生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受け、光太郎が昭和27年(1952)秋から、一時的に花巻郊外旧太田村に帰村した昭和28年(1953)初冬と、赤坂山王病院に入院した昭和30年(1955)初夏を除き、最晩年の3年半を過ごし、昭和31年(1956)4月2日にここで亡くなった中野区の中西利雄アトリエ。
昨年から当方も関わって展開されている保存のための運動につき、「乙女の像」地元の青森の地方紙二紙が報じて下さっています。
まず『デーリー東北』さん、今月初めの掲載でした。
高村は戦時中、宮沢賢治のつてを便りに岩手花巻市に疎開。戦後も52年まで過ごし、青森県から乙女の像の制作を依頼されたのを契機に中野のアトリエに移った。高村の顕彰活動を続ける小山弘明さん(東京)は「花巻で作ろうとも考えたが、粘土が凍るなどするので新たに東京で制作場所を探した」とする。
知り合いに紹介されたのが、洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てたアトリエ。死後に完成し、賃貸に出されていた。高村の前に、彫刻家のイサム・ノグチも一時滞在していたという。北から南に傾斜した屋根で、北側に大きな窓を設けており、内外とも白く塗られているのが特徴だ。
肺結核を患っていた高村は中野に引っ越す頃には病状が悪くなっており、小山さんは「制作にものすごく時間をかける高村が、乙女の像はわずか半年ほどで仕上げている。死が迫るのを意識しながら作ったのではないか」と解説する。野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二もこのアトリエで助手を務めた。
乙女の像の完成後は花巻に帰るつもりだったが、体調を考慮して中野のアトリエに残り、56年4月に亡くなるまで過ごした。その後は中西の長男の利一郎さんが長年にわたってアトリエを管理してきたものの、23年1月に死去。老朽化が進み、家族も管理が難しくなっている。
このため、昨年2月に利一郎さんと親交があった曽我貢誠さん(東京)らを中心に、俳優の渡辺えりさんを代表として保存する会を設立。署名活動やイベント開催、行政への働きかけなどを行っている。
曽我さんは「保存には多額の資金が要る。何とかこの場所に貴重なアトリエを残したい」と訴えるものの、現時点で中野区などから前向きな対応は引き出せていない。
今後は「行政への要望と並行して周辺の大学や民間企業などに支援を呼びかけたい」と粘り強い活動を続ける考えだ。
ほぼ同一の内容ですが、『東奥日報』さんも昨日報じて下さいました。
となると、レンタルスペースなどとして運用し、収益を上げ、それで運用していくしかないのかな、と考えています。その母体をどうするか、どのように使ってもらうか、そうそう借り手が現れるか、最低限の人件費や維持管理費等をまかなえる収益が上げられるかなどなど課題は山積しています。マッチング等を使って希望者を募り、民間で買い取ってもらい、流行りの古民家カフェ的な運用というのもありかもしれませんが、無茶苦茶な使い方をされるのも困りますし。
単なる思いつきでなく、実現可能性を充分に伴う解決策のご提案、さらにはご支援のお申し出、お待ちしております。
【折々のことば・光太郎】
何も持たず、仕事用のヘラだけ持つてゆくつもりです。留守中は村の人に小屋の管理をたのみます、来年原型完成次第又山に帰つて来る筈です。
さすがに「ヘラだけ」というわけにも行きませんでしたが、それでも中西アトリエにはせいぜい洋服等を送ったくらいで、ほとんどの家財道具や蔵書などは花巻郊外旧太田村の山小屋に残し、布団や調理器具など必要なものは都内で調達しました。住民票もそのままでした。
しかし、もはや山小屋暮らしに耐えられる健康状態ではなくなり、「乙女の像」完成後に一時的に帰村したものの、結局は中西アトリエに戻ることになり、終焉を迎えるわけです。
昨年から当方も関わって展開されている保存のための運動につき、「乙女の像」地元の青森の地方紙二紙が報じて下さっています。
まず『デーリー東北』さん、今月初めの掲載でした。
彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔に立つ「乙女の像」を制作した東京・中野のアトリエ。長年管理してきた所有者が2年前に亡くなり、保存が難しくなっている。関係者は「価値ある建築物を残したい」と行政や民間の協力を募るものの、行政支援や資金調達のめどは立っていない。
高村は戦時中、宮沢賢治のつてを便りに岩手花巻市に疎開。戦後も52年まで過ごし、青森県から乙女の像の制作を依頼されたのを契機に中野のアトリエに移った。高村の顕彰活動を続ける小山弘明さん(東京)は「花巻で作ろうとも考えたが、粘土が凍るなどするので新たに東京で制作場所を探した」とする。
知り合いに紹介されたのが、洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てたアトリエ。死後に完成し、賃貸に出されていた。高村の前に、彫刻家のイサム・ノグチも一時滞在していたという。北から南に傾斜した屋根で、北側に大きな窓を設けており、内外とも白く塗られているのが特徴だ。
肺結核を患っていた高村は中野に引っ越す頃には病状が悪くなっており、小山さんは「制作にものすごく時間をかける高村が、乙女の像はわずか半年ほどで仕上げている。死が迫るのを意識しながら作ったのではないか」と解説する。野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二もこのアトリエで助手を務めた。
乙女の像の完成後は花巻に帰るつもりだったが、体調を考慮して中野のアトリエに残り、56年4月に亡くなるまで過ごした。その後は中西の長男の利一郎さんが長年にわたってアトリエを管理してきたものの、23年1月に死去。老朽化が進み、家族も管理が難しくなっている。
