光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、市立図書館さんの移転計画が持ち上がっています。
現在地は光太郎と関わりの深かった宮沢賢治が勤務していた市内若葉町の花巻農学校跡地・ぎんどろ公園に隣接する場所で、同じ敷地内には市の文化会館なども建っています。当方、光太郎が花巻郊外旧太田村在住時の地方紙記事などの調査のため、何度か利用させていただきました。
移転先候補地は、当初6案、それが絞り込まれて2案あったそうです。
まず、市役所に近い旧総合花巻病院跡地(花城町)。同院は賢治の主治医でもあり、光太郎の花巻疎開やその後の7年半にわたる花巻及び旧太田村での生活に物心共に多大な援助をしてくれた佐藤隆房が院長を務めていました。病院は令和元年(2019)に市内御田屋町に移転し、その跡地が候補地の一つでした。
それからJR東北本線花巻駅前という案も。
2つの案を巡っては、どちらも一長一短があり、市内でも意見が分かれていたようで、地元の方のSNS等を見ると、なかなか紛糾していたようです。
市では市民の意見等を聞く機会を設けたりし、さまざまな検討を行った結果、花巻駅前の方で、ということになったそうです。このほど、市のホームページに「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」がアップされました。
現在、タケダスポーツさんのある場所のようです。
部外者としては、場所の決定に関しては何も言うことはありません。
で、「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」。どのように新図書館を運営していくか、そういったコンセプトが述べられており、そちらではなるほどね、と思わせられました。やはり宮沢賢治のお膝元、という部分が前面に押し出されています。
まず「基本方針」。
郷土の歴史と独自性を大切にし、豊かな市民文化を創造する図書館
輩出された「輝かしい功績を遺した数多くの先人」には、花巻出身ではないもの、光太郎も含めて下さっているようです。「蔵書・資料の収集について」という項の中に「宮沢賢治、高村光太郎、萬鉄五郎、新渡戸稲造などの資料を積極的に収集・保存。可能な限り開架閲覧スペースに配架」という一節があります。まぁ、現在の図書館さんでも、光太郎や賢治に関する資料類はかなり所蔵されていて一室が設けられている感じで、それを引き継ぐという部分もあるのでしょうが。
やはり賢治は別格で、「宮沢賢治に関する資料については、市民から、宮沢賢治の出身地にふさわしい図書館としてほしいなどの意見が多いことから、今後出版される図書資料はもちろん、未所蔵で購入可能な資料は古本も含め積極的に収集し、地域(郷土)資料スペースにおいて配架する予定ですが、宮沢賢治専用のスペースを設けることも検討します。また、イーハトーブ館と役割分担をし、現在イーハトーブ館が保有している専門的な研究資料や絶版等入手困難な資料等は、引き続きイーハトーブ館で保有することとし、図書館で閲覧または貸出できるようシステムの構築を検討します。」だそうです。光太郎もそれに準ずる扱いくらいにはしていただきたいところです。
また、「花巻駅前も賢治作品「シグナルとシグナレス」の舞台であり、「銀河鉄道の夜」のモチーフとなった岩手軽便鉄道や花巻電鉄の駅があった場所で賢治ゆかりの地」といった記述も。多少の無理くり感は否めないなと感じつつも「なるほどね」と思いました。
もう一つの候補地だった病院跡地の方は「宮沢賢治ゆかりの地に相応しい図書館以外の公共事業に活用することも考えられる」だそうです。
とにもかくにも「基本方針」どおり、「先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館」実現に向けて頑張っていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
丸ビルの展らん会も御覧下されし由、古いものばかりで殆ど現代的意味はない事でした、
「丸ビルの展らん会」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から上京したことを記念し、中央公論社の肝煎りで開催された「高村光太郎小品展」。
意外や意外、光太郎生前唯一の個展でしたが、当の光太郎自身はあまり興味がなかったようです。彫刻の制作年代の説明も無茶苦茶です。「手」は大正7年(1918)、「裸婦坐像」は大正6年(1917)です。
現在地は光太郎と関わりの深かった宮沢賢治が勤務していた市内若葉町の花巻農学校跡地・ぎんどろ公園に隣接する場所で、同じ敷地内には市の文化会館なども建っています。当方、光太郎が花巻郊外旧太田村在住時の地方紙記事などの調査のため、何度か利用させていただきました。
移転先候補地は、当初6案、それが絞り込まれて2案あったそうです。
まず、市役所に近い旧総合花巻病院跡地(花城町)。同院は賢治の主治医でもあり、光太郎の花巻疎開やその後の7年半にわたる花巻及び旧太田村での生活に物心共に多大な援助をしてくれた佐藤隆房が院長を務めていました。病院は令和元年(2019)に市内御田屋町に移転し、その跡地が候補地の一つでした。
