2025年04月

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、市立図書館さんの移転計画が持ち上がっています。

現在地は光太郎と関わりの深かった宮沢賢治が勤務していた市内若葉町の花巻農学校跡地・ぎんどろ公園に隣接する場所で、同じ敷地内には市の文化会館なども建っています。当方、光太郎が花巻郊外旧太田村在住時の地方紙記事などの調査のため、何度か利用させていただきました。

移転先候補地は、当初6案、それが絞り込まれて2案あったそうです。

まず、市役所に近い旧総合花巻病院跡地(花城町)。同院は賢治の主治医でもあり、光太郎の花巻疎開やその後の7年半にわたる花巻及び旧太田村での生活に物心共に多大な援助をしてくれた佐藤隆房が院長を務めていました。病院は令和元年(2019)に市内御田屋町に移転し、その跡地が候補地の一つでした。

それからJR東北本線花巻駅前という案も。

2つの案を巡っては、どちらも一長一短があり、市内でも意見が分かれていたようで、地元の方のSNS等を見ると、なかなか紛糾していたようです。

市では市民の意見等を聞く機会を設けたりし、さまざまな検討を行った結果、花巻駅前の方で、ということになったそうです。このほど、市のホームページに「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」がアップされました。
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現在、タケダスポーツさんのある場所のようです。

部外者としては、場所の決定に関しては何も言うことはありません。

で、「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」。どのように新図書館を運営していくか、そういったコンセプトが述べられており、そちらではなるほどね、と思わせられました。やはり宮沢賢治のお膝元、という部分が前面に押し出されています。

まず「基本方針」。

 本市は、宮沢賢治や萬鉄五郎をはじめとした多くの先人を輩出しています。江戸時代の先人を顕彰した「鶴陰碑(かくいんひ)」に記された人々は、自らの研鑽に精進し学術文化はもとより地域や産業の振興と発展、そして後継者の育成に努力を重ねてきました。花巻には歴史的に学びの風土があり、この精神は私たちも次の世代に受け継いでいかなければなりません。
 新しい花巻図書館の整備にあたっては、市民一人ひとりの生活や活動を支援することを基本的に考えながら、先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館を目指して、次の3つを基本方針とします。

郷土の歴史と独自性を大切にし、豊かな市民文化を創造する図書館
 花巻市は輝かしい功績を遺した数多くの先人を輩出しています。この先人達を顕彰し次の時代を担う子どもたちにその精神を継承し、郷土を愛する心を育むことができるよう、郷土資料や先人の資料の充実を図ります。
すべての市民が親しみやすく使いやすい図書館
 幼児、子ども、高齢者、障がい者、すべての市民が気軽に利用できるように、親しみやすく使いやすい施設とします。自然や周辺に調和した明るくゆったりしたスペースとし、読書はもちろんのこと、くつろぎの場でもあり、交流の場ともなる施設とします。
暮らしや仕事、地域の課題解決に役立つ知の情報拠点としての図書館
 これからの図書館は市民の読書や生涯学習を支援するだけでなく、情報を得る場、生活、仕事、教育、産業など各分野の課題解決を図る図書館であることが求められているため、広い分野にわたる資料やレファレンス(検索・相談)機能の充実を図ります。

輩出された「輝かしい功績を遺した数多くの先人」には、花巻出身ではないもの、光太郎も含めて下さっているようです。「蔵書・資料の収集について」という項の中に「宮沢賢治、高村光太郎、萬鉄五郎、新渡戸稲造などの資料を積極的に収集・保存。可能な限り開架閲覧スペースに配架」という一節があります。まぁ、現在の図書館さんでも、光太郎や賢治に関する資料類はかなり所蔵されていて一室が設けられている感じで、それを引き継ぐという部分もあるのでしょうが。

やはり賢治は別格で、「宮沢賢治に関する資料については、市民から、宮沢賢治の出身地にふさわしい図書館としてほしいなどの意見が多いことから、今後出版される図書資料はもちろん、未所蔵で購入可能な資料は古本も含め積極的に収集し、地域(郷土)資料スペースにおいて配架する予定ですが、宮沢賢治専用のスペースを設けることも検討します。また、イーハトーブ館と役割分担をし、現在イーハトーブ館が保有している専門的な研究資料や絶版等入手困難な資料等は、引き続きイーハトーブ館で保有することとし、図書館で閲覧または貸出できるようシステムの構築を検討します。」だそうです。光太郎もそれに準ずる扱いくらいにはしていただきたいところです。

また、「花巻駅前も賢治作品「シグナルとシグナレス」の舞台であり、「銀河鉄道の夜」のモチーフとなった岩手軽便鉄道や花巻電鉄の駅があった場所で賢治ゆかりの地」といった記述も。多少の無理くり感は否めないなと感じつつも「なるほどね」と思いました。

もう一つの候補地だった病院跡地の方は「宮沢賢治ゆかりの地に相応しい図書館以外の公共事業に活用することも考えられる」だそうです。
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とにもかくにも「基本方針」どおり、「先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館」実現に向けて頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

丸ビルの展らん会も御覧下されし由、古いものばかりで殆ど現代的意味はない事でした、

昭和27年(1952)11月26日 吉野秀雄・登美子宛書簡より 光太郎70歳

「丸ビルの展らん会」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から上京したことを記念し、中央公論社の肝煎りで開催された「高村光太郎小品展」。
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意外や意外、光太郎生前唯一の個展でしたが、当の光太郎自身はあまり興味がなかったようです。彫刻の制作年代の説明も無茶苦茶です。「手」は大正7年(1918)、「裸婦坐像」は大正6年(1917)です。

光太郎第二の故郷、岩手花巻から特別展示の情報です。

高村光太郎記念館特別展「中原綾子への手紙」

期 日 : 2025年4月26日(土)~2026年2月28日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(日)~2026年1月3日(土)
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 中原綾子は与謝野晶子門下の歌人で、文芸誌『明星』に作品を発表しており、同誌に作品を寄せていた光太郎と交流がありました。交流は光太郎が花巻へ疎開してからも続き、昭和26年9月に山荘を訪れて光太郎を見舞うなど生涯にわたって交流を持つ間柄であったと考えられます。この展示では、智恵子抄など作品に通じる光太郎の心境を、中原に宛てた手紙からたどります。
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高村光太郎は、昭和20年5月に花巻の宮沢家に疎開。このハガキは同年6月に疎開先の宮沢家から綾子宛に発出したもの。
※旧姓は曾我綾子、結婚によって中原姓や小野姓を名乗る時期があります。

中原綾子は明治31年(1898)の生まれ。光太郎より15歳下です。与謝野晶子の高弟の一人で、大正10年(1921)に復刊された第二期『明星』誌上に光太郎共々作品を発表し、その頃から光太郎の知遇を得ていたようです。前年の大正9年(1920)、与謝野家での歌会に招かれた作家の江口渙が残した回想に、光太郎、中原、生田長江、そして芥川龍之介も参加していたことが記されています。

昨年、中原遺族より、光太郎が中原に宛てた書簡など60点余りが花巻市に寄贈されました。中には『高村光太郎全集』に洩れていたものも含まれます。書かれた期間も長期にわたり、昭和4年(1929)から同26年(1951)までと、20年以上に及びます。そこで、今回の展示では来年2月までを4期に分け、入れ替えながら展示するとのことです。

書簡類の大部分は中原が主宰していた雑誌『いづかし』『スバル』などへの寄稿をめぐる事務的な内容ですが、それ以外に「智恵子抄など作品に通じる光太郎の心境」。心を病んだ智恵子の病状を細かく伝える長い書簡が多数含まれており、今のところ他の人物にはこうした内容の書簡を送ったことが確認出来て居らず、その意味でも貴重です。以前にも書きましたが、中原は光太郎没後すぐ、『婦人公論』に「狂える智恵子とともに」の題で智恵子がらみの書簡を発表しました。これを読んだ人々は皆瞠目しました。

書簡以外に、『スバル』などに載った作品の草稿類も。内容的には新出のものではありませんが、ペン字の書としての魅力にも溢れています。また、多くは高村光太郎記念館のある旧太田村の山小屋で書かれたもの。これらが言わば「里帰り」したという意味での価値も大きいと思います。

いずれ展示資料全て翻刻もし、図録的な書籍にすると言う計画もあるようです。また、当方手持ちの中原がらみの史料類も併せて展示していただくつもりでおります。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜はまるで夢中で数時間を楽しく過ごしました、久しぶりでしたが以前と何の変りもなくお話をきき杯をあげたのは愉快でした、山にゐてはやはり出来ない事でした、

昭和27年(1952)11月7日 宮崎丈二宛書簡より光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、前月に再上京した後、戦前からの友人知己が中野のアトリエにやってきたり、一緒に呑みに出たりということも重なりました。

11月6日には旧知の詩人・宮崎丈二と西倉保太郎、さらにその時が初対面だったようですが、二人の友人の木材商・浅野直也を交え、四人で新橋に繰り出しました。

花巻郊外旧太田村に居た頃は、当会の祖・草野心平や中原綾子なども訪ねてきましたが、そうした機会も限られていましたし、ましてや夜の町を呑み歩くということはほとんど出来ませんでした。盛岡に出た際に行きつけにしていたバーがあったり、心平のリクエストで花巻からタクシーを飛ばしてその店まで行ったり、ということもありましたが……。

新宿中村屋さんの創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、光太郎の親友・荻原守衛らを中心に、信州安曇野ゆかりの人々の群像が明治30年代から戦後までを舞台に描かれ、光太郎も登場する臼井吉見の長編小説『安曇野全五巻。永らく絶版となっていたのが、地元の大河ドラマ誘致運動などの関係もあり、先月、復刊されました。

