2025年05月

キャラクターデザインの公募です。

商工会キャラクター制作依頼

新しい「智恵子ちゃん」を一緒に作りませんか?/福島県・地元商工会より

■ 募集概要
地元商工会では、これまで活用できていなかった旧キャラクター「ちえこちゃん」をリニューアルし、地元を盛り上げるキャラクターとして生まれ変わらせたいと考えています!
すでに過去に制作された着ぐるみがあるため、髪型や服装の変更にはある程度対応できますが、原型にとらわれず大胆なリデザインでもOK!

■ 「ちえこちゃん」について
智恵子ちゃんは、福島県二本松市出身の詩人・高村智恵子さんをモチーフにしたキャラクターです。
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■ リニューアルの方向性
 ・ファミリー層や若者向けに親しまれるデザイン
 ・インパクト・ユーモアのある雰囲気
 ・ギャル風、ゆるキャラ風など、個性的なアイデア大歓迎!
 ・旧デザインの要素を少し残していただけると嬉しいですが、大きく変更しても構いません!
■ 募集内容
 ・作成数:1点
 ・デザインサイズ:特に指定なし
 ・カラーイメージ:ピンク系(かわいく、若々しく、女性らしい印象)
 ・納品形式:JPG
 ・用途:チラシ、販売促進用のグッズなど
 ・商用利用:あり
 ・二次利用:未定・相談希望
■ 選考方法
 ・応募時にラフスケッチやイメージ画像(下書きでOK)を添えてご提案ください。
 ・商工会メンバーで検討し、正式にお願いする方を決定いたします。
■ 希望する対応
 ・急ぎのプロジェクトのため、スピード感を持ってご対応いただける方
 ・デザイン作成に不慣れな担当者が多いため、丁寧にコミュニケーションできる方

■仕事の概要
 固定報酬制 10,000円 〜 30,000円
 納品希望日 2025年06月02日
 応募期限  2025年06月02日

ちえこちゃん」は、智恵子の故郷・福島県二本松市のあだたら商工会さんで、平成30年(2018)に制定されたゆるキャラです。
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X(旧ツィッター)に「ちえこちゃん@福島県二本松市」というアカウントが作られ、智恵子生家や智恵子記念館、都内の福島県アンテナショップなどに出没した様子が上げられていました。
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ところが、その後、コロナ禍もあり、出番が激減。
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そして要項にある通り「これまで活用できていなかった」という事態に。X(旧ツィッター)投稿も令和4年(2022)を最後に途切れてしまいました。

「もったいないな」と思っていたのですが、このたび元のキャラクターを生かしつつ、新たなデザインの公募を行い「地元を盛り上げるキャラクターとして生まれ変わらせたい」だそうで、喜ばしい限りです。

募集期間が短いのですが(5月27日(火)から始まり明後日〆切)、それでも既に20件近くの応募があったそうです。

「我こそは」と思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

賢治祭も大変さかんだつたと承り、よろこびました、いろんな人からその様子を書いてまゐりました、十月末には小生も十和田にまゐり、帰途花巻に寄るつもりでをります


昭和28年(1953)10月1日 宮沢清六宛書簡より光太郎71歳

「十和田にまゐり」は、智恵子の顔を持つ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の除幕式参加のためです。昭和20年(1945)に岩手に疎開後、「乙女の像」制作のため、前年に東京中野の貸しアトリエに入るまでは、ほぼ毎年参加していた「賢治祭」。現在も賢治命日の9月21日に行われています。

この年、参加出来なかった光太郎ですが、当会の祖・草野心平に托してメッセージを寄せ、当日は心平がそれを代読しました。これまで光太郎生前に活字になった記録が見あたらず、草稿からの収録で『高村光太郎全集』に「一言」の題で収められていましたが、地方紙『花巻新報』に載った会の開催を報じる記事中に全文の掲載を確認しました。

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明後日のイベントですが、昨日になってネット上での情報に気がつきましたので……。

大人のための朗読ライヴ

期 日 : 2025年6月1日(日)
会 場 : 磯部生涯学習センター 三重県志摩市磯部町迫間878−9
時 間 : 13:00開場 13:30開演
料 金 : 無料

プログラム
 『朝のリレー』 谷川俊太郎/朗読:花笑み
 『グチャグチャ飯』 佐藤愛子/朗読:江坂淳子
 『ヤギとライオン』 トリニダード・トバゴの民話/ストーリーテリング 森本時子
 『智恵子抄』 高村光太郎/朗読:牧野範子
 『驟り雨(はしりあめ)』 藤沢周平/朗読:岡野秋子
 「オーシャンボーイズ」演奏会 (男性デュオ・フォークソング・ニューミュージック)
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「志摩市での朗読会」というのが記憶に残っており、調べたところ、平成25年(2015)にも同じ団体さんの同じ方がやはり「智恵子抄」朗読をなさっていました。ありがたし。

昨日ご紹介したアニメ「花は咲く、修羅の如く」も朗読を題材としたものですし、朗読は大ブームとはいえないものの、根強い人気があるのでしょう。

光太郎自身も自作の詩の朗読をたびたび行いました。戦後の昭和27年(1952)、ラジオ放送のために花巻温泉松雲閣で詩人の真壁仁との対談が録音され、その終了後に光太郎の発案で「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」の三篇を光太郎自身が朗読した音源がNHKさんに残っています。

ただ、光太郎の自作詩朗読は戦時中に行われることが多く、愚にもつかない翼賛詩がほとんどでした。そのあたりも戦後の7年間の蟄居生活を送ることになった要因の一つでしょう。

また、やはりラジオで光太郎詩の朗読を行い、光太郎とも面識のあった盛岡出身の照井瓔三(栄三)の著書『国民詩と朗読法』(昭和17年=1942)に以下の序文を寄せています。

 最近詩の朗読が日本全国のあらゆる青年層の間に歓び迎へられてゐるといふ事を聞く。民族の大いに動く時、まづ詩精神の鬱勃が起り、その発現としての詩が求められ、詩そのものへの共感合体に魂の喜を人人が経験するに至るのは当然である。詩精神の発揚は即ち民族主義の溌剌を意味する。今日人が詩を読んで詩への共感を熱望する実状を見聞して、私は限りなき心強さを感ずる。
 詩を朗読するといふ事は人が詩を熱愛するのあまりに起こる衝動である。われにもあらず声に出るのである。その朗読をきく者は音響といふ要素の力に変形した詩の力に打たれる。詩は朗読といふ音響によつて淘汰され、洗練される。朗読のゆるがせに出来ないわけが此所にある。朗読技法の大切なわけも亦此所にあるのである。その技法の指針を示さうとするのが此書である。

戦時中の馬鹿馬鹿しい(というか、罪深い、というか)翼賛詩ということを考えなければ、特に後半部分「詩を朗読するといふ事は……」以下云々(「でんでん」ではありません、「うんぬん」です)、なるほど、と思わせられる内容ですが。

ちなみに照井は昭和20年(1945)5月の空襲により、東京で亡くなりました。

詩の朗読が妙な方向に利用される、そうした時代が再び来ないことを祈って已みません(「いません」ではありません、「やみません」です)。

【折々のことば・光太郎】

東京の夏には閉口、来年の夏は山で過さうと思ひました、


昭和28年(1953)9月25日 北川太一宛書簡より 光太郎71歳

めっぽう夏の暑さに弱かった光太郎、花巻郊外旧太田村との二重生活を目論みました。結局、それが実現することはなかったのですが……。

今年1月から3月にかけて、地上波日本テレビさんなどで放映されていたアニメ「花は咲く、修羅の如く」のBlu-rayディスク上巻を入手しました。
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高校の放送部員たちの青春を描いたもので、原作・武田綾乃氏、むっしゅ氏作画のコミックが原作で、令和4年(2022)に単行本第1巻が集英社さんから発売されています。

ディスクには全12話中の第6話までが収録されており、第1話で光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が扱われています。
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「修羅の如く」という題名の通り、宮沢賢治の「春と修羅」も。
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ディスク1枚と、ブックレットが付いています。ブックレットには原作の武田綾乃氏によるオリジナルのスピンオフ短編小説「高架橋橋脚下」が収められています。

製品詳細は以下の通り。

「花は咲く、修羅の如く」Blu-ray上巻

発行日 : 2025年4月30日
著者等 : 武田綾乃・むっしゅ・集英社・すももが丘高校放送部
版元等 : キングレコード
定 価 : ¥20,900(税抜価格:¥19,000)
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ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

この頃住所定まらず、予定もはつきりしません。今月中か十月には東北へまゐりますがどの位そこに居るか、其時にならないと分りません、冬に又東京に来たいと思つてゐますけれど。


昭和28年(1953)9月10日 川島たかし宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も完成し、翌月に行われるその除幕式で関係者に配付する記念メダルも仕上げ、エアポケットのような空白の時間が生じました。

当初予定では、前年まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に帰るつもりでしたが、医師から止められたこともあり、寒い時期には東京、それ以外は太田村と、二重生活も考え始めましたが、具体的にはどうするかと思案中です。そこで「住所定まらず」としています。

都内から演奏会の情報です。

第二十二回 二期会日本歌曲研究会演奏会

期 日 : 2025年6月7日(土)
会 場 : 旧東京音楽学校奏楽堂 東京都台東区上野公園8番43号
時 間 : 12:30 開場 13:00開演
料 金 : 全席自由 4,000円

出演
 <ソプラノ> 阿部麻子 木内弘子 黒川京子 品田昭子 柴田百代 武かほる
        鳥養和歌子 中村良枝 福成紀美子 毛木香保里
 <メゾソプラノ> 草西富貴子
 <バリトン> 馬場眞二
 <ピアノ> 髙木由雅 森裕子

演奏予定曲目
 山田耕筰 作曲 病める薔薇/南天の花
 斎藤佳三 作曲 ふるさとの
 平井康三郎 作曲 茉利花(まつりか)の/小面幻想
         歌曲集「日本の笛」より 夏の宵月 野焼の頃
 中田喜直 作曲 「”マチネ・ポエティク”による四つの歌曲」より 3. 髪
 武満徹 作曲 死んだ男の残したものは
 三善晃 作曲 「聖三稜玻璃」より 1. いのり 3. 青空に 4. ほんねん
 蒔田尚昊 作曲 「智恵子抄」より Ⅱ. あどけない話 Ⅴ. レモン哀歌
 加賀清孝 作曲 歌曲集Ⅳ「ハイゼのイタリア詩集(邦訳)による7つの歌」より
         2. あなた その気弱な一言で 5. 彼が歌ってるの 月明かりのおうちの前で
         6. きのう真夜中に起きたら
 朝岡真木子 作曲 さくらの はなびら
         まど・みちおの詩による組曲「リンゴを ひとつ」より 3. 貝のふえ
 木下牧子 作曲 「竹久夢二の詩による7つの歌」より
         3. ゆふぐれがたに 6. ジョウカア 7. あなたの心
 千原英喜 作曲 歌曲集「ありがとう」―谷川俊太郎の4つの歌―より
         1. 誰もしらない 4. ありがとう
 松下倫士 作曲 うたを うたうとき
 <委嘱作品>
 「音楽四章」前田佳世子 曲 / 谷川俊太郎 詩
   1.音楽の時 2. ただそれだけの唄 3.ないしょのうた 4.音楽
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故・蒔田尚昊氏作曲の歌曲集「智恵子抄」から、第二曲「あどけない話」と第五曲(最終曲)「レモン哀歌」がプログラムに入っています。歌われるのは黒川京子さん。今回はご出演なさいませんが、お仲間で、朝岡真木子氏ご作曲の「組曲 智恵子抄」を歌われた清水邦子さんともども、今年の1月31日(金)、2月1日(土)と、花巻の光太郎・宮沢賢治関係スポットをご案内させていただきました。そんなこんなで招待券を頂いてしまっています。恐縮です。

蒔田氏の「智恵子抄」、公刊されている楽譜集では、全音さんの『日本歌曲集3』(昭和45年=1970)に「あどけない話」が収められているだけですし、市販のアナログレコードやCD等にも収録されていません(見落としがなければ、ですが)。YouTube上には令和3年(2021)に紀尾井ホールさんで開催された「蒔田尚昊 歌の世界〜アヴェ・マリアからウルトラマン賛歌まで〜」(コロナ禍のため無観客)、同5年(2023)に渋谷区文化総合センター大和田さんで開催の「「男声合唱のためのウルトラセブン」 楽譜出版記念コンサート」での演奏などがアップされています。前者は大野光彦氏、後者は加耒徹氏の歌唱です。他に、野々村彩乃氏という方の演奏も上げられていますが、こちらは寡聞にしていつどこで収録されたものか不明です。

ちなみにウルトラ系がタイトルに入っているのは、蒔田氏が「冬木透」名義で「ウルトラセブン」をはじめとするウルトラ系の楽曲を作曲されているためです。

今回の会場は上野公園内の旧東京音楽学校奏楽堂さん。東京音楽学校は、光太郎の母校・東京美術学校とともに戦後に東京藝術大学さんへと改組され、ホール自体も藝大さんを離れて台東区さんに所管が移りましたが、創建当初の姿を残してリノベーションされ、味わい深い建造物です。重要文化財指定もされています。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今日はメダル原型の石膏を渡して、百五十個作成を御依頼しました、経四寸、片面のメダル、一個分五〇〇円の由につき、県庁の金で半金三七、五〇〇円お渡し致しました。


昭和28年(1953)9月10日 牛越誠夫宛書簡より 光太郎71歳

「メダル」は、10月に行われる生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に記念品として贈られる「大町桂月メダル」。十和田湖の景観美を広く世に紹介した大町桂月は、道路整備等に腐心した元青森県知事の竹田千代三郎、元法奥沢村長の小笠原耕一とともに「十和田の三恩人」と称され、「乙女の像」は三恩人の顕彰という意味合いもありました。
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結局、このメダルが光太郎彫刻最後の完成作となりました。

『日本経済新聞』さんに広告が出ました。
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販売元のアートデイズさんで出しているカラーパンフレットがこちら。
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光太郎の父・光雲の木彫を原型としてブロンズに写した工芸品ですね。新商品かと思いきや、そうでもなく、少し前から販売されているようです。だいぶ以前からというわけでもなさそうですが。

「白象半跏 普賢菩薩(髙村光雲作)」ーー理知の普賢、聖なる白象、 巨匠の妙技をここに

● 作品寸法:高さ21×幅25.5×奥行15センチ
● 材質:ブロンズ(本金粉手彩色仕上げ)
● 題字・落款入り高級桐箱
● 詳細解説書付
● 黒塗り台座
● 価格:220,000円(本体200,000円+税)
● 本品は受注生産ですのでお届けまでにお時間をいただく場合もあります。ご了承ください。

慈愛溢れる菩薩像と生気みなぎる白象。その静と動が織りなす造形の美を、光雲がもてる技の限りを尽くして彫り上げた傑作。まさに近代彫刻の祖・光雲の技を堪能できるブロンズ作品です。どうぞお手許でご堪能ください。

理知の普賢、聖なる白象、 巨匠の妙技をここに。聖獣の象徴といわれる白い象に乗った普賢菩薩。普賢の「普」は、「あまねく」という意味で、ありとあらゆる世にあらわれて、仏の慈悲と理知により、人々を救う賢者であることを意味しています。また、長寿、延命の大きな功徳により、古来より特に民衆の篤い信仰を集めてきました。

作品と桐箱、光雲の落款2つが揃い、光雲原型による真正の作品であることを証明。所定鑑定人である高村家の承認により、作品本体の背部には光雲の落款が写されています。さらに、桐箱の蓋裏には高村家の正式許可を受けた証として、光雲の落款が押印されています。これにより、本品が高村光雲の原型により制作された優れた仕上がりの真正オリジナル作品であることを証明しています。
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光雲作の普賢菩薩像というのは、記憶にありませんでした。手許にある作品写真集や図録の類を見ても、見落としがなければ普賢菩薩像は掲載されていません。ただ、普賢菩薩の化身とされる「江口の遊君」像は京都の清水三年坂美術館さんに収蔵されており、現物を拝見いたしました。やはり白象に乗っています。
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昨日も書きましたが、自身が篤く信仰していた観音像だけで生涯に百数十体彫ったという光雲ですので、その他の像を含めるといったいどのくらいその作があるのか、見当もつかない状態で、意外と一般的な普賢菩薩像があっても何ら不思議ではなく、むしろ無い方がおかしいくらいです。

