2025年03月

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受け、光太郎が昭和27年(1952)秋から、一時的に花巻郊外旧太田村に帰村した昭和28年(1953)初冬と、赤坂山王病院に入院した昭和30年(1955)初夏を除き、最晩年の3年半を過ごし、昭和31年(1956)4月2日にここで亡くなった中野区の中西利雄アトリエ

昨年から当方も関わって展開されている保存のための運動につき、「乙女の像」地元の青森の地方紙二紙が報じて下さっています。

まず『デーリー東北』さん、今月初めの掲載でした。

「乙女の像」制作 高村光太郎のアトリエ(東京) 価値ある建築物残したい 所有者死去、進む老朽化 保存する会、支援呼びかけ

 彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔に立つ「乙女の像」を制作した東京・中野のアトリエ。長年管理してきた所有者が2年前に亡くなり、保存が難しくなっている。関係者は「価値ある建築物を残したい」と行政や民間の協力を募るものの、行政支援や資金調達のめどは立っていない。
 高村は戦時中、宮沢賢治のつてを便りに岩手花巻市に疎開。戦後も52年まで過ごし、青森県から乙女の像の制作を依頼されたのを契機に中野のアトリエに移った。高村の顕彰活動を続ける小山弘明さん(東京)は「花巻で作ろうとも考えたが、粘土が凍るなどするので新たに東京で制作場所を探した」とする。
 知り合いに紹介されたのが、洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てたアトリエ。死後に完成し、賃貸に出されていた。高村の前に、彫刻家のイサム・ノグチも一時滞在していたという。北から南に傾斜した屋根で、北側に大きな窓を設けており、内外とも白く塗られているのが特徴だ。
 肺結核を患っていた高村は中野に引っ越す頃には病状が悪くなっており、小山さんは「制作にものすごく時間をかける高村が、乙女の像はわずか半年ほどで仕上げている。死が迫るのを意識しながら作ったのではないか」と解説する。野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二もこのアトリエで助手を務めた。
 乙女の像の完成後は花巻に帰るつもりだったが、体調を考慮して中野のアトリエに残り、56年4月に亡くなるまで過ごした。その後は中西の長男の利一郎さんが長年にわたってアトリエを管理してきたものの、23年1月に死去。老朽化が進み、家族も管理が難しくなっている。
 このため、昨年2月に利一郎さんと親交があった曽我貢誠さん(東京)らを中心に、俳優の渡辺えりさんを代表として保存する会を設立。署名活動やイベント開催、行政への働きかけなどを行っている。
 曽我さんは「保存には多額の資金が要る。何とかこの場所に貴重なアトリエを残したい」と訴えるものの、現時点で中野区などから前向きな対応は引き出せていない。
 今後は「行政への要望と並行して周辺の大学や民間企業などに支援を呼びかけたい」と粘り強い活動を続ける考えだ。

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ほぼ同一の内容ですが、『東奥日報』さんも昨日報じて下さいました。

十和田湖畔「乙女の像」生んだアトリエが存続の危機 有志ら保存活動 彫刻家・高村光太郎が晩年過ごす

 詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年、十和田湖畔にある「乙女の像」の塑像を制作した東京・中野のアトリエが存続の危機にある。歴史的に価値の高いこの建物を残そうと、有志らが活動を本格化させた。青森県十和田市関係者からも署名が寄せられているといい、「支援の輪をさらに広げたい」と方策を模索している。
 高村は亡くなるまでの3年半をこのアトリエで暮らした。斜めの屋根と北側に向く大きな窓が印象的だ。内部には高村の写真や当時の椅子が残されていた。
 建物は、洋画家中西利雄(1900~48年)が建設した。設計は戦前戦後に活躍した建築家山口文象。中西はアトリエの完成を見ず亡くなったが、彫刻家イサム・ノグチや高村に貸し出された。建物を管理していた中西の長男・利一郎さんが2023年に他界。解体の話が出る中、有志らが保存活動を始めた。
 利一郎さんの知人で「保存する会」の曽我貢誠さん(72)=東京都=は、詩人の草野心平や佐藤春夫らも訪れた貴重な建物とし、「高村が戦争を賛美する作品を書いた過去の責任を感じながら、像の制作に没頭したという背景もあり、大切な歴史的遺産だ」と保存の意義を強調する。
 会は行政や民間に支援を求めながら、4千筆超の署名を集めてきた。クラウドファンディングも視野に入れており、縁のある青森県民の支援にも期待する。
 会には七戸町出身で都内に住む山田安秀さん(61)も参加している。「乙女の像は十和田湖の思い出の象徴だ。十和田湖は歴代の知事や市町村長の尽力、今年没後100年を迎える大町桂月ら県外出身の恩人のおかげで全国に知られた。脈々と続く歴史の流れにも思いをはせながら、保存の意義を考えたい」と語った。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」のサイト(https://save-atelier-n.jimdosite.com/)から。問い合わせは曽我さん(電話090-4422-1534)へ。
▽「美、愛、平和」 像に託す
 東京生まれの高村光太郎は、妻・智恵子を1938年に亡くした後、空襲に遭い岩手県花巻市に疎開。戦後、青森県から、十和田湖畔に設置する記念碑の制作を依頼されたのを機に、帰京を決意した。
 「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明さん(60)=千葉県=によると、東京・中野のアトリエは知人らが探し出した。余命がそう長くないと意識していた高村は、それまで使ったことのない助手を雇い、野辺地町出身の彫刻家小坂圭二(1918~92年)が制作を手伝った。
 高村は十和田湖を下見した際、当時の津島文治知事から「自由に創作を」とのお墨付きをもらい、制作に没頭。生涯をささげた「美」、智恵子への愛、平和への願いを像に託したとみられる。小山さんは「半年ほどの驚異的なスピードで作り上げた。自分が倒れた場合の代わりの制作者も指名していたほど」と、高村の当時の情熱を語る。
 完成した像は、十和田湖を世に出した文人大町桂月、知事の武田千代三郎、法奥沢村長の小笠原耕一をたたえ、湖畔に設置された。「乙女の像」として、今も地元の人や観光客に愛されている。
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なかなか保存も単純な話ではありません。単に建物を補修して残すというだけならそうでもないのでしょうが、ただ残すだけでは意味がありません。積極的且つ永続的に「生かす」ことが肝要です。何もない建物だけを公開したところで仕方がありませんし、ちょっとした展示を行い「××記念館」としたところでそう多くの来場者が来るとも思えません。「××記念館」という形にしている古建築が全国にありますが、そういったところは行政が管理運営を行い、採算度外視に近い形もまぁ許されるという状況でしょうが、中野区はそういう方向での支援は行ってくれません。

となると、レンタルスペースなどとして運用し、収益を上げ、それで運用していくしかないのかな、と考えています。その母体をどうするか、どのように使ってもらうか、そうそう借り手が現れるか、最低限の人件費や維持管理費等をまかなえる収益が上げられるかなどなど課題は山積しています。マッチング等を使って希望者を募り、民間で買い取ってもらい、流行りの古民家カフェ的な運用というのもありかもしれませんが、無茶苦茶な使い方をされるのも困りますし。

単なる思いつきでなく、実現可能性を充分に伴う解決策のご提案、さらにはご支援のお申し出、お待ちしております。

【折々のことば・光太郎】

何も持たず、仕事用のヘラだけ持つてゆくつもりです。留守中は村の人に小屋の管理をたのみます、来年原型完成次第又山に帰つて来る筈です。

昭和27年(1952)7月23日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎70歳

さすがに「ヘラだけ」というわけにも行きませんでしたが、それでも中西アトリエにはせいぜい洋服等を送ったくらいで、ほとんどの家財道具や蔵書などは花巻郊外旧太田村の山小屋に残し、布団や調理器具など必要なものは都内で調達しました。住民票もそのままでした。

しかし、もはや山小屋暮らしに耐えられる健康状態ではなくなり、「乙女の像」完成後に一時的に帰村したものの、結局は中西アトリエに戻ることになり、終焉を迎えるわけです。

奥付では今日発行ですが、既に店頭に並んでいるでしょう。日本女子大学校での智恵子の先輩にして、智恵子に『青鞜』創刊号の表紙絵を依頼した平塚らいてうの伝記漫画です。電子版も出ています。

小学館版 新学習まんが人物館 平塚らいてう

発行日 : 2025年3月30日
著者等 : 監修 差波亜紀子 まんが 上川敦子 シナリオ 江橋よしのり
版 元 : 小学館
定 価 : 1,100円+税

元始、女性は太陽であった!
累計300万部突破の「学習まんが人物館」シリーズが、新たなソフトカバーのシリーズとなりました。その第4弾として「平塚らいてう」が登場します。女性だけの手による雑誌『青鞜』を創刊。その創刊号で彼女は「元始、女性は太陽だった」とうたいあげます。創刊号の表紙は長沼智恵子(後の高村光太郎夫人)が担当。さらに歌人の与謝野晶子が原稿を寄せるなど、そうそうたるメンバーでの船出でした。また彼女は、婦人参政権の獲得を目指して「新婦人協会」を立ち上げるなど、女性の権利を求め続けます。一人の女性として、母として、人間として85年の生涯を駆け抜けた彼女の原点に迫ります。

2025年は国連が「国際女性デー」(3月8日)を制定してから50年の節目の年です。SDGs的な観点からもたいへんためになる1冊です。また、まんがを描いた上川敦子さんは、これまで「上川敦志」のペンネームで『ロボットボーイズ』『スティーブ・ジョブズ』『学習まんが 日本の歴史(15巻、16巻)』(すべて小学館)などの著作がありますが、今回は「平塚らいてう」を描くということで、あえてご自身の性である女性名での登場です。実際に1児の母である彼女の、魂のこもった作画にもご注目ください。
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目次
 平塚らいてう写真館 女性の権利を求め続けた不屈の運動家 平塚らいてう
 プロローグ
 第1章 良妻賢母なんて知らない
 第2章 わたくしはわたくし
 第3章 「新しい女」とよばれて
 第4章 母となる
 第5章 母性保護と婦人参政権
 エピローグ
 学習資料館
  解説 女性の生きづらさに抗議した運動家 差波亜紀子
  学習人物ガイド 平塚らいてうゆかりの人物 与謝野晶子 長沼智恵子 市川房枝 伊藤野枝
  年表 平塚らいてうの時代


小学館さんで刊行されていた「学習まんが人物館」シリーズ。当会顧問であらせられた故・北川太一先生の監修になる『高村光太郎・智恵子 変わらぬ愛をつらぬいたふたつの魂』(平成9年=1997)も含まれていました。関係するラインナップとして本書の帯に紹介されています。

そちらが全74巻でいったん完結し、新シリーズとして4冊が刊行され、そのうちの1冊です。旧シリーズがハードカバーだったのに対し、ソフトカバーに変更、判型も一回り小さくなりました。

監修及び解説は日本女子大学さんの差波亜紀子教授。女子教育史等がご専門で、やはりらいてうを扱ったNHK Eテレさんの「先人たちの底力 知恵泉 新しい女の生き方 明治・大正編 平塚らいてう」(令和2年=2020)などにもご出演されています。

で、智恵子。あまり登場シーンは多くありませんが、主要登場人物の一人と位置づけられています。
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初登場のシーン。明治37年(1904)頃、日本女子大学校のテニスコートです。
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同じシーンが、朝日新聞出版さん刊行の『週刊 マンガ日本史 平塚らいてう 飛び立て「新しい女たち」』(初版 平成22年=2010、改訂版 平成28年=2016)だと、智恵子は完全に悪役顔でしたが(笑)。
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そして『青鞜』。
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分量としては『青鞜』時代までが多く、その後の与謝野晶子らとの母性保護論争や婦人参政権獲得の運動、戦後の平和活動などはざっとという感じですが、全体になかなかの出来だと思いました。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

東京は空気がわるいだらうとおもふのでこれだけは少々心配です。山の空気があまりきれい過ぎますから。


昭和27年(1952)7月23日 安藤一郎宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、上京する旨を伝えた後の一節です。足かけ8年の岩手での暮らしを経て、かつて「東京に空が無い」とつぶやいた智恵子の心境に共感できるようになっていたようにも思われます。

本日開幕です。

谷澤紗和子個展「お喋りの効能」

期 日 : 2025年3月29日(土)~4月13日(日)
会 場 : EUREKA 福岡市中央区大手門2-9-30 Pond Mum KⅣ 201
時 間 : 12:00~19:00
休 館 : 月曜、火曜
料 金 : 無料

このたびEUREKAでは、2025年3月29日(土)より、京都を拠点に活動する美術作家・谷澤紗和子さんの個展「お喋りの効能」を開催します。「妄想力の解放」や「女性像」をテーマにした作品を制作する谷澤紗和子。ジェンダーへの関心を元に、女性表現者に対する固定的な評価を問い直し、インスタレーション、作陶、切り紙、絵画など、いくつかの表現手法を横断、交差させながら作品制作を行っています。本展では、切り紙を用いた新作を発表いたします。福岡での初個展をぜひご覧ください。

<お喋りの効能>
 敬愛する高村智恵子と向かい合い、お喋りをする情景を切り紙絵で表現することを構想した。 着想のきっかけは、デイビット・ホックニーの作品《画家とモデル》1974。この作品では、作者自身がピカソと対峙し、画中に共に存在している。絵の中であれば、想いを寄せる人物と同じ空間を共有できるというアイデアに触発された。お喋りの舞台には、庫淑蘭(クー・シューラン)(1920-2007、中国)の描いた家を選び、机の上には過去に制作した智恵子さんへのオマージュ作品を置いた。壁には、メアリー・ディレイニー(1700-1788、イギリス)のヒヤシンスの切り絵を飾った。
 わたしにとってお喋りは、とても大切な知の交換会だ。智恵子さんとともに、メアリーさんやクーさんの手仕事の痕跡を辿りながら、言葉を交わすように紙の創作を進めることにする。 
谷澤紗和子
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009智恵子の紙絵や智恵子が手がけた『青鞜』表紙絵をモチーフにした切り絵などで、広くジェンダー問題等に対する提言をなさっている谷澤紗和子氏の個展です。今回も智恵子紙絵オマージュの作品、智恵子の肖像写真をモチーフにした作品なども展示されます。

氏については以下をご参照下さい。

VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─/「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 - 」。
都内レポートその2「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」。
福岡の地元紙『西日本新聞』さんに予告記事が出ていました。

谷澤紗和子 お喋りの効能

 京都を拠点に活動する美術作家・谷澤紗和子さんの福岡では初の個展。谷澤さんが敬愛する、彫刻家・文筆家高村光太郎の妻で洋画家・紙絵作家の高村智恵子と向かい合い、おしゃべりをする情景を切り紙絵で表現した新作を発表する。初日の3月29日午後5~6時にギャラリートークもある。
 「妄想力の解放」や「女性像」をテーマにした作品を制作する谷澤さんは、ジェンダーへの関心を元に、女性表現者に対する固定的な評価を問い直し、インスタレーション、作陶、切り紙、絵画など、幾つかの表現手法を横断、交差させながら作品制作を行う。
 1982年大阪生まれ。2007年京都市立芸術大大学院美術研究科修士課程を修了。同大准教授。令和2年度京都市芸術新人賞受賞、VOCA展2022でVOCA佳作賞受賞。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の紙絵展を鶴岡で開かれるといふことで貴下に又御面倒をかける次第、恐縮に存じます。


昭和27年(1952)7月24日 真壁仁宛書簡より 光太郎70歳

真壁は山形在住の詩人。戦時中、光太郎は手元にあった智恵子紙絵千数百点のうち約3分の1を真壁の元に疎開させ、そのまま真壁が保管していました。この年8月8日~10日の3日間、山形の鶴岡公民館で(他に大山公民館でも展示があったそうですが、こちらは会期等不明)開催された智恵子紙絵展に真壁の手元にあった作品が展示されました。

山形では昭和24年(1949)にも山形市美術ホールで智恵子紙絵展があり、鶴岡や後に鶴岡に編入される大山町でもぜひ、という声があったようです。

光太郎、それから実弟の豊周の母校にして、光太郎の父・光雲と豊周が教壇に立った東京美術学校の歴史を中心に、江戸末期から終戦直後までの我が国の美術教育史、ひいては美術史全般が語られています。髙村親子三人についてもそれぞれ触れられています。