その関係で、『産経新聞』さん。光太郎には触れられていませんが。

3千ページ2千人超登場 “大河”すぎて最後まで読めない小説「安曇野」復刊 その攻略法

 3月、文芸評論家で小説家の臼井吉見(1905−87年)の小説「安曇野(あづみの)」(ちくま文庫)が復刊した。安曇野の名を全国に広めるきっかけになった作品といわれ、臼井の代表作だ。一方で、知る人ぞ知る〝最後まで読めない〟小説でもある。どうすれば読破できるのか。長野県安曇野市にある臼井吉見文学館の平沢重人(しげと)館長(67)に攻略法を聞いた。
 小説「安曇野」は、安曇野出身で東京・新宿「中村屋」を創業した相馬愛蔵と妻の良(黒光)を軸に、明治30年代から昭和に至るまでの激動の日本を庶民目線で描いた長編大河小説。全5部作で、原稿用紙約5600枚、約10年をかけ昭和49年に完結した。
 長らく絶版になっていたが、完結50周年の昨年、安曇野市がふるさと納税を活用したクラウドファンディングで復刊費用の一部を募り、筑摩書房に働きかけ、平成の大合併で安曇野市が誕生して20年になる今年、復刊を果たした。
押し寄せる人と情報
 5巻で約3000ページになる文庫の第一部を手に取って読み始めてみる。
 《水車小屋のわきの榛(はんのき)林を終日さわがしていた風のほかに、もの音といえば、鶫撃(つぐみう)ちの猟銃が朝から一度だけ。にわかに暗くなってきた軒さきに、白いものがちらつき出した》
 明治31年12月の安曇野の風景から穏やかに始まる。しかし、読み進めるうちに、つまずくようになる。まず、個人名が次々出てくる。覚えておくべき人物か考える間もなく増えていく。背景説明や回想も多い。人物のセリフも多く、長い。読者の自分は、いつの時代の、どの場所で、誰の話を聞いているのか…。押し寄せる人と情報の“大河”に飲まれ、本を置いた。
 平沢館長に読み始めの感想を伝えると「1巻でやめたという方が大勢います。挫折するんです」と慰めてくれた。
 なぜ読みづらいのか。まずは、総勢2000人を超える登場人物の多さ。しかも実在する人ばかりで、著名人も多く、気をとられてしまう。そして対話の場面が多いこと。当の人物とは直接関係が無さそうな対話が難易度を上げる。
「不服は申さない」
 どう読んだらいいのか。「飛ばして読みます。それどころか、最初から読む必要はまったくありません」と平沢館長。第四部のあとがき「作者敬白」で、臼井がこう書いている。
 《第一部冒頭から読んでもらおうなどと虫のいいことは考えていない。それどころか、たまたま、頁(ページ)の開かれたところから読み出してもらってかまわない。第三部、第二部と逆に頁をくってもらっても不服は申さないつもり》
 平沢館長自身、初めて読んだときは、戦後の第五部、次に戦前の第四部、大正の第三部、明治の第一、第二部の順で読破したという。
 小説の主要人物は相馬夫妻と、安曇野で私塾を開いた井口喜源治、相馬夫妻の支援を受け近代彫刻の先駆者となった荻原守衛(碌山)、社会運動家の木下尚江の5人。気に入った人物にだけに着目して読んでみるのもいいという。実在の人物同士の対話であっても、史実としてはあり得ない場面もあり、小説として楽しむ余裕も必要だ。
令和の時代に
 復刊を機に、市の『広報あづみの』で、あらすじ、見どころを紹介する連載を3月号から始めた。各巻3回、計15回にわたって連載予定で、読む手助けにしてもらう考えだ。
 平沢館長は令和の時代に「安曇野」を読む意義を次のように語る。
 「臼井の好きな言葉に『邂逅(かいこう)』(出会い)があります。臼井は出会いと対話をとても大事にしていました。気の合う人だけでなく、苦手な人との対話も。対話を通じてお互いの立場を尊重しあいながら、団結し強くなっていくという考え。自分の考えに近い人たちだけになりがちな令和のSNSの時代だからこそ、大事なことだと思います」
 今回の復刊は5巻セットを1100セット。うち400セットは学校や図書館に寄贈し、販売分700セットのうち、筑摩書房販売分200セットは約1週間で完売、安曇野市販売分500セットも残り約100セットという。販売はセットのみで価格は7040円。問い合わせは安曇野市文書館(0263・71・5123)。広報あづみのは、市のホームページに掲載しており、いつでも読むことができる。(石毛紀行)
 ◇
臼井吉見(うすい・よしみ、1905−1987年) 現在の安曇野市出身。編集者、評論家、小説家。東京帝大を卒業後、旧制中学などの教員を経て、古田晃らと筑摩書房を創立。戦後、雑誌「展望」を創刊し編集長を務め、文芸評論家としても活躍。小説「安曇野」で谷崎潤一郎賞(1974年)を受賞。
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【小説「安曇野」の主要人物】
相馬愛蔵(そうま・あいぞう、1870〜1954年) 安曇野出身の社会事業家、実業家。養蚕家を経て、東京でパン屋「中村屋」を創業。文化・芸術活動も支援。
相馬良(黒光)(そうま・りょう こっこう、1876〜1955年) 仙台出身。愛蔵の妻。夫ともに「中村屋」を創業。芸術家や文化人が集う「中村屋サロン」の中心的人物。
井口喜源治(いぐち・きげんじ、1870〜1938年) 安曇野出身。愛蔵らの協力で私塾「研成義塾」を地元で創設、国内外で活躍する人材を育てた。
荻原守衛(碌山)(おぎわら・もりえ ろくざん、1879〜1910年) 安曇野出身。欧米で美術を学び、ロダンの「考える人」を見て彫刻家に。近代彫刻の先駆者。黒光に憧れる。
木下尚江(きのした・なおえ、1869〜1937年) 松本藩の下級武士の家の出身。社会運動家、作家、新聞記者。日露戦争前には非戦を訴えた。
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臼井吉見と小説「安曇野」について語る平沢重人館長=4月1日、長野県安曇野市の臼井吉見文学館

3,000ページ程度でしたらちょろいもんだと思うのですが(笑)。

ちなみに安曇野市さんのホームページには特設サイトも設けられており、そちらには人物相関図も。2,000人のほんの一部ですが。こちらには光太郎の名も。
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来週には第115回碌山忌、さらに「特別展示 智恵子紙絵」拝観のため、同市の碌山美術館さんに行って参ります。地元でどんな感じで盛り上がっているか、見て来たいと存じます。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

それでは御指示通り、八日午前九時五〇分上野発の汽車で友部駅に下車いたし、ご案内をまつことにいたします、当日豪雨等のことあつても出かけます、

昭和27年(1952)10月30日 藤岡孟彦宛書簡より 光太郎70歳

孟彦は光太郎実弟。光雲四男でしたが藤岡家に養子に出ました。植物学を修め、戦前から兵庫県農業試験場に勤務、この時期には茨城県の鯉淵学園(現在の鯉淵学園農業栄養専門学校さん)に勤務していました。

その孟彦から鯉淵学園で講演をしてくれと頼まれ、11月8日に中野の中西アトリエから茨城へ。

孟彦の回想から。

 文化祭当日(11月8日)は幸い上天気であり、時刻通り宮崎稔氏付添で来園し、小出学園長、鞍田先生、石橋先生が、学園長室で迎えられた。老体のこと、どうかと聊か心配したが案外元気であって、一時間半程の話を無事終ったので安心した。大変な人気であった。(略)此日兄は古ぼけた国民服、登山帽にゴム長靴といういでたち、山小屋生活そのまゝの姿であつた。講演がすんで講堂を出て行く際、手を振りながらサヨナラと挨拶した面影は眼にしみついて離れない。その後も泊まりがけで再び来園して貰いたく、兄も学園のミリューが万更でも無く、その考はあった様だが彫刻の仕事が予定より永引いて、28年一杯かかり、29年には療養生活に入ったため、遂に実現を見ずに終ったのは返す返すも残念でならない。後に聞けば兄の講演を知らなかった、報道陣の人もあったそうであるが大げさな外面的の事の大嫌いな兄としては非公開の講演、単純素朴な学生との接触こそ、却って満足してくれたと思う。

「ミリュー」は仏語で「milieu」、「環境」の意です。

再上京後に都内から出たのは、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際と、その後の10日間ほどの花卷郊外旧太田村への一時帰村、そしてこの鯉淵学園での講演と、3回だけでした。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの取り組みです。

まずは道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。実際に光太郎が調理した献立や使った食材を参考に、メニュー考案にあたられているのがやつかの森LLCさんです。
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今月分のメニューは「ホッケの塩焼き」「豚肉のすき焼き風煮」「切り干し大根の煮物」「じゃがいもとコーンのバター炒め」「蕗味噌」「卵焼き」「おにぎり」「筍ご飯」「よもぎ入り白玉団子」。

白玉にヨモギを入れたのは「なるほど」という感じでした。また、「ホッケの塩焼き」。光太郎は肉が大好物でしたが、昭和27年(1952)に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京して入った中野のアトリエで、大家の中西夫人に頼んだ買い物メモなどにもホッケやブリなどの切り身を依頼する内容が残っています。

同じくやつかの森さんが、こちらは調理まで担当されている花巻市東和地区の
ワンデイシェフの大食堂」さんでの月に一度の「こうたろうカフェ」。連翹忌の集いを開催する間際でバタバタしており紹介出来ませんでしたが、今年初の出店だったという先月分は3月25日(火)だったそうです。

右下画像、智恵子の故郷・二本松市の智恵子の生家/智恵子記念館さんで開催される高村智恵子生誕祭 の一環としての、共に当会プロデュースによる、コンサート「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」(4月27日(日))、花卷南高校家庭クラブさんのお手を煩わせた「智恵子のエプロン」復刻展示のフライヤーを貼って下さっていて恐縮いたしました。
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こちらのメニューは「鶏むねローストのなぞソース」「たまご巾着」「バッケ風味のピザ」「春ワカメの3色和え」「イカ風味大根」「生麩のすまし汁」「きざみのせご飯」「お新香」「干柿のミルフィーユ」「コーヒー」。これで1,000円は首都圏だと考えられない価格ですね。ちなみに道の駅の「光太郎ランチ」も800円だか900円だかのお手頃価格です。

「なぞソース」はタマネギ、ニンジンがベースとなっているとのこと。「バッケ」はふきのとう。すまし汁に使われているお椀はメンバーの方のお宅に代々伝えられている塗り物だそうで、なるほど、こういうところにも工夫がされているのかと感心いたしました。

今月分は30日(水)に出店だそうです。既に30人ほどの予約が入っているとのこと。しかし、このブログが若干ネタ切れ気味でして(笑)、また日を改めましてご紹介いたします。
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【折々のことば・光太郎】

東京の空気は悪いですが、健康はまづ大丈夫らしく、このアトリエで自炊を始めました、

昭和27年(1952)10月29日 
宮沢清六宛書簡より 光太郎70歳

再上京後、外食や寿司の出前を取ることも増えましたが、基本的には自炊でした。

7年間暮らした花巻郊外旧太田村とは異なり、少し歩けば桃園町の商店街で、一通りの買い物は出来ました。そこで
七輪なども入手していました。

足腰が弱り、外出がほぼ不可能になっても先述の通り、大家の中西夫人や家政婦さんに頼んで食材を買ってきてもらい、調理は自分でという生活が最晩年まで続きます。

茨城県から演劇公演の情報です。

百景社アトリエ公演2025『売り言葉』

期 日 : 2025年4月26日(土)~4月29日(火・祝)
会 場 : 百景社アトリエ 茨城県土浦市真鍋3-10-18
時 間 : 4月26日(土)14:00 4月27日(日)13:00 / 17:00
      4月28日(月)19:00 4月29日(火・祝)14:00 
料 金 : 一般:3,500円 高校生以下:1,000円

彫刻家であり詩人でもあった高村光太郎が、妻・智恵子のことを綴った『智恵子抄』――純愛詩集として知られたこの作品を題材として、劇作家・野田秀樹が"智恵子"側の目線から描いたのが「売り言葉」です。一人芝居として書かれたこの戯曲を、百景社の山本晃子、鬼頭愛に加え、久保庭尚子を客演に迎えて、女優3人で上演します。百景社の3年ぶりのアトリエ公演です。
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野田秀樹氏脚本による演劇「売り言葉」。初演は平成14年(2002)、南青山スパイラルホールさんで智恵子役・大竹しのぶさんによる一人芝居でした。翌年、野田氏の『二十一世紀最初の戯曲集』(新潮社)に収められ、その後プロアマ問わず多くの劇団さんや個人の方による公演が全国で行われています。確認出来ているかぎり昨年は新宿区の雑遊さんで「平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』」公演があり、今年に入ってからも兵庫県姫路市で劇団プロデュース・Fさんの「第76回アトリエ公演 売り言葉」が上演されました。

大竹しのぶさんによる初演時に忠実に一人芝居で行われる場合と、複数の役者さんで分担される場合と両方がありますが、今回は後者です。どのように役分けをされるのか、そのあたりが演出家の方の工夫の見せどころという感じです。

「売り言葉」公演を紹介するたびに書いていますが、野田氏の脚本、この手のものの中では光太郎ディスり度が最も高く、上演を観られた方のSNS等拝見すると「光太郎が嫌いになった」という御意見も目立ちます。ただ、光太郎のモラハラ的な部分も確かに前面に押し出されていますが、智恵子自身が「かくあらねば」という自縄自縛に陥り、自業自得という描き方にもなっています。まぁ、そこに気づけなかった、或いは気づいていても的確に対応しなかった光太郎、というふうにも捉えられますが……。

とにかく光太郎智恵子の世界、単なる純愛の物語というわけではありませんし、単純に無理解だった夫の引き起こした悲劇とも言えません。そのあたりが充分に表現されることを祈念いたします。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

このほどはリンゴ二箱の御恵贈をうけ、まことにありがたく存じます、東京に来てみると、まるで比較にならぬほど二六園のリンゴは美味で、皆に喜ばれます。皆驚嘆してゐます。

昭和27年(1952)10月29日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から上京したのが10月12日。かつて光太郎の花巻疎開やその後の生活に援助を惜しまなかった佐藤隆房医師からリンゴが中野のアトリエに届きました。

「二六圓」は自宅のかたわらに佐藤が作ったリンゴ園。太平洋戦争開戦前、日中戦争は既に泥沼化していた時期、佐藤が院長を務めていた総合花巻病院で汲み取った入院患者などの糞尿をどうするか、世の中はもはやそういったこともきちんと対応出来なくなっており、苦肉の策として肥料にするために作りました。佐藤の随筆集『非常の時』(昭和57年=1982)に記述がありますが、ただの畑での野菜類だとあまり大量の肥料は逆に毒になるところ、リンゴならそれが防げるのだそうで。「二六」は昭和15年(1940)のいわゆる皇紀2600年にちなむ命名です。

