2025年06月

演奏会情報を2件。

まずは広島県から。

広島中央合唱団第58回定期演奏会

期 日 : 2025年7月6日(日)
会 場 : はつかいち文化ホールウッドワンさくらぴあ 広間件廿日市市下平良一丁目11-1
時 間 : 14:00~15:40
料 金 : 一般 900円 学生 500円

ジャズミサでは、ピアノにサックス、トランペット、ベースギター、パーカッションも加わります!!日本語曲も、ストラヴィンスキー演りますよ✨️お楽しみに〜🎵

Ⅰステ
 相澤直人 / 混声三部とピアノのための「なんとなく・青空」から
  『なんとなく・青空』『みえない手紙』『あいたくて』
 鈴木憲夫 / 混声合唱曲「レモン哀歌」
 Will Todd / Jazz Missa Brevis より Kyrie, Gloria, Sanctus, Benedictus, Agnus Dei
Ⅱステ
  Stravinsky -V. Gryaznov / Symphony of Psalms
エンディング ソング
 I. Stravinsky / Pater Noster (Otche Nash)
 山崎朋子 / すべてのもの
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鈴木憲夫氏作曲の混声合唱曲「レモン哀歌」がプログラムに入っています。ゆったりと落ちついた曲調の中で、去りゆく智恵子と見送る光太郎の哀切が情調豊かに描かれ、数ある「レモン哀歌」系楽曲の中でも当方の特に好きなもののひとつです。

同団、昨秋に広島市内の教会で開催された「Autmun Concert~Can't wait for Christmas~」でも同曲を演奏して下さいました。

もう1件、同日で福島から。

「ほんとうの空」の村 黒坂黒太郎 コカリナ コンサート

期 日 : 2025年7月6日(日)
会 場 : あだたらふるさとホール 福島県安達郡大玉村玉井字西庵183
時 間 : 13:30~
料 金 : 高校生以上 500円 小中学生 300円

演奏予定曲
 本当の空の村 黒坂黒太郎
 チャルダッシュ モンティ
 アメージング・ピース 讃美歌 他

出演 黒坂黒太郎(コカリナ)  山口周美(ボーカル)

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大玉村は、智恵子の故郷・二本松市に隣接し、やはり安達太良山麓に位置する村です。そこで光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」、そこから派生した「ほんとうの空」「本当の空」などの語を使ったりして、官民あげていろいろやって下さっています。

「智恵子抄」系商品 ワイン「OOtama blue」 万年筆「ほんとの星空。」。
「第69回全国植樹祭ふくしま2018 育てよう希望の森をいのちの森を」サテライト会場レポート。
ほんとの空からペルーの空へ。

今回のコンサートでは「ほんとうの空の村」と冠し、さらにコカリナ奏者の黒坂黒太郎氏がオリジナル曲「本当の空の村」を演奏なさいます。

それぞれご興味おありの方どうぞ。

と、いつもでしたらここで終わるのですが、双方の開催される7月6日(日)は、都内で先週ご紹介した「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」もありますので、そちらもよろしくお願い申し上げます。
 
【折々のことば・光太郎】

レントゲン検査の結果、イソニコチン酸ヒドラジツドをのまされたり、又心臓肥大症のためヂギタリスをのんだりしています。


昭和29年(1954)6月3日 舟川栄次郎宛書簡より 光太郎72歳

「イソニコチン酸ヒドラジツド」は抗結核薬の一つで、この2年ほど前から一般に処方されるようになりました。やがてヒドラジッド、ストレプトマイシン、パスの3剤併用で結核の死亡率を劇的に下げる治療法が用いられるようになりましたが、光太郎に対しては既に時遅しだったようです。

ちなみに当方も、肺を冒されるには至りませんでしたが、幼少時、結核の強陽性で、ヒドラジッドを服用し続けていた時期がありました。

昨日は上京しておりました。行き先は神田神保町の古書店、八木書店さん。目的は、こちらが主催の近代文学特別講座「活字をはみだすもの 第25回 高村光太郎「独居自炊」の思想―宮崎稔宛書簡から」拝聴でした。
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それぞれ別の方が講師を務められる全4回の講座の最終回で、この回の講師は東海大学さん文学部日本文学科教授であらせられる大木志門氏。
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副題が「「独居自炊」の思想―宮崎稔宛書簡から」ということで、茨城取手在住だった光太郎の姻族・宮崎稔(明34=1901~昭28=1953)にスポットが当てられてのお話でした。

まず驚いたのが、光太郎から宮崎、それから「鯉軒」とも号した宮崎の父・仁十郎、そして宮崎の妻にして智恵子の姪・春子宛書簡がズドンと200通ほど積み上げられていたこと。
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大木氏のコレクションかと思ったら、八木書店さんでお持ちのものだそうで、となると、いわば商品ですね。

光太郎からの宮崎家関係のこの手の書簡類、献呈本、書などはおそらくその全てが売却されてしまい、現在でも特に書簡類はよく市場にでるのですが、八木書店さんでこんなにたくさんお持ちだったというのは存じませんで、びっくりしました。

幸い、書簡類はおそらくその全てが『高村光太郎全集』に収録されています。ただ、細かい部分では『全集』で活字になっているものと齟齬があるようです。実際、昨日手にとらせていただいて拝見した一通は、『全集』では稔宛となっているものの、現物は春子宛でした。

ちなみに大木氏もご指摘されていましたが、表書きというか宛先というかが「取手町 宮崎○○様」で届いてしまっています。地区名や番地なしです。取手で「宮崎」といえばこの家、というほどの素封家だったことがわかります。仁十郎は日本画家・小川芋銭のパトロンでもありました。

光太郎と宮崎家との交流は戦前に遡ります。

仁十郎が檀家総代だった長禅寺さん境内に、「小川芋銭先生景慕之碑」が建てられたのが昭和14年(1939)。光太郎はその題字を揮毫しました。芋銭は前年に亡くなっています。
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太平洋戦争中の昭和19年(1944)には、やはり長禅寺さんで光太郎が講演。
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長禅寺さんといえば、戦後の昭和23年(1948)に山門前の石段脇に建てられた「開闡郷土」碑も光太郎が題字を揮毫しています。

取手で揮毫と言えば、旧取手町長・中村金左右衞門の子息二人(共に戦死)の墓碑の揮毫も光太郎。こちらは長禅寺ではなく、町外れの明星院さんという寺院近くの共同墓地に佇んでいます。

それら全て、宮崎家が仲介したり何だりで行われた事柄です。

稔は光太郎の手助けをいろいろ。最も大きかったのは、昭和20年(1945)5月の光太郎花巻疎開に際して。老年にさしかかり、健康も害していた光太郎に花巻まで同行したり、荷物の運送の手筈を調えたりしてやりました。その直前には、智恵子紙絵の約3分の1の疎開も引き受けています。

そんなわけで、光太郎は当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付き添いを務めてくれ、その最期を看取った智恵子の姪・春子を稔に紹介、二人は昭和20年(1945)の暮れに結婚しました。そして姻族となったわけです。

そこで、非常に近しい間柄だった宮崎家の人々に宛てた光太郎書簡は膨大なものになりました。その書簡群から垣間見える、特に戦中・戦後の光太郎について、大木氏が熱弁。
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レジュメの一部です。
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なるほど、たしかに量が多いだけに、さらに懇意にしていて踏み込んだ話もされることから、宮崎家宛ての書簡を概観するだけで、光太郎の動向やその時その時の心情がかなりわかるもんだな、と思いました。

ただ、光太郎にしてみれば困った点も。稔が光太郎の意志に反し、「やめてくれ」というのを振り切って、歌集『白斧』(昭和22年=1947)、書簡集『みちのくの手紙』(昭和28年=1953)を強引に出版してしまったことなどです。

それを受けて、『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜では、当会顧問であらせられた北川太一先生、昭和28年(1953)4月の項に「二十七日、何かと光太郎の身辺を案じ、一面では光太郎の心労の一因でもあった宮崎稔が胃潰瘍による吐血の末、四十三歳で没した」と書きました。実際、光太郎としては悼む気持も当然ありつつ、胸をなで下ろした部分もあったと思われます。

そしておそらく昭和63年(1988)に春子が没してからと思われますが、宮崎家関係の書簡類、献呈本、書などのおそらく全てが売却されてしまいました。先述の通り、そのうちの書簡200通ほどが八木書店さんに保管されています。八木さんとしては「これ、どうしよう」という部分もおありのようです。花巻高村光太郎記念館さんや駒場の日本近代文学館さんなどに寄贈していただければありがたいのですが、数百万円にはなるであろう市場価値を考えると、簡単に寄贈してくれ、とも言えません。さりとて予算の少ない公立の館で買い取る算段が付くか、というとそれも疑問です……。

さて、終了後、大木氏から氏の編集なさった下記書籍をいただいてしましました(と言いつつ、いただけるだろうなと姑息な予想をしておりまして(笑)、購入せずにいたものです)。
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田畑書店さん刊行の『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』。文庫サイズです。

てっきり一冊の書籍だと思い込んでいたのですが、袋から出してびっくり。何と、全9冊に分かれていました。「アンソロジー」ということで、光太郎作品群が8冊。
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それから大木氏の解説が書かれた「チュートリアルブック」が一冊。
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直接大木氏に伺ったのですが、『道程』や『智恵子抄』などのメジャーどころは敢えて外したとのこと。

表紙(というかカバー)がこうなっているのは、光太郎も登場するオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画であるためだそうで。同ゲーム、「文アル」と略され、朗読CD演劇などでも光太郎がらみになったことがありますし、花巻高村光太郎記念館さんとのコラボ企画もありました。こういうところを入口に、若い皆さんが興味を持って下さるのは大歓迎です。

ちなみに大木氏の「チュートリアルブック」中には清家雪子氏の漫画『月に吠えらんねえ』にも言及がありました。

多謝。

というわけで、田畑書店さんサイトからご注文下さい(都内の一部の新刊書店などでも扱いが始まったようですが)。

【折々のことば・光太郎】

小生は今安静中でお医者が三、四人見にきます、 外出しないので此手紙発送も中西夫人にお願します、


昭和29年(1954)6月3日 宮崎春子宛書簡より 光太郎72歳

これも春子宛の書簡です。

光太郎の結核悪化を心配した周囲の人物が、それぞれ懇意にしている医師を紹介。そこで「お医者が三、四人」です。医師達も心得たもので、「チーム・バチスタ」ならぬ「チーム・光太郎」を組んで、中野のアトリエへの往診や治療に当たってくれました。

2度ほどちらっとご紹介しましたが、当方も所属しています「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」主催です。

中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会

期 日 : 2025年7月6日(日)
会 場 : 中野区産業振興センター 東京都中野区中野 2-13-14
時 間 : 13:30~16:00
料 金 : 無料

中西アトリエは画家・中西利雄亡き後、高村光太郎が創作のため1952年から1956年まで滞在しました。十和田湖畔の乙女の像の塑像をこのアトリエで制作しここで亡くなりました。詩人でもあった光太郎の滞在時には多くの文人たちが訪れたそうです。光太郎と仲間たちを偲ぶ朗読会のご案内です。

1、吹木文音(詩人) 
   宮沢賢治作
 よだかの星/銀河鉄道の夜
2、田井淑江(書家)
    太宰 治作
 人間失格 /走れメロス
3、 立原一洋(ギター奏者)、 
   佐藤春夫作
 秋刀魚の歌(作曲・立原一洋)
4、宮本苑生(詩人)
    草野心平作 
高村光太郎の死の前夜/高村光太郎死す/秋の夜の会話 他
5、原詩夏至(詩人)
    尾崎喜八作
 友/三国峠/私の詩
6、宮尾壽里子(朗読講師)
  高村光太郎
 レクイエム智恵子(構成・宮尾壽里子)
 ◆休憩◆   (10分)
7、出口佳代(朗読家)・早見英里子(フリーアナウンサー)   
  【光太郎智恵子】2人の声が奏でる静かで深い愛の物語
  高村光太郎作 僕等/道程/あなたはだんだんきれいになる/風にのる智恵子/
  レモン哀歌/元素智恵子
8、吉川久子(フルート奏者)・山田大輔(ギター奏者) 
  演奏曲目ほらねんねんねろ/ふるさと/星めぐりの歌/谷戸の風/小泉八雲の子守歌
  朗読作品 高村光太郎 樹下の二人/宮沢賢治 双子の星 春と修羅/太宰治の格言
9、一色采子(俳優)・田中健(ピアノ)
  詩と音楽のマリアージュ 高村光太郎「智恵子抄」より ドビュッシーの音楽に乗せて
  高村光太郎作 人に/樹下の二人/あどけない話/レモン哀歌

※朗読作品、演奏曲目、順序等、変更になる場合が御座います。ご了承ください。


司会/解説 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)

申し込み者募集中、80名(詳細は下記のチラシ)定員になり次第締め切り。
メール・sogakousei@mva.biglobe.ne.jp
☎090-4422-1534(ショートメール可)
朗読会案内①
朗読会案内②
光太郎が生涯最後の大作「乙女の像」を制作し、その終焉の地ともなり、さらに記念すべき第一回連翹忌会場となった、中野の中西利雄アトリエ。現在、保存に向けての活動を展開中ですが、この建物にかくも錚々たる人々が集まった(関わった)ということで、その人々の作品を朗読や音楽に乗せてお届けし、広くアトリエの価値の一つの側面を周知するための取り組みです。

ここで約3年半起居し、亡くなった光太郎をはじめ、光太郎の元を訪れた文人として、「乙女の像」仕掛人の一人・佐藤春夫、当会の祖・草野心平、そして尾崎喜八。それから光太郎が入居する前に亡くなりましたが、「乙女の像」クライアントの津島文治青森県知事実弟で春夫とも縁が深い太宰治、光太郎や心平らの努力で没後にその作品世界が広く世に認められるに至った宮沢賢治の作品も取り上げます。太宰と賢治はこのアトリエを訪れていませんが、それぞれの兄弟、津島知事と宮沢清六は足跡を残しています。

大トリに、女優の一色采子さん。都内や智恵子の故郷・二本松で北條秀司作の舞台を朗読劇化した「智恵子抄」公演で智恵子役をなさったり、お父さまの故・大山忠作画伯は智恵子と同郷で、智恵子を描かれた絵も複数遺されたりしています。

その前に、フルート奏者の吉川久子さん。こちらも「智恵子抄」がらみの公演を複数回なさって下さっています。当初、お仲間の方が朗読なさる予定でしたが、健康を崩されて、朗読も吉川さんがなさいます。

それから今年の連翹忌の集いで朗読を披露していただき、絶賛を浴びたフリーアナウンサーの早見英里子さんと朗読家の出口佳代さんのコンビ。

宮尾壽里子さんはじめ、ご自身で詩作等もなさっている詩人系の方々も。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

“62のソネツト”感謝、小生、まじめな人の詩に接するのは いつでも大きなよろこびであり、又それによつて勇気づけられます、


昭和29年(1954)5月20日 谷川俊太郎宛書簡より 光太郎72歳

昨年亡くなった谷川俊太郎氏宛で、唯一確認出来ているものです。『宮沢賢治全集』編集などで、父君の谷川徹三とは旧知の仲でした。俊太郎氏も複数のご著書を光太郎に贈っています。ただ、それらは郵送で、直接の面識は無かったようです。
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光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の紹介も為されている、十和田湖畔にの十和田湖観光交流センター「ぷらっと」が、「外国人観光案内所カテゴリー2」に認定されたとのことです。

プレスリリースが出ています。

十和田湖観光交流センター「ぷらっと」、外国人観光案内所カテゴリー2に認定されました! 一般社団法人十和田奥入瀬観光機構 2025年6月19日

 十和田湖観光交流センター「ぷらっと」は、十和田湖、奥入瀬渓流などの観光に関する情報、市民との交流の場などを提供し、十和田市の魅力発信、賑わい創出などの観光振興を目的に、2014年10月8日に設置されました。
 一般社団法人十和田奥入瀬観光機構(TOWADA TRAVEL)では、設立年の2019年4月より当施設の指定管理業務を担い、観光案内所として、地域情報の発信や観光案内、外国人対応などの役割を担ってまいりました。このたび「ぷらっと」は、多言語対応の体制整備に加え、案内の提供範囲が十和田湖・十和田市周辺にとどまらず、青森市や弘前市などの津軽方面、秋田県北地域も含む広域的なエリアにも拡大していることから、2025年5月29日付で、独立行政法人 国際観光振興機構(JNTO)より外国人観光案内所のカテゴリー2に認定されました。
 一般社団法人十和田奥入瀬観光機構(TOWADA TRAVEL)は地域づくり法人(DMO)及び当施設の指定管理者として、引き続きインバウンド受入体制の整備に資し、海内外の観光客に高い満足度を提供し得る観光施設運営を目指して参ります。
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十和田湖観光交流センター「ぷらっと」
【住所】〒018-5501 青森県十和田市奥瀬字十和田湖畔休屋486
【開館時間】9:00〜17:00
【定休日】年中無休
【入館料】無料
【観光案内対応言語】日本語、英語、中国語、フランス語
【常設展示】
 ・十和田湖ひめます(4月〜11月頃) ・十和田湖畔休屋周辺のジオラマ
 ・和井内貞行、高村光太郎、大町桂月の資料
【アクセシブルなサービス】
 ・交流室貸出 ・授乳室 ・休憩スペース ・フリーWi-Fi ・コンセント ・エレベーター
 ・オストメイト対応トイレ ・車椅子貸出
【ウェブページ】
https://tic.jnto.go.jp/jpn/detail.php?id=3702(日本の認定外国人観光案内所)
【指定管理者】
 一般社団法人十和田奥入瀬観光機構(TOWADA TRAVEL) 理事長:岩間 惠美郎
【連絡先】
・電話番号:0176-75-1531
・ファクス:0176-75-1535
・メール:towadako@towada.travel
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「ぷらっと」さん、平成26年(2014)にオープンし、「乙女の像」作者の光太郎コーナーも設けて下さいました。説明パネル等は当方が執筆いたしました。その後も少しずつ展示が拡充、各種イベントの会場としても活用されています。また、オープン当初は冬期間閉鎖でしたが、現在は年中無休。頭が下がります。

