2025年02月

明日から3月ですね。ここ数日、関東では春の陽気となっています。自宅兼事務所のある千葉では一昨日、昨日と最高気温が15℃ほどでしたし、明日は20℃くらいになるそうです。

そんなこんなで、自宅兼事務所の裏山では梅がほぼ満開となっています。梅に付きもののウグイスの鳴き声もしきりに聞こえています。
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冬を愛し、「冬が来た」などの冬の詩をたくさん遺した光太郎ですが、春の詩も書いています。
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    梅花かをる

 梅花(ばいくわ)かをる。
 霜白き厳寒の天地を破りて
 梅花のかをりすでに春をめぐらす。
 日本の梅花いさぎよくして
 かの羅浮仙(らふせん)の妖気を帯びず、
 そのかをり直ちに剣(つるぎ)を感ぜしめ、
 清浄(しやうじやう)、人を奮起せしむ。
 されば若き武人の箙(えびら)に挿さんとするは
 一枝(いつし)の梅花に外ならず、
 花かんばしくして
 人また千載に遺芳をおくる。
 梅花のかをりふと路にただよふ時
 人たちまち精神の高きにつき
 心に汚(けが)れなからんことを期す。
 凜冽のあした梅花かをりて
 武人の道統さらに新しく、
 厳冬のうちに炸裂して
 天と地とに脈脈の生気を息吹くもの、
 梅花かをる、梅花かをる。
 いま皇国未曾有の戦機迫りて
 人ただ大義奉公の一念に燃ゆ。
 この年二月梅花また白玉(はくぎよく)を点綴して
 そのかをり人心を粛然たらしむ。
 ゆくりなく社頭の臥龍(ぐわりよう)を拜して
 梅花にかをる皇国古今の節義をおもふ。

終戦の年(昭和20年=1945)2月、日本報道社発行の雑誌『征旗』に載った詩です。

執筆は草稿欄外に書かれたメモに依れば「一月十日夜」です。1月10日では東京で梅は咲いていなかったでしょう。しかし、雑誌が発行される頃には梅も咲き始めるだろうということで梅をモチーフにしています。

この手の虚構は光太郎お家芸の一つで、「智恵子抄」所収の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)でも同じことをやっています。

写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」の一節。執筆は2月23日で、どう考えても桜には早い時期です。しかし、発表されたのが雑誌『新女苑』の4月号で、まさに桜の時期です。まぁ、「この詩が読者の目に触れる頃には写真の前に挿した桜の花かげに、すずしく光るレモンを置こう」ということなのでしょう。

こうしたインチキは光太郎に限らず多くの文学者がやっていたでしょうし、現代でも行われているような気もしますが。テレビ番組などで暮れのうちに撮影しているのに、オンエアが年明けなので「あけましておめでとうございます!」とやっているのと同じですね。

さて、「梅花かをる」。文語の格調に逃げ、「武人の道統」「皇国未曾有の戦機」「大義奉公の一念」といった空虚な語を連ね、現代の感覚では「イタい」詩です。しかし、前年あたりまでの狂気を孕んだような「鬼畜米英覆滅すべし」といった調子ではなくなり、もはや諦念も漂っているように感じます。

前年まではこんな感じでした。
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   黒潮は何が好き006

 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。
 空母、戦艦、巡洋艦、
 駆艦、潜艇、輸送船、
 「世界最大最強」を
 頂戴したいと待つてゐる。
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 来い、空母、
 来れ、戦艦、
 「世界最大最強」の
 メリケン製の全艦隊。
 色は紺染め、
 白波たてて、
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。

はっきり言えば光太郎、狂ってましたね。

ところが現代に於いても、こういう作品こそ光太郎詩の真骨頂、これぞ皇国臣民の鑑、惰弱な現代人はここに学べ、と、涙を流してありがたがる輩が少なからずいるのも現状です。嘆かわしい。

いろいろなところで言及されていますが、今年は昭和100年、戦後80年。これを機に「あの時代」を正しく省察すべきと思われます。

【折々のことば・光太郎】

今雪の下でホウレン草が育つてゐることでせう。もうハンの木の花が出かかつてゐます。

昭和27年(1952)3月5日 内村皓一宛書簡より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。梅はまだだったようですが、小屋の周りに自生していた榛の木(やつか)の花がほころびつつあったようです。榛の木の花も杉や檜同様、花粉症のアレルゲンとなるそうですが……。

地方紙『福島民友』さんに「マイストーリー」という連載があります。「福島県で輝きを放つ人たち、ふくしまをもり立てようと頑張っている人たちの生き方を紹介していく連載」だそうで、一人の方に対するインタビュー記事が断続的に十数日間載せられています。

過去の記事を調べてみましたところ、親しくさせていただいている女優の一色采子さん、元エアレースパイロットの室屋義秀氏など、このブログでご紹介させていただいた方も取り上げられていました。

今年に入ってからは、テレビの通販CMでおなじみの夢グループ社長・石田重廣氏、そして落語家の桂幸丸師匠が取り上げられています。
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で、幸丸師匠。現在の須賀川市のご出身だそうで、桂米丸師匠に古典落語を学び、さらに福島ゆかりの新作も多数創作されています。そうした来し方や、最近のコロナ禍でのご経験など、全11回の連載でした。
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その第9回。

自分らしい道、見つけた 落語家・桂幸丸

 レギュラーのテレビ番組や営業が減り、追い詰められた私。「しっかりしなくちゃ」。心を入れ替えて独演会により力を入れ、「自分らしい落語」を追求しました。
 落語家30周年を迎えた2004年、「福島にまつわる落語を作ろう」と思い立ちました。考えたのは当時、新千円札の肖像に決まり盛り上がっていた野口英世博士の偉人伝。でも、なかなか面白おかしくできない。最初に東京の新宿末広亭で披露した時は、真剣に作り込み過ぎて、お客さんからは「(聞いていて)くたびれた」と酷評されました。
 30周年記念公演で披露しようと考えていたのに、さあどうしよう。公演は1週間後。お客さんに受けたところを赤ペンでマークして、受けなかったところはばっさり切って、つなぎ合わせてー。
 ごひいきのお客さんにアドバイスを求めると「落語はね、勉強会ではない。あくまで娯楽なんだ。一生懸命やらずに、漫画的に物事を捉えれば面白いんじゃない」との言葉。何とか改良版を作り上げて披露したら、良い反応があった。ほっとしました。
 その後も「幸丸流 近代偉人伝シリーズ」と銘打ち、福島ゆかりの高村智恵子や瓜生岩子、円谷幸吉、大河ドラマにも登場した新島八重らをモチーフに創作。大ヒットした映画「フラガール」に感動して「常磐ハワイアンセンター物語」も作りました。
 偉人伝は真剣にやろうとすると受けない。大事なのは「さあ聞いて、面白いよ。漫画のように気軽に楽しめるよ」と人を寄せるように演じること。作る際は偉人について本を読んだり、インターネットで調べたりして、自分なりにイメージをつかんで要所を押さえます。
 創作落語の口コミが広がり、テレビに出ていた時よりも仕事が増えました。「努力すれば報われる」と実感し、それまでの先輩や常連さんたちの言葉が身に染みました。「好きだったのは、落語じゃん」。原点に返ったことで、新しい話や自分らしさを生み出すことができたのです。
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平成19年(2007)初演の新作落語「幸丸流智恵子抄」、こうして生まれたのですね。当方、CDを所持しております。
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ある意味、悲劇的とも言える生涯を送った智恵子ですが、とにかく因習に抗して頑張った姿を軽妙な語り口で追いかけ、暗い話にはなっていません。

こういったことも一つの「地方創生」の姿だな、と改めて思わせられました。幸丸師匠、今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

先日は御丹精の靴下と写真とを忝なくいただきました。写真はやはり小生の苦手で、気味が悪いと思ひました。


昭和27年(1952)2月26日 宮静枝宛書簡より 光太郎70歳

宮静枝は岩手出身の詩人。光太郎とは戦前から交流があり、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は、昭和26年(1951)の光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、光太郎写真が14葉も載っています。これらが光太郎の元に送られ、その返礼です。
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なかなかいい表情をしていると思うのですが、光太郎は写真嫌いでした。

永らく絶版となっていた臼井吉見の長編小説『安曇野』全五巻。新宿中村屋さんの創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、光太郎の親友・荻原守衛らを軸に、信州安曇野ゆかりの人々の群像が明治30年代から戦後までを舞台に描かれています。守衛とのからみで光太郎も登場します。大河ドラマ化要望運動も起こっており、地元安曇野で復刊に向けてのクラウドファンディングなども為されていましたが、その甲斐あって限定復刊だそうです。

安曇野生まれの臼井は昭和15年(1940)、同郷の古田晁らと筑摩書房を設立、戦後の同21年(1946)、雑誌『展望』を創刊し、編集長に就きます。『展望』には光太郎作品がたびたび掲載されました。発刊の年に詩「雪白く積めり」、翌昭和22年(1947)には幼少期からの来し方を振り返り、戦時中の翼賛活動を自ら断罪した20篇からなる連作詩「暗愚小伝」など。

信州松本平地区をカバーする『市民タイムス』さんに先月出た記事。

臼井吉見著 長編大河小説『安曇野』文庫版 3月2日に復刊 お披露目・販売会も 長野県安曇野市

 長野県安曇野市は14日、太田寛市長肝いりで計画している絶版の長編大河小説『安曇野』(筑摩書房)の復刊が、3月2日に決まったと発表した。市内でお披露目・販売会も開く。安曇野の名を全国に広めた小説を通して、多くの先人を生んだ安曇野の風土を誇りとして再認識してもらう狙いがある。ただ、2000人を超える人物が登場する大作を読み通すのは難儀で、市民に身近に感じてもらう工夫が求められる。
 復刊数は文庫版第1~5部の1100セット(1セット税込み7040円)。お披露目・販売会は同日に堀金総合体育館で開き、文芸評論家・斎藤美奈子さんのトークなどを行う。復刊本は市内の小中学校や高校、図書館などにも置く。市の予算に加え、クラウドファンディング(CF)と企業・団体からの寄付で集まった299万6000円を費用に充てた。
 安曇野市堀金出身の作家・臼井吉見(1905~1987)の作で、昭和49(1974)年に完結した小説『安曇野』は、新宿中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻、近代彫刻の先駆者・荻原碌山など安曇野ゆかりの5人を中心として、明治から昭和にかけての激動の社会を描く。3回完読したという太田市長は14日の定例記者会見で、これだけ多くの先人を輩出した田園地域は全国的に少ないとし「先人が安曇野をベースに日本全国、世界に飛躍していった歴史(の物語)を、ぜひ若い人に読んでほしい」と話した。
 ただ、原稿用紙約5600枚分にもなる大作を読むには時間と労力がいる。太田市長は、読みやすくする改編が著作権上難しいとした上で「市の広報であらすじを紹介するなどの方法で、関心を抱いてもらう取り組みをやりたい」としている。
 市は『安曇野』を基にしたNHK大河ドラマ化も目指している。
 お披露目・販売会の参加希望者は2月4日までに、市ホームページから電子申請するか、ダウンロードした参加申込書を送付して申し込む。定員300人。
 問い合わせは市政策経営課(電話0263・71・2401)へ。
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003安曇野市さんのサイトに詳しい購入方法が書かれています。

3月2日(日)にはお披露目会もあるそうですが、早々に定員に達してしまったようです。地元の皆さんの関心の高さがうかがえます。「教育県」長野というのも背景にあるかも知れませんね。大河ドラマ化はなかなかハードルが高いと思われますが……。

今回の復刊は全五巻セットでの販売のみ。古書店のサイト等では分売も行われています。光太郎が登場するのは第二巻(第二部)。あるいは各地の公共図書館さんなどにも収蔵されているのではないでしょうか。

ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

年末年始の頃から一月一ぱいまるで筆をとらずに居りました。昨年同期に肋間神経痛を起したので今年は用心した次第でございます。


昭和27年(1952)2月1日 野末亀治宛書簡より 光太郎70歳

肋間神経痛は宿痾の肺結核によるもの。前年にはそれがひどく、農作業もほとんど放棄してしまいました。「一月一ぱいまるで筆をとらず」ということで、前月の書簡は3通しか確認出来ていませんし、毎年恒例だった書き初めも行わなかったようです。

養生に努めた結果、痛みはほぼ無くなりました。しかし結核自体が寛解するべくもなく、一時的なものだったようです。ただ、症状の改善は彫刻再開を決意する後押しにはなりました。

本日、3月9日号が発売ですので先週号の扱いになってしまいますが、雑誌『サンデー毎日』さんの3月2日号。光太郎の父・光雲の名が。

『サンデー毎日』が見た昭和100年」という連載の第3回で、サブタイトルが「1928(昭和3)年 97年前、本誌が取材した「私の健康長寿法」 渋沢栄一、東郷平八郎、高村光雲、高橋是清、下田歌子…」。同誌の昭和3年(1928)2月5日号に載った「私の健康長寿法」という記事が元ネタです。

「シリーズには経済人や政治家、軍人など各界の約20人が登場する」というわけで、当時の各界著名人の体験談等から、光雲や渋沢栄一、東郷平八郎などの「健康法」を抜粋紹介しています。
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光雲に関しては「45~46歳で禁酒。パン食(1食にパン2切れと牛乳1合、有り合わせの惣菜少量)の実行。一度も人といさかいをしたことがない」。
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「あれっ? これ、読んだぞ、っていうか、「あれ」じゃん」。「あれ」というのは、当会で機関誌的に年二回発行している冊子『光太郎資料』の第58集(令和4年=2022)に載せた光雲談話「たゞ仕事に没頭」。

当該部分は以下の通り。

 暴飲暴食から反省
 若い頃は、盛んに暴飲、暴食をした。殊に蕎麦が最も好物ではあつたが、一体に好き嫌いのない方で何でも人に負けぬくらゐ食べた。ちよつとしても鰻丼(うなぎどんぶり)の二杯位、天麩羅蕎麦で三四杯、もりならば五六杯はケロリとやつてのけた。
 酒も随分飲んだ。いくら飲んでも平気なのだから始末が悪い。
 斯様に無茶な暴飲暴食をやつてきた私が、しかし何等の障害も受けず、極めて健康にやつてこられたことは、全く親が無病に私を生んで呉れたからだ……と、有難く思はずにはゐられなかつた。が若い頃は兎も角として、だんだん年をとつてくるのに、さうべらぼうな大食や深酒などしてゐたんでは……と、だんだんそんな考へもおきてきた。と、ちようど友人に医者があつて、彼も特に酒は節(せつ)しろといつて呉れた。こゝで遂に、私は決心をした。しかし私の性分として、節酒なんてことは出来さうもない。否(いな)、盃を手にしたらもう駄目にきまつてゐる
――これはどうしても絶対の禁酒でなければならない。そこで私は完全に禁酒を断行した。四十五六の時である。以来、ずつとこの禁を破らずにゐる。