実際、岩手のリンゴ、関東のスーパーなどで買うものとは全く別物です。当方も冬場に花巻に行く際はかならず道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで箱買いし宅配便で自宅に発送、さらに東北新幹線新花巻駅前の山猫軒さんで袋詰めのものを購入して帰ります。

都内から製本関連のワークショップ情報です。

永岡綾『製本家とつくる紙文具』ワークショップ 第8期④本の改装シリーズ「ドイツ装」 at TEGAMISHA BOOKSTORE

期 日 : 2025年4月20日(日)
会 場 : TEGAMISHA BOOKSTORE 東京都調布市下石原2-6-14 ラ・メゾン2階
時 間 : 10:00~13:00
料 金 : 5,300円(税込)

2017年12月に調布(柴崎)の書店でスタートし、その後オンライン、吉祥寺、文箱(松本店)と場所を変えながら、現在は京王線・西調布駅から徒歩5分にある「TEGAMISHA BREWERY」の2F「TEGAMISHA BOOKSTORE」にて毎月開催している「製本家とつくる紙文具」。ノートやファイルづくり、書籍の改装など、現在までに合計約60回、のべ600名以上の方に参加いただいている人気のワークショップです。

製本技術を使った紙文具作りを教えてくれるのは、2017年に『週末でつくる紙文具』(グラフィック社)を、また2025年1月8日には同書に16ページ・5アイデアを追加した増補版『製本家とつくる紙文具』(グラフィック社)を出版された永岡綾さん。本業は編集者でありながらも、イギリスで製本技術を学ばれ製本家としても活動されています。

2025年1月からスタートした第8期では、『製本家とつくる紙文具』の中に新たに収録された新章「ペーパーバック(文庫本)の改装」より、5つの本の改装を1作品ずつ順に教えていただきます。

4月につくるのは「ドイツ装」 。「 ドイツ装」とは、表紙の「背」と「平(ヒラ)*表表紙と裏表紙の部分」に別の素材を使った「継ぎ表紙」のこと。今回のワークショップでは、背にはお好きな色のブッククロスを、平には手紙社のオリジナルペーパーからお好きな柄を選び、自分だけの組み合わせをお楽しみいただけます。

表紙に使う手紙社のオリジナルペーパーは、なんと350種!! ブッククロスのほか花布、栞ひも、見返しは複数色の中からお選びいただけますので、組み合わせを楽しみながら、あなた好みの一冊を完成させてください。コントラストをきかせた色選びをして、キリっと端正な佇まいにするのもおすすめです。

仕上がりは、しっかりとしたハードカバーにより、上製本の安定感がありつつも、どこか軽やか。表紙にはお好きな文字で箔押しを。本のタイトルを入れるもよし、所有者のお名前を入れるもよし、模様を加えるもよし。自分だけの愛おしい一冊となりそうです。
*箔押しに関しては、もしも時間内に終えられなかった場合は、材料をお渡ししご自宅にて行なっていただきます。その場合も手順をお伝えしますのでご安心ください。

また今回は参加費に文庫本代が含まれますので、受付時に以下よりお好きなものをお選びください(在庫がある分に関しては、当日の変更も可能です)。
*4/14以降にお申し込みの場合は、発注時期の関係上、ご希望に添えない場合がございますので予めご了承ください。
<文庫本ラインナップ>
 『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治) 『注文の多い料理店』(宮沢賢治)
 『檸檬』(梶井基次郎)    『グッド・バイ』(太宰治)
 『走れメロス』(太宰治)   『桜桃』(太宰治 )
 『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)  『地獄変』(芥川 龍之介 )
 『風たちぬ』(堀辰雄)    『みだれ髪』(与謝野晶子)
 『悲しき玩具』(石川啄木)  『智恵子抄』(高村光太郎)
 『家霊』(岡本かの子)    『堕落論』(坂口安吾)
 『一房の葡萄』(有島武郎)  『李陵・山月記』(中島敦)
 *全てハルキ文庫/280円文庫からのご用意となります。

手紙社のオリジナルペーパーを使って、製本技術を学びながら紙文具作りを行う「製本家とつくる紙文具」ワークショップは、各回新たな製本の技を習得しながら、わかりやすく教えていただけるので、1回のみの参加も大歓迎です。

本の改装ができるようになると、本棚の蔵書をおそろいに仕立て直したり、自作の本を特装版に仕立てたり、大切な人へのギフト本を特別に装丁したりと、楽しみは膨らむばかり……! ぜひお気軽にご参加ください。
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きれいな紙を使って文庫本を手作業で改装、自分だけのオリジナル書籍を作るというわけですね。なかなかシャレオツです。

主催者側で素材となる文庫本ラインナップを提示していますが、光太郎の『智恵子抄』も選択肢に入れて下さいました。ありがたし。しかも公式サイトのサムネイル(というには大きいのですが)的画像が『智恵子抄』。
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ギフトにもいいかもしれません。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おかげさまで無事東京につきましたが、その日からジヤアナリズムに包囲されて、まるで暇なく過ごしてゐました、やうやくアトリエに落ちつきましたが、山口の生活をなつかしく思ひ出してゐます、 東京は予想通り乱雑で閉口です、

昭和27年(1952)10月29日 浅沼政規宛書簡より 光太郎70歳

浅沼政規は光太郎が7年間過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校校長です。昨年亡くなった浅沼隆氏の父君でした。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京したのが10月12日。その日は駒込林町の実家に一泊し、翌日、結局終焉の地となる中野の中西利雄アトリエに入りました。

中野に向かう前、実家にほど近い、かつて智恵子と過ごし、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰したアトリエ兼住居の後を訪れています。

昨日も引用させていただいた、光太郎令甥の髙村規氏が、平成25年(2013)の碌山忌記念講演会「伯父 高村光太郎の思い出」で語った回想から。

それで、光太郎を連れてここへ行ったんですね。そしたらやっぱり板囲いなんですよ。でも木の節目やなんか外れたところがぽつぽつ穴があいているもんですから、光太郎は自分が二十四年間も智恵子さんと一緒にいた場所だし、二人で一所懸命新しい芸術のために努力した場所ですからやっぱり懐かしさも一入なんでしょうね。隙間から中を丹念に一ヶ所一ヶ所見て歩いているんですよ。こっちは学校へも遅れそうになっちゃうけどそんなことはまあいいやと思って。鼻が潰れそうになるくらいむきになって中を覗いているんですね。ああ気の毒になと思って。まだその頃は国民服に長靴っていう服装だったんですよね。それに帽子かぶって。当時は昭和二十七年で、僕の顔見知りはいませんでした。近くにいた近所のおかみさんだったかな、だんだん不思議そうな顔し出したんです。「誰かが土地を覗いている」っていうふうに思ったんでしょうね。おかみさんが光太郎に何か言ったら光太郎が気の毒だなと思って。そこへ飛んで行ってその奥さん連中に「あの人はね、高村光太郎っていって僕の伯父さんで、昔ここにあったアトリエに住んでて、『智恵子抄』で有名な智恵子さんと一緒にここにいた人で、今東京へ帰ってきてね、懐かしくて一所懸命自分の住んでた所を丹念に見てるんだから好きなようにさせといて」と言いました。光太郎は亡くなった智恵子さんを抱いて上がったこの階段を上がったり下りたりしてましたよ、何べんも何べんも。

昭和27年(1952)の時点では、アトリエ跡地はまだ空き地でした。建物部分は焼けて跡形もありませんでしたが、玄関前にあった大谷石の石段は残っていたそうです。画像は戦前、尾崎喜八の一家と。
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公式サイトに情報が出るのを待っていたのですが、まだ出ていません。しかし開幕が迫っていますので、見切り発車でご紹介してしまいます。

春季企画展 特別展示 智恵子紙絵 高村智恵子紙絵 高村光太郎詩稿

期 日 : 2025年4月19日(土)~6月22日(日)
会 場 : 碌山美術館杜江館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 9:00-17:10
休 館 : 4月21日(月) 5月以降無休
料 金 : 大人 900円 高校生 300円 小中生 150円 20名様以上団体料金

高村智恵子の紙絵は、会期中展示の入れ替えを行います。

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光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の個人美術館、碌山美術館さん。

髙村家所蔵の智恵子紙絵、光太郎詩稿のそれぞれ実物が展示されます(紙絵は複製も)。めったにない機会です。常設展示では光太郎ブロンズも出ています。

併せてご紹介しますが、守衛の忌日「碌山忌」も会期中に催されます。会場内グズベリーハウスで地元の方々を中心としたコンサート、夕方から守衛の墓参(館の方、サポートメンバーの方が車を出して下さいます)、その後再びグズベリーハウスで懇親会を兼ねた碌山を偲ぶ会。昨年の模様はこちら
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また、碌山忌の関連事業として記念講演会も企画されています。

碌山美術館第115回碌山忌記念講演会 姜尚中 アートが拓く地域力

期 日 : 2025年4月19日(土)
会 場 : 穂高会館 長野県安曇野市穂高5047
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 無料(要碌山美術館入場チケット)
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かつてNHKEテレさんの「日曜美術館」で司会を務められ、同館で老朽化した碌山館(本館)補修のためのクラウドファンディングを行った際には、真っ先にメッセージを送られた姜尚中氏が講師です。ただ、既に定員となってしまっているようです。しかしキャンセル等もあるかと思われますので一応。

当方、22日の碌山忌の日に伺います。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】fbf18a8c

花巻出発の際はあんな深夜にわざわざ停車場までお見送り下され、感謝いたしました、無事東京につきましたが、ひどく忙がしい事がつづき今日に至りました、


昭和27年(1952)10月29日 
駿河哲夫宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻駅から夜行列車に乗ったのが10月11日。翌朝9時45分、上野駅に着き、大勢の出迎えを受けました。

早速、上野駅で生ビールを堪能、そしてこの日は駒込林町155番地の実家に泊まりました。

光太郎令甥の髙村規氏が、平成25年(2013)の碌山忌記念講演会「伯父 高村光太郎の思い出」で語った回想から。

 光太郎が東京へ帰って来た晩、家へ泊って久しぶりで兄弟とか伯父さん、僕の妹やなんかみんな集まって、茶の間で、自分が三十才で独立するまで住んでた家ですから、昔のまんま、仏壇でも何でも残ってるもんですから、久しぶりで物珍しげに部屋を見て回ってました。戦前からいたばあやがまだ元気でいたんですね。ばあやが挨拶に部屋へ出て来て。そしたら「おばさんまだ元気だったの、よかった。じゃあお小遣いをあげなきゃ」とか言いながら、昔とおんなじ気分で炬燵へ足を突っ込んで。その晩はかなり遅くまでしゃべってました。何を作るのか。僕は高校三年生でした。

微笑ましいエピソードです。


BS11(イレブン)さん他で、4月7日(月)から放映が始まった深夜アニメ「ざつ旅-That's Journey-」。原作は石坂ケンタ氏による漫画で、KADOKAWAさんの月刊コミック誌『電撃マオウ』で平成31年(2019)に連載が始まり、コミックス(単行本)は既に12巻まで出ています。

新人賞は獲ったものの、まだ連載は持たせてもらっていない、プロの漫画家志望の女子大生・鈴ヶ森ちかが主人公で、作品のインスピレーションを受けるため、日本各地を旅するというストーリー。行き当たりばったりで雑な計画の旅が多く、そこで「ざつ旅」。

アニメの第2話の行き先が宮城県松島周辺です。

ざつ旅-That's Journey- 第2旅「伊達じゃない! きときとふたり旅」 

BS11 イレブン 2025年4月14日(月) 23:00〜23:30

漫画賞の新人賞を受賞した漫画家志望の女子大生・鈴ヶ森ちかは、ある日、編集部に新作のネームを3本持ち込んだものの全ボツを食らってしまう。心が折れそうになったとき、唐突に胸の中に溢れてくるものがあった。
「どこか、旅にでたい…」
面白半分でSNSにて旅先のアンケートを取ってみると、まさかの大きな反響があり、引くに引けない状態に…!