このため、昨年2月に利一郎さんと親交があった曽我貢誠さん(東京)らを中心に、俳優の渡辺えりさんを代表として保存する会を設立。署名活動やイベント開催、行政への働きかけなどを行っている。
曽我さんは「保存には多額の資金が要る。何とかこの場所に貴重なアトリエを残したい」と訴えるものの、現時点で中野区などから前向きな対応は引き出せていない。
今後は「行政への要望と並行して周辺の大学や民間企業などに支援を呼びかけたい」と粘り強い活動を続ける考えだ。
ほぼ同一の内容ですが、『東奥日報』さんも昨日報じて下さいました。
詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年、十和田湖畔にある「乙女の像」の塑像を制作した東京・中野のアトリエが存続の危機にある。歴史的に価値の高いこの建物を残そうと、有志らが活動を本格化させた。青森県十和田市関係者からも署名が寄せられているといい、「支援の輪をさらに広げたい」と方策を模索している。
高村は亡くなるまでの3年半をこのアトリエで暮らした。斜めの屋根と北側に向く大きな窓が印象的だ。内部には高村の写真や当時の椅子が残されていた。
建物は、洋画家中西利雄(1900~48年)が建設した。設計は戦前戦後に活躍した建築家山口文象。中西はアトリエの完成を見ず亡くなったが、彫刻家イサム・ノグチや高村に貸し出された。建物を管理していた中西の長男・利一郎さんが2023年に他界。解体の話が出る中、有志らが保存活動を始めた。
利一郎さんの知人で「保存する会」の曽我貢誠さん(72)=東京都=は、詩人の草野心平や佐藤春夫らも訪れた貴重な建物とし、「高村が戦争を賛美する作品を書いた過去の責任を感じながら、像の制作に没頭したという背景もあり、大切な歴史的遺産だ」と保存の意義を強調する。
会は行政や民間に支援を求めながら、4千筆超の署名を集めてきた。クラウドファンディングも視野に入れており、縁のある青森県民の支援にも期待する。
会には七戸町出身で都内に住む山田安秀さん(61)も参加している。「乙女の像は十和田湖の思い出の象徴だ。十和田湖は歴代の知事や市町村長の尽力、今年没後100年を迎える大町桂月ら県外出身の恩人のおかげで全国に知られた。脈々と続く歴史の流れにも思いをはせながら、保存の意義を考えたい」と語った。
署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」のサイト(https://save-atelier-n.jimdosite.com/)から。問い合わせは曽我さん(電話090-4422-1534)へ。
▽「美、愛、平和」 像に託す
東京生まれの高村光太郎は、妻・智恵子を1938年に亡くした後、空襲に遭い岩手県花巻市に疎開。戦後、青森県から、十和田湖畔に設置する記念碑の制作を依頼されたのを機に、帰京を決意した。
「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明さん(60)=千葉県=によると、東京・中野のアトリエは知人らが探し出した。余命がそう長くないと意識していた高村は、それまで使ったことのない助手を雇い、野辺地町出身の彫刻家小坂圭二(1918~92年)が制作を手伝った。
高村は十和田湖を下見した際、当時の津島文治知事から「自由に創作を」とのお墨付きをもらい、制作に没頭。生涯をささげた「美」、智恵子への愛、平和への願いを像に託したとみられる。小山さんは「半年ほどの驚異的なスピードで作り上げた。自分が倒れた場合の代わりの制作者も指名していたほど」と、高村の当時の情熱を語る。
完成した像は、十和田湖を世に出した文人大町桂月、知事の武田千代三郎、法奥沢村長の小笠原耕一をたたえ、湖畔に設置された。「乙女の像」として、今も地元の人や観光客に愛されている。
なかなか保存も単純な話ではありません。単に建物を補修して残すというだけならそうでもないのでしょうが、ただ残すだけでは意味がありません。積極的且つ永続的に「生かす」ことが肝要です。何もない建物だけを公開したところで仕方がありませんし、ちょっとした展示を行い「××記念館」としたところでそう多くの来場者が来るとも思えません。「××記念館」という形にしている古建築が全国にありますが、そういったところは行政が管理運営を行い、採算度外視に近い形もまぁ許されるという状況でしょうが、中野区はそういう方向での支援は行ってくれません。となると、レンタルスペースなどとして運用し、収益を上げ、それで運用していくしかないのかな、と考えています。その母体をどうするか、どのように使ってもらうか、そうそう借り手が現れるか、最低限の人件費や維持管理費等をまかなえる収益が上げられるかなどなど課題は山積しています。マッチング等を使って希望者を募り、民間で買い取ってもらい、流行りの古民家カフェ的な運用というのもありかもしれませんが、無茶苦茶な使い方をされるのも困りますし。
単なる思いつきでなく、実現可能性を充分に伴う解決策のご提案、さらにはご支援のお申し出、お待ちしております。
【折々のことば・光太郎】
何も持たず、仕事用のヘラだけ持つてゆくつもりです。留守中は村の人に小屋の管理をたのみます、来年原型完成次第又山に帰つて来る筈です。
昭和27年(1952)7月23日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎70歳
さすがに「ヘラだけ」というわけにも行きませんでしたが、それでも中西アトリエにはせいぜい洋服等を送ったくらいで、ほとんどの家財道具や蔵書などは花巻郊外旧太田村の山小屋に残し、布団や調理器具など必要なものは都内で調達しました。住民票もそのままでした。
しかし、もはや山小屋暮らしに耐えられる健康状態ではなくなり、「乙女の像」完成後に一時的に帰村したものの、結局は中西アトリエに戻ることになり、終焉を迎えるわけです。