それからJR東北本線花巻駅前という案も。
2つの案を巡っては、どちらも一長一短があり、市内でも意見が分かれていたようで、地元の方のSNS等を見ると、なかなか紛糾していたようです。
市では市民の意見等を聞く機会を設けたりし、さまざまな検討を行った結果、花巻駅前の方で、ということになったそうです。このほど、市のホームページに「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」がアップされました。
現在、タケダスポーツさんのある場所のようです。
部外者としては、場所の決定に関しては何も言うことはありません。
で、「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」。どのように新図書館を運営していくか、そういったコンセプトが述べられており、そちらではなるほどね、と思わせられました。やはり宮沢賢治のお膝元、という部分が前面に押し出されています。
まず「基本方針」。
本市は、宮沢賢治や萬鉄五郎をはじめとした多くの先人を輩出しています。江戸時代の先人を顕彰した「鶴陰碑(かくいんひ)」に記された人々は、自らの研鑽に精進し学術文化はもとより地域や産業の振興と発展、そして後継者の育成に努力を重ねてきました。花巻には歴史的に学びの風土があり、この精神は私たちも次の世代に受け継いでいかなければなりません。
新しい花巻図書館の整備にあたっては、市民一人ひとりの生活や活動を支援することを基本的に考えながら、先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館を目指して、次の3つを基本方針とします。
郷土の歴史と独自性を大切にし、豊かな市民文化を創造する図書館
花巻市は輝かしい功績を遺した数多くの先人を輩出しています。この先人達を顕彰し次の時代を担う子どもたちにその精神を継承し、郷土を愛する心を育むことができるよう、郷土資料や先人の資料の充実を図ります。
すべての市民が親しみやすく使いやすい図書館
幼児、子ども、高齢者、障がい者、すべての市民が気軽に利用できるように、親しみやすく使いやすい施設とします。自然や周辺に調和した明るくゆったりしたスペースとし、読書はもちろんのこと、くつろぎの場でもあり、交流の場ともなる施設とします。
暮らしや仕事、地域の課題解決に役立つ知の情報拠点としての図書館
これからの図書館は市民の読書や生涯学習を支援するだけでなく、情報を得る場、生活、仕事、教育、産業など各分野の課題解決を図る図書館であることが求められているため、広い分野にわたる資料やレファレンス(検索・相談)機能の充実を図ります。
輩出された「輝かしい功績を遺した数多くの先人」には、花巻出身ではないもの、光太郎も含めて下さっているようです。「蔵書・資料の収集について」という項の中に「宮沢賢治、高村光太郎、萬鉄五郎、新渡戸稲造などの資料を積極的に収集・保存。可能な限り開架閲覧スペースに配架」という一節があります。まぁ、現在の図書館さんでも、光太郎や賢治に関する資料類はかなり所蔵されていて一室が設けられている感じで、それを引き継ぐという部分もあるのでしょうが。
やはり賢治は別格で、「宮沢賢治に関する資料については、市民から、宮沢賢治の出身地にふさわしい図書館としてほしいなどの意見が多いことから、今後出版される図書資料はもちろん、未所蔵で購入可能な資料は古本も含め積極的に収集し、地域(郷土)資料スペースにおいて配架する予定ですが、宮沢賢治専用のスペースを設けることも検討します。また、イーハトーブ館と役割分担をし、現在イーハトーブ館が保有している専門的な研究資料や絶版等入手困難な資料等は、引き続きイーハトーブ館で保有することとし、図書館で閲覧または貸出できるようシステムの構築を検討します。」だそうです。光太郎もそれに準ずる扱いくらいにはしていただきたいところです。
また、「花巻駅前も賢治作品「シグナルとシグナレス」の舞台であり、「銀河鉄道の夜」のモチーフとなった岩手軽便鉄道や花巻電鉄の駅があった場所で賢治ゆかりの地」といった記述も。多少の無理くり感は否めないなと感じつつも「なるほどね」と思いました。
もう一つの候補地だった病院跡地の方は「宮沢賢治ゆかりの地に相応しい図書館以外の公共事業に活用することも考えられる」だそうです。
とにもかくにも「基本方針」どおり、「先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館」実現に向けて頑張っていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
丸ビルの展らん会も御覧下されし由、古いものばかりで殆ど現代的意味はない事でした、
昭和27年(1952)11月26日 吉野秀雄・登美子宛書簡より 光太郎70歳
「丸ビルの展らん会」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から上京したことを記念し、中央公論社の肝煎りで開催された「高村光太郎小品展」。