でも、旅にでたい気持ちは本物。覚悟を決めたちかは、アンケート頼りの行き当たりばったりな旅を始めることに。時に一人で、時に友人たちと−−。「ざつ」だからこそ思いがけない出会いが待っている、“ざつ旅"へ出発 !

またしてもネームがボツになったちかは、悪循環を断ち切るために再び旅に出ようとする。アンケートの結果、今回の旅先は宮城県の松島に決定! 松尾芭蕉も訪れた…。

出演 月城日花 鈴代紗弓 平塚紗依 佐藤聡美 日笠陽子 小林ゆう 窪田等
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松島と言えば瑞巌寺さんですね。こちらの庫裡(くり)には光太郎の父・光雲の手になる巨大な聖観音像(通称「光雲観音」)が納められています。

原作の石坂氏の漫画では、主人公・ちかが瑞巌寺さんを訪れ、おそらく「光雲観音」も目にしたという感じになっていますが、権利関係への配慮でしょうか、像自体は描かれていませんでした。
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ところがアニメでは、いろいろクリア出来たのでしょう、「光雲観音」が登場します。
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過日もちらっと書きましたが、先日、昭和3年(1928)の「光雲観音」落成法要の際に配付された『松島聖観世音奉安趣意書』を入手しました。

それによれば、元々は注文主もなく観音信仰の篤かった光雲が畢生の作を作ろうと独自に作り始め、やがて噂を聞きつけた個人や法人から「ぜひ買いたい」との声が殺到。いろいろ審査した結果、当時あった宮城電気鉄道という会社が落札したという感じです。同社は現在のJR仙石線にあたる路線を保有し運行していまして、昭和2年(1927)には路線が松島公園駅(現在の松島海岸駅)へと延伸され、その記念と、無事故等の祈願のためという趣旨でした。当初は瑞巌寺さんではなく、松島公園駅近くのお堂に奉納されましたが、その後、太平洋戦争の影響で同社は消滅、像も瑞巌寺さんへ移されました。ただ、移転の時期は当方把握しておりません。

また、趣意書に像高は一丈二尺(約3.64㍍)であることも明記されていました。よくある規格の一丈六尺(約4.85㍍)かと思っていましたが、一回り小さいサイズでした。

さて、アニメ「ざつ旅-That's Journey-」、先週の「第1旅 はじめの1225段」を拝見しました。行き先は会津、「1225段」は羽黒山湯上神社さんの石段。その他、飯森山や栄螺堂、東山温泉などが舞台でしたが、それぞれの風景の絵がとにかく緻密で感心しました。日本のアニメーション技術の凄さを再確認した感じです。上の画像にある次回の「光雲観音」も精妙に描かれています。おそらく写真等をCG処理しているのだと思われますが。

漫画「ざつ旅-That's Journey-」。通読はしていませんが、以前から存じていました。コミックス第3巻(令和2年=2020)で、光太郎第二の故郷・岩手花巻が舞台となり、主人公・ちか他が当方も定宿としている大沢温泉自炊部さんに宿泊、という設定でしたので。
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その頃には東北新幹線新花巻駅にポスターが貼ってありました。また、当の大沢温泉自炊部さんの無料休憩スペースに現物が置いてあり、拝読。残念ながら光太郎ゆかりの宿、という記述がありませんでしたが、花巻の旅全体としては宮沢賢治記念館さんやマルカン大食堂さんなどが舞台となっていて「ふむふむ」という感じでした。花巻の方にはおなじみの「満州にらラーメン」も登場します。

アニメの放映がいつまでで、コミックスの何巻までが扱われるのか等不明ですが、花巻編まで含めていただきたいものです。

ちなみにBSイレブンさん以外にも、地方の地上波局でも放映があります。
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まずは第2旅・松島編、ご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

東京にゆくと随分もみくちやにされさうですが、なるべく逃げて仕事第一としますが、貴下とは以前から考へてゐたこととていづれゆつくりのみたいものです、

昭和27年(1952)10月6日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京する直前の書簡です。一見のんきなことを書いていますが、自らの余命がそう永くないことを自覚していた光太郎、とにかく像の完成を第一に考えていました。そのため訪問客やいろいろな誘いはできるだけ断るつもりでした。

大正2年(1913)、光太郎が先行して滞在、あとから智恵子も後を追って現れ、結婚の約束を果たしたという信州上高地。歩いて登るしかなかった時代、光太郎智恵子も辿った「クラシックルート」にある「岩魚留小屋」に関して、『毎日新聞』さん長野版が、光太郎の名を引きつつ報じています。

歴史ある建物 CFで再生へ 「岩魚留小屋」後世に 松本・徳本峠ルートで有志ら /長野

 長野県松本市安曇の島々地区から徳本(とくごう)峠を経て、北アルプス上高地に至る登山道沿いにある休業中の山小屋「岩魚留(いわなどめ)小屋」の復活を目指すプロジェクトを、県内外の有志が始めた。小屋は明治時代に日本アルプスを世界に紹介した英国人宣教師、ウォルター・ウェストンも利用したという。現在は老朽化が進み、有志はクラウドファンディング(CF)で小屋の改修資金を募る予定。
 市教育委員会によると、徳本峠の東の標高1260メートルにある岩魚留小屋は1911(明治44)年に民間会社が開設し、木造平屋建て66平方メートル。現オーナーの奥原英考さん(71)の体調不良で2012年から休業している。老朽化のため、復活には修繕や電気などインフラ整備が必要になる。
  小屋の前を通る登山道は、1928(昭和3)年に梓川沿いの釜トンネルが開通して車が通るようになるまで、上高地に入る主要路だった。ウェストンや日本山岳会を創立した小島烏水(うすい)をはじめ、小説家の芥川龍之介や詩人の高村光太郎が歩いた近代登山の歴史を刻むクラシックルートで、登山口の島々から上高地の明神まで約20キロ。現在は土砂崩れのため通れなくなっている。
 有志らは昨年11月に「岩魚留小屋再生プロジェクト」を発足させた。代表の塩湯涼さん(29)=京都市出身=は南アルプスの山小屋で働き、島々に昨春移住。奥原さんが後継者を探していると知り、名乗りを上げた。メンバーには建築やデザインの担当者もいる。
 塩湯さんとプロジェクトリーダーの臼井幸代さん(39)は3月末、松本市の登山用品店で講演し、小屋の現状や今後の計画を説明した。塩湯さんは「歴史的価値を持つ小屋を後世に残すため、外観を保ったまま修復する。自然探検など、岩魚留小屋らしい新たな楽しみ方ができるようにしたい」と話した。臼井さんも改修資金の確保に協力を求めた。
 また、島々から徒歩4~5時間の地点にあるこの小屋は、登山者の宿泊・避難場所として安全面でも意義があるとした。今年は現地調査や廃棄物処理、トイレと水場の整備をする予定で、清掃や荷物運び、小屋見学の講習会も計画している。26年に小屋の修繕やインフラ工事に取りかかり、27年の営業再開を目指している。
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画像左奥に映っているのは桂の木です。推定樹齢数百年で、光太郎智恵子も目にしました。のちに光太郎智恵子それぞれ、桂の木の印象を文章に残しています。

「徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた」(光太郎 「智恵子の半生」昭和15年=1940)

「絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木」(智恵子 「病間雑記」大正11年=1912)

ここにも一度行ってみたいと思いつつ、果たせないでいます。なかなか半端な気持で行ける場所ではありませんので、しっかり計画を立てて向かわねばなりませんし。

保存の為のクラウドファンディングが立ち上がったら、微力ながら協力させていただくつもりでおります。皆様にも是非よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】002

このたびは友人藤島宇内君のお世話によりお宅のアトリエを拝借出来るやうになり、まことにありがたく、好都合にて、お宅様に対し厚く感謝いたして居ります。来る十月十三日頃参上の運びとなるかと存じますが、又いろいろ御厄介をかけるやうになりますこと恐縮の至ですが、何分お願申上げます。

昭和27年(1952)10月6日
 中西富江宛書簡より 光太郎70歳

光太郎終焉の地となった中西利雄アトリエの持ち主、利雄夫人の富江に宛てた書簡から。

こちらの保存運動も展開中です。よろしくお願い申し上げます。

智恵子の故郷・福島県二本松市で、観光客誘致促進のための取り組みがいろいろと始まっています。そこであちこちで光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語が。

まず、県全体の「ふくしまプレデスティネーションキャンペーン」を受けて、智恵子のソウルマウンテン・安達太良山周辺で「ほんとの空ツーリズム!」。地方紙『福島民報』さん、3月26日(水)の記事。

「ほんとの空ツーリズム!」始動 福島県二本松市の安達太良山周辺情報を発信・提供

 福島県二本松市の安達太良山周辺の観光の魅力を一体的に発信、提供する「ほんとの空ツーリズム!」の取り組みが始動した。関係団体による第1回推進会議が25日、二本松市の市民交流センターで開かれた。同日、情報サイト「Adventara(アドベンタラ)」を開設するとともに、新年度には登山や温泉、地域の文化を楽しむ旅行・体験企画を国内外に向けて提案する計画だ。
 4月に始まる「ふくしまプレデスティネーションキャンペーン(DC)」を視野に、関係機関・団体・事業者が協力して安達太良山にスポットを当て、県内の観光誘客推進を図る。ガイドの案内による登山をベースに、歴史や湯守文化の発信、登山道の保全活動などを交え、城下町の菓子店や酒蔵巡り、猪苗代湖観光などと組み合わせた旅行や体験を企画し、情報サイトで提案していく。建て替え工事に入る安達太良山の山小屋「くろがね小屋」を名物カレーの出張販売を通して発信する。
 推進会議は県観光物産交流協会の守岡文浩理事長を座長に、藤城良教県観光交流局長、二瓶盛一猪苗代町長、河原隆二本松市観光課長、環境省、山岳、観光、旅館、交通などの関係者約30人が参加し、意見を交わした。

情報サイト「Adventara(アドベンタラ)」はこちら
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続いて二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』の今月号。

4月号は毎年そうですが、市内の桜の名所を「安達太良のほんとの空に桜舞う」のフレーズで紹介しています。令和元年(2019)に同市で開催された「2019全国さくらシンポジウム」のキャッチフレーズでしたが、使い続けられています。
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それから、これも毎年期間限定で特別運行されている市内循環バス「二本松春さがし号」についても。こちらは智恵子生家/智恵子記念館も廻ります。
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福島交通さんのサイトから。

二本松の名所旧跡を巡る「二本松春さがし号」を運行いたします。

二本松駅前より、詩人で彫刻家である高村光太郎の妻智恵子が育んだ住まい、少年隊も眠る丹羽家の菩提寺「大隣寺」などを巡る、二本松市内を循環する “二本松春さがし号”臨時バスを運行しますので、是非ご利用ください。
【注意事項】
     ・道路交通状況等により遅れが発生します。列車への乗り継ぎには十分余裕を
      お取りください。
     ・混雑時のマスク着用、ご乗車前の手指消毒にご協力ください。
  ご理解ご協力を重ねてお願い申し上げますとともに、皆様のご乗車をお待ちいたしております。

運 行日  : 2025年4月9日(水)~4月18日(金)毎日運行
「二本松春さがし号」ご案内(時刻表運行マップは添付ファイルをご確認ください。)
お問い合せ先 : 福島交通㈱二本松営業所 0243-23-0123

運行が始まったというニュース。地方紙『福島民友』さんから。

二本松で春をさがそう 名所旧跡を巡る臨時バス運行

 福島県二本松市中心部の名所旧跡を循環する恒例の臨時バス「二本松春さがし号」の運行が9日から始まった。18日までの毎日、JR二本松駅前を発着する計6便が運行している。
 国指定史跡「二本松城跡」がある霞ケ城公園や智恵子の生家、二本松少年隊の供養塔がある大隣寺などを巡るコースで、同駅前を除く9カ所で停車する。午前9時~午後3時台のおおよそ1時間おきに運行され、ゆったりと城跡や公園の散策などをしても次の便に乗車して移動できる。
入館料割引の施設も
 にほんまつ観光協会と福島交通二本松営業所が運行。運賃は中学生以上170~500円、小学生以下90~250円で乳幼児無料。乗り降り自由の1日フリー乗車券は中学生以上500円、小学生以下250円で、大山忠作美術館と智恵子記念館の入館料が割引となる。
 運行初日の9日に二本松駅前で出発式が行われ、安斎文彦会長、鈴木友和営業所長がテープカットした。
 問い合わせは同営業所(電話0243・23・0123)、同協会(電話0243・24・5085)へ。
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「運行開始」といえば、安達太良山のロープウェイ。こちらも『福島民友』さんから。

