2025年01月

1月19日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版の連載「美の粋」で取り上げられました光太郎の親友であった碌山荻原守衛に関して、続編が1月26日(日)に出ました。前回もそうでしたが、見開き2ページの長い記事ですので、光太郎の名が出る部分のみ。

新宿に吹いたパリの風「中村屋サロン」群像(中) 命を凝縮した彫刻 受け継がれる思想 荻原守衛(碌山)「女」

002突然の「絶作」刻まれた理想
 主を失った部屋にその「女」(1910年)は一人残されていた。この像を制作した年の4月20日、荻原守衛(碌山)は新宿中村屋で血を吐いた。そして、その2日後、30歳で逝った。あまりに唐突な死だった。
 地面にひざまずき、手を後ろ手に組み、体をねじり上げるようにして上空を見る女性像。まるで捕虜になったかのようにも、見えない何かにとらわれているようにも見える。実際にやってみれば分かるが、かなり苦しい体勢だ。しかし、その表情には何かを悟ったかのような高貴さがある。
 モデルを務めたのは岡田みどりという女性だった。しかし、その顔は中村屋の経営者で、相馬愛蔵の妻、黒光によく似ている。黒光自身も残された像を見て、碌山が誰を思って制作したのか、悟らざるを得なかったようだ。「単なる土の作品ではなく、私自身だと直覚されるものがありました」(相馬黒光「黙移」)
 この作品に賭ける思いは強かった。友人の高村光太郎がアトリエを訪れた際に碌山は、完成間近の「女」を「やはり、どうにも気に入らない」と破壊しようとした。高村は慌てて、それを止めたという。また、別の友人、戸張孤雁は部屋の中で、薄着で震えている碌山の姿を目撃している。服は、制作中の「女」にかけてあった。
 確かに「女」は黒光への思いから生まれたものではあったのだろう。碌山美術館の武井敏学芸員は「『女』の姿は、士族の家に生まれながら貧しさにも苦しみ、夫、愛蔵の愛人問題など人生の苦難を乗り越えてきた黒光の姿に重なる」と話す。
 一方で、作品は一個人への恋慕の情にとどまらない精神性も感じさせる。黒光は進んで学び、芸術への理解もある教養の高い女性だった。「良妻賢母という旧習にとらわれることなく、自由な生き方を求めたこの時代の女性たちの姿が投影されている」(武井学芸員)ようにも見える。碌山が表現したかったのは黒光に代表される、この時代における総体としての「女」そのものだったのではないだろうか。
 碌山の愛は、届くことはなかった。黒光は苦しみながらも愛蔵を許し、その後も子供をもうけた。碌山の悩みは深かった。高村ら友人に送った手紙に胸の内を明かしている。「日暮れて谷間をさまよう旅人の如く。頭が病んでいる」「惨めだ。僕は失ってしまった。いやまだ失っていないが」。「文覚」(1908年)や「デスペア」(1909年)では、黒光への恋心から生まれた苦しみや絶望を作品に込めた。
 しかし、「女」の表情は負の感情を感じさせるどころか、どこか晴れやかですらある。そこには、碌山自身の心境の変化も表れているようにみえる。武井学芸員は「苦境を受け入れ、これからは高みを目指していこうという前向きな意志も感じさせる」と指摘する。だとすれば、次に碌山はどんな作品を生み出したのだろうか。残念ながら、それを確かめる術はない。
 碌山自身ももちろん、これが絶作になるとは知るよしもない。しかし、不思議なことに「女」を見るうちどこかでこれが最後の作品になることを知っていたのではないかと思えてくる。内面から輝くような生命の美を彫刻に求めた碌山の理想が全て刻み込まれた、まさに集大成の出来栄えだ。
 碌山の彫刻家としてのキャリアはパリ時代を含めても4年ほどにすぎない。帰国後に限ればたった2年だ。恐るべき才能であったといえる。そのあふれるほどの才能は黒光と再会することで、苦しみとともにではあったが発露を見た。「女」には碌山の命そのものが凝縮されている。
 「女」はその年の10月、碌山の兄から委託され、東京美術学校鋳金科に在学中の山本安曇が鋳造した。文展にも出品されたが、結局、3等に終わった。真の価値が認められるまでには、半世紀の時を要した。67年「女」の石こう型は、日本の近代彫刻で初めての重要文化財に指定された。
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前回メインで取り上げられた守衛の「坑夫」同様、「女」も光太郎が救ったという話。数年前に知ったのですが、光太郎、グッジョブでした。

引用部分最後に、山本安曇による「女」鋳造の件に触れられていますが、この際には光太郎実弟にしてのちに家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ豊周も参加しています。

右画像は豊周著『自画像』(昭和43年=1968 中央公論美術出版)から。

引用部分は見開き2ページの片側部分で、このあと引用しなかった後半部分が続きます。そちらでは守衛没後の柳敬助、戸張孤雁、中原悌二郎らに触れられています。

2週で「上・下」かな、と思ったのですが、3週で「上・中・下」のようです。すると2月2日(日)掲載分の「下」では、「上」「中」でほとんど触れられなかった中村彝あたりがメインになると思われます。

ちなみに新宿の中村サロン美術館さんでは、現在、「コレクション展示 中村屋サロン」が開催されています。「坑夫」「女」も出ていますし、わりとよく出品されるのでその都度ご紹介はしていませんが、光太郎の油彩画「自画像」(大正2年=1913)も出ています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お説の通り、此の小屋の湿気が神経痛にも大いに関係ある事萬々承知の上、如何ともし難き事情の下に、この五年間水牢に起居するつもりで過ごして居た次第であります。しかしこんな事は何でもありません。


昭和26年(1951)7月14日 照井欣平太宛書簡より 光太郎69歳

「水牢」は江戸時代、主に年貢未納者を水浸しにした牢に閉じこめた刑罰、またはその牢です。

翌年、光太郎再帰京後に国安芳雄と行った対談「心境を語る」では、次の記述があります。

山だから湿気がひどくて、ふとんなんかべとべとになつてしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまつているようなものだ。これは悪いことをしたから水牢に入っているのだと思つて、そんなら我慢できると思つた。水牢よりはまだいいような気がした。想像では、解らないもの凄い生活だつた。自分が寝ていると息がふとんにかかつて氷になるんです。

