いちはやくと言っても、既に実用化されていたレーダーなどを配備していたわけでもなく、目の良い兵士が目視で、耳の良い兵士が音を聴いて……。「そんなんで勝てる戦争じゃなかっただろう」というのは現代人だから言えることでしょうか。

続いて市役所さん近くの「花川橋」。
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昭和9年(1934)の架橋です。欄干の一部が大きく欠損しています。
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花巻空襲の際、近くに落ちた爆弾の破片による被害とのこと。
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生々しいという言葉がぴったりです。戦争被害を後世に伝えるためにあえて傷痕を残してあるのでしょう。

よく言われることですが、戦後80年の現在が「新たな戦前」とならないよう、一人一人がよく考えないと……と思いました。過日の参議院議員選挙の結果等を見ると、その点が心配でなりません。まぁ、「躍進」といわれる某政党も、ドサクサに紛れて当選した極右の作家もどきなども、そう遠くないうちに馬脚を現すでしょうが。

その後、翌日開催のコンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」でお世話になりますということで会場の一つのカフェ羅須さん、在来線の花巻駅前に新しくできた古書店「港」さんにお邪魔しました。
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さらに港さんの並びの林風舎さんで宮沢和樹氏としばしとりとめのない話を(笑)。
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この日の宿泊は駅前のグランシェールさん。全国的に子供たちの夏休みに入っているからでしょう、定宿の大沢温泉さんは、一人では予約不可でした(翌日は3人で泊まりましたが)。

夕食はすぐ近くの伊藤屋さん。かつて光太郎が市街で最も多く食事を摂った店です。
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この日のキーワードが「戦争」だったので、改めて駅ロータリーの「やすらぎの像」も拝見。
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平成7年(1995)に設置され、花巻空襲で亡くなった方々への慰霊の意味合いが込められています。この像の立っている辺りが、空襲時に最も被害が大きかった地点の一つでした。諸説在るようですが、花巻では50名程の方が亡くなりました。原型作者は花巻出身の故・池田次男氏。昭和30年(1955)、盛岡の岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)卒ということで、もしかすると、同校をたびたび訪れ、アドバイザー的なことも行っていた光太郎を直接ご存じだったかも知れません。

翌日は高村光太郎記念館さんとカフェ羅須さん。明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

映画が学校で公開された由、随分多くカツトされてゐますが、記念にはなるでせう、

昭和30年(1955)10月8日 浅沼政規宛書簡より 光太郎73歳

「映画」は前年、ブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」。昭和28年(1953)に光太郎が一時帰村した際にも撮影班が同行し、旧太田村の山小屋や、浅沼が校長を務めていた山口小学校などでもロケが行われました。








記憶が正しければ今年3度目の花巻。今回は一昨日から2泊3日の行程で、今日が最終日です。現在、光太郎がよく泊まった大沢温泉山水閣さんでこれを書いております。
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普段は自炊部さんですが、都内からいらした箏曲奏者の元井美智子さん、仙台ご在住のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんとご一緒させていただいており、ちと自炊部さんでは⋯⋯というわけで。

部屋は1階の渓流側。驚いたことに光太郎関連を含むいろいろと貴重な品々が展示されているコーナのすぐ近くです。
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というか、自分の部屋の外壁には、光太郎令甥の故・髙村規氏の書額が掲げられています。
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かつて光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地で毎年五月に行われていました「高村祭」にご出席なさった際に揮毫されたものと思われます。

今回は、昨日開催された(名目上、当方が主催者扱いですので「開催した」というべきですか)、先述のお二人による朗読と箏曲のコラボのコンサート花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏が二公演、そちらがメインでした。

一公演目が高村光太郎記念館さん。
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二公演目は市街地のカフェ羅須さん。
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それぞれつつがなく終え、三人で山水閣さんにお世話になっているわけです。

さらに花巻市博物館さんで「令和7年度テーマ展 戦後80年 戦争と花巻」、高村光太郎記念館さんでは「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業 昔なつかし花巻駅」と「智恵子のエプロン復刻展示」を拝見。今日もですが、他にもいろいろ回ります。
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今回は「詳しくは帰りましてから」の扱いにさせて頂きます(笑)。

昨日からまたまた花巻に来ております。ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんと箏曲奏者の元井美智子さんとのお二人がコラボなさる公演「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」の名目上の主催者でして、そのためです。同時に現在、花巻高村光太郎記念館さんでは「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業 昔なつかし花巻駅」と「智恵子のエプロン復刻展示」が始まりましたし、特別展「中原綾子への手紙」も開催中、さらに花巻市博物館さんでは「令和7年度テーマ展 戦後80年 戦争と花巻」(こちらは昨日拝観しました)。
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それぞれ帰りましてから詳しくレポートいたしますが、山積している紹介すべき事項を少しでも片付けないといけませんので、花巻関連のネタを(先月も同じようなことがありましたが(笑))。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。地元で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんで、光太郎の実際に作った献立、使った食材などを参考にされてメニューを考案なさっています。

1週間程経ってしまいましたが、今月分。
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献立は「豚肉と揚げじゃがいもの甘辛炒め」「揚げ鯖の甘酢だれ掛け」「なすの田楽」「茹でとうもろこし」「卵焼き」「胡麻ふかし」「しば漬けとおかかの俵握り」「きゅうりの漬物」「二色羊羹」。

個人的には「豚肉と揚げじゃがいもの甘辛炒め」をぜひいただきたいところです。「胡麻ふかし」は二枚目画像で言うと上の段の中央に鎮座する焦げ茶色のもの。餅米を使った岩手の郷土料理っぽいのですが、見た目の違うものが全国にあるようです。香ばしそうです。

やつかの森さんのもう一つの大きな活動として、花巻市東和町のワンデイシェフの大食堂さんでの「こうたろうカフェ」。やはり光太郎が自分で作った献立、使った食材などを参考にされて、実際に調理もやつかの森さんが担当されています。今年はおおむね月末に設定されているようで、次回が7月30日(水)。

予告されているメニューが「・アトランティックサーモンのステーキ」「豚肉とキクラゲの卵炒め」「茄子とピーマンの素揚げ」「春雨の彩り酢の物」「夏野菜のラタトゥイユ」「季節の漬け物」「ご飯」「麦わら色の冷たいスープ」「梅と柘榴の二色ゼリー」「コーヒー」だそうです。

梅雨も明け、猛暑の日々、夏バテ対策にはやはりきちんと食事を摂ることも大事ですね。

お近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

始まってしまっています。

きもののヒミツ 友禅のうまれるところ

期 日 : 2025年7月19日(土)~9月15日(月)
会 場 : 京都国立近代美術館 京都市左京区岡崎円勝寺町26-1
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 月曜日 ただし7月21日(月・祝) 8月11日(月・祝) 9月15日(月・祝)は開館
      7月22日(火)、8月12日(火)
料 金 : 一般:2,000円(1,800円) 大学生:1,300円(1,100円)
      高校生:600円(400円) ※( )内は20名以上の団体料金

 きものは衣服として、人々の身体を彩ってきました。そして表面を意匠で装飾されるきものは、一定の幅の反物を直線縫いで仕立てるため非常に強い平面性をもつ一方で、施された多彩な意匠は、衣服として身にまとうことで立体性が生まれます。この平面と立体を行き来するところに、デザインされたものをはじめから立体裁断で制作していく洋服とは大きく異なるおもしろさがあります。
 小袖と呼ばれたきものは桃山時代から江戸時代にかけて形式が整い、それを装飾するものとしてさまざまな意匠・模様構成が展開しました。幕末になるとパターン構成の形式化が進みますが、明治時代以降の京都においては日本画家の構想力や空間構成を活かした新たな染織図案が生み出され、斬新なデザインが次々と出現しました。こうしたきものの制作現場では、当時も現在も、平面に描いた下絵から染色図案になる過程で、着用して立体となることを想定した応用や調整の手が加えられてきました。ここに「きもののヒミツ」がひそんでいるのです。
 本展は近世から近代のきものの優品や、近世の流行を支えた雛形本などの資料、さらに円山応挙から始まる京都画壇の展開と染織図案との関わり、図案を染織作品へと応用する過程、染織図案の流行が他の工芸品とも共有するものであったことも紹介。これまでにない視点から「きもののヒミツ」に 迫ります。

展示構成
 第1章 平面と立体のあいだで きものと雛形本
 第2章 京都画壇の日本画と下図、染色図案
 第3章 図案から染織品へ 描かれた図案と染められた図案
  3-Ⅰ 図案から友禅へ
  3-Ⅱ 流行模様と友禅、工芸
 第4章 平面と立体のあいだで 京都の友禅の人間国宝

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基本的にきものそのものの展示が中心です。ただ、それだけでなく図案や関連するアイテムなどの紹介も。そこで出品目録に依れば、「3-Ⅱ 流行模様と友禅、工芸」中に光太郎の父・光雲も腕を揮った「福禄封侯図飾棚」(明治16年=1883 旭玉山、石川光明、大谷光利、香川勝廣、加納鐡哉、加納夏雄、柴田是真との合作)が展示されています。
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こちらは令和3年(2021)に同館で開催された「モダンクラフトクロニクル―京都国立近代美術館コレクションより―」展でも出品されました。なかなかに手の込んだ作ですね。

よくある音声ガイドは、女優の常盤貴子さん。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

神経痛はまだ治りません、 一切中西夫人の手を煩はしてゐますが、今月から食事担当の家政婦さんを一人たのみました、


昭和30年(1955)9月30日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

もはや「神経痛」と言っているレベルではなく、肺はボロボロなのですが、心配をかけまいという心遣いでしょう。

「家政婦さん」は中野家政婦会から派遣された堀川スイ子。最初に雇ったのは別の人でしたが、すぐに交代、堀川には亡くなるまで面倒を見て貰いました。

光太郎が没した直後に発行された『文芸 臨時増刊 高村光太郎読本』に、堀川による「高村先生の思ひ出」という飾らない文章が掲載され、昭和34年(1959)に刊行された草野心平編『高村光太郎と智恵子』という80余名の回想録にも転載されました。

毎年ご紹介してきたのですが、今年は完全に忘れていました。都内の古書籍商さんの組合・明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼して入札するシステムとなっている「七夕古書大入札会」。入札が7月6日(日)、出品物を手に取って見られる下見展観が7月4日(金)、7月5日(土)の2日間で行われていました。

以前は「日本最大の古書市」という触れ込みで、確かに文学系においては珍しい出品物が多く、しかも現物を見られるということで、ほぼ毎年、下見展観に足を運んでいましたが、特にコロナ禍以後は規模が縮小し(目録が最盛期の4分の1くらいの厚さに)、光太郎に関しては目新しい出品物もなく、足が遠のいておりました。また、今月初め頃は「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」の準備等でバタバタしており、完全に忘れていました。

今年。やはり出品点数は少なかったものの、光太郎関連で「へー」というものが出ていました。3点で、すべて短歌がらみでした。

目録番号順に、まずは歌幅。
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短歌「おほきなるちからとあつきなくさめとわれにくたかきそらをみるとき(おほきなる力とあつきなぐさめと我に来たかき空を見る時)」が認(したため)められています。短歌自体は明治39年(1906)、欧米留学のため横浜港から乗った貨客船アセニアンで外洋に漕ぎ出した際に詠んだもの。翌年の雑誌『明星』に発表されました。

ただ、揮毫は大正期と思われます。令和3年(2021)、富山県水墨美術館さんで開催され、当方もいろいろとお手伝いした「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際にお借りした大正7年(1918)揮毫の歌幅2点が、その書きぶり等、非常によく似ています。
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ちなみに左の二幅はそれぞれ「さどかしまあらきなみちにまもられてわかたましひはとこひさにゆく(佐渡島荒き波路に守られて吾が魂は常久にいく)」、「こしのうみなみはあらしとひとはいへとわかのるふねにつつかあらめやも(越の海波は荒しと人は言へど吾が乗る船につつがあらめやも)」と読みます。

まぁ、同一人物の筆跡ですから何とも云えませんが、次に掲げるような戦後の書とは明らかに違う感じで。かなりの部分が変体仮名的な用字になっています。

その戦後の書。
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揮毫例が複数存在する短歌で「太田村やまくちやまの山かけにひえをくらひて蟬彫る吾は(太田村山口山の山蔭に稗を食らひて蟬彫る吾は)」。戦後の物資欠乏時らしく、有り合わせの紙に書いた感がありますね。

そして書簡が一通。
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斎藤茂吉に宛てたもので、茂吉の歌文集『高千穂峰』と歌集『暁紅』(共に昭和15年=1940)を贈られた礼状です。

拝啓 改造社版の“高千穂峰”を拝受ありがたく存居りしところつづいて岩波版の“暁紅”をいただき御礼の申上げやうもございません
“高千穂”の方は未踏の地とて地図をひろげながら拝読いたしました
“暁紅”の方は今夏こよなきたのしみに存じます いつもいただくのみにて恐縮に存じますが 謹んで御厚情を感謝いたします
   七月八日   高村光太郎
 斎藤茂吉様
     御座下