 肥満退治にパン食を
 また、六十の峠を越してから、私は無闇と肥満してきた。勿論、労働をする訳ではない私のことだから全くの脂肪(あぶら)太りといふべきで、只もうブヨブヨと重たくなるばかり、身体(からだ)を屈することはもとより、歩くにもだんだん困難を感じるやうになつて、ほとほとわが身の肥満が荷厄介になつてきた。こりや何とかせずばなるまい! と思はれてきた。
 で、いろいろと薬も飲んでみた、が何の效果もない。さて胃を損じたのか? 或は癌でも出来たのぢやあるまいか? と思はれるやうになつた。時々はシクシクと痛みさへするのである。考へざるを得ない。
 何か一ツ自分で適当な方法を講じねばならない、と決心した。
 ふと気になり出したのは米食である――年をとつてから三度々々の米の飯はむしろ過ぎやしないか? といふことだつた。思ひ立つと矢も楯もたまらぬ性分の私は、かうして米飯をぷツつり止(や)めて、パン食とした。それも一日に僅(わずか)半斤――半斤のパンのあたまをはねて六ツに截(き)りその恰度切餅大のものを一食にたつた二きれと牛乳を一合、それに何でも有合せの惣菜少量――といふのを、常食とすることにきめた。
 この食事は最初頗る物足らなく、また変梃(へんてこ)であるに違ひなかつたが、私は忍び忍んで一年余りを続けてやめなかつた で、その結果は? といへば、果して良好だつた。――体量は一躍二貫三四百も減つて了ひ、身体(からだ)の調子は極めて楽になつてきた。どうも脂肪のため圧迫され勝ちに思はれて不快だつた心臓の調子も、めつきりよくなつてきた。
 私は大いに喜んだ。全く少量なパン食の結果に外ならなかつたのだ。それから以来、私はずつとパン食を続けて今日におよんでゐる。
 最初十八貫もあつた私の体重は(身長は小粒の方だから)その後ずつと減つて、今では先づ十五貫位である。かうして気分はいつも晴々(はればれ)とするやうになつた。物事をおつくうに思ふやうになこともすつかりなくなつてしまつた。今では却つて人手などをわづらわすことは面倒になつてきた。外をあるくにしてもつツつツと平気で歩いてのける。元気は正に百倍するといつた良結果を来(きた)したのである。

 精神に無理をせぬこと
 が、長命の秘訣は決して食物のみにあるものぢやない、と私は思ふ。勿論、人の性質は百人百様であるからさう一概にもいへまいが、つまらぬことに屈託しないといふのが何としても一ばん肝要な点だらうと思ふ。全て物事は自然に、無理をせずに、うちわうちわにと心がけ、いつも心を安く持ちつゞけることが、必要だらうと考へる。 いつてみれば、経済のことにしても、矢鱈もがき廻つて沢山もうけ、そしてまた矢鱈とつかふ――そんなことも結局はつまらぬ事ではあるまいか? それよりも、足るだけあれば……それでもういゝではないか! 何も無理に、もがきあせる要はあるまい。何事にも足ることを知る生活、無理をせぬ生活、それが一ばん健康には好もしいと思つてゐる。
 私は至つて呑気な性分である。物にかまはぬ性質である。だから、人に対する義理などは当然忘れないやうにするが、よくあるやうに人の言動などに一々気を懸けるやうなことは一切したことがない。要するにつまらないことだ。で、勢ひ、私は生れてこの方、いまだ一ぺんとして人といさかひをしたやうなことはない、たゞ、こつちがこらへてさへゐれば、何事もなだらかに流れ去つて了ふのだ。つまり激情を発せぬやうにすることが又大きな長寿法の一つであると考へる。

引用元は『サンデー毎日』ではなく、昭和3年(1928)11月8日、文海書院発行、田中正雄著『回春長寿 生の喜び』です。同書は長寿を実現するための健康法等の紹介が中心ですが、巻末附録「不老長寿実験談」に、この時点で古稀を過ぎていた各界著名人の体験談等が掲載されています。光雲(数え77歳)以外には、東郷平八郎(同81歳)、渋沢栄一(同89歳)、高橋是清(同75歳)、下田歌子(同75歳)ら13名でした。
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この部分は同年の『サンデー毎日』に載ったものの再録だったのでしょう。

それにしても、光雲といえばコッテコテの江戸っ子ですので、「パン食」というのには意表を突かれました。また、江戸っ子ときたら喧嘩っ早いものですが「いまだ一ぺんとして人といさかひをしたやうなことはない」。これも実に意外でした。当方、江戸っ子ではありませんが喧嘩っ早いので(笑)。

で、光雲、亡くなったのは昭和9年(1934)、数え83歳の時でした。結局は胃ガンでしたが、現代の平均寿命を上回っていますし、当時としては確かに「長寿」の部類に入りました。数え74で歿した息子の光太郎、この点でも父を超えられなかったことになりますね。

長生きすればいいというものでもありません(政界などには「老害」をまき散らすばかりの迷惑な輩の何と多いことか)が、渋沢翁曰く「責任のある職務に従事して、そのために否応なしに肉体を動かさねばならぬ様に、自ら仕向けねばならぬ」「この体の続く限りは活動を継続する覚悟である」。なるほど、ですね。

【折々のことば・光太郎】

おハガキにある小生の古稀といふやうな事は一切おやめ下さい。還暦の古稀の喜の字のといふうるさい風習は小生好みません。 七十歳を古稀とは今日滑稽です。

昭和27年(1952)1月24日 宮崎稔宛書簡より 光太郎70歳

「古稀」の語の由来は唐代の杜甫の詩にある「人生七十、古来稀なり」。たしかに戦後のこの時期ともなるとあてはまりませんね。

「春が来た」といいたいところですが、まだまだ今日明日あたりは寒波が居座るようで……。

先日、岐阜県白川町さんの広報誌『広報しらかわ』今月号に光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)が取り上げられていたのをご紹介しましたが、同様に北海道新篠津村さんの『広報新しのつ』さん今月号にも「冬が来た」が取り上げられていました。

UP DATE 地域おこし協力隊「冬が来た」

003 私の好きな高村光太郎さんの「冬が来た」という詩を紹介します。

  冬が来た
 
 きつぱりと冬が来た
 八つ手の白い花も消え
 公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

 きりきりともみ込むやうな冬が来た
 人にいやがられる冬
 草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬
  が来た
 
 冬よ
 僕に来い、僕に来い
 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
 しみ透れ、つきぬけ
 火事を出せ、雪で埋めろ
 刃物のやうな冬が来た

 この詩は、冬の厳しさを人生の困難に例えているように感じられます。しかし、きっぱりとそれを潔く受け入れて迎えようとする強い意志が感じられるように思います。私達しんしのつの冬もまた、様々な厳しさがありますが、この激しい雪も、雪溶けの豊かな恵み深い水に繋がって行くことを思い起こし、毎日黙々と雪かきに向かいたいと思います。
 さて、今年も冬の最大イベント「しんしのつ天灯(ランタン)祭り」が2月22日(土)に開催されます。初めての試みとして『冬の花火』を打ち上げます。
 春は『桜』、秋は『紅葉』、冬は『雪』、そして夏が『花火』。四季を彩る風物詩の中で、唯一つ自然が織りなすものでないのが『花火』。人が作り演出しなければならないのが花火です。これを冬の風物詩『雪』の中で『天灯』とともに願いを込めて打ち上げます。
 しんしのつの冬は、毎日しんしんと雪が降り続きますが、村の人も村外の人も一緒にランタン祭りを楽しみましょう!

今月の担当:早瀬 慶四郎(農商工連携推進員)


新篠津村さんというのが北海道のどの辺なのか全く存じませんでしたが(すみません)、調べたところ、札幌の北東、岩見沢の西、日本海側ですので豪雪地帯なのでしょう。
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温暖な房総で「寒い、寒い」と言っているのが申し訳なく存じます。

「冬が来た」ついでにもう1件。

NHK Eテレさんで今月18日の未明に「NHK高校講座 言語文化 冬が来た(高村光太郎)」の放映がありました。てっきり再放送だと思っていたのですが、初回放映だったようで、放映後になってNHKさんのサイトで動画が公開されました。
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ナビゲーターはナレーター・声優の木本景子さん、解説で中央大学杉並高等学校さん教諭の齋藤祐氏、詩朗読がフリーアナウンサー・高山久美子さん。
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なかなかよくできた作りでした。
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特に「冬」と「僕」は一体化してしまっている、といったくだり。
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なるほど。

ぜひNHKさんのサイトからご覧下さい。

それにつけてもやはり「春が来た」と早く言いたいものです(笑)。

【折々のことば・光太郎】

東京も寒くなつたとききます。こちらも厳寒となりました。


昭和27年(1952)1月7日 草野心平宛書簡より 光太郎70歳

昭和27年(1952)の年が明け、光太郎、数え70歳となりました。以前から「70になったら本当の仕事を始める」と宣言していた通り、この年の秋には花巻郊外旧太田村での蟄居生活を切り上げ、上京。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作にかかります。その話が舞い込むのは春になってからで、この時点では未だ伝えられていませんでした。

福島から講演会情報です。当会の祖・草野心平がメインですが、おそらく光太郎にも触れていただけるであろうと思われますので……。

文芸講演会「詩人・草野心平─いかに心平が心平になったか」

期 日 : 2025年3月8日(土)
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

講 師 : 澤正宏氏(福島大学名誉教授)、和合亮一氏(詩人)

草野心平と同郷の福島県で詩を教える澤氏と、詩を書く和合氏の師弟コンビが、草野心平の詩について語ります。

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講師お二人のうち、澤氏は智恵子の故郷・二本松市の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さんにいろいろご協力下さり、同会主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさいました。他にもNHKカルチャーさんでの講座、様々な御著書御編著等で心平や光太郎について取り上げて下さっています。

和合氏はつい先日も御著書を紹介させていただきました。福島大学さんのご出身ということで、その頃に澤氏の薫陶を受けられたのでしょう。

講演テーマが「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」。光太郎をして「詩人とは特権ではない。不可避である。詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。」と評せしめた心平ですので、光太郎との交流が生じなかったとしても不可逆的に詩人となっていたと思われますが、光太郎と親しく交わったことでより一層、花開いたのではないかと思われます。そういったお話になることを期待いたしております。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

その後の都合を見てゐましたが、どうもまだ下山出来さうもありません。やりかけの仕事がまだ片付きません。今年は山も異常に温く、畑の青菜が育ちお雑煮に使へさうです。阿部さんにもらつたお餅もあり、元日には先生御一家をしのんで杯をあげませう。

昭和26年(1951)12月28日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎69歳

正月をわが宅で過ごされませんか、という総合花巻病院長・佐藤隆房の誘いに対する断りの返答です。

結局、こうして昭和26年(1951)が暮れて行きました。

日本芸術院さんの新会員15人が発表されました。

NHKさん報道。

日本芸術院 新しい会員に倍賞千恵子さんなど15人

 芸術の分野で顕著な功績のある人を集めた日本芸術院の新しい会員に、俳優の倍賞千恵子さんなど15人が選ばれることになりました。
 「日本芸術院」は功績が顕著な芸術家を優遇するための国の特別機関で、外部の有識者を交えた委員会や会員の投票を経て、新たに15人が会員に選ばれました。
 「絵画」の分野からは版画家の中林忠良さん(87)。「工芸」からは、工芸家の大樋年雄さん(66)、本名、奈良年夫さん。「建築・デザイン」からは、建築家の隈研吾さん(70)と建築家の坂茂さん(67)。「写真・映像」からは、写真家の十文字美信(77)さんと、写真家の畠山直哉さん(66)。
 「小説・戯曲」からは、小説家の多和田葉子さん(64)。「詩歌」からは、詩人の藤井貞和さん(82)。
 「歌舞伎」からは、俳優の中村魁春さん(77)、本名、平野豊栄さん。「文楽」からは、人形遣いの桐竹勘十郎さん(72)、本名、宮永豊実さん。「洋楽」からは、指揮者の尾高忠明さん(77)。「演劇」からは、演出家で劇作家の野田秀樹さん(69)と、俳優の橋爪功さん(83)。「映画」からは、アニメーション監督の富野由悠季さん(83)、本名、富野喜幸さんと俳優の倍賞千恵子さん(83)、本名、小六千惠子さんです。
 日本芸術院の新しい会員は、3月1日に発令されます。

なかなか錚々たるメンバーですね。

このうちのお三方が、軽く光太郎智恵子に関わります。

まず文楽の桐竹勘十郎氏。
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令和3年(2021)にいわゆる人間国宝に指定された際にもお伝えしましたが、NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」に準レギュラーとして時折出演され、文学作品の一節等を人形を遣いながら演じられています。光太郎詩も複数回、氏によって演じられました。
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続いて野田秀樹氏。
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智恵子を主人公とした演劇「売り言葉」。元々は大竹しのぶさんの一人芝居として野田氏が作られ、平成14年(2002)に南青山スパイラルホールさんを会場に初演されました。翌年、野田氏の『二十一世紀最初の戯曲集』(新潮社)に収められ、その後プロアマ問わずさまざまなところで上演されています。来月も兵庫県での公演があります。
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最後に建築家の坂茂氏。
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昭和6年(1931)、紀行文執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町のJR石巻線女川駅は、平成23年(2011)3.11の津波で全壊、同27年(2015)、新しい駅舎が完成しましたが、こちらの設計が坂氏でした。
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屋根は海鳥が翼を拡げた形。全国的にも珍しい温泉入浴施設を伴う駅舎で、当方、毎年女川滞在の際にはここで入浴しています。

ところで芸術院というと、我らが光太郎も晩年の昭和22年(1947)と同28年(1953)に会員に推挙されましたが、断っています(最初の推挙の際は前身の帝国芸術院)。

2度目の辞退の際の光太郎談話を数年前に見つけました。12月22日『毎日新聞』東京版に出た「芸術院会員を拒否 “人選に不明朗” 高村光太郎氏が批判」という記事に附されたものです。