布団が凍るというのは、一年で最も寒い今の時期あたりだったでしょうか。今日はその山小屋に行って参ります。

まず岡山県から演劇公演の情報です。

地方紙『山陽新聞』さん記事。

没後30年 永瀬清子の生涯たどる 2月9日 岡山・ハレノワで朗読劇

 現代詩の母と称される赤磐市出身の詩人永瀬清子(1906~95年)の没後30年に合わせ、朗読劇「永瀬清子物語VIII ラビリンスの旅人」が2月9日、岡山芸術創造劇場ハレノワ(岡山市北区表町)で上演される。 朗読グループ「白萩(はくしゅう)の会」が、永瀬の詩を交えながらその生涯をたどる。
  同会は永瀬と同郷で長年交流のあった竹入光子さん(78)=赤磐市=が約20年前に発足させ、12人が所属する。古里で農業をしながら詩を書き続けた永瀬の生きざまと作品の魅力を伝えようと、2011年に「永瀬清子物語I」を上演し、今回で8作目。 タイトルは<人の一生はラビリンス(迷路)の旅人のようなものだ>という永瀬の文章の一節から着想。結婚出産、高村光太郎らとの交流や宮沢賢治の詩との出合い、帰郷して農業を始めたことなど、メンバーが永瀬の詩を朗読しながら人生の転機となったさまざまな場面を演じる。
  「母として女性として人として、地に足を着けた力強い詩を書き続けた。岡山に素晴らしい詩人がいたことを多くの人に知ってほしい」と永瀬役の伊島久美さん(64)=岡山市北区。脚本と演出を務める竹入さんは「永瀬の詩には老若男女、誰の心にも響くものがある。物語を通してその詩が生まれた背景を表現したい」と話す。
 午前11時、午後3時開演。入場料2千円。岡山芸術創造劇場ボックスオフィス(086―201―2200)。
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公演の詳細。

朗読劇・永瀬清子物語Ⅷ「ラビリンスの旅人」

期 日 : 2025年2月9日(日)
会 場 : 岡山芸術創造劇場ハレノワ 岡山市北区表町3丁目11-50
時 間 : 午前の部 11:00開演/午後の部 15:00開演
料 金 : 全席自由 2,000円

“現代詩の母”郷土岡山の詩人・永瀬清子没後30周年記念公演

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女流詩人の草分けの一人にして、光太郎や当会の祖・草野心平らと交流を持った永瀬清子。光太郎、心平らと共に、かの宮沢賢治作『雨ニモマケズ』が「発見」されたという昭和9年(1934)に新宿モナミで開かれた賢治追悼の会にも居合わせ、詳細な回想を残しています。

その永瀬の忌日・紅梅忌が2月17日(月)でして、それに合わせての公演でしょう。イベントとしての紅梅忌は前日・2月16日(日)に赤磐市の永瀬の生家で執り行われます。
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ところで、演劇でもう1件。

2月11日(火・祝)に岩手県花巻市の花巻市文化会館で開催される「第67回元祖花巻わんこそば全日本大会」で、賢治や光太郎も登場する寸劇が行われるそうです。

フェイスブックでそうした書き込みを見つけ、問い合わせたところ「同じ会場内でホールは違いますがm(_ _)m13:40〜からゲリラ的に始まります」とのこと。ゲリラライブなのでネット上には公式な予告が出ていませんが、ご紹介しておきます。
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花巻といえば、また明日・明後日と花巻に行って参ります。例によって大沢温泉さんで雪見風呂としゃれこんで参ります。

【折々のことば・光太郎】

お問合の浮彫三尊仏は小生の作ではないやうに推定いたされます。小生これまで落款は縦に一行に入れてゐました。お示しのやうに枠内に二行に入れた事は記憶にございません。


昭和26年(1951)7月5日 神部健之助宛書簡より 光太郎69歳

光太郎生前から既に贋作が出廻っていたのですね。

まずは訃報を1件。共同通信さん配信記事から。

堀場清子さん死去 94歳 詩人、女性史研究家

 詩人で女性史研究家の堀場清子(ほりば・きよこ=本名鹿野清子=かの・きよこ)さんが10日、午前10時15分、老衰のため千葉県の高齢者施設で死去した。94歳。広島県出身。葬儀は行った。喪主は夫で歴史学者の鹿野政直(かの・まさなお)さん。
 共同通信記者を経て、詩作と評論の道へ。被爆体験に基づく「原爆詩」を詠んだほか、高群逸枝ら女性史家を研究した。戦後の連合国軍総司令部(GHQ)占領下での検閲の実態にも迫った。詩集「首里」で現代詩人賞。著書に「青鞜の時代」「禁じられた原爆体験」「堀場清子全詩集」など。
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記事にある『青鞜の時代』(昭和63年=1988 岩波書店)が手元にあります。智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』の創刊から終焉、さらに後日談までを端的にまとめたものですが、『青鞜』そのものや主宰の平塚らいてうらの筆による事務日誌、同時代のさまざまな文献などを細かく検証、大いに参考になりました。
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残念ながら絶版となっているようですが、復刊を期待します。

もう1件、「訃」のからみで、地方紙『福島民報』さんから。1月25日(土)掲載の一面コラムです。

大空で(1月25日)

石垣りんの詩にある。〈お母さん、なぜ過ぎてゆかねばならないのですか、花は美しく、空はあんなに青い、このはるの 光あふれる中から―。〉▼19歳の予備校生はなぜ突然、将来を絶たれたのか。自宅から遠く離れた北のまちかどで。冬の日差しが緩んだ風をまとい、地上に届き始めたこの時。無念などという言葉では言い尽くせない。大学受験で郡山市を訪れた大阪府の横見咲空[さら]さんが、酒気帯び運転の犠牲になった。その命を返してあげる手だてはない▼「白が似合う女性だった」。事故現場に駆け付けた同級生が語っていた。笑顔を絶やさぬ、明るく素直な人柄だったとも。心の奥に純真を秘めていたのだろう。歯学部への進学を志していた。怖くないよ、お口を大きくあけてごらん―。治療を怖がる子どもを、にこやかになだめる。優しい未来の歯医者さんを奪った暴走が、ひたすら憎い▼詩は続く。〈お嬢さん お嬢さん 雲が流れてまいります どこへ流れてゆくのでしょう あれあれあんなに はるばると〉。咲空さん。せめて、さえぎるものは何もないほんとの空で、存分に夢を咲かせて。あなたを守れなかった悔しさを胸に、県民は願っているよ。<2025・1・25>

1月22日(水)に郡山市で起きた痛ましい死亡事故に関してです。ここで「智恵子抄」由来の「ほんとの空」の語を持ってくるか、という感じでしたが、じんとくるものがありました。お名前に「空」一字の入る亡くなられた方は、同市の奥羽大学さん歯学部を受験予定だったとのこと。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

紙絵の保管を願つてゐる院長さん、真壁さん、貴下には自然紙絵をもらつていただく結果になるでせう。これは当然でせう。

昭和26年(1951)6月30日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

千数百枚あった紙絵は、智恵子とも親しかった当会の祖・草野心平らに贈られた他、戦時中に約3分の1ずつ、花巻の佐藤隆房(院長さん)、山形の真壁仁、そして茨城の宮崎の元に分散疎開の措置を講じ、おかげで焼失を免れました。

銀座資生堂画廊に於いて都内で初めての智恵子紙絵展が開催されると、画集として出版したいという申し出が複数の出版社からありましたが、全て拒絶。宮崎には「宮崎さんから高村先生を説得して下さい」的な話があっても断るようにと釘を刺したようです。

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の劣悪な環境では、紙絵の保存も覚束ないということで、「貴下には自然紙絵をもらつていただく結果になるでせう」。宮崎の妻・春子は智恵子の姪にあたり、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付添婦を務め、殆ど唯一紙絵の制作現場を直に見ていた人物だということもあるのでしょう。