茂吉宛の書簡はこれまで確認出来ておらず(あっただろうという推理は出来ていましたが)、これが一番驚きました。

この書簡、落札した業者の方が早速ヤフオクに出品しています(7月22日(火)終了)。
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「七夕古書大入札会」、ほとんど一般の方はご存じないかと思われまし、入札システムも複雑ですので、ネットオークションに出れば入手しやすいということは言えるでしょう。

収まるべきところに収まってほしいものですが。

【折々のことば・光太郎】

昨日御来訪の趣をききましたが折から肋間神経痛発作のため臥床中でありましたため失礼いたしました、あしからず御了承下さい、その節はいただきものいたし感謝いたしました、雑誌はたのしくよんで居ります、

昭和30年(1955)9月27日 上田静栄宛書簡より 光太郎73歳

上田は智恵子の親友だった田村俊子に師事した人物。遠く大正3年(1914)の光太郎智恵子結婚披露直後くらいには俊子に連れられて駒込林町の光太郎宅を訪れ、当時としては珍しかったレモネードをご馳走になったりしています。

昨日は同じ千葉県内の野田市に行っておりました。過日ご紹介した「森優子朗読ライブ Teatime Concert in 琥珀茶寮あずき」拝聴のためです。

会場の琥珀茶寮あずきさん。
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市の中心部を少し外れた住宅街の一角で、こちらも元々は普通の住宅だったようなたたずまいでした。光太郎の父・光雲の木彫も展示されている茂木本家美術館さん、光雲の師・東雲の彫刻が納められている琴平神社さんや報恩寺さんなども近いと云えば近いあたりです。

こちらではミニコンサートやアート制作のワークショップなど、様々なイベントも行われており、昨日はその一環としての朗読会でした。ご出演は森優子さんという方。ちょっと離れた松戸市にお住まいのようです。元々あずきさんにお客様としていらしていたそうですが、あずきさんのオーナーの方が、昨年松戸で開催された森さんの朗読会を聴かれ、「それならうちでも」とお願いなさって実現したとのこと。

さて、昨日の朗読会。まずは光太郎の「智恵子抄」から。読まれた詩は順に「人に(遊びぢやない)」(大正2年=1913)、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「値(あ)ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)、「梅酒」(昭和15年=1940)。

詩の朗読というと、ゆったりとかみしめるように読まれる方が多い中、森さんは少し早口めのきびきびした読み方で、なるほど、こういうのもありだな、と思いました。さらにいつも思うのですが、光太郎の詩はわざとらしくない踏韻や内在律が素晴らしく、聴いていて心地よいものでした。

後半は、光太郎と軽く交流のあった芥川龍之介の「杜子春」。もちろん知らない話ではありませんでしたが、細かな部分は忘れており、「ああ、そういえばそうだった」「このあとどうなるんだっけ?」「あれ、ここはこうだったんだ」という感じで、ある意味新鮮でした。さらにアンコール的に、これも光太郎とつながりのあった中原中也の「吹く風を心の友と」。これでおおむね一時間ちょっとでした。

10月にはまたタッグを組まれ、福島の会津でやはり「智恵子抄」を含む公演をなさるそうです。これまたありがたいお話です。

それも含め、今後のますますのご活躍を祈念いたします。

以上、野田市レポートでした。

【折々のことば・光太郎】

先日はおてがみでいろいろ御様子をうかがひ、よろこびました、又剣舞の人形もいただきました、これは運送の途中ボール箱がおしつぶされて人形の足などが破損しましたが、修繕して飾りました、

昭和30年(1955)8月11日 高橋正亮宛書簡より 光太郎73歳

「剣舞」は「けんばい」と読み、岩手を代表する郷土芸能です。宮沢賢治が詩にしたことで江刺の「原体剣舞」が有名ですが、光太郎第二の故郷・花巻でも多くの地区に独自の剣舞が伝わっています。

大阪から演奏会情報です。

大阪コレギウム・ムジクム創立50周年記念 第131回大阪定期公演《現代(いま)の音楽 ~Music of Our Time~》

期 日 : 2025年7月27日(日)
会 場 : 住友生命いずみホール 大阪市中央区城見1丁目4-70
時 間 : 午後3:00開演(午後2:30開場)
料 金 : 全席指定 S席 ¥5,000 A席 ¥4,000 B席 ¥2,500
      学生 ¥1,800(当日¥2,000) 高校生以下 ¥800(当日¥1,000)

うたが生まれる ことばが生きづく
詩人がすくい取った言葉が音に刻まれ、新しいうたが生まれるとき、言葉は新たな生命を得て輝きます。凛として美しい原民喜の詩による寺嶋陸也氏の委嘱新作を始めとする、三人の作曲家のうたを、大阪コレギウム・ムジクムの確かなアンサンブルでお楽しみください。

【曲目】
 寺嶋陸也 《星の疼(うづき)》混声合唱のための【委嘱・世界初演】〔詩:原民喜〕
 新実徳英 「愛のうた ―光太郎・智恵子―」(2021年)男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために〔詩:高村光太郎〕
 千原英喜 女声合唱とピアノのための「良寛相聞」(2009年)〔詞:良寛・貞心尼〕

【出演者】
 指 揮 當間修一 ピアノ 木下亜子
 フルート 伏田依子(シンフォニア・コレギウムOSAKA)
 クラリネット 鈴木祐子(シンフォニア・コレギウムOSAKA)
 弦楽合奏 シンフォニア・コレギウムOSAKA
 合 唱 大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団 大阪コレギウム・ムジクム合唱団

インターネットライブ配信(PIA LIVE STREAM)あり
 ※2025年8月10日(日)までアーカイブ視聴つき
 視聴期間:7月27日(日)14:30 ~ 8月10日(日)23:59
 発売期間:5月03日(土)10:00 ~ 8月10日(日)21:00
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新実徳英氏作曲の 「愛のうた ―光太郎・智恵子―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」がプログラムに入っています。

初演は令和4年(2022)1月、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団さんの第146回定期演奏会で、委嘱作品でした。ほぼ同時に楽譜が全音楽譜出版社さんから刊行されています。

同年6月には初演時のライブ録画を収めたDVDもリリース。さらに9月には第4曲「レモン哀歌」、第5曲「元素智恵子」がNHK FMさんの番組「ビバ! 合唱」で流されました。
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初演以来、寡聞にして演奏されたという情報を得ていませんでした。おそらく本来フルート、クラリネット、弦楽オーケストラでの伴奏(最近はあまりこうした場合に「伴奏」と云わなくなりましたが)が必要なためでしょう。ただ、楽譜は練習用を兼ねるという意味合いもあってか、ピアノ2台での連弾譜として書かれています。そのまま使えば本番もオケ伴でなくピアノで出来てしまいます。まぁ、それでも2台で連弾となるとそれはそれで大変でしょうが。

総演奏時間は約35分。構成は「Ⅰ.山麓の二人」「Ⅱ.千鳥と遊ぶ智恵子」「Ⅲ.値(あ)ひがたき智恵子」「間奏曲-哀しみの淵へ-」「Ⅳ.レモン哀歌」「Ⅴ.元素智恵子」。この手の組曲としては、智恵子が心の病を顕在化させてからの詩篇のみを扱うというのも異色ですね。

ちなみに今回も出演される大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団さんは、昨年の東京公演で西村朗氏作曲の「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」を演奏して下さいました(平成24年=2012にも)。

今後とも、光太郎詩に曲を付けた作品を取り上げ続けていただきたいものです。もちろん他の合唱団さんでも、ですが。

【折々のことば・光太郎】

小生かねて(六月一日)花巻市を転出、東京都中野区に転入いたしましたにつき、今年昭和卅年度の国税は中野税務署に納付いたすべく、八月一日既にその手続きをとりました。即ち今年度以後花巻税務署へは納付いたしませぬ故右御了承願上げます

昭和30年(1955)8月1日 花巻税務署宛書簡より 光太郎73歳

『高村光太郎全集』にもれていた書簡で、平成26年(2014)、山形市の最上義光歴史館さんで開催された「第6回 市民の宝モノ2014」展で展示され、拝見して参りました。

この書簡の発見により、赤坂山王病院に入院中だったこの年6月1日に、それまで頑なに手に残しておいた住民票を都内に移したことが明らかにできました。いずれは花巻郊外旧太田村の山小屋に帰るか、それが無理でも中野のアトリエとの二拠点生活、と考えていたため住民票をそのままにしておいたのですが、もはやそれも不可能な病状と、自分でも覚悟したようです。

また、前年、花巻町などとの合併により太田村が消滅し、花巻市となったことも大きいような気がします。太田村時代には光太郎が村一番の高額納税者でしたが、もはや太田村は存在しない、となると、多額の税金を納めるのも何だかなぁという感じだったのでしょう。

一昨日の『毎日新聞』さんの連載「旅する・みつける」から。枕の部分で光太郎。

旅する・みつける 千葉・成田 三里塚 御料牧場の往時しのぶ 貴重な資料、防空壕公開も 空港近くに記念館

 「三里塚の春は大きいよ。」。詩人の高村光太郎は1924年、訪れた三里塚(千葉県成田市)の情景を詩「春駒」で描いた。成田空港ができる前、三里塚には宮内庁の「下総御料牧場」が置かれ、「桜と馬の牧場」として親しまれていた。多くは空港用地となったが、跡地の一部に三里塚記念公園(同市三里塚御料)が整備され、「三里塚御料牧場記念館」で牧場の往時をしのぶことができる。
 成田空港のA滑走路と並行する県道沿いに、記念公園の入り口がある。赤レンガの門を入ると、マロニエの並木道の奥に記念館が見える。
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三里塚記念公園のマロニエ並木の奥に建つ三里塚御料牧場記念館

 建物は19(大正8)年に建設された牧場の事務所を再現した。公園内には皇族の宿舎などに使われた「貴賓館」が保存され、桜広場などとともに名残をとどめている。 

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貴賓館の外見は木造かやぶきの和風だが、内部は和洋折衷様式になっている

  かつて牧場では、皇室が使う馬が育成され、牛乳、各種の肉などが生産された。66年に成田空港建設が閣議決定されたことに伴い、栃木県高根沢町へ移転している。
 牧場の歴史は古い。明治維新後の1875年、内務卿(きょう)の大久保利通の発案で、綿羊の国内育成を進めることになり、下総牧羊場と取香種畜場が創設される。日本獣医学の発祥の地になるなど畜産振興に重要な役割を果たした。明治天皇の意向もあって85年に宮内省(当時)の直轄牧場となる。外交官らを招いてジンギスカンをふるまうなど、外交の場にも活用された。
 牧場の面積は1969年の閉場時で東京ドーム90個分を超える約440ヘクタールあったという。それだけ広大な国有地があったことが、三里塚が国際空港の建設地に選ばれた理由の一つにもなった。公園は開港後の81年に成田市が整備した。
 記念館には、皇族の随伴員が乗った馬車「供奉(ぐぶ)車」(09年製作)や牧場長の大礼服などを展示。牧場から宮内庁に牛乳瓶を運ぶ際に使われた輸送箱などの資料とともに、三里塚と牧場の歩みも紹介されている。
 また、空港に関連し、71年に昭和天皇が欧州訪問した際に搭乗した航空機「お召し機」で使われた調度品も展示されている。西陣織のシートが敷かれた座席やテーブル、ベッドなど実際に使われた品々だ。
 公園内には戦中に皇太子(現上皇)のために地下に建設されたコンクリート製の防空壕(ごう)も残され、2011年から一般公開されている。 記念館ガイドの山口美佐子さんは「空港建設前の御料牧場の存在は今ではあまり知られなくなっている。三里塚に残された貴重な歴史に触れてほしい」と話す。
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左: 1941年に皇太子(現上皇)のために建設された防空壕の主室。コンクリート壁の上には約3・5メートルの盛り土がされている
右: 交差する梁と柱で十字架を表現した三里塚教会

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この後、画像だけは載せておきましたが、吉村順三設計の「三里塚教会」について書かれているものの、長くなるので割愛します。

光太郎は、親友だった水野葉舟が関東大震災後に御料牧場近くに移り住んだため、何度か足を運びました。御料牧場と光太郎、詩「春駒」(大正13年=1924)については、以下をご参照下さい。

 成田三里塚記念公園。
 「春駒」。
 企画展「下総御料牧場の記憶 ~第9代下総御料牧場長・田中二郎の残したアルバムを中心に~」。
 「お別れの会」二件。
 水野清氏お別れの会/佐藤進氏訃報。
 三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展。
 佐倉市立志津図書館 SHIZUギャラリー 芝山千代田駅からマイクロツーリズム ~成田市三里塚記念公園~御料牧場記念館と皇室(東宮)避難用防空壕。
 千葉県立東部図書館文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」。
 千葉県立東部図書館文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」レポート。
 佐方晴登写真展「壊死するフウケイ/ Landscape of death」。
 成田三里塚レポート。
 旧下総御料牧場貴賓館、国登録有形文化財に。
 『日本のことばずかん いきもの』。