残雪輝く安達太良山 4月12日からロープウエー本格運行

 福島県の安達太良山の奥岳登山口(950メートル)~山頂駅(1350メートル)を結ぶあだたら山ロープウエイが5、6の両日、特別運行され、登山者や観光客が残雪輝く絶景を楽しんだ。本格運行は12日から。
   例年雪がない山頂駅近くの薬師岳パノラマパークは約60センチの積雪。山頂駅では長靴の無料貸し出しもあり、来場者は、雪上から白い山頂と「ほんとの空」とのコントラストに歓声を上げていた。
 料金は中学生以上が往復2000円、4歳~小学生1500円。山開きは5月18日の予定。問い合わせはあだたら高原リゾート(電話0243・24・2141)へ。
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安達太良山はまだ銀世界なのですね。

一昨日ご紹介した「高村智恵子生誕祭」もありますし、各種スタンプラリー等も開催中。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の命日に、御恵送の小包到着、早速霊前に供へる事が出来ました、深い感謝に満たされました、

昭和27年(1952)10月6日 倉田福子宛書簡より 光太郎70歳

智恵子命日は10月5日。「ご霊前に」ということで、京都在住の倉田から京都銘菓などが送られてきました。

例年ですとこの頃に花巻町中心街の松庵寺さんで法要を行って貰っていましたが、この年は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京する直前でバタバタしており、中止しました。

翌日には山小屋のあった旧太田村の農家で光太郎の壮行会が催されています。
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詳細な情報が昨日になって出たのですが、すでに始まっています。

秘仏三面大黒天立像(高村光雲作)特別御開帳

期 日 : 2025年3月28日(金)~6月1日(日)
会 場 : 雨降山大山寺 神奈川県伊勢原市大山724
時 間 : 08:45~17:00
料 金 : 400円(中学生以下無料、団体割引あり)

大山寺は天平勝宝四年(755年)に東大寺別当 良弁僧正が開山して以来、1270年の節目を迎えました。つきましては、前回1260年記念に倣い、秘仏である高村光雲師作の三面大黒天立像の特別御開帳並びに、1270年記念法会として大般若転読会を執行します。ぜひこの機会にご参拝ください。

大般若転読会(1270年記念法会)
【期日】5月18日(日)【時間】11:55~ 【ご祈祷料】6,000円~
※法会時間中の本堂内のお参りは、ご祈祷のお申し込みをされた方に限ります。
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大山寺さんは天平勝宝7年(755)開山の古刹。裏手にある大山阿夫利神社さんと共に「大山詣」が有名で、特に江戸の庶民などの間で人気だったようです。

こちらの秘仏・三面大黒天像が光太郎の父・光雲作で、秘仏の扱い。それが10年ぶりにご開帳だそうです。

通常の大黒天はお顔が一つですが、三面大黒天像は阿修羅像などのように三つのお顔。正面のお顔は大黒天、両脇の二つのお顔がそれぞれ毘沙門天、弁財天のお顔という、いかにもありがたみが増しそうなスタイルです。

光雲作の三面大黒天像は、信州善光寺さんの仁王門にも納められています。こちらは秘仏などではなくいつでも拝観可。仁王像も光雲と高弟の米原雲海の手になるものですし、三面大黒天とセットなのが三宝荒神像。それぞれひな形は善光寺史料館さんで展示されています。
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善光寺さんの三面大黒天像は三面四臂。白木ではなく彩色も為されています。大山寺さんの像もおそらくそうだと思われます。

再来週にはご尊顔を拝しに参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今丁度上京直前といふ次第で、何かとせはしく、落ちつかないので揮毫も駄目ですが、ともかくも書きましたので同封します、いけなかつたら止して下さい、

昭和27年(1927)10月4日 田村昌由宛書簡より 光太郎70歳

翌年刊行された田村の詩集『下界』題字揮毫に関わります。
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ここまでくると、何かこう、いろいろなものを突き抜けてしまっている感のある文字だと思います。

若干先の話ですが、当会プロデュースのイベントも含まれているもので、早めに告知させていただきます。

高村智恵子生誕祭

期 日 : 2025年4月24日(木)~5月25日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 水曜 ※祝日の場合は翌日
料 金 : 大人(高校生以上)410円(360円)
      子供(小・中学生)210円(150円) (  )内団体料金

高村智恵子の誕生日にあわせてさまざまなイベントを開催します。
智恵子の生家は、明治初期に建てられた造り酒屋で、屋号は『米屋』、銘柄は『花霞』と言いました。智恵子は明治19年5月20日にここで生まれ、育ちました。
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 智恵子の生家 二階特別公開
  公開日 4月26日(土) ~4月29日(火・祝) 
      5月3日(土・祝)~5月6日(火・祝) 10日(土)・11日(日)
      17日(土)・18日(日)・24日(土)・25日(日)
  通常公開していない「智恵子の居室」を特別に公開いたします。

 奇跡といわれる「紙絵」実物展示
  展示期間 4月24日(木)~5月11日(日)
  展示場所 智恵子記念館展示室
 
 上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験
  開催日 5月17日(土)・18日(日)・24日(土)・25日(日)
  開催場所 智恵子生家
  上川崎和紙を使用し、智恵子の紙絵をモチーフとしたグッズを作成できます。

 智恵子を偲ぶ折り鶴展~作製編~
  開催日 4月24日(木)~5月25日(日)
  開催場所 智恵子記念館
  智恵子も晩年作製した折り鶴を、オリジナルで作ってみませんか。
  作製いただいた折り鶴は、次回自主事業開催時に展示いたします。
  作製いただいた方へ、今季限定「紙絵ペーパークリップ」をプレゼントいたします。

 特別企画 音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた
  開催日 4月27日(日)
  開催場所 智恵子生家一階座敷
  筝曲及びテルミンの演奏に乗せた、詩集『智恵子抄』の朗読公演をお楽しみください。
  出演 荒井真澄(朗読) 大西ようこ(テルミン) 元井美智子(箏曲)

 特別企画 「智恵子のエプロン」復刻展示
  開催日 4月26日(土)~5月25日(日)
  開催場所 智恵子記念館ロビー
  大正時代の『婦人之友』で詳しく紹介された高村智恵子がデザインし着用していた
  エプロンを、岩手県立花巻南高等学校家庭クラブの生徒さんたちが復元して下さいました!
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通常非公開にしている生家二階部分の特別公開、紙絵実物作品の展示、紙絵制作体験ワークショップなどの例年行われているコンテンツに加え、当会主催の位置づけで2件、入れていただきました。

1日限りのミニコンサートで「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」。都内在住の箏曲奏者・元井美智子さんの箏、神奈川県民大西ようこさんの電子楽器テルミン演奏に乗せ、仙台市のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんの朗読で「智恵子抄」詩篇を。
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上の画像は4月2日(水)に行いました第69回連翹忌の集いでのもの。左から荒井さん、元井さん、大西さんです。

これまでもお三方中のお二人が組んで、という公演等が各地で複数回ありました。

大西さん×荒井さん
 花巻高村光太郎記念館ロビーコンサート。
 第22回レモン忌/智恵子生家。
 第61回連翹忌レポート。
 「朗読とテルミンで綴る 智恵子抄」。
 宮城レポートその2 松島~仙台。

荒井さん×元井さん
 荒井真澄さん、元井美智子さん コラボ公演3件 花巻・仙台。
 仙台レポートその1 「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」。
 荒井真澄さん、元井美智子さん コラボ公演3件 動画、報道。

元井さん×大西さん
 「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」レポート。
 朗読を伴う演奏会情報――余白露光 テルミンと民族楽器のライブ演奏/文星堂 秋の音楽会。
 
元井さん・大西さん組は光太郎に関わらない公演もつい先月になさっています。

それならいっそ三人でやってみませんか、と、水を向けたところ、皆さんに快諾いただきまして、今回の公演が実現することとなりました。ノーギャラなので申し訳ありませんが、智恵子生家で演奏や朗読ができるということで、いい機会だと捉えて下さいました。

大西さん曰く「連翹三人娘」(笑)。当方は「智恵子抄Perfume」「智恵子抄キャンディーズ」「智恵子抄かしまし娘」などと言っていたのですが(笑)。

もう1件、「「智恵子のエプロン」復刻展示」。こちらは光太郎第二の故郷・岩手花巻の岩手県立花巻南高校さんがご協力下さっています。

そもそもは一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と吉田幾世」が始まりでした。吉田幾世は戦後、盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を設立し、学校ぐるみで光太郎と交流のあった人物ですが、盛岡生活学校は雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部を母体としていました。同誌を主宰し、光太郎と交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が東京で始めた自由学園さんの精神を受け継ぐものです。

で、企画展の関連行事としての講座講師を頼まれ、『婦人之友』と光太郎の関わりを詳しく調べている中で、同誌の第18巻第7号(大正13年=1924 7月)に載った智恵子のエプロンを紹介する記事を見つけました。講座の中でこの件も紹介し、「どなたか復元して下さいませんかね」とつぶやいたところ、聴かれていた花巻南高文芸部顧問の菊池久恵先生が「それなら」と、家庭クラブさんに声を掛けて下さいました。

そして昨年、花巻で開催されたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」で完成したエプロンを初披露。岩手の地方紙では大きく取り上げられました。
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さらにやはり花巻での「岩手県高校文化連盟花巻支部第28回合同作品展」でも展示されましたし、文芸部さんの部誌『門』でも詳しく紹介されています。

そこで以前から「智恵子の故郷の二本松の皆さんにも見ていただきたいものですね」と話していたのですが、上記「連翹三人娘」の公演を当会でプロデュースすることになり、「ではドサクサに紛れて(笑)エプロンの展示もお願いしてみましょう」という流れでした。

こちらは後から突っ込んだもので、「高村智恵子生誕祭」の公式情報には出ていませんが、今後、福島の地方紙等に情報提供をし、取材していただこうと思っております。日程的には今後の相談ですが、同校の先生方、生徒さん数名が現地を訪れる方向でも話が進んでいますし。

というわけで、長々書きましたが、「高村智恵子生誕祭」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

もうこの山はすつかり秋で栗の実が小屋の屋根にぱらぱら落ちます、


昭和27年(1952)9月21日 上田静栄宛書簡より 光太郎70歳

上田は智恵子の親友・田村俊子の内弟子だった詩人。大正初め、光太郎智恵子の結婚披露直後に田村夫妻と共に駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れ、当時としては珍しかったレモネードを振る舞われたそうです。その頃から智恵子はレモンを愛していたようです。

そろそろ各地の学校さんで入学式ですね。昨日から今日明日あたりがピークでしょうか。

各地の大学さんで売店や食堂などを展開している大学生活協同組合さんで、「2025新学期テーマフェア「47都道府県を舞台にした小説フェア」」が始まっています。

2025新学期テーマフェア「47都道府県を舞台にした小説フェア」

この春、日本全国の「ものがたり」を旅しませんか? 地元から離れて新たな道を進むあたなも、地元の魅力を再発見したいあなたも。まだ見ぬ日本を「本」の世界で巡ってみませんか?