周辺にはインバウンドの方々も多く、その対応ということで、今回は独立行政法人 国際観光振興機構(JNTO)さんより外国人観光案内所のカテゴリー2に認定ということだそうです。
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どうせなら、カテゴリー3認定を目指し、さらなる体制の整備等をお願いしたいところです。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お届けしたいものもありながら、参上出来ずにゐる次第です。


昭和29年(1954)5月11日 細田明子宛書簡より 光太郎72歳

つい先日も書きましたが、明子は戦前から光太郎が常連だった三河島のトンカツ屋・東方亭の娘です。光太郎に実の娘のようにかわいがられていました。戦後、医師となり、光太郎詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)のモデルにもなりました。

「お届けしたいもの」は、この月に医者仲間の関川大司と結婚する明子への祝いの品、結婚記念帳でした。
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のちに明子は「過分なお祝いと結婚記念帳を頂戴し、そこに心暖まるお祝のお言葉まで書いていただいた。」と書きました(「高村光太郎さんと私」平成10年=1998『福島民友新聞』)。

光太郎の言葉は以下の通り。

明子様 昭和廿九年    光太郎 心臓をわるくしてゐて お祝に出られなかつた お二人は殊に心臓がおつよいといふ事だし それにあやかりたかつたが是非もなかつた たゞ新郎が心臓専門なのは心づよい 光太郎

当会の祖・草野心平メインですが、心平の故郷・福島県いわき市さんの『広報いわき』に光太郎の名。今月ももう終わりですが、今月号です。少し前に気づいたものの紹介する機を失っていました。
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表紙をめくってすぐの2ページにわたって「特集1 草野心平を知る」。

今更感がないでもありませんが、住民の世代は交代していくわけで、定期的に(不定期でも、ですが)こういった形で紹介することが「語り継いでいくこと」につながり、特に昭和63年(1988)に亡くなった心平を直接ご存じでない若い世代の皆さんに読んでいただきたい記事です。

光太郎の名は2ページ目に。その項だけ活字にします。

 作品の魅力
 心平の詩は「●」が一つだけ書かれた「冬眠」や、一行を「る」で埋めた「生殖 Ⅰ」など、蛙を描いた詩が有名です。心平は、蛙の方が人間より長い間地球に生存し続けていることなどに共感し、蛙の詩を作り続けました。
 その他にも、天や富士山、石、海などを主題とした作品もあり、その根底にある「すべてのものと共に生きる」という独特の共生感によって生み出された作品は、生命力にあふれています。さらに、絵画や記号のような文字使いや、蛙の鳴き声を表現した「ケルルン クック」などの独創的な擬音(オノマトペ)、そして独自の言語「蛙語」は、唯一無二の世界観を作り出しています。
 心平は、宮沢賢治らを発掘・紹介するとともに、高村光太郎や萩原朔太郎、中原中也などと親交を深めながら多くの詩人を育てました。それらが渾然一体となって心平の魅力を生み出していると言えるでしょう。 
 また、市内17の小中学校をはじめ、全国各地で100以上の校歌を作詞し、世代を超え歌い継がれています。

従来の「詩」という概念をぶちこわそうというレベルまで行った独特の作品群も大きな魅力を放っていますが(一世代前の光太郎は、明治末から大正初めに『道程』所収の詩などでそれまでの気取った「文語定型詩」の概念を突き抜けた「口語自由詩」を確立し、光太郎に心酔した心平はさらにそれを進めて「詩」という上位概念すら無視した作品を書きました)、もう一つの心平の大きな業績はそのプロデュース能力に負うところが大きいと思います。

すなわち、宮沢賢治などの才能ある詩人の発掘、光太郎ら先輩を含め発表の場の提供など。

今年の冬から開催される花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示で『宮沢賢治全集』をメインに取り上げることが決まっています。特に最初の全集である文圃堂版(昭和9年=1934~昭和10年=1935)、そしてそれを引き継いだ十字屋書店版(昭和14年=1939~昭和19年=1944)。さらに戦後の日本読書組合版や筑摩書房版についても。
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それら全てに光太郎が関わっていますし、他のキーマンとして、賢治実弟の清六、賢治の親友だった藤原嘉藤治、谷川俊太郎氏の父君・谷川徹三、横光利一、中島健蔵など。
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そして心平も。004

そうした関係もあり、このところ、昨年刊行された瀬川正子氏編『賢治さんの人格・芸術を世界へ 藤原かとうじが残したもの』(先日、花巻で頂いてきました)や、手許にある心平の評伝等数冊を読み返しているところです。

『賢治さんの……』には、世の中の常識の枠組みからもはみ出してぶっ飛んでいた心平の姿が語られ、「おいおい」と云うところも少なからずありますが(笑)。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示で『宮沢賢治全集』をメインに取り上げる件、また近くなりましたら詳細をお伝えいたします。

閑話休題、心平について、いわき市民の皆さん、それ以外も、しっかりと語り継いで行っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

静坐してゐれば何ともないですが、動いたり、歩いたりすると息がくるしくなります。外出の用事は中西夫人に皆お願ひしてゐます


昭和29年(1954)5月11日 細田明子宛書簡より 光太郎72歳

宿痾の肺結核は確実に身体を蝕み、そろそろほとんど外出不可能になっていきます。そのため、それまで自分でやっていた日々の買い物なども、貸しアトリエの大家・中西富江に頼むようになります。中西家には、光太郎が富江や、のちに雇った家政婦さんに託した膨大な買い物メモや金銭出納メモが現存しています。メモは時に図入りで、当時の光太郎の需要や嗜好もわかり、貴重なものです。
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やはり取り上げるべき事項の山積中で、3件まとめてご紹介します。

まず今週末まで和歌山県立近代美術館さんで開催されている企画展「佐藤春夫の美術愛」について、『毎日新聞』さん。6月16日(月)、夕刊の掲載記事です。

和歌山で佐藤春夫の旧蔵品展 文豪の目利きと版画愛

 作家・佐藤春夫(1892~1964年)旧蔵の美術作品を中心とした企画展「佐藤春夫の美術愛」が、和歌山市の和歌山県立近代美術館で開かれている。昨年度、遺族から所蔵作品61件148点の寄贈を受け、本展ではそのうち112点を中心に、ゆかりの150点を展示している。
 目を引くのは、版画の多さだ。作家・内田百閒(ひゃっけん)に「風船画伯」と名付けられ、文学者に愛された版画家・谷中安規(1897~1946年)の作品や、作家仲間の武者小路実篤らと購入した作品を分け合ったフランシスコ・デ・ゴヤの連作版画集「ロス・カプリーチョス」などが並ぶ。
 佐藤は和歌山県新宮市出身。文学を志して上京し、慶応義塾大で永井荷風らの指導を受けた。与謝野寛(鉄幹)、晶子夫妻の新詩社では堀口大学と出会う。1918年に小説「田園の憂鬱」で注目を集めるが、それまでは評価を得られず、美術家を目指した時期もあった。二科展にも連続入選しており、本展では佐藤の絵画作品2点も展示。絵画制作を始めるきっかけの一つとなった高村光太郎の手による佐藤の肖像画も出展されている。
  展示は4章構成。中でも注目は、川上澄生(1895~1972年)と谷中の作品群だ。 川上は宇都宮市を拠点に大正半ばから昭和にかけて活躍した木版画家で、佐藤の著作の装丁なども手がけた。川上の作品を知人から贈られ、佐藤が<狂喜魅了>したことを記した手紙も残されている。物語性に富む静物画や、、川上の25~31年の主要な作品が並ぶ。 芸術家肌で興味のままに行動することから百閒に「風船画伯」と名付けられた谷中は、飛行船やロボットなど近未来的な素材と民話など土着的なテーマを融合させた幻想的な世界を生み出した。佐藤は自著の装丁を依頼するだけではなく、作家仲間にも紹介するなど、谷中の活動を支援。締め切りに大幅に遅れた谷中への督促はがきも展示され、末尾に書かれた佐藤の「カンシャク先生」の署名からは、2人の親しい関係が読み取れる。
 谷中は46年、栄養失調のために亡くなった。わずかな遺品の中には、佐藤や与謝野晶子ら文学者からの手紙類が大切に残されていた。本展でもその一部を見ることができる29日まで。

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これまでもたびたび同展の報道が為されています。

 和歌山県立近代美術館「佐藤春夫の美術愛」展報道。
 和歌山県立近代美術館「佐藤春夫の美術愛」図録、報道。

会期末近くなってまたこうした報道が出ると、それまで開催に気づいていなかった人々が「こんなんやってたんかい」となることもあるので、ありがたいところです。

続いて『日本経済新聞』さん、6月17日(火)夕刊。小説家の一穂ミチ氏の連載コラムです。

ゾンビがいっぱい

004 1990年代、「広告は私たちに微笑みかける死体」というセンセーショナルなタイトルの本が話題になった。当時ベネトンのアートディレクターだった著者による広告哲学や創作論で、ただ「購買意欲を刺激し商品を買わせる」ためだけではなく、社会や世界が抱える問題に対して広告がどんな一石を投じ得るのか、が書かれていて、非常に面白く読んだ。
 2020年代半ばの現在、広告はもはや「私たちを包囲するゾンビ」だと感じる。群れをなし、動き、声を上げる。広告を見るまいと目を背けることは、あらゆる情報ツールを遮断するということなので、日常生活ではほぼ不可能だ。タクシーの車内に広告が出るモニターが設置され始めた時には「とうとうこんなところにまで」と思った。それで、「ゴルフ場のカートのモニターに広告を流しませんか」なんて売り込んでくる。もう広告のマトリョーシカ状態。あらゆる余白、あらゆる画面にゾンビは寄ってくる。
 いえ、創作で小商いをしている身としては、もちろん痛いほどわかっております。何かを売るには宣伝、プロモーション、ブランディングが不可欠。「わたし、ここにいます」と声を張り上げなきゃ始まらない、知らないものは存在しないも同然だから。誰もがそう思い、モノと情報の過当競争の中でわたしたちの視界にはおびただしい存在証明が溢(あふ)れかえることになる。
 新聞やテレビと違って良くも悪くも自由度が高いネット広告にその密度は顕著で、上下左右を広告に取り囲まれていったい自分が何の記事を読みたかったのかわからなくなってしまうことがある。「閉じる」のボタンが砂粒みたいな小ささだったり、タップしても反応が鈍かったり。そのくせ、広告が開く時は指先が掠(かす)っただけでポンっと現れる気がする。ずるくないか。閉じても閉じても湧いてきて、最近は「○秒間広告が流れます」と時間で縛ってくるものも増えた。あと、スマホアプリに挟まってくるゲームの広告、何で実際ダウンロードしてみると違う内容なんですか? CMどおりに王様助けさせてくれ!
 動画系のサブスクなら広告を回避しようと思えば課金制の有料プランへご案内、となる。広告の枠を用意してお金を集め、広告のカットでもお金を集める……マッチポンプみたいにけったいなビジネスモデルが大手を振ってまかり通っている。
 街を歩くとさまざまな看板が目に入る。最近、動かない広告を見ると、よしよし、ちゃんと死んでるね、とほっとする。ネオンがちかちかするくらいなら許容範囲、道頓堀の主張とクセが強すぎる立体看板もパビリオンみたいなものだからよしとしよう。そして目が疲れると、まっさらな空をしばし見上げる。子どもの頃はたまにアドバルーンを見かけた。あれはわくわくして好きだった。今は、高層の建物が増えたせいか、とんとお目にかからない。そのうち、空にも「モデルルーム公開中!」とか「新曲発売!」とか表示されるようになるかも。椎名誠の小説「アド・バード」みたいに。
 「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」――高村光太郎の「智恵子抄」の一節を、智恵子とは似て非なる感慨でつぶやく日が来たりして。近畿も梅雨入りしたけれど、外に出て「ほんとの空」を見ておこう。無課金のうちにね。

上下左右を広告に取り囲まれていったい自分が何の記事を読みたかったのかわからなくなってしまうことがある」、まさにその通りですね。それにしても広告で空が占領されることになるのも嫌ですが、ミサイルや無人ドローン攻撃機に溢れる空はもっと嫌です。

最後に『茨城新聞』さん。

天心の思想、実像に迫る 専門家2人が対談 北茨城・五浦美術館

 美術思想家の岡倉天心について考える対談イベント「日本美術院の系譜-五浦で岡倉天心を語る-」が21日、茨城県北茨城市大津町の県天心記念五浦美術館で開かれた。天心ゆかりの日本美術院同人の手塚雄二さんと同館長の小泉晋弥さんの2人が登壇し、残された逸話や記録に触れながら天心の思想や実像に迫った。
 イベントは茨城大五浦美術文化研究所開設70周年事業の一環で、大学や同美術院関係者、一般来場者の計約70人が参加した。
 手塚さんは、天心の系譜で自身も師事した日本画家の平山郁夫さんについてトークを展開。平山さんが若い頃から教授になるなど将来像を描いていたと考察したのに対し、小泉さんは「天心も若い時に(文部大臣になるなど)人生ノートを書いていた」との逸話を紹介した。
 手塚さんは「絵描きではない天心が、絵描きにどう教えていたのか」と疑問も提起。小泉さんは、弟子が描いた作品の批評会を例に挙げ、画家の素質に合わせ「言葉を選びながら指導していた」と語った。
 さらに、手塚さんは東京芸大の助手時代、平山さんから「絵を教えては駄目。背中を見せなさい」と指導された思い出を回顧。小泉さんは、天心が東京美術学校を開校する際、「(講師に招いた)高村光雲に言ったことと全く同じ言葉」と共通点を指摘した。
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光太郎が入学した際の東京美術学校長だった岡倉天心がらみのイベントで、光太郎の父・光雲を同校に招聘した際の天心の言葉が紹介されたようです。

具体的なところは、光雲が遺した『光雲懐古談』(昭和4年=1929)で語られています。

 それから、午後四時頃私は出掛けて行つた。岡倉氏に面会すると、同氏は私の来訪を待つてゐた所だと云つて、「今日、竹内氏をもつて御願ひした件は何ういふことになりましたか。」
といふ。私は竹内氏に答へたことゝ同じ意味のことを答へますと、
「高村さん、それはあなたは考へ違ひをしてゐられる。学校をさうむづかしく考へることはいりません。あなたは字もならはない、学問もやらないから学校は不適任とお云ひですが、今日、あなたにこの事をお願ひするまでには私の方でも充分あなたのことに就いては認めた上のことですから、さういふことは万事御心配のないように願ひたい。あなたに出来ることをやつて頂かうといふので、あなたの不得手なことをやつて頂かうといふのではありません。多くの生徒に就くことなどが鬱陶しいなら、生徒に接しなくとも好いのです。」
といふやうに岡倉氏は説いてゐられる。説明岡倉氏のするところは中々上手いので、私に嫌といはさないやうに話しを運んでゐられる。氏はさらに言葉を継ぎ、
「それで、あなたがお宅の仕事場でやつてゐられることを学校へ来てやつて下さい。学校を一つの仕事場と思つて……つまり、お宅の仕事場を学校へ移したといふ風に考へて下すつて好いのでそれであなたの仕事を生徒が見学すれば好いのです。一々生徒に教へる必要はないので、生徒はあなたの仕事の運びを見てゐれば好いわけで、それが取りも直さず、あなたが生徒を教へることになるのです。」
といふ風に話されるので、自分のことを私が云はうと思へば、先を越して云つてしまつてどうにも辞退の言葉がないやうな有様になりました。

竹内氏に答へたこと」はその前の部分にあります。「竹内氏」は竹内久一、やはり彫刻家です。

「今のお話でよく訳は分りましたが、どうも私はさういふ学校といふやうな所へ出て教師の役をつとめるなどといふことは私には不向きだと思ひます。つまり、私はその衝に当る人でないと思ひます。家にゐて仕事をして傍ら弟子を教へることなら教へますが、学校といふやうなことになると私には見当が附きません。御承知の通り、私はさういふ生立でありませんから……なまじつか、柄にないことに手を出して見た処で、自分も困るし、他も迷惑と思ひます。此はお断りしたいものです。」

こういう「目で見て盗め」というスタイル、弊害もあるのでしょうが、いいところもあるのでしょう。それだけに拘泥すると、後継者が育たないという気もしますが……。

当該箇所、青空文庫さんで読めます。ご高覧下さい。

3件ご紹介しましたが、『毎日』さんと『茨城新聞』さんの記事では、光太郎や光雲がある程度のネームバリューを保っているためその名が出て来るわけですし、『日経』さんにいたっては詩「あどけない話」(昭和3年=1928)をご存じない方には「何のこっちゃ?」となってしまうでしょう。実際、そういう方も少なくはないと思うのですが、そういう度し難き縁無き衆生が少しでも減るように、今後も頑張らんといかんな、と思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