下の画像は、今年に入ってから入手した古絵葉書です。戦前のものですね。サイドカーに乗っているのは軍人でしょう。
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「三里塚駅前」とありますが、成田駅からこの附近を通る軽便鉄道がかつて存在しました。敷設は明治44年(1911)。おそらく光太郎も成田駅からこの路線を使ったのでしょう。しかし昭和19年(1944)にはレールを金属供出するため廃線となってしまいました。

つい先日、地元の方から電話がありました。秋には近くの公民館的な施設で「春駒」などに関するミニ展示をなさるとのこと。お話の中で、御料牧場の歴史が市民に忘れられているというお嘆きも。ごもっとも、と思いました。

というわけで、三里塚御料牧場記念館とその周辺、ぜひ足をお運びください。隣町ですので、何ならご案内いたします(笑)。

【折々のことば・光太郎】

山口もなかなかあついでしようが、そのかわり、ことしはすべて豊年でしよう。お米や畠の作物が山のようにとれるでしよう。それを考へるとうれしくなります。来月はお盆になりますからみなさんもごちそうをたくさんたべるでしよう。

昭和30年(1955)7月23日
山口小学校五六年生皆さま宛書簡より 光太郎73歳

山口小学校は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった小学校。光太郎もよく足を運び、先生方や児童さんたちと交流していました。

遠く東京の病床にあって、何かにつけ思い起こすのは太田村の自然豊かな風景でした。

以前から行われていたものですが、存じませんでした。

かぞ どんとこい! 祭り

期 日 : 2025年7月19日(土)・20日(日)
会 場 : 東武伊勢崎線加須駅北口周辺の市街地 埼玉県加須市中央1丁目
時 間 : 17時から22時[雨天決行]

毎年7月中旬の土、日曜日に加須駅周辺の市街地を中心として開催されます。初日は、各町内による神輿の練り歩き(神輿渡御)が行われ、2日目には各町内の山車の引き廻しが行われます。中でも夜8時30分から始まる「ヒッカセ」は、各町内の太鼓連による太鼓の叩き合いで、見ごたえがあります。 また、3年に一度の「本町の山車と蘭陵王面」のお披露目(次回令和2027年)があります。

19日(土曜日)17時から22時 神輿渡御 日中は子ども神輿、夕方からは大人神輿、夜間(20時頃から)は連合の大人神輿が町内を練り歩きます。
20日(日曜日)17時から22時 山車曳き廻し 山車の曳き廻しが行われ、特に20時30分からの、各町内の山車が集合し太鼓の叩き合い(ヒッカセ)が見ものです。
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3年に1回披露されるという「蘭陵王面」が、光太郎の父・光雲の師匠、髙村東雲の作です。「本町」という地区の山車が蘭陵王の人形を戴くもので、文久2年(1862)の作。その人形に装着される面です。おそらく面も同時に作られたものでしょう。文久2年といえば、光雲が東雲に弟子入りする前年にあたります。

終わってから気づいたのですが、実は先月、千代田区の神田明神さんで「江戸祭礼文化講座 江戸天下祭と加須の蘭陵王山車」という催しがあり、その際に加須の蘭陵王人形と面が展示されていました。
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「しくった、観に行くべきだった」と思ったものの、後の祭りでした。ところが今回、本当の祭りで披露されるとのこと。山車の曳き廻しは7月20日(日)。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

もう二年間ばかり山口部落へゆきませんから、学校へもごぶさたしています。私にあつてもわからない生徒さんも多くなつたでしよう。私も丈夫になつたら又山口をたずねて生徒さんにもあい、ぶらくのみささんにもあいたいと思つています。

昭和30年(1955)7月23日
山口小学校五六年生皆さま宛書簡より 光太郎73歳

山口小学校は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった小学校。太田村在住時にはよく足を運び、先生方や児童さんたちと交流していました。

児童宛ということで、新仮名遣いで書かれています(拗音や促音を一回り小さくするのは除く)。細かな気づかいが素晴らしいと思います。

決して忘れていたわけではないのですが、紹介すべき事項の山積に伴い後回しにして来た結果、発行から一ヶ月以上経ってしまいしました。年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』の最新号です。
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いつもぼやいていますが(笑)、同人にしてくれと頼んだ覚えが一切ないのに、当方の「連翹忌通信」が連載されています。

今年はNHKさんの大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で、吉原が物語の一つの舞台として扱われていまして、便乗しました。題して「モナ・リザその後」。「モナ・リザ」は、光太郎第一詩集『道程』(大正3年=1914)の巻頭を飾った詩「失はれたるモナ・リザ」の「モナ・リザ」です。

   モナ・リザは歩み去れり

 かの不思議なる微笑に銀の如き顫音(せんおん)を加へて
 「よき人になれかし」と
 とほく、はかなく、かなしげに
 また、凱旋の将軍の夫人が偸(ぬす)視(みみ)の如き
 冷かにしてあたたかなる
 銀の如き顫音を加へて
 しづやかに、つつましやかに
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 深く被はれたる煤色(すすいろ)の仮漆(エルニ)こそ
 はれやかに解かれたれ
 ながく画堂の壁に閉ぢられたる
 額ぶちこそは除かれたれ
 敬虔の涙をたたへて
 画布(トワアル)にむかひたる
 迷ひふかき裏切者の画家こそはかなしけれ
 ああ、画家こそははかなけれ
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 心弱く、痛ましけれど
 手に権謀の力つよき
 昼みれば淡緑に
 夜みれば真紅(しんく)なる
 かのアレキサンドルの青(せい)玉(ぎよく)の如き
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 我が魂を脅し
 我が生の燃焼に油をそそぎし
 モナ・リザの唇はなほ微笑せり
 ねたましきかな
 モナ・リザは涙をながさず
 ただ東洋の真珠の如き
 うるみある淡(うす)碧(あを)の歯をみせて微笑せり
 額ぶちを離れたる
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 かつてその不可思議に心をののき
 逃亡を企てし我なれど
 ああ、あやしきかな
 歩み去るその後(うしろ)かげの慕はしさよ
 幻の如く、又阿片を燔(や)く烟の如く
 消えなば、いかに悲しからむ
 ああ、記念すべき霜月の末の日よ
 モナ・リザは歩み去れり

その正体は吉原河内楼の娼妓・若太夫。その日本人離れした目鼻立ちに、光太郎はひそかに「モナ・リザ」の面影を見、名付けました。

 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷まげに結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、ということになった。
 いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(略)
 若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)
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明治42年(1909)の『新よし原細見』には「若太夫 愛知県名古屋 真野しま 廿二」とあり、若太夫の本名は真野しま、名古屋の出身で、サバを読んでいなければ光太郎と知り合った明治43年(1910)には23歳でした。ただし、後述の木村荘太の『魔の宴』では「25歳」となっていました。

翌年には年季が明けるということで、光太郎と夫婦約束まで交わしたそうです。しかし、この恋はあえなく破れます。光太郎が若太夫に入れあげていることをかぎつけた、光太郎より六つ年下の作家・木村荘太が若太夫の元に通うようになりました。木村は後に武者小路実篤の「新しき村」にも参加しますが、この頃はやはり「パンの会」に顔を出し、雑誌『新思潮』に作品を発表していたもののさほど注目されていたわけでもなく、また、帝室技芸員の御曹司たる光太郎への嫉妬(木村は牛鍋屋チェーンの妾腹に生まれています)などもあったのでしょう。さらに若太夫は、気難しい光太郎よりも遊び慣れていた木村を採りました。そして書かれたのが、「失はれたるモナ・リザ」でした。

しかし木村は、年季が明け「若太夫」から「しま」に戻っても妻にするでもなく、しまは故郷の名古屋に帰っていきました。木村にしてみれば単なる鞘当てに過ぎなかったようです。その後すぐ、吉原では五社英雄監督の東映映画「吉原炎上」のモデルとなった大火が起こり、様子を見に上京して来たしまと会いましたが、それもそれっきりでした。そのあたりは木村の自伝的小説『魔の宴』(昭和25年=1950 朝日新聞社)に語られています。

光太郎は、再上京したしまについても詩にしています。その際に会ったのかどうかは不明なのですが。

   地上のモナ・リザ

 モナ・リザよ、モナ・リザよ
 モナ・リザはとこしへに地を歩む事なかれ
 石高く泥濘(ぬかるみ)ふかき道を行く
 世の人人のみにくさよ
 モナ・リザは山青く水白き
 かの夢のごときロムバルヂアの背景に
 やはらかく腕を組み、ほのぼのと眼をあげて
 ただ半身をのみあらはせかし
 思慮ふかき古への各画聖もかくは描きたりき
 現実に執したる全身を、ああ、モナ・リザよ、示すなかれ

 われはモナ・リザを恐る
 地上に放たれ
 ちまたに語り
 汽車に乗りて走るモナ・リザを恐る
 モナ・リザの不可思議は
 仮象に入りて美しく輝き
 咫尺に現じて痛ましく貴し
 選択の運命はすでにすでに余を棄てたり
 余は今もただ頭をたれて
 モナ・リザの美しき力を夢む
 モナ・リザよ、モナ・リザよ
 モナ・リザは永しへに地を步むことなかれ

光太郎にとっても、もう終わった恋だから、今さら現れるな、モナ・リザよ、ということでしょう。

その後のしまについては、杳として消息が知れませんでした。ところがそれがある程度つかめました。国立国会図書館さんのデジタルデータの活用によってです。同データには、何と職業別電話帳(現在の「タウンページ」)まで掲載されていて、しまの故郷・愛知県のそれの中で2件、しまの名を見つけました。

まず大正11年(1922)。
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こちらは「席貸業」となっています。「席貸業」は「遊興又は慰安の用に供するため」のものということで、おそらく遊郭でしょう。住所は「伝馬」で、この地名は現在も名古屋市熱田区に残っています。明治43年(1910)にここにあった公認の遊郭街が他の地区に移転したと記録にありましたが、非公認のいわゆる「青線」のような形で残った店もあったと思われます。

大正11年(1922)は、しまの吉原河内楼での年季が明けて12年後。しまは30代半ばから後半だった計算になります。いきなりそうした店の女主人となれるはずもなく、結局、名古屋に戻ってもその道に入り、それを終えて女主人に収まったのではないでしょうか。

それからさらに13年後の昭和10年(1935)にも。ただ、「席貸業」ではなく「料理店」の項でした。この頃にはまっとうな料理屋になっていたのかも知れません。
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ちなみに少し後に「太田ひさ」の名。これは確認出来ている限り日本人で唯一ロダンのモデルを務め、その件で光太郎のインタヴューも受けた元女優「花子」の本名です。ひさも引退後は料理店関係の仕事をしていましたが、ただ、住所が一致しません。同姓同名の別人でしょうか。

突き止められた「若太夫」こと、しまの消息はここまでですが、光太郎同様に戦後まで生き延び、不幸ではない晩年を送ったと思いたいところです。そして彫刻家・詩人として名を成した、かつての恋人・光太郎を遠くから見守っていたとも。

そんなこんなを『とんぼ』の今号に書きました。奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

お医者さんや皆さんの相談で今日退院することになり、夕方出かけるでせう。

昭和30年(1955)7月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎73歳

宿痾の肺結核のため、4月から赤坂山王病院に入院していましたが、結局は手の施しようがなく、再び中野のアトリエでの療養生活に入ります。

昨年もこの時期でしたが、箏曲奏者の元井美智子さんとヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんのお二人がコラボなさる公演が、東北地方で4回開催されます。それぞれに「智恵子抄」が組み込まれています。

時系列順に、まず荒井さんのホームタウン・仙台で。

光太郎、賢治、箏と声 夏の朝

期 日 : 2025年7月22日(火)
会 場 : Antique & Cafe TiTi 宮城県仙台市宮城野区鉄砲町中5-8
時 間 : 開場 10:30 開演 11:00
料 金 : 4,000円(ケーキセット付)

プログラム
 お箏の調べ(みだれ、操、耳なじみのある曲)
 高村光太郎「智恵子抄」より ~レモン哀歌、人類の泉など~
 宮沢賢治「よだかの星」など
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翌日には、光太郎第二の故郷・花巻で昼と夕方の2公演。

花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏 第一公演

期 日 : 2025年7月23日(水)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 13:00~14:00
料 金 : 無料
      (高村光太郎記念館入館料として大人350円 高校生・学生250円 小中学生150円)
主 催 : 高村光太郎連翹忌運営委員会

プログラム
 「智恵子抄」「智恵子抄その後」より 箏:産まれ出づる、さくらさくらなど

花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏 第二公演

期 日 : 2025年7月23日(水)
会 場 : カフェ羅須 岩手県花巻市豊沢町2-18
時 間 : 16:00~17:00
料 金 : 2,000円 1ドリンク付
主 催 : 高村光太郎連翹忌運営委員会