「おやっ」と思ったのは、普賢菩薩さまの髪の毛の処理の仕方。光雲令孫の藤岡貞彦氏から花巻市に寄贈され、花巻高村光太郎記念館さんで2回展示が為された「鈿女命像」とよく似ています。
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切れ長の目の表現も心なしか似ていますね。

さて、ご興味おありの方、または信心深く普賢菩薩さまを篤く信仰されている方(ちなみに十二支の辰年・巳年の方は普賢菩薩さまが守り本尊という俗信もあります)、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

模様がへなどしてゐたため、メダルの完成が遅れてゐましたが、お話の鋳金家に原型を見ていただいて予算を立てたいので、その鋳金家に小生アトリエまでおいで下さるやう貴下より御通知下さるやうお願ひいたします、


昭和28年(1953)8月31日 牛越誠夫宛書簡より 光太郎71歳

「メダル」は、10月に行われる生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に記念品として贈られる「大町桂月メダル」。元々「乙女の像」は、十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念かつ、桂月ら「十和田の三恩人」を顕彰するというコンセプトでした。
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小品ながら、完成作としては光太郎最後の彫刻作品となりました。

何度も書いていますが「乙女の像」を「光太郎最後の作品」とする記述が、出版されている様々な書籍、ネット上の書き込みなどに溢れかえっていますが、違いますのでよろしくお願いいたします。SNS等でも十和田湖を訪れ、「乙女の像」の写真等アップされている方が時々いらっしゃり、実にありがたいのですが、そこで「高村光太郎最後の作品」と書かれていると、「ちげーよ!」というわけで「いいね」もつけられません。

光太郎の父・光雲作の木彫の特別ご開帳です。

後醍醐院法躰御木像 特別開帳

期 日 : 2025年6月~2026年1月までの日曜日・月曜日
会 場 : 鎌倉覚園寺 神奈川県鎌倉市二階堂421
時 間 : 13:30~
料 金 : 高校生以上2,000円 未就学児を含む子供1,500円
申 込 : 完全予約制 覚園寺HPより

後醍醐天皇御像髙村光雲作特別開帳をいたします。愛染明王さま修繕に伴う初の試みです。

このたび覚園寺 愛染明王像の赤色剥落が目立ちはじめた為、修繕することにいたしました。今回の工期はおよそ一年です。万全なおもどりを、どうぞご期待下さい。愛染堂の中央尊がお留守になる事態の対処を覚園寺役員で話し合い、愛染明王様の留守を護り、皆さまに安心と生きる喜びを感じていただきたいと願い、これまで大切に祈り護持してきた秘仏を開帳することにいたしました。今回開帳いたします尊像は、小さな像ですが、愛染明王さまと同様に金剛杵と金剛鈴をもち、中世の仏教文化にも深く寄与された 後醍醐天皇 御像 髙村光雲 作です。後醍醐天皇は、覚園寺文書巻頭に記されているとおり、覚園寺を勅願所「金剛宝殿」と名付け庇護なさいました。本堂 薬師堂を再建された足利尊氏公とも縁の深い天皇です。時代を拓き悩み戦った人物ゆかりの地 覚園寺で秘仏として大切に護持してきた意義にどうか思いを馳せてご参拝ください。
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観音像だけでも生涯に百数十体彫ったという光雲ですので、その他の像を含めるといったいどのくらいその作があるのか、見当もつきません。中には弟子がおおむね作り、仕上げを光雲が行って光雲の銘が入っているいわゆる工房作も多いのですが。

そこで、「ここにもあったのか」という例があとからあとから検索の網に引っかかります。過日、拝観してきた同じ神奈川県の大山寺さんの三面大黒天像などもそうでしたし、今回の覚園寺さんの後醍醐天皇像というのも、まったく存じませんでした。

さすがに秘仏(厳密には仏像ではありませんが)扱いで、フライヤーにはお厨子画像のみ。それがかえって「これはぜひ見てみたい」と思わせる効果絶大ですね。
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早速、拝観申し込みを致しました。皆さまも是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

わざわざ御上京来訪されたののにお構ひも出来ず、却て御散財をかけてすみませんでした、 先生におめにかかると山口部落の全貌が眼に見えて来てなつかしい限りでした、いただいた桃をたべながら思にふけりました、 あの日が暑い日の終らしく翌日から急に涼しくなり、しのぎよくなりました、岩手から涼風が来たやうです、

昭和28年(1953)8月26日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

浅沼政規は、前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。出張か、あるいは夏休みということで上京し、光太郎に会いに来たようです。桃は浅沼が自宅で栽培していたものとのこと。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京しておよそ10ヶ月、そろそろ太田村が懐かしく感じられるようになったようです。

現在、「春の特別展 実篤の肖像」を開催中の調布市武者小路実篤記念館につき、『東京新聞』さんが大きく取り上げました。光太郎にも触れて下さいました。特別展のレポートと言うよりは、館自体の紹介です。毎月第4木曜に掲載の、「首都圏の文学館を訪ね、作家や作品にゆかりのある場所を巡」る、「本を読もう、街に出よう」という連載です。

〈本を読もう、街に出よう〉 武者小路実篤 人間輝け ロマンチストの願い

 「君は君 我(われ)は我也(なり) されど仲よき」
 「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲く也」
 ひと昔前に旅館や食堂で、そんな言葉とカボチャや可憐(かれん)な花の挿絵が入った色紙をよく見かけた。今月、生誕140年を迎えた武者小路実篤だ。味のある文字と、身近な野菜や植物を題材にした素朴な画風は多くの人に親しまれてきた。
 作家として成功する逸材は幼少期に学業優秀であることが多いが、実篤は例外。しかも、作文と図画が苦手だった。ところが10代後半にロシアの文豪、トルストイに影響を受け、夏目漱石を愛読するようになり、「社会に影響力のある作家になろう」と決意した。
 絵を描きはじめたのは38歳と遅い。生まれたばかりの長女がかわいく、絵心のある妻が娘をサラサラと描く姿を見て「私も描こう」。スケッチや淡彩画、そして油絵も独学で身に付けた。子や孫に「やりたいことを見つけて、頑張って続けよう」と諭した。それを自ら心掛けていたのだろう。
 「理想的社会」と題した評論で、その柱を「長生き」「個性を発揮出来る」「喜びを感じて生きられる」とした。人権の尊重や愛、友情―と人間社会に理想を求めたロマンチストだったようだ。実篤が中心となって創刊した雑誌「白樺(しらかば)」を愛読した作家、芥川龍之介は彼を「道徳的天才」と呼んだ。詩人、高村光太郎は実篤作品に触れると「おのずと明るくなり、人間を肯定しなければならなくなってくる」と話していた。
 白樺が成功した実篤は「人間らしく生活できる理想郷」をつくろうとした。1918年、宮崎県木城村(現・木城町)に「新しき村」を開村。出自に関係なく平等に農耕し、芸術や演劇などの活動を通じて自由で文化的な共同体を目指した。自身も6年間暮らし、農作業の傍ら小説を書き、今も版を重ねるロングセラー「友情」を発表。実篤の経済的支援もあって最盛期に村民は50人を超えた。その後、ダム建設で水没することになり、1939年に埼玉県毛呂山町に新設された村に一部の村民が移転。村民は減ったが、今も理念は受け継がれている。
  その活動を、白樺の同人だった作家、有島武郎は「失敗にせよ成功にせよあなた方の企ては成功です。それが来るべき新しい時代の礎になる事に於(おい)ては同じです」と評価していた。
 実篤の人物像に触れるこんな逸話がある。1939年に発表した「愛と死」で将来を誓い合った2人の悲恋を描いた。同作に取り組んだのはその2年前に日中戦争が勃発し、徴兵されて戦死した多くの若者たちがいたからだ。戦時色が強まる中、実篤は「愛する人を失う人の気持ちを書こう」と机に向かい、気持ちが高ぶっては落涙した。涙の跡がある原稿が今も残っている。
  実篤は55年に現在の調布市若葉町に転居し、76年に90歳で亡くなった。邸宅と庭は同市に寄贈されて実篤公園となり、武者小路実篤記念館も建てられた。特別展「実篤の肖像」を開催している同館の学芸員、佐藤杏さんは「ワークライフバランスといった言葉がない時代に実篤は働き方改革を進め、人間性豊かな社会をつくろうとした。前向きに、正直に生きた実篤の作品や名言は、格差や貧困が問題となっている今こそ味わい深い」と話す。
 特別展は6月8日まで。原則月曜休館。敷地内の旧実篤邸は週末と祝日に公開。
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武者小路実篤 むしゃこうじ・さねあつ
 1885年、東京生まれ。華族の家系で2歳の時に父が結核で死去。学習院高等学科を卒業した1906年に東京帝国大哲学科入学。その後中退し、学習院時代の同級生、志賀直哉らと1910年に雑誌「白樺」を創刊。人間賛美を理想とする白樺派の中心人物に。51年、文化勲章受章。代表作に「お目でたき人」「真理先生」「一人の男」など。

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左:武者小路実篤 右:ロビーに展示されている実篤の手形のレリーフ
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自伝小説「一人の男」の自筆原稿も展示
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緑豊かな実篤公園にある武者小路実篤の銅像
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展示されている武者小路実篤の書画
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晩年を過ごした邸宅の隣接地にある武者小路実篤記念館

引用されている光太郎の武者評は、光太郎最晩年の昭和30年(1955)、雑誌『文芸』第12巻第12号に載った「埴輪の美と武者小路氏」の一節です。ちなみに『文芸』のこの号は、昨年、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催された「ハニワと土偶の近代」で、そのページを拡げて展示されました。
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埴輪の持つ素朴で原始的な美を「明るく、清らかで、単純で、惑うところのないこの美」と述べ、文芸の分野でも自らも同人に近い位置にいた白樺派が台頭した頃、「埴輪的性格がまだもどつて来た」とし、「武者さんが現われたからであり、武者さんは埴輪の美を、造型ではなく身につけたものとして我が国に現われたのである。我が国本来の姿が、ここに始めて立還つたと言つても過言ではなかつたのである」と続けています。その後、『東京新聞』さんに引用された箇所を含む次の一節。

 武者さんから沁み出るものを感取していると、人は自ずと明るくなり、人間を肯定しなければならなくなって来る。大きな考えでものを包み込んでしまうから、武者さんには小さないざこざが起らないのである。

その後も延々と武者を手放しで賞讃しています。

光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居中も、山小屋に武者の色紙を飾っていました。
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医は①
いずれの写真にも左上に写っています。

ついでというと何ですが、武者からの光太郎評も。

 高村光太郎君が日本に居てくれることは何となく嬉しい。滅多に逢はないし、作品も彫刻の方は暫く見ない。しかし高村君が居ることは何となく信頼が出来る感じだ。
 個人としてはこの頃少しも逢はない。訪問したい気はあるのだが、遠いのと、何かと用があつて、時間が足りないので、高村君の所までゆく閑がないが、しかしいくら逢はないでも、生きてゐてくれるだけで嬉しいのだ。珍らしい存在である。
(略)
 僕は高村君の木彫に一番愛着をもつてゐる。
(略)
 しかしそれ等以上に、人間が好きだと言つていゝと思ふ。要領を得ない感じがよく、何んでも言つて、わかつてもらへさうな気がする。実に気らくに本気な話の出来る人である。又常に夢みてゐる人で、その夢が実に面白い。

(「高村光太郎君に就て」 昭和16年=1941 雑誌『道統』第4巻第9号)

 高村君が当時の日本の彫刻界の事を実に痛快に罵倒した評論を読み、胸のすく思ひをしたのは事実で、あんな痛快な批評はなかつたと思つてゐます。荻原碌山だけは認めて居たと思ひますが。それが痛快すぎて、たうとう高村君は彫刻の方では芸術院会員になれなくなつたのではないかと僕は思つてゐるのですが、事実かどうかは知りません。何しろ痛快なものでした。
 白樺でロダン号を出す時、勿論高村君に原稿をたのみ、承諾を得ていゝ原稿をもらつて喜びました。
 当時僕はよく高村君のアトリエを訪問しました。高村君は作品を見せようと自分の方からはしない人なので、僕は勝手に許しを得てまいてある布をほどいて見たものです。それが僕の特権でもあるやうに思つて、言ひたい事を言つて、仕事を大いにするやうにすゝめたと思ひます。
(「白樺と高村君」 昭和31年=1956 雑誌『文芸』臨時増刊号『高村光太郎読本』)
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長期間にわたって頻繁に会っていたというわけではない二人ですが、お互いにお互いを信頼し、敬愛していたのがよく分かりますね。

そんなわけで、調布市武者小路実篤記念館さん、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おハガキいただきましたがやはり秋冷の頃までは覚束なく、まるでダメとお思ひください。今、暑さで閉口、とても出来さうもありません。

昭和28年(1953)7月28日 高藤武馬宛書簡より 光太郎71歳

高藤は雑誌『言語生活』主幹。その原稿依頼に対する断りの返信です。若い頃からの夏場は電池切れになる性向(笑)は、最晩年まで続いたようです。

信州安曇野の碌山美術館さんで開催されている「春季企画展 特別展示 智恵子紙絵 高村智恵子紙絵 高村光太郎詩稿」につき、報道が為されています。

『信濃毎日新聞』さんに折り込まれるフリーペーパー『MGプレス』さん。

安曇野・碌山美術館で「智恵子紙絵」展 6月22日まで

 安曇野市穂高の碌山美術館は6月22日まで、春季企画展「智恵子紙絵」を敷地内の杜(もり)江(え)館で開いている。碌山の友人で詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の妻・智恵子(1886~1938年)が制作した「紙絵」を3期に分けて展示。智恵子にまつわる光太郎の詩の原稿も並べている。
 洋画家だった智恵子は40代で精神を病み、後年入院した病室で、光太郎が持参した千代紙や色紙(いろがみ)をマニュキアばさみで切り抜いて別の紙に貼る「紙絵」を熱心に制作。対象は花や食膳の皿の中身などで、その数は千数百点に及んだという。
 今回は個人所有の20点ほどを借りて展示。現物は経年劣化で退色が見られるため、身内が撮影した写真も添えた。撮影年は作品によって違うが、どれも現物より色がはっきりしている。
 学芸員の武井敏さんは「智恵子の紙絵は小作品なのに存在感がある。海外でも評価されるのではと思うが、残念ながら年を追うごとに退色していく。この機会に見てほしい」。
 現在は2期目の展示で「器に魚」「シクラメン」など。6月初めからは「アジサイ」他を飾る。
光太郎の原稿は、詩集「智恵子抄」に収録された「あどけない話」や「レモン哀歌」の他、碌山の死を悼んで書いた詩「荻原守衛」などが並ぶ。
 午前9時~午後5時10分。一般900円、高校生300円、小中学生150円。同館TEL0263・82・2094
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智恵子の紙絵は元々が折り紙用のものや包装紙、さらには上記の画像に写っている「蟹」などは台紙が封筒だったりと、ちゃんとした紙が使われていないものも多く含まれています。そのため、ものによっては褪色が激しいものも。そこで入れ替えながらの展示となっています。

来月から展示されるという「アジサイ」も。今回のフライヤーにもメインで使われ、一昨年にやはり碌山美術館さんで開催された「生誕140周年高村光太郎展」でも展示されましたが、かなり色あせてしまっていました。
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ちなみにこの「アジサイ」、兵庫県の神戸文化ホールさん(昭和48年=1973竣工)外壁の巨大壁画の原画となったものです。紫陽花は神戸市の「市花」だそうで、同ホール建設の際の神戸市長が、光太郎と交流のあった彫刻家・柳原義達と同級生で、そこから人脈をたどって実現しました。
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同ホール、老朽化のため令和10年(2028)に現在の大倉山地区から三の宮地区に移転されるそうですが、この壁画は何とか残して欲しいものです。