東京美術学校物語――国粋と国際のはざまに揺れて

発行日 : 2025年3月19日
著者等 : 新関公子
版 元 : 岩波書店(岩波新書)
定 価 : 960円+税

東京芸術大学の前身、東京美術学校の波乱の歴史をたどりながら、明治維新以後の日本美術の、西洋との出会いと葛藤を描く。

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目次
まえがき――『東京美術学校物語』の基礎としての『東京芸術大学百年史』の存在について
 第一章 日本はいつ西洋と出会ったか――キーワードは遠近法
  享保の改革と漢訳洋書輸入解禁
  蘭書からの直接的西洋の影響
  西洋の遠近法と日本人の遠近法理解
  幕末明治の西洋体験――高橋由一の場合
 第二章 ジャポニスムの誕生――慶応三年パリ万国博覧会への参加
  江戸幕府パリ万国博覧会へ参加する
  フランス画壇の状況――印象派誕生前夜
  ジャポネズリとジャポニスム
 第三章 欧化を急げ――明治初期の国際主義的文化政策
  ウィーン万博参加と御雇外国人ワグネル
  万博と浮世絵
  唐突な工部美術学校の開校
  女子も学べた工部美術学校
  ラグーザと清原玉
 第四章 反動としての国粋主義の台頭
  龍池会の誕生
  フェノロサと岡倉との出会い
  『美術真説』を読んでみる
  フェノロサ、狩野芳崖を発見する
  パリで開かれた「日本美術縦覧会」の失敗
  フェノロサ、狩野派改良の絵画指導を始める
 第五章 美術学校設立の内定とフェノロサ、岡倉の欧米視察旅行
  文部省内におかれた「図画調査会」
  国立美術学校設立の内定
  フェノロサ、岡倉の帰朝報告
  原田直次郎のフェノロサ批判
 第六章 国粋的美術学校の理念の確立にむけて
  芳崖はフェノロサ、岡倉の手として選ばれた
  フェノロサの哲学的立場
  イデア論の延長――人間の誕生を描く《悲母観音》
  《悲母観音》の図像学の成立過程を考える
  国粋的美術学校の開校の背後で泣いた洋画家たち
――高橋由一・源吉親子と原田直次郎の場合
  五姓田一族と山本芳翠の場合
 第七章 開校された美術学校――フェノロサ、岡倉の教育プログラム
  お古の建物で始まった国粋美術学校
  フェノロサの授業の革新性とその受講生の作品
  公共モニュメントの受注制作
  シカゴ・コロンブス世界博覧会への協力
 第八章 図案科、西洋画科の開設と岡倉の失脚
  西洋画科の開設
  人事――紛争の火種
  選科という制度
  白馬会の創設
  岡倉失脚の経緯
  連袂辞職騒動
 第九章 一九〇〇年パリ万国博覧会への参加
  岡倉の去ったあとの美術学校
  パリ万博における美術学校関係者の出品と受賞
  浅井忠の驚愕と反省
  黒田の《智・感・情》
 第一〇章 正木直彦校長時代の三〇年と七ヶ月
  正木校長時代の日本画科
  正木校長時代の西洋画科
  文部省展覧会(文展)の創設と反文展の動き
  在野美術団体の誕生
  校友会活動
  正木時代のその他の出来事
  学生の思想取締りや退学処分
 第一一章 和田英作校長時代の四年間
  横山大観の怒り
  和田校長時代の改革と主な出来事
  矢代幸雄の美術学校への貢献
  和田校長が辞任に至る原因
  画家としての和田英作
 第一二章 戦時下の東京美術学校とその終焉
  戦時下の美術学校と眼のない自画像
  戦時下の画壇の状況
  戦時下の美術学校の教師――藤島武二の場合
  国粋主義者・横山大観
  大観の野望
  東京美術学校から東京藝術大学へ
 『東京美術学校物語』関連年表
 あとがき

一昨年から昨年にかけ、岩波書店さんのPR誌的な『図書』に連載されていたものに加筆・修正だとのことです。著者の新関氏は、昭和15年(1940)のお生まれだそうで、新制東京藝術大学さんをご卒業後、同大資料館(現・大学美術館)に勤務され、教授を経て現在名誉教授の由。

明治維新から太平洋戦争敗戦に至るこの国歴史全般が、まさにサブタイトルの通り「国粋と国際のはざまに揺れて」の年月だったわけで(現代も、ですが)、美術教育、そして美術界全体もその波から逃れられなかったことに思いを馳せながら拝読いたしました。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

数日前小包到着、実にいろいろいただき、驚くばかりです、数へる事も出来ないほどで皆お心のこもつた品々、ありがたく存じました、 アメリカの洗剤は早速使用、なるほど效能書にある通り純白に上るので喜びました、


昭和27年(1952)7月19日 倉田福子宛書簡より 光太郎70歳

敗戦から7年近く経ち、物資不足も漸く落ち着いてきたようですが、まだまだだったようですね。

昨日は横浜に行っておりました。目的地は港の見える丘公園内の神奈川近代文学館さん。
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まずは閲覧室で、特別資料の閲覧。特別資料というのは書簡や書幅などの古書業界で云うところの「肉筆もの」、各種イベント等の案内状などの同じく「一枚物」などです。同館、通常の書籍類は行けば書庫から出して下さって閲覧出来ますが、特別資料はなんとか会員に登録の上で事前に申請し、閲覧室のさらに奥の特別室で拝見するシステムです。これまでも『高村光太郎全集』等未収録の光太郎の書簡などを2、3度拝見したことがありましたが、ここ数年でまたやはり未知の新たな資料が増え、そちらを閲覧させていただきました。

書簡が3通。詩人の中野重治に宛てたもの1通と、中央公論社社長だった嶋中雄作に宛てたものが2通。それから「一枚物」として、昭和20年(1945)に岩波書店の創業者・岩波茂雄が貴族院議員に当選(普通選挙ではなく議員による互選)しましたが、その際の推薦状。推薦者として名を連ねている24名の中に光太郎の名も記されています。また、意外なところでは新宿中村屋さんの創業者・相馬愛蔵の名も。岩波、相馬とも信州人ということもあったかもしれません。

そちらの閲覧を終え、一旦外へ出て別棟の展示室へ。
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こちらでは今月20日から特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」が始まっており、拝見しました。
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平成29年(2019)に亡くなった大岡信氏、詩人としてもご活躍でしたが、評論活動なども活発に行われ、特に『朝日新聞』さんに昭和54年(1979)から約30年連載されていたコラム「折々のうた」は大きな業績の一つとして語り継がれています。

フライヤー裏面にはその第一回の原稿の画像も。
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記念すべき第一回は光太郎短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)を取り上げて下さいました。

驚いたことに、この肉筆原稿と共に、光太郎自身がこの歌を揮毫した色紙も展示されていました。大岡氏の遺品なのかもしれません。

その他、昨年亡くなった谷川俊太郎氏をはじめ、さまざまな分野の人々との交友の様子を物語る品々、それから光太郎と同様に自ら書家を名乗ったわけではないものの、見事な書をたくさん遺されたその作品群など、興味深く拝見いたしました。

同館を出て、目の前の霧笛橋から撮ったベイブリッジ。手前は木蓮の一種でしょう。
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振り返ると当会シンボルの連翹も満開でした。

特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」、5月18日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

七年間見て来たところでは、花巻の人達の文化意慾の低調さは驚くのみで、それは結局公共心の欠如によるものと考へられます。宮沢賢治の現象はその事に対する自然の反動のやうに思はれます。賢治をいぢめたのは花巻です。


昭和27年(1952)7月19日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎70歳

佐藤隆房は賢治の主治医でもああり、光太郎の花巻疎開にも尽力、その後も物心ともに光太郎を援助し続けた人物でした。その佐藤に宛てたある意味手厳しい花巻評。7年を超えた花巻及び郊外旧太田村での暮らし、人的交流の部分では完全なパラダイスだったわけでもないことが見て取れます。

この後、10月には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京しますが、完成後には再び太田村に戻るつもりで居ました。後足で砂を掛けて出ていくというわけでは決してなく、光太郎の岩手に対する思いはなかなか複雑なものがありました。

4月に入ってのイベント情報、音楽ライブと朗読会で同じ日に行われる2件をご紹介します。

まずは光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさんのライブ。このところ島根の方を拠点にされてミュージカル等に携わられることが多かったようですが、久しぶりに「智恵子抄」メインです。

BOOK CAFÉ LIVE モモの智恵子抄

期 日 : 2025年4月4日(金)
会 場 : 狐弾亭 東京都立川市羽衣町1-21-2
時 間 : 18:15~20:00
料 金 : 3,500円

一部 智恵子の瞳  二部 次回予告編 宮沢賢治物語『アウシュビッツの壁』

出演 歌 モンデンモモ ギター たしまみちを


ご予約開始いたします。妖精の身元に!!素晴らしい空間です、席がほんの少しです。すでにご予約いただいていて急がれてください。満席になり次第締め切らせていただきますね。ごめんなさい。妖精さんのお席も用意します🧚
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もう1件、朗読会は宮崎県から。

劇団ぐるーぷ連 第134回朗読LIVE がんばれどうぶつ

期 日 : 2025年4月4日(金)
会 場 : ぐるーぷ連 劇工房 宮崎県東諸県郡綾町北俣4010-7
時 間 : 14:00~
料 金 : 1,000円

構成 実広健士
出演 劇団ぐるーぷ連 井上貴子・前本俊一 ことばの教室 原口奈々
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新美南吉/ごん狐       和田誠/おさる日記  筒井康隆/狸 高村光太郎/道程・牛
花岡大学/百羽のツル
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劇団ぐるーぷ連さん、毎月の月初めに朗読ライブをなさっているそうで、その都度テーマというかタイトルというかを決めて作品を選ばれているようです。今月は「弥生3月花の咲く」。そして来月が「どうぶつがんばれ」だそうで、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)を取り上げて下さいます。ありがたし。100行越えの長大な詩ですのでなかなか大変とは存じますが、それだけに聴き応えはあるでしょう。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今度の仕事の事では学校として心配して下さつて忝く存じます、うまくアトリエが借りられて万事好都合でした、


昭和27年(1952)7月19日 石井鶴三宛書簡より 光太郎70歳

石井は新制の東京藝術大学教授を務めていた彫刻家。光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を始めるにあたり、アトリエの心配をしてくれていたようです。もしかすると学校の施設を使ってもよい的な申し出もあったかも知れません。結局、中野の中西利雄アトリエを借りることがこの頃には決まっていました。

和歌山県から企画展示情報です。

重要文化財指定記念特別展「大伽藍」

期 日 : 2025年4月3日(木)~6月29日(日)
会 場 : 高野山霊宝館 和歌山県伊都郡高野町高野山306
時 間 : 4月中 午前8時30分~午後5時 5月以降 午前8時30分~午後5時30分
休 館 : 5月19日(月)のみ展示替えのため
料 金 : 一般:1,300円 高校生・大学生:800円 小学生・中学生:600円

令和6年に高野山壇場伽藍(大伽藍)の諸堂が重要文化財に指定されました。壇場伽藍は、弘法大師空海(お大師さま)が開いた真言密教の世界を堂塔で表した、奥之院と並ぶ高野山の二大聖地です。壇場伽藍には多くの堂塔が建てられ、焼失と再建を繰り返し、現在の姿になりました。多くの僧侶や信仰する人々が、千二百年の時を繋げてきた壇場伽藍の歴史と宝物の数々をぜひご覧ください。

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フライヤーに記述がありませんが、光太郎の父・光雲作の「仏頭」が出品されます。
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高野山金剛峯寺さん金堂(総本堂)のご本尊にして秘仏の薬師如来(阿閦如来) 座像(昭和9年=1934)のための習作で、ほぼ原寸大の大きな作です。
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ご本尊は金剛峯寺さん開創1,200年だった平成27年(2015)にご開帳されましたが、基本的に秘仏なので次はいつになるやらわかりません。習作の仏頭は霊宝館さんで時折展示されるものの、その機会も多くありません。こちらで把握している限りでは、前回は令和2年(2020)の「夏期企画展 如来 -NYORAI-」の際でした。

ご本尊の開眼は昭和9年(1934)。光雲が亡くなった年です。依頼があった時に光雲は「命が保(も)たないかも知れない」と一度は断りましたが、高野山の僧侶は「完成するまでお主が死なぬよう我々が加持祈祷を行う」(笑)。結局は弟子たちの手も借りつつ間に合わせたのだと思われます。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生も十月には東京へ行けさうで、来春の頃まで中野辺のアトリエで製作にかかれる模様です。

昭和27年(1952)7月12日 村田勝四郎宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関わります。彫刻家の村田と他に二人に宛てたこの日の書簡で、中野の中西利雄アトリエを借りられる見通しとなったことが初めて具体的に語られました。

まず過日ご紹介した「花の王国ふくしまフラワースタンプラリー2025」について、FCT福島中央テレビさんのローカルニュース。

2か所以上巡って抽選に応募「花の王国ふくしまフラワースタンプラリー」開幕

 福島の大型観光キャンペーンを盛上げようと、福島県内の花の名所をめぐるスタンプラリーが始まりました。
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 「花の王国ふくしまフラワースタンプラリー」の開幕式は、3月20日いわき市フラワーセンターで行われました。
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 これはJR東日本と福島県内の自治体による大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン」の一年前イベントとして開かれます。
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 福島県内の花の名所207ヵ所に設置されたスタンプを6月30日までに2つ以上集めると、福島の特産品や宿泊券などが当たる抽選に応募できます。
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■福島県観光交流局 藤城 良教局長
「県民の方にもそして国内外のみなさまもおもてなしして福島が誇る花を楽しんで観光巡りをしていただきたいなと思います」
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4月からの福島プレDC期間中は、県内各地でさまざまなイベントが行われます。
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正式には来年開催される「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のプレイベントという位置づけだそうで、こちらは県内全域を対象とした企画です。

それ以外にも各市町村等がさまざまな独自のコンテンツを用意、その数何と289だそうです。基本的に来週4月1日(火)からスタートします。
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智恵子の故郷・二本松市でも4件のイベント。「絶景・絶品『肉フェス』in HIYAMA」(日山キャンプ場)、「高原ワインの風と音楽の調和 山餐(さんさん)サウンズ」(ふくしま農家夢ワイン)、「高原の新緑の風で味わう あなたのそばフェス」(道の駅さくらの郷)、そして……

二本松ミュージアムツアー2025~スタンプラリーでめぐる歴史と芸術のまち~

期 日 : 2025年4月1日(火)~6月30日(月)
会 場 : 二本松歴史館/二本松市郭内三丁目303-5 にほんまつ城報館1階
      智恵子記念館/二本松市油井字漆原町36
      大山忠作美術館/二本松市本町2-3-1 二本松市民交流センター3階
時 間 : 二本松歴史館/午前9時~午後5時
      智恵子記念館/午前9時~午後4時30分
      大山忠作美術館/午前9時30分~午後5時
休 館 : 二本松歴史館/月曜日(祝日に当たるときは、以後の休日でない日)
      智恵子記念館/水曜日(祝日の場合は翌日)
      大山忠作美術館/月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 二本松歴史館/一般 200円 高校生以下 100円
      智恵子記念館/高校生以上 410円 中学生以下 210円
      大山忠作美術館/一般 410円 中学生以下 210円

二本松歴史館・智恵子記念館・大山忠作美術館の3館をめぐるスタンプラリーを開催します。スタンプラリー達成者には、3館コラボグッズを差し上げます。
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「フラワースタンプラリー」とはまた別のスタンプラリーだそうで。

ところで、智恵子記念館といえば、智恵子の生家が併設されていて、こちらではさらにまた別に「高村智恵子生誕祭」が開催されます。4月24日(木)~5月25日(日)で、また近くなりましたら詳細をお伝えいたしますが、当会としても参加させていただくことになりました。
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まず期間中通期で「智恵子のエプロン 復刻展示」。光太郎第二の故郷・花巻の岩手県立花巻南高校家庭クラブの生徒さんが復元して下さった智恵子のエプロンを記念館さんで展示します。それから1日限りのミニコンサート的な。箏曲奏者・元井美智子さんの箏、大西ようこさんの電子楽器テルミンに乗せてヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんの「智恵子抄」朗読で「音楽と朗読『智恵子抄』 愛はここから生まれた」。

「フラワースタンプラリー」、「二本松ミュージアムツアー」と期間がかぶっていますので、併せてどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

智恵子遺作紙絵展覧お催しの趣、右は真壁仁君の御同意あらば、小生も異存ございません。作品も真壁仁君保管のものの中より御選択下さるのが便宜かと存じます。
昭和27年(1952)7月5日 佐藤治助宛書簡より 光太郎70歳

この年8月8日~10日の3日間、山形鶴岡公民館で開催された智恵子紙絵展にかかわります。他に大山公民館でも展示があったそうですが、こちらは会期等不明です。

「真壁仁君」は、山形在住の詩人。戦時中、光太郎は手元にあった智恵子紙絵千数百点のうち約3分の1を真壁の元に疎開させ、そのまま真壁が保管していました。佐藤治助は真壁に師事、山形鶴岡で教職のかたわら文学活動に取り組んでいました。