プログラム
 「智恵子抄」 よだかの星 星めぐりの歌など 箏:産まれ出づる、夜空へなど
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この花巻での2公演は、当会の「主催」ということになっています。当初は仙台でのそれを含めて全て「後援」のみの予定でしたが、花巻市さんとの交渉の結果、当会「主催」であれば、高村光太郎記念館さんでの公演を許可するということで、そうなると「嫌です」とは言えません(笑)。司会もやることになりました。

高村光太郎記念館さんでの公演のみ、『広報はなまき』で取り上げて下さっています。
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そしてまた仙台に戻り……

旅するお箏と智恵子抄

期 日 : 2025年7月25日(金)
会 場 : となりのえんがわ 宮城県仙台市宮城野区銀杏町4-29 宮城野納豆製造所敷地内
時 間 : 第1部 10:00~12:00 第2部 14:00~15:30
料 金 : 第1部・第2部通し 5,000円 第1部のみ 4,000円 第2部のみ 3,000円
定 員 : 第1部 8名様 第2部 20名様

プログラム
 第1部 ワークショップ 智恵子抄を朗読する~お箏の調べとともに
  智恵子抄の7篇の詩の中から1つ選択して、お箏の生演奏と共に朗読して頂きます。
  午後開催の第2部の中で、希望される方には発表して頂きます。
  朗読候補作品 樹下の二人/あどけない話/風にのる智恵子/レモン哀歌
         亡き人に/梅酒/荒涼たる帰宅
 第2部 コンサート 箏の調べと智恵子抄
  午前開催のワークショップ参加の方の発表の後、智恵子抄の世界をお箏の調べととも
  に……

  演目 みだれ、操、智恵子抄より
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一般の方々対象に朗読講座の講師もなさっている荒井さんですので、こちらはワークショップ形式だそうです。プロの箏曲演奏に乗せて朗読が出来る、ということで「気分いい!」ということになるのではないでしょうか。

なかなかパワフルなお二人で、先述の通り、昨年も仙台と花巻で3公演。当方は仙台の最終公演を拝聴に伺いました。花巻公演は地元紙でも紹介されています。

今年に入ってからも、4月末にはテルミン奏者の大西ようこさんを加えた三人娘(笑)で、二本松の智恵子生家座敷を舞台に、高村智恵子生誕祭関連行事として「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」。こちらも地元紙で報じられました

今回、それぞれ平日の開催ということで、どれだけお客様を集められるか少々心配なところもあります。ぜひぜひ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山は今うつくしい事でせう。カツコーももう鳴く頃でせう。小生はお医者さんのすすめに従ひ、今月は入院、療養のため只今静かに病院生活をして居ります。

昭和30年(1955)5月10日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎73歳

入院先の赤坂山王病院から送った、かつて暮らしていた花巻郊外旧太田村の長老格・駿河への書簡より。病床にあって思い起こすのは、太田村の豊かな自然だったようです。

千葉県から朗読公演の情報です。

森優子朗読ライブ Teatime Concert in 琥珀茶寮あずき

期 日 : 2025年7月19日(土)
会 場 : 琥珀茶寮あずき 千葉県野田市上花輪1265-2
時 間 : 13:30 開場 14:00 開演
料 金 : 3,000円(ケーキ、ソフトドリンク付)

あずきでは様々なイベントを企画しています。今回ご縁がありまして森優子さんの朗読ライブを開催出来ることになりました(^^) 以前からお客様としていらして頂いてましたが、昨年お誘いを受け馬橋の万満寺様で開催された、小泉八雲の耳なし芳一を聴く機会があり、とても感動いたし、うちの店では無理かなぁと思いつつ言葉にしてみましたら(^^) 今回この様な運びとなりました。なかなか聴く機会のない朗読ライブ、ましてや智恵子抄です。楽しみです(^^) 25名限定です、もう既に半数はご予約頂いております。お早めのご予約お待ちしております。ライブ終了後ケーキとコーヒーで歓談したいと思います(^^)
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存じ上げない方でしたが、フライヤーに印刷されたプロフィールを見てびっくり。「戦前の大俳優・丸山定夫の姪、女優・丸山由利亜に師事」。

丸山定夫は戦時中にはラジオ放送で光太郎の複数の翼賛詩を朗読していました。国会図書館さんのデジタルデータで「最低にして最高の道」(昭和15年=1940)が公開されていますし、坪井秀人氏著『声の祝祭 日本近代詩と戦争』(平成9年=1997 名古屋大学出版会)の付録CDには、やはり丸山の朗読による光太郎詩「必死の時」(昭和16年=1941、放送は翌年)が収録されています。

光太郎自身も大政翼賛会主催の朗読会などに出演し、自作の詩を朗読することもあって、そうした際に丸山と顔を合わせる機会があったのではないと思われます。室生犀星は、昭和17年(1942)に刊行された『筑紫日記』の中で「この間翼賛会で照井嬰三の朗読詩を聞き、丸山定夫のそれを聞き、また別な日に高村光太郎のそれを聞き、佐藤春夫のそれを聞いたのであつた」と書いています。残念ながら犀星が聞いたのは別の日だったようですが、同じ日に出演したりということも有ったかもしれません。

そして丸山は、国威発揚を目的にした移動演劇隊「桜隊」のリーダーとして、慰問に訪れていた広島で被爆、重傷を負い、終戦の翌日、息を引き取りました。「桜隊」については、故・大林宣彦監督が映画「海辺の映画館―キネマの玉手箱」で描きました。

光太郎、丸山の死については、戦後になって広島出身の小倉豊文あたりから聞かされたのではないかと推測されます。同じ頃、交流のあった高祖保松木喜之七らの戦死の報にも接したでしょう。それらが花巻郊外旧太田村の山小屋での独居生活を「自己流謫(るたく……流罪に同じ)」と位置づける要因の一つとなったことは容易に想像できます。

さて、その丸山の姪・由利亜氏(昭和63年=1988公開の映画「さくら隊散る」などにご出演)に師事なさったという森優子氏による「智恵子抄」。これは聴かざあなるまいと、予約いたしました。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

談話筆記の方は原稿を見てからでないと御返事できません。

昭和30年(1955)4月30日 浅沼政規宛書簡より 光太郎73歳

002「談話筆記」は、昭和23年(1948)から同27年(1952)までの、浅沼が校長を務めていた山口小学校で行われた各種の行事や会合などでの光太郎のスピーチ、職員室での茶飲み話の際の発言などを浅沼が記録したもの。平成7年(1995)、ひまわり社さん発行の浅沼の回想録『高村光太郎先生を偲ぶ』に全34篇、50ページ以上にわたって掲載されています。高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』中に当方編集の「光太郎遺珠」として連載を持たせていただいている中で、全篇を転載させていただきました。

浅沼は活字にすることを希望し、翌年、光太郎の元に原稿を持ち込みましたが、光太郎は個人的な発言のものであったり、必ずしも光太郎がしゃべった通りになっていなかったりということで難色を示し、結局、光太郎生前には実現しませんでした。

昨日は福島県双葉郡川内村に行っておりました。同村で毎年開催されている、当会の祖・草野心平を祀る天山祭りに列席のためです。今年は第60回の節目でした。
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第一回は、昭和41年(1966)。村人さんたちが心平のために建てて下さった天山文庫の竣工を祝ってのもので、もちろん心平も参加、郷土芸能の披露などが行われ、その後も約20年間、心平は都合のつく限り足を運び、村人さんたちと気のおけない交流を続けていました。

心平没後は、心平を祀る意味合いが付加。参加出来ない本人の代わりにドーンと大きな遺影。
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三度の飯より酒が好きだった心平に、日本酒の奉納。当会としても一本、持参しました。時系列が戻りますが、当会事務所兼自宅のある千葉県香取市に2軒残る造り酒屋のうちの1軒で、一昨日購入しました。
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終了後には5本に増えていました。遺影の右の方には川内村産のワインなども。
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ちなみに申し遅れましたが、会場は当初予定の天山文庫ではなく、降雨のため、村民体育センターに変更でした。
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昨年は本来の会場の天山文庫で実施できましたが、一昨年も雨でこちらの会場で行われました。

画像はSNS等で公開しないようにというお達しがあり、上げられませんが、連翹忌の集いにもご参加下さったことがおありの実行委員長・井出茂氏のご挨拶 → 遠藤雄幸村長、心平が主宰していた詩誌『歴程』同人の方などの祝辞 → 心平遺影への献花 → 生前の心平の自作詩朗読録音の放送 → 小中一貫の川内小中学園6・7年生の皆さんによる自作詩朗読 → 『歴程』同人・伊武トーマ氏による心平作「わが抒情詩」朗読 → 鏡開き、といった流れ。

そこまで進んだあたりで正午を過ぎ、昼食タイム。こちらの画像は上げてもノープロブレムでしょう。少し食べてしまいましたが(笑)。
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もちもちの赤飯、特産の岩魚の塩焼き、山菜や南瓜・椎茸の天ぷら。お弁当が饗されるのはコロナ禍後初めてで、やはりこれでなくちゃ、という感じでした。

その後、元々の天山祭りで行われていた郷土芸能の披露等があり、散会。

霧雨がぽつぽつでしたが、その程度なら大丈夫と判断し、本来の会場だった天山文庫に立ち寄りました。大雨ならぬかるむ山道でパスでしたが。
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花手水がしつらえられていたのは、ここで祭りをやる予定だったためでしょうか。

1年ぶりに内部へ。
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心平が村に寄贈した書籍類。元々、別荘兼書庫として機能をもつ建物です。

いったん外の画像ですが、別棟の酒樽をイメージした小屋も書庫です。右の木立の中に見えるのが本館。
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ふたたび本館内部の画像。

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二階の座敷。
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左手の小窓から、一階の座敷が見おろせる構造。嫌な客が来ると、心平は二階のこの部屋に隠れ、下で秘書のような人に対応させていたとのこと(笑)。

その部屋の窓からの庭。
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来年はやはりここでやりたいものだと思いました。

敷地の入口にある阿武隈民芸館さんにも立ち寄りました。心平メインの展示施設です。
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心平と川内村、天山文庫に関する内容の他、心平著作(光太郎が題字を揮毫したもの、光太郎関連の心平著書を含め)や書、書簡などがずらり。何度も訪れていますが、そのたび興味深く拝見しています。

「天山文庫設立協力委員会発起人」の一人として、光太郎実弟の豊周も。
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同会、豊周以外もあらためて錚々たるメンバーです。井上靖、金子光晴、唐木順三、河上徹太郎、川端康成、小林勇、武田泰淳、谷川徹三、中野重治、西脇順三郎、古田晁、松方三郎、武者小路実篤、村野四郎、山本健吉……。

それから豊周令息の写真家、故・髙村規氏から寄贈された写真パネル類。心平と光太郎の2ショットだったり、光太郎葬儀の際の心平だったり、中には規氏令息のやはり写真家・達氏とお姉様が若き日に心平と写ったものもあったり、髙村ファミリーと心平、という意味でも興味深い展示です。

足を運ばれたことがないという方、来年以降、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生お医者さまのすすめで今日入院してしばらく病院生活をする事にしました、 校歌の方の事は草野心平さんにでも頼んだらどうでせう、宮沢清六さんに御相談なさつたら如何。


昭和30年(1955)4月30日 浅沼政規宛書簡より 光太郎73歳

浅沼はかつて光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。「校歌」は同校のものか、近隣の学校のものか、ちと不明です。いずれにせよ光太郎は校歌の作詞は頑なに引き受けず、代わりに心平に頼んではどうか、心平の連絡先は賢治実弟の清六に訊いてくれ、という意味です。

そしてこの日から、7月8日まで赤坂山王病院に入院しました。病状は一進一退、結局、すぐにどうこうという状態でもなく、しかし入院したからといってここまで進んだ結核の完治は不可能と判断され、また中野のアトリエでの療養生活に戻ります。

宮沢賢治関連を中心に据えた文芸同人誌『ワルトラワラ』、第54号を頂きました。

ちなみに令和2年(2020)には第45号を頂いています。
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今回、下さったのは、賢治の故郷・花巻で「宮沢賢治・花巻市民の会」の活動をなさるかたわら、賢治生家近くに昨年「カフェ羅須」をオープンされた泉沢善雄氏。氏の玉稿「●生活者の視点で伝記的現場を歩く⑥〈宮沢賢治雑記帳〉 増谷文雄と大原外光そして……」が掲載されていて、当方の名も出て来るため送って下さったようです。多謝。

戦前、まだ賢治がマイナーだった頃、各種雑誌に賢治作品が掲載された経緯についての考察ですが、当方、賢治にはそれほど詳しい訳ではなく、タイトルにある「増谷文雄」「大原外光」ともに全く存じ上げない名でした。

増谷は光太郎もたびたび寄稿していた雑誌『青年』、同じく『真理』に関係し、そして賢治の親友だった藤原嘉藤治と親しかったようです。そこで、『青年』、『真理』に賢治作品が掲載された際(賢治没後の昭和14年=1939)に関わっているのではないかというお話。作品は童話「虔十公園林」ですが、なぜか「虔十の林」という題で掲載されているそうで、ちなみに挿画は光太郎とも親しかった深沢省三とのこと。