芸術院会員とは人格、識見、技量ともわが国で最高の人々がなるべきである。ところが現在の芸術院はその生い立ちが不明朗なため必ずしもそういった人ばかりとはいえない。第二部はともかく第一部(造形美術部門)での初期の人選は民間の美術団体の不平分子のボスたちを黙らせる手段として、芸術院会員というエサを与えてたな上げにしようとした感があり、なかにはそれにふさわしくない人もいる。従って私は現在の芸術院は御破算にして再出発すべきだと思う。また私は彫刻家である。だから第一部門で選ばれるならわかるが、第二部門では不本意だ

さらに従来知られていた雑誌『新潮』に載った「日本芸術院のことについて――アトリエにて1――」中に、次の一節があります。おそらく、ここで言う「新聞」が上記談話を指していると思われます。

世上、新聞などで、辞退の理由として、現今の芸術院会員の人選について不満があるからといふやうに伝へられたが、これは間違で、現在の人事はまづあんなものだらうと思つてゐる。補充会員の選出方法については又別に意見があるが、それには今触れない。又新聞で、私が彫刻家であるのに文学部門から推せんされたのがをかしいといふので辞退したやうにも言はれたが、これは談笑の間に私が早解りするやうに、「それでは親爺におこられるよ」などといつたからであらう。

当時は第一部(造型美術部門)、第二部(文学部門)の二部構成で、光太郎は詩人として第二部会員に推挙されました。それが彫刻を第一の仕事と考えていた光太郎のプライドを刺戟したようですし、戦時中、大量に書き殴った翼賛詩によって多くの前途有為の若者を死地に追いやったという悔恨から、詩での栄誉に服することを潔しとしなかったのではないでしょうか。

芸術院側としては、「辞退」という「事態」(笑)を想定して居らず(現代ではよくあるようですが)、すったもんだがありました。光太郎に「辞退の理由を書面にして提出せよ」。それに対し光太郎は「そっちが勝手に推薦したのに何で俺が釈明しなきゃいかんのだ」。もっともですね。

ちなみに横山大観は戦前の帝国芸術院時代に会員となりましたが、戦後の昭和25年(1950)になって会員資格を返上しました。これはまたちょっと違うケースですね。

閑話休題、今回の新会員の皆々様方の、今後のさらなるご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

東京は相変らず歳末でごたごたしてゐる事でせう。山はほんにと静かです。


昭和26年(1951)12月24日椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、厳冬期ともなると訪れる人も少なくなり、煩わしさからは解放されました。

2月も下旬となりましたので、そろそろ3月のイベントも少しずつご紹介していきます。

本日は、新潟県から講演会情報。

講演会「八一と高村光太郎」

期 日 : 2025年3月2日(日)
会 場 : 新潟日報メディアシップ2F 日報ホール 新潟市中央区万代3丁目1-1
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 500円(入館料込み)

 會津八一記念館では、開催中の企画展「八一を知る 八一がわかるー独往の書の秘密ー」の関連イベントとして、文芸講演会と篆刻体験講座を開催いたします。
 3月2日の講演会は、岐阜女子大学教授の住川英明先生から、自詠の歌を書で表現した八一のかな書を中心に、八一と同時代の彫刻家・詩人の高村光太郎の書を比較しながら、文学者の書の魅力に迫ります。
 3月8日の篆刻講座は、新潟県内の高校の書道担当教諭を講師に、参加者から自分の名前の1文字を実際に石に彫ってもらう体験講座です。
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講師の住川教授、ご自身も書家であらせられ、光太郎の書にも深い関心をお持ちで、光太郎の大幅をお持ちです。連翹忌の集いにも複数回ご参加下さいましたし、令和3年(2021)に当会として協力させていただいた富山県水墨美術館さんでの「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の図録に「光太郎書とその変遷」という玉稿を賜りました。その際には鳥取大学さんにお務めでしたが、今回は肩書きが「岐阜女子大学教授」。転勤なさっていたとは存じませんでした。

新潟市會津八一記念館さんで開催中の企画展「八一を知る・八一がわかる 独往の書の秘密」の関連行事という位置づけです。企画展自体は昨年12月から始まっています。
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006光太郎と2歳年長の八一、深い結びつきはなかったようですが、光太郎は八一から自著歌集『鹿鳴集』(昭和15年=1940)を贈られたりといった繋がりはありました。また、八一に師事した吉野秀雄と光太郎はけっこう深い交流がありました。

八一は短歌、光太郎は彫刻と、それぞれに本業を持ちながら「書」の世界にも爪痕を残した同時代の二人ということで、會津八一記念館さんでは平成19年(2007)に「會津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」と題した企画展も開催して下さいました。その際の関連行事の講演は、当会顧問であらせられた北川太一先生。新潟まで馳せ参じて聴講いたしました。もう20年近く経つか、という感じです。

さて、講演会「八一と高村光太郎」、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

リプトン茶などよく入手出来るものと驚きます。しかも青紙のリプトンは珍重です。パルモリーヴのシヤンプウなど思ひがけない限りでした。国旗まで在中、おかげで此の正月には原稿紙の国旗を出さずにすみます。

昭和26年(1951)12月19日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

お歳暮的にいろいろな品を送ってもらった礼状の一節です。リプトンは言わずと知れた紅茶のブランド。「青紙」は高いグレードの品だったのでしょうか。パーモリーブのシャンプーも現在でも売られています。ほぼ禿頭となっていた光太郎には必要なかったようにも思われますが(笑)。

「原稿紙の国旗」は前年に発表された詩「この年」に関わるでしょう。

   この年医は①
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。

原稿用紙の日の丸自体は、遡って昭和22年(1947)から使っていましたが、それではあんまりだということで、椛沢がちゃんとした布の旗を贈ったのでしょう。

昨年7月に亡くなった作曲家・湯浅譲二氏の「お別れの会」が一昨日、サントリーホールさんで開催されました。

地方紙『福島民報』さん。

福島県郡山市出身の作曲家、湯浅譲二さんの功績しのぶ 「あれが阿多多羅山」など流れる 東京都内でお別れの会

 昨年7月、94歳で死去した福島県郡山市出身の作曲家で文化功労者の湯浅譲二さんのお別れの会は18日、東京都港区のサントリーホールで開かれた。
 音楽関係者ら約200人が参列した。お別れの言葉で、品川萬里郡山市長は「古里を思い、活動を続けていた。湯浅さんの功績と作品は多くの人に受け継がれる」と述べた。作曲家の池辺晋一郎さん、チェリストの堤剛さん、音楽学者の船山隆さん、作曲家の細川俊夫さん、作曲家の伊藤弘之さん、作曲家の藤枝守さん、作曲家のロジャー・レイノルズさんも湯浅さんとの思い出を振り返った。
 箏演奏家の吉村七重さん、ピアニストの高橋アキさんが追悼の演奏をささげた。遺族を代表して湯浅さんの長女玲奈さんが「作曲家冥利(みょうり)に尽きる人生だった」とあいさつした。湯浅さんが作曲した「あれが阿多多羅山」などが流れる中、参列者が献花した。
 湯浅さんは旧制安積中(現安積高)卒。慶応大医学部を中退し、詩人の滝口修造さんが主宰した前衛芸術家グループ「実験工房」で活動した。幅広い作品を手がけ、優れた邦人作曲家のオーケストラ作品を顕彰する尾高賞を5回受けるなど、数々の栄誉を手にした。国際現代音楽協会名誉会員、郡山市名誉市民。
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同じく『福島民友』さん。

郡山出身の作曲家・湯浅譲二さんの功績しのぶ 都内でお別れの会

 郡山市出身の作曲家で、昨年7月に94歳で死去した湯浅譲二さんのお別れの会が18日、東京都港区のサントリーホールで開かれた。音楽関係者ら約190人が参列し、日本の現代音楽の発展に貢献した功績をしのんだ。
 発起人で作曲家の池辺晋一郎さんや郡山市の品川萬里市長らがあいさつした。品川市長は「湯浅先生は常にふるさとを気にかけてくださった。市民を代表し、先生の作品や思いを末永く継承していくことをお誓いいたします」と湯浅さんの在りし日を振り返り、冥福を祈った。湯浅さんの作曲した「あれが阿多多羅(あだたら)山」が流れる中、参列者は遺影が飾られた祭壇に献花した。
 湯浅さんは国内外で活躍し、オーケストラや室内楽、合唱、電子音楽などを幅広く作曲。テープやコンピューターなど最新技術を駆使するとともに、グラフを用いた独自の作曲法を生んだ。1997年に紫綬褒章、99年に恩賜賞・日本芸術院賞、2007年に旭日小綬章、14年に文化功労者。17年に郡山市名誉市民に選ばれた。
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「お別れの会」で流された「あれが阿多多羅山」は、サブタイトルが「バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による」。「智恵子抄」所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)をテキストに使った独唱歌曲です。昨年11月に開催された湯浅氏の故郷・福島県郡山市の市制施行100周年記念式典音楽祭でもオーケストラ伴奏で演奏されました。

他にも湯浅氏には光太郎智恵子がらみの作品。作曲のみならず氏が作詞の補作も手がけられ、平成25年(2013)に制定された「二本松市民の歌」では3番までの各番歌詞の末尾が「ほんとの空が ここにある」。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からのインスパイアですね。この曲はご当地体操「ほんとの空体操」の伴奏曲でもあります。

また、智恵子にも触れられた映画「原始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯」(平成13年=2001)の音楽も、湯浅氏が担当されていました。
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当方、DVDを所持しております。
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ちなみに氏が亡くなったのは昨年7月ですが、直後に「お別れの会」が計画され始めたようで、発起人には、こちらも昨年亡くなった谷川俊太郎氏のお名前も。お二人のコラボによる楽曲も多く、岩手県や福島県の学校さんの校歌も多数。いろいろと人の縁の不思議さに感じ入っております。

氏の作品(特に「あれが阿多多羅山」、「二本松市民の歌」など)が今後とも愛され続けていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

小生この頃荒くなつてゐます、小生の内の猛獣性の活躍してゐる證拠です、人間拒否を超えて、

昭和26年(1951)12月11日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

青年期の終わり頃から壮年期にかけ、自らの内部に巣喰う荒ぶる魂を「猛獣」に仮託した連作詩「猛獣篇」が書かれましたが、数え70歳を目前にしたこの時期、再び「猛獣」の胎動を体内に感じています。翌年には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作の話が舞い込み、再び粘土を手にするわけですが、そうした予感があったのかも知れません。

刊行から3ヶ月近く経ってしまい、新刊とは言い難いのですが……。

エッセイ三昧 

発行日 : 2024年11月25日
著者等 : 和合亮一
版 元 : 田畑書店
定 価 : 2,750円(税込)

東日本大震災直後の福島からTwitterで詩を発信し続け、その詩は世界各国で翻訳されて、フランスでは第一回ニュンク・レビュー・ポエトリー賞を受賞。世界が認める詩人・和合亮一はまた、福島の高校で教鞭をとる国語教師でもある。毎朝、通勤電車に揺られて学校に通う日々、巣立っていく息子への思い……ごく普通の生活から〝詩〟が生まれていく過程を、直截に、ユーモアを交えて綴った、ほぼ10年にわたるエッセイの集大成! 特に中原中也、三好達治、草野心平から谷川俊太郎など19人の詩人について、その詩の本質を平易に、また柔らかく語った「ルミナスラインをあなたへ」は圧巻。

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目次
 朝の文箱(南日本新聞連載)12篇
  手と手に/父心/床屋で祖父に励まされる/日曜日には襟を正して 他
 詩ノ交差点アリマス(河北新報連載)72篇
  詩を書いている和合です/講演しながら耳を澄ませ 他
 震災からの日々(各紙誌掲載)12篇
  骨が記憶する揺れ/十年目の春/あのときの子どもたち 他
 詩人のあぐら(平凡社「こころ」連載)8篇
  千の天使の三点シュート/五十二ニシテビラヲ配ル 他
 通勤の車窓から(各紙誌掲載)7篇
  竹、竹、竹が生え。/震災と賢治/月に叫んじゃえ 他
 ルミナスラインをあなたに(雑誌「一個人」連載)22篇
  長田弘/茨木のり子/いとう りおな/関根弘/菊田心/吉野弘/金子みすず/高橋順子
  高村光太郎/三好達治/室生犀星 1/室生犀星 2/草野心平 1/草野心平 2/大岡信
  大和田千聖/谷川俊太郎/中原中也 1/中原中也 2/田村隆一/野口武久/石垣りん


福島市ご在住の詩人・和合亮一氏が新聞・雑誌等に連載されたエッセイの集成です。先日上京した折、日本橋の丸善さんにフラッと立ち寄り、発見しました。

雑誌『一個人』に連載されていた「ルミナスラインをあなたに」中に光太郎の項がありました。ちなみに「ルミナスライン」とは、和合氏曰く「詩の中に、あなたにとって輝くようなフレーズが見つかるといい。それを「ルミナスライン」(光る詩の行)と呼んでいきたい」。そこで、古今の詩人(職業的詩人以外も含む)の作品を毎回一篇ずつ取り上げ、わかりやすく解説。光太郎詩は「冬が来た」(大正2年=1913)でした。他に当会の祖・草野心平の項でも光太郎に言及されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

写真お送り下さつてありがたく御礼申上げます、一九五一年のよい記念になりますし新生活発足の日の貴下の撮影といふ事に愉快な意味を感じます、

昭和26年(1951)12月6日 佐久間晟宛書簡より 光太郎69歳

佐久間佐久間晟氏は宮城県歌人協会会長などを歴任された歌人。光太郎と交流のあった前田夕暮門下でした。奥さまでやはり歌人のすゑ子氏とこの年にご結婚、新婚旅行の中で花巻郊外旧太田村に逼塞していた光太郎の山小屋を訪ねられました。

平成17年(2005)、お二人が同人となられていた歌誌『地中海』に、光太郎訪問記等がすゑ子夫人のご執筆で掲載され、その後、当方、仙台でご夫妻と面会、詳しくお話を伺うことができまして、その際の聞き書きを『高村光太郎研究』第28号(平成19年=2007、高村光太郎研究会)に寄稿いたしました。

右のお二人が佐久間夫妻、左端は夫妻が泊まられた花巻温泉松雲閣の仲居さん・八重樫マサ。夫妻を山小屋に案内したそうです。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんから販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分、メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから画像が届きました。
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今月のメニューは「ぶりの照り焼き」「肉じゃが」「ハムサンド」「ちらし寿司」「キャベツとベーコンのサラダ」「煮豆」「りんごゼリーと干し柿」。まだまだ寒い日が続きますが、彩り的に春を感じさせるようなビジュアルですね。