少々健康を害してゐて、このてがみも中西さんの奥さまにおたのみして郵便局へ行つていただく次第です、小生も老年の事ゆゑ、あまりあてにしてゐるとあぶないです、

昭和29年(1954)5月7日 宮崎春子宛書簡より 光太郎72歳

居住していた中野の貸しアトリエから郵便局までは数百㍍。ただしちょっとした坂を上っていかねばなりません。この頃にはそれも困難になっていました。
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光太郎が遺したメモに書かれていた地図です。おそらく後に雇った家政婦さんのために書かれたものと思われます。左下に「中西」とあるのがアトリエ、郵便局は「〒」マークで示されています。現在はセブンイレブンさんが建っています。

NHKさんの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」。平成28年(2016)に放映されたものですが、現在再放送が平日の12時30分から為されています。

日本女子大学校での智恵子の先輩・平塚らいてうが主宰し、智恵子が創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』が、劇中でたびたび重要なモチーフとして使われます。

まず、明後日から2日間連続で。

【連続テレビ小説】とと姉ちゃん 第7週 常子、ビジネスに挑戦する

第38回 NHK総合 2025年6月26日(木) 12:30~12:45

昭和11年春。常子(高畑充希)は女学校最高学年の五年生となる。クラスの同級生の大半が嫁いでいく中で、家族の食いぶちを稼ぐため、少しでも給料の高い仕事を探していた。そんな折、新たな担任としてやってきた東堂チヨ(片桐はいり)に出会う。「女性とはこうあるべき」という固定観念に捕われず、自分の気持ちに正直に挑戦する大切さを教わる。一方、鞠子(相楽樹)は進学したい思いを誰にも相談できず、深いため息をつく…。

第39回 NHK総合 2025年6月27日(金) 12:30~12:45

どこか元気のない鞠子(相楽樹)を心配し、常子(高畑充希)は、東堂(片桐はいり)から借りた「青鞜」を渡す。感銘を受けた二人は、女性だからという理由だけで尻込みせず、挑戦することが大切だと東堂から助言され、何かを始めたい気持ちが湧き上がる。一方、時代は次第にきな臭くなり、青柳や森田屋も不況の波が押し寄せ、自粛ムードが漂っていた。そんな折、鉄郎(向井理)が森田屋に現れ、どんちゃん騒ぎが始まってしまい…。

【出演】高畑充希 木村多江 相楽樹 伊礼姫奈 ピエール瀧 坂口健太郎 大野拓朗 浜野謙太
    谷田部俊 杉山裕之 片桐はいり 向井理 片岡鶴太郎 大地真央
【語り】檀ふみ

昭和11年(1936)という設定で、明治44年(1911)の『青鞜』創刊から四半世紀後ですが、高畑充希さん演じる主人公・小橋常子らが『青鞜』の影響を受ける、という流れです。らいてうには言及されますが、残念ながら智恵子の名は出されません。
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きっかけをつくったのは、常子の通う女学校に新たに赴任してきた東堂先生(片桐はいりさん)。早速、最初の授業だかホームルームだかで、一席ぶちます(笑)。
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衝撃を受けた常子は東堂先生から『青鞜』創刊号を借り、はまってしまいます。
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常子のモデルは、現在も続く雑誌『暮しの手帖』を戦後になって立ち上げた大橋鎭子ですが、実際に若い頃にこういうエピソードがあったのかは不明です。

ちなみに大橋は光太郎に『暮しの手帖』への寄稿を依頼するため花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れたり、書簡を複数回送ったりしましたが、結局、光太郎はそれに応えなかったようです。

『青鞜』は、常子以外にも、相楽樹さん演じる常子の妹・鞠子(第39回)や、阿部純子さん扮する友人の中田綾(第14週)らにも影響を、といったエピソードも。
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また、第15週では『暮しの手帖』編集長の花森安治がモデルの花山伊左次(唐沢寿明さん)も、母親が『青鞜』愛読者だったと明かしたりもします。
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ちなみに花山は戦争協力を恥じ一度は筆を折る、ということで、光太郎にも通じる部分がある描き方でした。

そして第19週では、真野響子さんのらいてう自身も登場。
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そういうわけで、平成28年(2016)の初回放映をご覧になっていない方(ご覧になった方も)、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日お揃ひで御来訪の節は愉快でした、ところが最近五、六日間このかた急に息切がつよくなり、外出して歩行中呼吸困難を感ずることがあるので、只今外出せず、在宅静かに仕事してゐます、静かにしてゐれば何の異状もないのですが。

昭和29年(1954)5月4日 細田明子宛書簡より 光太郎72歳

細田は戦前から光太郎が常連だった三河島のトンカツ屋・東方亭の娘。光太郎に実の娘のようにかわいがられていました。戦後、医師となり、光太郎詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)のモデルにも。
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医者仲間の関川大司と婚約し、その挨拶と披露宴の招待状を届けるために中野の貸しアトリエを訪れました。

光太郎詩に自作の曲を付けて歌われているシャンソン系歌手のモンデンモモさん。このところ拠点となさっている島根県でのライヴです。

BOOK CAFÉ LIVE モモの智恵子抄 私の智恵子抄 music drama

期 日 : 2025年6月28日(土)
会 場 : ギャラリーC 島根県松江市宍道町1441-1
時 間 : 15:00~
料 金 : 3,000円

出 演 : 声・詩・曲 モンデンモモ  ピアノ 塩野佳代子  ベース けんじゃ

第1部 音楽ドラマ 私の智恵子抄 
 レモン哀歌/梅酒/道程/案内/あどけない話/千鳥と遊ぶ智恵子/私の智恵子抄
 私にはあなたがある/もしも智恵子が/智恵子と遊ぶ/樹下の二人/郊外の人に 他
第2部 シャンソンおしゃべりライブ

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先々月先月と都内でも公演がありましたが、また構成が異なるようです。それから、都内ではギタリスト・たしまみちを氏が伴奏を務められましたが、今回はピアノに乗せてやられるそうです。「智恵子抄」系以外には、シャンソンのスタンダードナンバーも。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

奥平さんにお托しの二本松のお酒めづらしくなつかしく早速賞味昔を思ひ出すやうな気がいたしました、二本松辺は水のよいせゐか地酒とは申せなかなかよいものが出来るやうです、

昭和29年(1954)4月26日 田内静三宛書簡より 光太郎72歳

智恵子の実家・長沼酒造は昭和4年(1929)に恐慌のあおりなどで破産してしまいましたが、彼の地には他にも日本酒の醸造元は多く、現在も続いています。










一昨日から1泊2日で光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりまして、昨夜帰宅いたしました。レポートします。

メインの目的は、昨日行われた、さまざまな方面でご活躍中の花巻市の登録ボランティアの方々への講演でしたが、もう一つ、花巻高村光太郎記念館さんで4月26日(土)に始まった特別展「中原綾子への手紙」の拝観。
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中原は与謝野晶子の弟子の歌人、詩人。戦前から同門ともいうべき光太郎と交流があり、自身で雑誌『いづかし』『スバル』などを主宰して光太郎の寄稿をあおいだり、複数の自著歌集・詩集にも光太郎に序文を書いてもらったりしています。記念館さんのある花巻郊外旧太田村の山小屋にも訪れ、その際の様子や、昭和31年(1956)に光太郎が歿したことなどを大量の短歌に詠んだりもしています。
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昨年、ご遺族より中原から光太郎宛の書簡類、原稿類がごそっと寄贈され、そのうち書簡類のお披露目です。原稿等に関しては来年度以降とのこと。
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量が多いので、4期に分け、現在第1期です。
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それでもこうした場合に使う小部屋では狭すぎて、通常の第2展示室を縦断する形でパーテーションのボードを立て、その両面に。ちなみに小部屋の方ではブリヂストン美術館歳作制作の「美術映画 高村光太郎」をモニターで流し、第二展示室中央にあったジオラマを移動させています。
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ケースに入れての展示も。
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宛先苗字が「曽我」や「小野」となっているものもあるのは、中原が結婚・離婚を繰り返したためです。結局、ペンネーム的には「中原」姓を使い続けましたが。

書簡類だけでは地味ですし、一般の方には馴染みの薄い名前なので、ビジュアル的な部分と、こういう業績を残した人物なんだよ、という意味で、手許にあった(一部は新たに購入した)光太郎がらみの中原の著書や主宰雑誌など関連史料をお貸ししました。それらもケースで展示して下さっています。
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中原が光太郎に贈られ、光太郎没後に自著詩集『灰の詩』に口絵として写真版を掲載した色紙も。
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昨年、タイミング良く京都の思文閣さんで入札に出したものです。七五調四句の今様スタイルで「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。複数の揮毫が確認出来ています。

これを包んでいた畳紙(たとう)も額に入れてお貸ししました。題箋は中原の自筆なので。
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「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりたるもの 綾子誌す」。一度、「山口村」と誤記して「太田村山口」と訂正されています。

寄贈された書簡の中には、他に類例のない、智恵子の心の病の病状を事細かに記したものも複数あります。それらは今回はあまり展示されず、2期以降となります。

また、今後、短期間で実にいろいろと他の企画が目白押しです。当会を含めたいろいろな組織等がそれぞれ別個に「あれもやりたい、これもやりたい」となってしまったようで。また近くなりましたらそれぞれご紹介いたします。

拝観後、隣接する山小屋(高村山荘)へ。ルーティンですがこちらにおわすであろう光太郎のご分霊にご挨拶。
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宿泊は定宿の大沢温泉さん。
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翌日が市街地で講演でしたが、9時過ぎに会場入りすればいいということなので、朝はゆっくり致しました。

以前は宿泊棟「菊水館」として使われ,、光太郎や当方も泊まった「ギャラリー茅」。スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫氏が大沢温泉さんのご常連ということで、ミニジブリ美術館的な感じで運用されています。
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現在は「トトロとジブリとカンヤダと」展が開催中(入館料600円)。
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ジブリ関係のお仕事も多数なさっているカメラマンのカンヤダ・プラテン氏の作品など。
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当方、ジブリファンというわけではありませんが、朝からほっこりさせていただきました(笑)。

講演会場へ。
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宮沢賢治が教鞭を執っていた花巻農学校跡地のぎんどろ公園、賢治の菩提寺・身照寺さん近くの花巻市総合福祉センターさん。

「光太郎はなぜ花巻に来たのか」という題で、90分ほど語らせていただきました。
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光太郎とはどういう人物だったのかのアウトライン、そして賢治本人や、賢治没後の宮沢家との関係、花卷市内に残る光太郎関連史跡などなど。

終了後、昼食をやつかの森LLCさんに御馳走になってしまい、恐縮。

さらに市街豊沢町のカフェ羅須さんへ。
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来月当会がらみで、こちらと、それから高村光太郎記念館さんとで、箏曲家の元井美智子さん、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんのコンサート(詳細はまたのちほど)を開催させていただくことになりまして、ご挨拶。
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こちらはギャラリーも併設されています。現在は市内の高校さんで教壇に立たれている髙橋圭子さんという方の作品が飾られています。
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ポストカードが販売中。高村山荘を描かれたものがあり、購入させていただきました。いい感じです。
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こちらには何度かお邪魔していたものの、その際に気づきませんでしたが、賢治の親友で、光太郎とも交流のあった藤原嘉藤治が写った写真も掲示されていました。
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今後、嘉藤治がらみでいろいろ調べたりしなければならないことがあるので、奇縁に驚きました。

そんなこんなで用件を済ませ、帰途に就きました。

途中にも書きましたが、花卷では今後もいろいろなイベントが企画されています。また後ほどご紹介いたしますのでよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生も肋間神経痛といふものがあつて、動きまはるのに不自由を感じてゐます、東京の街上へもあまり出ないでゐる始末なので、録音なども先方から来てもらつてやつてゐます、泊町まで果して行けるかどうか、まだ決定しかねてゐます、

昭和29年(1954)4月20日 舟川栄次郎宛書簡より 光太郎72歳

「結核」の語は使っていませんが、もはやかなりの重度でした。「泊町」は富山県。ぜひ一度おいであれ、というのですが、それが可能な状態ではありません。

結局、前年11月から12月にかけて旧太田村に帰村したのを最後に、一歩も東京を出ることはありませんでした。

ところが花卷の宮沢賢治記念館では、宮沢家で撮られた集合写真のキャプションに「昭和29年」。賢治関連の複数の文献にそう書かれていて、そのまま引き写されているのですが、大間違いです。昨日はその話もさせていただきました。
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昨日から1泊2日の行程で、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市に来ております。
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いつものように宿泊は大沢温泉さん。光太郎や宮沢賢治ゆかりの宿です。
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クローズドのイベントなので告知しませんでしたが、今日はこれから市のボランティアの方々に講演です。
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昨日は夕方に来花、旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんと、光太郎が昭和20年(1945)から7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)に足を運びました。
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そちらのレポートは帰りましてから。

しかし、取り上げるべき事項が山積しておりまして、花巻ネタを今日のこのタイミングで扱わせていただきます。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。地元で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんで、光太郎の実際に作った献立、使った食材などを参考にされてメニューを考案なさっています。

今月分がこちら。
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「鮭の塩焼き」、「イカとアスパラのバター醤油炒め」、「ワラビの煮物」、「きゃら蕗」、「ミズときゅうりの漬物」、「ニラチャーハン」、「白六穀ご飯」、「紫芋の羊羹」だそうで。

やつかの森さんからのメールによれば、「ミズとキュウリの漬物・・・塩味の浅漬け、ミズの歯触りが心地よいです。きゃら蕗 ・・・ 蕗の香りがする甘辛でご飯が進みます。わらびの煮物・・・わらびは、ふんわり仕上がり、他の具材との相性もよく程よい味でした。」とのこと。ミズは光太郎が殊の外好んだ山菜です。

また、今月は販売日の15日が日曜だったため、普段(10個)より多めに出したそうですが、完売だったのではないでしょうか。

個人的には「ニラチャーハン」にそそられます(笑)。

さて、そういうわけで、これからべしゃくって参ります。

市民講座情報2件、ご紹介します。

まず、埼玉から彫刻関連。

文化芸術講座(高坂彫刻プロムナード)

期 日 : 2025年6月24日(火)
会 場 : 平野市民活動センター 埼玉県東松山市大字東平567-1
時 間 : 午前10:30~12:00
料 金 : 無料
講 師 : 東松山市文化芸術推進室長 熊澤篤司


高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る様々な彫刻の作者である高田博厚氏と東松山市の関係についてご紹介します。なぜ、高田博厚の作品が東松山市に集まるのか?彫刻家・高村光太郎とも関係がある?
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早世した荻原守衛を除き、光太郎が唯一と言っていいくらい高い評価を与えた同時代の彫刻家・高田博厚。光太郎の影響で彫刻家を志し、光太郎等の援助で渡仏しました。何度も書きましたが、同市の元教育長だった故・田口弘氏が戦時中から光太郎と交流があり、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで高田と出会って意気投合、光太郎胸像を含むプロムナードの建設につながりました。他にも同市では高田の顕彰活動さまざまに取り組んでいます。そんなこんなのお話が為されるのでしょう。

対象が同市在住・在勤・在学の人に限られていて、少し残念です。同様の講座が先月にもありましたが、その際もそうでしたが。

もう1件、都内で開催のものです。

活字をはみだすもの(第25回)◆高村光太郎「独居自炊」の思想 ―宮崎稔宛書簡から

期 日 : 2025年6月28日(土)
会 場 : 八木書店古書部三階催事場 千代田区神田神保町1-1-7
時 間 : 15:00~16:00
料 金 : 無料

◆講師 大木志門 先生
大戦中に多数の戦争協力詩を著した彫刻家で詩人の高村光太郎は、空襲によるアトリエ焼失後に岩手県花巻郊外の山小屋にこもり、独居自炊の生活を7年間にわたって継続した。その暮らしは厳しい自然と地域の人々との交流の中で営まれ、そこから新しくいくつもの詩が生まれ出ていった。光太郎自身により自己流謫とも表現されたその生活の様子と、戦中の自己と戦後日本の姿を見据えた詩人の晩年を、夥しく残された取手の詩人・宮崎稔宛の書簡からたどってみたい。

〔講師紹介〕東海大学教授、1974年生。自然主義文学・私小説を中心に研究。主な著書・編著に『徳田秋聲と「文学」』(鼎書房、2021)、『高村光太郎作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』(田畑書店、2025)、『石川啄木作品アンソロジー エッセンシャル啄木』(同、2024)、『島崎藤村短篇集』(岩波文庫、2022)など。
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他に3つの講座があり、ラインナップは以下の通り。

◆病気と文人 ―書簡から見る病んだ作家たち 尾崎紅葉、内田百閒、子母澤寛、斎藤茂吉、森田草平
 講師 中澤 弥 先生 6月21日(土) 13:00~14:00
◆1枚のハガキが証してくれたこと ―大阪毎日新聞社と菊池寛、芥川龍之介の一断面
 講師 庄司達也 先生 6月21日(土) 15:00~16:00
◆信子がくれた聖書  ―田村三治宛書簡にみる国木田独歩の青春
 講師 河野龍也 先生 6月28日(土) 13:00~14:00

それぞれ10名程の定員で、光太郎の回は既に満席だそうですが(当方も申し込みました)、これからキャンセル等もあるかも知れませんし、記録のためにもご紹介しておきます。