ところが、光太郎は結局「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、その終焉の間際にほとんどの紙絵を手元に返却して貰うことになります。

オンラインでの講座を2件ご紹介します。

戦争とモダニズムの詩学 現代詩の源流と詩作のヒント

期 日 : 2025年2月8日(土)
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 一般3,850円
主 催 : 朝日カルチャーセンター新宿教室

 1920年代から30年代は、現代詩の源流ともいうべきモダニズム詩の時代。今から見ても斬新・お洒落で、胸を打つ作品が沢山生まれました。一方で、それは戦争はじめ動乱の時代、人間性が危機に直面する時代でした。様々な危機に直面して、詩人たちが思いを託したのが機械や動物など「人間ではないもの」のイメージです。
 こうした表象を探りつつ、近年話題となった左川ちかや、萩原恭次郎、高村光太郎その他の詩を探訪し、バラエティ豊かな作品から、詩を創作する際のヒントも提示します。
 Zoomウェビナーを使用したオンライン講座です。見逃し配信(1週間限定)はマイページにアップします。

講 師 : 鳥居万由実
 文学研究者、詩人、東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程修了。近著に『「人間ではないもの」とは誰か: 戦争とモダニズムの詩学』(2022年、青土社)。2008年、第一詩集『遠さについて』(ふらんす堂)により中原中也賞最終候補。他に、実験的散文集『07.03.15.00』(ふらんす堂、2015年)がある。
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講師の鳥居氏、紹介文にあるとおり青土社さんから『「人間ではないもの」とは誰か-戦争とモダニズムの詩学-』を刊行されています。同書ではまるまる一章費やして光太郎にも触れて下さいました。

もう1件。

心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編~

期 日 : 2025年2月14日(金)・2月28日(金)・3月14日(金)
時 間 : 10:30~12:00
料 金 : 9,900円
主 催 : NHKカルチャー西宮ガーデンズ教室

声の響きや作品の息遣いを楽しみながら、朗読の世界に心を遊ばせてみましょう。伝わる声づくりから明瞭な発音、声の表現力の磨き方、朗読の基本をオンラインで受講していただけます。声と言葉の豊かさは心の豊かさ。人生をより豊かに、実りあるものにしてくれます。ぜひ、朗読にチャレンジしてみてください。

●1回目:ここちよく声を出すために 「あどけない話」高村光太郎等
 伸びやかな声のためのストレッチ、声を心を安定させる腹式呼吸、明瞭な発音の基本
●2回目:声の可能性にチャレンジ 「やまなし 五月」宮沢賢治
 ベストボイスを探す、苦手な発音を克服、声の5要素を深める
●3回目:声の表現力を広げる 「やまなし 十二月」宮沢賢治
 朗読の手順、作品の息遣いを伝える表現

講 師 : 川邊暁美(朗読家・神戸女学院大学非常勤講師)
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川邊氏は同様の講座で昨年1月11月にも講師を務められました。たびたび光太郎作品を取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あの写真は今年撮影したものです。標柱再建に際して文字を書いてゐるところを偶然撮影されたものです。


昭和26年(1951)6月20日 矢沢高佳宛書簡より 光太郎69歳

「あの写真」は、『文藝春秋』第29巻第9号の巻頭グラビアページに載った田村茂の撮影になるもの。父・光雲の十三回忌を記念して、昭和21年(1941)に山小屋脇に栗の実を植え、建てた標柱が傷んだため、この年再建した際のものです。
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標柱は光太郎没後に石材にコピーされ、巨木に生長した栗の木の傍らに建てられました。現物は高村光太郎記念館さんで保存しています。

その後、残念ながら平成29年(2017)頃にこの栗の木が枯死してしまい、倒壊の危険があるということで、やむなく伐採されてしまいました。石の標柱は元の場所に現存しています。
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まずは地方紙『岩手日日』さんの記事から。

青春の感性光る 高文連花巻支部合同展 

 県高校文化連盟花巻支部の合同作品展は25、26の両日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれている。花巻、遠野両市の高校生による絵画や書、写真などが展示され、みずみずしい感性や独創的な表現が来場者の関心を引いている。
 文化活動の発表により、創造活動の向上と相互の交流を図ることを目的に毎年開催されており、28回目の今回は花巻北、花巻南、花巻東、花巻農、遠野、遠野緑峰各高校の1~3年生が約140点を出品した。
 美術の部は、高校生らしい繊細な心模様や友人などを題材にした絵画などがずらり。部活動や放課後など充実した高校生活の一瞬を豊かなアイデアで切り取った写真、力強さや流麗さを感じさせる書などもあり、訪れた人が多彩な作品に興味深く見入っていた。
 花巻南高家庭部は、文芸部の活動とタイアップし、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻智恵子がデザインしたエプロンを復刻させて展示。初日は花巻北高茶道部によるお茶会も開かれた。
 横坂貴同支部長は「日ごろの活動で磨き上げた成果を思う存分発揮するため、準備を進めてきた。文化活動に情熱を注ぐ仲間同士の交流を通し、実り多い発表の場となることを期待する」としている。

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記事にあるとおり花巻南高の家庭クラブさん、昨年6月に開催された「五感で楽しむ光太郎ライフ」というイベントでお披露目いただいた「智恵子のエプロン」について(エプロンそのものも)、さらに10月の「土澤アートクラフトフェア」で、「智恵子抄」由来のレモンのパウンドケーキをふるまった件について、展示発表くださいました。
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主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんから画像を頂きました。南高さん、今年というか、来年度というかも、やつかの森LLCさんと合同でなにがしかの活動を展開して下さるとのこと。有り難いお話です。

ちなみに智恵子のエプロン。智恵子本人が身に纏っている画像を発見しました。以前から知られている画像で、このブログでも何度か使ったものですが、モノクロ画像ではわかりにくかったのが、最近流行りの古写真をAIでカラー化するアプリを使って遊んでいたところ、気づいた次第です。
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胸の部分の特徴的な三角形のフォルム、まちがいありますまい。生地も柿渋で染めた酒袋の色です。

今後、智恵子の故郷・福島県二本松で、このエプロンに関わる活動等につなげて行ければ、などと考えております。

花巻南高家庭クラブさん、文芸部さん、さらなるご活躍を期待しておりますし、他校にも光太郎智恵子顕彰の機運が波及していってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

紙絵の画集を企画してゐる本屋が二、三ある事を知りましたが、これには小生同意しかねます。てんらん会と画集とは全く別事です。今の粗雑な感覚の連中に紙絵をいぢくり廻され、つたない印刷技術で印刷されるよりも、自然褪色の方がよいと考へてゐます、粗雑な連中は粗雑な事を自覚してゐないので尚あぶないです。

昭和26年(1951)6月24日 真壁仁宛書簡より 光太郎69歳

銀座資生堂画廊に於いて都内で初めての智恵子紙絵展が開かれると、画集として出版したいという申し出が複数舞い込みました。しかしカラー印刷の技術がまだまだということもあり、全て拒絶。結局紙絵の画集の出版は光太郎生前には行われませんでした。