さて、碌山美術館さんでの「智恵子紙絵」展、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

 檜材、とても見事なものおとどけ下さつて感謝してゐます。檜の膚の香りプンプンする大作をモニユマン製作後に張切つてやりたいと念願したくなりました。
昭和28年(1953)6月 西倉保太郎宛書簡より 光太郎71歳

「モニユマン」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。

詩人の西倉が、友人の材木商・浅野直也から光太郎への贈り物だった檜材を届けてくれたことに対する礼状の一節です。ただ、結局はこの木材を使っての彫刻は出来ずに終わったようです。もはやそんな余力は残っていなかったようで……。

一昨日、六本木の国立新美術館さんでの第120回記念 2025年太平洋展拝観後、品川に足を向けました。次なる目的地は品川駅近くのキヤノン S タワー内にあるキヤノンオープンギャラリー。こちらで「東京写真月間2025 国内企画展 髙村 達 写真展 Re Flowers」が開催中です。
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髙村達氏は、長男でありながら家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ光雲三男にして鋳金分野の人間国宝・髙村豊周令孫の写真家です。お父さまの故・規氏も写真家でした。

ここで写真展詳細情報を。

東京写真月間2025 国内企画展 髙村 達 写真展「Re Flowers」

期 日 : 2025年5月20日(火)~6月23日(月)
会 場 : キャノンオープンギャラリー1 港区港南2-16-6 キヤノン S タワー2F
時 間 : 10時~17時30分
休 館 : 日曜日
料 金 : 無料

 本展は写真家 髙村達氏による写真展で21点の作品を展示します。東京写真月間実行委員会が主催する「東京写真月間2025」の国内企画展の一環で、「写真の力で伝えよう 未来に希望を」をキャッチフレーズにSDGsを意識した写真展のシリーズVol.4として開催します。
 なお、本年の国内企画展は「写真で伝えようSDGs」を継続テーマとして、日頃写真を通して様々なアプローチでSDGsを表現している7名の出展者が選出され、都内6会場で写真展を開催します。展示作品は日本写真協会会員を対象にした公募形式で作品を募集しました。いずれも多面的な視点で「SDGs」についての取り組みが表現された写真展です。
 本会場の作品はすべてキヤノンの大判プリンター「imagePROGRAF」を使用してプリントし、展示します。

作家メッセージ
 高精細な表現と長期保存のプリント作品を意識するようになり風景写真と同じくマクロ撮影に興味を持ち、自然の中の緻密な植物の模様や表情をスタジオで撮影した。植物のディテールが撮影できた時、植物に対する興味が深まり散歩をしながら落ち葉やお花など植物を拾いノートに挟んだ。背景も金属の板に模様を描いては削り外で雨や風にさらして錆を繰り返して作りライティングをして僅かな陰影を活かし撮影をしました。今回の「Re Flowers」押し花は自然の中のお裾分けの一部であり今後も撮り続けていきたいテーマです。
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達氏が副会長を務められている日本写真家協会さんとしての「国内企画展 SDGsシリーズvol.4 写真の力で伝えよう SDGs」の一環という位置づけだそうです。

さて、レポートを。
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入口から入ると、基本的に会場内は暗く、黒い壁をバックにして各作品にスポットが当てられているという構成。藤城清治氏の影絵のような。と言っても真っ暗というわけではありません。こういうやり方もありなんだな、と思いました。
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来場の方に開設されている達氏。この後、当方も詳しく説明を拝聴しました。

基本、風雨に晒して錆びさせた鉄板をバックにし、散ったり朽ちかけたりした葉や花弁などを置いて撮影されているそうです。ものによって拡大率等が異なるようですが、マクロ撮影が中心ですね。そのデータをキャノンさんのプリンタを使って、漆喰をシート状に加工した特殊なインクジェット紙にプリントアウトする「フレスコジクレー」という技法です。それによって顔料が漆喰に浸透して耐久性が増し、褪色が防げるとのこと。中世ヨーロッパのフレスコ画に近いやり方ですね。
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参観された方から「智恵子の紙絵に似ていますね」という声が寄せられたそうです。なるほど、と思いました。

和紙にプリントされた作品も。
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実際に上記の方法で制作された作品そのものも1葉、いただいて参りました。ハガキ大の小さなものですが。
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もはや一般的な「写真」という概念には収まらない感じですね。絵画や彫刻などの世界でも、新しい素材が開発されたり従来見られなかった手法が取り入れられたりと日進月歩ですが、写真の分野でもそうなのだと思いました。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間の絹地の小さい方に「わが山に」のうたを書きました、小包にするのが厄介なので中西さんの奥さまに托しました いつでもお渡し出来ます、


昭和28年(1953)7月29日 奥平英雄宛書簡より 光太郎71歳

奥平英雄は戦時中から交流のあった美術史家。この頃、東京国立博物館に勤務していました。

書もよくした光太郎、奥平には書画帖『有機無機帖』をはじめ、多くの書を進呈しています。「わが山に」は短歌。複数の揮毫例があり、「わが山に」ではなく「吾(われ)山に」となっているものが多く存在します。
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上記は奥平に贈られた物ではありません。「吾山に 流れてやまぬ 山みづの やみがたくして 道はゆくなり」と読みます。

また、「道はゆくなり」が「この道はゆく」、「あしき詩を書く」などとなっている異稿も存在します。

昨日は上京し、都内をふらふらしておりました。今日明日と、2日に分けてレポートいたします。

まず向かったのは六本木の国立新美術館さん。
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こちらでは、明治末から大正初めにかけて智恵子が所属していた太平洋画会の後身・太平洋美術会さんの「第120回記念 2025年太平洋展」が開催されています。
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智恵子が加入していた太平洋画会は、前身の明治美術会が明治22年(1889)の創設で、明治35年(1902)に太平洋画会と改称、第1回展が開かれました。そして120年前の明治38年(1905)に谷中清水町から谷中真島町に移り、本格的に活動開始だそうです。その年からまだ日本女子大学校在学中だった智恵子が同会に通い始め、正式に加入したのは同校を卒業した明治40年(1907)と推定されています。いずれも日本女子大学校で美術を教えていた松井昇の手引きと思われます。
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今回が第120回記念展ということで、そのあたりの歴史に関する展示が為されており、その拝見が大きな目的でした。
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幟(のぼり)や看板なども。さらに光太郎と交流の深かった石井柏亭の名も。
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ただ、谷中真島町も戦時中の空襲でやられ、現在の西日暮里に移転したためでしょう、戦前の資料などはあまり遺っていないようでした。以前に一度お邪魔して、智恵子の名の載った(「千恵子」と誤記されていましたが)名簿などを見せていただきましたが。

智恵子は明治45年(1912)の第10回展に「雪の日」「紙ひなと絵団扇」を出品。
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ちなみに隣に名のある池田永治は、駒込林町の光太郎アトリエ兼住宅の近くに住み、昭和20年(1945)5月14日(光太郎が花巻に疎開のため出発する前日)、その時着ていたチョッキに光太郎の揮毫を貰った人物です。
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智恵子や池田に直接関わる展示物は見あたりませんでしたが。

その後、通常の入選作等の拝見。

「先輩」智恵子の顕彰を様々な方面から行われている坂本富江氏。「会員秀作賞」だそうで、素晴らしい。
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能登の桜だそうで、「ほおお」という感じでした。

それから、以前にお邪魔した際お世話になった、同会事務局のお仕事もなさり、同会のX(旧ツイッター)アカウントの「中の人」・松本昌和氏。こちらは「記念賞」とのこと。
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西日暮里にある現在の同会研究所の向かいに鎮座まします諏方神社さんが描かれています。

たまたまでしょうが、彫刻の部では「道程」と題された作も。
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その他、染織や版画の作品も。

東京展は5月26日(月)まで、その後、福岡、大阪、名古屋に巡回だそうです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日は老人医学の大家である尼子博士に身体検査をしてもらひ、肋間神経痛の治療にかかりました。二三日うちにレントゲン検査をしてもらふことになつてゐます。中々山口に帰れないので困ります。


昭和28年(1953)6月30日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

「山口」は前年まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は帰るつもりで、ほとんどの家財道具や住民票は残したままでした。

尼子博士」は尼子富士郎。現在の浴風会病院さんの前身である浴風園の医長(のち、院長)でした。かつては駒込千駄木町に住み、その父・四郎は夏目漱石と交流があって、『吾輩は猫である』に「甘木先生」として登場します。富士郎も漱石に中学受験の際に英語の家庭教師をして貰いました。

結局、富士郎の診断は「重度の肺結核」。光太郎の余命、あと2年半余りです。

光太郎詩を取り上げて下さる朗読イベント、まず来週開催のものを。

朗読のつどい「高村光太郎『智恵子抄』」

期 日 : 2025年5月30日(金)
会 場 : 志津公民館 千葉県佐倉市上志津1672-7
時 間 : 14:00~15:00
料 金 : 無料
出 演 : 朗読サロンこおろぎの輪

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画像は佐倉市さんの広報誌「こうほう佐倉」から。

「こおろぎの輪」さん、市のボランティアセンターさんに登録されている団体で、公民館等での朗読会等、積極的になさっているようです。
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メンバーがかぶっているのでしょうか、「姉妹団体」として、広報誌の音訳録音などをなさっている「こおろぎの会」さんという団体も存在します。
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頭が下がりますね。

で、今回、「智恵子抄」から朗読をなさって下さるそうで、1時間みっしり光太郎。時間が取れれば行って来ようと思っております。お近くの方、ぜひどうぞ。

ついでというと何ですが、当会がらみの朗読イベントも今後、開催されます。

まず7月6日(日)、光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場となった東京都中野区のアトリエ保存の関係で、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」主催の朗読イベント。会場は中野区産業文化振興センターです。司会を当方が担当します。

詳細が未定でして、また追ってご案内いたしますが、今のところ、女優の一色采子さん、今年の連翹忌の集いで朗読を披露していただいたフリーアナウンサーの早見英里子さんと朗読家の出口佳代さんのコンビには朗読を、フルート奏者の吉川久子さんにはお仲間の方の朗読に乗せて演奏をお願いしてあります。また、詩人で朗読にも取り組まれている方々もそれとは別に。

それからやはり7月、仙台と花巻で。仮のフライヤーを載せておきます。
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昨年もお二人で仙台/花巻公演をやられた、朗読家の荒井真澄さんと箏曲奏者の元井美智子さんのコラボ。計4公演で、花巻のみ会場借り受けの都合で当会主催ということになっています(仙台は「後援」)。花巻高村光太郎記念館さんでも1公演やります。

ここに電子楽器・テルミンの大西ようこさんが加わって、先月、二本松の智恵子生家で「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」公演を行いました。

こちらもまた近くなりましたら詳細を出しますので、よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

右の七尺像二体の鋳造を貴下にお願いたしました事を心強く存じ居ります。八月末か九月始めまでに御完成願ひたきことはかねて申上げました通りであります故何卒よろしくお取計ひ願上げます。

昭和28年(1953)6月18日 伊藤忠雄宛書簡より 光太郎71歳

七尺像二体」は、生涯最後の大作にして智恵子の顔を持つ「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。前年10月に7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋を出、中野の貸しアトリエに入り、11月から制作開始。小型試作、中型試作、原寸大の手の試作と次々完成させ、本体の七尺像は3月5日から作業にかかり、6月1日には終わりました。光太郎にしては驚異的なスピードで、その裏には自らの死がそう遠くないという覚悟があったと思われます。

今日、5月20日は智恵子139回目の誕生日です。

その智恵子のソウルマウンテン、福島二本松の安達太良山では、一昨日、第71回山開きが行われました。

地元紙『福島民報』さん。

残雪を踏み、山頂目指す 福島県の安達太良山で山開き

 日本百名山の安達太良山(1700メートル)は18日、山開きした。約2100人の登山者は例年よりも豊富な残雪を踏みしめ、山頂を目指した。
 福島市の会社員佐藤泰則さん(55)は妻と登った。「雪が多く残り、普段と違う山の表情を見ることができて得した気分だ」と笑顔を見せた。
 安全祈願祭は、福島県二本松市のあだたら高原スキー場ランデブーで行われた。安達太良連盟会長の三保恵一市長、安達太良山観光大使でタレントのなすびさんらがシーズン中の無事故を願った。
 山頂付近は強風が吹き、予定していた「ほんとの空大声コンテスト」は中止となった。
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今年、初の試みとして行われるはずだった「ほんとの空大声コンテスト」は、残念ながら山頂付近の強風により中止されたとのこと。テレビユー福島さんのローカルニュース動画で山頂付近の映像等も見ましたが、これでは確かに無理だったかな、という感じでした。

そのローカルニュース。

4年連続“登られた山”東北ナンバーワン「安達太良山」で山開き

本格的な夏山シーズンを前に、福島県の安達太良山では山開きが行われ、大勢の登山客が山頂を目指しました。
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18日に山開きが行われた安達太良山。スキー場で行われた登山客の安全を祈る神事では、二本松市の三保恵一市長などが玉串を捧げるとともに、安達太良山観光大使のなすびさんが、「世界に誇れる山として、たくさんの方に来てもらえるよう盛り上げたい」と挨拶しました。
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登山のスタートとなる安達太良奥岳登山口には、朝からおよそ2100人の登山客が訪れました。
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強風でロープウェイが一時運転を見合わせ、予定より1時間ほど遅れて登山口に到着した登山客は、早速、それぞれのペースで山を登りはじめ、残雪や自然を楽しみながら山頂を目指しました。
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郡山市から来た親子「楽しい。風が本当に強くてあおられるなという感じがありました」
二本松市から来た親子「山頂まで行きたい」
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しかし、多くの登山客が山頂の一歩手前で引き返すことに。
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ストックなどを使って頂上までたどり着いた人は…。
本宮市から来た夫婦「今年は雪が多いですね、いつもよりも。今回が一番大変だったような気もする。すごく風は吹いていたが、山頂は最高です」
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東京から来た人「雪がきれいで、山頂はあまり景色が見られなかったが、良い経験になりました。また良い天気の時に登りに来たいと思う」
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また、山頂で予定していたイベントは、強風のため中止となりました。二本松市では今年、去年とほぼ同じ10万人の入山者を見込んでいます。
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その安達太良山、実はとても人気の山なんです。

■4年連続“東北ナンバーワン”

 登山情報などを提供する「YAMAP(ヤマップ)」というアプリやウェブサイトの利用者を対象に集計した2024年登られた山ランキングで、なんと安達太良山が、東北エリアで第1位となりました。安達太良山は、このサイトで4年連続第1位ということです。他にも、県内からは一切経山と磐梯山も4年連続でランクインしています。
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YAMAPによりますと、安達太良山はロープウェイがあるので気軽に登ることができること、また、秋の紅葉がきれいなこと。色づいた木々を楽しみたいと、登山者のおよそ3割が10月に登っているそうです。さらに、近くに温泉があること。登山の後にふもとの岳温泉などに入ることができるのも人気の理由だということです。
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強風などのため、かなりの方が山頂の一歩手前で登頂を断念して引き返したとのこと。「山頂の一歩手前……ああ、あそこか」と思いあたりました。令和元年(2019)の山開きの際、当方も山頂まで登りまして、山頂手前に難所があったのを思い出しました。その年は残雪はほとんど無かったのですが、一ヶ所だけけっこうきつい斜面が広範囲でアイスバーンになっていて、滑落の危険がありました。今年は更に残雪が多かったようで、ストックなどが無ければ確かに無理だったでしょう。

実は今年の山開きに参加するつもりもあったのですが、つい先日も二本松に行ったばかりですし、今週も他の場所にいろいろ行く予定もあり、パスしました。それで正解だったかな、という感じです。

おまけの部分、安達太良山が昨年の「登られた山」ランキング、東北エリアで第1位、それも4年連続ということで、非常に喜ばしく感じました。式典での安達太良山観光大使のなすびさんによる「世界に誇れる山として、たくさんの方に来てもらえるよう盛り上げたい」とのご発言どおり、さらにたくさんの方に「ほんとの空」を体感していただきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