石川啄木に関する著書もある大原は増谷と親しく、『真理』の方で賢治を取り上げた記事を書いている人物とのこと。となると、『真理』への賢治作品の掲載に何らかの役割を果たしていたかもしれないそうで。

それから大原は、出版社東雲堂の西村陽吉とも繋がっていたそうです。このあたりでまた光太郎の影。光太郎は東雲堂発行の雑誌『朱欒』『創作』に深く関わっていますし、西村とも個人的に一緒に旅をする間柄だったことがわかりました。『高村光太郎全集』に名が出て来ず、これまで光太郎との個人的な繋がりがどの程度だったのかよく分かりませんでしたが、昨年、兵庫県たつの市の霞城館(かじょうかん)さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」展に、西村と光太郎の連名で三木露風に埼玉から送った『全集』未収録の絵葉書(大正4年)が展示され、一緒に旅する程度の仲だったことが分かりました。

三木露風も『春と修羅』を賞讃する手紙を賢治に送っています。露風と言えば『赤い鳥』。『赤い鳥』には、大正13年(1924)に賢治の『注文の多い料理店』の広告が出ました。これは同誌に挿画を描いていた深沢省三の仲介という説が強いようですが、光太郎、西村、露風らからの働きかけもあったかも、などと素人考えですが……。

さらに当会の祖・草野心平。心平も賢治作品に惚れ込み、心平自身やその人脈に連なる土方定一などの人々も賢治作品の紹介に骨折っています。泉沢氏曰く「賢治周辺の人脈はかなり広くなりそうな気がします。必ずしも深い交友でなくても影響し合っているのでしょう」。なるほど。

今年の冬には花巻の光太郎記念館さんで「賢治全集が出来るまで」的な展示をやるとのことで、関連行事として賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏、嘉藤治顕彰の瀬川正子氏、そして自分とで来春に公開対談が予定されています。参考にさせていただきます。

さて、『ワルトラワラ』、泉沢氏のカフェ羅須さんの記事も出ています。また、奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

現金書留でお送りしますが、東京では時々ぬすまれるさうですが、田舎では大丈夫でせうか。

昭和30年(1955)3月1日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

未亡人となった智恵子の姪・春子への援助です。現金書留の盗難などもあったのですね。

少し前、昭和24年(1949)には、北海道から花巻郊外旧太田村の山小屋に送られたはずの麦が届かず、「おそらくは途中で、誰かの食料となつたのかも知れません、かうした世の中ですから」と書簡に認(したた)めたこともありました。

まず、明日開幕の件。

高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業「昔なつかし花巻駅」

期 日 : 2025年7月12日(土)~11月30日(日)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 明治5(1872)年に新橋と横浜を結ぶ日本初の鉄道が開通。その後、全国で鉄道の整備が進み、明治23(1890)年には花巻駅が開業し、東京と花巻がレールで結ばれました。
 花巻駅開業当時は駅周辺は田畑が広がる場所でしたが、岩手軽便鉄道や花巻電鉄の開業とともに交通の要所として発展していきました。
 この展覧会では、昭和11(1936)年に撮影された記録資料と、それも参考にして今回制作した昭和初期の花巻駅を中心としたまちの賑わいの様子を情景として表現したジオラマを展示します。
このジオラマを通じて、当時の花巻駅やまちの雰囲気を感じていただきたいと思います。
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ジオラマの制作は、平成30年(2018)に同館で開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際にも制作をお願いした石井彰英氏と、お友達の土屋直久氏。今回は土屋氏が中心にやられたそうですが。

前回は当方が仲介し、実現しました。江ノ電さんのジオラマ(運転士になりたかったものの病気で早世した少年にまつわるもの)などを作られていた石井氏が、ご自身のホームタウン・品川区大井町のジオラマも作成され、その中で智恵子が入院し、そこで亡くなったゼームス坂病院も組み込んで下さったのがご縁でした。

その際には仲介した責任上、何度か工房にもお邪魔し、さらに石井氏をロケハンにお連れしたり、資料類をお貸ししたりいたしました。そういえば、全体のレイアウトも当方が考えました。
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作品は企画展終了後も第二展示室の中央に置かれていましたが、先月お邪魔した際には、企画展用の小部屋に移動されていました。
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今回のものと一緒に並べるのかどうか、そこは訊いておりません。再来週伺いますので見て参ります。

今回の作品、石井氏のSNSから。
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前回は戦後すぐの光太郎在住時をイメージして作っていただきましたが、今回の設定は昭和6年(1931)だそうで、宮沢賢治存命中。したがってジオラマ中に賢治も居ます。
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今回は資料をお貸ししたくらいであまり関わって居らず(石井氏のところで土屋氏にもお会いしてお話ししましたが)、完成した現物は未見で、早く見てみたいものです。

もう1件、同館での特別展示が来週7月15日(火)から。

智恵子のエプロン復刻展示 岩手県立花巻南高等学校家庭クラブ制作

期 日 : 2025年7月15日(火)~8月21日(木)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

智恵子デザインのエプロンを高校生がつくりました。素敵なエプロンと制作過程を展示。

8月4日(月)10時から 高校生から来館者に手作りしおりプレゼント(なくなり次第終了)。

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こちらに関してはまだ市のサイト等に詳細情報が上げられていません(苦言を呈させていただければ、どうも花巻市さんはこの辺りの対応が後手後手です。ジオラマ展のフライヤーも作られているのか作られていないのか、ネット上に上がっていません)が、『広報はなまき』の今月号にちらっと紹介されています。

「智恵子のエプロン」。大正13年(1924)の雑誌『婦人之友』で写真と型紙図面入りで紹介されたものです。
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高村光太郎記念館さんで、『婦人之友』にかかわる市民講座を行った際、この件も紹介し、「どなたか復元して下さいませんかね」とつぶやいたところ、聴かれていた花巻南高文芸部顧問の菊池久恵先生が「それなら」と、家庭クラブさんに声を掛けて下さり、制作されました。

その後、昨年、花巻で開催されたイベント五感で楽しむ光太郎ライフ」で完成したエプロンを初披露。岩手の地方紙では大きく取り上げられました。出来上がったエプロンを拝見し、そのクオリティーの高さには舌を巻きました。
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また、今年は福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館さんでの「高村智恵子生誕祭」でも展示。家庭クラブさん、文芸部さんの生徒さんと顧問の先生方もご覧に来られました。
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で、今度は高村光太郎記念館さんでの展示です。

同館では特別展「中原綾子への手紙」も開催中。また、7月23日(水)には二本松の智恵子生誕祭でも公演をされたヴォイスパフォーマーの荒井真澄さんと箏曲家の元井美智子さんによるコンサート(詳細はまたのちほど)も予定されています。
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さらに駐車場脇の受付では、お子様向けに「木製輪ゴム鉄砲づくり」。実に盛りだくさんです。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生まだ外出しません、しかし今年は仕事しなければなりません、

昭和30年(1955)1月4日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

昭和30年(1955)の年が明け、光太郎、数えで73歳となりました。

この年、国際的にはワルシャワ条約機構が結成され、東西冷戦が激化。第1回原水爆禁止世界大会開催などもありました。国内ではいわゆる55年体制が始まりましたし、 森永ヒ素ミルク中毒事件などもありました。『広辞苑』や現行の1円玉、料金前納式の公衆電話機はこの年に登場。後楽園ゆうえんちが開園(アメリカではディズニーランド)。

光太郎は宿痾の肺結核がどんどん進行、春には赤坂山王病院に入院しますが、手の施しようがなく、結局、中野のアトリエでの療養生活に戻ります。しかし、詩や文章、そして書は制作を続けました。

東北からグルメ系の話題を2件。

まず、智恵子の故郷・副島二本松から。智恵子のソウルマウンテン・安達太良山麓の岳温泉さん近くにある「チーズケーキ工房・カフェ風花」さん。2025夏限定メニューのテーマが「ほんとの空」だそうで。言わずもがなですが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来ですね。
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”星降るレアチーズケーキ”は、青いゼリーをのせたレアチーズケーキに、ブルーベリーチーズケーキ味のアイスを添えた、キラキラしたあだたらの星空をイメージしたワンプレートだそうです。気になるお値段は¥900とのこと。8月下旬まで。

ちなみに同店、令和2年(2020)から「ほんとの空のクリームソーダ」(¥650)もメニューに入れられ、郡山市での物産展などでも販売されました。
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続いて毎月ご紹介している、光太郎第二の故郷・岩手花巻のワンデイシェフの大食堂さんでの「こうたろうカフェ」。記録を基に光太郎が実際に自作して食したメニューや、使った食材などを現代風にアレンジしたメニューが饗されるもので、主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの活動です。
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メニュー (2)
豚ももロース、新玉ねぎ、トマト、ピーマンの串カツがメインディッシュのようで。
串カツ、オムレツ、サラダ
調理風景の画像も送られてきました。
串さし作業
光太郎も殊の外愛した山菜ミズ。メンバーで岩手県の「食の匠(たくみ)」に認定された新渕和子さんのご自宅で採集されたとのこと。
ミズのお浸し
コチュジャンの甘辛いタレで和える、韓国の和え麺・ビビンククス。
ビビンククス
他にジャガイモ、トマト、チーズなど具だくさんのオムレツ、お新香なども。
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デザートはミルク寒天ブルーベリーソース。
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毎度のことながら、よくこれで1,000円と低価格に設定出来るものだと感心させられます。

二本松のカフェ風花さんの「ほんとの空」系、花巻の「こうたろうカフェ」、それぞれ末永く続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

新鮮なソバ粉、キナ粉を送つて下され、ありがたく存じます、お正月のいい御馳走になります、東京のソバにはソバの香がありません、


昭和29年(1954)12月30日 駿河哲夫宛書簡より 光太郎72歳

駿河哲夫は、光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれた駿河重次郎の子息です。

こうして昭和29年(1954)も暮れて行きました。

一昨日、館から郵送で案内が届くまで気づきませんでした。既に昨日始まっています。

なつやすみ所蔵企画 えともじ展 文字で読み解く美術の世界

期 日 : 2025年7月8日(火)~9月23日(火)
会 場 : メナード美術館 愛知県小牧市小牧五丁目250番地
時 間 : 10:00-17:00
休 館 : 月曜日(祝休日の場合は直後の平日)
料 金 : 一般 1,000円(800円) 高大生 600円(500円) 小中生 300円(250円)
       ( )内は20名以上の団体料金

 絵画や彫刻などの美術作品の中には、漢字やひらがな、アルファベットといったさまざまな文字を見つけることができます。画中のモティーフとして登場する街角のポスターや書籍、コラージュされた印刷物、歌仙絵に記された歌、陶作品の文字模様など、作品の中の文字はテーマや舞台、モティーフの意味について、私たちの想像力をかきたてます。また、絵の片隅やカンヴァスの裏に書かれた画家の個性豊かなサインや数字、保管箱の箱書きは、作者や時代、伝来などの貴重な情報を伝え、その字には画家や所蔵者といった作品にかかわる人々の思いまで表れているかのようです。
 本展では、絵画、彫刻、工芸など文字に焦点を当てて選んだ約70点に加えて、箱や軸などの付属品を交え、展示します。美術を取り巻くさまざまな文字から、コレクションを読み解きます。

展示構成 文字もよう/絵の中の文字/書と画の交流/芸術家たちの記した文字
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フライヤー、招待券と共に、出品目録も送って下さいました。
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光太郎木彫の優品の一つ、「鯰」(昭和6年=1931)が出品されています。
無題
展示構成中の「芸術家たちの記した文字」のパートの目玉の一つで、公式サイトでは「文筆家でもあった彫刻家・高村光太郎は自身の作品に詩をつけることがあり、木彫《鯰》には作品を包む帛紗に短歌が記されました。」と紹介されています。

光太郎は、この手の木彫の場合、そのほとんどに智恵子手縫いの帛紗(ふくさ)か袋を付け、そこに作品のモチーフに関連する短歌を認(したた)めました。

この「鯰」が入れられた帛紗はこちら。これも展示されるということですね。
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揮毫された短歌は「あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづも」。「あながちに」は形容動詞「あながちなり」の連用形。あえて現代語訳すれば「この世の中というものは、「悲劇」と「喜劇」との二種類にむりくり分類できるものだとは思わないよ、私も、そしてこの鯰も」とでもいったところでしょうか。「禍福はあざなえる縄のごとし」を地で行っている感じがします。また、「悲劇喜劇」といえば、太宰治の『人間失格』に出てくる有名な「トラ」と「コメ」のエピソードが思い浮かびます。