旅行や研究のフィールドワークの参考になるかも⁉ 47都道府県全てが舞台となった作品が勢ぞろいです♪ 知っている場所が舞台となった物語を深読みしたり、気になる都道府県を選んで旅気分に浸ったり、まだ見ぬ日本を本の世界で巡ってみませんか? 
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なるほどね、という感じです。010

で、福島県は我らが光太郎の『智恵子抄』。ありがたし!安達太良山や阿武隈川が謳われていることからの選定ですね。

この企画、対象書籍はすべて文庫本で、文庫版の『智恵子抄』というと、当会の祖・草野心平が編んで解説「悲しみは光と化す」も書いた新潮文庫版(初版 昭和31年=1956)が最もメジャーですが(現在140刷くらい)、そちらではなく角川春樹事務所さんのハルキ文庫版『智恵子抄』(初版 平成23年=2011 解説・蜂飼耳氏)です。新潮文庫版が戦後の『智恵子抄その後』などからも詩篇を取っているのに対し、ハルキ文庫版は戦前のオリジナル龍星閣版(昭和16年=1941)を底本にしたもので、戦後の作品は入っていません。そこでページ数も少なく、税込294円と格安です(平成23年(2011)の刊行当時は「280円文庫」と銘打っていましたが)。

文庫版では、他に角川文庫版『校本 智恵子抄』も版を重ねています。こちらは中村稔氏の編集・解説で、龍星閣版を元に、戦後の作品などを「『智恵子抄』補遺」として付加しています。

異論もありましょうが、メジャー度で言うと新潮文庫版>角川文庫版>ハルキ文庫版だと思われます。そのハルキ文庫版をラインナップに入れているのはいわゆる「大人の事情」でしょうか(笑)。
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ちなみに現在も書店に並んでいるものとして他には集英社文庫『レモン哀歌 高村光太郎詩集』。故・粟津則雄氏の解説で「智恵子抄」系は3分の1ほどです。それから絶版となってしまいましたが、社会思想社現代教養文庫にかつて『紙絵と詩 智恵子抄』がありました。題名の通り紙絵写真をふんだんに使い、編集は伊藤信吉、故・髙村規氏、故・北川太一先生と、凄いメンバーでした。

それから、今回のフェアで光太郎第二の故郷・岩手代表は門井慶喜氏の直木賞受賞作『銀河鉄道の父』。平成29年(2017)にハードカバーで講談社さんから刊行され、令和2年(2020)に文庫化されました。

昭和20年(1945)に駒込林町のアトリエ兼住居を空襲で焼け出された光太郎を花巻に招いてくれた宮沢政次郎(賢治の父)を主人公に、光太郎と交流の深かった宮沢家の人々が総出演。映画版では光太郎に触れられませんでしたが、原作では光太郎の名が出て来ます。

大学生の皆さん、ぜひ生協でお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

おてがみにつづいて「劉生絵日記」到着、すばらしい本になつて喜びました、こんな本の出版は龍星閣以外ではとても出来ないでせうし、企で及びつかないでせう、


昭和27年(1952)9月21日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎70歳

澤田はオリジナル『智恵子抄』版元の龍星閣社主。『劉生絵日記』は光太郎と親しかった岸田劉生の絵日記。全三巻で龍星閣が刊行しました。光太郎の名も記されています。澤田は造本の達人と言われ、光太郎もその点は認めていたようです。

企画展示情報を2件。

まずは新潟から、今日開幕です。

彫刻と金工展

期 日 : 2025年4月7日(月)~6月21日(土)
会 場 : 敦井美術館 新潟市中央区東⼤通1-2-23 北陸ビル1F
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 日曜・祝日
料 金 : 一般500円(400円) 大高生300円(250円) 中小生200円(150円)
      ( )内団体割引・20名以上 土曜日は小・中学生無料

館蔵コレクションより、木彫やブロンズの名品と、彫金や鋳造の金工作品を一堂に展示いたします。

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両方ともフライヤーに画像が出ていますが、光太郎の父・光雲作の木彫「ちゃぼ」(明治22年=1889)と「狆」(昭和4年=1929)が出されます。「ちゃぼ」は同館で昨年開催された「新春特別展 新春工芸名品展」でも展示されました。

もう1件、和歌山県から。

佐藤春夫の美術愛

期 日 : 2025年4月12日(土)~6月29日(日)
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 一般600(480)円、大学生330(290)円  ()内は20名以上の団体料金
      高校生以下、65歳以上無料

佐藤春夫旧蔵の美術作品を中心に、春夫と美術の関わりを紹介
 和歌山県新宮市に生まれた佐藤春夫(1892〜1964)は、明治から昭和にかけて、詩や小説の創作を中心に、文学の世界で大きな足跡を残しました。同時に春夫は、「二十のころの希望は文学と美術との二つに分かれていた」と回想しており、その若き日に抱いた美術へのあこがれを、生涯持ち続けることになります。
 昨年度、当館は春夫が所蔵していた美術作品、61件148点の寄贈を受けました。本展はそれを記念し、春夫ゆかりの美術作品を多くの方にご覧いただく機会として開催します。
 春夫は新宮で育った少年のころ、詩書画に関心の高い父の影響を受けつつ、大石誠之助や西村伊作らがもたらした新しい思想や文化にもふれます。さらに同地を訪れた石井柏亭ら一流の美術家や文化人との交流を通して、文学とともに美術への関心を深めました。上京後には自身の肖像画制作を通して高村光太郎と親交を結ぶなか、自らも絵筆をとって絵画の制作を始め、設立されたばかりの二科展では連続入選を果たします。
 自著の装幀や挿画は美術家と共同で仕事をする機会を生み出し、それが若い美術家の支援にもつながりました。なかでも大正から昭和の戦前期にかけて、木版画で特異な幻想の世界を描き出した谷中安規(たになか・やすのり)とは特別な交流が生まれ、春夫の手元には多くの作品が残されました。本展では詩情あふれる木版画を手がけた川上澄生の作品、また里見弴、武者小路実篤とシリーズを分け合ったゴヤの連作版画集〈ロス・カプリーチョス〉など、春夫が愛蔵した版画も数多くご紹介します。
 佐藤春夫の文学に関心を持つ方はもちろん、多くの方に文豪の知られざる美術コレクションからその美術との関わりについて理解を深めていただくことで、改めて春夫の作品世界を知り、楽しんでいただく契機にもなればと考えています。
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同館に以前から寄託されている光太郎油彩画「佐藤春夫像」(大正3年=1914)が出ます。こちらはことあるごとに出品されていますし、他館への貸し出し等も積極的に行って下さっています。ありがたし。
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それから、告知文にある新たに寄贈を受けた「春夫が所蔵していた美術作品、61件148点」中に、光太郎ブロンズの「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)が含まれていました。これも出品されると思われます。

元々は光雲が頼まれた大倉夫妻の木彫肖像のためのエスキスでしたが、光太郎自身がテラコッタにし、さらに光太郎没後に実弟・豊周がブロンズに鋳造、当会顧問であらせられた北川太一先生や、花巻の佐藤隆房医師らに贈られた物と同一です。大理石の台座がついています。

他に、佐藤家では光太郎作と伝わっていたという蟬の木彫も含まれていましたが、同館学芸員氏より問い合わせがあり、画像で確認したところどう見ても他の作家の作でした。

それはさておき、それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

東京のアトリエの借用料を貴方で負擔して下さるといふ事を知りました、予期してゐなかつた事ですが、大助かりなので、御好意忝く、ありがたくお受けする事にいたしました、


昭和27年(1952)9月2日 津島文治宛書簡より 光太郎70歳

津島文治は太宰治の実兄にして、青森県知事。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受けることになった中野の中西利雄アトリエ関係です。当然と言えば当然ですが、家賃は青森で負担するとのこと。

第69回連翹忌の日に発行の扱いの雑誌等、2件ご紹介します。

で、まずは高村光太郎研究会刊『高村光太郎研究 46』。
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基本的に、前年秋に行われた学会としての「高村光太郎研究会」での発表者が、発表内容を元に原稿を書くというものです。そこで今号は昨年11月23日(日)に開催の第67回高村光太郎研究会で発表された大島裕子氏の「長沼智恵子、縁談話の真実」、熊谷健一氏の「智恵子と光太郎の人間学~美の求道者の生涯に思う~」など。

それから当方、連載を持たせていただいておりまして、一年間で発掘した『高村光太郎全集』等に漏れていた作品の集成「光太郎遺珠」と昨年一年間の関係の動向をまとめた「高村光太郎没後年譜」。

「光太郎遺珠」の方は、短歌一首、談話筆記を含む散文が4篇、アンケート回答で1篇、出版物広告に掲載された短評その他の雑纂4篇、それから今回は書簡が多く、これまで部分的に活字になっていたものの追補や原文が英文でその訳のみ見つけたものを含め、25通。
日本近代文学図録
画像は雑纂のうち、光太郎自筆の年譜です。明治39年(1906)から大正3年(1914)にいたる期間が書かれていますが、いつ、何のために書かれたものかが不明です。

「高村光太郎没後年譜」は、このブログ昨年12月末に載せた記事を根幹としています。
回顧2024年 1~3月。 回顧2024年 4~6月。 回顧2024年 7~9月。 回顧2024年10~12月。

上の方に奥付画像を貼っておきました。ご入用の方、そちらをご参照し注文なさって下さい。

もう1点、当会刊行の『光太郎資料63』。

故・北川太一先生が刊行されていたものを引き継がせていただいて、連翹忌の4月2日、智恵子忌日・レモンの日の10月5日と年2回出しています手作りの冊子です。002

  「光太郎遺珠」から 岩手にて その一
 光太郎回想・訪問記 『非常の時』より 佐藤隆房
 光雲談話筆記集成
  高村光雲先生実話の梗概 観音信仰の由来と聖観音彫刻の動機
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 三里塚御料牧場(千葉県)
 音楽・レコードに見る光太郎 佐藤春夫作詞「湖畔の乙女」
 高村光太郎初出索引 昭和8年~10年

個人的な推しは光太郎の父・光雲の「高村光雲先生実話の梗概 観音信仰の由来と聖観音彫刻の動機」。宮城県松島の瑞巌寺さんに納められている巨大な聖観音像の落成法要の際に配付された『松島聖観世音奉安趣意書』を入手しまして、そこに載っていたものです。同像がオーダーメイドではなかったことや、像高が一丈二尺(約3.64㍍)であること、制作の助手が高弟の山本瑞雲、その弟子の阿井瑞岑、塗漆(としつ)は福田作太郎、彩色は萩原兵助であったことなど、これまで未知の事柄でした。
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福田と萩原はやはり光雲高弟の関野聖雲が手がけた京都浄瑠璃寺の吉祥天女立像模刻に際しても腕を揮っています。

こちらはご入用の方、お申し付け下さい。

【折々のことば・光太郎】

この夏花巻を訪れ、宮沢さんの実家を見舞つたり、詩碑に詣つたりされたのは大変よかつたと思ひました、お心に多くの滋養を与へる事になるでせう、阿多多羅山や阿武隈川をも見られたとの事、なつかしく思ひます、


昭和27年(1952)9月2日 栗原克丸宛書簡より 光太郎70歳

栗原克丸は埼玉県比企郡福田村(現・滑川町)在住で、同郷の元東松山市教育長の故・田口弘氏と親しい間柄でした。光太郎の山小屋は訪れなかったようですが、宮沢家や光太郎が揮毫した賢治詩碑、智恵子の故郷・福島二本松などを周遊したようです。

過日の第69回連翹忌の折にゲットしました。

高村光太郎と尾崎喜八

発行日 : 2025年4月2日
著者等 : 北川太一 著  石黒敦彦 編  山室眞二 装丁
版 元 : 蒼史社
定 価 : 2,500円+税

北川太一氏が尾崎喜八研究会の「尾崎喜八研究」誌に書かれた尾崎喜八と高村光太郎についての文章を集めた第一部と、シンジュサン工房から刊行されたツマキ文庫の『配達された「五月のウナ電」』(二〇〇四年)全文、それを捕捉する尾崎喜八の高村光太郎と星見表についての短文「光太郎向学」を加えた第二部によって構成した。……「書物はそれ自身の運命を持つ」 この一冊が、北川さんの「高村光太郎ノート」シリーズ(蒼史社および文治堂書店)とともに、未来に向けて読み継がれていくことを願っている。
(「はじめに」より)