毎回、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、実際に光太郎が作ったり、人から貰ったりした料理、それらに使われていた食材などを参考に組み立てられています。

メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさん、今日は花巻市内で光太郎がらみの出前講座講師だそうです。また、おそらく来月から、市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんでランチをふるまうこうたろうカフェも再開されるようです。

今後ともますますのご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

珍らしいクルミを久しぶりに見てうれしくなりました、ロンドンに居た人は皆知つてゐるでせうが、クリスマス前夜に、ミツスルツウ(やどり木)の枝の下で、此のクルミをクラツカアで割つてたべる家族的たのしさは格別のものです、むろんデコレーシヨン ケーキにも此のクルミを入れます、今年の廿四日夜は山でもたのしいです、


昭和26年(1951)12月11日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

光太郎、実際にもらったクルミを使ったケーキを自作しました。生地やクリームなどもなんとかしたのでしょう。しかし、食べかけのケーキを山小屋内に置いていたところ、寝ている間にキツネかタヌキか野犬かに食べられてしまったそうです(笑)。

当会として最大のイベント、高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、忌日である4月2日(水)、下記の通り実行いたします。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

                                     

日 時  令和7年4月2日(水) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線・京浜東北線 有楽町駅 日比谷口
     地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅 A14 出口
     地下鉄日比谷線・丸ノ内線 霞ヶ関駅 B2 / B1A / B3A 出口
松本楼地図
会 費  12,000円(含食事代金)

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(土)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替 郵便局備え付けの同封の払込取扱票にて郵便局よりお願いいたします。
       ATM、窓口にて取り扱い可能です。
       申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。

       ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

 ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(日)までにご連絡頂ければ、
 後日、返金いたします。

 参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
 事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

 複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
 参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
 4月1日(火) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
 残部は欠席の方等にお送りいたします。
 公序良俗に反するものでなければ特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
 当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
 書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

 当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いをお願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。当方、午後3時頃には会場入りしております。

当日備考
    着座ビュッフェ形式にて執り行います。ドレスコードは特に設けておりません。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子にインスパイアされた美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

小屋のまはりはもう一尺ほどつもつた雪で美しい冬景色になり、毎朝小鳥が訪れて来ます。

昭和26年(1951)11月30日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で過ごす最後の冬が始まりました。

昨日は東京都中野区で、講演会「中西利雄 人と作品」を拝聴致しました。中西利雄は明治33年(1900)生まれの水彩画家。昭和23年(1948)、自身のため、建築家の山口文象に設計を依頼し、中野に建てたアトリエの竣工間際に急逝しました。せっかく建てられたアトリエは、遺族の手によって貸しアトリエとして運用され、昭和27年(1952)10月から光太郎もここを借り、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をここで制作、昭和31年(1956)にここで歿しました。翌年の第一回連翹忌もここで執り行われました。

そのアトリエの元々の施主だった、中西利雄をメインに据えた講演会でした。会場は中野区産業振興センターさん。
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講師は茨城県近代美術館首席学芸員・山口和子氏。
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定員60名ということで聴講者を募ったのですが、飛び込みで来られた方も多く、また、我々スタッフは別枠でしたので、キャパ100ほどの会場がほぼ満席でした。
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昨年11月に近くのなかのZEROさんで開催した「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事として行った講演会のうち、近代建築史家・内田青蔵氏と建築家の伊郷吉信氏による「水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」の際にもそうでしたが、当方、中西や我が国水彩画の歴史についてはそれほど詳しくなく、「なるほど、そうだったのか」の連続でした。

まず、中西以前。短命に終わった明治期の工部美術学校、その後の東京美術学校などでの水彩画の取り組み。
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元々の出発点が、油彩を描くための下書き的に水彩、さらに東京美術学校ではその過程もすっ飛ばして木炭デッサンからいきなり油彩という手順が主流となり、水彩画があまり定着しなかったそうで、きちんとした作品としての水彩画を描く画家が少なかったというようなお話。

その流れもあって、現代でも水彩は油彩より一段下に見られ続けているわけですが、考えてみれば素材や手法によって作品の価値が判断されるというのもおかしな話ではありますね。油彩だろうが水彩だろうが、いいものはいいわけですし、油彩だからというだけでありがたがるというのも変な話です。

そうした中で、水彩でもいいものが描けると頑張ったのが、中西ら。
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特に中西は不透明水彩(グヮッシュ)を活用するなどし、「水彩画の革新者」と称されるようになったそうで。その中西のパリ留学中の話、公設展への反撥から新制作派を旗揚げしたいきさつなども、非常に興味深い内容でした。
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そして、今日最初に書いた、中西歿後に光太郎がアトリエを借りた件についても。

当方も幹事となり、アトリエの保存運動を展開しておりますが、元々の施主・中西についてももっともっとその功績が世に知られてほしいものだと、今さらながらに感じさせられました。

皆様方に置かれましても、改めましてご協力いただけますようお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今年の初雪がやつて来て二尺近くつもりました。まだ降つてゐます。雪の中から白菜やキヤベツを掘り出して囲ふやら穴蔵の始末で大忙がしです。


昭和26年(1951)11月26日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。この年は雪の降り始めが早く、11月中に既に大雪。ただ、12月に入ると逆にあまり降雪は多くなかったようです。

1年後の冬は東京中野で迎えることになるとは、この時点の光太郎には思いもよらなかったでしょう。

現代アートの個展、始まってしまっていますが、会期が長いのでご寛恕の程。
期 日 : 2025年2月1日(土)~3月29日(土)
会 場 : MAKI Gallery天王洲 東京都品川区東品川1-33-10 
時 間 : 11:30~19:00
休 館 : 日曜・月曜
料 金 : 無料

MAKI Galleryではこのたび、日本人アーティスト清川あさみによる個展「神話の糸」を天王洲ギャラリースペースにて開催いたします。本展は2024年夏に鹿児島県・霧島アートの森にて開催された清川の特別企画展「ミスティック・ウィーヴ:神話を縫う」を引き継ぎながら、過去から未来へと続く人類の物語を自然と都市、伝統とテクノロジーの交差点で紡ぎ直す試みとなります。

清川のアーティストとしての活動は、個人の内面や感情を描いた初期の作品から、社会全体や地球規模のテーマを扱う現在の作品へと大きな変化を遂げてきました。しかし、その根底にある「人間の本質に問いを投げかける」という姿勢は一貫しています。自然と都市、伝統とテクノロジー、個人と社会といったテーマに対して、これまでにない視点で考えるきっかけを生み出したいと強く願う清川。そんな作家が神話の世界に鑑賞者を誘い、新たな時代の価値観をともに探ろうとする本展を、どうぞ会場にてご高覧ください。
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平成29年(2017)に智恵子の故郷・福島二本松の智恵子の生家も会場となった現代アートの「重陽の芸術祭2017」で展示された、巨大な刺繍作品「女である故に」がこちらでも展示されています。
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平成29年(2017)、智恵子生家での展示風景はこちら。
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タイトルの「女である故に」は、大正5年(1916)5月、『婦人週報』に掲載された智恵子のアンケート回答が出典です。アンケートの質問は「女なる事を感謝する点」。

 私に恋愛生活(現在)のが始まつてから、始めてさういふ感じを意識しました。これは一つの覚醒です。其の他(た)にはまだ私には経験がありません。「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふよりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。

光太郎との結婚披露が終わって1年半ほどの時期のものです。

この時期、智恵子が本当にそう考えていたのか、あるいは「こうあるべき」と自分に言い聞かせていたのか、後の大いなる悲劇に思いを馳せると、何とも難しいところです。

さて、「Mythic Threads:神話の糸」、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

宮崎さんの件については小生不賛成なのですが、まづ黙認することにして、中央公論社が出すならば当然「選集」出版済の後であるべきでせう。御考を願ひます。書名も「愛情の手紙」などは低能です。


昭和26年(1951)11月17日 松下英麿宛書簡より 光太郎69歳

松下は中央公論社の編集者。「宮崎さんの件」は、宮崎の編集による光太郎書簡集『みちのくの手紙』(昭和28年=1953)に関わります。

宮崎は昭和22年(1947)の光太郎歌集『白斧』にしてもそうですが、光太郎が拒否したにもかかわらず、光太郎文筆作品集の出版を強行することがありました。

宮崎は智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚し、光太郎とは姻戚ですし、経済的に豊かでないことをわかっている光太郎、あまり強いことは言えませんでした。
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3番組ご紹介します。

まず再放送。

にほんごであそぼ「喜び」

地上波NHK Eテレ 2025年2月15日(土) 07:00~07:10

書道で学ぶにほんご(青柳美扇)・立体紙切り(辻笙)・ぐうたらちんたら/喜び、朗読(高杉真宙)/「智恵子抄 深夜の雪」高村光太郎、漢字アニメ/喜、偉人とダンス/喜びとは苦悩の大木に実る果実である(ヴィクトル・ユーゴー)、うた「ほのぼのよき」

【出演】南野巴那 高杉真宙 青柳美扇 辻笙 世田一恵 中村彩玖 川原瑛都 川田秋妃

2月10日(月)に初回放映があり、昨日も再放送がありましたが、また明朝にオンエアされます。

俳優・高杉真宙さんによる光太郎詩「深夜の雪」朗読が含まれます。
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NHKプラスさんで配信も為されていますが、ぜひご覧下さい。

同じくNHK Eテレさん。こちらも初回放映ではないと思うのですが……。

NHK高校講座 言語文化 冬が来た(高村光太郎)

地上波NHK Eテレ 2025年2月18日(火) 01:40〜02:00

この講座では、優れた日本の古典作品や、漢文・漢詩、明治時代以降に発表された文学的な文章を読み味わいます。また、それぞれの時代の人々の感じ方や考え方を紐解きます。

口語自由詩で描かれる風景を味わいます。今回、取り上げるのは高村光太郎作の口語自由詩「冬が来た」。まずは、リズムを確かめながら音読します。その後、作者は冬をどのようなものとして捉えているか、考えていきます。

【出演】高等学校教諭…齋藤祐,木本景子,【朗読】高山久美子
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こちらは公式サイトに動画が上がっていますが、このとおりの画面で放映されるのかどうか……。

ついでというと何ですが、もう1件。おそらく光太郎らにはからまないと思われますが、一応。

じゅん散歩

地上波テレビ朝日 2025年2月17日(月)~2月21日(金) 09:55〜10:25

「一歩歩けば、そこにひとつの出会いが生まれる…」
三代目散歩人・高田純次が“一歩一会(いっぽいちえ)"をテーマに自由気ままに街を歩きます!

2月17日(月) 三代目散歩人・高田純次が「根津」を散策▽人気の谷根千! 文豪に愛された街▽ボールペンだけで描く繊細アート▽ニラたっぷりの絶品中華そば

2月18日(火) 三代目散歩人・高田純次が「谷中」を散策▽外国人殺到! 名物商店街▽俊足でお馴染み…韋駄天をまつる寺▽空中庭園で人気の芋ブリュレ

2月19日(水) 三代目散歩人・高田純次が「千駄木」を散策▽人気の谷根千! 坂道と路地の街▽種類豊富! 家族で営む豆の専門店▽希少品も…舶来のボタンギャラリー

2月20日(木) 三代目散歩人・高田純次が「日暮里」を散策▽工房が並ぶ“モノづくり"の街▽職人技! ブリキ缶の塗装とは…▽全国土産品のアウトレット店

2月21日(金) 三代目散歩人・高田純次が「谷中」を散策▽人気の谷根千! リノベ施設巡り▽日本画に魅了された米国人芸術家▽街のシンボル“ヒマラヤ杉"とは…

【出演】高田純次
◆テーマ曲:斉藤和義
 『純風』 ◆エンディング曲:山下圭志 『一瞬の光』
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来週1週間が、光太郎のホームタウン・谷根千及び日暮里。「人気の谷根千! 文豪に愛された街」というワードもあり、気になるところです。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

おハガキで御主人御逝去の事を知りました、おくやみ申上げます、戦争以来人の死ぬのを何とも思はなくなりましたが、旧知の方の他界はやはり感慨を起させられます、

昭和26年(1951)11月17日 山端静子宛書簡より 光太郎69歳

山端静子(しづ)は直ぐ下の実妹。夫の寅三逝去の報せに対する返信の一節です。「何とも思はなくなりました」は無関心という意味ではなく、死者10万人とも言われる東京大空襲、さらに終戦5日前にも花巻空襲を経験し、人は呆気なく逝くものだという無常観のようなものを刻みつけられたということでしょう。

今日のお題は「地方紙及び自治体等広報誌より」とさせていただきました。

まずは地方紙、といっても『東京新聞』さんですが、東京も一地方ですね。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄についての講演会予告記事です。

水彩画の革新者・中西利雄の生涯や芸術を深掘り 中野で15日に講演会

 東京都中野区ゆかりの水彩画家で「水彩画の革新者」と呼ばれた中西利雄(1900~48)の生涯や芸術を掘り下げる講演会「中西利雄 人と作品」が15日、中野区産業振興センター3階(中野2)で開かれる。「中野たてもの応援団」主催。
 中西利雄は現在の中央区生まれ。27年東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科卒業。関東大震災後、中野区内に居を構えた。近代的水彩画法を編み出したことで昭和の水彩画史に足跡を残した。
 現在も区内に残るアトリエは、後に詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年滞在し、制作の場として利用した。建築家ら有志が、アトリエの保存に向けて「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存活動を続けている。
 講師は中西利雄研究の第一人者で、茨城県近代美術館の山口和子主席学芸員。
 午後2~4時、定員60人。参加無料。事前申し込みは同応援団の十川(そがわ)さん=メール=y-sogawa@tubu.jp、電090(8056)0327=へ。

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続いては、岐阜県白川町さんの広報誌『広報しらかわ』今月号に載った『町立図書館 楽集館だより』から。

館長だより▼2月に寄せて

 寒さ厳しい2月になりました。旧暦名では如月(きさらぎ)です。寒い時期、衣(ころも)を更(さら)に重ね着すると言う意味から「衣更着」(きさらぎ)と言うようになったという説があります。そこで厳しい寒さで連想されるのが高村光太郎の詩『冬が来た』です。「きっぱりと冬が来た」で始まる光太郎の詩は鋭利な刃物を連想させるような、透き通る簡潔な表現で、冬をよく表しています。彫刻家でもある光太郎は余分なものを削ぎ落とす作業を通して「冬よ僕に来い」と冬と対峙している鋭い姿勢を見せています。読み手の襟を正すような冬を代表する詩です。
 また冬は空気が澄んで星が綺麗に見える季節です。寒さで丸まった背中を伸ばして空を見上げてみましょう。凍てついた空に無窮の宇宙を感じることと思います。そこでお薦めするのが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。(星まつりの夜のお話なので季節は違いますが)列車に乗りながらの星めぐりは空想を駆り立てることと思います。『銀河鉄道999』や『千と千尋の神隠し』は『銀河鉄道の夜』の影響を受けた作品です。それだけ魅力ある作品と言えるでしょう。
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「冬が来た」というより、もういいから行ってくれ! という時期ですが(笑)。