大阪府から演劇の公演情報です。

吹田市民劇場 SHOW劇場 番外編vol.2 a次元のふたり

期 日 : 2025年2月8日(土)・2月9日(日)
会 場 : 吹田市民劇場 大阪府吹田市泉町2-29-1
時 間 : 2/8 15:00~ 2/9 11:00~/15:00~
料 金 : 全席自由 2,000円

作 : 高橋恵 演出 : 上田一軒 出演 : 佐々木ヤス子/竹内宏樹

芸術家としての葛藤と夫婦の愛の物語
高村光太郎は意のままにならない肺に振り回されていた。長沼智恵子は意のままにならない自らの右手に苛立っていた。ある日智恵子は「太陽が緑色でもかまわない」という評論を目にし、作者に会おうとする。乱れた呼吸に喘ぎながら光太郎はその日アトリエで智恵子と出会う。
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タイトル中の「a次元」は、光太郎詩「智恵子と遊ぶ」(昭和26年=1951)由来。

  智恵子と遊ぶ

 智恵子の所在はa次元。
 a次元こそ絶対現実。

 岩手の山に智恵子と遊ぶ007
 夢幻(ゆめまぼろし)の生の真実。

 フレンチ平原に茸は生えても
 智恵子の遊びに変りはない。

 二合の飯は今日のままごと。
 牛のしつぽに韮を刻む。

 強敵糠蚊(ぬかが)とたたかひながら
 三畝の畑にいのちを託す。

 あばら骨に錐は刺され
 肺気腫噴射のとめどない咳。

 造型は自然の中軸。
 この世存在のシネ クワ ノン。

 一切は智恵子a次元の逍遙遊。
 遊ぶ時人はわづかに卑しくなくなる。

a次元」は、我々の生きて存在する物理次元を超えた精神世界、抽象次元を表す用語です。カルト宗教の信徒のように、その存在を確信していたわけではないのでしょうが、光太郎にとって、感覚的には、亡き智恵子の存在するa次元と、自らの存在する花巻郊外旧太田村の山林の間の垣根は低かったようです。「シネ クワ ノン」はラテン語で「sine qua non」。「不可欠なもの」といった意味です。

肺気腫」云々は、戦前から煩っていた宿痾の肺結核に関わります。ただ、戦前からと言っても、初めて喀血が起こったのは、確認出来ている限り大正12年(1923)のことです。今回の舞台は、明治44年(1911)の光太郎智恵子の出会いから描かれ、その時点で既に「高村光太郎は意のままにならない肺に振り回されていた」ということになっています。このあたりは物語上の演出なのでしょう。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

見る人が多かつた由をきき、無意味でもなかつたかと思つてゐます。しかし東京の人にはあの本当の美が分かるとは思ひません。特殊芸術位に考へるだらうと推察します。都会生活をしてゐる者は結局遊びに終始する運命をもつてゐます。小生は彼等をあひてにしません。


昭和26年(1951)6月12日 真壁仁宛書簡より 光太郎69歳

銀座資生堂画廊において開催された、都内で初の智恵子紙絵展がらみです。

真壁は山形在住の詩人。東北人となって久しい光太郎、その意味でのシンパシーを感じていたようです。戦時中に光太郎が疎開させた智恵子紙絵千数百枚のうち、およそ3分の1を預かっていました。翌月発行された『美術手帖』通巻45号に、「切抜絵の美 高村智恵子夫人の遺作について」という一文を寄せています。
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昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年余り療養生活を送った千葉県旧豊海村(現・九十九里町)でのイベント情報です。

先着2025名様限定「ごはんにかける黒アヒージョ」「九十九里のだし」をプレゼント!「九十九里パスポート」スタンプラリー開催のお知らせ

開催期間 : 2025年1月17日(金)~2月28日(金)
商品交換 : 九十九里のだし(1月~2月) 黒アヒージョ 九十九里オリジナル(2月限定)
       数量限定のため、期間中であっても商品がなくなり次第終了となります。

 九十九里限定バージョンの町内特産のいわしを使った「ごはんにかける黒アヒージョ」と「九十九里のだし」を先着2025名様限定でプレゼントするスタンプラリー「九十九里パスポート」が開催されます。
 九十九里町を訪れてポイントを貯めるだけで、九十九里の魅力を詰め込んだ商品が手に入ります。
 ごはんにかける黒アヒージョは、千葉県産の鰹だしに、千葉県産のこだわり素材(鰹、白子玉ねぎ、落花生、マッシュルーム、山武の海の塩、燻製醤油)とニンニク、オリーブオイル、九十九里のいわしをプラスした、まさに千葉県素材オールスターで作った逸品です。ご飯だけではなく、パスタやバケットにもひったりです。
 だしは、九十九里特産のいわしと千葉県産かつおを使用し、塩には山武の海の塩を使い、卵かけご飯、鍋の締めの雑炊、そばつゆ、おでん、お雑煮などにも最高の美味しさを楽しめる逸品となっております。
 この機会にぜひ九十九里町へ足を運んでください!
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ポイントの貯め方
 まず、九十九里パスポート登録ページにアクセスして登録します。(登録無料)

 登録したら、九十九里パスポートマイページにログインした状態で、スタンプラリーの各スポットを訪れるか、町内の飲食店や施設に設置してある、QRコードを読み込みます。
  ・九十九里町の各スポットを訪れる:10ポイント獲得
  ・町内の店舗や施設を利用する:20ポイント獲得
 合計30ポイントで1セットと交換できます。
【ポイント獲得できる店舗・施設の一覧】 https://app.valmeets.com/store-list

スタンプラリーの参加方法
 各スポットのおおよそ300m以内に近づいたら、スタンプラリーアプリを起動し、「入手する」ボタンを押してください。注意:クリア済みのスポットは再度クリアすることはできません。

スタンプラリーのスポット一覧
 https://app.valmeets.com/stamp-rally/stamp-rally001
 ■伊能忠敬記念公園 千葉県山武郡九十九里町小関2689
 ■宮島池親水公園   千葉県山武郡九十九里町田中荒生414-1
 ■九十九里ふるさと自然公園センター(片貝海水浴場内)
 ■いわし資料館(海の駅九十九里内)
 ■智恵子抄詩碑(高村光太郎) サンライズ九十九里近く
 ■九十九里ビーチタワー(不動堂海水浴場内)
 ■九十九里町観光オブジェ(片貝海水浴場内)

九十九里パスポートの運営について
 九十九里パスポート運営委員会は、「九十九里パスポート」を通じて、地域の魅力を広く発信し、観光振興と地域活性化を目指すために結成された団体です。
 本委員会は、バルスタック株式会社(代表企業)、ちばぎん商店株式会社、近畿日本ツーリスト、および九十九里町による連携体で構成されています。

九十九里パスポート事業の詳細およびクラウドファンディングについて
 期間中に九十九里町に来られない方も、クラウドファンディングでご支援いただくことでご自宅で、「黒アヒージョ」「九十九里のだし」が楽しむことができます。ぜひご支援よろしくお願いします。
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※携帯で見る場合、「+もっと見る」ボタンを押してください