 自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てつこをはじめました。これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があつて然るべきだ、たとへば、汽船と汽車はいづれも悲劇名詞で、市電とバスは、いづれも喜劇名詞、なぜさうなのか、そのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでゐる劇作家は、既にそれだけで落第、悲劇の場合もまた然り、といつたやうなわけなのでした。
「いいかい? 煙草は?」
 と自分が問ひます。
「トラ。(悲劇(トラジデイ)の略)」
 と堀木が言下に答へます。
「薬は?」
「粉薬かい? 丸薬かい?」
「注射。」
「トラ。」
「さうかな? ホルモン注射もあるしねえ。」
「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラぢやないか。」
「よし、負けて置かう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ(喜劇(コメデイ)の略)なんだぜ。死は?」
「コメ。牧師も和尚も然りぢやね。」
「大出来。さうして、生はトラだなあ。」
「ちがふ。それも、コメ。」
「いや、それでは、何でもかでも皆コメになつてしまふ。ではね、もう一つおたづねするが、漫画家は? よもや、コメとは言へませんでせう?」
「トラ、トラ。大悲劇名詞!」
「なんだ、大トラは君のはうだぜ」
 こんな、下手な駄洒落みたいな事になつてしまつては、つまらないのですけど、しかし自分たちはその遊戯を、世界のサロンにも嘗つて存しなかつた頗る気のきいたものだと得意がつてゐたのでした。

『人間失格』の方がずっと後ですが。

閑話休題、「なつやすみ所蔵企画 えともじ展 文字で読み解く美術の世界」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

帰朝当時、「秀才文壇」「女子文壇」其他の雑誌にあるものは、大てい記者などが勝手に筆記したものを小生の名で出してゐるので危険です、中には文学女給などが代筆したものもあります、

昭和29年(1954)12月30日 北川太一宛書簡より 光太郎72歳

光太郎生前からその文筆作品の集成を図っていた、当会顧問であらせられた故・北川太一先生に宛てた葉書から。

記者などが勝手に筆記したものを小生の名で出してゐる」は、意外と戦後まで続いているようです。「勝手に」とまではいかないものの、講演や談話の筆録などで。

文学女給」は、おそらく浅草雷門前のカフェ「よか楼」のお梅でしょう。「代筆」というより口述筆記でしたが。

過日ご紹介しました福島県郡山市美術館さんでの「皇室を彩る美の世界―福島ゆかりの品々―」につき、内覧会を元にした報道が為されています。

地方紙『福島民報』さん。

皇室彩る美術工芸品並ぶ 福島県郡山市美術館、5日から企画展

 福島県郡山市美術館の企画展「皇室を彩る美の世界 福島ゆかりの品々」は5日、開幕する。狩野永徳や俵屋宗達、尾形光琳らの近世絵画をはじめ、皇室に伝来した貴重な美術工芸品を展示する。8月31日まで。
 同美術館と皇居三の丸尚蔵館の主催、文化庁などの特別協力。尚蔵館の収蔵品を中心として横山大観や東山魁夷による近代日本画、高村光雲や海野勝珉の彫刻・工芸作品が並ぶ。福島県関連では郡山市出身の渡辺晨畝の絵画をはじめ、幕末の会津藩主松平容保の孫で、昭和天皇の弟の秩父宮雍仁親王に嫁いだ秩父宮妃勢津子さまゆかりの品々を紹介する。
 開幕に先立ち4日、美術館で開会式を行った。椎根健雄市長や島谷弘幸皇居三の丸尚蔵館長らがテープカットを行った。5日午後2時から、皇居三の丸尚蔵館の研究員が講演する。
 観覧料は一般1200円、高校生・大学生・65歳以上は900円。問い合わせは美術館へ。
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同じく『福島民友』さん。

皇室ゆかりの品、一堂に 郡山市立美術館で企画展

 郡山市立美術館の企画展「皇室を彩る美の世界 福島ゆかりの品々」は5日、同美術館で開幕する。皇室に受け継がれた美術工芸品を保存する皇居三の丸尚蔵館の貴重な収蔵品や福島県ゆかりの品を展示する。8月末まで。
 文化庁や読売新聞社などの特別協力で開催。狩野永徳や俵屋宗達の屏風(びょうぶ)絵や尾形光琳の絵巻など近世の作品のほか、磐梯山の噴火を描いた山本芳翠の油彩画「磐梯山破裂之図」、横山大観の絹本墨画、高村光雲の木彫など、近代の記録画や美術を紹介。また現在の郡山市出身の渡辺晨畝(しんぽ)(1867~1938)の孔雀(くじゃく)画、会津松平家から秩父宮雍仁親王に嫁いだ「勢津子妃」ゆかりの品なども並ぶ。
 4日は、内覧会と開会式が行われ、皇居三の丸尚蔵館の島谷弘幸館長が「皇室ゆかりの展示品を見て、福島とのつながりを感じていただきたい」とあいさつした。
 企画展は8月3日までを前期、作品を一部入れ替え、同5~31日を後期として開催。一般1200円、高校・大学生、65歳以上900円、中学生以下、障害者手帳のある人は無料。午前9時半~午後5時。問い合わせは同美術館(電話024・956・2200)へ。
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二紙ともに光太郎の父・光雲の名を出して下さっています。やはり目玉の一つと位置づけられているためでしょう。
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出品作は「猿置物」(大正12年=1923)。猿本体は桜材、台の部分は桑の木だそうです。光雲円熟期の傑作の一つで、昭和天皇の弟君の秩父宮雍仁殿下から、母君の貞明皇后陛下に献上されたもの。「三番叟」とも称されます。秩父宮雍仁親王の奥方・勢津子妃殿下が会津藩主・松平容保の令孫ということで、「福島ゆかり」と位置づけられたのでしょうか。

秩父宮ご夫妻と光太郎にも、僅かながら縁が。

 秩父おろしの寒い風。
 勘違い。/女川から中継。
 上高地の常さん。

閑話休題。「皇室を彩る美の世界―福島ゆかりの品々―」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生校歌といふものを書いた経験がないので、まるで分りません、経験のある人におたづねになるのが正しいでせう。


昭和29年(1954)12月19日 宮崎正男宛書簡より 光太郎72歳

宛先住所が「群馬県吾妻郡嬬恋村立西中学校」。おそらく宮崎正男という人物は、そこの校長先生か何かで、光太郎に校歌作詞を依頼したのではないかと思われます。光太郎、歌曲の作詞自体にあまり興味がありませんでしたし、特に校歌は自由に作れないということで、結局、一篇も作りませんでした。

ただ、校歌ならぬ団体歌は二篇だけ作詞しています。断り切れなかった感じです。

まず昭和17年(1942)、岩波書店の「店歌」として「われら文化を」。作曲は「海ゆかば」等で有名な信時潔でした。もう1曲は、「初夢まりつきうた」(昭和25年=1950)。こちらは正式な団体歌というわけではありませんし、詳しい経緯が不詳なのですが、おそらく花巻商工会議所などからの依頼で作った、いわば「商店街の歌」的なものです。邦楽奏者・杵屋正邦により作曲されています。

昨日は中野区の産業振興センターさんで「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」でした。「中西アトリエ」は、昭和23年(1948)に、水彩画家の中西利雄が自分用にと建てたアトリエで、中西は竣工直前に急逝、以後、遺族が戦後の混乱期でアトリエを持てない芸術家のためにと、貸しアトリエとして運用、光太郎も昭和27年(1952)から昭和31年(1956)まで借り、ここで亡くなりました。

そのアトリエが解体の危機に瀕しており、保存運動の一環として、「こんなすごい人達がここを訪れたり、関わったりしたんだよ」ということを広めるため、当方も所属している「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」主催で行いました。
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取り上げた文人は主に6名。光太郎をはじめ、その光太郎に会いに中西アトリエを訪れた人々――当会の祖・草野心平、「連翹忌」名付け親の一人・佐藤春夫、そして光太郎と家族ぐるみのつきあいだった尾崎喜八

それから、中西アトリエには足跡を残していないものの、彼等の兄弟が来ているよ、という宮沢賢治と太宰治。賢治実弟の清六は光太郎と親しく、光太郎が亡くなる前日の昭和31年(1956)4月1日夜、かつて光太郎も疎開していた花巻の自宅に居たところ、玄関から「こんばんは~」という光太郎の声を聞いたそうです。その声は清六の妻・愛子も、台所の修繕工事に来ていた大工さん達も聞いたとのこと。しかし見に行ってみると誰もいません。かねて光太郎の病状が思わしくないと聞いていた清六は胸騒ぎがし、慌てて上京、中西アトリエを訪れます。すると、沈痛な面持ちの中西夫人から「昨夜でした……」。不思議なこともあるものですね。太宰の方は、実兄の青森県知事・津島文治が、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の発注元、相談を受けた佐藤春夫が光太郎を作者として推薦、かつて太宰が佐藤に「芥川賞を私に下さい」的な書簡を送ったなどの縁。津島知事も中西アトリエを訪れています。

さて、朗読(一部、音楽演奏)。100席ほど用意しましたが、ほぼ満席でした。当会人脈の方々も何人か。ありがたし。

第一部は、主に詩人の方々。「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」世話役の曽我貢誠氏が詩人で、そのお仲間の皆さんです。一部、智恵子に関する文章なども書かれ、二本松で光太郎詩朗読などもなさった吹木文音さん、やはり「保存する会」メンバーの原詩夏至さん、「智恵子抄」に関わる朗読公演等を何度もなさったり、詩集で智恵子に触れて下さったりの宮尾壽里子さんなど、こちらの人脈ともかぶりますが。
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休憩を挟み、第二部。

今年の連翹忌の集いで朗読を披露していただき、絶賛を浴びたフリーアナウンサーの早見英里子さんと、朗読家出口佳代さんのコンビ。ちなみに背後の壁は「保存する会」のメンバーの役者さんがセッティングして無粋な黒板を隠し、美しく。
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フルート奏者の吉川久子さん。こちらも「智恵子抄」がらみの公演を複数回なさって下さっていますし、平成26年(2014)にはやはり連翹忌の集いでの演奏もお願いしました。当初、妹さんが朗読なさる予定でしたが、健康を崩されて、朗読も吉川さんがなさいました。ギターは山田大輔さん。
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大トリは、女優の一色采子さん。都内や智恵子の故郷・二本松で北條秀司作の舞台を朗読劇化した「智恵子抄」公演で智恵子役をなさったり、お父さまの故・大山忠作画伯は智恵子と同郷で、智恵子を描かれた絵も複数遺されたりしています。大山画伯は5人しかいない福島出身の文化勲章受章者の一人です(心平もですが)。ピアノは田中健さん。パリ在住経験もある光太郎も愛したドビュッシー「月の光」などで、盛り上げて下さいました。
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ちなみに当方は司会。合間にアトリエについてや、各文人と光太郎との関わりなどをべしゃくらせていただいました。しかし、とにかく時間が押し、話したいことの半分くらいしか紹介出来ませんでした。上記の清六のエピソード、それから光太郎と戦争との関わり――自作の翼賛詩を戦後になって恥じて蟄居生活に入ったことなど。

さらに、昨日、自宅兼事務所に帰ってから気づいたことが一点。何と、会場だった産業振興センターさんのある場所そのものに、光太郎自身の足跡が残っていました。昭和28年(1953)6月16日、「乙女の像」の原型完成記念報告会が、青森県副知事の横山武夫、佐藤春夫夫妻、心平らを招いて、「千光園ほととぎす」という料亭で開催されました。同店は「黄檗流普茶料理」と掲げていた料亭で、昭和46年(1971)まで存続。他の方の作成されたサイトにこの場所だったんだよ、と詳しく紹介されていましたし、自分のブログでも令和4年(2022)にちらっと書いていました。その頃は産業振興センターさんを存じませんでしたし、今年2月に初めて足を運んだ際にも忘れていました。この話が出来ていれば、地元の皆さんからは「おお!」というリアクションがあっただろうに、と思うと残念至極、反省しきり、穴があったら入りたい、です。

それでも盛会の裡に終えることが出来、胸をなで下ろしました。暑い中お集まりいただいた観客の皆さん、お忙しい中足代程度のギャラしかお支払い出来ないと御承知で、快くご出演を引き受けて下さった出演者の方々に篤く御礼申し上げます。

終演後、控え室で。出演された方々(全員ではありませんが)と。
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この催しが、アトリエ保存運動の弾みとなることを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

此間は見事なみかんをたくさん届けて下さつてありがたく存じました、 博物館、図書室の奥平さんといふ方が編輯して小生の選詩集を来年三月岩波文庫から出すといふことです、

昭和29年(1954)12月14日 北川太一宛書簡より 光太郎72歳

昨日の朗読会、晩年の光太郎に親炙し、会場には当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御霊(みたま)もいらし、元々細かったお眼をさらに細められていたのではないでしょうか(笑)。

「奥平さん」は、当時、トーハクさん勤務だった美術史家の奥平英雄。一時、中西アトリエ近くに住んでいました。現在も版を重ねている岩波文庫版『高村光太郎詩集』にかかわります。

当会の祖・草野心平を祀る祭りです。

第60回天山祭り

期 日 : 2025年7月12日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前11時~午後2時
料 金 : 1,000円