配偶者に死なれるほど不幸なことはないと思ふので、大に同情しますが、今日の世の中では、戦争未亡人などが子供をかかへて勇敢に生活と闘つてゐる実状ですから、気を落さないで賢明に進んで下さい。

昭和28年(1953)6月8日 宮崎春子宛書簡より 光太郎71歳

春子は智恵子の姪にして、当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取りました。戦後になって光太郎が出雲の神となって詩人の宮崎稔と結婚、しかし、その宮崎が胃潰瘍で没し、それに関わる書簡です。

春子にしてみれば、実際に配偶者を亡くし、それでもがんばり続けている義理の伯父の言ですので、他の誰のそれよりも心に染みたのではないでしょうか。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの取り組みを2件。ともに記録を基に光太郎が実際に自作して食したメニューや、使った食材などを現代風にアレンジしたりしています。

まず先月末の4月30日(水)、花巻市東和地区の「ワンデイシェフの大食堂」さんでの「こうたろうカフェ」。日替わりで様々な個人や団体にキッチンを貸し出し、ランチを販売というスタイルのレストランです。やつかの森さんも月に一度出店されています。
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メインディッシュが「ミートローフ&ポテトサラダ」。
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サイドメニューで「ほうれん草のわさび醤油和え」「卵焼き」「ひろっこのチヂミ」。
ほうれん草わさび醤油和え、卵焼き、ヒロッコのチヂミ
「ひろっこ」は葱の仲間の「アサツキ」という野菜の新芽だそうで。香ばしそうですね。

同じく「すき昆布煮」、「キャベツ塩漬、二十日大根、ヤーコン、キュウリ古漬」。
キャベツ塩漬、二十日大根、ヤーコン、キュウリ古漬
さらにご飯と「アスパラスープ」が付いて、デザート的に「黒豆ゼリーの胡桃かけ」とコーヒー。
黒豆ゼリー胡桃かけ
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これで1,000円ですから、もうけはほとんど無いのでは、と思われます。都心などでは考えられませんね。

今月も月末で、5月30日(金)に出店なさるそうです。その際のメニューは……
 ・鶏ももスティック天  ・山菜盛り合わせ
 ・葉わさびやっこ    ・新玉ねぎのシーフードサラダ
 ・キャロットラペ    ・お漬物
 ・筍ご飯        ・トマトスープ
 ・ヨモギ餅       ・珈琲
と、予告されています。

同じくやつかの森さんがメニュー考案に当たられている、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されているテイクアウトの豪華弁当・光太郎ランチ

今月分がこちら。
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こちらのメニューは「サバの塩焼き」、「豚肉の春キャベツ炒め」、「わらびのおひたし」、「山菜の酢味噌かけ」、「卵焼き」、「筍ご飯」、「古代米入りご飯」、「うぐいす餅」。季節的に山菜系が旬を迎え、非常にヘルシーな感じですね。「うぐいす餅」は別腹でしょうか(笑)。

「食」を通して偉人の実像に迫るのも、一つのアプローチ。両取り組み、今後とも人気を博すことを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

山口は今頃さぞよいだらうと想像してゐます、東京では八百屋の青物がふるくてまづいです。とり立てのニラをくふ事も出来ません。


昭和28年(1953)5月17日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

浅沼政規は、光太郎が前年まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。

終戦直後の混乱は解消されたものの、まだまだ流通の事情はよくなかったはずで、都内では新鮮な野菜など、なかなか手に入らなかったようです。

昭和20年(1945)5月15日、前月の城北空襲で本郷区駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された光太郎は、宮沢賢治の実家や賢治の主治医であった佐藤隆房医師等の勧めで、岩手花巻に疎開のため、上野駅を発ちました(到着は翌日)。この日を記念して、光太郎三回忌に当たる昭和33年(1958)から、光太郎が7年間の蟄居生活を送った郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で、光太郎を偲ぶ「高村祭」が開催されるようになりました。

当初は光太郎と直接交流のあった人々による回顧談的な講演、地元の山口小学校の児童による光太郎から贈られた楽器を使用しての音楽演奏などが行われていました。徐々に生前の光太郎を知る人が減り、講演は大学教授や渡辺えりさん、当方など、直接的には光太郎を知らない人が担当することが多くなりましたが、それでもとびとびながら、光太郎と面識のあった方々がお話しされることもありました。末盛千枝子氏、藤原冨男氏、旧太田村の皆さんなど。また、楽器は新しいものになってしまいましたし、山口小学校も統合されてしまいましたが、統合先の太田小学校の児童の皆さんをはじめ、中高生、看護専門学校生の生徒さんたちも、音楽演奏や朗読、郷土芸能などで出演されていました。

その高村祭、令和元年(2019)の第62回をもって終了となってしまいました。翌年からはコロナ禍もありましたし、それが沈静化しても、以前の形での開催はもはや難しい、との判断だったようです。

しかし、地元では復活を望む声が強く、実際、当方がパネラーなどを務めた別のイベントで質疑応答の時間にそういう要望が出されたこともあったりしました。

そこで昨年から、「高村祭」とは銘打たないものの、やはり5月15日に「花巻 光太郎を知る会」さんという有志の市民団体の主催で、山荘敷地内の光太郎詩碑前で光太郎詩の朗読を行うというイベントが行われています。今年も開催したそうです。

ちなみに同会代表の阿部彌之氏の父君は、宮沢賢治の教え子にして、花巻に林檎栽培を広め、光太郎とも深く交流のあった故・阿部博氏です。
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「高村祭」時代には花巻市さんの共催だったので、小中校生・看護専門学校生などが大挙して参加、そうすると保護者の皆さんも我が子の晴れ舞台を見ようと集まり、大勢の方々で賑わいました。それが無い分、こぢんまりとした集いですが、「高村祭」の精神を受け継ぐという意味では、有意義なものだと思います。たまたま訪れていた観光客のご夫婦なども見守られていたそうです。

泉下の光太郎も照れくさそうにしつつも喜んでいたのではないでしょうか。ちなみにこの詩碑の地下には、当会顧問であらせられた北川太一先生が保管なさっていた、光太郎が歿した時に剃った髭(ひげ)が、第一回高村祭に合わせて行われた詩碑の建立の際、分骨のように遺髯として埋納されています。

ただ、精神を受け継ぐというだけでなく、やはり「高村祭」の名称の復活が望まれるところですが……。

【折々のことば・光太郎】

早速木炭十俵安着、感謝します、ちかく為替をお送りしますが、とりあへず到着のおしらせまで、

昭和28年(1953)5月12日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

昨日も書きましたが、駿河は光太郎に山小屋の土地を提供してくれた村の長老でした。
駿河
元々太田村は炭焼きが主産業の一つで、良質な炭が生産されていました。村にいた頃、当たり前のように使っていた炭が、上京して改めていいものだったと再確認し、取り寄せたわけです。

中野区の桃園区民活動センターで開催されている『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会について、『東京新聞』さんが報じて下さいました。

「水彩画の巨匠」中西利雄アトリエ残したい 中野で有志が企画展 23日まで ゆかりの芸術家や内外装 パネルで紹介

 「水彩画の巨匠」と呼ばれる洋画家の中西利雄(1900~48年)が中野区内に建てたアトリエを伝えるミニ展示会が、近くの桃園区民活動センター(中央4)で開かれている。存続の危機にあり、広く知ってもらおうと企画された。23日まで。
 中西が建てたアトリエでは、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作。設計は建築家の山口文象で、世界的彫刻のイサム・ノグチが住んでいた時期もあり、芸術家らとのゆかりは深い。
 中西の息子が2023年に亡くなった後、保存活用の在り方が問われてきた。展示会は有志による「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)が主催し、アトリエの内外装やゆかりの人々などをパネル10点ほどで伝える。
 同会の曽我貢誠(こうせい)事務局長(72)は、中西やその家族は積極的に地域の人々と交流し、身近な存在だともした上で、「区民らにアトリエのことを知ってもらいたい」と呼びかけた。
 入場無料。期間中は19日休館。

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アトリエの歴史や文化的価値を説明する曽我貢誠事務局長=中野区で

先週もこのブログで書きましたが
光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

主に区民の皆さんにそのあたりを周知したいということで、先月24日から、記事の通り桃園区民活動センターさんでミニ展示を行っています。
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問題のアトリエ、しっかり活用計画を考えて土地ごと買い取って下さるという方(法人さんでも個人の方でも)が現れてくれれば最善です。また、買い取りではなく貸借で、ということも考えられます。活用計画は無理、という場合でも、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」として相談に乗りますし、同会が指定管理者的な立場となることもありでしょう。

現地保存ではなく、土地を提供するので移築して活用したい、というお申し出も次善の策として考えています。その場合、近くであるに越したことはありませんが、たとえ離れた場所であっても、アトリエが烏有に帰すよりはずっとましですし、実際、そうした例も少なからず存在します。

現地やミニ展示をご覧の上、手を挙げて下さる方に現れていただけることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】002

山口の小屋は駿河重次郎翁に万事まかせて来ましたから多分時々見てくれてゐることと推察します、

昭和28年(1953)5月6日 
宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

「乙女の像」制作のため、中西アトリエに入って半年余り。その前の7年間、蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれたのが、太田村の長老格の一人・駿河重次郎でした。

上京する際も駿河に小屋の管理を委託、駿河は約束を違えず、湿気のこもる小屋の中に風を入れに行ったりということを怠りませんでした。

さらに昭和31年(1956)の光太郎没後には、宮沢家や佐藤隆房医師、他の村民たちとともに小屋の保存に尽力。そのおかげで小屋は高村山荘として現存しています。

以前にも書きましたが、中西アトリエもそうでなくてはいけないと思うのですが……。

光太郎の父・光雲の木彫が展示されています。

芸術家の目を通した生きものたち

期 日 : 2025年4月25日(金)~8月19日(火)
会 場 : 東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 毎週水曜・木曜 5月31日(土)……貸し切り
料 金 : 大人 1,000円(800円)ペア 1,800円  高・大学生 800円(600円)
      小・中学生 500円(400円)  ( )内団体料金

新緑のあふれる季節。東石美術館ではさまざまな動植物が生き生きと表現された美しい作品を展示いたします。芸術家たちが、何を感じ、どのような想いを込めてこの作品を生み出したのか。 それぞれの作品に込められた物語を想像しながら、生命の多様性とその美しさを感じてください。今回は日本(日本画、洋画、彫刻、彫金)、中国(陶磁器)・中近東(ペルシア陶器)など、各国で創られた多彩な銘品をお楽しみいただけます。
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光雲の作品は「牧童」(大正9年=1920)。
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同館の所蔵品で、これまでも繰り返し出品されてきたものです。旧・佐野東石美術館時代に一度拝見して参りましたが、まさに超絶技巧の優品でした。

「旧・佐野東石美術館時代」と書いたのは、昨年、リニューアルされて「東石美術館」と改称が為されたためです。美術館以外にレンタルスペース、広大な庭園などを兼ね備えた複合施設「東石スカイテラス」として整備されました。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

宮崎稔君の死はまことにやむを得なかつたやうに思へます、長い間の胃酸過多症のところへ無茶な酒びたりでしたから胃潰瘍は当然だつたでせう、宮崎君は一種の性格破綻者でしたが魂の純粋さだけは持つてゐたやうです、

昭和28年(1953)5月6日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎71歳

智恵子の姪にして、当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取った長沼春子と結婚した宮崎稔が亡くなりました。茨城の素封家だった父・仁十郎ともども、光太郎とは戦前から交流がありました。詩も書いていましたが、その方面ではものにならなかったようです。

光太郎を支える部分も多々あったものの、逆に足を引っ張ることも多く、そのあたりを踏まえて当会顧問であらせられた北川太一先生は、『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜、この年の項に「何かと光太郎の身辺を案じ、一面では光太郎の心労の一因でもあった宮崎稔が胃潰瘍による吐血のすえ四十三歳で没した」と書きました。

一昨日、神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さんで特別御開帳が為されている、光太郎の父・光雲の手になる秘仏・三面大黒天立像を拝観後、帰途に立ち寄りました。
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調布市制施行70周年・実篤記念館開館40周年・武者小路実篤生誕140年記念春の特別展「実篤の肖像」

期 日 : 2025年4月26日(土)~6月8日(日)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人200円 小・中学生100円

 武者小路実篤は、今年2025年5月12日に生誕140年を迎えます。東京で生まれ育った実篤は、学生時代を過ごした学習院で多くの友人と出会い、24歳で雑誌『白樺』を創刊して歩み出した文学の道、33歳の時に始めた新しき村の活動、40歳を前に本格的に取り組み始めた書画の制作など、多岐にわたる活動の中で多くの人と交流を重ねました。
 岸田劉生や堅山南風ら日本近代美術を代表する画家が実篤をモデルに絵画を描き、文壇では白樺同人をはじめ、佐藤春夫や久米正雄らが実篤の人柄や文学作品ににじみでる人間性に言及しています。
 本展覧会では同時代の文学者が著した印象や人物像、芸術家が絵画や彫刻で表現した肖像、田沼武能や林忠彦、坂本万七、吉田純ら写真家が撮影したポートレイト、妻や娘から見た父・実篤の姿など、さまざまな「実篤の肖像」をとおして「武者小路実篤」という人物を今一度とらえ直す機会とします。
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絵画も嗜んだ実篤自身の自画像や、交流のあった画家・彫刻家や写真家の手になる実篤像、それから文章で描かれた実篤像(原稿や書籍類、さらに揮毫された書)などの展示です。

それらをただ並べるのではなく、光太郎を含む様々な人物の実篤評を一言ずつ小さなパネルで添えています。それがフライヤーの表に印刷されているこの部分。光太郎の一言も。
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曰く「前額と後頭と眼とはすばらしい」。出典は「人の首」というエッセイで、初出は昭和2年(1927)1月の雑誌『不同調』です。全体としては、彫刻家として「人の首」に異様なまでの興味関心を持たざるを得ない、的な内容で、彫刻家・光太郎の内面がよく表されているため、光太郎の没後に刊行された選集的な書籍の多くに再録されています。

いきなりその書き出しが「私は電車に乗ると異状な興奮を感ずる。人の首がずらりと前に並んでゐるからである」。思わず「獄門晒し首かよ」と突っ込みたくなりますが、それが光太郎の狙いかもしれません。ぐいぐい引きこまれます(笑)。
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少し後の方では「人間の首ほど微妙なものはない。よく見てゐるとまるで深淵にのぞんでゐる様な気がする。其人をまる出しにしてゐるとも思はれるし、又秘密のかたまりの様にも見える。さうして結局其人の極印だなと思はせられる」。確かにサムネイル的な小さい肖像写真でも、その人の人となりがだだ漏れになっているなと感じるものがありますね。

その後は首、というか顔や頭、うなじなどの各パーツがこうで……というやはり彫刻家のミクロ的視点で見た話、さらに人の顔の持つ先天的な美と後天的な美、といった話など。そして終盤近くで、さまざまな味のある顔立ちの人々を列挙。その中で、「武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい」。

他に好意的に上げられている人物は、海外だとドストエフスキー、ロマン・ロラン、ポー、ヴェルレーヌ、レーニンら。国内では武者以外に千家元麿、室生犀星、野口米次郎、佐藤春夫、市川團十郎、高橋是清、濱口雄幸など。かなり主観的な見方で、決めつけが激しいと思えるところもありますが。

前額と後頭と眼とはすばらしい」が印字されたプレートは、光太郎とも親しかったバーナード・リーチのエッチングによる実篤像に添えられていました。
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直接光太郎に関わる展示はこちらと、『白樺』10周年の記念で撮られた集合写真くらいでしたが、フライヤーに光太郎の名があり、さらに招待券も頂いてしまっていたので、足を運んだ次第です。その上、参上したところ、図録も頂戴してしまいました。恐縮です。

武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい」と書いた光太郎、武者を彫刻のモデルに、とひそかに狙っていました。武者と同じ白樺派の中心にいた志賀直哉も。