上記「高村智恵子生誕祭」中、智恵子記念館では紙絵の実物展示も行われます。

昨日に引き続き、新刊紹介です。

荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日

発行日 : 2025年3月10日
著者等 : 西川清史
版 元 : 講談社
定 価 : 1,900円+税

■八十年前のあの夜、東京で何が起こっていたのか? 圧巻のドキュメント
保阪正康氏推薦!「戦争を体験し、思索し、表現する文士たちの言葉は第一級の証言である」
■荷風が、谷崎が、向田邦子が目撃した「戦争」の姿が生々しく蘇る
■一夜にして十万五四〇〇人が失われた惨劇! 僕は巨大なB29が目を圧して迫まってくるのを見た。銀色の機体は、地上の火焔を受けて、酔っぱらいの巨人の顔のように、まっ赤に染まっていた。
──江戸川乱歩
■彼らの著述によって東京大空襲の惨劇を再構成するこの労作から、私たちは戦争の非人間性を改めて知らされることになる──保阪正康(歴史家)
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目次
 昭和20年、東京に住んでいた作家たち(地図)
 はじめに
 Ⅰ 焼尽
   永井荷風は電信柱の影に隠れて焼け落ちる偏奇館をいつまでも見つめていた。
   歴史探偵、半藤一利は十四歳だった。火に追われ逃げまどい、危うく川で溺れ死にそう
    になった。
   下町の中心部に住む中田耕治と関根弘は頭上から降り注ぐ焼夷弾から必死で逃げまどっ
    た。
   燃え盛る下町を遠望しながら、堀田義衛は「ひとりの親しい女」の身の上を案じてい
    た。
 Ⅱ 劫火
  「東京が燃えている」。震撼した作家たちはその衝撃をつぶさに日記に刻みつけていた。
  船橋に住む豊田正子は思わず見入った。血を浴びたように赤黒く染まった建物群を。
  B29は美しいと書いている作家が少なくない。機体は銀色の鮎の群れのように光り輝いて
   いた。
  向田邦子の父は悲壮な顔で言い出した。「みんなでうまいものを食べて死のうじゃない
   か」
 Ⅲ 空爆
  米軍の機密文書「作戦任務報告書」で明らかになった東京大空襲の一部始終。
  日本列島焼土化作戦を強力に指揮した男、C・E・ルメイ少将は「鉄のロバ」と呼ばれた。
 Ⅳ 地獄
  東京が焼け野原となったと知って谷崎潤一郎は矢も楯もたまらず東京に向かった。
  医学生、山田風太郎は何もない焼け野原を見て「こうまでしたか、奴ら!」と激昂した。
  鬼哭啾々、想像を絶する風景だったのだろう。多くの文士が本所、深川、浅草の地獄につ
   いて書く。
  B29が大挙して飛来した四月十三日の空襲で江戸川乱歩も澁澤龍彦も飯沢匡も炎に囲まれ
   た。
  隅田川にかかる言問橋や浅草寺には今も東京大空襲の傷痕がくっきりと残っている。
 Ⅴ 日記
  古川ロッパの日記から見えてくる空襲にあけくれるストレスフルな東京の日常。
  B29が飛来するとみんな慌てて飛び込んだ防空壕とはどのようなものだったのか。
  徳川夢声の戦中日記。内容は悲惨なのにそこはかとなく愉快なのはなぜなのだろうか。
 Ⅵ 鏖殺(おうさつ)
  五月二十五日の空襲は東京の息の根を止めた。有馬頼義は落下傘で舞い降りた米兵を捕縛
   した。
  三月十日、吾妻橋で焼け出された中田耕治は五月二十五日の空襲でも九死に一生を得た。
  小泉信三はメラメラと炎を上げる外套を着たまま燃え盛る自宅の中から現れ、昏倒した。
  収集した十数万冊の本は真っ白な灰となり大内兵衛は呆然として立ち尽くしていた。
  靖国神社に逃れるのを嫌った吉行淳之介は千鳥ヶ淵の小さな公園に逃げ込み眠ってしまっ
   た。
  「青山脳病院」が火柱をあげて燃え盛るのを見て、斎藤茂太と北杜夫は青山墓地に逃げ込
   んだ。
  宗左近は炎の海の中に倒れた母を見捨てて逃げた。生涯、その負い目から逃れることはで
   きなかった。
 Ⅶ 戦慄
  米軍の攻撃は焼夷弾だけではない。爆裂する通常爆弾に高村光太郎は戦慄した。
  尾崎一雄はグラマンから機銃掃射を浴びた。植木の幹に弾が当たると、ブスッという音が
   した。
  空襲で母と妹を失った高木敏子の目前で父は機銃掃射でこめかみを射貫かれて即死した。
  八月に入って世の中が騒然としてくる中、我が子を殺すことを考えた徳川夢声と海野十
   三。
 Ⅷ 終結
  偏奇館を失った永井荷風はその後も心の失調をともなうほどの危機に幾度も瀕していた。
  深川まで親しい女に別れを告げに行ったその日堀田義衛は思いがけない光景に身が凍っ
   た。
  B29の大編隊は宮城の上に至って方向を変えた。天皇は見上げもせず、静かに花に水を
   やり続けた。
 あとがき
 参考文献

目次だけでもショッキングな内容の連続です。

光太郎を中心に据えた項が、「Ⅶ 戦慄」中の「米軍の攻撃は焼夷弾だけではない。爆裂する通常爆弾に高村光太郎は戦慄した。」。

光太郎が、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の智恵子と過ごした思い出深い自宅兼アトリエを焼かれたのは、4月13日の空襲でのことでした。最も有名な3月10日の空襲では無事だったのですが、その後も空襲は繰り返されたわけで。

著者の西川氏、二篇の光太郎作品を引いています。まず、さらに遡って昭和17年(1942)4月18日、東京が初めて空襲されたいわゆる「ドゥーリットル空襲」を題材にした詩「帝都初空襲」。それから、戦後の昭和30年(1955)に高見順と行った対談「わが生涯」。

妙な所が戦場になつちやつて、ぼくらの近所はひどかつたですよ。電信柱に足がぶら下つてたりね、往来に靴が落つこつてる、見ると中身があるんだ。気味が悪くつてね。ぼくもいつやられるか、と思つてね。

004この電信柱の足については、光太郎自身がお蔵入りにした詩「わが詩をよみて人死に就けり」(昭和22年=1947)でも語られています。

   わが詩をよみて人死に就けり

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の太腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向つた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

光太郎にとっては忘れられない記憶となったのでしょう。

ちなみに本書では引用されていませんでしたが、光太郎には「罹災の記」(昭和20年=1945)という文章があって、自宅兼アトリエの焼け落ちた際のことが細かく書かれています。その部分を書き出しましょう。

 私は四月十三日廿三時の空襲による火事で類焼した。敵機編隊来襲の終りに近く、三、四軒目の隣家両三軒に焼夷弾が十数発落下して火災発生、折からの東南風で火の粉をかぶつたが、それは私一人の火叩きで消せる程度のものであつた。そのうち火は隣組の家々を横へ燃えひろがり、私の家は火に取り残された形となつたので或は助かるかも知れないと思つたが、家伝ひに羽目から羽目へと移る火焔がだんだん猛烈となり、つひに裏隣りの家さへ危くなつた。その家の主人が「もう駄目です」といつて荷物を背負つて避難されてからは、まつたく私一人でバケツの水を自宅裏の羽目板にかけてゐたが、警防団員である妹の主人がかけつけて来て台所の内側からも防火に努めてくれた。此時私はバケツの水の威力を初めて知つた。火焔は猛烈でも火の根に水をかけるとバケツ一杯の水でも火力はちよつと衰へる。それを間断なく続ける事が出来れば火はきつと消えるのである。此時は既に数個の水槽の水も大鉢の水も尽き、一人で車井戸の水を汲み上げてそれをバケツにあけて火に向ふ外なかつたので、火の手は急にもり返して面もむけられないほど空気が熱くなつた。せめて五、六人の人がゐたらこの火は消せたのである。力尽きて避難に取りかかつた。かねて用意の蒲団袋や、米袋を近くの疎開道路の壕へ運んでもらひ、自分は御真影をも収蔵してある大切な道具箱二個と、彫刻用の貴重な砥石二面とをかつぎ出した。これさへ出せばほかの物はどうでもいいと思つてあせらなかつた。家は居抜きのまま敵の兵火に渡してやらうと肚をきめて悠々と行動した。父の作品二点ばかりと、友人に此日もらつたコーヒー罐一つとを風呂敷に包んで立退き、十四、五間ばかり離れた空地から焼け落ちるアトリエの美しい姿に見とれてゐた。爆弾の音もしてゐたが落ちるなら勝手に落ちろと思つて平気だつた。

持ち出せたものは蒲団袋、道具箱二個、砥石二つ、光雲の作品二点、少しばかりの食料。この蒲団袋の中に、大正末か昭和初め、智恵子にせがまれて買ったイギリスの染織工芸家、エセル・メレ作のホームスパン毛布が入っていたと考えられます。また、戦後になって、防空壕に戦前から光太郎が書きためていた詩稿の控えの束が残っていて、自宅兼アトリエの土地を貸していた大家さんから渡されました。詩稿の束を持ち出したことは、同様のもう少し短い回想「仕事はこれから」に書かれていました。

自宅兼アトリエの燃えるさまを「美しい」。これについては、直後に駆けつけてくれた詩人の寺田弘の回想にも書かれています。

 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って、これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやってたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうにそこに立ち止まったのが、印象的でしたね。
(『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』 平成24年=2012 TBSサービス)

極限状態に追い込まれると、こうなるのかもしれません。

焼け出された光太郎、1ヶ月ほど近くで焼失を免れた妹の婚家に身を寄せていましたが、宮沢賢治の実家からの誘いを受け、花巻に疎開することになります。その賢治の実家も8月10日の花巻空襲で全焼してしまうのですが。

さて、『荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日』。この手の書籍の常で、まず光太郎中心の章や項を読んでから、他の部分を読みます。ところが書かれている内容が余りに悲惨で、なかなか読み進められません。しかし、こうした事柄から眼をそらしてはいけませんので、少しずつ読んでいこうと思っています。

ちなみに最上部に書影画像を載せましたが、帯を取るとその下に昭和20年(1945)頃の光太郎の顔。
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このイラストは微笑ましい感じですが、さらにカバーを取った表紙はこう。
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空襲の悲惨さが象徴されているようです。

皆様もぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

十和田湖、八甲田山一帯の景観はまつたく予想以上の美しさにて、御依頼のモニユマン製作についても、小生快く承諾の腹をきめることができました。 かくも美しき自然に対して自己の全力を傾け得る事の幸を一造形家として感ぜざるを得ず、この夏中に構想を練り、エスキスを試み、秋頃より諸般の便宜多き東京にて原型製作にとりかかり、明年完成の予定で居ります。


昭和27年(1952)6月28日 津島文治宛て書簡より 光太郎70歳

岩手に移って7年余り、敗戦当初は山間に文化集落を造るという無邪気な夢想、青年時代から憧れていた辺境の地での自由な生活といった意味合いが強かったのですが、徐々に自らの戦争責任を痛感せざるを得なくなり、自らを罰する「自己流謫(るたく)」へと変貌しました。「流謫」は「流罪」に同じです。そのため自らへの最大の罰として、彫刻製作も封印。しかし、余命あと僅かという自覚もあり、青森県からの依頼を好機と考え、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を決意します。

2ヶ月半経ってしまいましたが、新刊です。

都市空間を歩く 日本近代文学と東京

発行日 : 2025年1月8日
著者等 : 佐藤義雄・松下浩幸・長沼秀明[著]
版 元 : 翰林書房
定 価 : 2,800円+税

場所と言葉を往還しつつ、〈 地霊(ゲニウス・ロキ) 〉を復原する。文学鑑賞の醍醐味を再認識するための実践的な提案。
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目次
 はじめに 松下浩幸
 一  樋口一葉「日記」「別れ霜」 ― 東京図書館・お茶の水橋・万世橋 松下浩幸
 二  夏目漱石『それから』 ― 神楽坂・小石川・青山 松下浩幸
 三  森鷗外「百物語」 ― 向島 松下浩幸
 四  高村光太郎『智恵子抄』 ― 千駄木・日暮里 松下浩幸
 五  江戸川乱歩「目羅博士」 ― 上野・丸の内 松下浩幸
 六  長谷川時雨『旧聞日本橋』 ― 日本橋 長沼秀明
 七  徳冨蘆花『不如帰』 ― 赤坂氷川町 長沼秀明
 八  田山花袋『田舎教師』 ― 上野公園 長沼秀明
 九  久保田万太郎「春泥」 ― 日暮里 長沼秀明
 十  藤村「並木」と芥川「毛利先生」 ― 日比谷・大手町・神田 佐藤義雄
 十一 永井荷風「紅茶の後」 ― 銀座 佐藤義雄
 十二 三島由紀夫「詩を書く少年」 ― 目白・学習院 佐藤義雄
 講座一覧
 あとがき 佐藤義雄
 初出一覧

目次に「講座一覧」とあるように、元は明治大学さんの「リバティアカデミー」という市民講座中の一つで「都市空間を歩く」が開設され、その報告書的なブックレットからの修正加筆が中心のようです(一部は書き下ろし)。

著者のお三方とも明治大学さんで教壇に立たれている皆さん。お三方で100回余りの講座を受け持たれたそうで、鷗外や漱石、芥川などは繰り返し取り上げられていました。逆に宮沢賢治、萩原朔太郎など本書に収録されなかった作家も多数。で、お三方がご自分の担当講座から数篇ずつを選んで本書が構成されています。

光太郎智恵子に関しては松下浩幸氏によるもの。100回余の講座中、光太郎智恵子を中心に据えたのはこの一回のみだったようで、それを本書に収録してくださったのはありがたいところです。元は平成28年(2016)3月のブックレットに「〈狂気〉と〈純愛〉――高村光太郎『智恵子抄』と千駄木・日暮里」の題で収められていましたので、約10年前ですね。

従って、最新の情報が盛り込まれていません。既に取り壊されてしまった光太郎の実家(旧駒込林町155番地)が写真入りで紹介されていますし、明治45年(1912)に智恵子と福島の医師との間に縁談があったという件は、大島裕子氏の調査で否定されています(相手とされてきた医師は既に妻帯・子持ちだったと判明)が、反映されていません。

まぁ、そうした点はさておき、『智恵子抄』詩篇を読み解きつつ、「恋愛は何よりも近代的な人間であることの証であり、個人の意思を尊重する「ヒユウマニテイ」(人間性)としての行いを実践するという意味を持っていた」「近代的恋愛とは「人類」の普遍的な意志であり、個人が成長していくために必須の思想的実践であった」といった指摘には「なるほど」と思わされました。

まだ手元に届いたばかりで、光太郎智恵子の項と、光太郎といろいろ交流のあった長谷川時雨の項しか精読していませんが、全体に図版や地図も多く、これを片手に文学散歩としゃれ込むのにいいなと思いました。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生にとりて東京は好ましき土地ではございませんが、この製作完成までは特に滞在、仮アトリエに蟄居の覚悟を定めました。


昭和27年(1952)6月28日 津島文治宛書簡より 光太郎70歳

津島文治は太宰治の実兄にして当時の青森県知事。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の仕掛人です。

大戦末期の昭和20年(1945)5月から足かけ8年に亘る岩手での暮らしで浄化された光太郎の眼には、伝え聞く戦後の雑駁とした東京の様子は忌避すべきものだったようですが、像の制作のためには仕方ありませんでした。「完成までは特に滞在」とあるように、再び花巻郊外旧太田村の山小屋に戻るつもりで、住民票やほとんどの家財道具は残したまま上京します。

まず都内から演奏会情報です。

朝岡真木子歌曲コンサート 第8回

期 日 : 2025年3月30日(日)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演(13:30開場)
料 金 : 一般 4,500円 学生券2,000円(全席自由)

曲 目 
 「春宵感懐」 詩:中原中也 
 「さくらの はなびら」 詩:まど・みちお
 組曲〈春にあこがれ〉 詩:星乃ミミナ
 「なぎさ」 詩:木下宣子
 「さんまのうた」 詩:大竹典子
 「秋の手紙」 詩:こわせ・たまみ
 「雪に」 詩:金子みすゞ
 「冬が来た」 詩:高村光太郎
 「ピカドンが落ちたとき」 詩:山中茉莉 新作
 「日本列島」 詩:岡崎カズヱ 新作
 組曲〈人間家族〉より「愛」「欲望」 詩:野上彰 新作
 「わたしは魔女」 詩:冨永佳与子
 「しゃなりとあるく」 詩:矢崎節夫
 他

出 演
 木内弘子(ソプラノ) 黒川京子(ソプラノ) 白須ヒロミ(ソプラノ)
 三縄みどり(ソプラノ) 清水邦子(メゾ・ソプラノ) 紀野洋孝(テノール)
 馬場眞二(バリトン) 朝岡真木子(作曲・ピアノ)
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光太郎詩をテキストに「組曲 智惠子抄」を作曲なさった作曲家・朝岡真木子氏の歌曲作品が演奏されるコンサートです。ピアノは朝岡氏ご自身です。

今回は、「冬が来た」がプログラムに入っています。歌唱はテノールの紀野洋孝氏だそうです。紀野氏、あちこちで別宮貞雄作曲歌曲集《智恵子抄》の全曲や抜粋を取り上げられて歌われていた方です。一昨年には初台の東京オペラシティさんでのリサイタルで拝聴いたしました。

「朝岡真木子歌曲コンサート」には、一昨年、昨年とお邪魔し、今年も伺うつもりでいて招待券も頂いていたのですが、他の雑用のため残念ながら欠礼させていただきます。実は既に「チケット完売」と布告されていますが、当方欠礼分一席空きましたし(笑)、キャンセル等あるかもしれません。