光太郎と縁の深い宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも言及。たしかにこの時期、星がきれいですね。当方、毎朝「朝メシよこせ~」と言う愛猫に夜明け前に起こされ、ベランダからまだ明けやらぬ星空を眺めますが、千葉の田舎ですので光害もほとんどなく、よく晴れた日にはゆっくりと空を横切る人工衛星も見えるくらいです。

もう1件、長崎県雲仙市さんの広報誌『広報うんぜん』、やはり今月号です。

ぽつり(広報担当の独り言)

 年男の誓いを書いたのが2年前。あっという間に50になる年を迎えてしまった。こんな勢いで年を取るとは。中学時代に習った高村光太郎の「道程」が、最近やけに脳裏をかすめる。
 「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」。常に開拓者であれと、エールのような言葉と受け取っていた。自分の後ろにはどんな道が出来ているんだろう。怖くて振り返ることができない。20代、30代のころに見ていた50代の先輩は、もっと凜として堂々として、「ザ・大人」という雰囲気の人ばかりで、ずっと背中を追いかけていた。今、自分がそんな大人になれているだろうか。私の背中は、後輩の目にどう映っているだろうか。
 恐る恐る20代の同僚にぼやいてみた。返ってきたのは「それに気付くだけでも成長しているってことじゃないですかね」ですって。参った。慰めにも似た悟りの言葉。俺より大人じゃん。そうだ、振り返るにはまだ早い。「やたらと計算するのは棺桶に近くなってからでも、十分出来るぜLIFE IS ON MY BEAT」。高村光太郎からの氷室京介コンボ。中学時代から変わらぬ脳みそと心意気だけで全力疾走することを、1カ月遅れの年初の誓いとします。(亮)
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広報担当氏、「道程」から氷室京介さんの「ON MY BEAT」を連想なさっていますが、世代の違いでしょうか、当方は中島みゆきさんの「断崖-親愛なる者へ-」を連想します。「走り続けていなけりゃ倒れちまう/自転車みたいなこの命転がして/息はきれぎれそれでも走れ/走りやめたらガラクタと呼ぶだけだ、この世では」(笑)。

岐阜県白川町さんにしても、長崎県雲仙市さんにしても、光太郎とは関わりのない街です。それでもこうして取り上げていただき、ありがたいかぎりです。他の自治体の方々もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

上の原の写真は皆焼かれてしまつたのでせう。あの湯の小屋の入浴中の写真などおもしろかつたですが。 九年もたつたとは小生にも感じられません。


昭和26年(1951)10月31日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

戦時中の昭和17年(1942)10月、詩人の西山、同じく風間光作と3人で群馬県の宝川温泉から湯の小屋温泉を訪れた思い出に関わります。光太郎、宝川温泉の方は昭和4年(1929)に続き、2度目の訪問でした。

下記は宝川温泉でのショット。一緒に写っているのは宿の主人・鈴木重郎。西山か風間のどちらかがシャッターを切りました。光太郎の手元にも同じ写真があったはずですが、戦災で焼けてしまいました。光太郎の入浴中の写真、ぜひ見てみたかったと思いました(笑)。
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下記は湯の小屋温泉の古絵葉書。
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光太郎が訪れた当時、鄙びた温泉地でしたが、バブル期にはリゾートホテル、ペンション等も建ち、今も宿の軒数は多く存在します。ただ、バブル崩壊後に廃業した所も多いそうです。逆に、廃校となった分校の木造校舎を使った宿も新たにオープンしたりしています。由緒がありそうなのは「照葉荘」という宿。重厚な木造和風建築で、おそらくここに光太郎が逗留したのではないかと思われますが、詳細は不明です。泉質は単純泉、高温の湯で知られ、一帯は奥州藤原氏ゆかりの落人部落との伝説があります。

風間の回想に依れば、光太郎が語った話として、最初に光太郎が訪れた昭和4年(1929)、宝川から湯の小屋までの山道を、熊と遭遇した際のために日本刀を腰に差して歩いたとのこと。さすがに東京から刀を持って汽車に乗って行ったとも思えず、宝川で借りたのではないでしょうか。古武士のような風貌の光太郎、帯刀姿もさまになっていたのではないかと思われます(笑)。






















エッセイストにして、雑誌『暮しの手帖』元編集長であらせられ、これまでもあちこちで光太郎に触れて下さっている松浦弥太郎氏の新著です。

正直、親切、笑顔 僕が大切にしている125の言葉

発行日 : 2025年1月30日
著者等 : 松浦弥太郎
版 元 : 光文社
定 価 : 1,250円+税

「この本をあなたの大切な人に、プレゼントしてください」。エッセイスト松浦弥太郎さんが日々書きとめてきた、お守りのような言葉を一冊にまとめました。「弱いってことは強いってことなんだと思う。弱いとわかっている強さってある」「百冊の本を読むよりも、一冊の本を百回読みたい」など、苦しいときに、穏やかな呼吸を取り戻すために、紙の手触りを感じながらページを開いてほしい。紙の本を愛する人に贈る至福の一冊です。

目次
 はじめに
 正直
 親切
 笑顔

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直接光太郎と関わるわけではありませんが、タイトルが光太郎がらみです。「はじめに」から。

タイトルにした「正直、親切、笑顔」という言葉は、高村光太郎さんが花巻の小学校の生徒に贈った言葉からいただきました。この言葉は、僕の人生の出発点ともいえるものです。

正確にいうと「笑顔」は松浦氏が付け足されたもので、光太郎が贈った言葉は「正直親切」。昭和26年(1951)、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の太田小学校山口分教場が山口小学校に昇格した際、校訓として揮毫し、贈りました。

佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』より、同校初代校長・浅沼政規の証言から。

「子供たちの毎日の生活に大切な言葉を掲げ、朝夕それを仰いで、みながよい子になろうと励むようにしたいものだと考えますので、何か適当な言葉をお願いしたいと思って参りました。」
「それはいいことですね。みんなが合言葉のようにして心がけていくと自然よくなっていくでしょう。どんな言葉がよいかな。」
「太田の中学校で、先生に書いていただいたのを掲げてありますが、ああいうものでもいいのですが。」
(注・太田中学校校訓は「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」)
「そうですね。小学校だからむずかしい言葉では子供にはわからんでしょうからね。まあ考えておきましょう。」
 その後一ヶ月半ほどたち、いよいよ書いてみようということになったので浅沼校長さんは画仙紙を届けました。先生は
「『正直』と『親切』と二つ採ろうと思いますがどうでしょうか。どちらも子供の時からしつけていけばいいことですからね。」
「ありがとうございます。そうお願い致します。」
 何日かの後、先生がその書を学校に持参して下さいました。校長さんは厚く礼をのべ、花巻に出て、額に表具し、額を学校に掲げ生徒に合言葉となるよう指導しました。


そうして書かれたのが、下記の書。
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戦後ふうに左から右に書き、一年生の児童でも読めるようにと現代仮名遣いでルビも。旧仮名遣いでは「しやうぢきしんせつ」です。ただ、拗音を小さく書くというルールは未だ徹底されていなかった時期で、「しょう」ではなく「しよう」となっています。

そして光太郎、学芸会に招かれ、児童を前に語りました。再び『高村光太郎山居七年』から。

校訓のことですが、何か書こうと思っても何もない。太田中学校には書いてあげました。大きい人にはその意味もわかるのでよいですが、皆さんには何がいいかと考えました。結局平凡なことですが、『正直』というのを採りました。正直は人の行の根本になると思いますし、その時は損なようでも結局長い間では得になるものです。これに親切を加えました。そういうわけで、あの書をあげたのですが、学校の訓(おしえ)ともなり、又校章と相俟って将来よい校風が出来ますれば幸です。

残念ながら山口小学校は廃校となって元の太田小学校に統合、しかし跡地には光太郎に贈られた「正直親切」の語を刻んだモニュメントが建てられました。
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こうしたいきさつに感銘を受けた、光太郎と交流があり、埼玉県東松山市の教育長であらせられた故・田口弘氏は、昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さん校庭に同じ文字を使った碑を建立。さらに光太郎母校の荒川区第一日暮里小学校さんでも、昭和60年(1985)、創立百周年記念にこの言葉を刻んだ碑を建立しました。同校では学校便りのタイトルも「正直親切」です。
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さて、松浦氏の御著書。光太郎に触れられているのは「はじめに」だけなのですが、「正直」「親切」「笑顔」の三章に分け、「なるほど」と思わせられる言葉が並んでいます。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

詩集“琉球”ありがたくいただきました。大変美しい本が出来てうれしい事です。表紙の紅形を飽かずながめました。紙もきれい、印刷もきれい、詩もきれいです。かういふきれいさがだんだん世の中に少くなつてゆくやうな気がします。

昭和26年(1951)10月15日 矢野克子宛書簡より 光太郎69歳

矢野克子は明治38年(1905)、沖縄生まれの詩人です。詩集『琉球』はこの年刊行された詩集で、表紙には伝統の琉球紅型(びんがた)のデザインを使っていました。
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このところ紹介すべき事項が多く、2週間ほど前に入手していた新刊をようやくご紹介できます。

意味がわかるとおもしろい! 世界のスゴイ彫刻

発行日 : 2025年2月11日
著者等 : 佐藤晃子(著)/伊野孝行(絵)
版 元 : 学研
定 価 : 2,500円+税

■えっ、これも彫刻!? 彫刻ってこんなにおもしろいんだ!
彫刻は石や木を彫り刻んだり、粘土をこねて肉づけしたり、金属を型に流したりしてつくるものです。絵画に比べると親しみづらい印象がありますが、スフィンクスもハチ公像も、土偶も埴輪も仏像も、実はすべて彫刻。彫刻には、みなさんが見たことのある作品がたくさんあるのです。本書では、そんな有名な作品からあまり知られていない作品まで、約70点のスゴイ彫刻を大きなビジュアルで楽しく解説しています。彫刻がぐっと身近になる1冊です。

■本書の特色
・特大サイズの高画質な図版を掲載!
さまざまなお寺や美術館などの協力を得て、特大サイズの高画質な図版を掲載。印刷の質にもこだわっています。実物さながらの迫力を味わうことや、作品の細部まで観察することができます。
・楽しい文とイラストで作品のみかたを解説!
わかりやすい文章で、制作背景や制作意図、技法などを解説。彫刻作品の楽しみ方がわかります。また、作者やモデルのイラストを、セリフとともに掲載。作品がより身近に感じられます。
・コラムや資料も充実!
西洋・日本の彫刻の歴史がわかる年表、本書に登場する作品を見られるお寺や美術館ガイド、日本全国の駅前の像の特集、交わるはずのなかった彫刻家どうしの対談を妄想でつづったコラムなどもついています。
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目次
 はじめに
 本書の見かた
 第1章 謎がいっぱいの彫刻
  おーい何考えているの 考える人 作った人 ロダン
  8000体⁉お墓のガードマン 兵馬俑 頼んだ人 始皇帝
  有名だけどそもそも何? 遮光器土偶 モデル 縄文時代の女性
  3つの顔と6本の腕⁉ 興福寺阿修羅像 頼んだ人 光明皇后
  岩山に彫りました! 雲崗石窟の大仏 頼んだ人 曇曜
  ヘビこわーい! ラオコーン 作った人 3人のギリシャ人彫刻家
  口からなんか出てる⁉ 六波羅蜜寺空也上人像 モデル 空也
  この左手まねできる? 手 作った人 高村光太郎
  人? ライオン? ギザの大スフィンクス 頼んだ人 カフラー王
  正体は天の神?海の神? アルテミシオンのゼウス モデル ゼウス? ポセイドン?
  デッカイ仏さま、なぜ横になってるの? ワット・ポーの涅槃像 頼んだ人 ラーマ3世
  うえーーーん 法隆寺五重塔塔本塑像 モデル 羅漢
  スゴイならなんでもアリ⁉ サビニの女の略奪 作った人 ジャンボローニャ
  究極の鳥⁉ 空間の鳥 作った人 ブランクーシ
  謎の石像900体! モアイ 作った人 ラパ・ヌイ島の人々
  オオカミが育てているのは? カピトリーノの牝狼
 モデル ロムルス、レムス、オオカミ
  考えすぎでアフロ⁉ 五劫思惟阿弥陀如来坐像 作った人 ????
  このポーズ踊ってるの? 埴輪 踊る人々 モデル 馬の手綱を引く男性?
  嫌すぎて木になる⁉ アポロンとダフネ 作った人 ベルニーニ
  手も道具も多くない? 観心寺如意輪観音菩薩坐像 頼んだ人 橘嘉智子
  浮いてる⁉ 折れそう⁉ 人とペガサス 作った人 ミレス
  このポーズってみかけだおし⁉ 円盤投げ モデル 円盤投げの選手
  ほぼ本物⁉ 生人形 相撲生人形 安本亀八
  イタリアのラブラブ彫刻 アモルとプシュケ 作った人 カノーヴァ
  このおじさん、偉い人なんです 書記坐像 モデル 古代エジプトの書記官
  ほっそーーい! 大きな女性立像Ⅱ 作った人 ジャコメッティ
  なんか狙ってる? 弓を引くヘラクレス 作った人 ブールデル
  恐怖!死体の彫刻⁉ ヴァランティーヌ・バルビアーニの墓碑 作った人 ピロン
  なぜ怖いお顔? 神護寺薬師如来立像 作った人 ????
  トイレにあるやつだよね? 泉 作った人 デュシャン
  妄想対談 ロダン×ミケランジェロ
 第2章 人の想いがつまった彫刻
  超大きい仏で超願いたい! 東大寺盧遮那仏坐像 頼んだ人 聖武天皇
  67歳でつるつる動物大ヒット シロクマ 作った人 ポンポン
  かっこいいから大人っぽくしました ダヴィデ像 作った人 ミケランジェロ
  …でも美少年もリアルっぽい⁉ ダヴィデ像 作った人 ドナテッロ
  にゃ~♡ たま(好日) 作った人 朝倉文夫
  皇帝のスゴさをアピール! プリマ・ポルタのアウグストゥス
 モデル オクタウィアヌス
  みんなのお寺復活!記念 東大寺南大門金剛力士像 作った人 運慶・快慶
  遊べる彫刻⁉ オクテトラ 作った人 イサム・ノグチ
  サルに何かあった? 老猿 作った人 高村光雲
  あの人と同じ大きさの仏像 法隆寺釈迦三尊像 作った人 鞍作止利
  元祖「はずかしい…」のポーズ カピトリーノのヴィーナス モデル ヴィーナス
  極楽願いすぎて1000体作りました
 蓮華王院本堂(三十三間堂)千手観音菩薩立像 頼んだ人 後白河法皇
  観音さまを守る最強コンビ 蓮華王院本堂(三十三間堂)風神像・雷神像
 作られた時期 鎌倉時代
  日本の裸婦彫刻の先駆け ゆあみ 作った人 新海竹太郎
  皇后の病気が治ることを願って… 薬師寺薬師三尊像 頼んだ人 天武天皇
  ほのぼの彫刻の裏側で起こった悲劇 雲の羊飼い 作った人 アルプ
  あこがれの師の姿残したい! 唐招提寺鑑真和上像 モデル 鑑真
  石です。 ヴェールに覆われたキリスト 作った人 サンマルティーノ
  ㊙でも、わかりやすく! 東寺講堂立体曼荼羅 頼んだ人 空海
  イケメンの神さまガチョウゾウに乗る⁉
 東寺講堂梵天像・帝釈天像 作られた時期 839平安時代
  風景まで作品! 大きなふたつのかたち 作った人 ムーア
  偏見に悩んだ女性彫刻家の作品 ワルツ 作った人 クローデル
  自分の像でみんなを笑わせたい! 木喰自身像 作った人 木喰
  着物まで彫刻です 鏡獅子 作った人 平櫛田中
  地上にあらわる!極楽浄土 平等院阿弥陀如来坐像 作った人 定朝
  モビールは動く彫刻 ニースの劇場 作った人 カルダー
  好きな人に似てしまった… 女 作った人 荻原守衛
  ガシャン!ガシャン! 空間における連続性の唯一の形態 作った人 ボッチョーニ
  金色の仏さまむかえにきて 中尊寺金色堂中央壇諸像 作った人 藤原清衡
  歴史とか神話のキャラをドラマチックにつくるの流行ってたけど、シンプルもよくね?
 地中海 作った人 マイヨール
  粗くてもたくさんつくりたい! 如来立像 作った人 円空
  これぞ女性パワー ミス・ブラック・パワー 作った人 ニキ・ド・サン・ファル
  妄想対談 定朝×運慶
 第3章 激動の歴史を歩んだ彫刻
  エジプトの惑わす美女像 王妃ネフェルティティ胸像 モデルネフェルティティ
  復元したら女神だった⁉ サモトラケのニケ モデル ニケ
  4つ目の顔は行方不明 太陽の塔 作った人 岡本太郎
  世界最古の美術品の起源は? ヴィレンドルフの女性像 作った人 旧石器時代の人々
  なぜ頭だけ? 仏頭 作った人 ????
  超レアで奪い合い⁉ ミロのヴィーナス モデル ヴィーナス
  塔のように大きな彫刻 自由の女神像 作った人 バルトルディ
  みんなが知ってる駅前銅像 忠犬ハチ公像 作った人 安藤士
  ハチ公だけじゃない! 駅前の像
  妄想対談 高村光雲×ポンポン
 巻末特集
  彫って刻むだけじゃない! 彫刻のつくりかた
  10cmから100mまで 彫刻の高さ比べ
  彫刻にも流行がある! この彫刻はいつつくられたの? 西洋編・日本編
  本書に登場する作品を見られるお寺・美術館
  参考文献