 私はかねてから、武者小路さんの顔はブロンズで、志賀さんは木彫で、それぞれ彫塑してみたいと秘かに思つていたものである。しかし、いざモデルとなつていただいても、武者小路さんはじつとはぜず絶えず動いておられるだろうし、志賀さんはあのピリピリした神経が顔の皮膚の外に出ていてお願いするのがなんだか悪い気がし、未だに望みを達することが出来ないでいるのである。
(「志賀さんの顔」 『文芸』第12巻第17号 昭和30年=1955 12月

光太郎は、同じ『文芸』の少し前の号(第12巻第12号 昭和30年=1955 8月)には、「埴輪の美と武者小路氏」という談話筆記もよせ、武者の人間性を賞讃しています。また、『不同調』の第2巻第4号(大正15年4月)にはずばり「武者小路実篤氏」という短評も。

 日本に珍らしい根本的なものを持つてゐる武者小路実篤氏の人と芸術とは、詩に於ける千家元麿氏と同様、全然他の人とは違ふと思ひます。時代が過ぎて見れば殆ど問題にならない程、此は明瞭になると思ひます。
 さう言つても、他の人の「存在の理由」を否定するわけでは決してありません。人には各々天性がありますから。


人としての武者を尊敬していたというのがよく分かりますね。ちなみに光太郎の方が2歳年上なのですが、そんなことは関係なかったのでしょう。

美術を愛した武者の方でも、自らが立ち上げた「大調和展」に光太郎の出品を仰ぎ、『白樺』や『大調和』、『心』などで光太郎の寄稿を取り付けています。そして昭和31年(1956)に光太郎が歿すると、その葬儀委員長の大役も果たしてくれました。
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左で立っているのが当会の祖・草野心平。その右、マイクスタンドで一部隠れていますが、武者が座っています。その右隣は尾崎喜八ですね。

さて、「実篤の肖像」展、6月8日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】a4ba5f65

選集六冊小包でいただきました、先日送つた金も返送され、甚だ恐縮な事です、


昭和28年(1953)4月10日 
岩淵徹太郎宛書簡より 光太郎71歳

岩淵徹太郎は中央公論社の編集者。「選集六冊」は同社より昭和26年(1951)から刊行が続き、この年1月に完結した『高村光太郎選集』全6巻。おそらく6冊セットを誰かに贈るため、光太郎自身が注文したのだと思われます。しかし岩渕の方では「お代は結構です」ということだったのでしょう。

ちなみにこのハガキ、当方手持ちのものです。光太郎書簡は手許に数十通ありますが、中野のアトリエからの発信はこれだけです。

昨日は神奈川県と都内をうろうろしておりました。

まずは神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さん。こちらでは、光太郎の父・光雲の手になる秘仏・三面大黒天立像の特別御開帳が行われています。
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元々の予定では、4月22日(火)の信州安曇野碌山美術館さんでの「第115回碌山忌」に参列後、途中で仮眠し、翌日に中央道から圏央道、さらに東名、新東名と進んで大山寺さんに参拝するつもりでしたが、安曇野で愛車のナビが故障、その際には断念しまして、リベンジです。

昨日は公共交通機関を使って行って参りました。新宿から小田急線で伊勢原駅まで。そこから路線バスで大山ケーブル駅バス停。
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あちこちにポスターが。いやが上にも期待が高まります。しかし、バス停からケーブルカーの駅までがけっこうきつい上りで約15分。
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平日にもかかわらず、ほぼ満員でした。ほとんどの方は終点まで行き、さらに大山自体に登るトレッキングが目的という感じでしたが。当方は途中の大山寺駅で下車。新緑の参道を歩きました。
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駅からは5分ほどで到着。
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右上画像に「五月十八日」とあるのは、その日に開山1270年の記念法会が行われるためです。

さっそく拝観料400円也をお納めして、内陣へ。問題の三面大黒天像、撮影禁止とのことで画像が出せませんが、700円也でいただいた御朱印に描かれていました。
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持物(じぶつ)や衣の紋様など、細部はかなり実物と異なるのですが、まぁ、こんな感じです。

同じ光雲作の三面大黒天像は、信州善光寺さんの仁王門にも納められていまして、持物やポージング等は同じでした。ただ、いろいろ違いもあって興味深く拝見しました。

まず、サイズ。信州善光寺さんの方は七尺五寸とかなりの大きさですが、こちらはおそらくその3分の1と思われます。なぜに3分の1かというと、信州善光寺さんの方も雛形がそのサイズで、そこから星取り法で3倍に拡大、寄木造りで作られているためです。

それから信州善光寺さんの方は、本体、雛形とも彩色が施されていますが、こちらは白木造り。てっきりこちらも彩色仏と予想していましたが、これは外れました。

さらにお顔の感じもかなり異なっていました。信州善光寺さんの方は荒ぶる神である三面大黒天の属性が生かされ、強面(こわもて)の感じですが、こちらは全体にふっくらしたお顔立ちで、どちらかというと通常の大黒天像に近いと思いました。信州善光寺さんの方は、二尊の金剛力士と三宝荒神と共に門を守る役割ですから、邪悪な者を通さないようにということでいかついお顔をなさっているのでしょうし、こちらはそうした役割ではないので柔和なお顔なのかなと思いました。

ちなみに三面大黒天、両サイドのお顔は向かって左が毘沙門天、右が弁財天のお顔です。なぜそのようなお姿かというと、今回の特別御開帳に合わせてアップされた大山寺さんのフェイスブック記事に動画で紹介されていました。
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いろいろ笑えますが、おおむねそういうことで(笑)。

参拝を終えて、帰途に。往路では背後でしたし、気が急いていたので気づきませんでしたが、ケーブルカーの大山寺駅附近から相模湾が遠望できました。
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特別ご開帳は6月1日(日)まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日九尺―四尺―六尺の台の模型を四分一に造つてもらつて雛形像をのせてみました。堂々たる台のブロツクに彫像の方が少々負けるやうな感じがします。最後の決定前に一度ごらんを願ひます。

昭和28年(1953)4月3日 谷口吉郎宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関わります。谷口は像を含む現地の設置場所一帯の公園を設計した建築家です。「九尺―四尺―六尺の台」は像の台座で、これも谷口が担当しました。このあたりのバランスも光太郎と谷口、知恵を出し合って考えていたようです。

ちなみに台座に使われてたのは岩手産の折壁石です。翌年の除幕の頃は正しく「岩手産」と報道されていましたが、のちに谷口が「福島産」とあちこちに書いてしまい、それが元で「福島産」と誤って紹介されるのが定着してしまいました。
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それぞれ少し前のものですが、3件。

まずは『北海道新聞』さんから読者投稿俳句。

 <新・北のうた暦>4月4日007

 光太郎忌山ありて川ひかるなり 上田小八重

 高村光太郎の忌日は4月2日なのだが、この時季のみずみずしさを詠んだ掲句に、作者のみならず読者も浄化されそうだ。作品「樹下の二人」の詩句「あれが阿多(あた)多羅(たら)山、/あの光るのが阿武(あぶ)隈(くま)川。//ここはあなたの生(うま)れたふるさと、」を想起(そうき)させる。春の訪れの遅い北国だが「ひかる川と山」は素朴で新鮮で美しいことばである。 久保田哲子


光太郎忌日は「連翹忌」で、おそらく通常の「歳時記」にも登録されていると思われます。しかし「連翹忌」の呼称がどれだけ一般に浸透しているかというと、太宰治の「桜桃忌」、芥川龍之介の「河童忌」ほどではありませんので、おそらく投句された方、「連翹忌」の呼称は知りつつもあえて「光太郎忌」となさったのではないかと思われます。そういう小細工なしに「連翹忌」で誰しもに通じるようであって欲しいものですが……。

同じく読者投稿句、『読売新聞』さんから。

読売俳壇 矢島渚男選008

 光太郎智恵子の浜や目刺干す 君津市 榎本静江

【評】『智恵子抄』の舞台は九十九里浜。しかし晩年の彼女は精神を病み、看病に疲れ喪心の彼は戦争賛美へと走り晩年の反省が用意される。大学時代の夏休みに彼が過酷な生活を送った山小屋に行った。死後一年ほどの囲炉裏の周りには彼の息遣いが漂っているようだった。


昭和9年(1934)に智恵子が療養生活を送り、週に一度は光太郎が見舞いに訪れていた九十九里浜は太平洋に面した「外房」。句の作者の君津市は東京湾添いのいわゆる「内房」ですが、房総半島を一またぎすれば九十九里です。「目刺」が春の季語で単独で盛り込まれる場合もありますが、この句のように「目刺干す」で使われることも多いようです。実際、智恵子が療養していたあたりを歩くと、家々の軒先で魚の干物を作っている光景によく出会います。

選者の矢島氏、句には詠まれていないその後の光太郎についても言及。ありがたし。

取り上げるべき事項が山積しておりまして、もう1件、同じ新聞つながりで、仙台に本社を置く『河北新報』さんの一面コラムもご紹介してしまいます。

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彫刻家で詩人の高村光太郎は、岩手県花巻市出身の作家宮沢賢治の作品を高く評価し、世に紹介した功績でも知られる。そんな光太郎が賢治を評した言葉がある。「内にコスモスを持つ者は、世界のいずこの辺遠にいても、常に一地方的の存在から脱する」▼「宮沢賢治追悼」に寄せた文章の一節。この言葉を展示するのは、花巻市の花巻南温泉郷近くにある高村光太郎記念館だ。光太郎は戦争末期、宮沢家を頼って花巻に疎開し、人里離れた山荘に7年間暮らした。山荘は保存され、その傍らに記念館は立つ▼賢治は花巻を拠点に多くの詩や童話を創作し、「イーハトーブ」の世界観を築き上げた。光太郎は感銘を受け、南フランスの田舎で絵筆を取りながら、世界の新しい芸術に指針を与えたセザンヌのようだと記している▼反対に、内にコスモスを持たない者は、どんな文化の中心にいても一地方的存在であると論じる。今で言えば、東京に住むか地方に住むかは関係なく、心の持ち方、考え方で、その人の世界は決まるということか▼近代芸術の巨人の言葉は、東北に暮らすとりわけ若い世代へのエールになるだろう。大型連休も後半に入る。予定が決まっていないなら、訪れてみてはいかが。光太郎を癒やした花巻の自然や温泉も待っている。(2025・5・2)

『読売』さんの矢島氏の評にも現れた、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する高村光太郎記念館。GW中の記事ですので、この連休に訪ねてみては?的な内容ですが、1年中いつ行ってもいいところです。ぜひ足をお運びください。
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ちなみに光太郎の賢治評「内にコスモス」云々(「でんでん」ではありません(笑))が記念館に展示されている、ということですが、その一節を選んで展示解説パネルを作ったのは当方です(笑)。

【折々のことば・光太郎】

思ひがけなく小生の誕生日のためにとて勢のいいロブスター三尾お届け下され感謝しました、大変愉快でした、


昭和28年(1953)3月13日 北川太一宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、前年秋に花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元を、体当たり的に突撃訪問して知遇を得た当会顧問であらせられた故・北川太一先生。この日の光太郎誕生日にプレゼントを進呈。しかし、なぜにロブスターだったのでしょうか(笑)? ご存命のうちに訊いておけばよかったと後悔しております。

光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさんのライブ。ここ数年島根の方を拠点にされてミュージカル等に携わられることが多かったのですが、先月に続き都内で「智恵子抄」をメインに演(や)られるそうで。

BOOK CAFÉ LIVE vol2モモの智恵子抄

期 日 : 2025年5月19日(月)
会 場 : 府中の森芸術劇場分館 東京都府中市宮町1-100 武蔵府中ル・シーニュ地下2階
時 間 : 19:15~20:45
料 金 : 3,500円

出 演 : モンデンモモ たしまみちを(ギター)

モモの智恵子抄 春抄 逢いたい時にあうから〜別居結婚 入籍しないの〜 光太郎さんは 智恵子さんに逢えると大喜び〜 違った智恵子さんの姿をお伝えします だって 青鞜の表紙を描き 田村俊子さん 与謝野晶子さん らいてうさんと交流し 自転車を乗り回し グロキシニアの花を抱え やはり 女の最先端でした 今回のブックカフェライブ   モノドラマでおつたえします 19日 いらしてね!!
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もう20年以上のつきあいとなり、都内をはじめ、智恵子のふるさと・福島二本松、光太郎第二の故郷・花巻、当会の祖・草野心平所縁の福島県川内村、モモさんの拠点・島根などで十数回、ステージ等を拝見・拝聴しています。宇宙飛行士の山崎直子さんとのコラボなどもありました。

時々伴奏を担当されるギターのたしま氏とも長い関わりとなりました。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

自分でも忘れてゐるうちに今年は東京でいつの間にか誕生日をむかへるやうになりましたが、今朝は美しい花やおめでたいお菓子やお茶など届けて下され、仕事のあとでたのしくおうけとりいたしました、今日は十三日の金曜日といふ日ですが、まず静かに仕事してゐました、


昭和28年(1953)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎71歳

元日に数え71歳となった光太郎、この日は満70歳の誕生日でした。

イスカリオテのユダを含め、「最後の晩餐」に集まったイエスの弟子が13人、その後、イエスが磔刑に処されたのが金曜日と信じられ、「十三日の金曜日」は不吉とされていますが、この頃の日本でもすでにそういう迷信があったのですね。

智恵子のソウルマウンテン・安達太良山の山開きが行われます。

第71回安達太良山山開き この景色は登った人だけのご褒美だ。

期 日 : 2025年5月18日(日)

奥岳登山口(あだたら高原スキー場)でのイベント
 ①安全祈願祭【午前8時~】
  1年間の安達太良山登山の無事を参加者で祈願します。
  (荒天時はランデブー内で実施します)
 ②あだたらマルシェ【午前9時~】
  山に登らない方も楽しめる屋台などがいっぱい!