もう1件。こちらは今日です。それまで曲目はフライヤー画像のみで、一昨日になってX(旧ツイッター)上に「2ステで演奏する「レモン哀歌」(詩:高村光太郎  曲:西村朗)」という語が出て、昨日気づいた次第ですが、記録のためにも載せておきます。

千葉県立千葉中学校・千葉高等学校合唱部 第17回定期演奏会

期 日 : 2025年3月21日(金)
会 場 : J:COM浦安音楽ホール 千葉県浦安市入船1丁目6-1
時 間 : 19:00開演(18:30開場)
料 金 : 無料(全席自由)

曲 目
 混声合唱のための「うたⅡ」より さくら  日本古謡 作曲 武満徹
 Psaim 43 Richte mich,Gott 作曲 Felix Mendelssohn
 混声合唱とピアノのための組曲 レモン哀歌 作詩 高村光太郎 作曲 西村朗


出演
 千葉県立千葉中学校・千葉高等学校合唱部
 指揮 山宮篤子 ピアノ 松原賢司 賛助出演 Chœur Clarté

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一昨年亡くなった西村朗氏作曲の「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」(平成20年=2008)が演奏されます。3曲から成る構成で、「千鳥と遊ぶ智恵子」「山麓の二人」そして「レモン哀歌」。フライヤーにレモンがあしらわれ、これがメインステージという扱いでしょうか。

ところで、以前にも書きましたが、こうした演奏会系の告知は曲目まで活字にしていただきたいものです。「誰が」演奏するのかももちろん大切ですが、「何が」演奏されるのかもそれと同程度に(あるいはそれ以上に)重要な情報と思います。「この曲が演奏されるなら行ってみよう」というのがあると思いますので……。

【折々のことば・光太郎】

十日間ばかりの旅行で十和田湖から帰つてまゐりましたが、用事の始末をつけるのに暇どつて中々厄介です。モニユマンは製作することにきめましたが、製作が冬季になるのと助手、モデル使用の都合、用具調整、石膏型取り、鋳造等の便宜上仮アトリエは東京に造り、製作中小一年は東京に居らねばならなくなるかも知れません。


昭和27年(1952)6月28日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎70歳

十和田湖への下見を経て、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を引き受けることを決意しました。同時にさまざまな都合も考え、上京することも。ただ、この時点では中西利雄アトリエを借りる算段はまだついていませんでした。
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昭和6年(1931)に光太郎が訪れ、紀行文「三陸廻り」で紹介した宮城県女川町で、永く光太郎顕彰活動を続けられているの女川光太郎の会さん。このたび県から表彰されたそうです。

地元紙『石巻かほく』さん記事。

住みよいみやぎづくり功績賞 「女川・光太郎の会」が受賞、地域活性と文化振興

 地域社会づくりに貢献した個人や団体を県が表彰する本年度の「住みよいみやぎづくり功績賞」に、女川町民有志で組織する「女川・光太郎の会」が選ばれた。町に紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の功績を伝え、地域の活性化や文化振興に貢献していることが評価された。
 女川・光太郎の会は、戦前に町を訪れた光太郎の功績を後世に伝えるため1992年に発足。同年夏、女川湾の近くに三つの文学碑を建立した。
 文学碑は東日本大震災の津波で流出するも、2020年に再建を果たした。紀行文や詩の朗読などを行う「光太郎祭」も、光太郎が三陸に向けて東京を出発した8月9日に合わせて毎年開催している。
 伝達式が17日、石巻市あゆみ野5丁目の県石巻合同庁舎であった。県東部地方振興事務所の石川佳洋所長が「会の活動は全国から女川を訪れるきっかけになっている。若い世代にも伝承の思いが伝わっているのがすばらしい」とたたえ、須田勘太郎会長(84)に表彰状を手渡した。
 須田会長は「光太郎祭は震災を乗り越えて今年で34回になるが、会員の高齢化が課題になっている。表彰は団体を知ってもらう機会になり、存続させていくための力になる」と話した。
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「住みよいみやぎづくり功労賞」は、昭和45年(1970)に開始された「感謝のことば」という県民の隠れた善行や小さな善意に対して知事が表彰するという事業を引き継いだ事業で、平成18年(2006)度から表彰対象に「安全・安心まちづくり」等を加え、通常の表彰ではなかなか推薦対象とならないようなより広い範囲の地域社会への貢献に対し、知事の感謝状を贈呈するというものだそうです。

女川光太郎の会さん、「文化芸術の振興に尽くした者――地域の伝統芸能等を伝承している町内会等,子どもを対象にした演劇,音楽等の活動で地域に貢献しているもの等」という項目での認定なのでしょう。

記事に誤りがありますが、女川町に光太郎文学碑が建立されたのは平成3年(1991)。女川在住で画家でもあった貝(佐々木)廣氏が中心となり「高村光太郎文学碑建立実行委員会」を立ち上げ、実現しました。光太郎は紀行文「三陸廻り」(昭和6年=1931)で自筆の挿画を添えて女川町を紹介しました。また、のちに昭和12年(1937)になってから、女川港で見た水揚げの記憶を元に詩「よしきり鮫」も執筆しています。それらを受けて「光太郎ほどの偉人がこの女川を様々な形で取り上げてくれたのに、そのことを語り継がないでどうする」ということだったそうです。
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碑は三基(数え方によっては四基)、同時に建てられました。中央にメインの碑。5面のプレートを持ち、光太郎短歌「海にして……」(明治42年=1909の作で、女川とは直接の関係はありませんが「海」つながりで)自筆揮毫を中心に、紀行文「三陸廻り」の一節(当会顧問であらせられた北川太一先生揮毫)が2面、それが『時事新報』に載った際の光太郎自筆挿画が2面。
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「海にして……」の揮毫が変体仮名等で読みづらいという配慮で、真下には活字に起こした小さな碑も。これを一つと数えるかどうかで、先述の三基か四基かが分かれます。
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挿画の方の上画像は除幕された頃、当方が撮影したものですが、当初はこのように金色のプレートでした。現在は後述する東日本大震災による被害、その後の風雪などでくすんだ色に変わってしまっていますが……。

左右には詩「よしきり鮫」と「霧の中の決意」(昭和6年=1931)、こちらは光太郎自筆原稿が拡大して刻まれました。下画像はやはり震災前に当方が撮ったものです。
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除幕された平成3年(1991)には、それを記念して仙道作三氏作曲、山本鉱太郎氏脚本によるオペラ「智恵子抄」公演も女川で行われました。
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当初の「高村光太郎文学碑建立実行委員会」が、翌平成4年(1992)から女川光太郎の会となり、第1回女川光太郎祭を開催。光太郎詩文の朗読や音楽演奏、北川太一氏を講師に招き、講演(現在は当方が引き継いでおります)など。

その後、女川光太郎祭は、コロナ禍での中止はあったものの、東日本大震災のあった平成23年(2011)にも開催され、続いています。大震災時には貝(佐々木)氏が津波に呑まれて亡くなり、文学碑も倒壊、「よしきり鮫」碑と短歌を活字で刻んだ碑は行方不明となりました。残った二基の碑は半分水没していましたが、会の皆さんの御尽力や町の協力もあり、令和2年(2020)に再建されました。
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上画像は震災翌年の平成24年(2012)、下画像は再建後です。
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震災、石碑、といえば、女川町では震災後、津波到達地点より高い場所に避難の際の目印として建てられた「いのちの石碑」全21基。建立費用はかつて光太郎文学碑でそうしたことに倣い、全額寄付で集められました。このプロジェクトを立ち上げた、震災直後に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちの企画書に明記されました。
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津波で還らぬ人となった貝(佐々木)氏の精神が受け継がれたわけで……。

そんなこんなで女川光太郎の会さんが、「住みよいみやぎづくり功績賞」受賞。喜ばしい限りです。

光太郎忌日の4月2日(水)には、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで光太郎を偲ぶ第69回連翹忌の集いを開催いたします。女川光太郎の会さんからは、亡くなった貝(佐々木)氏に代わって運営の中心となられている奥さまの英子さんと笠松弘二氏、「オペラ智恵子抄」の智恵子役で、毎年女川光太郎祭に参加され、アトラクション演奏もなさっている本宮寛子氏、さらに作曲された仙道氏も久しぶりにご参加下さいます。今回の受賞について、英子さんにスピーチしていただくつもりです。

女川での光太郎顕彰、今後のますますの発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

先日のオハガキで天平さん逝去の事を知り、いたましい事に思ひました、からださへよければまだうんとのびる人だつたと思ひます、


昭和27年(1952)5月23日 草野心平宛書簡より光太郎70歳

「天平さん」は当会の祖・草野心平の実弟にして、心平同様に詩の道へ進んだ草野天平。この年、数え43歳で病没しました。

下って光太郎も歿した後の昭和33年(1958)、『定本草野天平詩集』が刊行され、それに対し故人であるにもかかわらず第2回高村光太郎賞が授与されました。粋な計らいでした。

今回の女川光太郎の会さんの受賞も、亡き貝(佐々木氏)も共に表彰されたと考えたいところです。

最低でも春と秋、半年に一度はこのネタが使えるので助かっています(笑)。

知恩院春のライトアップ2025(夜間特別拝観)

期 間 : 2025年3月26日(水)~4月6日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑 国宝三門周辺 女坂 国宝御影堂 阿弥陀堂(外観のみ)
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)

京友禅の祖・宮崎友禅翁ゆかりの庭園「友禅苑」や、日本最大級の木造二重門である「三門」、「男坂」など境内各所をライトアップいたします。ぜひこの機会に、知恩院へお参りください。

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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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御影堂(国宝)
寛永16(1639)年、徳川家光公によって再建されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし
 テーマ『心に芽(め)ばえを~くらしの中に生きる仏教~』
 開始時間:18:00~/18:45~/19:30~/20:15~
 (各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)

月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内! 1時間30分たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:木・土・日
 開始時間:18:00~
 所要時間:約1時間30分
 定員:各回30名様まで
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。
 料金は拝観受付にて現金でお支払いください。

おてつぎフェス2025 有志メンバーによる京都市ジュニアオーケストラ 室内楽コンサート
 3月26日(水) 18時30分~ / 19時50分~ (各40分) 浄土宗総本山 知恩院 集会堂
京都市東山区に位置する歴史深い知恩院にて、京都ジュニアオーケストラの有志メンバーが、春のライトアップにあわせて室内楽によるコンサートを開催します。
弦楽四重奏、ヴァイオリン四重奏、木管五重奏、弦楽合奏のさまざまな編成によるフレッシュなアンサンブルにぜひご期待ください!
会場は畳となります(椅子の持込は可能です。他のお客様の妨げにならないようにご配慮をお願いします)。満員の場合は、ご入場をお断りする場合があります。鑑賞無料 別途ライトアップ拝観料が必要 大人800円。当日は高校生以下無料
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ライトアップ同時開催企画展示
 『夢中 伝承の川―春―』 3月28日(金) ~ 3月30日(日)
  場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・「華麓庵」
  林 侑子(陶芸家)、REKAO(千代紙)
  京焼・清水焼、友禅和紙
  ともに長く受け継がれてきた京都の伝統工芸、
  やきものと和紙が作り出す今の工芸の"二祖対面"。
  孔雀や川をモチーフに表現した作品を展示します。

 『千代紙の色と模様』 4月4日(金) ~ 4月6日(日)
  場所 友禅苑 茶室「華麓庵」
  REKAO(千代紙)
  桜柄の千代紙をあしらった金屏風を展示いたします。
  金屏風は前のものを輝かせるという存在でもあり、
  御来苑される方々を輝かせたいという
  願いを込めて制作いたしました。

 『鬼より強い守り神』
  場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・「華麓庵」
  吉田瑞希(陶芸家)
  魔除け・勉学の神様「鍾馗(しょうき)」をテーマにした展示。
  京都の町家で見かける屋根瓦の鍾馗とは異なる表現で、
  京都の民間信仰を新たな視点から紹介します。
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光太郎の父・光雲の聖観音像(上記マップの右下です)、正確には東京美術学校として依頼され、光雲が主任となって制作されました。明治25年(1892)のことでした。原型は美校の後身・東京藝術大学さんに残されています。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

毎日いそがしくやつて居ます、今年は来月十和田湖に遊びにまゐる予定です、

昭和27年(1952)5月23日 永瀬清子宛書簡より 光太郎70歳

十和田湖にまゐる」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため。ただ、まだ青森県からの依頼を受けるかどうか確定していませんので、事情を知らない相手には詳細は伏せていました。

3月21日(金)追記:「智恵子抄」は上映中止だそうです。
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都内から映画の上映情報です。

没後10年 原節子をめぐる16人の映画監督

期 日 : 2025年3月8日(土)~4月4日(金)
会 場 : 神保町シアター 東京都千代田区神田神保町1-23
料 金 : 一般 ¥1,400 シニア ¥1,200 学生 ¥1,000 U29ペア割引 ¥2,200
      毎週水曜ファン感謝デー どなた様も1,100円均一
      毎月1日映画サービスデー どなた様も1,100円均一
      夕暮れ割 平日3回目の上映 1,100円均一
      誕生日割 誕生日当日 1,100円均一(ご本人のみ、要身分証提示)

今年は伝説の女優・原節子の没後10年にあたります。 これまで神保町シアターでは2度にわたり原節子特集を行ってきましたが、今回は、すべて監督の違う16本の出演作をプログラムしました。
小津安二郎監督作品のミューズとして今もなお世界中で愛され続ける不世出の女優が、監督の違う16本の映画で、それぞれどんな貌をみせているのか。絶世の美女でありながら、文芸ものの難役から洒脱なコメディまで幅広い役に挑んだ女優人生を、新たな趣向で振り返ります。
錚々たる監督陣による、めくるめく原節子の世界――ぜひスクリーンでご堪能ください。
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「没後10年 原節子をめぐる16人の映画監督」としては3月8日(土)から始まっており、4期に分けての上映で、3月22日(土)~3月28日(金)の第3タームに熊谷久虎監督の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)が含まれています。もちろん智恵子役が原節子さんです。最上部メインのフライヤーで右下。
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二本松の実家に光太郎ともども訪れたというシーンから。全体像がこちら。
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原さん扮する智恵子の左に光太郎役の山村聰さん(山村さんは戦時中にラジオ放送で光太郎の翼賛詩の朗読をなさったこともあります)、さらに左は智恵子の両親で柳永二郎さんと三好栄子さん。柳さんは有楽座、三好さんは島村抱月・松井須磨子の芸術座ご出身。共に光太郎智恵子が観劇に訪れていた記録があります。もはや歴史上の人物、という感じでクラクラします(笑)。

ちなみにこのシーンで原さんが手にされているのは、光太郎木彫「蟬」。美術さんが作った小道具ではなく、実物かもしれません。「座談会 三人の智恵子」(昭和32年=1957 6月1日『婦人公論』第42巻第6号)から、原さんの発言。

映画ではクローズ・アップのときは本物を使うんですが、ふだんはやはり偽物でやってます。セミは富山県の人がもっていらっしゃってそれをわざわざご本人が夜行列車でもってきてくれました。そして、「智恵子さんが最後までもっていらしたセミですから、あんたもうまくやんなさい」と云われて困っちゃった。

このシーンが「クローズ・アップのとき」かどうか判断に迷うところですが。

「智恵子抄」、原さんの出演作品の中では、評価の高いものではありません。まぁ、そちらは原さんの他の出演作品と比較しての相対評価で、この映画だけの絶対評価として考えると、そう悪い出来ではないと思います。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今日の佳き日を卜して御依頼の標榜二枚を書きましたのでいつでもお手渡し出来ます

昭和27年(1952)4月29日 帷子敏雄宛書簡より 光太郎70歳

御依頼の標榜二枚」は、岩手県北部の川口村(現・岩手町)の公民館と図書館の看板です。共に現存しますが、風雨にさらされて墨が流れ落ち、文字は殆ど判別出来ません。

今日の佳き日」は天皇誕生日ですね。

グルメ系を3件、ご紹介します。

まず、智恵子の故郷・福島県二本松市から学校給食の話題。

3月4日(火)の給食が「油井小の「ほんとの空給食」」だったそうでした。おそらく、ですが二本松市内旧安達町区域の給食のメニューが同一で、時折、各学校さんからメニューの考案なりリクエストなりが上がってきて、そのうちの一つが「ほんとの空給食」なのだと思われます。以前にも油井小学校さん、同じく旧安達町の川崎小学校さんによる「ほんとの空給食」をご紹介しました。
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献立は「黒パン」、「コーンポタージュ」、「りっちゃんサラダ」、「ハンバーグ」、「牛乳」。「りっちゃんサラダ」って何だ? と思い、調べたところ、「小学1年生の国語で学習する「サラダでげんき」という教材文に出てくるサラダ」だとのこと。

「サラダでげんき」は、角野栄子さんのご執筆。病気のお母さんに元気を出してもらおうと、主人公の「りっちゃん」が動物たちの力を借りてサラダを作る、というお話だそうです。
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犬猫雀はともかく、シロクマやアフリカ象(笑)。夢のあるお話ですね。