市民講座と言えば、実は明日、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市での講師を仰せつかっています。クローズドのイベントなので告知しませんでした。同市のボランティアの方々対象です。
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そういうわけで、今日、花巻に旅立ちます。

こうした光太郎関連の講座等、途切れることなく続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

染井墓地にある墓に彫つてある智光童女といふのはお言葉通り姉梅子で、七月とある由ですが、それは間違で、一月が正しいのです。小生の生れる前に既に死んでゐました。


昭和29年(1954)4月19日 北川太一宛書簡より 光太郎72歳

当会顧問であらせられた北川太一先生。この頃から光太郎の生涯をしっかり記録に残すことを考えられ、年譜の作成や光太郎への聞き書きに取り組まれていました。その一環で、染井霊園の髙村家墓所に眠る人々の調査等も行われたようです。

光太郎の直ぐ上の姉・うめ(梅子)は光太郎が生まれた明治16年(1883)、数え5歳で病没しました。非常に利発な子供だったとのこと。書簡の方が勘違いだったようで、やはり7月が命日です。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ十和田湖。光と影の明暗が分かれる報道が為されています。「光」の部分は、一昨日お伝えした「第60回記念十和田湖湖水まつり報道」。多くの方で賑わって……というわけで。

「影」の方、ここ数日で、さまざまなメディアが一斉に報じました。一部、ご紹介します。

地元紙『東奥日報』さん。

国立公園・十和田湖の放置遊覧船 青森県が撤去勧告 所有者側への指導26回、対応なく

 十和田湖の宇樽部桟橋(青森県十和田市)に不法係留されている放置遊覧船が横倒しになっている問題で、船を所有する十和田湖遊覧船企業組合(同市、解散)の清算人に対し、県が撤去勧告を出していたことが16日、県への取材で分かった。県がこの清算人に対し、撤去勧告を出したのは初めて。県はこれまで、前段階の撤去指導を26回にわたり行ってきたが、具体的な対応がなかった。
 同桟橋には4隻の遊覧船が不法係留されており、うち1隻が横倒しになっている。勧告は5月30日付で、全4隻を対象に行った。
 県によると、清算人は同組合の関係者で、連絡は取れている。これまで何度も現地に赴き、放置遊覧船の状況は確認しているものの、撤去に向けた動きを見せていないという。
 撤去勧告は強制力がない行政指導。一段階上の撤去命令は強制力が生じる行政処分で、県港湾空港課の担当者は「まずは相手の対応を見極めたい」と話した。
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RAB青森放送さんのローカルニュース。

「使わなくなったものはきれいに…」十和田湖観光への悪影響を“懸念” 不法係留の放置遊覧船に「撤去勧告」も所有者側は対応とらず… 青森県十和田市

十和田湖で不法係留されている4隻の遊覧船です。県が所有者の清算人に5月30日付で撤去勧告を出しました。
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十和田湖宇樽部地区の桟橋に不法係留されている4隻の遊覧船について、県は所有者で2016年に事業を停止した「十和田湖遊覧船企業組合」の清算人に対して、5月30日付で「撤去勧告」を初めて出しました。
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4隻は2015年から不法係留され、県はこれまで26回にわたり「撤去指導」を行ってきました。県は勧告で速やかな撤去を求めていますが、撤去勧告に強制力はありません。
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ことし2月には雪の重みで、4隻のうちの1隻「第3十和田丸」が横転し、今もロープで固定されシートが被せられています。
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十和田湖では、きのうまで夏の観光シーズン幕開けとなる十和田湖湖水まつりが開かれ、多くの観光客が訪れていました。
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観光関係者は景観や環境面でも悪影響を与えかねないとして、早期撤去を求めています。
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★十和田奥入瀬観光機構 安藤巖乙事務局次長
「十和田湖の美しい景観を守るために、放置遊覧船だったりとか休屋地区の廃屋もそうですけど、使わなくなったものはしっかりきれいになっていくといいなと思っています」
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★県港湾空港課 橋本公学課長
「所有者側に対してはこれまで撤去指導を行ってきたところですが、現状対応が取られていないということを踏まえて、一歩踏み込んだ撤去勧告を発出した」
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県によりますと、いまのところ組合から勧告の求めに応じる連絡はないということです。

全国ニュースでも。FNNさん系のテレビニュース。

まるで“船の墓場”…横倒しになった船も放置に地元住民「もう何十年も…みっともない」県が撤去指導26回も解決めど立たず 青森・十和田湖

青森県と秋田県にまたがる十和田湖で“廃船群”が問題となっており、なかには横倒しになったままの船もある。青森県は何度も組合関係者に撤去を求めてきたというが、解決のめどは立っていない。
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横倒しになった船が放置も… 東北地方を代表する観光名所の一角に広がる、まるで船の墓場のような光景。
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船体はさびだらけで、クモの巣も張り放題。さらには横倒しになったままの船もあった。
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地元住民は「10年もこうほっぽり投げられるんじゃ、置かれた方はたまったもんじゃないですよ」と話す。
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廃船群が問題となっているのは、青森県と秋田県にまたがる十和田湖。十和田湖は世界でも珍しい「二重カルデラ湖」で、周辺の木々とともに織り成す自然の造形美は東北きっての観光ポイントとして知られている。
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約10年間、不法係留状態の船 そうした十和田湖の観光に欠かせないのが遊覧船なのだが、青森県側のある桟橋に行ってみると、放置された船があった。船体に書かれた文字が一部読み取れないほどはがれた塗装。船の至る所が汚れとサビにまみれ、長年人の手が入っていない様子がうかがえる。

付近の住民:
もう何十年もこのままですから、みっともないですよ。(観光の)お客さんにも申し訳ないなと思って。
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この桟橋に係留されている5隻のうち4隻が、約10年もの間、不法係留状態。この4隻はかつて地元の企業組合が遊覧船として使用していたが、その組合はすでに解散済みだという。
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地元住民は、「どうにもならない。完全に撤去するしかないでしょ」と話していた。
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青森県はこれまで、組合の関係者に何度も撤去を求めてきた。
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青森県 港湾空港課・橋本公学課長:
これまで26回ほど指導をしております。先方からは前向きな回答をいただけなかったと。
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「朝起きたらひっくり返ってた」
すると2025年、ある異変が起こったという。

FNNのカメラが25年前に撮影していた「第3十和田丸」の塗装作業。この時、船体は光り輝いていた。そして、その「第3十和田丸」の現在はというと、横転してロープでつながれ、シートがかぶせられている。横転直後に撮影された「第3十和田丸」の写真。2025年2月ごろ、大雪の重みに耐えかね、船体が傾いていったのだという。
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付近の住民:
「この船危ないね」って言ってたらもう本当に斜めになってて、朝起きたら本当にひっくり返ってたんですよね。
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景観の悪化どころか、周辺の安全にまで大きな影響を及ぼし始めた十和田湖の廃船群。この事態を受け、県は5月末、これまでの指導よりも一段階踏み込んだ“撤去勧告”を関係者に行ったという。ただ、勧告には強制力はない。
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青森県 港湾空港課・橋本公学課長:
まだ今のところ、先方からの回答はございません。速やかに対応していただきたい、これに尽きるかと。
(「イット!」6月18日放送より)

問題の廃船が放置されているのは、「乙女の像」のたつ休屋地区と、奥入瀬渓流への入口に当たる子(ね)の口地区の中間に位置する宇樽部地区。解散したという組合が運行していた遊覧船は休屋-子の口間を航行する途中で宇樽部の桟橋にも立ち寄っていたと記憶しています。

宇樽部にはキャンプ場があり、また、民家も建ち並んでいます。かつては旅館等もあり、昭和27年(1952)、「乙女の像」設営の下見のため十和田を訪れた光太郎は宇樽部の東湖館という宿に泊まり、智恵子の顔を持つ像を作ろう、と決意しました。その東湖館の建物は平成29年(2017)まで残っていましたが、残念なことに解体。逆に撤去されるべき廃船が繋留されたままだそうで……。
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廃船の剥がれかけた塗装に「乙女の像」の文字が読み取れるのが悲しい感じです。

ずどんとテンションが下がりましたので、上げます。『朝日新聞』さん、6月14日(土)の東北版。

みちのく歌壇 梶原さい子選

湖(うみ)ひかりふたりの智恵子影為合(しあ)ふ「乙女の像」に姿を化(は)けて (仙台市)大橋勝

【評】 十和田湖の「乙女の像」を詠む。古語の使用が、歌にふさわしいたおやかな風情を増している。


読者短歌の投稿欄から。
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像の建立に一役買った佐藤春夫が詠ったごとく「あわれ いみじき 湖畔の乙女 ふたりむかいて 何をか語る」という感じですね。

【折々のことば・光太郎】

あの魴鮄が現存してゐる事を確認したのは愉快でした、製作年代の分つたのもありがたく、これで他の木彫の年代もおよそ類推することが出来ます、


昭和29年(1954)3月10日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎72歳

木彫「魴鮄」は大正13年(1924)の作。永らく行方不明でしたが、詩人の宮崎と親しかった材木商・浅野直也がこの年、当時の価格13万円で入手しました。

浅野はやがて中野の貸しアトリエに居住していた光太郎に現物を見せに行き、宮崎は詩「蘭と魴鮄」を書きました。029

   蘭と魴鮄

 花を開き初めた春蘭が
 葉を垂れてゐる鉢の傍へ
 高村光太郎作魴鮄を置いて眺める
 これはいゝ
 思はず自分はさう云ひながらも
 この心に叶つた快さを
 どう説明していゝかは知らない

 魴鮄はその面魂(つらだましひ)を
 それに打ち込んだ作者をさながらに現して
 むき出しにしてゐる
 ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
 きつぱりとそのかたちに切られて
 そして今こゝに
 蘭の薫を身に染ませて

「他の木彫の年代もおよそ類推」とありますが、昭和20年(1945)の空襲で記録類が焼けてしまったためもあるでしょうが、光太郎、意外と自作の制作年代をちゃんと記憶していませんでした。

6月15日(日)、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「藤木大地カウンターテナー・リサイタル 二本松音楽協会第100回定期演奏会」について、地元紙『福島民報』さんが報じていますのでご紹介します。

同じ『民報』さんで2バージョンの記事。まず県内全域向けと思われる方。ネット上でもこの内容でした。

第100回定演祝う歌声響く 二本松音楽協会 「からくりうた」を初演 福島県二本松市

 二本松音楽協会の第100回定期演奏会は15日、福島県二本松市コンサートホールで開かれ、地域の音楽文化発展に貢献してきた演奏会の節目を祝った。
 カウンターテナーの藤木大地さん、ピアノの佐藤卓史さんが出演。高村光太郎の詩集「智恵子抄」から、佐藤さんが作曲した「からくりうた」を初演した。深く澄んだ歌声で日本情緒豊かに表現し喝采を浴びた。「あどけない話」「レモン哀歌」なども披露し、100回の歴史を祝福した。シューベルトの「白鳥の歌」全14曲も歌い上げ、感動を呼んだ。
 1988(昭和63)年のホール完成を機に有志が協会を結成し、1989(平成元)年から毎年数回、クラシックを中心に手作りのコンサートを開いている。太田英晴会長(大七酒造社長)は「100回の歴史を重ねることができたのは市民の音楽を愛する心のたまもの。これからも長く続けていきたい」と語った。
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おそらく二本松市を含む中通り地区向けと思われるバージョン。こちらの方が「智恵子抄」に詳細に触れています。

二本松音楽協第100回定演 「智恵子抄」の曲初演 情感ある旋律伸びやかに

 二本松音楽協会が15日に二本松市コンサートホールで開いた第100回定期演奏会では、カウンターテナーの藤木大地さん、ピアノの佐藤卓史さんが高村光太郎の詩集「智恵子抄」より「からくりうた」を初演し、節目に花を添えた。
 「二本松」「阿武隈川」などが登場する詩に佐藤さんが情感あふれる旋律を付けた曲。藤木さんが澄んだ歌声で伸びやかに歌い上げた。「あどけない話」とともにアンコールでも披露し、詰めかけた聴衆を喜ばせた。
 藤木さんは「100回の歴史の一部となることができて本当にうれしい。『からくりうた』は民謡調で、日本酒を飲みながら楽しんでもらうのもいい」などと提案した。太田英晴会長は「素晴らしい曲で、間違いなく二本松の宝になる。藤木さん、佐藤さんも二本松での再演を約束してくれた」と喜んでいる。
 市コンサートホールは今後、改修工事に入る。次回の第101回定期演奏会は9月23日に安達文化ホールでピアノの鬼武みゆきさんのコンサート、第102回は来年3月8日に市民交流センターで市内出身のオーボエ奏者鹿又寒太郎さんらによるトリオ・ダンシュのコンサートを開く。


初演された「からくりうた」。作曲され、当日はご自身でピアノを弾かれた佐藤卓史氏のX(旧ツィッター)投稿で、さわりの部分のみ動画がアップされていました。


確かに「民謡調」ですね。

お二方の今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

別件で、やはり福島での楽曲「智恵子抄」がらみの報道。須賀川市で発行されている「あぶくま時報」さんの記事です。

太鼓演奏などで長寿祝う 八幡町町内会「敬老会」

 須賀川市八幡町町内会「敬老会」は15日、町内の75歳以上25人が参加して八幡山集会所で開かれ、子どもたちの太鼓演奏や日本舞踊などアトラクションで親ぼくを深めた。
 全員で物故者に黙とうを捧げ、佐藤富二会長は「みなさんお越しくださりありがとうございます。長年、町内発展のためにいろいろとご協力くださりほんとうにありがとうございます。今日は一日楽しんでゆっくりと過ごしてください」とあいさつした。来賓の大寺正晃市長も祝辞を述べた。
 アトラクションは八幡町子ども育成会の太鼓演奏「神炊館(おたきや)」を元気いっぱい演奏し、懐かしい昔話「ふくろうの染物屋」を方言混じりで披露された。
 藤蔭流三藤会が「智恵子抄」など4曲を披露し、最後に参加者全員で懐かしい「須賀川盆踊り」を楽しんだ。
 須賀川市は今年度も自主的に敬老事業を開く行政区・町内会を支援しており、22日は東町と南上町、29日は下宿町で実施する。
 ほかに敬老祝い商品券・一日温泉入浴券を喜寿・傘寿・卒寿。白寿に、米寿と賀寿には祝い金をそれぞれ贈る。
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おそらく「智恵子抄」は、小野町出身の故・丘灯至夫氏作詞で、故・二代目コロムビア・ローズさんの歌唱になる昭和39年(1964)の「智恵子抄」と思われます。

こちらの「智恵子抄」も末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

小生もまづ健康で、毎日胸像制作にかかつて居り、夜は原稿を書いてゐます、まつたく殆ど余分の時間がありませんが、時々温泉に行きたくなります、うまく仕事のきれ目を見て一寸大沢温泉あたりにゆきたいです、

昭和29年(1954)3月10日 浅沼政規宛書簡より 光太郎72歳

002「胸像」は、倉田雲平胸像。光太郎実弟の豊周が仲介し、2月から制作にかかりました。倉田はツチヤ地下足袋(現・ムーンスターさん)の初代社長。嘉永4年(1851)生まれで、光太郎の父・光雲の一つ年上です。大正6年(1917)に亡くなっていたのですが、ぜひその胸像を、という社からの依頼でした。

しかし、健康状態の悪化により、結局は完成させることができず、まさに「遺作」となってしまいました。

豊周の回想から。

 あの彫刻にかかった時間はほんのわずかで、あとは体がわるくなり、とうとう死ぬまでそのままだったが、途中で二度ほど僕に見せた。兄の没後、未完成のままブロンズにしたものを、九州から副社長と、初代在世中から会社に勤続している大久保彦左衛門のような番頭さんが検分に来たが、やっと骨組みが出来ているだけで、仕上げるとどうなるということは一寸素人にはわかりにくい。僕は何と言うかと思っていた。ところがその番頭さんが先代様にそっくりだと涙を流さんばかりに喜んでいる。
 久留米にブリヂストンの美術館が出来、その記念の展覧会にも出品されて反響を呼んだということだが、未完成の荒いタッチが不思議な迫力を持っている。石井鶴三は鎌倉の美術館でこの胸像を見て、これは未完成じゃない、これで完成している、と言ってくれたりした。

6月14日(土)・15日(日)に開催され、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為された「第60回記念十和田湖湖水まつり」についての報道をご紹介します。ただし、「乙女の像」ライトアップには触れられていませんが……。

RAB青森放送さんのローカルニュース。

【幻想的】湖畔を彩る350個のランタンと打ち上げ花火…夏の観光幕開けを告げる「十和田湖湖水まつり」が開幕! 青森県十和田市

 夏の十和田湖観光の幕開けを告げる十和田湖湖水まつりが開幕し、訪れた人たちが幻想的な景色を楽しみました。
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 今回で60回目となる十和田湖湖水まつりは14日開幕しました。
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 十和田湖畔休屋地区の会場には屋台やキッチンカーが並び、よさこいなどのパフォーマンスで盛り上がりました。
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 午後8時すぎには、願い事を書き込んだバルーンランタンが夜空に放たれました。
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 小雨が降るあいにくの天気となりましたが、およそ350個のランタンが湖畔を彩り幻想的な景色が広がりました。
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★千葉から
「とてもきれいでした 幻想的な景色でした 参加してよかったです」
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最後は200発の花火が打ち上げられ訪れた人たちが楽しみました。まつりは15日まで開かれています。
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鹿角きりたんぽFMさん。