A4変形の大判、オールカラー180ページほどの厚冊です。さらに言うならカバーにはエンボス加工が施されています。豪華な造本です。

目次でお判りでしょうが、古今東西の彫刻作品にまつわるさまざまを簡潔かつ押さえるところはきちんと押さえて紹介。各作品、見開き2ページです。「小倉百人一首」のように、一人一作品。しかし、「小倉百人一首」とは異なり、詠み人知らず――この場合「彫り人知らず」でしょうか(笑)の作も多数。

光太郎のブロンズ代表作の一つ、「手」
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プレスリリースに「高村光雲」「老猿」の語がありました(そのため購入しました)が、光太郎の名が無かったので、「あれっ、『手』もあるじゃん」でした。

その「老猿」。
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さらに光雲は「妄想対談」という項で、ロダンの弟子筋のポンポンと対談。ポンポンも動物彫刻で名を馳せましたし、光雲と同世代です。ちなみに光雲、息子の光太郎にクサされているのをボヤいています(笑)。
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他に、ロダンの「考える人」、荻原守衛で「女」、平櫛田中は「鏡獅子」と、光雲光太郎父子と関わった人々の作品も。

版元の学研さんでは小学校4年生くらいからを対象として設定しています。そのため総ルビです。しかし大人の鑑賞にもたえられるものとして、「70歳以上」まで対象としています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

観音像出来、星川氏大よろこびの様子、まことに結構なことだつたと存じます。小生も和紙をもらひました。あの方は娘さんを失つて観音像を造顕する気になつたといふ気の毒な方ゆゑ、其後小生色紙に観音礼讃の詩を書いて寄進して差上げました。

昭和26年(1951)10月5日 高村東雲宛書簡より 光太郎69歳

高村東雲は、三代東雲、本名・東吉郎。光雲の師・初代東雲の孫にあたり、はじめ晴雲と号しましたが、のち、東雲を襲名しました。

光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)から。

 今一人、私の弟子には違ひないが、家筋からいへば私の師匠筋の人――私の師匠東雲師の孫に当たる高村東吉郎君(晴雲と号す)があります。(「その後の弟子のこと」)

 二代目東雲の栄吉氏の子息は、祖父東雲師の技倆をそのまま受け継いだやうに中々望みある人物であります。此は私の弟子にして、丹精致しまして、目下独立して高村晴雲と号して居ります。三代目東雲となるべき人であります。只、惜しいことには、健康すぐれず、今は湘南の地に転地保養をして居りますが、健康恢復すれば、必ず祖父の名を辱めぬ人となることゝ私は望を嘱して居ります。(「東雲師の家の跡のことなど」)

「晴雲」時代の昭和26年(1951)まで北海道に居ましたが、帰京。その帰途、太田村の光太郎の山小屋に立ち寄り、観音像を贈っています。

同じ年9月23日の光太郎日記に「星川憲一氏の為に第四種にて揮毫を包装」の記述があり、「色紙に観音礼讃の詩を書いて寄進して差上げました。」と照応します。「観音礼讃の詩」は、今様体で書かれた「観自在こそ」(昭和21年=1946頃)でしょう。複数の揮毫例が知られています。星川憲一は星川製紙工場を経営していた人物です。おそらくはじめに観音像の制作を光太郎に頼み、光太郎が東雲にその依頼を廻したと思われます。

「智恵子抄」系の楽曲がプログラムに入った演奏会、2件ご紹介いたします。

開催日順に、まずは都内から。

SAWAMURA BAR.VOL23

期 日 : 2025年2月15日(土)
会 場 : 個人宅(澤村様) 練馬区光が丘7-6-7-304
時 間 : 15:00~
料 金 : 3,000円

出 演 : モンデンモモ(歌) 田嶌道生(ギター)

久しぶりに『智恵子』します。「案内」「十和田湖畔の裸像に与ふ」。懐かしい方にはなつかしいあの歌も『やっとあなたに逢えた』。やっと多くの人と逢えてます。なんか新しい展開。この時をまっていました。
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「智恵子抄」収録詩篇をはじめ、光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさんのミニライブです。

モモさん、最近は島根の方を活動拠点になさることが多く、「智恵子抄」系はあまり歌われていませんでしたが、久しぶりに、だそうです。

会場は集合住宅・光が丘パークタウンの一室。当方、平成27年(2015)にやはりこちらで開催された第13回の際にお邪魔しました。狭い会場だけに一体感が生まれていました。

もう1件。

第45回二宮演奏家協会コンサート 日本の名曲 世界の名曲

期 日 : 2025年2月16日(日)
会 場 : 二宮町生涯学習センターラディアン 神奈川県中郡二宮町二宮1240-10
時 間 : 13:30~
料 金 : 2,500円
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曲目に「レモン哀歌」が入っています。あまり大々的にには宣伝なさっていないようで、フライヤーに書かれている以上の情報がほとんど得られていません。そこで、どなたの作曲のものなのか不明ですが……。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

創元社本の誤植はすばらしいやうです。「荒涼たる帰宅」の最終行が「外は夕月といふ月夜らしい」とあるのは名誤植といへるでせう。


昭和26年(1951)9月26日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

「創元社本」は、この月に刊行されたハードカバーの『高村光太郎詩集』。編集は当会の祖・草野心平でした。とにかく豪快だった心平、こういう部分では神経が行き届かない面が確かにありました。
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言わずもがなですが、正しくは「夕月」ではなく「名月」です。

誤植にはとにかく気をつけたいものです。

3件ご紹介します。

まずはNHK Eテレさんの長寿番組。

にほんごであそぼ「喜び」

地上波NHK Eテレ 2025年2月10日(月) 08:35~08:45
再放送   2月13日(木) 15:35~15:45  2月15日(土) 07:00~07:10

書道で学ぶにほんご(青柳美扇)・立体紙切り(辻笙)・ぐうたらちんたら/喜び、朗読(高杉真宙)/「智恵子抄 深夜の雪」高村光太郎、漢字アニメ/喜、偉人とダンス/喜びとは苦悩の大木に実る果実である(ヴィクトル・ユーゴー)、うた「ほのぼのよき」

【出演】南野巴那 高杉真宙 青柳美扇 辻笙 世田一恵 中村彩玖 川原瑛都 川田秋妃
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昨年の大河ドラマ「光る君へ」で、主人公・まひろ(紫式部/吉高由里子さん)の弟・藤原惟規を演じられた高杉真宙さんによる朗読で、「智恵子抄」の中から「深夜の雪」。

高杉さん、一昨年には同番組で「あどけない話」朗読もなさって下さいました。
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後は再放送系。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭 お名前ソング

BSテレ東 2025年2月10日(月) 17:56〜19:00

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

「東京アンナ」大津美子/「ダイナ」ディック・ミネ/「ダイアナ」鈴木ヤスシ
「硝子のジョニー」谷龍介/「傷だらけのローラ」高道(狩人)
「シェリー」九重佑三子、田辺靖雄/「ジョニィへの伝言」ペドロ&カプリシャス
「メリー・ジェーン」つのだ☆ひろ/「サチコ」ニック・ニューサ
「ひとみちゃん」神戸一郎/「そんな夕子にほれました」増位山太志郎
「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ/「お吉物語」天津羽衣
「おーい中村君」若原一郎/「ハチのムサシは死んだのさ」セルスターズ
「姿三四郎」姿憲子/「与三さん」照菊

<司会>合田道人
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「お名前ソング」ということで、タイトルに人名の入った懐かしの曲がずらり。過去の映像を使っての放映となります。

昭和39年(1964)リリース、その年の紅白歌合戦でも歌われた二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲)もラインナップに入っています。

もう1件。

おかしな刑事〜居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査

BS朝日 2025年2月11日(火) 19:00〜21:00 

「東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!」▽テレビ朝日系列で2011年に放送された第8シリーズ

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田"という名字が気にかかり…。

出演者 伊東四朗 羽田美智子 石井正則 小倉久寛 辺見えみり 山口美也子 木場勝己 小沢象
    丸山厚人 菅原大吉 (他)
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初回放映は平成23年(2011)。その際のサブタイトルが「地上333メートルの殺意!! ホームレスが隠した事件の謎!? 安達太良山で待ち受ける真実!! 『智恵子抄』に秘められた想いとは…」。事件関係者の一人が、智恵子の故郷・二本松出身という設定で、安達太良山、岳温泉、智恵子生家などでのロケが敢行されました。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

年代は自分でもややこしくて間違ひ勝ちです。日本式年号で数へると間違ひ易く、西暦一九〇七年二月日本出発、一九〇八年ロンドンへ渡り、一九〇九年パリに行き、一九一〇年七月に日本に帰つたのが本当のやうです。


昭和26年(1951)9月24日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

自分が何をしたのが何年だったかというのは、意外と覚えていないものですね。この書簡に書かれた年も1年ずつ間違っています(笑)。渡米は明治39年(1906)、ロンドンへは同40年(1907)に渡り、パリに移ったのは同41年(1908)で、帰国は同42年(1909)です。

ちなみに昨年、これより後に書かれたと思われる光太郎手書きの年譜画像を発見しました。そちらはほぼ正しく書かれていました。
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『日本近代文学図録』(昭和39年=1964 日本近代文学館編 毎日新聞社)に写真版が載っていました。光太郎筆跡であることは間違いありませんが、いつ、何の目的で書かれたものかは不明です。

昨日、都内で『東京新聞』さんの取材を受けました。光太郎終焉の地にして第一回連翹忌の会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ保存関係です。そちらが午後だったので、午前中は都内を通り越し、北鎌倉へ。光太郎実妹の令孫夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんで始まった「高村光太郎と尾崎喜八」展を拝見して参りました。

尾崎喜八は光太郎より9歳年少の詩人。光太郎と家族ぐるみの交流がありました。その喜八を偲ぶ「臘梅忌」が本日、喜八の墓のある明月院さん、それからその裏手の笛さんで関係者の方々がお集まりになってこぢんまりと執り行われるのですが、今日は他用のため参列できませんで、昨日のうちにご挨拶かたがた参上した次第です。

まずは明月院さんで墓参。
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中高生と思われるグループが多数。修学旅行か校外学習かというところでしょうが、春や秋でなくてもそうなんだ、という感じでした。

本堂裏手、尾崎家のそれを含む墓所は、通常、一般人の立ち入り不可ですが、喜八令孫の石黒敦彦氏の御名を出して参拝させていただきました。
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こういう場合の常ですが、光太郎の代参のつもりで手を合わせました。
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喜八、妻の實子(光太郎親友の水野葉舟の娘)、そして二人の息女にして、当方もお話を伺ったことのある榮子さん(駒込林町の光太郎アトリエで、智恵子にだっこしてもらったことがおありだそうでした)。