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目次
 はじめに
 第一部 高村光太郎と尾崎喜八005
  島津謙太郎のこと
  尾崎さんと高村さん―『聖母子像』をめぐって
   一 砂川の土蔵
   二 聖母子像
   三 三月二十日
   四 みいちゃん
   五 『私たちの本』
  愛と創作 その詩と真実
   Ⅰ 雑誌『エゴ』
   Ⅱ 「愛と創作」
   Ⅲ 「ジャン・クリストフ」
   Ⅳ 「出会い」の時
  ロランと光太郎をめぐる人々
   Ⅰ アトリエにて
   Ⅱ 音楽への誘い
   Ⅲ ロダンとベルリオーズ
   Ⅳ 誌への出発高田博厚
   Ⅴ 最初の詩集
   Ⅵ 結婚前後
   Ⅶ ロランと光太郎をめぐる人々
  各章の主要事項解説 石黒敦彦
 第二部 配達された「五月のウナ電」
  配達された「五月のウナ電」
  五月のウナ電 北川太一
  解説 北川太一
  制作覚書 山室眞二
  捕捉『光太郎向学』 尾崎喜八
  北川太一略歴


尾崎喜八は、当会の祖・草野心平と並んで、光太郎と最も深く交流のあった詩人と言えるでしょう。心平とはまた違う方向からのアプローチで光太郎と親しくなり、目次からも概観できますが「ロマン・ロラン」や「音楽」が二人を結びつけるキーワードでした。さらに尾崎の妻・實子(みいちゃん)は、光太郎の親友だった水野葉舟の息女で、幼い頃から光太郎にかわいがられていました。尾崎と實子の長女の故・栄子さんは智恵子に抱っこされたこともありますし、のちに智恵子が心を病んでから手がける「紙絵」を、まだ健康だった頃の智恵子に作ってもらってもいます。折り紙を折りたたんで切り込みを入れ、拡げて出来るシンメトリーのタイプです。そうした家族ぐるみの交流は、心平との間にはあまりありませんでした。
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左上画像は戦前の本郷区駒込林町光太郎アトリエ兼住居前。左から栄子さん、光太郎、尾崎、實子。右上画像は尾崎夫妻の結婚記念に光太郎から贈られたミケランジェロ模刻の「聖母子像」です。

永らく連翹忌の運営その他、光太郎顕彰活動に当たられた北川太一先生は尾崎一家とも親しく、尾崎の歿後に立ち上げられた「尾崎喜八研究会」にご協力。機関誌『尾崎喜八研究』などに玉稿を度々寄せられました。そのあたりが本書の「第一部」です。

「第二部」は、光太郎詩「五月のウナ電」(昭和7年=1932)がらみ。北川先生が解説を書かれ、染織家の志村ふくみ氏、版画や装丁を手がけられている山室眞二氏が組んで小さな本を作られ、それに関わります。

今年が北川先生生誕100年ということで、栄子さん令息の石黒敦彦氏が、それらを一冊にまとめて刊行されたというわけです。まだ斜め読みですが、久々に先生の文章をまとめて読める幸せに心躍らせております。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

薬サルフオルありがたくお受けとりしました。今までは売薬のモスキトンなど使つてゐましたが、この薬は上等のやうです。丁度今はツナギなどといふ兇猛なアブが出てゐるので大助かりです。

昭和27年(1952)8月18日 森荘已池宛書簡より 光太郎70歳

「サルフオル」は合成抗菌薬のサルファ剤。9月13日の日記に「左ももに田虫様のもの出来いたむ、サルフアをつける」の記述があります。「モスキトン」は虫除け、虫刺されの薬として販売されていた商標名です。
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一昨日は光太郎忌日・第69回連翹忌でした。光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんにおいて関係の方々にお集まりいただき集いを開催いたしまして、その関連でご紹介すべき事項も残っているのですが、一旦離れます。

本日はテレビ放映関連で。

まず、終わってしまった話ですが一昨日の連翹忌当日、テレビ朝日さん系の「グッド!モーニング」内の「林修のことば検定」。視聴者向けのクイズ形式、リモコンのⓓボタンで解答受付というスタイルですが、光太郎が問題に取り上げられました。

当方は連翹忌の集いに持参する配付資料などを車に積み込んだりしている最中でしたので拝見出来ませんでしたが、ご覧になった方がスマホでテレビ画面を撮影、画像を送って下さいました。
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詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の「智恵子は東京に空が無いといふ」をマクラに、光太郎が昭和20年(1945)、生まれ故郷の東京から岩手に移った理由についてでした。
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常に緑ボタンの選択肢はダジャレです(笑)。
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で、宮沢家との関わりに触れ、結局正解は赤の「疎開」。
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さらに宮沢家も終戦5日前の空襲で焼け出され、戦後になって花巻郊外旧太田村の山小屋に移るのですが、そこで戦時中の翼賛活動を深く反省したというお話も。ありがたし。

ちなみに昨年の連翹忌の日にもこのコーナーで光太郎を取り上げて下さいました。

昨年はマニアックな問題だったためでしょう、スマホやパソコンで正解を調べようとした皆さんがこのブログサイトに殺到(笑)。
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今年も通常の6倍くらいの閲覧数となりました。ありがたいところです(笑)。

さて、これとは別に明日放映の番組。

新美の巨人たち【春のアート旅(1) 上野恩賜公園×本仮屋ユイカ】

地上波テレビ東京 2025年4月5日(土)  22:00〜22:30
BSテレ東      2025年4月12日(土)   23:30~24:00

▼春の上野公園でアート旅!なぜ上野はアートの発信地となったのか?▼その秘密を400年前に誕生した巨大寺院から地下空間の巨大オブジェまで時代を象徴する作品を楽しみながら探っていく▼広重の浮世絵に描かれた情緒ある上野のお山。明治以降は公園に生まれ変わり日本の近代化の舞台となった▼日本初の動物園や音楽ホール、美術館が次々と誕生して上野は文字通り文化の中心となっていく▼そんな上野公園の華麗な美の歴史を俳優の本仮屋ユイカさんが辿る。

出演者 アートトラベラー:本仮屋ユイカ  ナレーション:上野樹里
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上野恩賜公園が舞台ということで、光太郎の父・光雲が主任となって制作された西郷隆盛像なども紹介されるかな、というところです。予告動画等には映っていませんでしたが……。

もう1件。

“団塊"物語「比較文学研究の大家 平川祐弘氏が語る日本と日本人」

BSイレブン 2025年4月6日(日) 19:30〜20:00

戦後80年を経た今、私たち日本人は本当の意味で国際人となり得たのだろうか?『和魂洋才の系譜』の著者である比較文学研究の大家、平川祐弘氏が、日本と日本人に問う。

今回のゲストは、東京大学名誉教授で比較文化史家の平川祐弘氏。比較文学研究の大家である平川氏が翻訳を手掛けたダンテの『神曲』は、出版から半世紀以上の時を経た今でも、名訳として広く読み継がれている。また、森鴎外を通じて急激な近代化する明治期の日本の精神性を解き明かした『和魂洋才の系譜』は、トップエリートたちに多大な影響を与えてきた。敗戦から高度経済成長を成し遂げた昭和、“失われた30年"といわれながらも経済大国の地位を維持してきた平成、令和。時代が移り変わる中でも、戦後80年にわたって日本は、国際社会の一角で存在感を示してきた。しかし、私たち日本人は本当の意味で国際人となり得たのであろうか?平川氏の問いかけは、日本の将来に向けて鋭く問いかける。

出演者 【司会者】牛島信(弁護士・作家) 田村あゆち(フリーキャスター)
    【ゲスト】平川祐弘(東京大学名誉教授 比較文化史家)
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平川祐弘氏がご出演、御著『和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本』(昭和46年=1971)を中心に語られるとのこと。同書は番組説明にあるように森鷗外がメインの書物ですが、光太郎や与謝野晶子、徳富蘇峰らにも触れられています。ちらっとでも光太郎の話題になってほしいものです。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間は折角来られたのに大したお構ひも出来ず失礼しました、それでも此処の様子を見てもらつて本望でした、まだ今後何処へゆくか分りませんが当分はここにゐるつもり、後には北海道屈斜路湖の方へ移住するかも知れません、

昭和27年(1952)8月13日 藤岡孟彦宛書簡より 光太郎70歳

孟彦は光太郎実弟。光雲四男でしたが藤岡家に養子に出ました。植物学を修め、戦前から兵庫県農業試験場に勤務していましたが、この時期には茨城県の鯉淵学園に勤務。現在の鯉淵学園農業栄養専門学校さんです。

秋に光太郎が再上京するということで、それなら鯉淵学園で講演を一席頼まれてくれないか、というわけで、花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れたようです。そこで11月に講演が実現しました。その筆録は翌年1月発行の『農業茨城』第5巻第1号に「芸術と農業」の題で掲載され、筑摩書房刊『高村光太郎全集』第19巻に収録されています。
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当分はここにゐるつもり」は、「乙女の像」が完成したらまた太田村に戻ることを意味します。「後には北海道屈斜路湖の方へ移住するかも」は、どの程度本気だったのか……というところです。

昨日は第69回連翹忌でした。光太郎智恵子ゆかりのお店、日比谷松本楼さんにおきまして、全国から関係の方々等がお集まりくださり、光太郎を偲ぶ集いを持たせていただきました。

そちらが夕方5時30分から。その前に例年のルーティンですが、まずは光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)から半世紀以上連翹忌の運営に携われられた北川太一先生ご夫妻の墓参。桜のお寺としてひそかに有名な文京区の浄心寺さんです。
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続いて都立染井霊園、光太郎を含む髙村家墓所へ。
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それぞれ既にお花が手向けられていましたが、自宅兼事務所から持参した連翹を追加させていただきました。右上はおまけ(笑)。なぜか髙村家墓所の近くでは毎回といっていいくらい猫の姿を見かけます。

集いの会場、日比谷公園松本楼さん。こちらでもまだ桜が散らずに残っています。
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遺影、一年間で刊行された主な書籍など会場のセッティング。
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配付資料の袋詰めや、連翹の花生け、受付など、多くの方が手伝って下さいました。ありがたし。

そして午後5:30、開会。

ざっとご挨拶をさせていただき、献杯。音頭は光太郎実弟・豊周令孫の櫻井美佐様にとっていただきました。
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着席ビュッフェ形式で、会食。
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一段落ついたところで、恒例となっています参会の方々によるスピーチ。

まずは今回初めてご参加下さった、宮沢賢治実弟・清六令孫の和樹氏。花巻で2度公開対談を一緒にさせていただいたりで、当方としては仲良しになったという感覚でして。先方はそう思われていないかも知れませんが(笑)。
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同じ花巻ということで花巻市役所の光太郎記念館担当の方に寄贈された中原綾子関連の資料等について、光太郎顕彰活動を進められているやつかの森LLCさんの藤原代表、それから昨年度岩手県の「食の匠(たくみ)」に認定された新渕和子さん(右上画像)。新渕さんは昨日、手作りのご当地スイーツ「きりせんしょ」や大福など、たくさんお持ち下さいました。

やはり昨年度、「住みよいみやぎづくり功績賞」を受賞された女川光太郎の会・佐々木英子様。
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その女川で、平成3年(1991)に光太郎文学碑除幕記念として公演された「オペラ智恵子抄」を作曲された仙道作三氏。10年ぶりくらいのご参会でした。

一旦、スピーチを打ち切り、料理を食べきっていただいて、参会者の皆様同士で懇談の後、再開。ご存命であれば100歳になられた北川先生が都立高校教諭であらせられた頃の教え子の皆さんの会「北斗会」を代表して池上徹様、尾崎喜八令孫にして水野葉舟令曾孫・石黒敦彦様(左下)、昨年絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』を刊行された太平洋美術会の坂本富江様(右下)。かつて智恵子も所属した同会も120周年だそうで。
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やはり昨年、光太郎の彫刻刀修繕に触れた『瀏瀏と研ぐ――職人と芸術家』を刊行された土田昇氏。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連で十和田市企業誘致サポーター・山田安秀氏。