「湖水まつり」人気定着で人出 十和田湖

 秋田と青森にまたがる十和田湖で「湖水まつり」が14日、2日間の日程で始まり、大勢の来場者でにぎわっています。
 湖水まつりは、観光客を呼び込もうと地元の関係者でつくる団体が開いていて、60回めのことしは去年に続き、観光シーズンの平準化などを目的に以前の日程から1か月前倒しされました。
 今や見ものとして定着したバルーンランタンの打ち上げでは、会場にアナウンスされたカウントダウンとともに、バルーンランタンを購入した人たちが一斉に浮かび上がらせました。
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 雨の影響で長い間、楽しむことはできなかったものの、オレンジや青のLEDが光るバルーンランタンおよそ400個が夜空に浮かぶ光景はメルヘンチックで、訪れた人たちがうっとりと眺めたり、写真を撮ったりしていました。010
 フィナーレの打ち上げ花火は、あいにくの天候で、打ち上げ地点の近くではほとんど見えませんでしたが、離れた場所で見ている人たちが夏の雰囲気を味わいました。
 弘前市から訪れていた20代の男性は、「花火があまり見えなくて残念でしたが、ランタンが幻想的だった。いい思い出になったし、来年の楽しみもできた」と話していました。
 湖水まつりは5年前のバルーンランタンの導入以降、人気がさらに高まり、近年は大勢の人出でにぎわっています。
 この日もバルーンランタン400個が早々に完売し、名物の「乙女もち」などを販売する屋台やキッチンカーの前に行列ができるとともに、駐車場待ちの渋滞も長くつながりました。
 主催する祭りの連携会議では、「6月の開催でも大勢に来てもらえて、手ごたえをつかんでいる。十和田湖にいろいろな季節に人を呼び込んでいきたい」としています。

「乙女の像」には触れられていませんが、像にちなんでネーミングされたであろう「乙女もち」に言及されています。きりたんぽと同じ味噌ダレがまぶされていて、2人の女人が向かい合って立つ「乙女の像」をイメージ、2個の餅が串に刺さっています。ただ、お店によっては3個ですが(笑)。
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地方紙で『デーリー東北』さん。

花火やランタン夜空彩る/十和田湖水まつり、15日まで016

 第60回十和田湖湖水まつりが14日、十和田湖畔休屋地区で開幕した。夜は雨が降る中、願い事が書き込まれたバルーンランタンと大輪の花火が打ち上げられ、湖面を彩った。15日まで。
 同まつり連携会議と十和田奥入瀬観光機構が主催。今回も混雑回避や観光時期の平準化を目的に、昨年に引き続いて約1カ月早く開催した。
 日中は郷土芸能などのパフォーマンス披露や、キッチンカーを楽しむ人でにぎわった。午後8時過ぎには、オレンジ色や青色のバルーンランタン約350個が湖岸から一斉に放たれたほか、最後は音楽に合わせて花火200発を打ち上げ。あいにくの雨だったが、夜空を幻想的に染め上げた。 東北町から訪れた会社員中塚巴泰さん(27)は「バルーンランタンがディズニー映画のようで、とてもきれだった」と語った。
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同じく『東奥日報』さん。

湖水まつり開幕/十和田湖畔休屋

 青森県十和田市の十和田湖畔休屋で14日、「十和田湖湖水まつり」が2日間の日程で始まり、初夏の湖畔が市民や観光客らでにぎわいを見せている。
 初日は歌やダンス、よさこいなどストリートパフォーマンスが行われ、来場者らは肉料理やスイーツなどの屋台やキッチンカーに行列を作っていた。
 夜のイベントはあいにくの天気だったが、家族連れらはひもを使って、願い事を書いたバルーンランタンを飛ばした。
 この日は打ち上げ花火も行われたが、濃い霧と煙でほとんど見えなかった。青森市から家族で来ていた五十嵐敬子さん(68)は「悪天候で残念だったけど、ランタンを一度は飛ばすことができたので願いはかなうと思う」と話した。
 60回目を迎えた今年のまつりは、十和田湖の魅力を世に広めた文人・大町桂月の没後100年を記念して行っている。
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こちらのみ、「乙女の像」で顕彰されている大町桂月没後100年記念に触れられていました。その活動に同紙も関係しているのかもしれません。

というわけで、「十和田湖湖水まつり」、末永く続いてほしいものですし、当方、一度行っただけなので(「冬物語」等では何度もお邪魔しましたが)、再訪しようかという気になりました。来年以降、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

鋳金代については、県の方へ、貴下のお話通りに二万円程度と話してあります、それも最後的におきめ下さい。又台座、荷造、運賃等は別ですから、その様に御請求を願ひます。出来上りましたら直接貴下から県庁にあててお送り下さい。 小生は青森に行つたら、その時見ます。


昭和29年(1954)2月18日 伊藤忠雄宛書簡より光太郎72歳

伊藤忠雄は「乙女の像」の鋳造を担当した鋳金家。

「乙女の像」本体は前年に除幕されましたが、それとは別に記念として像の小型試作を新たに二体鋳造し、県に贈ることになり、その相談です。この際の小型試作は現在も青森県で所有しています。

たまたまですが、一昨日、Yahooオークションでこれと同型の小型試作が出品されました。平成15年(2003)の新しい鋳造ですが。開始価格18万円。この価格で落とせれば実にお買い得ですが、おそらく競られて上がると思われます。
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昨日は上京し、新宿区で「木村俊介Concert 『鵲(かささぎ)の橋の上で』in 東京 愛のかたち、様々に~日本と韓国の文学作品から~」を拝聴して参りました。

会場は早稲田奉仕園スコットホールさん。
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同じ早稲田奉仕園さん内の隣接するリバティホールさんでは、令和4年(2022)に講演をさせていただきましたが、スコットホールさんに足を踏み入れるのは初めてでした。ホールと言っても音楽ホールとして建てられたものではなく現役の礼拝堂です。

開演前に会場内で注意事項についての説明があり、携帯の電源は切って下さい的な通常のものプラス、公演中はもちろん開演前や終演後であっても会場内撮影禁止とのこと。建物自体が築100年以上の国指定登録有形文化財ですし、いろいろ大人の事情が、とうわけで。

それから、これも開演前のお話の中にあったのですが、ここで米津玄師さんのヒット曲「lemon」のPVが撮影されたとのこと。しかも「あそこの後にある小窓のあたりです」と、係の方が指さしたのは、自分が座っていたすぐ後の一角でした。

「マジか?」と思い、このブログ内に当該PVを貼ってあることを思い出して、早速見てみると、まさにそうでした。「Lemon」。米津さんご自身、「智恵子抄」収録の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアもあるかもしれないと発言されていまして、奇縁に驚きました。

さて、15:30開演。
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演目は主に3つでした。

まずはパク スナ氏の奏でる伽耶琴(カヤグム)に乗せ、和楽器奏者の木村俊介氏が韓国のいわゆる処女鬼神系の民話を語られました。伽耶琴は見た目は日本の箏とあまり違いませんが、日本で一般的な十三弦より一本少ない十二弦だそうですし、奏法は琴爪を使わず、だからでしょうか、音色的にもやはり違いを感じました。

続いて壤晴彦氏がステージに上がられ「おこんじょうるり」。原作はさねとうあきら氏作の創作民話ですが、映像作家・岡本忠成氏が人形アニメーション化され、高い評価を得た作品です。その際には長岡輝子さんが主演。長岡さんと言えば、戦時中から光太郎とも交流があり、おそらく宮沢賢治について質問があったのでしょう、光太郎が花巻郊外旧太田村での蟄居生活を終えて再上京した中野の貸しアトリエにもいらっしゃいました。昭和30年(1955)、光太郎最晩年でした。そんなところにも奇縁を感じます。

壤氏の落ちついたバリトンの美声での語り、パク氏がやはり伽耶琴、そして木村氏は太棹や横笛など、いろいろ持ち替えての演奏。実にいい感じでした。

休憩を挟んで第2部。第2部はやはりお三方でまるまる「智恵子抄」で60分ほど。詩の朗読が数編ならそうした工夫は必要ありませんが、長いステージでまるまる「智恵子抄」を扱うとなると、時間の経過も数十年に及びますし、どうしても詩の朗読以外のいわばト書きの部分での説明的なパートが必要になります。どのように構成するのかなと興味津々でしたが、昨日は佐藤春夫の『小説智恵子抄』を使われていました。同作は光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、光太郎と親交の深かった佐藤が雑誌『新女苑』に連載したジュブナイルです。連載当時のタイトルは「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」。昭和32年(1957)に実業之日本社さんで単行本化、のち、角川文庫のラインナップに入り、現在も版を重ねています。また、丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演の松竹映画「智恵子抄」原作と位置づけられてもいます。

余談になりますが、朗読家の荒井真澄さんはこうした場合、光太郎本人の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)を使われます。今春、二本松の智恵子生家座敷で行った当会プロデュースの
「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」公演でもそうでした。また、令和3年(2021)に文京区の光太郎の実家の隣・旧安田楠雄邸で、やはり朗読家の北原久仁香さんと当方のコンビで行った「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」では、パワーポイントのスライドショーで効果音を入れたアニメーションを流しつつ、当方が解説を行いました。

閑話休題。昨日のト書き部分以外の詩は、以下の通りのラインナップでした。

 「あどけない話」(昭和3年=1928)
 「案内」(昭和24年=1949)
 「人に(いやなんです……)」(大正元年=1912)
 「カフエにて(おれの魂を……)」(大正2年=1913)
 「人類の泉」(  〃  )
 「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)
 「樹下の二人」(大正12年=1923)
 「人生遠視」(昭和10年=1935)
 「山麓の二人」(昭和13年=1938)
 「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)
 「レモン哀歌」(昭和14年=1939)
 「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)
 「梅酒」(昭和15年=1940)
 「案内」(昭和24年=1949)


すべての詩を全文読まれたわけではなく、長い詩は抜粋で。最初の「あどけない話」と「案内」(一部分だけ)は、全体の予告のような位置づけで。その後の「人に」からは、おおむね時系列に沿っての構成でした。一部年代が前後しているのは、光太郎自身が時間を遡って書いたりしているためです。

元々は、昨日も劇中で演奏されたパク氏のオリジナル曲を聴かれた木村氏が「これは「智恵子抄」の世界観にぴったりだ」と感じ、壤氏を巻き込んで(笑)このステージを作られたとのこと。「なるほど」という感じでした。

当方としては内容が分かっていますし、「次はこの詩だな」とほぼ予想もつくのですが、それでも、というかそれだけに、感動も一入でした。展開がわかっていても楽しめるという意味では、昔の日本人全般にとっての「忠臣蔵」みたいなものでしょうか(笑)。「智恵子抄」系をあまり詳しくご存じない一般のお客さんがどのように感じられたか、興味深いところではあります。

アンコールでは壤氏は退場され、木村氏とパク氏で尹東柱の詩を韓国語と日本語で朗読されながらの演奏。尹東柱も光太郎と同時代を生きた詩人ですが、今のところ直接の繋がりは確認できていません。

というわけで、なかなか充実のコンサートでした。「智恵子抄」の再演を望みますし、お三方の今後のさらなるご活躍を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

イワテノビ セカイノビ トナレ


昭和29年(1954)3月5日 岩手県立盛岡美術工芸学校宛電報より 光太郎72歳

かつて花巻郊外旧太田村蟄居中には何度も訪れて講演等を行った岩手県立盛岡美術工芸学校の卒業式のための祝電です。

紹介すべき事項が山積しておりまして、雑誌や新聞に掲載された複数案件を。

まずは雑誌『月刊絵手紙』さん5月号。平成29年(2017)6月号から令和2年(2020)3月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていて、その頃は定期購読していたのですが、連載が終了してから疎遠になっていました。現在は手紙文化研究家・中川越氏の「手紙のヒント あの人に学ぶ親愛の伝え方」という連載が為されていて、近現代の芸術家の手紙等が紹介されています。その中で5月号は光太郎の水彩素描2点を元に「高村光太郎――山のスケッチに対抗して街のスケッチ」というタイトルで書かれています。
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素描は昭和20年(1945)から7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村山口地区を描いたものと、居住していた山小屋周辺の草花を描いたスケッチ帖から。

山口地区を描いたものの原画は花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されており、時折、展示されています
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草花の方はチゴユリ。こちらも同館で複製スケッチと描かれた植物の写真とを並べて展示されたりもしました。

中川氏、昨秋、中野区のなかのZEROさんで開催され、当方もスタッフとして毎日詰めていたた中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」にいらして下さり、いろいろお話をさせていただきました。今回以外にも同じ連載などで光太郎に触れて下さっているようで、バックナンバーを探してみます。

中野と言えば……ということで、『読売新聞』さんに6月12日(木)に載った記事。

高村光太郎が晩年を過ごしたアトリエをめぐる文人たちの作品朗読会…7月6日に中野区で開催

 詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年を過ごした東京都中野区のアトリエにゆかりのある文人たちの作品を紹介する「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」が7月6日(日)に中野区産業振興センター大会議室(中野区中野2-13−4)で開かれる。
 同区内の住宅街にある築80年近くの「中西アトリエ」は、水彩画の革命者と言われた洋画家の中西利雄(1900~48年)が終戦後間もなく建てたアトリエで、高村光太郎は56年4月に亡くなるまでの3年半をここで過ごし、青森県十和田湖畔に立つ代表作「乙女の像」の塑像を制作した。
 朗読会では、高村をはじめ、創作活動を通じて交流のあった佐藤春夫や草野心平、太宰治などの詩人、小説家6人の作品を、13人の発表者が紹介する。
 アトリエの保存活動を行っている有志の会の主催で入場は無料。定員は80人で、定員になり次第締め切る。申し込みと問い合わせは曽我貢誠さん(090・4422・1534)まで。メールは sogakousei@mva.biglobe.ne.jp
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高村光太郎ゆかりのアトリエ(東京都中野区で)

当方も所属しています「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」主催で来月行われるイベントの予告記事です。
朗読会案内① 朗読会案内②
また追ってご案内いたしますが、女優の一色采子さん、今年の連翹忌の集いで朗読を披露していただいたフリーアナウンサーの早見英里子さんと朗読家の出口佳代さんのコンビには朗読を、フルート奏者の吉川久子さんにはお仲間の方の朗読に乗せて演奏をお願いしてあります。また、詩人で朗読にも取り組まれている方々もそれとは別に。司会は当方です。

ついでですので、もう1件。

直接的には光太郎に関わりませんが、光太郎が終生敬愛していたロダンがらみで、時事通信さん配信記事。

ロダンの「複製」の大理石像、実は本物 1.4億円で落札 フランス

【AFP=時事】フランス人彫刻家オーギュスト・ロダンの複製と思われていた大理石の像が本物と認定され、オークションで86万ユーロ(約1億4000万円)で落札された。主催者が9日、発表した。
 オークション主催者のエメリック・ルイラック氏によると、この像は「Le Desepsoir(絶望)」と題されたロダンの1892年の作品で、1906年のオークションで落札された後、所在が分からなくなっていた。
 ルイラック氏によると、週末に行われたオークションでのスタート価格は50万ユーロ(約8200万円)で、最終的には86万ユーロで落札された。
 像は高さ28.5センチで、女性が片足を両手で持って座っている。
 所有していた家族は長年、複製だと思い込み、ピアノの上の隅に置いていたという。
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平成29年(2017)にも同じようなことが、ただしアメリカでありました。その際は大理石のナポレオン像で、今回のものより高額の「400万~1200万ドル」。おそらく大きさの違いもあるのではないかと思われます。

光太郎と同じく、ロダンを敬愛し、というか、弟子とも言える碌山荻原守衛にも「Le Desepsoir(デスペア)」と題する作品があります。光太郎は詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)に登場させています。
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当然、ロダンからのインスパイア、ロダンへのオマージュがあったのでしょう。

ロダン作品に戻りますが、長年、ピアノの上に置いてあった……驚きですね。当方自宅兼事務所を隅々まで探してもそんな凄いものは置きっぱにはなっていないでしょう(笑)。

最後にもう1件、荻原守衛関連です。信州安曇野の碌山美術館さんから、館報の第45号が届きました。ありがたし。
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昨年の第114回碌山忌の際の関連行事「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」の、「びじゅチューン」でおなじみ井上涼氏と同館学芸員・濱田卓史氏による対談が文字起こしされています。光太郎にも触れられていました。

他には以下の目次の通り。
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同館サイトから全文が読めますが、紙媒体で手許に欲しいという方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】049

創元社から「ヴエルハアラン詩集」を届けられました。思つたよりはきれいに出来ました。貴下のお骨折によるものとてありがたく存じました。これらの詩を夢中になつて訳してゐた青年の頃を思ひ出します。

昭和29年(1954)1月10日 
真壁仁宛書簡より 光太郎72歳

「ヴエルハアラン詩集」は、光太郎が青年時代に翻訳し、さまざまな雑誌に発表したり、単行書として刊行された『天上の炎』から抜粋したりで編まれました。奥付は前年12月25日の発行となっています。編集に当たったのが真壁で、真壁は「あとがき」も執筆しています。