 今年度、60回目の天山祭りを開催する運びとなりました。これもひとえに皆様方の御指導、御支援によるものと深く感謝申し上げます。
 今年は60回目の節目の年であることから、原点に返り、飲食の提供を予定しておりますので、万障繰り合わせのうえ、ご参加いただきますようご案内申し上げます。

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川内村はモリアオガエルの繁殖地・平伏(へぶす)沼を有し、「蛙の詩人」として名高い心平が愛した村です。心平は蔵書を村にごっそり寄贈、村では心平を名誉村民に認定、別荘の「天山文庫」を建ててやりました。その建設の際には、光太郎顕彰を通じて心平と交流の深かった光太郎実弟の髙村豊周も建設委員に名を連ねました。下画像、背景の建物が天山文庫、手前に座っているおっさんが心平です(笑)。
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この天山文庫の前庭で行われる祭りには生前の心平もよく足を運んでは村人たちと交流、心平没後には心平を偲ぶ意味合いが加わり、さらに東日本大震災による福島第一原発の事故で余儀なくされた全村避難の解除後は、震災からの復興を確認するという目的も加わっています。
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鉢巻きの心平、バカボンのパパのようですね(笑)。

内容的には地元の皆さんによる郷土芸能の披露、心平詩の朗読、それから心平が主宰していた詩誌『歴程』同人の皆さんも心平詩の朗読等にあたられるはずです。

コロナ禍前には特産の岩魚の塩焼きなどが入ったお弁当が饗され、舌鼓を打たせていただいておりましたが、近年はそれが無く、若干寂しいなと思っていたところ、今年から復活のようです。岩魚の塩焼きはきっと入っていると信じています(笑)。

皆様方も是非どうぞ。

別件ですが、本日、午後1時半より中野区の産業文化振興センターに於いて「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」を開催いたします。『東京新聞』さんが、昨日、記事にして下さいました。

「中西アトリエ」ゆかりの朗読会 中野であす 高村光太郎らの詩や小説題材

 洋画家の中西利雄(1900〜48年)が東京都中野区内に建てたアトリエを知ってもらおうと、アトリエゆかりの文人による作品の朗読会が6日午後1時半から、区内で開かれる。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)をはじめとする6人の詩や小説の世界が楽しめる。
 アトリエは、大正から昭和にかけて活躍し「水彩画の巨匠」と呼ばれた中西が建設。完成した48年に死去したため、貸しアトリエとして使われた。
 高村は晩年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作。没後は家族ぐるみの交流があった、詩人で随筆家の尾崎喜八(1892〜1974年)が、編集室として使ったという。中西の息子が2023年に亡くなった後は保存活用の在り方が問われており、存続の危機にある。
 朗読会は有志による「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)が主催。朗読家や詩人らが高村や尾崎のほか、詩人で小説家の佐藤春夫、詩人で書家の草野心平、小説家の太宰治、詩人で童話作家の宮沢賢治による小説や詩など15作品ほどを読み上げる。フルートやギターの演奏もある。
 同会の曽我貢誠(こうせい)事務局長(72)は、「アトリエでは高村を起点に、文人たちがつながり合っていた。そんな建物が中野区にあることを知ってほしい」と呼びかける。
 「高村光太郎終焉(しゅうえん)の地 中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」は、区産業振興センター(中野2)で。入場無料。定員80人。問い合わせは保存する会=sogakousei@mva.biglobe.ne.jp=へ。
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予約を受け付けていましたが、まだ空席があるようです。このまま予約なしでいらしていただいて結構です。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生の居ない山口(の小)屋を訪問したいろいろの人から時々たよりをもらひますが、小屋も無事、畑も出来て居り、梅の花も咲き、桃もきれいといふことで、皆重次郎翁のお手入れのおかげとありがたく存じてゐます。来年は汽車に乗れるやうに健康回復次第、山口に行つてみたいと思ひます。時々東京に居ても山口の美しい山林にあこがれます、


昭和29年(1954)11月3日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎72歳

駿河重次郎は、光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村山口地区の山小屋の土地を提供してくれた村の顔役。光太郎上京後も小屋の管理を手抜かり無く行ってくれていました。

細かなところでは色々異なりますが、光太郎にとっての太田村と、心平にとっての川内村は、似たような意味合いがあったのかも知れません。

本日開幕の企画展示です。

令和7年度テーマ展「戦後80年 戦争と花巻」

期 日 : 2025年7月5日(土)~8月24日(日)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松第26地割8-1
時 間 : 午前8時30分 から 午後4時30分 まで
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350(300)円 高校生・学生 250(200)円 小中学生 150(100)円
      ( )内は20名以上の団体料金

 1945年8月15日、日本全体で310万人以上にも及ぶ犠牲者を出した太平洋戦争が終結しました。そして、終戦間際の8月10日、ここ花巻でもアメリカ軍による空襲の被害にさらされ、多くの尊い命が失われました。
 太平洋戦争の終結から80年が経過しますが、未だ世界から戦争は無くなっていません。日本においても、かつての戦争の記憶をもつ人々が少なくなっていく時代に至り、私たち博物館には戦争を二度と繰り返さないと発信する役割があると考えます。
 本展では、1931年の満州事変から1945年の終戦までの約15年間を中心に、花巻や周辺地域における戦争の歴史を、当時の貴重な資料を通して紹介します。
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関連イベント

特別講演会「花巻と戦争」
 『花巻が燃えた日』の著者で、郷土史家の加藤昭雄氏を講師に迎え、80年前の岩手県内での空襲について、花巻がなぜ攻撃されたのか、どのような被害があったのか、また花巻に残る戦争遺構についてをご講演いただきます。
 日時:7月20日(日曜)午後1時30分から3時
 講師:加藤昭雄氏(岩手・戦争を記録する会事務局長、『花巻が燃えた日』著者)
 演題:花巻と戦争
 場所:花巻市博物館 講座体験学習室
 定員:30名(要申込)
 費用:聴講無料(入館料不要)
 申込期間:6月20日(金曜)午前8時30分から7月19日(土曜)午後4時30分
 特別講演会はお電話または二次元コードの申し込みフォームから申込みいただけます。
 (注)定員に達し次第申し込みを締め切らせていただきます。
 キャンセルがあった場合は、応募期間内であれば再度申し込みができます。

特別上映会「戦争の足跡を追って 北上・和賀の十五年戦争」
 北上市出身の都鳥兄弟が制作した、北上・和賀地域の「戦争の足跡」を追った、ドキュメンタリー映画を上映します。
 (注)本上映会では著作権保護への配慮から、上映中の録音、録画、および写真撮影は固くお断りいたします。
 日時:8月11日(月曜・祝日)午後1時30分から3時30分
 監督:都鳥 伸也氏(登壇予定)
 場所:花巻市博物館 講座体験学習室
 定員:40名(要申込)
 費用:観覧無料(入館料不要)
 申込期間:7月11日(金曜)午前8時30分から8月10日(日曜)午後4時30分
 特別上映会はお電話または二次元コードの申し込みフォームから申込みいただけます。
 (注)定員に達し次第申し込みを締め切らせていただきます。
 キャンセルがあった場合は、応募期間内であれば再度申し込みができます。

ギャラリートーク
 日時:7月21日(月曜・祝日)、8月9日(土曜)
 両日とも午後1時30分から2時30分
 場所:花巻市博物館 企画展示室
 申込:不要
 費用:参加される場合入館料が必要となります。

同時開催「令和7年度花巻市非核平和展
 ヒロシマ・ナガサキの原爆写真ポスターを展示します。今年は戦後80年になります。この機会に平和の尊さについて考えてみませんか。
 開催期間:令和7年7月5日(土曜)から令和7年8月24日(日曜)まで
 開催時間:午前8時30分 から 午後4時30分 まで
 開催場所:花巻市博物館 企画展示室:花巻市高松26-8-1
 費用:一般 350円 高校生・学生 250円 小・中学生 150円
 主催:花巻市担当総合政策部総務課法規文書係

光太郎に関わるかどうか微妙なところですが、関連行事として予定されている特別講演会「花巻と戦争」の講師を務められる加藤昭雄氏は、御著書『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部 平成11年=1999)、『絵本 花巻がもえた日』(ツーワンライフ 平成24年=2012)で、宮沢賢治実家が8月10日の花巻空襲に遭った際の光太郎について触れて下さっており、そのあたりで期待が持たれます。

ちなみに昭和20年(1945)の戦争末期、終戦直後の光太郎の動向は以下の通り。

 4月13日  いわゆる城北空襲で本郷区駒込林町の住居兼アトリエ全焼。
      近くにあった妹の婚家に避難。
 5月3日  杉並の思想家・江渡狄嶺宅(江渡自身は前年に没)を訪れ1泊。
      リヤカーを借り、徳田秀一と共に荷物を茨城取手駅まで運搬。
 5月9日  リヤカー返却。
 5月14日  近くに住んでいた画家・池田永治が着ていたチョッキに揮毫。
 5月15日  のちに縁戚となる宮崎稔と共に上野駅から花巻に向けて出発。
 5月16日  雨中、花巻に到着。宮沢家に入る。
 5月17日  急性肺炎で高熱を出し、倒れる。
 6月15日  この日まで佐藤隆房医師の診療を受けて臥床。
 6月18日  予後を養うため西鉛温泉へ湯治に出発。
 6月24日  西鉛温泉から帰還。
 8月10日  花巻空襲。宮沢家全焼。旧制花巻中学校元校長・佐藤昌宅に移る。
 8月13日  旧太田村の太田小学校山口分教場教師、佐藤勝治に村への移住を誘われる。
 8月14日  朝日新聞記者からの極秘情報で敗戦を知る。
 8月15日  終戦の玉音放送を鳥谷ヶ崎神社で聴く。
 8月17日  詩「一億の号泣」が『朝日新聞』、『岩手日報』に掲載。
 8月21日 初めて太田村に足を踏み入れる。
 8月25日 盛岡に行き一泊。県庁内で講演
 9月5日  佐藤隆房の花巻病院にて空襲下で決死の看護に当たった職員の表彰式出席。
      詩「非常の時」を朗読。
 9月10日  佐藤隆房宅離れに移る。
 9月16日  19日まで太田村視察。佐藤勝治らの手配で移築中の山小屋を見る。
 10月10日 松庵寺で智恵子の法要を営む。
 10月17日 太田村に移る。しばらく分教場宿直室で寝泊まり。自身で山小屋の造作。
 11月17日 山小屋で生活開始。

なかなか激動の半年間ですね。

今回の展示及び関連行事の講演等で、少しでもこうした光太郎に触れていただけるとありがたいところです。

また月末近くに花巻に参りますので、観てきます。皆様もぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

東北一といふ定評のある二六園の見ごとなリンゴ一箱昨日いただき感謝の至りです。青森リンゴのはんらんしてゐる東京では特に珍重に存じます。


昭和29年(1954)11月3日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎72歳

「二六園」は佐藤が自宅敷地内に作ったリンゴ園。「東北一といふ定評」あたりはかなりヨイショが入っているように思われますが(笑)。「青森リンゴ」も悪いものではありませんし……。

花巻観光協会さん主催のワークショップです。うっかりご紹介を失念しており、すでに始まっています。

木製輪ゴム鉄砲づくり

期 日 : 2025年7月1日(火)~8月31日(日) 期間より早く終了する場合もございます。
会 場 : 高村光太郎記念館受付 岩手県花巻市太田3-91-3
時 間 : ①10:00~12:00 ②14:00~16:00
休 館 : 期間中無休 屋外テントでの実施のため、暴風雨の場合など天候により直前に
      中止となる場合がございます。
料 金 : 1,800円 ⇒ 900円

高村山荘周辺で採れた木を使用したキットで木製の輪ゴム鉄砲づくり!
彫刻家や詩人として知られる高村光太郎が晩年を過ごした高村山荘。その裏手に広がる山口山の豊かな景観のなか、木製の輪ゴム鉄砲を作って的当てで遊ぼう!

花巻市では、小学生以下のお子様を対象に、ドキドキわくわくの体験がなんと【半額】で楽しめるお得なキャンペーンを開催! 雄大な北上川をゴムボートで楽しむ遊覧体験や、水面を自由に探検するカヌー&ボート体験、そして、手びねりやろくろでつくる創造的な陶芸体験!普段はなかなかできない特別な体験が、花巻にはいっぱい!