光太郎詩「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)詩碑もスポットとして登録されています。
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ぜひ足をお運びの上、賞品をゲットして下さい。抽選でなく先着順だそうですので。

【折々のことば・光太郎】

012智恵子遺作紙絵展会場の写真四葉、記事掲載の東京夕刊新聞二葉送り下され、忝く存じました。おかげで会場の模様等分かりました。今度の展覧会では小生まるで役に立たず、在京の諸賢の厄介になりました事まことにありがたく感謝して居ります。

昭和26年(1951)6月9日 河鍋東策宛書簡より
 光太郎69歳

東北では複数回行われていた智恵子の紙絵展、銀座の資生堂画廊にて都内で初の開催となりました。それまで「切抜絵」などと称されていた智恵子の作品を、光太郎の意志で「紙絵」と呼ぶことになった初めての機会でした。

雑誌の新刊です。

『実践国語教育』2025年2/3月号

発行日 : 2025年3月1日(1月16日発売)
版 元 : 明治図書出版株式会社
定 価 : 960円(税込)

特集 学年末の「読むこと教材」単元計画バリエーション
 全学年総点検! 年度末の国語授業「やることリスト」
 小学校 学年末の「読むこと教材」単元計画バリエーション
 中学校 学年末の「読むこと(詩)教材」単元計画
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005小中学校教員向けの専門誌です。この時期に扱うべき教材として各学年の教科書に載っている作品の、さまざまな実践例の紹介がメインとなっています。

光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)も取り上げられています。東京書籍さん発行の現行の中学3年生用教科書『新しい国語』の最後のあたりに掲載があります。

広島の原爆投下の日を題材にした栗原貞子の詩「生ましめんかな」とセットで2時間扱い。兵庫県の公立中学校教諭の方の作成した実践例、計画案が載せられています。題して「詩から「死」の描き方を考える」。1時間目は「レモン哀歌」、2時間目に「生ましめんかな」。それぞれ伝統的な一斉授業の形態ではなく、グループ学習で、生徒たちが少人数で話しあいながら読みを深めていくという感じ。各グループで出た感想、意見等をワークシートに書き込んだり、あとでそれを共有しあったりという、生徒主体の活動が中心です。

生徒さんたちが実際に書き込みを行ったワークシートの例。
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出て来た意見等。なかなかに優秀な生徒さんたちのようですね。
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ここに到るまでの光太郎智恵子がどのような道程を歩んできたのか、また、智恵子死後の光太郎がどうなってゆくのか、そのあたりまではさすがに中学校の授業では詳細に掘りさげることは不可能でしょう。しかし、興味を持った生徒さんが、光太郎智恵子の世界に踏み込んでいけるような働きかけが、全国の学校さんで為されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

拙詩集のプリーはくだらんです。もつと若い人にやるべきだつたと思ひます。

昭和26年(1951)6月7日 川路柳虹宛書簡より 光太郎69歳

この年、前年に刊行された詩集『典型』が読売文学賞に選ばれたことに関します。「プリー」は「グランプリ(Grand Prix)」の「プリー」で「栄誉」の意。この場合は「受賞」ということでしょう。
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結局、賞金もほぼ全額、蟄居生活を送っていた旧太田村の山口小学校や青年団などに寄付してしまいます。

1月19日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版の連載「美の粋」で、光太郎の親友であった碌山荻原守衛が取り上げられました。見開き2ページの長い記事ですので、光太郎の名が出る部分のみ。

新宿に吹いたパリの風「中村屋サロン」群像(上) 未開地のパン屋に最先端の芸術006

ロダンに学ぶ碌山の凱旋
 低くのしかかるようなJR山手線の高架越しに見上げた西新宿の高層ビル群はひときわ高く見えた。1日の乗降客数が世界一を誇る新宿駅を抱える街は四六時中人であふれている。100年ほど前、ここが、まだみすぼらしい未開地であったときのことを想像するのは難しい。
 雑踏を縫うようにして歩くこと数分。新宿中村屋にたどり着いた。現在、菓子やインドカレーで知られるこの店は、芸術に命をかけた若者たちのたまり場でもあった。
 その物語は一人の青年がパリから戻ったところから始まる。名前を荻原守衛(碌山)という。
 「坑夫」(1907年)は日本近代彫刻の嚆矢(こうし)と称される作品だ。建物の装飾や愛玩物としての彫刻ではなく、彫刻のための彫刻を生涯追求した。元々は画家志望だったが、パリに留学中だった04年5月、オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て衝撃を受け、彫刻家に転身。2度目のパリ滞在の際には、ロダンから直接指導を受けた。「坑夫」はその時代に制作された。
 碌山の故郷にある碌山美術館(長野県安曇野市)には「坑夫」をはじめとするブロンズ像が多く残されている。同館の武井敏学芸員は「彫刻の本当の美しさは見かけではなく、内側から発する生命力にあると考え、その表現を追求した」と話す。
 パリ時代に制作した作品のうち、現存するのは「坑夫」を含め3点にすぎないが、すでに並々ならぬ力量を持っていたことが分かる。「坑夫」では、頭と首、胸が自然に連携しており、塊のように感じられる。それが肉体労働に従事する男の生命力そのもののようにして迫ってくる。
 この作品を高く評価し、石こうにとって日本に持ち帰るよう勧めたのが、彫刻や絵画を手掛け、詩人としても知られる高村光太郎だった。碌山と高村は互いの留学中に知己を得、ともにロダンに心酔したという共通点もあり、交友を深めていった。
 「坑夫」が制作された07年、日本では第1回の文部省美術展覧会(文展)が開催された。日本画、西洋画、彫刻の3部門があったが、彫刻部門への応募は、わずか44点だった。08年に開かれた第2回文展に「坑夫」は出品されたがその荒々しいタッチのため「未完成」と見なされ落選している。日本では、近代彫刻というものがまだまだ根付いていなかった。そんな状況において、高村は碌山のよき理解者と007なる。
 3回目の文展で3等賞を受賞したのが、「北條虎吉像」(09年)だ。帽子商会組合の会長への寄贈を受け制作されたこの作品には、生命力の一層の深化が見られる。塊を捉える目は卓越し、繊細な表情も息づいている。高村は「この作には自然のMOUVEMENTがある。(中略)。此の作には人間が見えるのだ。従つて生(ラヴイ)がほのめいてゐるのだ」と激賞した。
 碌山は、フランスの美術学校、アカデミー・ジュリアンで彫刻を学んだだけでなく、学内のコンペではグランプリを獲得するほどの実力を持っていた。当時、最先端の芸術を学んだ将来を嘱望される彫刻家であり、日本にパリの風を運ぶ使者だった。

記事はこのあと倍以上の長さで続きます。内容的にはタイトルの通り、守衛と同郷の相馬愛蔵が経営していた新宿中村屋さんに守衛が世話になる件、相馬夫人・黒光とのからみ、そして彫刻作品「文覚」と「デスペア」。
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また、欄外に「KEYWORD」として「中村屋サロン」。