最近の地方紙、全国紙から光太郎の名が載った一面コラム等を。

まず『静岡新聞』さん、6月8日(日)掲載分。

大自在(6月8日)杢太郎はどこから来たのか

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。長い名前の絵画で知られるポール・ゴーギャン(1848~1903年)は昨日、6月7日にパリで生まれた。県立美術館で開催中のコレクション展に、別の作品が出ている▼178回目の誕生日、彼の「家畜番の少女」の前に立った。発色のいい黄、緑、青。光あふれる画面だが神秘的な雰囲気も漂う。都会の退廃を嫌ったゴーギャンはフランス北西部のブルターニュ地方をたびたび訪れ、牧歌的風景を描いた。「家畜番-」も成果の一つだ▼日本で早くから彼を取り上げた美術評論家の一人が、医師、詩人の顔も持つ伊東市出身の木下杢太郎(1885~1945年)である。明治時代末期、欧州帰りの詩人高村光太郎に教わったようだ。セザンヌ、ゴッホらとともに「新印象派」の画家として記述し、10年の詩「異国情調」には名前を引用した▼杢太郎は45年6月上旬、最後の随筆「すかんぽ」を執筆した。すかんぽとはタデ科の植物「スイバ」のこと。「郷里ではととぐさと呼んだ」そうだ▼この年の夏以降、都内で入退院を繰り返し、10月15日に亡くなった。絶筆は原稿用紙16枚足らず。野生のすかんぽを食べた幼少期の回想を起点に、半生を振り返っている▼ふと、思う。80年前のちょうど今頃、杢太郎の頭にはゴーギャンの長い作品名があったのではないか。随筆は自分がどこから来た、何者だったかを確認しているように読める。死期を悟った彼は、自分が「どこへ行くのか」もお見通しだったろう。

雑誌『スバル』や、その寄稿者も数多く参加した芸術運動「パンの会」で光太郎と親しかった木下杢太郎がメインです。日本で早い時期にゴーギャンに注目、それが光太郎の影響だったのだろう、と。あり得る話です、というか、それで正解でしょう。

光太郎のゴーギャン紹介は、木下が編集にあたっていた『スバル』に発表され、日本初の印象派宣言とも称される評論「緑色の太陽」(明治43年)に遡ります。いわゆる「地方色」論争の中で書かれたもので、その国や地域特有の色彩感覚があるのだから、それにのっとって絵を描くべしという石井柏亭らの説に光太郎は真っ向から反対、画家は自分のセンシビリティに従って描かなければいけないし、そうすることで自然と「地方色」が現れるもので、格別意識するものでもない、大事なのは個々の感性だ、というわけです。

 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従って、芸術家の PERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである。
(略)
 僕は生れて日本人である。魚(さかな)が水を出て生活の出来ない如く、自分では黙つて居ても、僕の居る所には日本人が居る事になるのである。と同時に、魚(さかな)が水に濡れてゐるのを意識してゐない如く、僕は日本人だといふ事を自分で意識してゐない時がある。時があるどころではない。意識しない時の方が多い位である。
(略)
 僕の製作時の心理状態は、従つて、一箇の人間があるのみである。日本などといふ考へは更に無い。自分の思ふまま見たまま、感じたままを構はずに行(や)るばかりである。後(のち)に見てその作品が所謂日本的であるかも知れない。ないかも知れない。あつても、なくても、僕といふ作家にとつては些少の差支もない事なのである。地方色の存在すら、この場合には零(ゼロ)になるのである。

その流れの中で、

 GAUGUINは TAHITIへまで行つて非仏蘭西的な色彩を残したが、彼の作は考へて見ると、TAHITI 式ではなくして矢張り巴里子式である。

なるほど、ですね。

紹介すべき事項が山積していますので、この辺で次に。一昨日の『毎日新聞』さん。

余録

半熟の生梅を灰汁(あく)で洗い、古酒、白砂糖と合わせてかめに入れる。年を経たものが最も良い。梅を取り、酒を取りしてどちらも用いる――。江戸時代の博物書「本朝食鑑」が記す梅酒のレシピである▲砂糖が貴重だった時代。庶民には高根の花だっただろう。江戸後期に商品作物としての梅の栽培が盛んになり、徐々に広まったという。今の主流である焼酎を使った梅酒は明治以降に誕生したらしい▲スーパーの青果売り場に青梅が山積みになっていた。氷砂糖と焼酎もそばに置いてある。梅の実が熟す入梅の時期。毎年、梅酒を造る家庭も多いのだろう。物価高騰の折、安価な「キズあり」も問題なく使えるというのはうれしい▲もっとも酒税法の壁はある。アルコール度数20%以上の酒を使って自家消費することが条件。63年前の法改正で、この条件付き容認が明確化されるまでは家庭での梅酒造りは「もぐり」扱いだったという▲「厨(くりや)(台所)に見つけたこの梅酒の芳(かお)りある甘さをわたしはしずかにしずかに味わう」。彫刻家で詩人の高村光太郎は「智恵子抄」の最後に記した。愛妻が残した手作りの味は特別だったのだろう▲本朝食鑑は「食を進め、毒を解す」と効能を記す。クエン酸を含み、疲労回復や血行促進の効果があるらしい。健康志向もあり、メーカー物の高級梅酒はインバウンド客に好評という。温暖化の影響でこのところ猛暑の年が続く。伝統の味を夏バテ予防にも生かしたい。<とろとろと梅酒の琥珀(こはく)澄み来(きた)る/石塚友二>
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関東も梅雨入りが宣言されました。諸説ありますが、「梅の実が熟す頃の長雨の時期」という意味で「梅」の字が使われているというのが一般的ですね。そこでこの時期、今回も引用されている光太郎詩「梅酒」(昭和15年=1940)が時折取り上げられます。

一昨年にはやはり梅酒造りを報じたSBS静岡放送さんのローカルニュースでも。このブログでのその紹介の際、昭和27年(1952)3月、NHKのラジオ放送のため、花巻温泉松雲閣で詩人・真壁仁との対談が収録され、「梅酒」を含む自作詩朗読も録音された件にも触れましたが、その録音に立ち会ったNHKの熊谷幸博アナウンサーの回想を最近見つけました。

 対談の録音は翌朝行なった。この中で高村さんは芸術とエネルギーの話をし、これからの日本人の食物と体質、体力について論じられた。
 さらに私どもは詩の朗読の録音もお願いした。これも快く承諾されて、智恵子抄の中から“千鳥と遊ぶ智恵子”“梅酒”“風にのる智恵子”の三編を朗読された。梅酒のくだりではちょっと涙ぐんで朗読がとぎれた。この感動が伝わって私も涙ぐんだ。

(『日本放送史 下』昭和40年=1965 日本放送協会放送史編集室編 日本放送協会)

実際にNHKさんに残っている音源を聴くと、光太郎、「梅酒」の途中で洟をすすっています。この録音を元に「泣いている」と表現されることがあり、そうであれば非常にドラマチックですが、確証はなかったのでそう断じるのは危険、「風邪でもひいてたのかもしれない」と思っていたのですが、やはり光太郎、涙ぐんでいたとのこと。いい話ですね。

最後に『朝日新聞』さん。6月8日(日)の教育面で、2月2日(日)の一面コラム「天声人語」を問題文に使って漢字の問題。
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最後に解答が上下反転で書いてありますが、問題文をよく読まない慌てんぼうさんには「こうしん」あたりはパッと「甲信」と出てきませんね(笑)。

さて、一面コラム以外にも光太郎がらみの記事が出ていますので、明日はそのあたりを。

【折々のことば・光太郎】

来年はもうあまり、のんだりたべたりに外出しない事にしました故失礼することもあると思ひますがあしからず、

昭和28年(1953)12月26日 風間光作宛書簡より 光太郎71歳

風間は詩人。前年に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため中野の貸しアトリエに入って以来、光太郎を呑みに連れ出すことがままありました。しかし翌昭和29年(1954)になったら、外食は自粛、というより、宿痾の肺結核のため、それがもはや厳しいというわけです。

こうして昭和28年(1953)が暮れて行きました。

都内から演奏会情報です。

第39回カトリック松原教会チャリティーコンサート~ガリラヤの風かおる丘で~ フィリピン・ミンダナオ島で活動するシスターたちのために

期 日 : 2025年6月22日(日)
会 場 : カトリック松原教会 世田谷区松原2丁目28番5号
時 間 : 14:30開場 15:00開演
料 金 : 一般 3,000円 小中高生 2,000円

「ガリラヤの風かおる丘で」を作曲された蒔田尚昊先生は松原教会に所属されていました。蒔田先生は「ウルトラセブン」で知られる冬木透でもありました。昨年12月に帰天された先生を偲んで、先生の作品も紹介します。今回は松原教会メンバーに加え、若いバリトン歌手が賛助出演いたします。このコンサートは、フィリピン・ミンダナオ島にあるニーニャ・マリア・ラーニングセンターの貧しい家庭の子どもたちの支援のために行います。

出演
 秋永佳世(Sop) 有坂緑(Fl) 黒川京子(Sop) 小西陽子(Pf) 千賀由里(Pf)
 藤本典子(Ms)  安田紀生子(Vn) 保多由子(Ms) 楢原敬之(Br)

曲目
 蒔田尚昊   ガリラヤの風かおる丘で 「智恵子抄」より
 冬木透    ゾフィーのバラード
 アメリカ民謡 アメージング・グレース
 メルカデンテ サルベ・マリア
 ピアソラ   「天使の組曲」より
 中田喜直   悲しくなったときは
 他

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6月7日(土)、上野の旧東京音楽学校奏楽堂さんで開催された「第二十二回 二期会日本歌曲研究会演奏会」で蒔田尚昊氏の歌曲集「智恵子抄」から「Ⅱ. あどけない話」「Ⅴ. レモン哀歌」の二曲を歌われた黒川京子氏がご出演。おそらく同じ二曲を演奏されるのだと思われます。

他に蒔田氏が映画音楽等を作曲なさった際の変名である冬木透クレジットで「ゾフィーのバラード」。ゾフィーはウルトラ兄弟の長男ですね。ファーストウルトラマンの最終回、宇宙恐竜ゼットンに敗れ、命を落としたウルトラマンを助けにやってきたのが初登場でした。その当時は兄弟とか長男とかの設定にはなっていませんでしたが。
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売り上げはフィリピン・ミンダナオ島での活動支援に宛てられるそうです。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お餅と白いんげんたくさんいただきありがたく存じました。これでお正月の雑煮も出来ました。東京は此頃たいへんあたたかです。山口ではもう雪になつた事でせう。


昭和28年(1953)12月25日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

前年まで花巻郊外旧太田村山口地区に蟄居していた頃は、都内の友人等からいろいろと食糧等が送られていましたが、中野の貸しアトリエに出て来てからは、逆に太田村民らから様々な食品などの贈り物。食糧難の時代も過ぎ、光太郎とてこの頃は経済的な困窮はまったくなかったのですが、人徳なのでしょうね。

神奈川県鎌倉市からのイベント情報です。

民学の会第223回例会「高村光太郎と尾崎喜八~100年を越える文化の縁」

期 日 : 2025年6月22日(日)
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 14:00~ 2時間ほど
料 金 : 1,000円(珈琲付き)

講 師 : 石黒敦彦(詩人、芸術文化研究、尾崎喜八令孫) 山室眞二(版画家・装幀家)
コメンテーター : 山端通和(音楽家、「笛」マスター、高村光太郎縁戚)

今春に上梓された『高村光太郎と尾崎喜八』(蒼史社)を編集された石黒敦彦氏と山室眞二氏(第221回で講演。この本も芋版画で装丁担当)にお話をしていただきます。お二人は北川太一氏(『高村光太郎全集』編纂実務を手掛けるなど、高村光太郎についての編著書も多数)が残した高村光太郎と尾崎喜八についての文章を後世に残したいとこの本が出版されました。その想いを高村光太郎の御親戚がマスターの喫茶店をお借りして語っていただきたいと思います。どなたでも参加できますのでお誘い合わせてお出かけください。(スペースの関係でお席は25名までですのでお早めにメールなどでご予約ください)
mingakunokai@gmail.com

特別展示:高村・尾崎夫妻の交友を示す白樺派などの写真パネル多数。山室装幀・編集の高村光太郎についての本(北川太一著)、山室装幀の「高村光太郎と尾崎喜八」(北川太一著)の版画原画。

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案内文にあるように、今春刊行された『高村光太郎と尾崎喜八』(当会顧問であらせられた故・北川太一先生の玉稿を再編)の内容を元に、編集された石黒氏と装丁をなさった山室氏がご講演。

会場は明月院さん裏手のカフェ兼ギャラリー笛さん。マスターの奥さまが光太郎の直ぐ下の妹・しづ(静子)の令孫で、石黒氏もお近くにお住まいとのこともあり、毎年秋に、光太郎と尾崎に関わる展示をなさっています。昨年の様子がこちら。また、今年は春先に『高村光太郎と尾崎喜八』出版記念として臨時の展示も為されました。今回も貴重なものが並ぶようです。

当方、花巻で市民講座講師があり、お伺いするのが難しいところですが、皆様方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あれから原稿を毎日書いてゐて、やつと書き終りました。今年は十二月までまだいろいろ仕事が残つてゐてらくでありませんが、時候が割にあたたかなのでいいです。

昭和28年(1953)12月20日 真壁仁宛書簡より 光太郎71歳

この月の初めまで10日間ほど花巻郊外旧太田村に帰村していたこともあり、書かなければならない原稿が溜まっていたようです。身体的にはかなりガタがきていましたが、そのあたりの意慾はまだまだ旺盛でした。

智恵子の故郷・二本松系の投稿が続いておりますので、今日も。正確には二本松ではなく福島市ですが、老舗菓子店さんが智恵子の名を冠した新商品を出されました。

ちえこのレモン

レモン果汁、レモンピール、ラムレーズン、蜂蜜を加え、香り爽やかに焼き上げたやさしい風味のスイーツです。

単 価 : 151円
販売元 : お菓子のそよか 本店 福島市西中央4丁目15-4
              パセオ店 
福島市万世町5-1 万世町ビル1F
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レモン風味プラス、外側のクッキー部分のシルエットがレモンの形なのですね。

10個入りの箱詰めもあるようです。そもそもそちらをパッケージデザインされた仙台のデザイン会社「enround」さんのサイトで発売を知りました。
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光太郎智恵子のシルエット、安達太良山?と阿武隈川などが配され、なかなか秀逸なデザインですね。

元々、智恵子生家/智恵子記念館さんに近い道の駅安達智恵子の里さんでは、「智恵子の里だよりレモンサブレ」、「れもんドーナッツ」などが販売されていますが、新たなラインナップは大歓迎です。
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ただ、「レモンサブレ」などは基本的に道の駅安達さんでの限定販売でして(オンラインもありますが)、高速道路のSAなどでは見かけません。

また、4月から先月にかけて智恵子生家/智恵子記念館さんで開催されていた「高村智恵子生誕祭」の中で、紙絵制作のワークショップをやられた道の駅安達智恵子の里さんのテナント・二本松和紙伝承館さんが限定企画でいろいろ販売なさいました。
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「限定」でなく、常に入手出来る状態であってほしいのですが……。

今回のお菓子のそよかさんも、ぜひ手広く販売をお願いしたいところです。

【折々のことば・光太郎】

鉄道便にてリンゴお送り下され、ありがたく落手いたしました、 数年前にお植ゑになつた苗が御丹精の甲斐あつてかくも立派なリンゴを実らせました事を考へ、小生までうれしく存じ上げました、


昭和28年(1953)12月14日 浅沼菊蔵宛書簡より 光太郎71歳

「レモン」ならぬリンゴがらみ。

浅沼は前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区の住民。おそらく、光太郎と交流のあった阿部博の指導でリンゴ栽培を始めたのでしょう。

こちらの検索の網に「智恵子抄」、「ほんとの空」の語でヒットしました。都内で開かれる、智恵子の故郷・福島二本松市主催のイベントです。

二本松市移住出張相談会 一緒に地域おこししませんか?

期 日 : 2025年6月15日(日)
会 場 : 東京交通会館8階ふるさと回帰支援センター 千代田区有楽町2-10-1
時 間 : 10:30~17:00 (1枠45分)
料 金 : 無料

移住に興味をお持ちの方へ、ぜひ二本松市を選択肢の一つに加えてみませんか?