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山田氏もご加盟いただいている光太郎終焉の地・中西利雄アトリエ保存会世話役の曽我貢誠氏、今月中旬から智恵子紙絵展を開催して下さる信州安曇野碌山美術館・武井敏学芸員、光太郎オマージュの作品を作曲中のフルート奏者・吉川久子様、今月27日(日)、二本松の智恵子生家で当方プロデュースの公演をなさる「連翹三人娘」(朗読の荒井真澄さん、箏曲の元井美智子さん、電子楽器テルミンの大西ようこさん)。
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最後の締めに、朗読家・出口佳代様、フリーアナウンサー・早見英理子様による光太郎詩「僕等」(大正2年=1913)、「元素智恵子」(昭和24年=1949)朗読。
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ソロで読まれる部分と、お二人で声を合わせて読まれる部分と、実に工夫されていて、参会の皆様からも「素晴らしい」のお声が多数。

盛会の内に終えることができました。ご協力いただきました全ての皆様に、この場で御礼申し上げます。

来年は記念すべき第70回の連翹忌となります。さらに多くの皆様がご参加下さることを期待しております。参加資格は唯一つ。「健全な精神で高村光太郎を敬愛すること」のみです。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生の東京行はただ仕事の為のみで仕事が終つたら又山へ帰つてくるつもりで居ります。東京へ行つても多分アトリエに籠居して、銀座あたりへは行かないでせう。(十月中旬上京)中野桃園は貴下の旧アドレスだつたのでゆかりのふかいところと思ひました。


昭和27年(1952)8月13日 奥平英雄宛書簡より 光太郎70歳

「乙女の像」制作終了後は、再び花巻郊外旧太田村の山小屋に帰るつもりで居た光太郎。実際、像の除幕後に10日間ほど一時帰村しますが、宿痾の肺結核のため、過酷な寒村での暮らしに耐えられる状態ではありませんでした。次善の策として、厳冬期には中野、それ以外は太田村と、二重生活も目論みますがそれも不可能。結局は中野の貸しアトリエでその生涯を閉じることになります。69年前の昨日、昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分でした。前日から東京は季節外れの大雪に見舞われました。それは光太郎を敬愛して止まなかった岩手の人々の餞(はなむけ)、或いは先に逝った最愛の妻・智恵子からの贈り物、はたまた「冬」を愛した光太郎が終生追い求めた「自然」からの祝福だったのかもしれません。

本日4月2日は、光太郎忌日・連翹忌です。光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、中野の中西利雄アトリエで第1回連翹忌の集いが開催され、今年で69回目となります(東日本大震災とコロナ禍で、集い自体は中止とした年もありましたが、それぞれ当方が代表して墓参を行い、それを以て1回とカウントさせていただきました)。
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本日も午後、まず墓参を済ませ、午後5時から光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんにて、全国から関係の方々にお集まりいただいて集いを催します。1年ぶりにお会いする方も多く、久闊を叙するのが楽しみです。

このところ数年間、4月2日のこのブログは光太郎が亡くなった当時の関係者の回想文等をご紹介しています。令和3年(2021)翌年(2022)は当会の祖・草野心平、同5年(2023)で光太郎と親しかった美術評論家・奥平英雄、昨年(2024)が中西利雄夫人にして光太郎の最期を看取った中西富江。

今年は、4月4日に青山斎場で執り行われた光太郎葬儀の様子を、光太郎と交流のあった詩人・岩瀬正雄の回想から。

 高村さんが亡くなってから、今日でもう二週間になる。高村さんの死なれたときの草野心平氏の詩に、アトリエの屋根に雪が降り積もることが書いてあったが、昨日、賀茂神社のお祭りに出掛けてみると、いつの間にか桜が咲いて、散つたのか知らなかつた。しかし、日が経つにつれ、先生を失つた私の心の中の穴が、次第に大きくなつてゆくのを覚えるのであつた。そのうつろな穴は、生身の高村さんと私の文学的な、人間的な絆が断れたというだけでなく、高い精神の典型的な明治の人との袂別をいたく感じせしめるのであつた。
 先生の死を、新聞社から電話できいたとき、わたしはどんなことがあつても、お葬式にはおまいりしようと思つた。それは、十九年前、智恵子夫人が痛ましい病で亡くなられる前に、先生から、夫人をいたわる涙のあふれた手紙をいただき、その葬儀には、是非御焼香さしていただこうとしていたのだつたが、それが出来なかつたので、あの顔の小さい、いろの白い智恵子夫人とあわせて弔いたいと考えたからであつた。
 四月四日の東京は、はだ寒い薄曇りの日であつた。品川で国電に乗りかえ、渋谷で降りた。それから青山一丁目まで都電で行き、青山斎場まで歩いた。急ぎ足できたのだつたがもう一時を少し過ぎていた。入口をはいつた建物のそとに新潮社はじめ出版社の大きな花環が目についた。左手の幕のところに中年の人がひとり見えるだけで人影がない。まだ早いのかと思つて近寄つてみると、幕の内が受付になつていて、幾人かの人が、署名帳を前にして、受付をしていた。私は、豊橋から来たことを告げ署名した。
 式場では、もう読経がはじまつていた。私はいちばんうしろに立つた。正面の白木の棺の上に先生の写真が一つ。ちやんちやんこを着た写真。いま先生の葬式だ。全身的に私の体を貫くものがある。私は腰をかける気がしない。右手が遺族席になつて居た。谷口吉郎氏が立つて配置について説明される。八曲白無地の屏風のバツク、写真の前にコツプが一つ。これは先生が、いつもビールを飲んだコツプである。そのコツプに、黄ない連翹の花が一枝。臨終のアトリエの庭に咲いた花であつた。それ以外祭壇にはなにものもない。まことに清流のような簡潔な美しさである。
 棺の下に拡声器が置かれ、そこから先生の詩がきこえてきた。「千鳥と遊ぶ智恵子」・ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――と、発音する先生の口もとが目にうかぶ。次に「梅酒」。姿は見えないが、高村さんがそこに居られるような気がしてきた。
 主治医が病状について話される。岩手から帰られて、苦痛をうつたえられるようになり、病院で診察したときには、もう肺に大きな空洞ができていて、かなり病気は昻じていた。度々喀血されるようになり、医者としての手当ては少しでも先生の苦痛を和らげることしか施しようがなかつた。つぎに右手の葬儀委員席に並んでいた梅原龍三郎氏から弔辞がはじまる。石井鶴三氏の言葉は、紙に書かれたものを持つて述べられるのであつたが、嗚咽でききとれなかつた。十和田湖の裸像の関係のある青森県知事、尾崎喜八氏、草野心平氏の詩、最後に委員長の武者小路実篤氏の言葉があつた。大きな手を振つて、先生は川の向うへ行つてしまつた。もう先生は帰つて来ない。尾崎氏が声をしぼつて述べたとき、熱いものが胸の中でじんじん煮立つた。弔電が読まれ、北海道や、九州や、日本各地から寄せられたなかに、丸山薫氏のものもあつた。
 おまいりがはじまつて、遺族の人のあとに参列者がつづいた。私は志賀直哉、三好達治、伊藤整氏のあとに伊藤信吉氏の手から金盞花と、こでまりの花束を受け取り、棺の前に進み瞑目してささげた。高村さんと縁の深い百名近い人々が花をささげた。著名な人のなかに、ゴム長をはいた東北地方の百姓の人もまじつていた。
 式が終り廊下で私は山形県の真壁仁氏に逢つた。真壁氏は高村さんの詩をうけつぐもつとも近い詩人である。三十年近くも文通しているのだつたが逢うのははじめてであつた。挨拶のあとに言う言葉がでず、これからお互いにしつかりやりましようと手を握りあつた。式場の扉が開かれ、おまいりする人が、あとから、あとからつづいていた。私は荷物を受取りひとりで斎場を出た。
 はりつめていた、切ないおもいを果たすことはできたが、もう、東京には頼りにする人がなくなつてしまつた。

林苑 10(5)(104)岩瀬(明40=1907~平15=2003)は静岡出身の詩人。そこで「黄ない連翹の花」はあちらの方の方言のようです。昭和初期から光太郎と交流があり、花巻郊外旧太田村の山小屋や中野の中西利雄アトリエも訪れています。

この文章は光太郎が歿した翌月に雑誌『林苑』に発表されたもので「連翹の花」と題されています。昭和27年(1952)9月7日、岩瀬が花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた際の光太郎写真も掲載されていました。

会場内のレイアウトなどは他の人物の回想にも書かれていますが、棺の下の拡声器から光太郎の肉声が流されたというのはこれを読むまで存じませんでした。昭和27年(1952)の奇しくも4月2日、花巻温泉松雲閣でNHKラジオのため詩人の真壁仁との対談を録音した後、光太郎自身の提案でこれもテープに残されたものです。

それにしても岩瀬の書きぶり、光太郎の死を受け入れられず、まだ呆然としてしまっている感じですね。

棺と連翹はこちら。
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連翹
左上は中西利雄アトリエの庭です。これを一枝剪って、愛用のビールのコップに。これが「連翹忌」命名の由来となりました。ちなみに一番上の画像に写っている連翹は、回りまわってのこの連翹の子孫です。

さて、本日の第69回の集い、恙なくかつ有意義に執り行えるよう、光太郎遺影に祈念いたしております。皆様方におかれましても、それぞれの地で光太郎に思いを馳せて下さい。

【折々のことば・光太郎】

珊子さんがあんなに大きくなつたのですから規君、美津枝さんの成人ぶりは大したものと思つてゐます、

昭和27年(1952)8月13日 髙村規宛書簡より 光太郎70歳

7月31日に、実弟の豊周夫妻と息女「珊子さん」の三人が、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための上京についての打ち合わせを兼ね、訪ねてきました。昭和20年(1945)3月に豊周一家が信州に疎開して以来、7年半ぶりでした。豊周夫妻はともかく、若い珊子は見違えるように大人に。そのきょうだいの「規君、美津枝さん」は今回同行しませんでしたが、十月には再会することになります。

このうち美津枝さんはご存命。ご高齢ということもあり連翹忌の集いにはこのところご参加いただいていませんが。

光太郎詩「火星が出てゐる」の一節をあしらったしおりを今月初めにご紹介しました。制作/販売はネット上でオンラインショップを展開なさっている小野屋善行商店さん。「文豪のしおり」「文豪スマホケース」「文豪アクリルキーホルダー」といった、昨今静かなブームの「文豪」ものをいろいろと扱われています。

過日入手したものは「少部数テスト販売」ということでしたが、同じ位置づけで光太郎作品の一節を使ってデザインされたしおりが3点出まして、ゲットしました。
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それぞれ詩が使われており、左から「寸言」(昭和10年=1935)の全文、前回と同じで色違いの「火星が出てゐる」(大正15年=1926)の一節、そして連作詩「とげとげなエピグラム」(大正12年=1923)中の一篇。3枚横に並べましたが、こうすると用紙の地紋の模様が連続するようになっているとのこと。紙質や印刷の状態もなかなかのものです。

大正末から昭和10年(1935)までということで、光太郎詩は自己の荒ぶる魂を獣たちや妖怪どもに仮託した連作詩「猛獣篇」も書かれていました。まだ日中戦争も始まって居らず、愚にもつかない翼賛詩篇の乱発にはいたっていない時代です。ただ、「猛獣篇」のノリで殺戮兵器である戦車をモチーフにした「無限軌道」が既に昭和3年(1928)には書かれているのですが。

当会の祖・草野心平らとの交流から、アナキズムやプロレタリア文学に一定の理解を示し、心情的には彼らのシンパに近かった光太郎ですが、その手の運動に深入りすることはありませんでした。

その方にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。(「高村光太郎聞き書」昭和30年=1955)

そうした内面のジレンマがいろいろな部分で表れているこの時期の詩群も、なかなかに読み応えがあって好きです。

さて、光太郎しおり、先述の通り「少部数テスト販売」で、現在はラインナップに入っていませんが、また増刷されて広く売られることを期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ届き、今月末日頃フアミリ帯同で来訪の由、やはりたのしみになります、その頃は外出せずに小屋にゐませう。炎暑の候なので此処の徒歩はとても無理ですから、花巻からタキシを約束して、往復を車にしてはどうでせう。少しは取られるでせうが。

昭和27年(1952)7月23日 髙村豊周宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため秋に上京することとなり、そのための打ち合わせを兼ね、実弟の豊周夫妻、それから息女の珊子が花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れることになりました。豊周一家が信州に疎開して行った昭和20年(1945)3月以来の兄弟対面ということになります。

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