 明治から昭和初期にかけて、芸術に理解のあった中村屋の創業者・相馬愛蔵、黒光夫妻のもとに多くの芸術家が集い、生まれた。昭和40年代に、安曇野出身の作家、臼井吉見は相馬夫妻の中心とした小説「安曇野」の中で、その様子を「ヨーロッパのサロンのようだった」と表現したことから、のちに「中村屋サロン」と呼ばれるようになった。
 西洋で彫刻を学び、相馬夫妻と交流のあった荻原碌山が、帰国後、中村屋に出入りするようになると、その友人や教えを請う若者も出入りするようになった。日本近代彫刻を代表する高村光太郎、中原悌二郎、戸張孤雁のほか、画家の柳敬助、斎藤与里、中村彝など日本美術史に名を刻む数々の才能が生まれた。また、美術以外でも、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースをかくまうなど、多用なジャンルの交流の場となった。

守衛絶作の「女」には触れられていませんでした。タイトルに「(上)」とあるので、「(中)」ないし「(下)」が今後あって、その中で取り上げられるのでしょう。

ちなみに「KEYWORD」に記述のある臼井吉見の『安曇野』。大河ドラマ化要望運動も起こっており、永らく絶版となっていたものが限定復刊というニュースも飛び込んできています。お披露目会が3月だそうで、また近くなりましたらご紹介いたします。

4年後の2029年には、守衛生誕150周年を迎えます。顕彰運動がより一層盛り上がることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生肋骨のヒビはまだ癒着せぬようで物を持つたり、つよいセキをすると痛みますが、肋間神経痛の方はだんだん軽減してきました。


昭和26年(1951)6月7日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

日記によれば5月14日に屋外で転倒、左の肋骨を強打したとのこと。居住していた山口部落には医者も居らず、見かねた知り合いの『花巻新報』記者が5月26日に骨接ぎ医を社用車で連れてきて治療してもらったそうです。

昨日は同じ千葉県内の市川市に行っておりました。目的地は行徳ふれあい伝承館さん。自宅兼事務所から愛車で1時間弱でした。
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光太郎やその父・光雲らと直接の関わりはありませんが、同時代の彫刻、工芸の関わりで。

同館、神輿(みこし)の制作を行っていた旧浅子神輿店を史料館的に活用しているもので、建物自体が国登録有形文化財です。
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古建築好きとしては、まずこの佇まいでアガります(笑)。
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浅子神輿店、当主が代々「浅子周慶」を名乗り、元は慶派の流れをくむ仏師だったそうです。
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下記は国会図書館さんのデジタルデータから。
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そこで、仏像も展示されていました。
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仏師としての主な仕事。
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明治20年(1887)発行の「東都諸工名誉五副対」。いわば名人番付のような。仏師として浅子の名が記されています。十三代目のようです。
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その真上に光雲の名も。
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光雲の肩書きは「仏師」ではなく「木彫」となっています。「ナカヲカチ丁一」は、駒込林町に移る前の明治19年(1886)から同25年(1892)まで暮らしていた仲御徒町一丁目37番地です。

光雲が師・東雲の元から独立したのが明治7年(1874)。維新後、国家神道の普及のため「神仏分離令」が出され、いわゆる廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。その結果、光雲は仏師としての仕事は立ちゆかなくなり、酉の市で熊手を売ったり、洋傘の柄や陶器の木型などを彫ったりして糊口を凌ぎました。一時は木彫から離れ、鑞型鋳金を学んだりもしました。しかし、再び彫刻刀を握る決意を固め、明治19年(1886)には東京彫工会創立の発起人となり、同年には龍池会の第七回観古美術会に「蝦蟇仙人」を出品。師の代作ではなく、初めて光雲の名で出品しました。したがってこの頃は、仏像も作ってはいたものの、もはや仏師とは言えなくなっていたということでしょう。

十三代浅子周慶はというと、やはり仏師としては先がおぼつかない、と踏んだのでしょうか、神輿制作を手がけるようになります。
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仏像制作も続けつつも、神輿の方が大当たりというわけです。それまでの神輿の形態を革新する部分もあったようで。

浅子による主な神輿の一覧。
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館内には新旧の神輿そのものや、各部分のパーツなどの作例も展示されています。
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なるほど、仏師の流れを汲んでいるというのがよく分かります。眼福でした。

ちなみに作例は少ないものの、光雲も神輿の彫刻を手がけました。

横浜伊勢佐木町の日枝神社さんの「火伏神輿」(大正12年=1923)。
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旧駒込林町の満足稲荷神社さん神輿(昭和4年=1929)と、子供神輿(同?)。
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ただし、これらは光雲個人というより工房作のような気がします。

さて、行徳ふれあい伝承館さん周辺は、空襲の被害も無かったようで(あるいはあったとしても軽微だったのでしょう)、古建築がいい感じに点在しています。
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裏手の方は旧江戸川。対岸はもう東京都です。
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工芸好き、古建築マニアの方など、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】006

ニホンゴ ハヨサノアキコノネツプ ウニイキテウゴ キテトビ テチリニキ


昭和26年(1951)5月26日 
中原綾子宛電報より 光太郎69歳

与謝野晶子没後十周年記念講演会への祝辞的に電報で送られた短歌です。のち、この年7月の雑誌『スバル』に漢字仮名交じりで掲載されました。


日本語は与謝野晶子の熱風に生きて動きて飛びて散りにき

昨年、中原綾子令孫から花巻市に光太郎からの書簡その他がごっそり寄贈され、その中にこの電報も含まれているとのこと。近々現物を拝見出来そうです。

このところ、光太郎の父・光雲、その師・高村東雲の彫刻を見て歩く機会を多くとっています。一昨日は千葉県野田市へ。昨年12月にもお邪魔し、キッコーマンさん敷地内の琴平神社さんで、東雲の手になるという胴羽目彫刻などを拝見して参りました。同じ野田市内の大師山報恩寺さんにも東雲作の弘法大師像がおわすという情報を得ていましたので、その足で伺ったのですが、その際は本堂の改修工事の関係で拝観出来ず。そこでリベンジです。

報恩寺さん、埼玉県境に近い中野台地区に鎮座する古刹です。ただ、現在地に移ったのは維新後、本堂は昭和3年(1928)落慶だそうです。
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蠟梅が見事でした。春が近いのを実感しました。
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本堂の扁額。周囲の細工が精緻ですね。
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賽銭箱。銅板が貼り付けてあるようです。珍しいタイプではないかと。
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お約束の阿吽の獅子も実にいい感じ。
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いやが上にも期待が高まります。

さて、寺務所で訪いを入れ、本堂に入れていただきました。

御本尊の弘法大師像。こちらが東雲の作で、幕末の御像です。
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残念ながら須弥壇までの距離が遠く、間近で拝観することは叶いませんでしたし、黒いお姿で画像も鮮明に撮れませんでしたが、見事な造作であることは見て取れました。御目は玉眼のようです。

看経座(御本尊にお経をあげる場所)には、もう一尊、大師像。こちらも東雲作。前立本尊のような感じです。
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こちらは目の前で拝観出来ました。
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僧形ということで、同じく東雲作の鎌倉建長寺さんにおわす五百羅漢像を彷彿とさせられました。こちらは東雲がこの地にやってきて彫ったという寺伝があるそうです。