明月院さんを出て、さらに坂を上っていくと、笛さん。
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毎年秋にも光太郎と喜八に関わる展示をなさっているのですが、今回は近くにお住まいの石黒氏が、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が光太郎と喜八の関わりについて書かれた玉稿をまとめた書籍『高村光太郎と尾崎喜八』を刊行なさるということで、その記念のイレギュラー開催です。
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ゲラが展示されていて、拝見。
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完成が楽しみです。

他の展示。

まずは喜八夫妻の結婚祝いに光太郎が贈ったブロンズの「聖母子像」(大正13年=1924)。ミケランジェロの同名作品の模刻ですが、一点物です。
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おそらく出版された書籍類には載っていない古写真。

光太郎実妹・しづ(静子)の子息にして、笛の奥さま・加寿子さんのお父さまの結婚式。昭和18年(1943)だそうです。
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光太郎や、光太郎に代わって髙村家を嗣いだ実弟の豊周も。
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左下は少年時代の光太郎、すぐ下の道利・しづの双子、豊周。
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右上は晩年のしづ、それから幼少期の笛の奥さま。

その他、光太郎と喜八らの写った写真など。
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戦前の一時、尾崎夫妻は杉並に居住していましたが、そのすぐ近くに住んでいて、光太郎や夫妻と交流のあった江戸狄嶺関連も。
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光太郎が江渡のために設計し、江渡が拓いた農場に建てられた霊堂「可愛御堂」。
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なかなかに充実した展示でした。

当方がお邪魔した際にはご主人しかいらっしゃらず、美味なる珈琲をいただいて、「それでは」と、店を後にして北鎌倉駅をめざして坂を下りていると、奥さまが坂を上って来られました。そこでしばし立ち話。さらに奥さまと別れて1分後には、やはり坂を上られる石黒氏と遭遇。笑ってしまいました。4月の連翹忌にはまたお三方とお会い出来そうです。

さて、笛さんでの展示、3月4日(火)までの火・金・土・日曜(今日と2月22日(土)を除く)、11時~16時です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おてがみなつかしくよみました。その後の御消息が分つてよろこびました。小生にもいろいろの事がありましたが結局大変自分の気持にあつた生活の出来るやうになりました。ここで仕事したいと思つてゐます。東京ではとても出来ないやうないい毎日の生活を送ることが出来て感謝してゐます。


昭和26年(1951)9月7日 吉野登美子宛書簡より 光太郎69歳

吉野登美子は元・八木重吉夫人。八木重吉は光太郎より15歳年下の詩人。昭和2年(1927)に結核のため、早世しました。その遺稿を未亡人・登美子が戦時中も守り続け、昭和17年(1942)は光太郎や八木と親しかった草野心平らの尽力で『八木重吉詩集』が刊行されました。光太郎はその序文や題字を揮毫したりしました。

登美子は戦後、やはり光太郎と交流があって、妻に先立たれていた鎌倉在住の歌人の吉野秀雄と再婚。この書簡も鎌倉に送られました。

明日、明後日と大阪府吹田市で公演が行われる「吹田市民劇場 SHOW劇場 番外編vol.2 a次元のふたり」について、『毎日新聞』さんが予告を出しました。

光太郎と智恵子 悩み、寄り添う夫婦の物語 「a次元のふたり」

 詩人・彫刻家として知られる高村光太郎(1883~1956年)と、洋画家として活動した長沼智恵子(1886~1938年)。2人の出会いから夫婦としての日々までを描く舞台「a次元のふたり」が、8、9日、大阪府吹田市のメイシアター小ホールで上演される。
 関西の演劇人と同シアターが作る「SHOW劇場」シリーズの新作。高橋恵さんの作、上田一軒さんの演出で、光太郎を竹内宏樹さん、智恵子を佐々木ヤス子さんが演じる。芸術家としての理想と、意のままにならない身体や生活。その間で悩み、寄り添う夫婦の物語を2人芝居に仕立てた。
 「表現者としての野心と、思うようにいかない挫折感。若き日の2人には共感する部分が多い」。高橋さんはそう述べた上で「理想と現実のギャップを身体をキーワードとして描いた」と作劇の狙いを語る。
 上田さんは「光太郎も智恵子も、過剰とも言えるほどの理想を抱いていた。そんな2人の精神性も丁寧に浮かび上がらせたい。2人の葛藤や精神的なつながりが、言葉だけでなく身体的にも伝わる舞台になれば」と意気込む。
 8日午後3時と、9日午前11時・午後3時の3回公演。2000円。問い合わせは、メイシアター(06・6386・6333)
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予告記事が出るということは、それだけ注目されているようで嬉しく存じますし、記事を見て「行ってみよう」と思う読者の方もいらっしゃるでしょうから、しめしめです(笑)。

この手の演劇で、光太郎智恵子の世界を取り上げて下さる方がぽつぽついらっしゃるのは非常に有り難いことです。ところが、何年も前から「智恵子抄やります!」と大騒ぎしておいて、しかし一向に具体化せず、SNS等読むと頓珍漢な記述ばかり、さらに「私が」「私が」の連発で気味の悪い自撮り写真をずらり(しかし結局「私は誰々の弟子で」と七光り。自分が空っぽな人間の「あるある」ですね)、結局スタッフとぶつかって公演中止、そういう事態を恥じるでもなく中止した後もスタッフや他のキャストにぐだぐだ文句の連発を公開、そんな輩も居ます。

中止の前に「協力して下さい」と言うので「いいですよ」と返答したところ、中止したという連絡も無し。また「智恵子抄をやります」とか騒いでいますが、はたして上演までたどり着けるのかどうか……。最近では自分の過去の醜態は棚に上げて「役者とは」などと実にえらそーにのたまっていまして、ちゃんちゃらおかしいったらありません。こういう手合いには光太郎智恵子の世界に手を付けないで欲しいところです。たとえ上演となっても、このサイトでは紹介しませんのでよろしく。

閑話休題、「a次元のふたり」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

コタツは炭酸ガスの害が意外にひどいやうなので木炭でなく電気コンロを使ふことにきめました。

昭和26年(1951)9月5日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎69歳

澤田の龍星閣が費用を負担して出来た小屋の増築部分。床に掘り炬燵用の炉が切ってありましたが、炭では一酸化炭素中毒の危険性があるということで、電気コンロを使っていました。元の小屋は隙間だらけでその心配はありませんでしたが、新小屋は意外と密閉性が高かったようです。

翌月に小屋を訪ねた佐久間晟・すゑ子夫妻の証言によると、ニクロム線を使ったなつかしい(笑)下記のようなタイプのものだったそうです。
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当方も幹事を務めさせていただいている「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」が協力して行う講演会です。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄について。当然、光太郎やアトリエの保存運動にも関わる内容となるでしょう。主催は中野たてもの応援団さんです。

講演会「中西利雄 人と作品」

期 日 : 2025年2月15日(土)
会 場 : 中野区産業振興センター 東京都中野区中野 2-13-14
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 無料
講 師 : 茨城県近代美術館首席学芸員 山口和子氏

昨年11月10日から11月18日まで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」展示会&講演会には多くの皆様にご参加いただきました。その後、中西アトリエの施主であった画家中西利雄についてもっと知りたいというリクエストにより、講演会を開催することになりました。皆さまのご参加をお待ちしております。

桃園川緑道沿いに片流れ屋根の簡素なアトリエが残されています。これは第二次大戦中の建物疎開でアトリエを壊された中西利雄が、その再建のため着工させたものです。しかし中西は病のためアトリエの完成直前に死去。後に高村光太郎が制作の場としました。関東大震災後当地に住み、水彩画の革新者といわれた中西利雄についてご紹介いただきます。
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アトリエの保存運動に関しては、以下をご覧下さい。

 「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野」。
 都内レポート 東京書作展選抜作家展2024/中野アトリエ保存委員会。
 「光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵」。
 『中野・中西家と光太郎』。
 中野アトリエ保存運動関連、署名をお願いいたします。
 文治堂書店『とんぼ』第十八号 その2 中西利雄アトリエ保存。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 意見交換会。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会ホームページ開設。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 署名用紙。
 「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。
 『東京新聞』TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機。

皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。

【折々のことば・光太郎】

道程初版の「志」「し」の仮名遣ひは内藤鋠策君の趣味によるもので、行の頭に来るものはすべて「志」を使ひ、下に来るものは「し」を使つたのです。下らぬ好みですから、どちらでもいいです。


昭和26年(1951)8月20日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

中央公論社版『高村光太郎選集』の編集に当たっていた、当会の祖・心平からのレファレンス依頼への返答です。

明治・大正の頃は、活字の場合でも変体仮名的に使う場合がありました。「し」を「志」、「こ」を「古」などで。光太郎自身も書き癖で「み」を片仮名の「ミ」とすることが多くありました。書の場合には「お」が「於」、「ひ」に「比」をあてる場合なども。

初版『道程』(大正3年=1914)での「志」、該当箇所はこんな感じです。
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3件ご紹介します。

まず、2月2日(日)『朝日新聞』さん一面コラム。

天声人語

たった一人。白く息を吐きながら、ギュッギュッと新雪を踏みしめていく。教科書で出会った高村光太郎の「道程」は、読みかえすたびにそんな光景を思い起こさせる▼〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ〉。自分の力で人生を切り開く。詩人が決意を文字にしたのは、ある年の2月のこと。詩の舞台は冬というわが想像も、そう間違っていないのかもしれない▼さて、そんな雪景色に今朝は一変しているだろうか。都心を含めた関東甲信では雪が積もるかもしれないと、気象庁が警戒を呼びかけている。交通機関の乱れのおそれもある。気が気でないのは受験生たちだろう▼首都圏では中学受験の熱が高く、いまがピークだ。きのうの早朝は電車の中で、親子連れを何組も見かけた。やや緊張した面持ちの子。マフラーを巻き直してやったりと、何くれとなく世話をやく親。どちらも大変だ。私立大でも入試が始まっている▼週明け以降には、強い寒波がやってくる。暖かい格好で備え、受験会場までの道程では、凍った路面で転んだりせぬようにくれぐれもご注意を▼冒頭の詩は、初出時には100行を超える長い作品だった。そこに、若者へのこんなエールがある。〈歩け、歩け/どんなものが出て来ても乗り越して歩け/この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ〉。あすは立春。厳しい月日を越えた者に、きっと花は咲く。

引用されている光太郎詩代表作の一つ「道程」は、111年前の大正3年(1914)3月、雑誌『美の廃墟』に発表されました。その時点では102行の長大なものでした。それが同年10月、詩集『道程』に収められた際にバッサリとカットされ、現在流布している9行の形に。光太郎自身がお蔵入りにした初出形の方もなかなかに味わい深いものです。花巻高村光太郎記念館さんには映像と朗読で光太郎詩を紹介するブースがあり、そちらでベテラン声優の堀内賢雄さんによる朗読が聴けますが、「道程」初出形もラインナップに入っています。102行だけあって約7分にもわたります。

それにしても、謳われてから111年経っても我々の心の琴線にしっかり触れる点、やはり素晴らしいと思います。

続いて同日『産経新聞』さん。

印象派の「後」か「後期」か 日本語メモ

  令和5~6年に開かれた「モネ 連作の情景」展は、東京と大阪で計91万人を動員しました。モネやルノワールら印象派の人気は、彼らに続くゴッホやゴーギャンといった「後期印象派」とともに根強いようです。
 昨年、美術史家の高階秀爾さんが他界されました。高松宮殿下記念世界文化賞で選考委員長(絵画・彫刻部門)も務めた同氏は、「『後期印象派』は誤訳」という文章を残しています(朝日新聞夕刊、平成15年6月4日)。いわく「後期印象派」のもととなった英語「ポスト・インプレッショニズム」の「ポスト」は「以後」という意味だから、「後期印象派」は誤訳である。つまり「後期印象派」では「印象派の後期(後半)の画家」になってしまうのであり、正しくは「印象派の後の画家」である、というわけです。
 高階さんは、民芸研究家の柳宗悦が「後印象派」を雑誌『白樺』(明治45年1月号)で紹介したことに言及。「後印象派」は原語に忠実であるが、すわりが悪く、いつの間にか「後期印象派」という訳語が定着してしまったと書きます。ならば「後期印象派」の初出はいつでしょうか?
 調べてみると『後期印象派』(木村荘八、高村光太郎、岸田劉生・共著)という書籍が大正2年8月に発行されています。また、同5年9月には『立体派と後期印象派』が作家の久米正雄の翻訳で出ていました。久米はその序文で、木村荘八らの訳文を大いに参考にした旨を記しています。
 柳宗悦がせっかく「後印象派」と正しく訳したのに、いつの間にか定着してしまった「後期印象派」。「後」と「後期」、1文字で意味がまったく異なってしまう翻訳の怖さといったところでしょうか。ちなみに近年では「後期印象派」ではなく「ポスト印象派」と呼称するようです。

002言葉に関するコラムのようです。キーワードは「後期」。「『後期印象派』(木村荘八、高村光太郎、岸田劉生・共著)という書籍」は、正しくは雑誌『現代の洋画』第17号で、サブタイトルが「後期印象派」。『現代の洋画』は、明治末から大正にかけ、青年画家たちの活動を裏方として支援、我が国洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支えたペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれていた北山清太郎が主宰していました。

確かに現代の感覚で「後期」というと、「前期」「後期」あるいは「前期」「中期」「後期」と分けたうちの一つ、「後期印象派」と言ったら「印象派」の一部という感じです。

しかし「ポスト」にあたるうまい日本語が存在せず、北山や編集に当たった光太郎らは仕方なく「後期」の語をあてたのではないでしょうか。あるいは明治末から大正の段階で、「後期」の語の用法が現代と全く同一だったとも言いきれないような気もします。いずれにせよ現代でもうまい訳語がないので「ポスト印象派」としているわけで……。