ちなみに油井小学校さんのこの日の給食時、「お昼の放送ではいつものように、給食委員会が献立の紹介をして、放送委員会が楽しいクイズを出して終わりました。が、その後6年生が電波ジャック。「1年生から5年生のみなさん、6年生を送る会ありがとう。とっても楽しかった。5年生の鼓笛もすばらしかった。」と6年生を送る会への感謝と、新鼓笛隊へエールを送ってくれました。先生には断っていなかったそうですが、言わずにはいられない「思い」があったようでした。心を動かされた6年生の、心温まる放送に、全校生がほっこりしました。」だそうで。不覚にもうるっと来てしまいました(笑)。
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続いて、光太郎第二の故郷、岩手花巻から。

毎月ご紹介していますが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。メニュー考案にあたられているやつかの森LLCさんから今月分の画像をいただきました。
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こちらは光太郎が実際に作った料理や使った食材などを参考にしています。

今月分は「鮭の塩焼き」、「豚肉の味噌焼き」、「いかと大根の煮物」、「ほうれん草のおひたし」、「塩麹入り卵焼き」、「炒飯」、「黒千石ご飯」、「紫芋の甘煮」、「みかん」、「漬物」。彩り的にも素晴らしいと思いました。

やつかの森さん、花巻市東和地区の「ワンデイシェフの大食堂」さんでは、月に一度「こうたろうカフェ」として出店なさっています。厳冬期にはお休みされていますが、今月から復活。次回が3月25日(火)だそうで、メニューは「鶏むねのロースト~なぞソース~」、「たまご巾着」、「バッケ味噌のピザ」「イカ風味大根」、「春わかめの三色和え」、「お新香」、「きざみのせご飯」、「生麩のすまし汁」、「干柿のミルフィーユ」、「コーヒー」。「なぞソース」って何だ? ですが(笑)。

「バッケ」はふきのとう。ピザに使うか? という感じですが、意外と合うかもしれません。干柿を使ったミルフィーユというのも面白そうですね。

「ほんとの空給食」、「光太郎ランチ」、「こうたろうカフェ」、それぞれ末永く続いてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

小包二個到着、季節のさきがけ筍をいただき、又毛皮も拝受しました。筍は早速調理しましたが此辺にない孟宗竹なので珍らしく美味にいただきました。

昭和27年(1952)4月14日 野末亀治宛書簡より 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村の山小屋、全国の支援者が土地のものを送ってくれるので、変化に富んだ食卓でした。野末は静岡浜松在住でした。

今日の記事、ブログカテゴリーを「スポーツ/レジャー」に設定しました。「レジャー」というには少し抵抗がありますが……。いわゆる「掃苔(そうたい)」、最近は「墓マイラー」という語が浸透しつつあります。

偉人たちの物語に触れる 都内有数の霊園巡り

期 日 : 2025年3月22日(土)
会 場 : 谷中霊園   東京都台東区谷中7丁目
      染井霊園   東京都豊島区駒込5丁目(慈眼寺を含む)
      雑司ヶ谷霊園 東京都豊島区南池袋4丁目
      青山霊園   東京都港区南青山2丁目
時 間 : 9:00~18:00
料 金 : 大人(中学生以上)18,800円 小人(小学生以上)18,300円
      ※未就学児はお受けできません

・偉人の存在が身近になる…「名前だけ知っている」という偉人が、実際にお墓に手を合わせて墓前で生涯に想いを馳せると、本当にその人に会ったような感覚に。とても感動的な体験です。
・確実にお墓にたどり着ける…広大な墓地では一人の墓を探すだけで2時間かかることもザラ。最短ルートで巡礼。
・バスならではの機動力…都心の移動は小回りのきくバスが便利。貸切バスなので待ち時間もなし。車内ではここでしか聴けない楽しい墓巡礼トークもあり。

歴史上の偉人に時空を超えて感謝の言葉を直接伝えられる、それが墓巡礼の魅力です。穏やかな春の気候のなか、都内有数の4つの霊園 で近代日本を形成した偉人の墓所を訪ねてみませんか。
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案内人のご紹介 カジポン・マルコ・残月 墓マイラー歴38年
文芸とは全く無縁な日々を送っていたが、青春時代の様々な苦悩がきっかけで絵画、クラシック、文学に没頭。ベートーヴェンやゴッホという偉人たちと“酒が飲みたい!”という熱い思いが頂点に達した時から、貯金を全て墓巡礼に注ぎ込み、あちらとこちらの世界を右往左往している。
現在は墓マイラーとして世界墓マイラー同盟を立ち上げ、同志たちと日本・世界の墓を巡り、テレビ出演や本の出版も手掛けている。
座右の銘:「人は国や文化が違っても、相違点より共通点の方が“はるかに”多い」

来たる3月22日(土)春のお彼岸に、歴史ある都心の霊園(雑司ヶ谷、谷中、染井、青山)に眠る偉人を、貸切りバスで巡礼する旅を初めて近畿日本ツーリストさんと企画しました。いつもは世界墓マイラー同盟の主催でひとつの霊園を巡っていますが、今回はバスの機動力を生かして、4つの霊園で近代史に名を残した偉人のお墓を訪れ、墓前で故人の生涯や功績、人物の魅力について熱く語ります。
巡礼予定は以下の通りです。

〔谷中霊園〕 徳川慶喜 渋沢栄一 横山大観 長谷川一夫 森繁久弥など
〔染井霊園〕 高村光太郎 岡倉天心 二葉亭四迷 実相寺昭雄
       芥川龍之介(慈眼寺) 谷崎潤一郎(慈眼寺)など
〔雑司ヶ谷霊園〕 夏目漱石 小泉八雲 中浜ジョン万次郎 永井荷風 竹久夢二など
〔青山霊園〕 大久保利通 志賀直哉 北里柴三郎 歴代市川團十郎 ハチ公など

当日は9時に谷中霊園集合、18時ごろに東京駅解散です(昼食付き)。現地の解説は無線イヤホンで行うため声がよく聞こえます。気になる旅行代金ですが、昨今の物価・人件費高騰を受け、バスのチャーター費、昼食代、人数分の無料イヤホン、駐車場代、添乗員費用などを含め、お一人様あたり「18,800円」になります。

普段の墓マイラー同盟イベントは2千円で行っているので高く見えますが、これはけっしてボッタクリではなく、バスの運転手さん不足もあってどうしてもこの値段になってしまうとのことです。最少催行人数が25名で、これより少ないと企画は流れるという価格です。私自身、この値段設定で何人集まるのか不安がありますが、とにもかくにもまずは募集してみなければ何も始まりません。募集期間は1月10日(金)12:00 ~ 2月21日(金)12:00になります。

時空を超えて偉人本人と出会うような胸熱のお墓参り、その素晴らしさを伝えるべく当日は全力で解説します!バスの中でも墓マイラートーク全開で、国内外のいろんな墓参エピソードを紹介します。ご興味のある方、一緒に巡礼しませんか。

染井霊園さんで光太郎の名を真っ先に上げて下さいました。ありがたし。

正確には光太郎のみの墓ではなく、髙村家としての累代の墓。光太郎の母・わか(通称・とよ)が大正14年(1925)に大腸カタルで亡くなったのを機に浅草の寺院から移されました。幕末に亡くなった光太郎の曽祖父母に始まり、光太郎祖父母、光太郎の父・光雲と母・わか、独身のまま歿した光太郎のきょうだい、光太郎智恵子夫妻、そして長男光太郎に代わって髙村家を継いだ豊周(三男)の家系へと続き、平成26年(2014)に逝去された規氏までが眠っています。

近ツリさんが入ってのバスツアーということですし、その道のプロの方がガイドして下さるということで、個人で廻られるよりはるかに楽ですね。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

茴香の種子、その他豆類の種子忝くいただきました、今年は急にあたたかくなつたので少々まごついて居りますがこれらの種子を育てるのがたのしみです。
昭和27年(1952)4月10日 福田ハレ子宛書簡より 光太郎70歳

「茴香」は「ういきょう」、ハーブですね。

福田ハレはホームスパン作家。及川全三の弟子にあたり、光太郎一張羅の猟人服は、福田が織った生地を使って作られています。智恵子遺品の、イギリスの染織工芸家エセル・メレ作のホームスパン毛布に関し、貴重な回想も残しています。

智恵子の故郷・福島県から豪華賞品がゲット出来るスタンプラリーのお知らせです。

花の王国ふくしまフラワースタンプラリー2025

期 間 : 2025.03.19(水)~2025.06.30(月)
開催地 : 福島県内207か所(各市町村1か所以上必ずスポットがあります)

福島県内の花の名所を巡って、スタンプを集めて商品を当てよう!

福島県内の花の名所207か所を巡って、スタンプを集めましょう。スマホを使ったGPSスタンプと専用のスタンプ台紙で参加できます! もちろん参加費用は無料!(通信費用はご利用者様負担となります) スタンプ2個から応募できるので、福島県に来たらぜひ参加してください!
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福島県内の花の名所を巡って、スタンプを集めて商品を当てよう! 参加方法は2コースから選べます!(2コース同時に参加可能・応募は各コースお一人様一回限り)
 ① スマホでスタンプを2個以上集めて応募
   エリア内何個でも集められます!
 ② スタンプ台紙にスタンプを2個以上集めて応募
   福島県内7エリアの各エリアにつき1個(全部で7スタンプ)

集めたスタンプの数が多いほど、抽選の当選対象商品が増えます!
 ① スマホで応募
  2個以上・・・D賞へ応募可能
  10個以上・・・C賞・D賞へ応募可能
  20個以上・・・B賞・C賞・D賞へ応募可能
  30個以上・・・A賞・B賞・C賞・D賞へ応募可能
  70個以上・・・スマホ限定プレミアム賞へ応募可能
 ② スタンプ台紙で応募
  2個(2エリア)以上・・・D賞へ応募可能
  3個(3エリア)以上・・・C賞・D賞へ応募可能
  5個(5エリア)以上・・・B賞・C賞・D賞へ応募可能
  7個(7エリア)以上・・・A賞・B賞・C賞・D賞へ応募可能
抽選で777名様に豪華賞品が当たる!
 スマホと台紙それぞれに違う賞品が用意されています
 福島宿泊券6万円分(スマホ限定プレミアム賞)や、福島県内温泉旅館宿泊券、各地域の特産品、お買物券、オリジナルグッズなど豪華賞品が当たるチャンス!
 この機会に福島県内を巡って、美しい花と景色を楽しみましょう。
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応募締め切りは2025年7月7日(月)まで! 郵送での応募は2025年7月7日(月)
 ※当日消印有効。切手を貼ってお送りください。

★応募箱への投函でも応募ができます。
 応募箱はスタンプ設置期間(3月19日~6月30日)と同様です。


【同時開催】ふくしま応援ポケモン ラッキー コラボ特別企画!
スタンプ台紙にはラッキースタンプ欄が! 県内4カ所ある全てのラッキー公園に行って、ラッキースタンプを4つ集めよう! 台紙に必要事項を記入して、郵送又は応募箱への投函で応募できます。
※詳細は公式サイトをご確認ください。https://www.tif.ne.jp/pokemon/

【同時開催】駅スタンプラリー、SA・PAスタンプラリー
スマホ限定で、駅やサービスエリアを巡って応募するスタンプラリーを開催!
★JR東日本賞
福島県内の対象JR駅10か所のうち、3駅以上のスタンプ獲得で応募!
JRE POINT5,000円相当が抽選で20名様に当たる!
★NEXCO東日本賞
福島県内の対象高速道路(SA・PA)7か所のうち、3か所以上のスタンプ獲得で応募!
E-NEXCOオリジナル商品5,000円相当が抽選で20名様に当たる!
※詳細はフラワースタンプラリー公式サイトをご確認ください。

先日、福島浜通りをうろついた際、常磐道四倉PAで台紙をゲットしました。

智恵子のソウルマウンテン・安達太良山もスタンプスポットに選定されており、紹介文には光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語。ありがたし。
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最近、「桜の町」としても売り出している二本松市さん、他にもスポットがたくさん。
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ぜひチャレンジしてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

その自然が彫刻のやうなものを果してうけ入れてくれるか 又あの費用で然るべき大きさのものが作れるものかどうか そんな事が一番の関心事になつて居ります

昭和27年(1952)4月23日 谷口吉郎宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関して。谷口は光太郎より先に青森県から「乙女の像」を含む一帯の公園設計を依頼されていた建築家でした。光太郎を青森県に推薦したり、その後、中野の貸しアトリエを手配したりにも一役買ったようです。

一昨日、糟糠の妻とともに茨城は筑波山に行っておりました。と言っても、登山はせず、中腹の筑波山神社さんへの参拝と、近くの筑波山梅林さんでの観梅でした。

まずは筑波山神社さん。何だかんだで5回目くらいの参拝でしたが、以前には得ていなかった情報がありまして……。

昭和4年(1929)、水戸運輸事務所刊行の『名所案内』という書籍。この中に光太郎の父・光雲の名が。曰く「拝殿正面の扁額「筑波神社」は故小松宮彰仁親王の御揮毫、其の彫刻は高村光雲の作である」。
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寺社の扁額を光雲が手がけた例は、足立区の西新井大師五智山遍照院總持寺さんにもあり、今年1月に拝見に伺いました。筑波にもあるのか、という感じでした。

寺院の山門にあたる随神門。
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寺院の山門ですと左右には主に阿吽の金剛力士(仁王尊)が配されていますが、神社ですのでご祭神を守る別の神さまの像が一般的です。こちらでは日本武尊(やまとたけるのみこと)、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)。ご祭神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)/伊弉冉尊(いざなみのみこと)のご子孫で、共に武神ですね。像は木像ではなく鋳銅のように見えました。
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そして拝殿。
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ところが扁額が見あたりません。「うーん」でした。

考えられる可能性としては、暴風雨等で損壊し撤去されたか、保存のため拝殿内部に掲げられているか、あるいは上記『名所案内』の記述がガセだったか、そんなところでしょうか。

先ほどの随神門の方には扁額が掛かっています。ただ、新しい感じです。
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事情をご存じの方、ご教示いただけると幸いです。

拝殿の向かって右には、摂社的な日枝神社さん、春日神社さん、厳島神社さん。こちらは素朴な木彫がプリミティブでいい感じでした。
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かたわらには紅梅も美しく。

再び随神門をくぐって石段を下りると、こんな碑が。往路では脇道から入ったので気づきませんでした。
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日清・日露戦争時の海軍士官、のちに中将まで上り詰め、他に学習院御用掛や宮中顧問官なども務めた小笠原長生の揮毫です。小笠原と言えば光雲と親しい間柄で、東郷平八郎と光雲を仲介したりもし、光雲についての回想も数多く残している人物ですので「ありゃま」という感じでした。
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左から、文京区大圓寺の服部太元和尚、光雲、東郷、そして小笠原です。

この後、神社から2キロほど離れた筑波山梅林へ。
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少し観梅には時期的に遅いかな、と思ったのですが、そうでもありませんでした。散ってしまった木もあったものの、まだまだ満開の木の方が圧倒的に多い感じです。駐車料金が500円かかるだけで、入園自体は無料です。

こちらの揮毫は俳人・荻原井泉水。光太郎の一つ年下です。直接の交流はなかったようですが。
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晴れていれば都心のビル群やスカイツリーなど、さらに富士山まで拝めるのですが、生憎の曇り空でしたし、この後、雨となりました。
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梅以外に、水仙や椿なども。
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今週末、あるいは来週の春分の日くらいまでは見頃かと存じます。ぜひ足をお運び下さい。ただ、予想外に高低差がありましたので(妻のスマホアプリによればビル20階分くらい)、そのおつもりで(笑)。

【折々のことば・光太郎】

皆さんの熱意をも考へ、又仕事としての意味をも考へ、おうけして猛烈にやらうかといふ気になつてゐますが、ともかく谷口博士、佐藤氏、貴下等と一度十和田湖の自然を見てから決定したいと思ひます。


昭和27年(1952)4月12日 藤島宇内宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関して。光太郎、なかなか慎重でした。

3月13日、光太郎生誕142周年となりました。

それに合わせたわけでもないのでしょうが、兵庫県姫路市で明日から公演が始まる劇団プロデュース・Fさんの第76回アトリエ公演「売り言葉」。野田秀樹氏作の演劇で、智恵子を主人公とした一人芝居です。