本堂の欄間は名工・石川信光の作。石川は柴又帝釈天さんの胴羽目なども手がけています。東京美術学校での光雲の同僚にして、牙彫も手がけた石川光明の同族です。
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一部、弟子の作も入っているとのことで、そちらはやはり少し簡易な感じです。
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本堂脇の玄関的なところには、何と木村武山の絵。
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外へ出て、境内を散策。

本堂外側の濡れ縁や漆喰の壁などを、昨年、補修したそうです。蔀戸などは元のままだとのこと。
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小さな祠というか、お堂というか、そちらの胴羽目も素晴らしゅうございました。
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もしかすると、やはり石川一派、東雲一門などの手かな、とも思いました。

梵鐘は光雲三男にして光太郎実弟・豊周と繋がりのあった香取正彦の作。香取は梵鐘の鋳造で人間国宝に認定されています。
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飛天があしらわれ、実にありがたみが増していますね。

手水舎の龍もただ者ではありませんでした。
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失礼ながら、有名な大寺院でなくとも、このように素晴らしいお宝が見られるのだと改めて感じました。維持管理等、なかなかに大変かとは存じますが。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

澤田さんの小屋は今半分ほど出来ました。これが出来ると小さな彫刻が作れるでせう。

昭和26年(1951)5月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

「澤田さんの小屋」は、澤田伊四郎の龍星閣が費用を負担して普請中の増築部分(左の白い壁部分)です。
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ただ、結局、この増築部分が竣工しても、ここできちんとした作品としての彫刻を作ることはありませんでした。

一昨日、昨日と行われた来年度入学生のための大学入試共通テスト。

社会の「旧日本史A」の問題に、光太郎の父・光雲が出題されました。「旧」とあるので、現役生対象ではなく、高校の教育課程が変わる以前の浪人生向けでしょうか。
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2問抱き合わせで、正解を組み合わせた選択肢を選ばせる問題です。正解は②。
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光雲の「老猿は」ともかく、佐野常民の「綿糸・綿織物」は迷いましたが、わざわざ「蚕業織場勧興ノ報告書」を挙げた上で「b 生糸・絹織物」ではストレートすぎて引っかけの匂いがぷんぷんしますし、佐野常民といえば赤十字、赤十字といえば医療行為、医療行為といえばガーゼ、ガーゼといえば「綿」、なるほど、「綿糸・綿織物」か、と思って正答を確認したところ、正解でした(笑)。「老猿」の光雲が簡単すぎるのでこちらでバランスを取ったかな、という気がします。

ちなみに光雲は中学校レベルでも学ぶ事項なので、かつての高校入試の社会にも出題されています。
 2017年群馬県公立高等学校入試。
 平成31年度 千葉県公立高等学校「後期選抜」。

国語でも。
 平成30年度埼玉県公立高等学校入学者選抜国語。

息子の光太郎の文章も、2021年度の大学入試共通テストに問題文の一部として使われました。
 2021年度大学入学共通テスト・倫理。

昨年は京都大学さんの二次試験でも。
 2024年度 京都大学二次試験 前期日程 国語(文系)。

まぁ、入試云々は置いておいても、光雲や光太郎の名、ある程度の業績は、日本人としてのマストの一般常識として定着していてほしいものですが。

【折々のことば・光太郎】

御両所様御光来などといふ事は中々思ひもよらぬところでありました、 かやうな悪路の事とてさぞお疲れ遊ばされしことと御案じ申上げました、 何のおもてなしも出来ず、まことに申しわけもございませんでしたが御元気の様子を拝見して小生まで爽快の思ひをいたしました、


昭和26年(1951)5月9日 宮沢政次郎宛書簡より光太郎69歳

政次郎は宮沢賢治の父。光太郎より9歳上の明治7年(1874)の生まれですから、数えで78歳でした。「御両所様」は政次郎、そして夫人のイチ。イチは明治10年(1877)出生で数え75歳。初めて夫妻で旧太田村の光太郎の山小屋を訪れました。賢治の主治医だった佐藤隆房が自家用車で送っていったのですが、当時は舗装もされていないガタガタ道で、なかなか大変だったでしょう。
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山小屋をバックに、左からイチ、政次郎、光太郎です。

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二本松市の「観光力」を上げる!地域おこし協力隊員を募集します!

 二本松市では、地域外からの人材を積極的に誘致し、定住、定着を図るとともに、人材の能力を発揮できる場の提供に努め、地域力の維持及び魅力ある地域づくりを推進するため、地域おこし協力隊員を募集します。
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地域で目指すところ
 昭和30年から続く二本松市の一大イベント「二本松の菊人形」や令和4年4月にオープンした「にほんまつ城報館」を中心とした観光コンテンツへの誘客

こんなことを協力隊に求めています!
 今回募集する地域おこし協力隊のメインとなる業務は、「菊のまちとしてのブランド力強化」です。
魅力ある商品の開発や販路拡大、再ブランディング、景観整備、観光に関する企画・マーケティングなど、PDCAを自分で回せる積極性がある人を求めています。

活動場所について
 二本松市内(二本松市役所観光課内)での活動となります。

私たちがサポートします!
 市役所の観光課職員が担当者として関わります。着任時の不安や任期中に必要なことなどサポートします。このほか、隊員にむけた研修や交流会が開催されておりますので、積極的に参加し、他の地域の協力隊と知り合いになってぜひ活動の幅を広げてください。

卒隊後に向けた支援について
 3年間は地域おこし協力隊、以降は希望する仕事ができるように、サポートします。まずは一緒に卒隊後のイメージを具体的にしていくことからはじめましょう。協力隊2年目から任期終了1年目までに起業したい場合は、起業に要する費用1,000,000円の補助があります。任期終了後の定住のために空き家を改修する場合は、改修に要する費用500,000円の補助があります。

二本松市ってこんなところ
 二本松市は福島県の県北地域に位置し、高村光太郎の詩集「智恵子抄」で詠われた安達太良山を西に仰ぎ、中央部を阿武隈川が南北に流れ、東の日山・羽山が連なる阿武隈高地まで東西約35キロメートルに及ぶ市域を有しています。うち、市の東部に位置する東和地域は、阿武隈川東岸の標高約180mから羽山の891mまでの起伏の多い丘陵地で、山間を縫う川筋に小区画の耕地と集落が点在しており、そこで豊かな自然に包まれた里山の生活が営まれています。

 お知らせ
 希望があれば、電話やオンラインで説明を行います。

募集情報
 制度名 地域おこし協力隊
 業務概要
 (1)観光イベント企画運営
  「二本松の菊人形」会場内外で行うイベントや令和4年4月にオープンした
 「にほんまつ城報館」で行うイベントの企画~運営を主体的に担う。
 (2)菊のまち二本松ブランド力強化
  菊人形で使用する菊の栽培補助や菊関連商品開発のサポート等、
菊のまち二本松としてのブランド力強化を行う。
 (3)SNS等を活用した地域の魅力発信
  イベントを始めとした観光客の誘客につながるような地域の魅力について、
SNS等を活用した情報発信を行う。
 (4)その他、市が必要と認める活動