最後に『日本教育新聞』さん、昨日の掲載記事です。

サトー先生の「きょういく日めくり」~きょうも楽しく学校へ行くために~【第19回】「いつの間にか」が名人ワザ

003 導入(ツカミ)はおもしろいけど授業始まったら睡眠タイム……新米教員時代のボクに、ぜひ見せてやりたかったなあ、E先生の名人ワザを。
 「プロ野球で二刀流と言えばだれかな?」『大谷!』「そのとおり。大谷選手の出身地はどこ?」『北海道や』『福島?』『岩手』「正解!」。
 思ったことを自由に言える雰囲気が教室にあった。
 「岩手県の花巻東高出身。彼のおねえさんと野球部のコーチがその後結婚して」
 マニアックな芸能ネタは、やがてご当地岩手県花巻の、わんこそばや満州ニララーメン(通称「マニラ」)などの麺類紹介へ。「先生それ全部食べたんか?」と思わず生徒が聞くほどの、リアルな食レポ情報がぽんぽん飛び出すうち、
 「……でもな、岩手でラーメン食べたら、そのあとぜひ、「元祖二刀流」のすごい人の家に行っといで。その人の名は、ジャジャーン。高村光太郎!」
 「タカムラ?」といぶかる生徒たちをものともせず、当時、日本を代表する彫刻家かつ詩人の、「元祖二刀流」偉人・高村光太郎について一気に解説。
 「でも、もともと光太郎は岩手の人じゃない。東京のど真ん中に住んでたのが、敗戦後、屋根まで雪に埋まる山の中へ逃げるように移り住んだ。自分で「小屋」とさげすむ小さな家。あっ、その家の写真、資料プリントにあるから見てよ。二刀流成功者の家やのに、なんとちっぽけな。実はこの人、戦時中に「戦争バンザイ」という詩をいっぱい書いてしまって……」
 大谷選手の話が高村光太郎に移り、やがて資料集や教科書の年表を駆使した従軍作家や戦争文学の話へと展開―繰り広げられる本格的「授業」!
 いつの間にか引きずり込むのが名人ワザ。導入「方法」を参観に行ったボクが、完全に授業「内容」に引き込まれ、ひとつカシコくなりました。
佐藤功(さとう・いさお。大阪大学人間科学研究科元教授)

当方も講演や市民講座のツカミで、大谷選手の二刀流から光太郎の二刀流へと振ることをよくやっています(笑)。日本中の学校さんでこういう授業が展開されてほしいものです。ただ、「元祖二刀流」は光太郎ではなく宮本武蔵ですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】004

人の来ない夜に書き、別封で同送しました。天といふ字はむつかしく、二十枚書いた中の四枚だけ選びました。


昭和26年(1951)8月11日 
草野心平宛書簡より 光太郎69歳

当会の祖・草野心平の詩集『天』が翌月刊行されましたが、その題字です。光太郎はこれ以外にも心平詩集の題字を多く手掛けましたが、心平自身はこの「天」の字が、最も気に入っていたようです。

「彫刻」「詩」の二刀流として語られることの多い光太郎ですが、「書」を入れて「三刀流」としてもいいくらいです。

テレビの地方局で流されたローカルニュースを2件。

まずはNHK広島局さん。呉市立美術館さんで昨年12月から開催されている「コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション」に関して。

呉市立美術館で彫刻作品展 高村光太郎の「手」も

 近代から現代にかけて日本や西洋で作られた彫刻作品を集めた展示会が、呉市の美術館で開かれています。
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 呉市立美術館で開かれている展示会には、大正時代から現代にかけて日本やフランスなどで作られたあわせて50点の彫刻作品が展示されています。
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 このうち、大正から昭和にかけて活躍した詩人で彫刻家の高村光太郎の代表作の一つ「手」は、自らの手をモデルにしていて骨の形や皮膚のたるみまで写実的に表されているのが特徴だということです。
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 また、呉市出身の彫刻家、上田直次の「愛に生きる」という作品は、やぎの親子をモチーフにしたもので、大きなくすのきをノミで大胆に削って作っています。
 呉市立美術館の学芸員、渡辺千尋さんは「今回の展示は彫刻作品なので、絵画とは違って360度、いろいろな角度から展示を楽しめます。ぜひ会場に来ていただき、さまざまな視点から作品を観察して、それぞれのおもしろさを見つけてもらいたいです」と話していました。
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 この展示会は、2月11日まで開かれています。
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もう1件、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ライトアップも為されている「十和田湖冬物語2025」について、RAB青森放送さん、2月1日(土)の放映。残念ながら「乙女の像」には触れられませんでしたが。

「もう忘れられないです」十和田湖冬物語が開幕 冬空を彩る大輪の花火 雪の滑り台やスノーモービルで引く雪上バナナボート かまくらバーも人気

 冬の十和田湖を楽しむことができる「十和田湖冬物語」がきのう開幕しました。
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 十和田湖冬物語は十和田湖畔休屋地区できのう開幕しました。
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 会場にはスノーパークが設けられ、雪の滑り台やスノーモービルで引く雪上バナナボートを楽しむことができます。

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 また青森と秋田の食を楽しめる雪あかり横丁や、氷のグラスでカクテルなどが飲めるかまくらバーも人気です。
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 訪れた人たちのお目当ては午後8時からの冬花火。
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 音楽に合わせて200発の花火が打ち上がります。
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★訪れた人
「カラフルでドカンとなってクライマックスのときにしゅっていろいろなったのがおもしろかったです」
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「東京ではこんな風になかなか見られないのでしかも雪と一緒に見ることがないのでうれしかったです 
もう忘れられないです」
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 十和田湖冬物語は今月24日まで、火曜日と水曜日を除く毎日開かれます。
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それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「トリモンA」三箱サントニン錠一箱、石鹸などいただき、感謝しました、早速服用いたしました。神経痛はどうしても退治してしまはねばなりません。今後の彫刻製作の邪魔になりますから。


昭和26年(1951)8月9日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

翌年秋は再上京し、「乙女の像」制作を始めますが、この時点ではまったく具体的な計画は立っていません。それでも何らかの彫刻制作を再開する構想はずっと持ち続けていました。

「トリモンA」はホルモン剤、「サントニン」は虫下しの薬。「虫下し」と言っても、若い人達には通じないでしょうね(笑)。
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「あじさい寺」として有名な北鎌倉明月院さん裏手(徒歩365歩)にあるカフェ兼ギャラリー笛さん。光太郎実妹・しづ(静子)令孫ご夫妻が営まれています。

毎年秋に、お近くにご在住の石黒敦彦氏(光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八令孫)と共に、両家に伝わる光太郎・喜八関連の品々を展示する「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情」を開催なさっています。昨年の様子はこちら

同様の展示を今年はこの時期にも開催。先週土曜から始まっているそうです。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9

期 日 : 2025年1月31日(金)~3月4日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

4月に発行される北川太一著「高村光太郎と尾崎喜八」を記念して100年のメモリアルを両家の孫の世代所有の資料で構成して展示
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石黒氏が編集なさり、当会顧問であらせられた北川太一先生が光太郎と喜八の関わりについて書かれた玉稿等を集めた『高村光太郎と尾崎喜八』という書籍が刊行されるとのことで、それを記念しての開催だそうです。「100年のメモリアル」というのは、北川先生がご存命であれば今年3月28日で満100歳になられるはずだったことに因みます。

展示風景、笛さんオーナー山端氏のフェイスブックからお借りしました。
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光太郎が尾崎夫妻の結婚祝いに贈ったブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)も展示されています。ミケランジェロの模刻で、他に鋳造されたことが確認出来ていない一点物です。ちなみに喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女で、光太郎は我が子のようにかわいがっていました。

時間を見つけて行って参ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

赤城写生帖といふやうなもの、まるで忘れても居ましたし、思ひ出さうとしても思い出せません。しかし、小生のものらしく、それがどうして貴下のところにあるのか実に不思議に堪へません。卅七年といへば日露戦当時、小生が美術学校に居た頃と思ひますが、そんなものが出て来ると怖いやうな気がします。

昭和26年(1951)7月14日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

「赤城写生帖」は、明治37年(1904)、数え22歳で美校研究科在学中の光太郎が葉舟と共に滞在していた上州赤城山で描いたスケッチ帖です。原本は葉舟が保管、詩人の西山の手に渡りましたが、その後の行方が不明です。

光太郎没後の昭和31年(1956)、『智恵子抄』版元の龍星閣から猪谷六合雄解説で『赤城画帖』として刊行されました。猪谷は日本スキー界の草分けですが、光太郎等が宿泊した赤城の猪谷旅館の子息でした。
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昨日お伝えしました通り、一昨日、昨日と、光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

そもそもは、作曲家・朝岡真木子氏が光太郎詩をテキストに作曲された独唱歌曲集「組曲 智恵子抄」を歌われ、CDも出された清水邦子さんから、この夏に蒔田尚昊氏作曲の独唱歌曲集「智恵子抄」を抜粋で歌われるという黒川京子さんのお二人で「1月31日(金)・2月1日(土)と花巻で高村光太郎記念館さんや宮沢賢治記念館さんなどを見て歩きたいのですが、二人とも花巻に行ったことがありません。交通機関など現地でどうすればよいでしょうか。また、宿泊場所のおすすめなどありますでしょうか」的な問い合わせがあり、「それなら自分も同行してご案内いたしましょう」という流れ。ちょうど、昨年12月から1月26日(日)まで高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展示「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」でお貸ししていた出品物を返却してもらうする都合もありましたので。

しかし「何でこの時期なんですか? 寒いですよ」と訊いたところ「やはりこの厳しい寒さの時こそ、光太郎の花巻(旧太田村)での苦労を体感出来ると思ったので」とのこと。素晴らしいお考えですね。この時期の高村山荘(記念館に隣接し、光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋)を訪れもせずして「光太郎の山小屋暮らしは、世間に対して戦争犯罪を反省していますよ、と言うポーズに過ぎなかった」などとのたまういわゆる文芸評論家のエラいセンセイ方に爪の垢でも煎じて飲ませたいものです(笑)。

さて、1泊2日の行程を画像と共に振り返ります。特に黒川さんは宮沢賢治詩文をテキストとした歌曲にも取り組みたいということで、賢治関連のスポットも行程に入れることに致しました。

東北新幹線車中からの智恵子のソウルマウンテン・安達太良山。そして粉雪の舞う新花巻駅。
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レンタカーを借り受け、市街へ。

賢治御用達、それから光太郎もたびたび訪れて舌鼓を打ったやぶ屋さんで昼食。
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当方、天ぷらそばとサイダーの「賢治セット」をいただきました。

在来線東北本線花巻駅前に出て、林風舎さんへ。残念ながら賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏は愛知経由で九州に行かれているそうでご不在でした。
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続いて、昨年オープンした豊沢町のカフェ羅須さんへ。写真を取り忘れました(笑)。

オーナーで「宮沢賢治・花巻市民の会」の泉沢善雄氏、それからお世話になっておりますやつかの森LLCの皆さん、花巻南高さん家庭クラブの先生、さらに今年6月に当方に講演を依頼して下さった花巻ボランティア連絡協議会の方もいらっしゃり、事務的な打ち合わせ。この手の打ち合わせが出来る拠点が街なかに出来たので、便利になりました。

さて、旧太田村の高村光太郎記念館さん。花巻市街の積雪はそれほどでもありませんでしたが、徐々に標高も上がり、さらにこちらに着く頃には軽く吹雪いてきました。
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隣接する(と言っても数百㍍)高村山荘。途中の除雪が為されていたので行けました。雪を搔いていない場所は数十㌢積もっています。
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この日、最後の訪問地は少し戻って道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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宿泊先は賢治、光太郎ゆかりの大沢温泉さん。いつもは自炊部さんに泊めていただいていますが、今回は通常の温泉ホテル・山水閣さん。令和4年(2022)以来でした。自炊部さんでは、夕食は外で済ませるか館内の食堂で一品料理を頼むか、朝食はこれも館内の売店で前夜にパンなどを買っておいて食べるという感じですが、こちらでは夕食は豪華めのコース、朝食は和洋バイキング。たまにはいいものです。
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翌朝、9時に宿を出て、再び花巻市街へ。午後に花巻を後にするまでの間、日は照りながらぱらぱらと雪が舞い続けていました。

まずは宮沢家菩提寺の身照寺さん。
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近くのぎんどろ公園。賢治が勤務していた花巻農学校の跡地です。
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花巻駅近くの西公園。この2階で光太郎が講演をした旧花巻町役場、光太郎が乗った今は廃線となった花巻電鉄の車輌。
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中心街まで戻り、マルカンさん裏手の松庵寺さん。光太郎詩歌碑が3基。
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豊沢町の宮沢家。
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この奥の方にあった離れに、光太郎が昭和20年(1945)5月から8月まで厄介になっていました。しかし8月10日の花巻空襲で全焼。現在の建物は戦後のものです。

桜町の宮沢家別荘があった場所に建てられた「雨ニモマケズ」碑。数ある賢治碑のうち、第1号。碑文は光太郎の揮毫です。前日に訪れた林風舎さんには拓本が掲げられています。
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そこから見える「下の畑」。かつて賢治が耕作していた場所。
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近くの桜地人館さんは冬期休館中。
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駐車スペース脇には江戸時代の同心屋敷。

賢治命名のイギリス海岸。「海岸」といいつつ北上川の河畔なのですが。
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こちら、当方は約40年ぶりに訪れました。

そして最後のチェックポイント・宮沢賢治記念館さん。駐車場内の山猫軒さんで昼食を摂ってから拝観しました。
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昨夏から開催されている企画展示「刊行100周年 二冊の初版本」が、この日から展示替えと云うことで、当方は昨年12月に続いての観覧です。
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童話「注文の多い料理店」の直筆草稿断片が出ており、興味深く拝見。
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これで全行程を終了し、レンタカーを返却して新幹線で帰りました。1泊2日ではこんなもんでしょう。夕方までねばったり、1泊増やしたりすれば、羅須地人協会やマルカン大食堂さん、茶寮かだんさん、昭和の学校さんなど、もう少し廻れましたが。まぁ、お連れしたお二人にもとりあえずご満足いただけたようで、幸いでした。

御依頼があれば、この手の花巻ツアー、あるいは智恵子の故郷・二本松ツアーなど、運転手兼コンダクターを務めさせていただきます。もっとも、いつでも可というわけでもありませんが(笑)。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今月下半期は小生不在がちになりますし、八月に入ると暑くなり、夏に弱い小生は来訪者に接するのが苦痛になります。もすこし好適な季節の時が御来訪にはいいかと思はれますので此事一寸申し上げます。


昭和26年(1951)7月13日 宮静枝宛書簡より 光太郎69歳

宮は岩手出身の女流詩人。光太郎とは戦前から交流があり、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は全編光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、光太郎の進言通り秋になってから光太郎の山小屋を訪問した際の写真が14葉も載っています。また、盛岡市立図書館さんには、写真そのものも寄贈されています。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻に昨日から来ております。ほぼ一ヶ月ぶりです。

今回は、オペラ歌手の清水邦子様と同じく黒川京子様とをお連れしての珍道中となっております(笑)。
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帰りましたら詳しくレポートいたします。


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