山頂でのイベント
 ➀ペナント配布【午前9時30分~】
  先着3,000枚を配布します。(無くなり次第、終了となります)
 ②ほんとの空大声コンテスト【午前11時~】
  山頂で募集します。テーマに沿った内容で大声を出してもらいます。
  男性部門の大賞、女性部門の大賞を決定します。(定員20名)
  大賞には豪華景品をご用意しております。また、参加された方へも参加賞がございます。
【協賛団体】
  一般社団法人岳温泉観光協会、福島民報社、福島民友新聞社、にほんまつDMO、
  二本松市観光連盟

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毎年ではありませんが、サブタイトルというか、キャッチコピーというかに光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」、そこから派生した「ほんとうの空」の語を冠して下さることが多数。最近ですと故・湯浅譲二氏作曲の二本松市民の歌の一節「ほんとの空がここにある。」が使われたのが平成28年(2016)、平成29年(2017)、令和4年(2022)、令和5年(2023)。平成30年(2018)は「花がさき 鳥がなき 風かおる ほんとうの空。」。令和元年(2019)で「ほんとの空の下 心の晴れ渡る、感動深呼吸。」、そして昨年には「絵になる、詩になる、ほんとの空。」。

ところが今年は「この景色は登った人だけのご褒美だ。」と、「ほんとの空」の語が使われませんでした。まぁ、令和2年(2022)が「安達太良山で二本松ブルーとめぐり逢う。」でしたので、前例がありますし、先述の通り翌年には「ほんとの空」が復活しましたが。

その代わり、というわけでもないのでしょうが、山頂でのイベントで新たな試み。昨年まで行われていた「ミズあだたらコンテスト」が無くなり、代わって「ほんとの空大声コンテスト」が初めて開かれます。それを報じた『福島民報』さん記事。

5月18日の安達太良山開き初のコンテスト 「ほんとの空」に大声を響かせて

008 5月18日に行われる安達太良山開きは、恒例のミズあだたらコンテストをやめて、代わりに「ほんとの空大声コンテスト」を初めて実施する。関係機関・団体でつくる安達太良連盟が10日に二本松市役所で総会を開いて決めた。
 関係者から「男女とも参加できる行事を」との声があり、新たに企画した。20人の参加を募り、午前11時から山頂で実施する。連盟会長の三保恵一二本松市長、安達太良山観光大使でタレントのなすびさんらが審査して入賞者に賞品を贈る。午前9時30分から先着3千人にペナントを配る。二本松市の奥岳登山口で午前8時から安全祈願祭を行い、「あだたらマルシェ」も開催する。荒天時は中止や変更となる。
 総会では登山道の整備、くろがね小屋建て替えの情報発信などの要望も出された。新たに8月11日の「山の日」関連事業を検討することとした。

山開き全体に関して、二本松市の『広報にほんまつ』さん。
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三保恵一市長の連載コラムでは、光太郎、「智恵子抄」に触れて下さいました。
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臨時シャトルバスの情報。
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ぜひ足をお運び下さい。

ついでというと何ですが、安達太良山を含む二本松市内でもロケが敢行され、光太郎智恵子や「智恵子抄」が取り上げられる2時間ドラマの再放送情報です。

おかしな刑事8 居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査!東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

地上波テレビ朝日 2025年5月12日(月) 13:55〜15:50

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田"という名字が気にかかり…

◇出演者 伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、
     木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 ほか
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ご覧になったことのない方(ある方も(笑))、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

セカイノビ ヤマイニナヤムコレヲイヤスモノイデ ヨ


昭和28年(1953)3月13日 岩手県立美術工芸学校宛電報より 光太郎71歳

花巻郊外旧太田村蟄居中、何度も訪れて講演などを行った県立美術工芸学校の卒業式に送った祝電です。
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「世界の美、病に悩むこれを癒す者出でよ」となりますが、「病に悩むこれ」は若干、意味不明。もしかすると「病に悩む我(われ)」なのでは……などとも思っています。

埼玉県東松山市からの情報を2件。

まずは市民講座です。

文化芸術講座(高坂彫刻プロムナード)

期 日 : 2025年5月16日(金)
会 場 : 高坂丘陵市民活動センター 埼玉県東松山市松風台8-2
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料
対 象 : 市内在住・在勤・在学の人

高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る様々な彫刻の作者である高田博厚氏と東松山市の関係についてご紹介します。なぜ、高田博厚の作品が東松山市に集まるのか? 彫刻家・高村光太郎とも関係がある? 
講師 生涯学習部長 柳沢知孝

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東武東上線高坂駅前から伸びる「高坂彫刻プロムナード」の関係です。

「高坂彫刻プロムナード」は、光太郎と交流があり、光太郎が親友で早世した荻原守衛を除き、ほとんど唯一、高い評価を与えていた彫刻家・高田博厚の作品が約1㌔㍍にわたる道の両側に32体、野外展示されています。
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光太郎を作った胸像も含まれます。
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何度も書きましたが、同市の元教育長だった故・田口弘氏が戦時中から光太郎と交流があり、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで高田と出会って意気投合、プロムナードの建設につながりました。他にも同市では高田の顕彰活動さまざまに取り組んでいます。そんなこんなのお話が為されるのでしょう。講師は同市職員の柳沢知孝氏。連翹忌の集いのご常連です。

ただ、対象が同市在住・在勤・在学の人に限られていて、少し残念です。改めてフルオープンで聴講を募る機会があるといいかと思われます。

ついでというと何ですが、同市にある原爆の図 丸木美術館さんでの企画展示もご紹介しておきます。

望月桂 自由を扶くひと

期 日 : 2025年4月5日(土)~7月6日(日)
会 場 : 原爆の図 丸木美術館 埼玉県東松山市下唐子1401
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 
料 金 : 一般 900円、中学生・高校生・18歳未満 600円、小学生 400円、60歳以上 800円

 望月桂(1886-1975)は、日本でもっとも早いアンデパンダン展のひとつとされる黒耀会を結成した芸術家です。黒耀会は、社会の革命と芸術の革命は自由獲得を標榜する点において不可分であると主張した芸術団体です。美術に限らず、文学や音楽、演劇など、さまざまな領域の表現者や労働運動家が参加して1919年に結成されました。参加者の顔ぶれは、アナキズム運動の中心人物であった大杉栄や、社会主義運動の指導者となる堺利彦、民俗学者の橋浦泰雄、演歌師の添田唖蝉坊など、類例のない多彩さでした。表現はあくまで個人のもので他人の評価を前提としないという考えのもと、無審査で誰もが参加できる自由度の高さも重要な特徴でした。1922年頃に解散するまで4度の展覧会を開催し、プロレタリア美術運動の草分けとして評価されています。
 しかし望月の活動はそれだけではありません。黒耀会結成前には一膳飯屋を営み、社会運動家や労働者の集う場を形成していました。1920年代後半には犀川凡太郎の筆名で読売新聞に漫画を描き、その後に平凡社の百科事典の挿絵も手がけました。1938年から39年までは漫画雑誌『バクショー』を主宰し、漫画家の小野佐世男や、東京美術学校で望月の同級生だった藤田嗣治も参加しています。1945年に長野県東筑摩郡中川手村(現・安曇野市)に帰郷後は、地主の立場でありながら戦後の農地改革を先導し、農民運動に尽力しつつ、信州の自然を題材に数多くの風景画を残しました。
 本展は、こうした幅広い活動と、その活動に貫かれた自由と扶助の精神を紹介するものです。開催にあたっては、長年望月を研究してきた二松学舎大学准教授の足立元(美術史・社会史)の呼びかけにより、美術館学芸員や地元地域の関係者、美術・文学・社会運動などの研究者、アーキビスト、ジャーナリスト、編集者らによる「望月桂調査団」が組織され、ご遺族の厚意のもと、3年前から資料調査を進めてきました。特筆されるのは、かねてより望月を敬してやまない風間サチコ、卯城竜太、松田修といった現代アーティストも調査団に参加し、本展のタイトルやロゴマークの考案、展示監修、映像制作といった役割を担うことです。こうした職業的立場を超えた連携による展覧会の立ち上がり方も、黒耀会の精神を今日的な視点から読みなおすための重要な導線となるでしょう。
 望月の掲げる問題意識は、閉塞した日常を生きる私たちにも通じるものです。本展では、油彩画、水墨画をはじめ、デッサンや漫画、さまざまな関連資料など約120点を展示し、その足跡をたどります。
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望月桂は、東京美術学校(現・東京藝術大学)で光太郎と同級生でした。ただし、その期間は短かったのですが。というのは、光太郎は美校の彫刻科を明治35年(1902)に卒業→同研究科に残り→同38年(1905)9月に西洋画科に再入学→同39年(1906)2月に欧米留学に出発、という流れ。望月は西洋画科に光太郎と同じ明治38年(1905)入学。従って、光太郎と机を並べていた期間は半年足らずでした。ちなみに他の同級生には藤田嗣治、岡本一平らが居ましたし、教授陣には黒田清輝、藤島武二らでした。何とも錚々たるメンバーですね。

会場内にはそのクラスの卒業記念集合写真(明治43年=1910)なども出ているそうです。ただ、中退扱いの光太郎は当然写っていませんが。

卒業後、望月はプロレタリア芸術運動に傾倒することになり、光太郎智恵子と関わりのあった大杉栄・伊藤野枝夫妻らとも深く交流を持ちます。そこで望月が大杉を描いた絵なども展示されています。また、望月が原型制作に協力したと考えられる彫刻家・横江嘉純作の大杉像も。横江は高田博厚ほどではありませんが、光太郎が好意的に評した彫刻家です。

ちなみにこの企画展、共催に信州の安曇野市教育委員会さんが入っています。望月の出身地が東筑摩郡中川手村、現在の安曇野市に含まれる区域だからです。安曇野と言えば光太郎の親友・碌山荻原守衛。中川手村は守衛の出身地・東穂高村とは隣り合わせの場所。そうした部分も興味深いところです。

というわけで、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

中西さんの画集の予約のお金をお送り下され、感謝しました、お金は中西夫人にお渡ししました、大変よい画集が出来さうです、


昭和28年(1953)3月10日 宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

「中西さん」は中西利雄。光太郎が借りていた中野の貸しアトリエを建てた水彩画家です。戦時中に建物強制疎開で取り壊されたアトリエを昭和23年(1948)に立て直したものの、その年に満48歳で急逝。以後、貸しアトリエとして夫人が運用していました。

中西の画集がこの年5月に刊行されることになり、その予約受付に光太郎も一役買ったようです。発行人は夫人の富江となっており、編集には光太郎とも交流があり、中西と同じ新制作協会を率いていた猪熊弦一郎らが編集に当たっていました。この頃になると終戦直後の極度の物資不足も解消されていたようで、原色版の図版を多く含む豪華な画集でした。定価が3,000円。大卒初任給6,000円くらいの時代です。それをポンと出す賢治実弟・宮沢清六もなかなかの傑物ですが(笑)。
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光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

そのあたり、十和田湖の西半分を有する秋田県の地方紙『秋田魁新報』さんが報じて下さいました。

高村光太郎が過ごしたアトリエ、解体の危機 十和田湖畔「乙女の像」制作

秋田魁新報1 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔にある「乙女の像」塑像も制作した東京・中野のアトリエが解体の危機にある。所有者が亡くなり、管理が難しいためで、保存活動に取り組む秋田市河辺出身の曽我貢誠(こうせい)さん(72)=日本詩人クラブ理事、都内住=は「芸術的にも建築的にも文化的にも貴重な施設。ぜひ古里からも関心を寄せてほしい」と話している。
 アトリエは1948年建設で、斜めの屋根と北側に向いた大きな窓が特徴。施主は洋画家中西利雄(1900~48年)で、設計を建築家山口文象(1902~78年)が手がけた。中西は完成を見ずに亡くなったため、彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)や高村に貸し出された。高村は亡くなるまでの3年半を過ごし、代表作となる乙女の像の塑像を制作した。
   一方、建物を管理していた中西の長男利一郎さんが2023年に他界。築70年超で老朽化もあり、解体の話が浮上した。
 立ち上がったのが利一郎さんと交流のあった曽我さん。昨年4月、有志と会を発足し、後世に残すための企画書を作成したり、中野区へ働きかけたりするなど保存活動を活発化させている。会の代表を務めるのは、劇作家で俳優の渡辺えりさん。高村の半生を基にした戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 曽我さんは秋田高から東京理科大へ進み、卒業後は都内で35年間、公立中学校教員を務めた。「戦意高揚の作品を書き、戦後に責任を感じていた高村が、彫刻制作に没頭したのがこのアトリエ。そうした背景、高村の思いを後世に伝えるためにも大切な歴史的遺産」と保存の意義を語る。
 会によると、3月末までに4355筆の署名を集めた。今後、クラウドファンディングも視野に、本県からの協力、支援も期待している。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」から。 問い合わせは曽我さんTEL090・4422・1534

智恵子への愛、像に託す
 東京生まれの高村光太郎は1945年4月の空襲で自宅が被害に遭い、岩手県花巻市へ疎開。戦後、十和田湖畔に設置する記念碑の制作依頼を機に帰郷し、中野のアトリエで暮らした。
 制作に際し、十和田湖を下見して湖の美しさに感動し、2人の女性が向き合う像のイメージを膨らませたとされる。「二体の背の線を伸ばした三角形が『無限』を表す」などの意図があったという。
 余命が長くないことを意識してか、青森県野辺地町出身の彫刻家小坂圭二を助手に雇い、約8カ月で完成させた。生涯をささげた美、妻・智恵子への愛、平和への願いを像に託したとされる。
 制作中、像の顔は白布で覆われた。完成後に「智恵子夫人の顔」と言われるようになったが、高村は「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と答えたという。
秋田魁新報3 秋田魁新報2
個人情報保護の観点などいろいろ制約があり、裏話的な部分は活字にできなかったのでしょうが、見出しの通り「解体の危機」に瀕してしまっています。区としては一銭も金は出さないという方向性です。さらに現地にマンション建設計画があり、もはや猶予がない状況です。

何とか現地での保存活用を最優先にしたいのですが、それも不可能なら移築するのが次善の策ということになります。しかし、移築先として適当な土地のめども立っていません。区として用地を提供してくれるということも無理そうです。となると、近くの企業さん、大学さん、或いは篤志の個人の方でももちろん結構なのですが、「土地を提供しましょう」と声を上げていただけるとありがたいところです。貸借でも構いません。最善なのはアトリエ部分の土地を買い取ってくれる法人さん/個人の方が現れてくれ、移築しないですむことですが。ただし、そうなると億単位の金額が必要でしょう。

我々としましては、アトリエの建物を活用して収益を上げられると見込んでいます。その辺りは建築専門の方々にお願いしたりして、決して夢想ではないさまざまな活用案を練ってあります。実際、同じ中野区内の三岸アトリエ、台東区の旧平櫛田中邸などは、レンタルスペースとして運営されています。音楽や各種パフォーマンスの公演、ギャラリー的な活用、映画などのロケやフォトスタジオ的な使い方もなされています。アトリエを建てた水彩画家・中西利雄や光太郎の記念館・資料館的な運用もありでしょうが、それだと収入は限られてしまうので、そうした機能も持たせつつ、レンタルスペースとして活用するのが最善かと思われます。いっそのこと、古民家カフェ的な態様にしてしまう方法もまったく排除はできません。

移築となると、できれば近い場所が望ましいところです。宮沢賢治の羅須地人協会の建物はそんな例で、元の場所から同じ花巻市内の花巻農業高校さんに移築されました(それとても批判があったやに聞きますが)。近い場所ではなく、遠くに移築された例としては、信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)など。これらはたとえ離れた場所でも、建物が残ったという意味では幸いなのでしょう。

変わった例では、建築家でもあった詩人・立原道造の別荘「ヒアシンスハウス」(さいたま市)。立原の生前にはそれが建てられずに終わり、没後に遺された図面を元に建てられました。同様に中西アトリエも図面を元にどこか別の場所に「復元」ということも考えられますが、そうなると価値はだだ下がりですね。まったく何も無くなるよりはましなのかもしれませんが。

最悪の場合、そうした措置がまったく出来ず、何処にも何も残らないというケース。それだけは何としても避けたいところです。

優先順位を付けてまとめます。

 ① 現地で保存して活用していく
 ② 近くに移築して活用していく
 ③ たとえ遠くでも、建物の保存ができるならということで移築して活用していく
 ④ 図面を元に他の場所に復元し活用していく


いずれの場合でも、かなりの金額がかかります。そのため、クラウドファンディングももちろん考えています。しかし、ゴールが定まらないとCFも立ち上げられません。集まった金額によって、上記①~④のどれに落ち着かせるかを決める、というのもありなのでしょうか?