首都圏から新幹線で約2時間程度。「智恵子抄」で詠われた『ほんとの空』が広がる二本松市は城下町として栄え、温泉や里山など田舎暮らしをしたい方の望むものが揃う一方、病院や公園などの遊び場も多く、子育て世帯も住みやすい街です。福島県の中でも、県庁所在地である福島市と、人が多く集まる商業都市である郡山市のちょうど中間地点に位置しており、利便性にも優れています!
 地域おこし協力隊としての活動先をご検討中の方、移住生活に興味はあるけれど具体的にイメージできない方、移住に向けて一歩踏み込んだ話をしたい方など、ぜひこの機会にお気軽にご利用ください。
 あなたのご参加をお待ちしております♪

■ご相談内容の例
 ・地域おこし協力隊活動についてのご相談
 ・二本松市での暮らし、仕事、住まいについてのご相談
 ・具体的な移住支援制度についてのご紹介
 ・子育て支援についてのご案内
 ・移住された方の事例についてのご紹介
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以前にも同様の相談会等の情報が「智恵子抄」、「ほんとの空」の語でヒットしました。コロナ禍中の令和3年(2021)には、やはり二本松市さんがオンラインで相談会を開催。それ以前の令和元年(2019)には実際に二本松市内で「田舎暮らし体験ツアー」。この年には二本松市を含む「福島圏域」としての合同セミナーも今回と同じ東京交通会館さんで開催されました。

また、今回の要項では「地域おこし協力隊」関連も視野に入れていることが窺えます。同隊員の募集も今年始めにこのブログで紹介させていただきました。

さらに、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市さんでも「花巻市外から移住した方、移住者と交流したい市民、市へ移住希望の方向け」ということで、「移住者交流会・花巻めぐりバスツアー」などの取り組みを行っています。

東京一極集中の弊害が叫ばれて久しいところですし、コロナ禍を機に広まったリモートワークの充実も追い風と言えるでしょう。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

椛沢さんが指圧療法を修得されて中々うまいやうですが、あなたも椛沢さんにそれを習つてみたらどんなものでせう、田舎でなら繁昌するかもしれないやうに思はれますがどうでせう、


昭和28年(1953)12月7日 宮崎春子宛書簡より 光太郎71歳

宮崎春子は智恵子の姪で、その最期を看取りました。この年に夫の稔を亡くし、光太郎としては幼子二人を抱えた義姪の生活のたづきを心配していました。ただ、稔の父・仁十郎は茨城取手の素封家で、この頃はいまだ健在、春子もすぐに困窮というわけではありませんでした。

智恵子の故郷、福島二本松からコンサート情報です。

藤木大地カウンターテナー・リサイタル 二本松音楽協会第100回定期演奏会

期 日 : 2025年6月15日(日)
会 場 : 二本松市コンサートホール 福島県二本松市亀谷1-5-1
時 間 : 13:00開場 13:30開演 
料 金 : 一般前売 3,700円 一般当日 4,000円 小中高生 1,000円

昨年名古屋にて半分だけ演奏した「白鳥の歌」を、シューベルト愛だだもれる佐藤卓史さんの懐を再びお借りして、福島にて全曲演奏することにしました。またレパートリーが増えちゃうぞ。二本松音楽協会の「1️⃣0️⃣0️⃣回」記念にふさわしい演奏会になるようがんばります! 縁の地にて、智恵子抄もあるよ!

演奏予定曲目 
 中田喜直 マティネ・ポエティクによる四つの歌曲
 「智恵子抄」より 
  佐藤卓史 あどけない話/からくり歌(初演)  加藤昌則 レモン哀歌 

 F・シューベルト 歌曲集「白鳥の歌」

出演 藤木大地(カウンターテナー) 佐藤卓史(ピアノ)

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藤木氏、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」をレパートリーの一つとされていて、今回も含め、たびたびコンサートでプログラムに入れて下さっています。また、今回もピアノを弾かれる佐藤卓史氏とタッグを組まれ、佐藤氏作曲の「あどけない話」も。把握している限りでは昨夏、名古屋でずばり「藤木大地(カウンターテナー)&佐藤卓史(ピアノ)リサイタル 白鳥の歌/智恵子抄」と、「智恵子抄」をタイトルに冠した公演も行われました。

そして今回初演の「からくりうた」。昭和16年(1941)刊行のオリジナル『智恵子抄』には入っていない詩ですが、まさに二本松の智恵子を謳ったものです。

   からくりうた
     (覗きからくりの絵の極めてをさなきをめづ)
婦人公論
 国はみちのく、二本松のええ
 赤の煉瓦の
 酒倉越えて
 酒の泡からひよつこり生れた
 酒のやうなる
 よいそれ、女が逃げたええ
 逃げたそのさきや吉祥寺
 どうせ火になる吉祥寺
 阿武隈川のええ
 水も此の火は消せなんだとねえ
 酒と水とは、つんつれ
 ほんに敵同志ぢやええ
 酒とねえ、水とはねえ


大正元年(1912)9月の『スバル』第4年第9号に発表された詩です。細棹の三味線をチントンシャンとつま弾きながら唄う小唄の歌詞のような詩ですね。

智恵子の名は入っていませんが、智恵子をイメージして書かれたことは明白です。「吉祥寺」は八百屋お七の巷説が背景にあるようです。

ちなみに掲載誌『スバル』の同じ号には「或る夜のこころ」、「」、「おそれ」も掲載されていて、「からくりうた」を含めて「詩群」の総題がつけられています。おそらくいずれもこの年8月の作で、それぞれ智恵子との恋愛関係をどうするかの逡巡をテーマにしたものです。8月末か9月初めには、銚子犬吠埼に絵を描きに来ていた光太郎を追って智恵子も現れ、ここに二人の恋愛が成就する直前です。

把握している限りでは、「からくりうた」にメロディーがつけられた楽曲は、ギタリストのソンコ・マージュ氏が弾き語りで歌われ、アナログLP「日本の心」(昭和49年=1974 日本コロムビア)に収められたものしか存じません。佐藤氏、あまり取り上げられない詩に曲をつけてくださり、ありがたく存じます。
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というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

御文書により、(文学部門と伝聞いたしますが)日本芸術院会員候補者に小生を御推せんの趣承りましたが、右は御辞退申上げたく存じますので、よろしく御取りはからい願います、


昭和28年(1953)12月7日 宇野俊郎宛書簡より 光太郎71歳

宇野は日本芸術院事務局長。同院会員推薦辞退に関わります。

昨日は上野で「第二十二回 二期会日本歌曲研究会演奏会」を拝聴して参りました。レポートいたします。
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会場は旧東京音楽学校のホール・奏楽堂さん。場所は少し動かされていますが、明治23年(1890)の竣工で、隣の東京美術学校に通っていた光太郎も目にしたことのあるはずの建物です。
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敷地内には光太郎とも交流のあった朝倉文夫による滝廉太郎像などもたっています。

開演前のステージ。
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13:00開演。
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当方、あまり詳しくはないのですが、二期会さんの中でいろいろな「○○研究会」という部会があって、その一つの「日本歌曲研究会」さんに所属する歌手の方々なのでしょう、12名の方が思い思いに自選された歌曲を歌われるというものでした。

故・蒔田尚昊氏作曲の歌曲集「智恵子抄」から「Ⅱ. あどけない話」「Ⅴ. レモン哀歌」の二曲が、黒川京子氏の歌唱で演奏されました。ピアノは髙木由雅氏という方。
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いずれも抒情的なメロディに乗せて切々と光太郎智恵子の心境が表され、また確かな技倆に支えられて素晴らしい演奏でした。

「あどけない話」は、全音さんの『日本歌曲集3』(昭和45年=1970)に収められていますが、他の4曲「I 樹下の二人」「 III 同棲同類」「IV 千鳥と遊ぶ智恵子」「V レモン哀歌」は公刊された楽譜集等に収録されておらず、最近の各種演奏会でも抜粋で取り上げられるだけで(今回もそうでしたが)、全曲の楽譜公刊、コンサート等での演奏、さらにCD化が為されてほしいと願っております。

他の方々の演奏も堪能させていただきました。やはり「組曲 智恵子抄」を作曲され、連翹忌にもご参加下さった朝岡真木子氏作曲の作品(「智恵子抄」ではありませんでしたが)を取り上げた方もいらっしゃいました(朝岡氏、当方のすぐ前の席に座られ、お話しさせていただきました)。

それから、三木露風北原白秋山村暮鳥谷川俊太郎など、光太郎と交流のあった人々が作詞した曲が多く、その意味でも嬉しゅうございました。

終演後のカーテンコール的な。
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右からお二人目が黒川氏。黒川氏は、他に宮沢賢治がらみの歌曲等にも取り組まれるということで、お仲間で朝岡氏の「組曲 智恵子抄」をやはり奏楽堂さんで歌われCD化もなさって、今回も聴きにいらしていた清水邦子氏ともども、今年の1月31日(金)・2月1日(土)の2日間、当方が花巻の光太郎/賢治聖地巡礼ガイドを務めさせていただきました。

先の話ですが、その賢治がらみ。清水氏もご出演なさいます。
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他にも受付でもらったり、朝岡氏・清水氏から直接いただいたりしたフライヤー類。

蒔田氏・朝岡氏の「智恵子抄」が演奏されるもの(近くなりましたらまた詳細をお伝えいたします)。
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光太郎関係ではありませんが、朝岡氏・清水氏が作曲されたり出演なさったりするもの。
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左上は創作版画の川瀬巴水(ちなみに光太郎と同年の明治16年=1883生まれです)オマージュの歌曲が演奏されます。林望氏が作詩だそうで。右上は青島広志氏作曲のオペラですが、なんと、古代史や民俗学等に材を採ったおどろおどろの漫画(10冊ほど書架にあるのですが(笑))で有名な諸星大二郎氏の作品が原作です。最近はクラシック界も一筋縄ではいかないようですね(笑)。

関係の皆様方のさらなるご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

五日に無事に東京につきました、道具箱も安泰、木炭三十俵も昨六日届きました、お手数感謝いたします、 今度はいろいろお世話様になり、御馳走になり、出発の際には奥さまのお見送りをうけ、恐縮に存じました、 又部落の方から木炭十俵をいただき難有く存じます、よろしくお礼をお伝へ下さい、

昭和28年(1953)12月7日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

11月25日から12月5日にかけ、前年まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村へ、約1年ぶりの帰村。中野の貸しアトリエに戻ったよ、という報せです。
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都内と太田村との二拠点生活を考え、住民票は太田村に残していましたが、結局は健康状態がそれを許さず、この際が最後の太田村訪問となってしまいました。光太郎の余命、あと2年余りです。

BS11(イレブン)さん及び一部地域の地上波で放映中の深夜アニメ「ざつ旅-That's Journey-」。KADOKAWAさんの月刊コミック誌『電撃マオウ』で連載の石坂ケンタ氏による漫画が原作です。新人賞に入賞し、プロの漫画家をめざす女子大生・鈴ヶ森ちかを主人公とし、ちかの一人旅や友人たちとの女子旅などが描かれます。

4月オンエアの第2旅「伊達じゃない! きときとふたり旅」では、宮城県の松島が舞台となり、瑞巌寺さんに納められている光太郎の父・光雲作の聖観音像も登場しました。
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そして来週月曜放映分は、後半が光太郎第二の故郷・花巻です。

ざつ旅-That's Journey- 第10旅「ココロのふるさと」 

BS11 イレブン 2025年6月9日(月) 23:00〜23:30

潮岬で初日の出を拝んだちかは、バスで熊野川沿いの道を行き、初詣のために熊野本宮大社へ。そこで彼女が願ったものとは? 1月末、ちかは暦と岩手県の新花巻駅に来ていた。しかし、どこか暦の元気がないようで……!?

出演 月城日花 鈴代紗弓 平塚紗依 佐藤聡美 日笠陽子 小林ゆう 窪田等
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東北新幹線/釜石線の新花巻駅ですね。
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光太郎に関する展示も為されている宮沢賢治記念館さん。
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市街地へ出て、マルカン大食堂さんで定番の10段巻きソフトクリーム。

そして、光太郎や賢治に愛された大沢温泉さん。当方も再来週、またお世話になります。
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おおむね廻る箇所は原作に忠実になっているようです。
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残念ながら花巻高村光太郎記念館さんには廻らないようですが、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

二十五六日頃でかけるつもりで居りますが、汽車からすぐ大沢温泉にまゐります。今度は山で映画撮影の事などあるので、お目にかかるのは月末か十二月初めと存ぜられますし、宿泊は大沢等の温泉地だけにするつもりで居ります。

昭和28年(1953)11月23日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎71歳

前年まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村へ、約1年ぶりの帰村。ただ、当会の祖・草野心平や、美術映画「高村光太郎」撮影スタッフが一緒で、元の山小屋で寝泊まりはしませんでした。
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それでも村人たちと旧交を温めました。
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あまり大々的に宣伝は為されていないようなのですが……。

木村俊介Concert『鵲(かささぎ)の橋の上で』in 東京 愛のかたち、様々に~日本と韓国の文学作品から~

期 日 : 2025年6月15日(日)
会 場 : 早稲田奉仕園スコットホール 新宿区西早稲田2丁目3-1
時 間 : 開場 15:00 / 開演 15:30
料 金 : 全席自由 5,500円 要予約
予 約 : 木村俊介 mail:insho@sky.plala.or.jp TEL. 090-8346-5548


パクスナ氏と始めた、日韓定期開催LIVE『鵲の橋の上で』。3年目を迎える今年は、~愛のかたち、様々に~と題して、日韓の文学作品から珠玉の“愛”の物語を取り上げます。愛する人が、愛した時のその人ではなくなってしまったら。愛する人が異界の存在であることを知ってしまったら。それでも、誓った愛を貫くことができるのか。昨年、壤晴彦氏との共演で大好評を頂いた、高村光太郎作『智恵子抄』をはじめ、先人の残した言葉が、時代を超えて問いかけます。会場は築100余年の祈りの空間。溶け合い、響きわたる言葉と音楽に、ゆったりと浸るひと時を。

出 演
 〈横笛・能管・三味線〉木村俊介  〈伽耶琴(カヤグム)〉パク スナ  〈語り〉壤晴彦
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昨年9月、同じく『鵲(かささぎ)の橋の上で』と題されたコンサートがさいたま市で開催されていました。その再演に近いのかな、という感じです。

その際の紹介記事でも書きましたが、朗読を担当される壤晴彦氏、かなり以前から「智恵子抄」朗読に取り組まれている方です。

今回は新宿区で。早稲田奉仕園さんといえば、当方、令和4年(2022)に日本詩人クラブさんの例会で講演をさせていただいた場所です。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

東京も寒くなり、山口ではもう雪が降つてゐる事でせう、小生廿五日の朝上野を出発して同夜花巻着、大澤温泉に参ります、山口へは廿六日か廿七日に出かけるでせうが、あの小屋には寝られさうもないので、夜は又大沢温泉に行きます、

昭和28年(1953)11月22日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

前年まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区に約1年ぶりに戻るという連絡です。
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昨日お伝えした、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ、青森県十和田湖での「第60回記念十和田湖湖水まつり」とも関わる内容で、現地の地方紙『東奥日報』さんの一面コラム。5月30日(金)の掲載分です。

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 十和田市の古木「法量のイチョウ」の枝が今冬の大雪で折れた。心配していたが、十和田古道フォーラム参加者ら約30人と訪れて見上げ、変わらぬ威容にほっとした。
 近くを通る国道102号はかつてなく、奥入瀬川が法量のイチョウ下の巨岩にぶつかって流れる石門状の地形だったという。参詣者は巨岩脇を登って越え、十和田湖に向かった。斉藤利男弘前学院大特任教授は「ここから先は神域」と説明、鈴木健郎専修大教授は「日本の宗教的に、巨岩は神が降りる場所。非常に重要だったことが分かる」と注目する。
 十和田開発の功労者として、1908年に本県に赴任した官選知事の武田千代三郎、文人・大町桂月、法奥沢村長で県議の小笠原耕一が挙げられる。十和田湖畔の「乙女の像」は3人の顕彰で建てられたという。
 武田は十和田湖と奥入瀬を一体ととらえており、自著で十和田湖を詳細に記述。貴重な財産だと説き、自身の着任前に行政が許した伐採等の影響で一部景観が「名勝變(へん)じて凡境と化した」と嘆き、自然破壊行為を厳に慎むよう苦言を呈した。
 斉藤特任教授はさらに、八甲田も含めた一帯が広大な霊場だったと推測する。一時どん底だった十和田湖観光は、歴史を生かした再起のエネルギーが起きている。悠久の歴史を知るにつれ、われわれにこの得難い財産を後世に残す責務があると身が引き締まる。

「乙女の像」の正式名称は「十和田国立公園功労者顕彰記念碑」。昭和25年(1950)に、時の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)の肝煎りで準備委員会が発足、同27年(1952)に正式に「十和田国立公園功労者顕彰会」となり、建設が具体化していきます。コンセプトは十和田湖周辺の国立公園指定15周年の記念と、その指定に功績のあった「十和田の三恩人」、大町桂月・武田千代三郎・小笠原耕一の顕彰でした。
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明治の文豪・大町桂月は、それまで一般に知られていなかった十和田湖の景観美をさまざまな紀行文で広く世に紹介しました。
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明治44年(1911)、それらを読んだ皇太子時代の大正天皇が十和田湖に興味を持ち、当時の青森県知事・武田千代三郎に、北海道巡啓のついでに十和田湖に行ってみたいのだが現地の様子はどんな感じか? と問うたのですが、武田は十和田湖に足を運んだことがなく、ろくに答えられませんでした。それを恥じた武田は、地元の法奥沢村長兼県会議員の小笠原耕一と共に道路整備、国立公園指定の請願等に腐心しました。

昨日お伝えした通り、「十和田湖湖水まつり」は今年が60回の節目の年で、さらに十和田湖の景観美を広く世に知らしめた大町桂月の没後100年記念も兼ねています。

桂月といえば、与謝野晶子が日露戦争に出征した弟・籌三郎の身を案じた「君死にたまふこと勿れ」(明治37年=1904)を痛烈に批判したことでも知られています。
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この当時、光太郎は既に与謝野夫妻の『明星』に依り、新詩社社中の新鋭の一人と目されていました。したがって、桂月にしてみれば憎き晶子の弟分(笑)。その光太郎が時を経て、桂月顕彰の意味合いも含めて「乙女の像」を制作したわけで、そのあたりも念頭に、光太郎自身は次のように語っています。