『神戸新聞』さんに予告報道が出ています。

「智恵子抄」の背後描く 劇団プロデュース・Fの「売り言葉」 14~16日、姫路・本町で公演

 姫路市を拠点に活動する「劇団プロデュース・F」が14~16日、同市本町の劇団アトリエで公演を開く。高村光太郎の名作詩集「智恵子抄」の背後に潜むドラマを舞台化した「売り言葉」を上演する。
 「売り言葉」は人気劇作家・野田秀樹さんの作で、2002年に初演された。高村は詩の中で、純愛の対象として智恵子を描いているが、現実には高村から自由を束縛され、苦悩していた智恵子の姿を描く。舞台では、高村と智恵子の出会いと愛、心の溝の深まりなどをリズム良く、ユーモアも交えて演じる。同劇団が取り上げるのは、2回目。
 自分を見失い、本音を言えなくなった智恵子に代わり、高村の身勝手をとがめる「女中」が重要な役割を果たす。演出のひさたにとしかずさん(76)は「2人の愛の物語だけではなく、自然に振る舞えなくなった人間の葛藤、自由な発言を封じる圧力にも重点を置き、奥行きのある舞台にしたい」と抱負を語る。
 開演時間は、14日午後7時▽15日午前11時と午後3時▽16日午後2時。一般2千円、高校生以下千円。要予約。ひさたにさんTEL090・3656・7814
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先月、大阪で上演された、光太郎智恵子を登場人物とした2人芝居「吹田市民劇場 SHOW劇場 番外編vol.2 a次元のふたり」の際も『毎日新聞』さんが予告報道を出して下さり、おそらく観客動員に貢献されたことと思われます。今回もそうなることを期待します。

さて、「自分を見失い、本音を言えなくなった智恵子に代わり、高村の身勝手をとがめる「女中」が重要な役割を果たす。」だそうで、そのあたりが今回の演出の肝なのでしょう。平成14年(2002)の大竹しのぶさんによる初演では、大竹さんが主人公・智恵子、光太郎、そして狂言廻し的な「女中」と、三役を演じ分けられましたが、今回は「女中」は「女中」でお一人の方が演じられるようです。過去の他団体の公演でもそういうケースがありました。やはり「劇団」として演(や)られるとなると、一人芝居では……ということなのでしょうか。

この報道を読んで「面白そう、行ってみよう」という方が少しでも多くなることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

書を書く事は承諾します。あまり大げさな頒布会にしないやうに願ひますし、主催は貴下の名に願ひます。


昭和27年(1952)4月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎70歳

智恵子の姪にして、南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取った看護婦だった春子の夫・宮崎稔が光太郎の書の頒布会を企画しました。書に強い興味関心を持っていた光太郎も乗り気でしたが、結局、実現せずに終わったようです。

昨日で東日本大震災から14年でした。

14年前のあの日、津波に呑まれて還らぬ人となった、当時女川光太郎の会事務局長であらせられ、宮城県女川町の光太郎文学碑の建立(平成3年=1991)や、その後の女川光太郎祭の開催に尽力されていた貝(佐々木)廣氏を、千葉から偲ばせていただきました。
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画像は震災前の平成18年(2006)、貝(佐々木氏)が発表者のお一人だった、荒川区さん主催の「光太郎・智恵子フォーラム」の際のものです。司会は当方が務めさせていただきました。

午前中には3月8日(土)に足を運んだ福島県いわき市の草野心平記念文学館さんでの文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」についてこのブログにレポートを書いていました。その講師のお一人、東日本大震災での原発被災についての旧ツイッター投稿で有名になられた和合亮一に関し、その日の『日本経済新聞』さんがコラムで取り上げていたのに気づきました。

春秋

「なんで東電の言葉を信じてたんだろうね」。そう語ったのはクリーニング店主の女性だ。「大きい会社なんだから、責任持ってやってくれっから」と考えていた、と。福島出身の詩人、和合亮一さんが原発事故の直後に書き留めた地元の声の一つだ(「詩の邂逅(かいこう)」)▼多くの住民の素朴で率直な思いだったろう。震災前、和合さんが教師として勤める高校の保護者会の場でも「絶対に大丈夫」との説明が繰り返されていたという。専門家が言うのなら。住民は、あるいは日本全体が、会社側の説明に乗っていた。それはしかし、未曽有の激震と大津波を前に、もろくも土台から崩れ落ちた▼危機は本当に予見できなかったのか。旧経営陣が強制起訴された裁判は、最高裁が無罪と判断した。想定された結末ではある。要因が複雑な巨大事故で、一度は不起訴とされた個人の刑事責任を立証するのは極めて難しいからだ。現行法にとどまらず、法人に高額な賠償金を科す「組織罰」などの新制度も考える時だろう▼何もなくても涙が出る、子供でなく自分の世代の災害でよかったと思いたい……。和合さんと話す被災者の声は悲痛だ。和合さんは事故当時の詩作で「絶対は無い」と繰り返した。安全神話が消えた今、あの惨禍の再発をどう防ぐか。処罰や賠償とは別に、避けては通れぬ将来への責任であろう。14年目の3.11が巡りくる。

3月8日(土)、福島浜通り地区をほぼ縦断しながら考えたのは、やはり原発の件でした。常磐自動車道には「これより帰還困難区域」の標識がまだ立っています。調べたところ、いまだに7つもの自治体(南相馬市、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村)に同区域が設定されているとのこと。当会の祖・草野心平がらみでたびたびお邪魔している川内村さんは入っていませんが、それでもまだまだという感じです。

一面コラム、心平、と言えば、3月5日(水)の『朝日新聞』さん。

天声人語

カエルの詩人と言われた草野心平に「冬眠」という作品がある。故郷の福島県いわき市にある記念文学館で、自筆原稿を見た。400字詰めの用紙の真ん中に、ぽつんと「●」があるだけ。土の中での孤独、静寂、暗闇。そんなものを凝縮させたのだろうか▼きょうは二十四節気のひとつ、啓蟄(けいちつ)である。長井冬の眠りから覚めた虫や小動物たちがもぞもぞとうごめき出す。先週末の思わぬ暖かさで、一足早く穴ぐらを出ていたのも、いたかもしれない▼それが一転。都心ではきのう、夕刻から冷たい雨が降り始めた。大雪になる恐れから、高速道路が通行止めになった。地表に這い出ようとしていたカエルたちも、こりゃいかんと慌てて引き返したに違いない▼春の神様はじつに思わせぶりで、いったん天気が回復しても、もう一度、真冬並みの寒さになる地域もあるようだ。一方で、ダウンコートにマフラー姿で出社したのに、帰りの電車では汗ばんだりする。そうやって一進一退を繰り返しながら、季節は巡ってゆくのだろう▼カエルの声を聞けば詩情を誘われ、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」。そう言ったのは古今集である。でもビルの街では、春を迎えた彼らの喜びを耳にすることはかなわない。草野心平の「春のうた」で、その日を想像してみる▼〈ほっ まぶしいな。/ほっ うれしいな。/みずは つるつる。/かぜは そよそろ。/ケルルン クック。/ああいいにおいだ。〉もう、あとわずかだ。

「冬眠」は、「世界一短い詩」とも称されています。昭和3年(1928)、光太郎が序文を書いた心平詩集『第百階級』に収められました。
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冬眠から醒めたカエルたちが、充満した放射線に驚いて「こりゃいかんと慌てて引き返」す、そんな状況にしてはいけないと、改めて思うのですが……。

【折々のことば・光太郎】

今年は多分五月末か六月初旬頃十和田湖に行く事になりさうです。その頃が風景絶佳とききました。


昭和27年(1952)4月11日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎70歳

「十和田湖に行く」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための現地下見です。この際には心平も同行しました。

3月8日(土)、福島県相馬市図書館さんで今月1日に始まった「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」というミニ展示、歴史資料収蔵館で光太郎の父・光雲の孫弟子にあたる佐藤玄々(朝山)の彫刻を拝見後、愛車を南に向け、いわき市に向かいました。この日メインの目的であるいわき市立草野心平記念文学館さんでの文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」拝聴のためです。

途中で昼食を摂り、さらに若干早く着いてしまったので、館近くの小川諏訪神社さんに参拝。
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当会の祖・草野心平が生まれ育った旧小川村ということで、もしかすると少年時代の心平が訪れたんじゃないかな、などと思いながら参詣いたしました。もっとも、悪童だったであろう心平のことですので、屋根によじ登ったり床下に入り込んだりといった悪さをしていたかもしれません(笑)。

さて、館に到着。
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まずは光太郎をはじめ(言葉の綾ではなく、実際に導線上の「い」の一番に光太郎です)、様々な人物からの来翰などが並んでいる常設展を拝見しました。さらに「スポット展示」ということで、心平実弟にして光太郎と交流があり、歿後に第2回高村光太郎賞を受賞した草野天平に関わる展示も為されていました。以前の天平のスポット展示では、天平が受け取った高村光太郎賞の賞牌(光太郎が彫った木皿を光太郎実弟の豊周が鋳金したもの)が展示されましたが、残念ながら今回は無し。

講演会の受付を済ませ、ホールへ。午後2時、開会。
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講師は福島大学さん名誉教授の澤正宏氏、そして同大で氏の薫陶を受けられた詩人の和合亮一氏。講演というより、澤氏のご編著『草野心平研究資料集』第1回配本 全3巻(クロスカルチャー出版)を軸とした公開対談という趣でした。
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澤氏は智恵子の故郷・二本松市の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さん主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさっていて、久しぶりにお目に掛かりました。和合氏とはさらに久しぶりで、このブログを始める前(さらに言うなら東日本大震災前)の平成20年(2008)と翌年の智恵子を偲ぶレモン忌の集いでお会いして以来でした。お二人のお話、随所で光太郎にも触れて下さり、ありがたく存じました。

それ以外に興味深かったのは戦時中の件。戦前にはアナキストとも言える立ち位置だった心平が、日中戦争時には中華民国政府(王精衛政権)の宣伝部顧問となり、光太郎も参加した大東亜文学者大会の実施に奔走したりしました。大政翼賛会中央協力会議の議員や日本文学報国会詩部会長を務めた光太郎と重なります。しかし心平、光太郎ほどには戦意高揚の翼賛詩的なものを書いていません。それを書けないほど忙しかったのではないかと当方は考えています。また、戦後、光太郎は自らの戦争責任を断罪する連作詩「暗愚小伝」を発表しましたが、心平はそうしたこともしませんでした。心平にしてみれば「言い訳はしたくない」という気持ちだったのではないでしょうか。

この時期、東京大空襲80年ということもあり、いろいろ考えさせられました。

ちなみに心平、敗戦時も中国にいて、国民政府軍に拘束され、収容所行き。その際に持っていた光太郎や宮沢賢治からの来翰、光太郎に貰った智恵子の紙絵四枚なども含め、財産は没収されました。紙絵に関しては後に「いまとなってはむしろ、私の家なんかにあるよりは中国のどこかの家に飾ってあってくれれば、とも思うのだが。」(「高村光太郎・智恵子」昭和39年=1964 『新潮』掲載)と、心平は書きました。

終演後、お二人とお話しさせていただきました。

澤氏からはお願い。『草野心平研究資料集』の今後の配本に、当方が平成28年(2016)、心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」で「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題して語ったものの筆記(心平記念館さんの館報第19号に掲載)を転載したいとのこと。大したお話をしたわけでもないのにそんなのを載せて下さるとは、と、逆に恐縮してしまいました。

和合氏には、ドサクサに紛れて昨年刊行された御著書『エッセイ三昧』を持参し、サインしていただきました(笑)。
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お二人の今後のさらなるご活躍、同館のますますのご発展を祈念いたします。

以上、福島浜通りレポートを終了いたします。

【折々のことば・光太郎】

山では今バツケが出てきたところです。


昭和27年(1952)4月3日 森荘已池宛書簡より 光太郎70歳

「バツケ」は新仮名遣いでは「バッケ」。ふきのとうを表す方言です。蟄居生活を送っていた岩手花巻郊外旧太田村では4月頃芽を出すのですね。

当会事務所兼自宅の裏山ではもう盛んに出ています。
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かたわらにはオオイヌノフグリも咲いていました。
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こう書くとのどかな里山のようで、まぁ実際、昼間はそうなのですが、油断は禁物。下の画像は何かお判りでしょうか。
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おそらくイノシシの足跡です。

17歳で逝ってしまった愛犬が健在の頃、夕方、一緒に散歩していて3回ほど遭遇しました。春になり、きゃつらも活発になってきたようです。

一昨日、愛車を駆って福島県の浜通り地区(太平洋沿岸)を廻っておりました。レポートいたします。

まず向かったのが、宮城と県境を接する相馬市。最初に相馬市図書館さんで今月1日に始まった「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」というミニ展示を拝見しました。
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全国の図書館さんでよくある、テーマを定めて蔵書等を一ヶ所にまとめ説明パネルを掲げるタイプのミニ展示。
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パネルがなかなか秀逸でした。
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テーマが「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」ということで、他にもいるのでしょうが、原釜海岸をたびたび訪れた智恵子、その夫・光太郎、同じく原釜に足跡を残している竹久夢二、そして相馬出身の彫刻家・佐藤玄々が中心でした。

智恵子関連では、やはり原釜滞在の件。
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智恵子が2度訪れた、という解説になっていますが、時期が特定出来ているのが2度であって、それ以外に少女時代にも訪れているかもしれません。というか、その可能性が高いと思われます。ちなみに相馬市の北隣・新地町にも立ち寄ったという証言も残っています。

確認出来ている2回の滞在では、ともに金波館(現存せず)という宿に宿泊していました。
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下画像は手元にある原釜の古絵葉書。金波館も写っていると思われます。
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それから、竹久夢二も原釜を訪れています。
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光太郎智恵子と夢二には軽く関わりがありました。そんなこんなで相関図。
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光太郎智恵子関連の図書類。
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日本の文学者36人の肖像(上)』、『マンガ名詩・短歌・俳句物語 2 名詩 下』など、新しめのものも。

展示図書の目録。
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そして相馬出身にして光太郎の父・光雲孫弟子の佐藤玄々(朝山)関連。
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これには驚きました。「兎」。解説の通り、光太郎にも全く同一の図題の「兎」手板浮彫が現存します。数え14歳、東京美術学校の予備門的な共立美術学館に在学中の作品です。
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光太郎の「兎」、講演や市民講座などで光太郎の生い立ちを語る際、「十代前半の少年の作とはとても思えません」と言いつつ紹介すると、会場の反応が「おおお!」となるものです。その際に「もっとも、オリジナルの作ではなく、手本があってそれを写したものと思われますが」と付け加えますが、やはりそうだったか、という感じでした。こうした手本で光雲一門が彫刻のイロハを学んだということなのでしょう。

同様に、やはり光太郎作の「猪」の手板浮彫(左下)も、全く同じ図題のもので別人(右下・作者不明)の作が美校の後身である東京藝術大学さんに残されています。
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「朝山」時代の「兎」など、玄々の作品が同じ相馬市の歴史資料収蔵館に多数展示されているということで、そちらへ。
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残念ながら撮影禁止でしたし、収蔵されている全てではありませんでしたが、玄々の作がずらり。
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最も見たかった「兎」も、裏面の「鶏」の方を面にしてあったので見られず、残念でした。

しかし、昭和15年(1940)、コンペにより皇居ちかくに建てられ、光太郎も好意的に評したた和気清麻呂像エスキスや、日本橋三越さんのシンボル「天女( まごころ)像」に関する展示など、興味深く拝見しました。また、光雲一門を離れ(和気清麻呂像コンペをめぐるゴタゴタがありまして)「玄々」となってから、木彫でもヘンリ・ムーアを思わせるような抽象っぽい作も作るようになり、そのあたりも。

その後、愛車を南に向け、この日のメインの目的だったいわき市の草野心平記念文学館さんへ。澤正宏氏と和合亮一氏による文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」を拝聴しましたが、そちらについては明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

貴下がロンドンから持ち帰られたヘラ其他の彫刻道具の御恵贈にあひ、まことにありがたく感謝の念に満たされました。丁度今年あたりから少しづつ製作を始めたいと考へてゐた矢先なのですがお察しの通り道具一切を揃へるのに苦心してゐました。


昭和27年(1952)4月10日 白瀧幾之助宛書簡より 光太郎70歳

白瀧は画家。美校出身で光太郎の先輩に当たりますが、遠く明治末には留学仲間でした。

前月21日、佐藤春夫からの丁重な書簡を携え、建築家の谷口吉郎、当会の祖・草野心平弟子筋の藤島宇内が山小屋を訪れて、青森県からの彫刻製作の依頼を伝え、4月2日には青森県の幹部も同じ件で光太郎の元を訪れました。いよいよ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作プロジェクトが動き出しました。

昨日は福島県に行っておりました。本来、そちらのレポートを書くべきですが、先に同じ福島県でのイベントを2件ご紹介します。うち1件はもう明後日でして。

それぞれ光太郎智恵子には直接関わりませんが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」、そこから派生した「ほんとうの空」の語を冠して下さっています。

25年3・11ふくしま集会 ~原発事故は終わってない~

期 日 : 2025年3月11日(火)
会 場 : 郡山市労働福祉会館大ホール 福島県郡山市虎丸町7-7
時 間 : 集会 13:00~ デモ行進 15:45~
料 金 : 無料

ほんとの空の下で語られる本当の声を聴きに来てください。

311原発いらない福島実行委員会では、「原発事故は終わっていない」をスローガンに集会を開催します。今年の基調講演は、後藤政志さんです。「原発に頼ることの愚かさ」についてお話していただきます。集会の後にライブ(会場:Kouriyama#9 開演17:30)もあります。
ぜひ、お出かけください。