単なる思いつきでなく、「こういう例を実際に手がけた」など、良いお知恵をお持ちの方、ご協力いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

只今は一尺五寸の雛形完了、三尺五寸の試作も完了、目下七尺の像にとりかかりつつあります、すべて順調に運んで居ります、


昭和28年(1953)3月5日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

中野の中西アトリエで制作していた「乙女の像」の進捗状況です。「七尺の像」が最終完成作です。

浅沼は、中西アトリエに移る前に光太郎が7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。光太郎没後には、浅沼や宮沢家、佐藤隆房医師、そして旧太田村の村民たちが「高村先生の山小屋を後世に遺さなければ申しわけが立たない」と、お金や労力を出し合い、「高村山荘」として保存、現在も遺っています。中西アトリエもそうでなければならないと考えます。

我々としても「すべて順調に運んで居ります」とご報告できる日が来ることを切に祈っております。

文芸評論家の桶谷秀昭氏ご逝去が報じられました。

共同通信さん配信記事。

桶谷秀昭氏が死去 文芸評論家000

 桶谷 秀昭氏(おけたに・ひであき=文芸評論家)3月27日、心不全のため死去、93歳。葬儀は近親者で行った。喪主は長男、省吾さん。
 専門は近代日本文学・思想。1992年に「昭和精神史」で毎日出版文化賞。99年紫綬褒章、2005年瑞宝中綬章。著書に「保田与重郎」「伊藤整」など。

氏は昭和47年(1972)、青土社さん発行の雑誌『ユリイカ』第4巻第8号の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」に「「自然」理念の変遷について――高村光太郎ノート」という論考をご発表。当方、卒論執筆の際には大いに参考にさせていただきました。
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同じ文章は昭和54年(1979)、河出書房新社さんから出された『文芸読本 高村光太郎』にも転載されています。
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非常に力の入った論考で『ユリイカ』、『文芸読本 高村光太郎』ともに10ページにわたっています。光太郎に対する確かなリスペクトに立脚してさまざまな作品にあたり、しかし批判すべき点には容赦なく大なたを振るう、教科書通りの文芸評論です。

一部抜粋します。

 高村光太郎は自分の本職は彫刻家で、詩を書くのは、彫刻から文学性という不純物を排除するための作業だといった。だが、高村光太郎は彼が書く詩からさえ、不純な――と呼ぼうと呼ぶまいと――文学性を排除したようにみえる。


 のちに高村光太郎は、智恵子が自分をあてどないデカダンスの泥沼から救ったというふうな回想を、詩や散文に書いているが、彼を浄化したのは、智恵子ではない、彼が徹底的な献身の理想としてみずから抱いた「自然」による自己浄化にほかならない。彼の「自然」への献身の捲き添えをくった智恵子こそ、いい面の皮だったかもしれぬが、実状はそうではなくて、この女のもっている或る異常性こそが、そういう捲き添えをくらうに打ってつけであった、そういう意味では光太郎は選択をあやまらなかったので、智恵子が自分を浄化したと信じていい根拠はたしかにあったのだといわねばならない。

 荷風が戦争に一貫して非協力であったのは、社会との倫理的な関係を結ぶ意志を徹底的に放棄していたからである。戦争であれ平常時であれ、社会の外側に孤立してひややかに眺めていたからである。荷風は世に働きかけなかったかわりに、世から動かされることもなかった。
 光太郎の純粋な倫理は荷風の対極にあるようにみえる。しかしよくみると、その倫理性は、世にもぐりこむのではなく、倫理的意志は不動のまま世を超越した。戦争が破局的様相を呈するにつれ、彼の超越的な倫理が、戦争の異常と一体化を強めていったのはそのためである。彼が戦争に近づいたのではなく、戦争が彼の方へやってきたのである。


全てに諸手を挙げて賛同できるわけではありませんが、なかなかに鋭い考察でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】006

「みちのくの手紙」は中央公論社からもらひました、文句なし。

昭和28年(1953)2月17日
宮崎稔宛書簡より 光太郎71歳

『みちのくの手紙』は姻戚であった宮崎の編集になる光太郎書簡集。昭和20年(1940)から同24年(1949)に至る、花巻郊外旧太田村から発信された、宮崎、宮崎の父・仁十郎、宮崎の妻・春子(智恵子の姪)にあてた光太郎書簡をまとめたものです。

「文句なし」といいつつ、光太郎はこの書籍の出版に同意はしていませんでした。歌集『白斧』(昭和22年=1947)にしてもそうですが、宮崎は強引に光太郎の書籍を刊行することがあり、光太郎の悩みの種の一つでした。

『毎日新聞』さん系列のスポーツ紙『スポーツニッポン』さんで、5月3日(土)、智恵子にからめ、その故郷である福島県二本松市を大きく取り上げて下さいました。

こだわり旬の旅 福島・二本松

二本松城でしのぶ戊辰戦争の悲劇 少年隊士の思いに涙…本丸跡からは絶景が
 JR東日本のデスティネーションキャンペーン開催中の福島県は二本松市に出かけた。IT系ニュースサイトで、穴場の観光地として上位にランクされたからだ。霞ヶ城公園にある二本松城(霞ヶ城)跡や詩集「智恵子抄」で知られる智恵子の生家、岳温泉など観光スポットが点在するが、中でも同城にまつわる、会津・鶴ヶ城の白虎隊より若い二本松少年隊の悲劇に心奪われた。
 春の桜と秋の菊人形で知られる霞ヶ城公園。桜の季節が終わり静けさが戻ったが、胸はすぐに熱くなった。二本松城の美しい三の丸石垣と白土塀をバックに建つ「二本松少年隊群像」。1868年の戊辰戦争で薩摩・長州などの西軍から城を守るため、若い命を散らした二本松少年隊の奮戦姿と我が子の出陣服を仕立てる母の姿をかたどったブロンズ像で、名誉市民の彫刻家・橋本堅太郎氏が制作したもの。脇の掲示板や音声ガイドで、その悲劇が伝わってきた。
 それによると、少年隊は12~17歳の62人。緊迫した状況下で自ら出陣を嘆願し、熱意で藩主を説得して出陣。同年7月29日、城内への要衝・大壇口(城から南へ約2キロ)では隊長木村銃太郎が率いる25人が果敢に戦ったが、正午頃、二本松城は炎上し落城。少年隊の戦死者は他の戦地と合わせ14人を数えたという。
 17歳以下といえば、あの白虎隊の隊士より年齢が下。敗戦必至の中で、奥羽越列藩同盟の信義のために貫いた二本松藩の壮絶な戦いに追随、維新の夜明けを見ずに幼い命を散らした彼らの気持ちを思いやると、群像を見ているだけで涙を禁じ得なかった。
 少年隊が命がけで守ろうとした城は、室町時代の1414年、畠山満泰が築城し、1643年から丹羽氏が居城にした平山城。現在は日本百名城の一つで国指定史跡に指定されており、群像を過ぎてくぐった「箕輪門」は初代藩主・光重が最初に建造した櫓門(やぐらもん)。主柱のカシの巨木は箕輪村・山王寺山の神木を用いたことから、その名が付いたという。
 城内には落城の際に割腹した藩士・丹羽和左衛門らの自尽の碑や唯一の江戸期の建造物の茶亭「洗心亭」、門の土台となる石垣と門柱の礎石が残る「搦手門跡」など、見どころは多いが、圧巻は箕輪門から徒歩約15分の「本丸跡」(標高345メートル)。総工費5億3000万円、2年かけて復元されたもので、周囲を高石垣で固められ、枡形門や天守台がある。天守閣はなかったというが、眺望は最高。北側の眼下には福島市の町並みが広がり、西側には安達太良山がそびえる。まさに360度の大パノラマだ。
 その光景に何とか心は晴れたが、最後は少年隊にお参りをしようと墓のある大隣寺へ。丹羽家代々の菩提寺で、14人の供養塔が建立されている。隣接して会津藩の墓も建てられており、白虎隊への思いも含めてそっと手を合わせた。
 ▽行かれる方へ 東北本線二本松駅から徒歩約25分。車は東北道二本松ICから約5分。霞ヶ城公園から大隣寺へは車で約5分。問い合わせは二本松観光連盟=(電)0243(55)5122、大隣寺=(電)同(22)1063。 
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高村智恵子の生家は明治の面影そのまま…安達太良山の上には「ほんとの空」
 詩人・高村光太郎が妻・智恵子への想いを記した「智恵子抄」。その“純愛”に触れるべく、智恵子の杜公園にある「智恵子の生家・智恵子記念館」(入館料410円)を訪ねた。生家は造り酒屋で、明治初期に建てられた建物には、屋号「米屋」、酒銘「花霞」の看板が掲げられ、新酒の醸造を伝える杉玉が下がる。当時の面影をそのままに残しているようで、2階にある智恵子の部屋からは今にも智恵子が降りてきそうな気配だ。
 裏庭には当時の酒蔵をイメージした記念館があり、晩年、病に侵された智恵子の美しい紙絵や、当時の女性としては珍しい油絵の作品などを展示。見学し終わって外に出ると、後方には智恵子が愛してやまなかった「阿多多羅(安達太良)山」の上に青空が広がる。それはまさに抜けるようで、「ほんとの空」(智恵子抄から)を見た思いだった。東北本線安達駅から徒歩約20分。(電)0243(22)6151。
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生家の裏には記念館。こちらは白亜の近代的な建物だ
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智恵子の画像を入れたまちガイドマップ。見どころは多い

他に鬼婆伝説の残る安達ヶ原の黒塚や観世寺さん、安達太良山中腹の岳温泉さんが取り上げられていましたが、長くなりますし、智恵子の名は出て来ないので割愛します。

記事では「JR東日本のデスティネーションキャンペーン開催中」とありますが、正確には「デスティネーションキャンペーン」は来年4月から、現在は「プレデスティネーションキャンペーン」中です。その一環として県全域で「花の王国ふくしまフラワースタンプラリー2025」、二本松限定で「二本松ミュージアムツアー2025~スタンプラリーでめぐる歴史と芸術のまち~」などが行われています。

また、二本松が「IT系ニュースサイトで、穴場の観光地として上位にランク」だそうで。「穴場の」ではなく「定番の」とか「王道の」とかになってほしい気もしますが、昨今のいわゆるオーバーツーリズム問題を考えると、たいした混雑もなくゆったりのんびりと見て歩ける状況の方が望ましいと思います。閑古鳥が啼いている状態では困りものですが……。

GWも終わってしまいましたが、それだけに交通系の混雑も一段落。智恵子生家/智恵子記念館さんでの「高村智恵子生誕祭」は5月25日(日)までです。その他の光太郎智恵子聖地と共に、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

亡妻の実家も酒造りだつたので以前は時々酒粕をもらひました、大好物、うまい甘酒が出来ます、

昭和28年(1953)2月22日 石井荘男宛書簡より 光太郎71歳

石井荘男は埼玉在住だった画家。光太郎も足を運んだ帝国劇場での舞踊公演「藤間節子リサイタル」を観に行き、その会場で光太郎と知遇を得、お近づきのしるしに、的にのちほど酒粕を贈ったようです。

智恵子の故郷・福島二本松の高村智恵子生家/智恵子記念館さんで開催中の「高村智恵子生誕祭」につき、地元紙2紙が報道して下さっています。特に生誕祭の一環として、当会主催で行ったコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」を前面に押し出して下さり、ありがたく存じます。

まず『福島民報』さん、先月末には記事を出して下さいました。

詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子の生誕祭 5月11日まで紙絵の実物展示 福島県二本松市の智恵子記念館 智恵子抄の収録作、音楽に乗せて披露

 詩集「智恵子抄」で知られる福島県二本松市出身の洋画家・高村智恵子(1886~1938年)の生誕祭は4月24日、同市油井の智恵子の生家・智恵子記念館で始まった。5月20日の誕生日に合わせ、智恵子が制作した紙絵の実物展示や居室の特別公開などのイベントを繰り広げている。
 紙絵は「花パターン」や「菊」など10点を11日まで公開する。上川崎和紙の紙絵制作体験を17、18、24、25の各日に催す。生家の2階にある智恵子の居室は3~6、10、11、17、18、20、24、25の各日に公開する。
 入館料は高校生以上410円、小中学生210円。問い合わせは智恵子記念館へ。
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紙絵の実物を展示している記念館

 高村光太郎連翹忌運営委員会は4月27日、二本松市の智恵子の生家で、智恵子抄の収録作を音楽に乗せて披露する朗読公演を開いた。
 高村智恵子生誕祭の一環。ボイスパフォーマーの荒井真澄さんが朗読を担当し、智恵子抄の「樹下の二人」「あどけない話」「レモン哀歌」などを情感たっぷりに披露。箏曲演奏家の元井美智子さん、テルミン奏者の大西ようこさんが美しい音色を添えた。
 聴衆は高村光太郎が紡いだ言葉の数々と、音楽の共演を満喫していた。
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聴衆を作品の世界に引き込んだ朗読公演

続いて『福島民友』さん。昨日の掲載でした。

演奏に乗せ智恵子抄朗読 二本松の記念館で生誕祭

 二本松市の智恵子の生家・智恵子記念館は25日まで、同市出身の美術家高村智恵子の20日の誕生日にちなんだ恒例イベント「生誕祭」を開催している。4月27日は市と高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会との共催で初の特別企画「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」が開かれた。
 特別企画は午前と午後の2回行われた。箏曲奏者元井美智子さんとテルミン奏者大西ようこさん、朗読家荒井真澄さんが箏曲とテルミンの演奏に乗せて詩集「智恵子抄」を朗読した。
 期間中は、岩手県の花巻南高の家庭クラブの生徒が復元した「智恵子のエプロン」の復刻展示や「智恵子を偲ぶ折り鶴展~作成編」を開催している。折り鶴展は智恵子が晩年作成した折り鶴を来館者が作成すると、オリジナル紙絵ペーパークリップを贈呈する。作成した折り鶴は秋のレモン祭に展示する。
 このほか紙絵の実物展示や生家では25日までの土、日曜日、祝日と20日に、普段公開していない智恵子の居室を特別公開する。17、18、24、25日には同市の伝統工芸「上川崎和紙」を使い、しおりなどを作る制作体験も行われる。
 開館時間は午前9時~午後4時半(最終入館は同4時)。水曜日休館。入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。

『民友』さんでは、花巻南高さんによる「智恵子のエプロン」復刻展示にも触れて下さいました。『民報』さんの記者氏にもエプロンの件を推したのですが、「また改めて」みたいなご返答でした。口約束に終わらないことを期待します。殺伐としたニュースの多い中、こうした件を報道することで、人々の癒しにつなげてほしいものです。

生誕祭は5月25日(日)まで、ぜひ足をお運び下さい。

また、末筆ながらコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」にご出演下さったお三方に改めて御礼申し上げ、さらなるご活躍を祈念いたします(といいつつ、また当会主催ということで、7月に光太郎第二の故郷・花巻での公演を行うことになり――詳細は後日――、荒井さん、元井さんがご出演なさいますが)。

【折々のことば・光太郎】003

彫刻の方は今週あの粘土を石膏にとります。


昭和28年(1953)2月16日
真壁仁宛書簡より 光太郎71歳

「あの粘土」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作。実物およそ2分の1で、小型試作、実物と比較し、その顔が最も智恵子の顔に近いと評されています。

この中型試作は、生誕祭会場の智恵子記念館さんにも展示されている他、花巻高村光太郎記念館さん、現在特別展示 智恵子の紙絵」開催中の信州安曇野碌山美術館さん、それから野外展示で大阪御堂筋で常設展示されている他、千葉県立美術館さん、浜松市の平野美術館さんなどにも同型のものの所蔵があり、時折展示して下さっています。

石膏取りの職人は牛越誠夫。光太郎もその作品を所有していた伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿でした。

『毎日新聞』さんの石川版に、光太郎と交流のあった詩人/作家・室生犀星令孫にして犀星記念館名誉館長・室生洲々子氏の連載「犀川のほとりで」が連載されています。

若干前の掲載ですが、4月20日(日)分に光太郎の名。刺身のツマのような扱いですが(笑)。

犀川のほとりで 遺伝子=室生洲々子

  こども
 こどもが生れた/わたしによく似ている/どこかが似ている/こえまで似ている/おこると歯がゆそうに顔を振る/そこがよく似ている/あまり似ているので/長く見詰めていられない/ときどき見に行って/また机のところへかえってくる私は/なにか心で/たえず驚きをしている
『星より来れる者』より