さあ、家族みんなで手をつないで、笑顔あふれる花巻で、忘れられない夏の思い出を作ろう! 小学生以下のお客様を対象に、お子様向け体験の体験料が半額になるお得なキャンペーン! 花巻観光協会からのお申込み&体験終了後のアンケートにご協力いただくことで、お得な料金にてお楽しみいただけます。
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花卷市内各所で行われる「はなまきサマーキャンペーン」の一環だそうで、高村記念館さんでは木製輪ゴム鉄砲づくり。他にもカヌーやバギーなどの体験、陶芸や和紙の手漉きなどの伝統工芸系、野菜の収穫体験、果てはわんこそばも(笑)。

お子様と共に親御さんたちもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今年は汽車にのるのが無理なので山口に行かれさうもありません、来年はゆきたいものです。子供等によろしく。


昭和29年11月3日 浅沼政規宛書簡より光太郎72歳

浅沼は光太郎が蟄居生活を送っていた郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの山口小学校長。浅沼と、小学校の児童たちから届いた書簡への返信です。前年には病をおして10日間ほど一時帰村したのですが、もはやそれも不可能な健康状態でした。

福島から展覧会情報です。光太郎の父・光雲の木彫が出ます。

皇室を彩る美の世界―福島ゆかりの品々―

期 日 : 2025年7月5日(土)~8月31日(日)
会 場 : 郡山市美術館 福島県郡山市安原町字大谷地 130-2
時 間 : 9 時30 分~17 時00 分
休 館 : 毎週月曜日( 7 月 21 日(月・祝)、8 月11 日(月・祝)は開館、翌日休館)
料 金 : 一般:1,200(960)円/高・大学生、65 歳以上:900(720)円
       ( )内は20 名以上の団体料金

 皇居三の丸尚蔵館は、皇室に代々受け継がれた美術品を保存・調査研究・公開するため、平成5年(1993)に皇居東御苑内に開館した「宮内庁三の丸尚蔵館」を前身とする施設です。収蔵品は、絵画・書跡・工芸品など、各時代・各分野を代表する名品が多く含まれ、その数は約6,100 件に及びます。
 令和5年(2023)に名称を新たに施設の一部がリニューアルオープンし、令和8年の全館完成までの期間中に、多くの方々に優れた作品をご覧いただき、皇室や日本の文化に親しんでいただけるよう、これまで全国各地で収蔵品を紹介する展覧会が開催されてきました。
 このたび、福島県郡山市で開催する本展では、皇居三の丸尚蔵館が収蔵する皇室に伝来した美術工芸品のなかから、狩野永徳や俵屋宗達、尾形光琳ら近世絵画の優品をはじめ、明治初期に描かれた記録性の高い洋画の数々、近代日本画を代表する横山大観や東山魁夷、さらに郡山出身の渡邊晨畝らの秀作のほか、高村光雲や海野勝珉の至高の彫刻・工芸作品、精巧で可憐なボンボニエールなど、貴重な収蔵品をご覧いただきます。さらに、会津松平家から秩父宮雍仁親王に嫁ぎ、皇室と福島の人々の心の架け橋となった勢津子妃ゆかりの品々をご紹介します。
 皇室が守り伝え、育んできた日本美術の精華をどうぞお楽しみください。
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関連イベント

講演会「皇居三の丸尚蔵館収蔵品にみる皇室と福島」
日時:7 月5 日(土曜日)午後2 時から 会場:多目的スタジオ(入場無料)
講師:田中純一朗氏(皇居三の丸尚蔵館研究員)

美術講座「山本芳翠と磐梯山の噴火」
日時: 7 月19 日(土曜日)午後2 時から 会場:講義室(入場無料)
講師:佐藤公氏(磐梯山噴火記念館館長)、当館学芸員
会場:講義室(入場無料)

「郡山の画家の渡邊晨畝の活動」
日時:8 月10 日(日曜日)午後2 時から 会場:講義室(入場無料)
講師:当館学芸員

ギャラリートーク
日時:7 月13 日(日)、8 月3 日(日) 午後2 時から 会場:企画展示室(要観覧券)

​​東儀秀樹 コンサート 〜伝統を紡ぎ 新たな地平を拓く〜
日時:2025年7月6日(日曜日)

案内文にある通り、皇居三の丸尚蔵館さんの収蔵品が出品されます。同館は一昨年、リニューアルしオープンしましたが、完全完成は来年ということで、それまでの間いわば「出開帳」が各地で行われ続けています。光雲作品もぽつりぽつりと。

今回の光雲の作品は「猿置物」(大正12年=1923)。目玉の一つということでフライヤーの裏面に大きく画像が出ています。昭和天皇の弟の秩父宮殿下から、母親の貞明皇后陛下に献上されたもので「三番叟」とも称されます。

郡山は智恵子の故郷・二本松にもほど近く、合わせて智恵子生家/智恵子記念館などにもぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨10月5日は智恵子の十七回忌の命日でありましたが、今日御親切なお手紙と御芳志の見事な栗の小包とを拝受、まことにありがたく存じました。

昭和29年(1954)10月6日 秋広アサ子宛書簡より 光太郎72歳

秋広は、遠く明治期に日本女子大学校の寮で智恵子と同室でした。50年ほど経っても命日には墓参をしたり、光太郎にというか智恵子仏前にというわけで贈り物をしたりしてくれました。ありがたいことです。

テレビ放映情報です。

わたしの芸術劇場 中村屋サロン美術館/中村彝アトリエ記念館

BS11(イレブン) 2025年7月5日(土) 10:35〜11:00

「美術館」をちょっと堅苦しい場所だと思っている方々へ送る番組。学芸員の方々が見せ方を工夫したり、今までにないテーマで企画展を開催したり、並々ならぬ苦労と最高のセンスで展示している。そんな美術館を「芸術を体験できる劇場」として捉え、舞台を鑑賞しているようなわくわくした気持ちにしてくれる番組。番組を見た後は、きっと美術館に足を運び、芸術に浸りたくなること間違いなし。

今回の舞台は東京都新宿区にある中村屋サロン美術館。お菓子やカレーパンで有名な新宿中村屋が運営している美術館。創業者の相馬愛蔵は同郷の彫刻家 荻原守衛(碌山)や荻原を慕う若き芸術家などを支援し、明治末から大正、昭和初期にかけて多くの芸術家・文化人たちが、ここ中村屋に集った。日本近代美術の発展に大きく貢献した「芸術家たちのトキワ荘」、中村屋サロンに大きな拍手を!

出演者 片桐仁
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新作かと思ったら、さにあらず。TOKYO MXさんで令和3年(2021)の11月27日に放映されたものでした。BS11さんは、この手の地上波ローカル局さんが制作された番組をあとから放映することがよくあり、これもその一つでした。

ナビゲーターは俳優の片桐仁さん。多摩美大さんのご出身で、おん自らもアート制作をいろいろなさり、こうしたアート系のテレビ番組ご出演も多い方です。

で、訪問先が、まず新宿の中村屋サロン美術館さん。光太郎の親友だった碌山荻原守衛をはじめ、光太郎を含めた中村屋サロンに集った芸術家たちの作品が数多く収蔵されています。光太郎作品は油彩の「自画像」(大正2年=1913)。番組では常設展示に当たる「コレクション展」開催中で、「自画像」も出ていたはずなのですが、画面に映って欲しいものです。

ちなみに現在の中村屋サロン美術館さん、やはり「コレクション展」開催中(他に「會津八一の歌を映す写真コンテスト」)で、7月13日(日)まで。その後、展示替えのための休館をはさみ、また7月23日(水)から「コレクション展」です。どちらにも「自画像」が出品。ぜひ足をお運び下さい。

それから同じく新宿区の中村彝アトリエ記念館さん。彝(つね)も中村屋サロンの一員で、おそらく光太郎と顔なじみだったと思われますし、光太郎に出会う以前の智恵子が彝に絵のアドバイスを受けたりということもありました。

というわけで、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生只今からだを悪くし、医者の言により安静療法をやつて居り、人にあひません、 右御了承下さい、


昭和29年(1954)7月7日 篠田定吉宛書簡より 光太郎72歳

結核の悪化により、ほぼ面会謝絶。それでも出版社の編集者や、当会の祖・草野心平などは例外でしたが。少し後には、心平の骨折りでまだ一般的ではなかった電気冷蔵庫を購入、さらにアトリエと母屋をつなぐ呼び鈴のベルなども設置しました。

カルチャースクール系の講座情報、目黒学園カルチャースクールさん主催の詩の講座です。

詩の創作と鑑賞講座 7月期

期 日 : 2025年7月7日(月)、8月4日(月)、9月1日(月)
会 場 : 目黒学園カルチャースクール第1教室 品川区上大崎3-3-1 アトレ目黒2 2階
時 間 : 18:00~20:00
料 金 : 9,900円(税込)3ヶ月3回

講座の前半では、名詩を鑑賞します。中原中也、萩原朔太郎や、谷川俊太郎ら馴染みのある詩人の作品を対象にして、読む楽しさについて学びます。また、世界の名詩も取り上げ、日本の詩と比較しながら詩を味わい、ことばを用いて書くことの楽しさについて触れてゆきます。講座の後半では、受講生のみなさんの詩を鑑賞し、受講生同士や講師から講評を受けながら、詩を書くことの面白さを皆さんと一緒に分かち合います。ありのままの感性を大切にことばと向き合いましょう。初心者の方、学生の方も歓迎です。

7/7は 『高村光太郎詩集』を鑑賞します。8/4、9/1は後日、決定いたします。

7/7(月)に体験会を開催いたします。(18:00~20:00 受講料 1,210円) 『高村光太郎詩集』岩波文庫 https://www.iwanami.co.jp/book/b249180.html を各自ご用意ください。それ以降は1回分受講料で随時体験をお受けします。詳しくはお問い合わせください。

講師 山﨑修平 詩人・文芸評論家、法政大学江戸東京研究センター客員研究員
   東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。
   法政大学大学院人文科学研究科日本文学専攻修士課程修了。
   同博士後期課程単位取得満期退学
   著書:詩集『ロックンロールは死んだらしいよ』、『ダンスする食う寝る』。
   小説:『テーベックのきれいな香り』。
   共著『吉田健一に就て』。
   文学イベントのゲストスピーカーやパネリストとして多く登壇。
   『週刊読書人』の文芸時評を担当するなど、文芸誌・新聞・専門誌での執筆経験をもつ。

〈講師からのメッセージ〉
 名詩を鑑賞し、そのエッセンスを丁寧に学びながら、詩を創作する喜びを分ち合いましょう。「詩はなんだか難しそう」、「詩なんて書いたこと無い」という方でも大丈夫です。受講生同士や講師からの、アットホームな雰囲気での講評によって、ありのままの感性を大切にことばと向き合う講座にしてゆきたいと思っています。一歩ずつ丁寧に進めていきます。ぜひ、ご一緒しましょう!
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岩波文庫の『高村光太郎詩集』をテキストにされるそうで。表紙に書かれた解説文は以下の通り。

世俗的なものとの妥協を排し,不断の情熱をたぎらせて人生の意味を追求し続けた光太郎の詩は,美しいもの,真実なものに対する善意と愛に満ちている.その歩みの中から九十三の詩篇を精選し,「道程」より・「道程」以後・「智恵子抄」より,の三部に編んだ.作者が生前自ら校閲した最後の詩集である. (解説 奥平英雄)

光太郎自身の「はしがき」も掲載されています。

 知友、東京国立博物館技官、奥平英雄氏からのお話によつて、岩波文庫版としてこの選詩集は出す気になつた。詩篇の選択、編集、組方、校正まですべて奥平氏の厄介になつた。奥平氏によつて選ばれた詩篇の中から私は更に三四篇を削除したが、これは自己の旧作に対して、私のやうな気質の人間の誰でもが抱くであらう一種のはにかみと不満とによるものである。実をいふと、自分の旧作をよんでゐて感ずるものは、あれもこれも消してしまひたいやうな衝動である。しかし消しはじめたらきりがなく、結局一篇も採れなくなりさうなので、これくらゐですませた。
 時代感覚を保存するために、今日の制限外漢字や旧やかなかな遣ひをそのままにして置いた。詩篇の選択を年代としておよそ「智恵子抄」あたりまでに限定したのは岩波文庫係の意見によるものであり、戦後の詩篇は一切編入されてゐない。尚この集詩篇の制作年代の決定は一々確実な記録によつたのですべて正しい。ただしこの年代は制作年代であつて発表年代ではない。
    一九五四年十一月


編者は解説も書いている美術史家の奥平英雄。晩年の光太郎に親炙し、その任を引き受けた他、『晩年の高村光太郎』(昭和37年=1962 二玄社)、『忘れ得ぬ人々  一美術史家の回想』(平成5年=1993 瑠璃書房)など、貴重な光太郎回想を残しています。『晩年の……』の方は瑠璃書房版の特製本(昭和52年=1977)もあり、こちらは特別附録としてラジオ放送のための奥平と光太郎の対談「芸術と生活 高村光太郎・奥平英雄」(昭和28年=1953 12月27日録音)が収録されたカセットテープが付いています。

7月7日(月)の光太郎の回が体験入学会を兼ねた実施だそうで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

医者のすすめに従ひ、今安静療法をやつてゐるため、胸像の完成はもすこしのびます、

昭和29年(1954)6月14日 牛越誠夫宛書簡より 光太郎72歳

牛越は石膏取り師、「胸像は」遺作となった「倉田雲平胸像」。結局、制作を中断したままになってしまいました。

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