【基調講演】「原発に頼ることの愚かさ」
       講師 後藤政志さん(元東芝原発設計技術者・原子力市民委員会委員)
【パネルディスカッション】
      「福島第一原発事故について私たちが知るべきこと~現状と今後に備えて~」
       コーディネーター・片岡輝美さん 
       パネラー 後藤政志さん 千葉親子さん
【女川原発差止め訴訟からビデオメッセージ】
【福島の取り組みからの報告】

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昨年の石破政権発足後、原子力政策に関してそれまでの「可能なかぎり依存度を低減する」という文言が削られ、ちゃっかり「原子力の最大限利用」という真逆の文言が加えられました。原発の老朽化や廃棄物の処理、避難計画の不備等、問題点には蓋をして、です。期待されていた再生可能エネルギー関連でも不祥事等が連発。原発回帰を進めるためにわざわざそうした工作を行っているのではと勘ぐりたくなります。

もう1件。

第18回 声楽アンサンブルコンテスト全国大会- 感動の歌声 響け、ほんとうの空に。 -

期 日 : 2025年3月20日(木・祝)~3月23日(日)
      3月20日(木・祝) 中学校部門 
      3月21日(金) 高等学校部門
      3月22日(土) 小学生・ジュニア部門、一般部門
      3月23日(日) 各部門金賞受賞団体による本選、表彰式
会 場 : ふくしん夢の音楽堂(福島市音楽堂) 福島県福島市入江町1-1
時 間 : 各日、開場9:30 開演10:00
料 金 : 各部門予選  前売り 2,500円 当日 3,000円 
      本選     前売り 3,000円 当日 3,500円
      4日間通し券 前売りのみ 9,000円

 声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名までの少人数編成の合唱グループによるコンテストです。
 全国の合唱レベルの向上を図るとともに、歌うことの楽しさを福島から全国に発信することを目的として、2008年(平成20年)から開催、今大会で第17回目を迎えました。
 本大会の特色として、伴奏楽器及び伴奏の形態が自由で多様な合唱音楽を追求、部門、年代を越えて演奏し合います。また、海外の合唱グループも公募し、音楽を通じて交流を図ります。
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平成23年(2011)に予定されていた第4回大会が東日本大震災発生直後で中止となり、平成25年(2013)の第6回大会からサブタイトルに「ほんとうの空」の語を冠し続けて下さっています。

コロナ禍による中止もあり、一昨年から旧に復しましたが、その後、出演団体も増加しています。智恵子の母校・福島高等女学校の後身で、かつて鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための 組曲 智恵子抄」を持ち歌にしていらした福島県立橘高等学校合唱団さんが出場なさいます。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

花や虫や雪や雲や鳥や人の事が書いてあり、巻末の方には次々とフランスの芳りに満ちた文章があつたのでどんなに喜んだ事でせう。山中にゐて小生フランスに飢ゑてゐる次第です。


昭和27年(1952)4月10日 串田孫一宛書簡より 光太郎70歳

エッセイ集『孤独なる日の歌』を贈られ、その礼状の一節です。串田は当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人でした。

最近流行りの個人開設型オンラインショップ。中小企業さん、個人商店さん、それから純粋に個人の方も出店なさっています。

そのうちのminneさんというサイトに登録されている小野屋善行商店さんというショップで、流行りの「文豪」ものグッズをいろいろと出品されていますが、光太郎もラインナップに入れて下さいました。

【少部数テスト販売】高村光太郎(文豪のしおり)

文豪のしおり、高村光太郎「火星が出てゐる」

しっとりした触感の特殊紙に、クリアインクで地紋が印刷されています。
厚みは0.38ミリ。しっかりとした質感があり、しおりとして使いやすいです。

※本商品はAdobe Illustratorで入稿データを作り、印刷屋さんに発注して印刷したものです。
(家庭用プリンターや、コンビニプリントは使用しておりません)

定価 350円(税込)
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同店では以前から「文豪のしおり」「文豪スマホケース」「文豪アクリルキーホルダー」の、それぞれをいろいろ取り揃えてらっしゃいますが、今月初めに「文豪のしおり」が「少部数テスト販売」ということで種類が増やされました。

「少部数テスト販売」のラインナップは以下の通り。
 夢野久作「瓶詰地獄」 菊池寛「恩讐の彼方に」 高村光太郎「火星が出てゐる」
 三好達治「雪」 泉鏡花「天守物語」 梶井基次郎「檸檬」 萩原朔太郎「天上の縊死」

以前から売られているのは以下の通り。
 中原中也「北の海」 太宰治「人間失格」 江戸川乱歩「黒蜥蜴」
 佐藤春夫「星のために」 宮沢賢治「星めぐりの歌」 芥川龍之介「羅生門」
 北原白秋「片恋」 織田作之助「勧善懲悪」 坂口安吾「風と光と二十の私と」
 中島敦「山月記」
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光太郎と梶井は売り切れてしまったようですが、売り切れるということは人気が高かったということなので、追加で制作していただけるのではないでしょうか。ちなみに光太郎の最後の一枚を注文したのが当方のようです(笑)。

印刷されているのは詩「火星が出てゐる」(大正15年=1926)の一節。「あなたの好きな高村光太郎の詩は?」といったアンケートでもやれば、第10位くらいに入るのではないかと思われます(笑)。かえってそのくらいの玄人好みの作品を扱って下さるのもありがたいところです。

ぜひ追加販売をお願いしたいところですし、そうなった際には皆様、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

遠路を恐縮でした。御一緒に温泉で二夜を過ごした事は愉快でした。小生の録音はやはり変な声でした。それに少々しやべり過ぎたやうです。


昭和27年(1952)4月3日 真壁仁宛書簡より 光太郎70歳

真壁は山形在住の詩人。前月27日に花巻温泉松雲閣真壁との対談が録音され、30日にNHKラジオでオンエアされた事に関わります。

録音された自分の声を聞くと違和感を感じますね。これは自分では声帯の振動が頭蓋骨を通じて直接的に伝えられる「骨導音」という音を聞き慣れているからで、現代では常識ですが、当時はそういう知識が広まって居らず、光太郎、ことあるごとにマイクなどのせいにして怒っていました。

昨日は横浜に足を伸ばしておりました。

メインの目的は、旧知のフルート奏者・吉川久子さんのコンサート。
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先月初め、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存の件で、『東京新聞』さんの取材を受けたのですが、その仲介をして下さったのが、吉川さん。その取材の際には吉川さんも同席され、その折に招待券を頂いてしまいまして、花束を抱えて馳せ参じた次第です。

会場は港の見える丘公園内のイギリス館さん。

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一昨年、箏曲奏者の元井美智子さんのコンサートもここで開かれ、それ以来でした。

吉川さん、以前には「智恵子抄」からのインスパイア的な曲も作られ、コンサートで披露なさいましたが、今回は特に光太郎には関わらないだろうと思っていて、事前にはご紹介しませんでした。しかし、さにあらず。
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波多圭代さんという方のピアノ伴奏に乗せてのフルート演奏の合間に、浅井理恵子さんというによる古今の文学作品等の朗読が入り、「冬景色」の前に光太郎詩「冬が来た」の朗読もなさって下さいました。
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終演後に吉川さんとお話しさせていただき、その中で「今度「冬が来た」という曲を作ります」とのこと。ありがたいお話です。

ちなみに今回のコンサートでは、光太郎とも縁の深い宮沢賢治の「春と修羅」インスパイアの曲、賢治の作詞作曲と言われ、東北新幹線新花巻駅の発車メロディーにもなっている「星めぐりの歌」も演奏なさいました。発車メロディーと言えば、JR横須賀線鎌倉駅の発車メロディーが吉川さんの演奏による「鎌倉」でしたが、現在でも使われているのでしょうか。最近、鎌倉駅には降り立っていないので解りません。
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多方面でご活躍中の吉川さんですが、今後のさらなるご飛躍を祈念いたします。

さて、そちらが午後からでしたので、午前中には同じ港の見える丘公園内の神奈川近代文学観さんにお邪魔しておりました。
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例によって閲覧室での文献調査です。あまりめぼしい成果はなありませんでした。『××』という書籍や雑誌に光太郎の書簡が掲載されているという情報を得て調べたところ、既知のものだったり……。

しかし一点だけ。昭和14年(1939)の雑誌『新風土』第2巻第11号に、当会の祖・草野心平による光太郎論が載っていたのですが、それに添えられた光太郎の写真(左下)。土門拳の撮影で、最初、他の書籍等にも掲載されている既知のもの(右下)かと思ったのですが、別のショットでした。
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既知のものではぼやけてしか写っていない右手に持った彫刻刀(鑿?)がはっきり写っています。また、手前にも。「ほおー」という感じでした。

彫っている木彫は、新潟の素封家にして美術愛好家・松木喜之七の注文による「鯉」。しかし、結局、光太郎自身が納得のいくものが出来ず、断念してしまいました。そうこしているうちに松木は太平洋戦争末期、もういい年だったにもかかわらず「根こそぎ動員」で徴兵され、戦死。戦後、その報に接した光太郎は非常に心を痛めました。

昨日のめぼしい収穫はこれだけでした。しかし、最近、同館に未知の光太郎書簡が複数寄贈されていて、そちらは「特別資料」という扱いになっています。そちらは事前に閲覧申請をして見せていただく形になっており、そのための申請書を貰ってきました。今月20日以降、改めて行って参ります。

なぜ20日以降かというと、20日に同館で以下の特別展が始まるためです。

特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」

期 日 : 2025年3月20日(木)~5月18日(日)
会 場 : 神奈川近代文学館 
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 月曜日(5月5日は開館)
料 金 : 一般700円(500円)、65歳以上/20歳未満及び学生350円(250円)、
      高校生100円(100円)、中学生以下は無料 ( )内は20名以上の団体料金

 卓越した知性を内包し、詩歌を読み、書き、その魅力を余すところなく発信した大岡信(おおおか・まこと 1931-2017)。批評『現代詩試論』でデビューしたのち、詩集『春 少女に』などで愛や生きる歓びをうたい、ライフワーク「折々のうた」では詩歌を人びとにとって身近なものとしてきました。その織り成す言葉は、人びとを魅了し続けています。
 当館では2020年以降、大岡家をはじめとする方々から大岡の遺した書、原稿、創作ノート、書簡などを受贈し、「大岡信文庫」として保存しています。本展ではこれらの資料を中心に〈おおらかな感性の詩人・大岡信〉の生涯を追いながら、広く人びとにひらかれた、豊かな言葉の世界を展開します。
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平成29年(2019)に亡くなった大岡信氏の回顧展的な。

光太郎がらみで、氏が『朝日新聞』さんに連載されていた「折々のうた」の原稿(光太郎短歌を取り上げて下さった第一回のもの)が展示されます。
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こちらを併せて拝見しようと思っておりますので。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おハガキと小包と一昨日到着、感謝。十三日の誕生日をおぼえてゐて下さるのは何だか恐縮の気がします。


昭和27年(1952)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎70歳

3月13日(来週ですね)は、光太郎の誕生日です。数え年の習慣では年明けと共に70の古稀となりましたが、満年齢では69歳ということになります。

ちなみに昭和24年(1949)には「年齢のとなえ方に関する法律」が制定され、公的な場面では数え年ではなく満年齢を使うようにとされました。

注文しておいた書籍が届きました。

井上涼の美術でござる 二の巻

発行日 : 2025年3月5日
著者等 : 井上涼
版 元 : 毎日新聞出版
定 価 : 2,500円+税

NHK Eテレ「びじゅチューン!」で大人気・井上涼はじめての美術まんが、第二巻!!

土偶アイドルをプロデュース/ナゾ遊園地「ムンク園」で大絶叫/年越しフェスに全国の「麗子」さん集結/《鳥獣戯画》の動物たちと大運動会などなど、井上涼ワールド、全開!!

毎日小学生新聞で2016年~連載中。待望の書籍化! 忍者Bと忍者Cが有名な芸術家たちに絵の描き方を習ったり、モデルになったり、一緒に遊んだりしながら、美術作品を紹介するよ。

オールカラー、美術作品画像100点超掲載! もっと美術が身近になる、てんやわんやの27話収録。
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もくじ
 はじめに
 Ⅰ 僕の後ろに道はできる!
  岡本太郎の巻 高村光太郎の巻 年忘れ!麗子フェスの巻 黒田清輝の巻 青木繁の巻
  吉田博の巻 高橋由一の巻 【井上涼のもう一枚】岸田劉生《麗子像》
 Ⅱ 古(いにしえ)からのメッセージ♥
  古代エジプトの巻 キトラ古墳の巻 兵馬俑の巻 土偶の巻
  【忍者B・Cの美術で七変化】
 Ⅲ 極楽浄土で遊びましょ
  奈良薬師寺の巻 空也上人の巻 鳥獣戯画の巻 雪舟の巻 刀剣の巻 
  【井上涼のもう一枚】雪舟《四季山水図》
 Ⅳ マネできない世界観!
  フェルメールの巻 ルーベンスの巻 レンブラントの巻 マネの巻 ルソーの巻
  カラバッジョの巻 ミュシャの巻 ムンクの巻 カンディンスキーの巻
  モンドリアンの巻 モディリアーニの巻
 おわりに
 作者の言葉


『毎日小学生新聞』さんに平成28年(2016)から連載されている井上涼氏による漫画の単行本化です。見開き2ページで一人の美術家や美術作品を取り上げ、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」にも通じるシュールな井上涼ワールドが展開されています。

我らが光太郎は平成31年(2019)に取り上げられ、この巻に収録されました。その頃から単行本化を期待していたのですが、ようやく実現しました。

ちなみに「一の巻」も同時発売。こちらの目次は以下の通りです。

 Ⅰ 絵画にインタビューの術!
  ルノワールの巻 モネの巻 ドガの巻 画家ボウリング大会の巻
  ゴッホとゴーギャンの巻
 スーラの巻 メアリー・カサットの巻 
  【井上涼のもう一枚】スーラ《サーカス》《サン・ドニの牧草》
 Ⅱ 巨匠集まれ~
  レオナルド・ダ・ヴィンチの巻 ミケランジェロの巻 松方幸次郎の巻 トーハクの巻
  まきまき四大絵巻の巻 狩野永徳の巻 【井上涼のもう一枚】長谷川等伯《松に秋草図》
 Ⅲ お江戸でお絵かき修行
  歌川国芳の巻 葛飾北斎の巻 東洲斎写楽の巻 歌川広重の巻 円山応挙の巻
  尾形光琳の巻 野々村仁清の巻 尾形乾山の巻 伊藤若冲の巻 【芸術家の言葉】
 Ⅳ モデルになってくれ!
  マリー・アントワネットの巻 ロダンの巻 ポンポンの巻 ジャコメッティの巻
  ガウディの巻

『毎日小学生新聞』さんでは、光太郎の父・光雲も一昨年に取り上げられました。今後、「三の巻」「四の巻」と続刊される中で収録されてほしいものです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

今年は厳冬がつづましたので先年いただいた台湾のキヨウとかいふ獣の毛皮をチヤンチヤンコの下に着るやうにしましたら大変凌ぎ易く感じました。


昭和27年(1952)3月12日 野末亀治宛書簡より 光太郎70歳

キヨウ」はキョンですね。

当方自宅兼事務所のある千葉県では、レジャー施設から逃げ出したキョンが野生化して大繁殖し、農作物への被害などで困っています。千葉でも南部の安房地域が中心ですが、徐々に生息域が北上中とのこと。やがて北部の自宅兼事務所近辺にも出没するかも知れません。彼等に罪はないのですが……。

明治から大正期、『読売新聞』の「文芸欄」に載っていた、文化人等の動向を短く紹介する「よみうり抄」というコーナーがありました。

その大正期の「よみうり抄」を全てピックアップした書籍の刊行が全5巻の予定で開始され、まず第1巻が出ています。

それに関連した『読売新聞』さん2月25日(火)の記事。

まるでSNS 大正の「よみうり抄」 文芸欄の片隅で文化人の動勢やお知らせ細かく 「芥川」誕生の瞬間など

 読売新聞文化欄に掲載された雑報欄「よみうり抄」が、「読売新聞 よみうり抄」大正篇第一巻として文化資源社から刊行された。今後、全5巻の刊行が予定されている。よみうり抄研究会代表の杉浦静・大妻女子大学名誉教授が、その意義と文学研究にもたらす可能性を寄稿した。