僕は若い頃大町さんに怒鳴られたりなんかして、よく知つてゐるんだから、貴様こんなものを立てたといつて怒られるだらうといふ事が、頭に出て来て、それでどうも弱つたんです。
(座談「自然の中の芸術」 昭和29年=1954)

ここにはなぜ裸婦像なのか、という問題も含まれています。それについても同じ対談で、

初めは三人の首をといふ事がすぐ頭に出たんですけれども、これは何だか獄門みたいになりますから考へて、止しました。(略)とにかく僕に自由なものをやつていゝと言ふと、大町さんとの関係がなくなつてしまふんですよ。たゞ裸の像では大町さんは寧ろ嫌ひですよ。(略)だからあの時は姑息な事を考へてね、像に木の枝を持たせて、その木を桂の木にしようと思つた。月の桂で桂月を意味するし、そんな馬鹿な事も考へたけれども、段々やつてゐる内に、一切さういふ事を離れちまつて、自分が湖から受ける感じ――桂月さんが湖から受けてあれだけ感動したんだから、自分が湖から受ける感動をそのまま正直に出せば、結局同じなんじゃないか。(略)桂月が草鞋ばきで尻を端折つてあそこを歩いてゐたやうな時の姿をあそこへ置いたら、どんな滑稽か分からない。これはもう恐らくどんなによく拵へてもをかしい。

などと発言しています。

さて、桂月没後100年ということで、十和田や都内でそのあたりの記念行事等も予定されています。その中で、「乙女の像」、さらには像の作られた中野のアトリエの保存などについても、スポットが当たることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

昨夜草野心平さんにあつた処山口での撮影には立合ひたいといふ事でしたが、ブリツヂストンでその費用を果してだすものでせうか、一応貴下から先方の意向をきいてくれませんか、

昭和28年(1953)11月15日 難波田龍起宛書簡より 光太郎71歳

「山口」は前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区。この月25日に帰村し12月5日まで滞在しました。
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「撮影」はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のためのもの。前半は中野の貸しアトリエでの「乙女の像」制作風景などを、後半を旧太田村で撮影しました。

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光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ、青森県十和田湖からイベント情報です。

第60回記念十和田湖湖水まつり

期 日  : 2025年6月14日(土) 15日(日)
      荒天の場合
       ①6月14日(土)が中止の場合
→6月15日(日)、6月21日(土)開催
       ②6月15日(日)中止→6月14日(土)、6月21日(土)開催
       ③6月14日(土)、6月15日(日)中止→6月21日(土)、6月22日(日)開催
       ④6月14日(土)、6月21日(土)中止→6月15日(日)、6月22日(日)開催
       ⑤6月14日(土)、6月15日(日)、6月21日(土)中止→6月22日(日)のみ開催
       ⑥6月14日(土)、6月15日(日)、6月21日(土)、6月22日(日)中止→湖水まつり中止
会 場  : 十和田湖畔休屋桟橋前 青森県十和田市奥瀬字十和田湖畔休屋486 
問合せ  : 十和田湖観光交流センターぷらっと 0176-75-1531

 遡ること1908(明治41)年夏、高知県出身の文人・大町桂月が、十和田湖をはじめて訪れました。その時に桂月が感じた雄大さや自然の美しさを、雑誌に寄稿したことが、十和田湖を景勝地として世に広めるきっかけとなりました。その後、何度も十和田湖を訪れた桂月。病を悟りながらも最期の地に選んだのも十和田でした。1925(大正14)年6月10日、緑萌ゆる蔦温泉で、56歳の若さで亡くなりました。今年は、その没後100年にあたります。
 大町桂月が世に広めた十和田湖の変わらない美しさ。その美しさを、北東北の夏の観光シーズンの幕開けを飾る花火大会として続いてきた湖水まつりをきっかけに、多くの人に知ってほしい。そうした思いで、記念すべき年の第60回湖水まつりを開催します。
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十和田の夏を盛り上げるコンテンツ満載!

バルーンランタン
十和田湖の夜空に、願いを込めたランタンを一斉に浮かべましょう。湖面に映る無数の光が、幻想的な景色をつくり出します。バルーンランタンには、お好きな文字やイラストを描いて、世界に一つだけの灯りを届けることができます。
 6/14(土) バルーンランタン 1個あたり 6,600円
 6/15(日) バルーンランタン 1個あたり 6,200円
 50個限定!早期購入で400円引き!
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メッセージ花火
大切な人へのメッセージを花火と共に贈りませんか?
ご指定のメッセージをアナウンスした後に、花火を打ち上げさせていただきます。
 1玉+メッセージ読み上げ 10,000円
 3玉+メッセージ読み上げ 28,000円
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ナイトクルーズ
十和田湖ナイトクルーズは年に一度、湖水まつり限定! バルーンランタンと打ち上げ花火を湖上鑑賞してみませんか? 十和田のカルデラに包まれながらの特別な時間を約束します。
 時間:20:15〜
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今年は屋台コーナーも登場!
時間 : 11:00〜22:00
 キッチンカーコーナー
  うれしいうれしい一品(みたらし団子、わらび餅)
  ほっとまん企画(おつまみセット、チーズセット、生ハム)
  たご助(煮干したご焼き、トルネードポテト)
  豚専門店 いろとん(豚つくね串、じろう串、ホルモン串)
  ナイトマーケット(大分中津からあげ、フライドポテト)
  OIRASETOWADA おまかせKitchen(バラ焼きうどん、わんぱくナポリタン、パフェ)
 露店コーナー
  湖白家(ポテト、チュロス、肉巻、シャーピン)
  和の店(からあげ、オム焼きそば、あげたこ)
  田村商会こなもんや(オムそば、豚まん、たこ焼)
  かばさわ商店(フライドポテト、かき氷)
  鎌田功誠(フルーツ飴、はしまき)
  Enjoyとわだこ(行者ニンニクぎょうざ、日本酒/新政10種・花邑)
  マルショウ(トルネードポテト、肉巻き棒、サツマイモチップス)
  宮本商店(たこ焼き、バナナチョコ)
  メディアサポートシステム(ジャンボ牛串、マシュマロスティック)
   ※()内は主なメニュー

パフォーマンス団体/個人を募集中!
十和田湖湖水まつりでは、音楽、ダンス、郷土芸能など、様々なジャンルからのパフォーマンスを募集しております。
 ◇会 場:桟橋前広場(十和田湖が背景になります)
 ◇特典:カメラマンによる出演写真をご提供
 ◇申込み〆切(第一次):5月16日(金)
  申込み〆切(第二次):5月30日(金)※応募枠に余裕がある場合のみ実施(先着順)
 ◇発表:主催者による簡易審査の結果次第随時

公式サイトに記述がありませんが、問い合わせたところ、夕方から「乙女の像」ライトアップも為されるそうです。下記は過去の画像ですが。
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今年は湖水まつり自体が60回の節目、さらに十和田湖の景観美を広く世に知らしめた明治の文豪・大町桂月の没後100年だそうで(「乙女の像」は桂月ら「十和田の三恩人」顕彰というコンセプトも含めて作られました)、今回の案内文には桂月についても触れられています。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

十和田湖旅行のかへりに山口にゆくつもりでしたが、青森でいろいろの事をするので相当疲れると思ひ、今度は一旦東京に帰り、少々休んでから、十一月に又あらためて山口に行き大沢あたりで休養したいと思つてゐます、

昭和28年(1953)10月15日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

浅沼政規は、前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。「十和田湖旅行」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式出席のためでした。除幕式に直接関わる書簡が、今のところ発見出来ておりません。
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遺言はオープンに

智恵子のソウルマウンテン・二本松市の安達太良山でのイベントです

第24回オリエンテーリングあだたら高原大会・あだたら高原ロゲイニング大会 走って 歩いて 楽しんで 「ほんとの空」を探そう 

期 日 : 2025年6月8日(日) 雨天決行
会 場 : あだたら高原・岳温泉周辺(福島県二本松市)
実施種目・競技形式
 ①ポイントオリエンテーリング:個人競技 ミドルディスタンス
 ②スコアオリエンテーリング※:グループもしくは個人 制限時間60分
  決められた時間内に自由にコントロールを廻り、より多くの得点を獲得する競技方式
 ③ロゲイニング:制限時間5時間、3時間
  グループを基本としますが、3時間の部はソロ※での参加も可能です。
  ソロは試験実施です。表彰の際、メダルの授与はありません。
 どなたでも参加できます。
 ※ ただし、ロゲイニングについては、以下の条件を満たすチームのみが参加できます。
 ① 中学生以下の参加者がいるチームには、保護者(20歳以上)を必ず含めてください。
 ② 高校生のみのグループで参加する場合は、保護者からの承諾が必要です。

スケジュール
     7:15 ロゲイニング5時間受付
     8:00 ロゲイニング5時間スタート
     8:15 開場
     9:15 ロゲイニング3時間スタート
     9:45~グループクラス初心者説明(※希望者のみ)
   10:00~オリエンテーリング個人スタート
   10:15 オリエンテーリンググループスタート
   13:00 表彰式、閉会式
   13:30 フィニッシュ閉鎖(予定)
   14:30 閉場
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実は申込期限を過ぎてしまっていましたが、オリエンテーリングのみ当日も仕込みも可能だとのこと。ロゲイニングの方もキャンセル等あるかも知れませんし、記録のためにもご紹介しておきます。

オリエンテーリングとロゲイニングの違いは、オリエンテーリングが全てのチェックポイントを回った「時間」で競う競技であることに対し、ロゲイニングは制限時間は固定して時間内でチェックポイントを回って稼いだ「点数」で競うのが大きな違いだそうです。

「智恵子抄」所収の光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を冠して下さっています。参加する皆さんには光太郎智恵子に思いを馳せつつ、「ほんとの空」の元、現地の自然を堪能していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

帰つて来た時角筈のアトリエで見たのはデスペヤだつたやうです、「労働者」がその時出来かかつてゐたかどうか記憶がありません。「北条虎吉」はもつと後だつたと思ひます。「柳さん」のはもつと後だつたでせう。

昭和28年(1928)10月10日 笹村草家人宛書簡より 光太郎71歳

光太郎の親友だった碌山荻原守衛に関わります。「帰つて来た時」は、光太郎が欧米留学から帰朝した明治42年(1909)、「角筈のアトリエ」は先に帰っていた守衛が構えていたアトリエです。

この頃、笹村を顧問格に迎え、守衛の地元の信州穂高で「荻原碌山研究委員会」が立ち上げられ、守衛の顕彰活動が本格化しました。やがてそれが昭和33年(1958)の碌山美術館さん開館につながってゆきます。
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昨日は鎌倉に行っておりました。過日ご紹介した鎌倉覚園寺さんでの「後醍醐院法躰御木像 特別開帳」拝観のためです。ご朱印マニアの妻も連れて行きました。

webで予約をしましたが、受付が13:30~13:40の10分間。遅れてはいけませんし、妻は覚園寺さんをはじめ近くの二階堂地区、鶴ヶ岡八幡宮さんを除く雪ノ下地区などの寺社には参拝したことがないというので、そのあたりも廻ろうと早めに行きました。

こちらが覚園寺さん。当方も初めてでした。
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特別開帳拝観の前に御朱印を頂き、撮影全面禁止・有料部分の拝観。
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繁華街からは離れた場所で、静かな雰囲気の古刹。かつて本堂の役割だった的な茅葺きの大きな薬師堂が大迫力でした。こちらのご本尊で一丈(約1.8メートル)はあろうかという薬師如来様、左右の日光・月光菩薩さま、さらに宮毘羅大将以下の十二神将さま。実にエモいお姿でした。

さて、特別開帳拝観。こちらは現在の本堂にあたる愛染堂で。
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ご本尊の愛染明王様が修復のためお留守になり、光背と蓮華座はそのまま残っている形で、ぽっかりと空いた空間が寂しい、というわけで、そこに秘仏的な扱いで伝えられてきた光太郎の父・光雲作の後醍醐天皇像を御厨子ごと据え、ご本尊のお留守を護っていただこう、というコンセプトだそうです。

後醍醐天皇像を愛染明王様の代わりに、というのにはちゃんと理由がありました。愛染明王像は基本的に右手に金剛杵、左手に金剛鈴を持ったお姿で表されます(六臂なので右手・左手というと正確には語弊がありますが)。そして後醍醐天皇が愛染明王様を篤く信仰されていたということで、絶対ではないのですが、絵画にしても彫刻にしても、後醍醐天皇像も右手に金剛杵、左手に金剛鈴を持ったお姿で表されることが多く、こちらの像もそうなっているのです。
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まったく違う像を愛染明王様の光背と蓮華座に据えるのはお門違いですが、そういうことならそれもありだな、と判断されたとのこと。なるほど、と思いました。

で、光雲作の後醍醐天皇像。7寸ほどの小さなお像でしたが、実に精緻なものでした。他に光雲作の後醍醐天皇像は当方、寡聞にして存じません。しかし、やはり光雲作で多くの類例がある聖徳太子像大聖(孔子)像などと似た感じでした。
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ただ、量産されたこれらとは異なり、衣の模様の部分には金箔による截金(きりかね)が施され、特注品だったと思われます。

意外だったのは、制作年。聖徳太子像、大聖(孔子)像などは大正から昭和にかけてのものが多いのですが、こちらの後醍醐天皇像は明治26年(1893)の作とのこと。ちなみにこの年は、シカゴ万博に出品された「老猿」(国指定重要文化財)が作られた年です。
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それから、覚園寺さんのオーダーメイドではなく、昭和に入ってから、同寺が後醍醐天皇ゆかりのお寺でもあるということで、寄進を受けたというお話でした。像自体には光雲の銘は入って居らず(天皇像ということで遠慮した?)、光雲自筆の保証書的な書状が添えられ、コピーを拝見しましたが、斎戒沐浴の上、精魂込めて作りました、的な内容でした。今回の特別開帳のフライヤーにその書状から文字が採られていました。これには気づきませんでした。
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像本体は撮影禁止でしたが、特別開帳を申し込んだ参拝者には、画像が印刷されたポストカード大のカードがいただけます。そのまま画像を出さないでくれ、ということなので、モザイクを掛けました。
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右上はご開帳期間だけの限定御朱印です。

というわけで、実に有意義な参拝でした。

ついでというと何ですが、他に巡った御朱印スポット。行程順に。

荏柄天神さん。
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境内の「絵筆塚」。河童の漫画家・清水昆氏オマージュで、「フクちゃん」の横山隆一氏らの手で建立されました。ブロンズのプレートには「ドラえもん」の藤子・F・不二雄氏、「ゴルゴ13」のさいとうたかを氏、そして現在朝ドラで注目を集めているやなせたかし氏らのイラスト。
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一旦、中心街に戻って鶴ヶ岡八幡宮さん。
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段葛の通りで昼食を摂り、鳩サブレを買って(笑)、ふたたび東の方へ。

鎌倉宮さん。
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覚園寺さんはこの奥です。

特別開帳は来年1月まで。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

青森へ行つた帰りに山へまゐるつもりでしたが、青森でいろいろな会に出るので疲れるでせうから、今度は帰途山へ寄らずに直ぐ東京にかへり、一旦休んでから又あらためて十一月に山へまゐることにいたしますので、その時お目にかかるのをたのしみに思ひます。


昭和28年(1953)10月11日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

駿河重次郎は、前年まで光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれた、村の長老格の一人。「青森」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式で、10月21日でした。

最初はその帰途に太田村に寄るつもりでしたが、予定を変更、11月に太田村に帰ることにしました。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻で、主に「食」を通して光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、記録を基に光太郎が実際に自作して食したメニューや、使った食材などを現代風にアレンジしたメニューを饗する「こうたろうカフェ」。花巻市東和町のワンデイシェフの大食堂さんで月に一回、開催されています。こちらは日替わりで様々な個人や団体にキッチンを貸し出し、ランチを販売というスタイルのレストランです。

5月分が一昨日でした。
5月ワンデイ
5月ワンデイシェフ
鶏ももスティック天、人参シリシリ、イブりガッコクリームチーズオリーブオイルかけ。
鶏ももスティック天・人参シリシリ・イブりガッコクリームチーズオリーブオイルかけ
葉わさび奴、蕨のお浸し、サクの煮物、新玉ねぎシーフードサラダ。
葉わさび奴・蕨のお浸し・サクの煮物・新玉ねぎシーフードサラダ
筍ご飯、トマトと卵のジンジャースープ。
筍ご飯・トマトと卵のジンジャースープ
食べられる花ナスタチウムとレタス。
食べられる花ナスタチウム・レタス
別腹で(笑)ヨモギ餅粒あんのせ、コーヒー。
ヨモギ餅粒あんのせ
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いつも書いていますが、首都圏ではあり得ない1,000円というお手頃価格です。季節的に山菜系を素材としたメニューが多く、実にヘルシーな感じですね。山菜の採取もやつかの森さんがご自分たちで行ったそうです。

次回は6月27日(金)だそうで、今年度はほぼ毎月末に取り組まれるようです。光太郎も自分で採取し、好んで食材に使った山菜「ミズ」をつかわれるとのこと。

末永く続いてほしい取り組みです。

【折々のことば・光太郎】

鋳金像はやつと工場で出来上り、あと十日間位で十和田休屋といふ所の湖畔にたち、廿一日に除幕式、小生も十九日には出かけて列席、


昭和28年(1953)10月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎71歳

「鋳金像」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。鋳金家・伊藤忠雄の都内の工房でブロンズに鋳造され、十和田湖に運ばれました。
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