 初出は未詳だが、昭和11年に発行された書籍に収録されているので、長男豹太郎が生まれた時の作品だろう。やっと憧れた家庭を持ち、初めての子供が生まれた時の喜びと驚きを率直に書いている。豹太郎さんは私の伯父であるが、1歳で夭折(ようせつ)している。この深い悲しみを祖父母はどのように癒(いや)したかはわからない。豹太郎さんのことは、母もあまり話さなかった。
 中学3年生の時、教科書に祖父の詩「寂しき春」が収められていた。続いて、高村光太郎の「道程」。「僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる」と始まるその詩を読んだ時、なんと印象的な一節だろうと魅了された。そして、先生は私に祖父の詩の代表作である「ふるさとは…」で始まる小景異情その二を暗誦(あんしょう)させた。私はあがってしまい最後まで暗誦できず、とても恥ずかしい思いをした。教科書には、晩年の祖父の顔写真が掲載されていて、友達から「似ている」と冷やかされ、当時の私は乙女心が傷ついた。
 馬込の家の縁側で祖父が寛(くつろ)いでいる写真がある。着物の裾が捲(まく)れ、膝から下が写っている。見覚えのある脛(すね)だと思ったら、自分の脛とそっくりだった。祖父の記憶がない私にも、祖父の遺伝子は流れているのだと、実感した瞬間だった。 最近は、小指の先ほどでも、祖父の文才が遺伝していればと思う事が多いが、残念なことに文才は露ほどもなく、神経質で心配性なところだけは受け継いだようだ。
 先日、天気のよい昼下がり、雑貨屋さんを覗(のぞ)くと、幾何学模様の織物を見つけた。アフリカ民族の織った「クバ布」だという。気に入って購入した。和室の壁に掛けてみた。その横に、昔、飼っていた猫がピアノの鍵盤に乗っているモノクロの写真を掛けた。このクバ布、民芸っぽい雰囲気を醸し出すのか、和室にもモノクロ写真とも相性がよく、とても満足した。 我が家には、古い布や端切れが沢山(たくさん)あった。子どものころは、ぼろ布としか思っていなかったが、それは祖父が集めたものだった。そして、その布を骨董(こっとう)品の下や机に敷いていたようだ。今風に言うならば、インテリアコーディネートだろうか。 我が家の部屋はすべて祖父好みに整えられていた。
 私の布好き。これも祖父からの遺伝かもしれない。奇妙なところも似るものだ。

犀星と光太郎というと、犀星が光太郎没後の昭和33年(1958)、『婦人公論』に連載した「我が愛する詩人の伝記」中の「高村光太郎」の項が有名です。若い頃、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れ、智恵子に追い返された話や、次々に詩が雑誌に掲載される光太郎への嫉妬など、かなりアイロニカルな内容です。

しかし、以前にも書きましたが、同じく犀星が改造社から昭和4年(1929)に刊行した随想集『天馬の脚』では「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」と、光太郎を賞讃していました。両書の間の約30年で、光太郎に対する見方が変わったように思われます。

『天馬の脚』の方は、盟友・萩原朔太郎と共に光太郎アトリエ兼住居を訪れた際の体験が元になっています。朔太郎がこの時のことを書いたものがないかと探していたのですが、見つけました。昭和3年(1928)4月の雑誌『新潮』第25年第4号に載った「歳末に近き或る冬の日の日記」というエッセイです。

まず、前年とおぼしき時、福士幸次郎と共に光太郎アトリエ兼住居を訪れた話。そしてその約3年前、犀星と二人で複数回訪問したことも回想されています。

 僕が前に高村氏を訪うたのは、三年以前、田端に居た時であつたが、何時来ても氏のアトリエは同じであり、思ひ出が非常に深い。僕がまだ無名作家で、室生と二人で東京にごろごろしてゐた頃、図々しくもよくこのアトリエを訪ねたものだ。その頃先輩の高村氏は、僕等に親切にしてくれたので、一層思ひ出が深いのである。

ちなみに犀星は光太郎の6歳下、朔太郎は同じく3歳下(智恵子と同年)です。

犀星と光太郎が一緒に写っている写真も見つけました。
現代詩鑑賞講座 第12巻
キャプションの通り、大正7年(1918)の撮影。光太郎の向かって右下に犀星が居ます。上記の福士幸次郎も。朔太郎がここにいないのが残念ですが。

さて、令孫・洲々子氏のエッセイ。「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ」としたお祖父様同様、光太郎の「道程」(大正3年=1914)書き出しを「なんと印象的な一節だろうと魅了された」として下さいました。ありがたいことです。そして「小指の先ほどでも、祖父の文才が遺伝していればと思う事が多いが、残念なことに文才は露ほどもなく、神経質で心配性なところだけは受け継いだようだ。」とされていますが、なかなかどうして味のある文章ですね。

今後ますますのご健筆を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

今年花巻の方は雪も寒さも殊の外はげしいやうで、山口の小屋もさぞ雪に埋もれてゐる事でせう、東京はひどくあたたかく、まるで冬が無いやうで仕事にはらくですが薄気味わるい次第です、


昭和28年(1953)2月13日 照井秀子宛書簡より 光太郎71歳

マイナス20℃にもなる花巻郊外旧太田村の冬と比べれば、東京の冬など何ほどのこともなかったのでしょうが……。

最近流行りのカプセルトイ(いわゆる「ガチャガチャ」で出てくるカプセル入りの商品)です。

カエルの森工房 無事カエルストラップ ~アースカラー~

発売日 : 2025年4月下旬
発売元 : 株式会社キタンクラブ
定 価 : 400円

「カエル=帰る」から、無事に家に帰るという想いを込めたマスコットが、カラーリング新たに登場です!大好評の第1弾に続き、ラインナップは日本の美しい大自然をイメージしたアースカラーでまとめた全4種。作家自らが足を運んだ場所がモチーフになっています。大きなリュックを背負って、登山靴を履いたカエルたちは、元となる作品の雰囲気そのままに細部まで再現しました。

ラインナップは「 草紅葉 、カルデラ 、ほんとの空 、チズゴケ 」の全4種。
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ご覧の通りのリアルなカエルがリュックを背負い、登山靴を履いて凛々しく立っています(笑)。ラインナップ4種のうち、「ほんとの空」君は光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュ。
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他に「カルデラ」君も安達太良山の爆裂火口・沼の平からのインスパイアですね。「草紅葉」君は光太郎智恵子も訪れた磐梯山、「チズゴケ」君は不明ですが、やはり福島の山々にちなむのでしょうか。

早速ゲットしました。と言っても、ガチャガチャで、ではなく通販で。ある意味、インチキですが(笑)。
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どこが「ほんとの空」だ? というと(笑)、背負っているザックの色のようです。

せっかく写実的なカエル君なので、自宅兼事務所から徒歩5分ほどの田んぼで(笑)。
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リアルのカエルが背景で「ぎゃわろっぎゃわろっ」(笑)。

昔はガチャガチャといえば100円と相場が決まっていましたが、現代は200~300円程度が主流だそうですし、中には1,000円などというものもあるとのこと。400円は決して特別ではないのですね。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

仕事は毎日戦ひのやうなものでございます。

昭和28年(1953)2月13日 佐藤隆房宛書翰より 光太郎71歳

「仕事」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作。自らの命の尽きる日が送遠くないことを自覚し、こう思っていたのでしょう。

福井県からコンサート情報です。

めいおんFukui第16回演奏会

期 日 : 2024年5月10日(土)
会 場 : ハーモニーホールふくい 福井県福井市今市町40-1-1
時 間 : 18:30開場 19:00開演
料 金 : 一般:1,000円 学生(高校生まで):500円
主 催 : 名古屋音楽大学 同窓会 福井支部(担当:吉田)Tel.090-4683-7255

《出演》
 大野舞子 岡安朋美 佐々木英宏 谷川美翔 南部匡恵 西野佳世 羽生泰子
 三浦恵美子 吉田真里子 鈴木睦美 佐々木都恵 竹沢友里 前川明音 大岡訓子

<曲目>
 エレクトーン Joan of Arc 作曲 安藤ヨシヒロ
 クラリネット 歌劇「椿姫」による演奏会用幻想曲 作曲 D.ロヴレーリョ(ヴェルディ)
 サックス   アルペジオーネ・ソナタょり第1楽章 作曲 F.シューベルト
 クラリネット クラリネット・ソナタ 作品167より 作曲 カミーユ・サン=サーンス
 トロンボーン Pair Up - Duo for Trombone and Marimba 作曲 Myles Wright
 クラリネット クラリネットデュエットNo.1 作曲 B.クルーセル
 声楽     智恵子抄(連作曲)~その愛と死と~より 作曲 野村朗
 ピアノ    喜びの島作曲 C.ドビュッシー他

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「めいおん」は名古屋音楽大学さんの略称だそうです。同学卒業生、教員の方々による演奏会だそうで、やはり卒業生で名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏の「連作歌曲「智恵子抄」~その愛と死と~」から第2曲「あどけない話」と終曲「案内」が演奏されます。歌唱は岡安朋美さんと言う方だそうです。

生演奏は、野村氏と交流の深い森山孝光氏(バリトン)、康子氏(ピアノ)御夫妻の演奏で、氏の地元の名古屋、智恵子の故郷・二本松、それから都内でもと、計5~6回(もっとかもしれません)拝聴しましたが、何度聴いてもドラマチックでいい曲です。


お近くの方など、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

肋間神経痛はまだ相当いたみますが、花巻温泉か大沢あたりに一寸ゆきたい気もしますが、どうも時間の余裕が出来さうもありません、


昭和28年(1953)2月8日 宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から再上京して4ヶ月近く。そろそろ山の温泉が恋しくなってきたようです。

「花巻温泉」は松雲閣、「大沢」は大沢温泉山水閣、あるいは菊水館

オンラインのそれと、対面型のものと、2件の市民講座情報をお伝えします。

心に響くオンライン朗読講座 ~基本スキル編~

期 日 : 2025年5月9日(金)  「あどけない話」高村光太郎 
      2025年5月23日(金) 「やまなし 五月」宮沢賢治
      2025年6月13日(金) 「やまなし 十二月」宮沢賢治
会 場 : Zoomミーティングによる受講
時 間 : 各回10:30~12:00
料 金 : 9,900円
主 催 : NHKカルチャー西宮ガーデン教室
講 師 : 朗読家・神戸女学院大学非常勤講師 川邊暁美

声の響きや作品の息遣いを楽しみながら、朗読の世界に心を遊ばせてみましょう。伝わる声づくりから明瞭な発音、声の表現力の磨き方、朗読の基本をオンラインで受講していただけます。声と言葉の豊かさは心の豊かさ。人生をより豊かに、実りあるものにしてくれます。ぜひ、朗読にチャレンジしてみてください。

●1回目:ここちよく声を出すために 伸びやかな声のためのストレッチ、声を心を安定させる腹式呼吸、明瞭な発音の基本
●2回目:声の可能性にチャレンジ ベストボイスを探す、苦手な発音を克服、声の5要素を深める
●3回目:声の表現力を広げる 朗読の手順、作品の息遣いを伝える表現

PC、タブレット(LANケーブルもしくはwi-fiに接続し、通信環境の良い所から参加してください)
●マイク付きイヤホンを使う等、音声のやり取りができる状態でご受講ください。
●事前にビデオ会議ツールZoomアプリをインストールしてください。文化センターホームページ【オンライン講座受講前の準備】参照。
https://www.nhk-cul.co.jp/misc/onlinecourse_guide/
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オンラインによる朗読の講座。講師の川邊暁美氏は以前にもおそらくほぼ同じ内容の講座講師を務められています。

「心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編」/「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。
オンライン講座2件 「戦争とモダニズムの詩学 現代詩の源流と詩作のヒント」/「心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編~」。

同様に、これまでも富山県でさまざまな講座等をなさっていた茶山千恵子氏の講座。

高村光太郎智恵子講座

期 日 : 2025年5月11日(日) 智恵子亡き後の光太郎はどう生きたか
      2025年6月8日(日)   宮沢家との関わり
      2025年7月13日(日)  岩手に移住した光太郎の生活
      2025年8月10日(日)  続き
      2025年9月7日(日)  晩年の光太郎 乙女の像と智恵子
会 場 : 高岡市生涯学習センター 富山県高岡市末広町1番7号
時 間 : 各回14:00~16:00
料 金 : 運営費2,000円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,500円(初回納付)
講 師 : 茶山千恵子氏

智恵子亡き後の光太郎を支えてくれた人々、宮沢家との関わり等、そして智恵子の紙絵を発表した光太郎の思いや願いは…。一緒に楽しく語り合いましょう。


他にも様々な講座が用意されている「市民大学たかおか学遊塾前期講座」の一環と言うことです。
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茶山氏、昨年度も同じ会場で「高村光太郎『智恵子抄』講座」を受け持たれていて、その続き的な感じですが、別個の独立した講座としても十分成立するのでしょう。

既に初回の申し込み定員は埋まっているようですが、キャンセル等有るかも知れませんし、途中入会も可だそうです。また、記録のためにもご紹介しておきます。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の詩をこのやうにして読んでゐて下さる方々があるといふ事を知つて、感謝の念と一種畏怖の感とを抱かせられました、書いたものはどこでどなたが読むか知れず、ただ全力をつくすのみと思ひました、


昭和28年(1953)2月8日 向井正宛書簡より 光太郎71歳

おそらくファンレター的なものへの返信と思われます。光太郎詩、リアルタイム、あるいは少しタイムラグがあってでいろいろな読者の眼に触れていた上に、没後も読み継がれ、上記のようにさまざまな講座等でも使われているわけで、泉下の光太郎、照れくさい思いをしているかも知れません。

書いたものはどこでどなたが読むか知れず、ただ全力をつくすのみ」。まさにその通りですね。手前味噌で恐縮ですが、このブログも平成24年(2012)の開設から今日でまる13年経ちました。13年間「雨ニモマケズ風ニモ負ケズ」、1日も休んでいません。光太郎智恵子等に関する情報源としてのそれなりの役割は果たせているかと自負しております。「全力をつくす」ほどには気負って書いては居ませんが(笑)。

先月12日に開幕した和歌山県立近代美術館さんの「佐藤春夫の美術愛」展。佐藤が所蔵していた美術作品、61件148点の寄贈を受けて開催されています。

開幕前の準備段階で、そのうちの光太郎に関わる出品物について照会があり、分かる範囲でお答えいたしました。すると、その御礼というわけでしょう、同展図録及び招待券等が届きまして、恐縮している次第です。
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図録は正確には「パンフレット」と銘打たれており、A5判並製の簡易的なものです。それでもオールカラー30ページ、解説も充実しており、いい出来です。

以前にも書きましたが、光太郎作品が2点。油彩の「佐藤春夫像」(大正3年=1914 以前からの寄託品)と、ブロンズの「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)です。光太郎と交流のあった石井柏亭や川西英の作品も含まれ、他に川上澄生、谷中安規、恩地孝四郎、ゴヤ、ビゴーなどのビッグネーム。そして佐藤自身が描いた日本画や油絵。興味深く拝読しました。

同展についてはNHKさん、『読売新聞』さんの報道をご紹介しましたが、『朝日新聞』さんでも光太郎に触れつつ記事にして下さいました。

佐藤春夫ゆかりの版画や絵画を展示 和歌山県立近代美術館

 明治から昭和にかけ、小説や詩などで大きな足跡を残した和歌山県新宮市出身の佐藤春夫(1892~1964)ゆかりの版画や絵画など美術作品を紹介する展覧会「佐藤春夫の美術愛」が、県立近代美術館(和歌山市)で開かれている。6月29日まで。
 主に文学の世界で活躍した春夫だが、「二十のころの希望は文学と美術との二つに分かれていた」と若き日のことを回想している。上京後には高村光太郎と親交を結び、自ら絵筆をとって二科展で連続入選を果たしたこともある。
 同館は昨年度に春夫の遺族から美術作品148点の寄贈を受けたことがきっかけで、初めて企画展を開催した。会場には、高村が描いた春夫の肖像画や、春夫自身が筆をとった油彩画「花」などを展示。春夫と親交が深かった版画家・谷中安規(たになかやすのり)の作品なども並ぶ。
 開館時間は午前9時半から午後5時(入場は4時半まで)。休館日は月曜日(5月5日は開館)と5月7日。観覧料は一般600円、大学生330円。高校生以下、65歳以上、障害のある人は無料。
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佐藤春夫が描いた「花」、版画家・谷中安規の作品「文豪 佐藤春夫」、高村光太郎が描いた「佐藤春夫像」

同展、6月29日(日)までです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今日は日曜なので少しゆつくりいたしました、なるべく外出もせず、人にもあはぬやうにしてゐます、


昭和28年(1953)2月8日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎71歳

佐藤が青森県と光太郎を仲介し、実現を見ることとなった生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関わります。光太郎にとっては「月月火水木金金、土曜日曜あるものか」でしょうが、雇っていたモデルに対してはそうもいかないようで、この日は制作を休みました。その分、溜まっていた来翰への返信をたくさん書いています。

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