 日本近代文学において、読売新聞は大きな役割を果たした。明治以降の文芸欄は、上司小剣や正宗白鳥ら多くの作家が健筆を振るった。明治から大正までの近代文芸関係作品、記事の全細目をまとめた『読売新聞文芸欄細目』も、近代文学研究の泰斗だった紅野敏郎氏によりまとめられている。
 その文芸欄の片隅に置かれたのが、「よみうり抄」だ。近代文学の研究で引用されることなどから、私は存在を知った。文学者や画家、文化人の動向や出版情報、展覧会情報などが雑報の形で、短いながらも詳しく記され、時には一般記事より興味深いものがある。2001年に研究会を作り、仲間の研究者や学生たちと少しずつ読んできた。
 よみうり抄は、記者が直接取材したものや、届いた手紙などから書かれた。作家の年譜に掲載されていない内容もあり、生き生きした情報にあふれている。
 たとえば、よみうり抄は作家の芥川龍之介の誕生の瞬間から、文壇で認められていく姿を収めている。
 「▲柳川隆之介氏 は今後本名芥川龍之介を用ふる由(よし)尚(な)ほ小説『鼻』を『新思潮』に寄せたりと」
 これは当時、東京帝大の学生だった芥川龍之介が、「柳川隆之介」から改名したことを伝える1916年1月22日のよみうり抄の記述だ。同じ日のこの欄は、すでに劇作家として評価を得ていた久米正雄らと、同人誌「新思潮」を再興することも伝えた。改名で心機一転を図り、新思潮に臨む芥川たちの姿がうかがえる。
 この記事にある「鼻」が夏目漱石に激賞され、芥川は文壇に出ることになる。
 すぐ後の2月29日付には、「▲芥川龍之介氏 は平安朝時代より材料をとれる小説『ポー』を『新思潮』三月号に寄稿せり」と続報がある。漱石の賛辞を受けて書こうとしたのだろうか。だが現実にはこの作品は書かれず、「ポー」は題名だけが残る幻の作品となる。
 この後も、よみうり抄は芥川が海軍機関学校教官となったことや、流行性感冒にかかったこと、結婚や新居への移転など細々と情報を伝えた。これらの情報は、新聞読者の小説家に対する親近感を高めた。新聞社の側も、読者の関心が深い文化関係者の動向を伝えることが、政治や事件・事故のニュースと合わせて読者獲得につながったのだろう。
 よみうり抄は、画家たちの動勢も多く報じている。「写生旅行中」とか、「写生中」とかいった情報に加え、展覧会情報も多い。そこには日時や会場と、読者が出かけられるように住所も付されている。1917年10月25日には、彫刻家の高村光太郎がニューヨークでの個人展覧会を開くため、「彫刻を頒(わか)つ会」を起こすといった記事が掲載されている。まるで、現代のクラウドファンディングのようだ。
 文化人の細かな動勢やお知らせといった情報を掲載したよみうり抄は、現在のSNSを思わせる。大正期の新聞は、マスメディアでありながら、同時に現在よりもパーソナルなメディアの要素が強かったのかもしれない。
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で、刊行が始まった『よみうり抄』。

読売新聞 よみうり抄 大正篇 第1巻001

発行日 : 2025年2月15日
著者等 : よみうり抄研究会編
版 元 : 文化資源社
定 価 : 16,000円+税

「よみうり抄」とは読売新聞が、明治31年10月6日から毎日掲載をはじめた、芸術家(作家・画家・演劇家)や学者などあらゆる文化人の短信・消息・ゴシツプを取り上げた小欄の名称。本書は大正期の「よみうり抄」をすべて翻刻した第1巻目。
現在では、この小欄の集積が、今となっては客観的な記録・情報となり、文化人がいつどこに出かけ、誰に会い、何をしたかという膨大な情報群となっているが、従来、この欄を通覧することが難しかったものを、全5冊に翻刻。
明かな誤植を訂正した他、印刷・マイクロ化・デジタル化の都合で不読となった文字を可能な限り補記し「よみうり抄」の全文を活字化。

目次 明治45年1月から、大正3年12月まで(担当:宗像和重)

解説 大正期・読売新聞「よみうり抄」にみる文藝彙報欄(滝上裕子)

版元から一言
よみうり抄の具体的な記事は、Xに「#今日のよみうり抄」としてほぼ毎日ポストしていますので、それを見ていただくと有り難く存じます。一つ一つの記事は、何の変哲も無い新聞の短信で、基本「誰が何をした」ですが、読む人によっては、ピンッ、と来て、情報が無限に繫がり沼る情報の集積です。

著者プロフィール
 よみうり抄研究会  (ヨミウリショウケンキュウカイ)  (編集)
 石川巧(いしかわ たくみ)立教大学教授
 杉浦静(すぎうら しずか)大妻女子大学名誉教授:代表
 須田喜代次(すだ きよじ)大妻女子大学名誉教授
 滝上裕子(たきがみ ゆうこ)明治大学他非常勤講師、立教大学日本学研究所研究員
 十重田裕一(とえだ ひろかず)早稲田大学教授
 前田恭二(まえだ きょうじ)武蔵野美術大学教授
 宗像和重(むなかた かずしげ)早稲田大学名誉教授
 山岸郁子(やまぎし いくこ)日本大学教授
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読む人によっては、ピンッ、と来て、情報が無限に繫がり沼る情報の集積」。まさにその通りだと思います。

光太郎智恵子の名も頻出します。昭和52年(1977)、松島光秋氏著・永田書房発行『高村智恵子―その若き日―』という書籍の巻末には、明治42年(1909)から大正3年(1914)までの「よみうり抄」から、光太郎智恵子の名が載った分、関係の深い人々に関する記述がピックアップされています。
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ところが、書籍のコンセプトが若き日の智恵子の実像をさぐることなので、光太郎智恵子が結婚披露を行った大正3年(1914)までで終わっています。

今回刊行された『読売新聞 よみうり抄 大正篇 第1巻』も大正3年(1914)まで。第2巻以降で大正4年(1915)からの「よみうり抄」、どんなだったか確かめたいところです。ただ、第1巻が定価16,000円+税、第2巻以降も同じようなものでしょう。それが全5巻となると、ちょっと個人で購入すべきものではないかな、という気がいたします。公共図書館さん、関連する美術館さん、文学館さん等で取り揃えていただけることを期待します。

【折々のことば・光太郎】

水野君の墓標の文字を書くといふ事承知いたしましたが、小生只今一寸健康を害してゐまして揮毫するといふ事が出来ないので少々遅れるでせう。このこと御諒承下さい。


昭和27年(1952)3月12日 行方沼東宛書簡より 光太郎70歳

第一期『明星』以来の親友だった水野葉舟が歿したのは昭和22年(1947)。その墓標の文字を書いてくれという依頼に対しての返答の一節です。葉舟の墓は多磨霊園にありますが、結局、光太郎の揮毫ではなかったようです。

岡山県からイベント情報です。

岡山県詩人協会 第10回詩を楽しむ会ー智恵子抄ー

期 日 : 2025年3月16日(日)
会 場 : 岡山市オリエント美術館地下講堂 岡山市北区天神町9-31
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 500円

高村高太郎作智恵子抄及び安藤次男(郷土の詩人)の詩・散文の朗読、詩人の斉藤恵子さんの講演

申し込み不要

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岡山県詩人協会さんの主催。同会の初代会長は、光太郎と交流のあった現在の赤磐市出身の永瀬清子でした。

ちなみに「高村高太郎」ではなく「高村光太郎」なのですが、遠く大正時代から「あるある」ですので仕方ありますまい(笑)。
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ご興味お有りの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

例のテープ式録音などの不完全なものは殆ど聴くに堪へぬものになり勝ちで、しばしばラジオできかされて、ひんしゅくして居ます。設備と技術との未熟なものにひつかかる事を、おそれてゐます。


昭和27年(1952)3月5日 真壁仁宛書簡より 光太郎70歳

真壁は山形在住の詩人。NHKラジオで光太郎と真壁の対談を放送したいということで、それに対する返答の一節です。

光太郎としては乗り気ではありませんでしたが、結局、この月27日に花巻温泉松雲閣で録音が行われ、30日にオンエアされました。この対談はカセットテープやCDに収録されて市販もされていますし、NHKラジオ第2さんで平成28年(2016)に放送されたりもしています。

当初、収録に難色を示していた光太郎でしたが、始まると興が乗ってきたようで、当初予定になかった自作詩朗読も録音させました。いずれも「智恵子抄」所収の「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」でした。

自作詩朗読

先頃、日本芸術院新会員となられた野田秀樹氏作の演劇「売り言葉」。初演は平成14年(2002)、南青山スパイラルホールさんで智恵子役・大竹しのぶさんによる一人芝居でした。

光太郎智恵子の世界を劇化したものとしては、最も多く公演が続けられているでしょう。コロナ禍前の令和元年(2019)には、確認出来ている限り6組もの劇団/個人の方が全国で上演して下さいましたし、令和2年(2020)には3公演、コロナ禍を経て令和4年(2022)で2公演、一昨年と昨年も1公演ずつ確認出来ています。

で、今月は兵庫県で。

劇団プロデュース・F 第76回アトリエ公演「売り言葉」

期 日 : 2025年3月14日(金)~3月16日(日)
会 場 : 劇団プロデュース・Fアトリエ 兵庫県姫路市本町233岸田ビル3階
時 間 : 3/14 19:00 3/15 11:00/15:00 3/16 14:00
料 金 : 一般2,000円 高校生以下1,000円

人間が今まで書いてきた男と女の愛の物語はすべて嘘かもしれない あなたとの愛を選ぶ………… 選ぶの中にラブを見つけた 選ぶというラブの残酷 世界は目と鼻の先にしかない その世界は幸福な世界だ そこに貴方は住んでいる

今回もゲストお二人をお迎えしております。高村光太郎の詩「智恵子抄」 妻、智恵子との純愛とは。

出 演 : 駒崎有美 前田宣博 高見めぐみ 小林みね子 中島あると
演 出 : ひさたにとしかず
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キャストとして5名の方がクレジットされています。初演では大竹しのぶさんお一人の一人芝居でした。大竹さんが主人公・智恵子、光太郎、狂言廻し的な「女中」と三役を演じ分けられるという感じで。しかし、いろいろ大人の事情などでそれを破る公演も今までに為されていました。そのあたりは演出の範囲内でしょう。

光太郎ディスり度の最も高い脚本ですが、単に光太郎を悪者にして、才能を潰されたかわいそうな智恵子、というだけでなく、智恵子は智恵子で自分で自分の首を絞めている姿が描かれ、実に考えさせられます。

ご興味お有りの方、ぜひどうぞ。

ちなみに来月になりますと、茨城の劇団さんによる公演が土浦市であるとのこと。また近くなりましたら詳細をお伝えいたします。

【折々のことば・光太郎】
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ソツギ ヨウシキヲシユクス」ユカレズ テザ ンネン


昭和27年(1952)3月7日 
森口多里宛電報より 光太郎70歳

そろそろ卒業式シーズンですね。

森口は昭和23年(1948)に開校した岩手県立美術工芸学校長でした。同校教員には画家の深沢省三・紅子夫妻、彫刻家の舟越保武、堀江赳らがいました。光太郎は名誉教授就任を打診されましたが断り、その代わりことあるごとに同校を訪れ、生徒に講話をしたり、祝辞や祝電を寄せたりしました。

同校は、その後、盛岡短期大学美術工芸科を経て、岩手大学特設美術科に移行、現在に至ります。

昨日始まった企画展示です。

相馬市図書館・歴史資料収蔵館連携企画展 相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち

期 日 : 2025年3月1日(土)~5月30日(金)
会 場 : 相馬市図書館 福島県相馬市中村字塚ノ町 65−16
時 間 : 平日10時〜19時 土、日、祝日は10時〜17時
休 館 : 館内整理日(毎月の月末)
料 金 : 無料

高村智恵子・光太郎夫妻を中心に、相馬市に縁のある、または訪れたことのある芸術家の人物紹介図や関連書籍などを展示します。

特典 図書館で配布する企画展のパンフレットを歴史資料収蔵館に持参することで、次の特典が受けられます。
 ▽オリジナルグッズをプレゼント
 ▽歴史資料収蔵館の観覧料が無料(高校生以下の学生のみ)
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光太郎智恵子のイラストがなかなか秀逸ですね。しかし下のヒゲの人物がいったい誰なのかがわかりません。相馬市と言えば光太郎の父・光雲の孫弟子にして日本橋三越本店さんの巨大彫刻「天女( まごころ)像」などを手がけた佐藤朝山(玄々)の故郷で、「連携」として挙げられている歴史資料収蔵館さんには佐藤の作品が多数展示されていますが、顔立ちが違うような……。隣接する南相馬市は作家の埴谷雄高の出身地で、同じく島尾敏雄も両親が南相馬出身。ところが二人ともヒゲはありません。

追記・ヒゲの人物は竹久夢二でした。

今回のイベント、あまり大々的に宣伝されておらず、ネットで調べてもX(旧ツイッター)への投稿と相馬市さんの広報誌『広報そうま』2月15日号しか情報が見あたらず、詳細が不明です。

ところで「高村智恵子・光太郎夫妻を中心に」とありますが、光太郎は相馬を訪れたことは確認出来ていません。先に名の出ている智恵子の方は、明治40年(1907、日本女子大学校を卒業した年で数え22歳、父・今朝吉やきょうだいと共に)と大正6年(1917、光太郎と結婚披露を行った3年後)に原釜海岸の金波館という宿に滞在したことが確認出来ています。また細かな年月日は不明ですが、それ以前の少女時代にも家族と訪れていたようです。そこで今回、光太郎は刺身のツマでしょう(笑)。

智恵子は明治40年(1907)の滞在時には、同じ宿に泊まっていた旧制米沢中学生の鈴木謙二郎(後の山形県伊佐沢村村長、長井市教育委員)と親しくなり、帰京後も姉弟のように文通を続けました。

謙二郎の子息・鈴木重信氏の回想「智恵子の手紙」が、長井市地域文化振興会編刊『長井のひとびと 第3集』(昭和59年=1984)に掲載されています。
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謙二郎宛の智恵子書簡は『高村光太郎全集』別巻にすべて収録されていますが、この文章も貴重な回想です。

展示ではおそらくこの金波館滞在の件に触れられているのでしょう。

3月8日(土)、いわき市の草野心平記念文学館さんで、澤正宏氏と和合亮一氏による文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」を拝聴することになりましたので、そちらの前に足を運ぶつもりで居ります。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

まだ雪もさかんにふり、寒さも〇下八度、十度といふところですが、小生割に健康、肋間神経痛も殆ど苦にならない程度になりました。


昭和27年(1927)3月5日 松下英麿宛書簡より 光太郎70歳

3月頭にマイナス10℃。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、どんだけだよ、という感じです。

購入・視聴しました。DMM.comさんから配信されているブラウザ・アプリゲーム「文豪とアルケミスト」(文アル)を舞台化した劇場公演(文劇)の第七弾、光太郎も登場人物として名を連ねた昨夏の「旗手達ノ協奏(デュエット)」を収録したDVD
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七作目にして初めて光太郎が登場人物として名を連ねました。演じられたのは松井勇歩さん。
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主人公は、谷佳樹さん扮する志賀直哉で、他に武者小路実篤(杉江大志さん)、有島武郎(杉咲真広さん)、里見弴(澤邊寧央さん)の「白樺派」、そこに囚われの身となった小林多喜二(泰江和明さん)がからみ、石川啄木(櫻井圭登さん)、広津和郎(新正俊さん)、そして光太郎が協力して悪に立ち向かう、という相関図です。

そもそも原作のゲームは「転生」した文豪たちが文学作品を蹂躙する「侵蝕者」たちと闘う、というものなので、8人の文豪はそれぞれに得意な武器(光太郎はライフル(笑))を手に「アンサンブル」という敵の戦闘員と大乱闘。そこで大立ち回りのアクションシーンが中心です。
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キャストの皆さん、他に「刀剣乱舞」や「信長の野望」といったやはり激しい殺陣を伴うであろう舞台に出られている方々が中心のようで、そういう役者さんでないとこれは出来ないな、と納得しながら拝見しました。

ただ、そうしたど派手な活劇シーンのみではなく、文豪たちがしみじみと語り合うシーンも。ラスト近く、主人公の志賀直哉が「侵蝕者」について「それほど怖れているんだろうな、文学の力を。文学によって人々が共感したり、考えたり、心が動かされたりすることを」と語っていました。現実世界の小林多喜二は昭和8年(1933)、まさにそのような考えを持つ者たちによって虐殺されたわけで、文アル・文劇ファンの若い方々、そういう点をしっかり学んでいただきたいものです。

DVDは2枚組。「本編」として公演を撮影したものが1枚と、「特典映像」としてメイキングやキャストの方々の座談会(光太郎役の松井さんが司会進行の部分も)などを収めたものが1枚。
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18ページのブックレット、さらにおまけとしてステッカーも封入されています。
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ご興味おありの方、ぜひお買い求めを。

ちなみに、劇場版「文豪とアルケミスト」、第八作「紡グ者ノ序曲」の公演が5月にあり、松井さん演じる光太郎が再び登場します。また近くなりましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

たまに花巻に出る事があつても電車の時間の都合で中々お立寄が出来ず失礼いたして居ります。皆様によろしく。


昭和27年(1952)3月5日 宮沢清六宛書簡より 光太郎70歳

宮沢賢治実弟の清六に宛てた書簡の一節。「皆様」には賢治や清六の両親、政次郎・イチも含まれているのでしょう。

ゲームとしての「文アル」には賢治も登場し、令和4年(2022)には花巻の賢治記念館や光太郎老記念館などでゲームとのタイアップ企画のスタンプラリーが行われました。「文劇」では未だ賢治は登場していませんが、今後、どうなるのでしょうか。

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