 募集対象 次の要件をすべて満たす方
 (1)学歴 高等学校卒業以上
 (2)任用の日において18歳以上の方
 (3)居住地要件 応募日において、三大都市圏をはじめとする都市地域等に在住し、
任用後、二本松市に住民票を異動し生活拠点を移すことができる方。
 (4)普通自動車免許を有している方。
 (5)基本的なパソコン操作(ワード、エクセル、パワーポイント等)が出来る方。
 (6)地域になじみ、地域の人々と共に汗を流しながら活動に取り組める方で、
任用期間満了後においても本市に定住する意欲のある方。
 (7)心身ともに健康で誠実に職務を行うことができる方。
 (8)地方公務員法第16条に規定する一般職員の欠格条項に該当しない方。
 募集人数 1名
 勤務地 二本松市内(二本松市役所観光課内)
 勤務時間
 1週間あたり31時間(パートタイム勤務)
 通常の勤務時間は午前8時30分から午後5時15分となります。
 (1日の勤務時間7時間45分、原則週4日勤務)
 雇用形態 地方公務員法第22条の2第1項第1号に規定する二本松市会計年度任用職員
 雇用期間
 (1)令和7年4月1日以降の委嘱の日から令和8年3月31日まで。
 (ただし、3年を限度に委嘱することができます。)
 (2)協力隊員として、ふさわしくないと二本松市が判断した場合は、
雇用期間中であってもその職を解くことができるものとします。
 給与・賃金等
 【月例給】180,320円
 ※上記から、社会保険料等の本人負担分を控除します。
 【通勤手当】通勤距離が片道2km以上の場合、通勤手当を支給します。(上限あり)
 【期末・勤勉手当】あり
 待遇・福利厚生
 (1)健康保険、厚生年金、雇用保険に加入。
 (2)二本松市内のアパート等に入居していただきます。
  (家賃は本人負担無し。ただし光熱水費は本人負担となります。)
 申込受付期間 随時
 審査方法
 【選考方法】
 ①書類選考
 提出書類により都度書類選考を行います。結果は応募した方全員に連絡します。
 ②面接
 書類選考の合格者に対し、都度面接による選考を実施します。
 面接の日時・場所・方法については、文書により通知します。
 また、面接の結果(合否)についても文書により通知します。
 ③その他
 採用が決定した場合は、募集を終了します。


お問い合わせ先
 〒964-8601 福島県二本松市金色403番地1 二本松市産業部観光課
 電話:0243-55-5095 FAX:0243-22-8533
 e-mail:kankorisshi#city.nihonmatsu.lg.jp(#を@に変換)

「地域おこし協力隊」。平成21年(2009)から総務省の肝煎りで始まった制度で、隊員に定住してもらって地域協力活動に従事、地域力の向上を図るというものです。当方、光太郎ゆかりの花巻市十和田市の隊員の方々にはいろいろとお世話になりました。

二本松市のかつての協力隊の方は、特産の上川崎和紙日本酒などに関わるイベント等でご活躍。また二本松市に隣接する大玉村さんでも「智恵子抄」ゆかりのワインにからめ、協力隊の方も参加なさったトークセッションなどもありました。

「智恵子抄」ゆかりの街としての二本松をその方面からももっと盛り上げていただける方のご応募を期待いたします。「我こそは」と思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生新らしく原稿を書く気が更に起こらずに居ます。出版に対してなんだかうるさくなりました。小生のものについて、新しい企画はもうあれ以上しないで下さい。008
昭和26年(1951)4月25日
澤田伊四郎宛書簡より 光太郎69歳

澤田は昭和16年(1941)のオリジナル『智恵子抄』版元の龍星閣主。太平洋戦争の激化に伴い、龍星閣は休業。澤田から版権を譲ってもらったと称した白玉書房が戦後に『智恵子抄』を復刊しましたが、いろいろ行き違いがあって、光太郎にも面倒がおよびました。そのあたりが「うるさくなりました」。

「あれ以上しないで下さい」という「新しい企画」は、再興した龍星閣から上梓された光太郎の随筆集『独居自炊』。過去の随筆集などからの再編で、光太郎自身あまり気乗りのしないものでした。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」、メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから今年初めての分の画像が届きました。
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献立は「ポークビーンズ」「鱒の塩焼き」「根菜のきんぴら」「切干大根と干柿の酢の物」「塩麹入り卵焼き」「蕎麦粉クレープ」「古代米ご飯」「煮りんごの甘酒ゼリー」「漬物」。

光太郎の日記などから、光太郎が作ったメニューや使った食材を参考に、現代風のアレンジが施されています。

「古代米」は古代から栽培されてきた稲の品種の特徴を継承しているといわれるもので、光太郎が暮らした旧太田村の隠れた特産品のようです。妻がこの手のものが好きで、当方、道の駅はなまき西南さんなどでよく買って帰ります。白米に混ぜて炊きますが、もち米だけあってボリューミー、腹持ちもいいようです。
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販売元は旧太田村のプロ農夢花巻さん。調べたところ、オンラインショップもありました。ぜひお試し下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日来訪の土門拳氏に委托された滋養食品落手、ありがたく存じました、めづらしいブーダンなどをこの山の中で賞味出来るのを不思議なくらゐに思ひます、幾年ぶりのことか分りません。

昭和26年(1951)5月29日 高見順宛書簡より 光太郎69歳

ブーダン」は豚の血と脂によるフランスのソーセージの一種。この年5月21日の日記には次の記述があります。「ひる頃 土門拳来訪、助手二人同道、(略)写真撮影。三時頃辞去。元気なり。高見順に托された肉類を持参。茶ももらふ。 夕食炒飯みかん。高見氏よりのブーダンでつくる。

高見順は詩人。前年には光太郎題字揮毫による詩集『樹木派』を上梓したり、昭和30年(1955)に光太郎と行った対談「わが生涯」が雑誌『文芸』に掲載されたりしました。タレントの高見恭子さんはご息女です。

過日ご紹介した平野レミさんといい、渡辺えりさんといい、お父さまが光太郎と交流があったという芸能人の方、少なからずいらっしゃいますね。







テレビ番組の放映情報を2件。

まずは光太郎の父・光雲が主任となって、東京美術学校総出で作られた上野の西郷隆盛像がらみ。

ワルイコあつまれ(113)

地上波NHK総合 2025年1月21日(火) 23:00〜23:30

▽「慎吾ママの部屋」西郷隆盛(塚地)が登場。明治維新や日本の近代化に貢献したカリスマ・西郷が「やっちまった」エピソードの数々を披露。あの銅像の真実も明らかに。
▽「カレーなる賭け」大好物の“米”への愛が強すぎて、みずから地元の農家に弟子入りしたという小学6年生が登場。自身で育てた白米を持参しての挑戦に、ディーラー吾郎(稲垣)は絶妙のかけひきで対峙するが、その結果は…!
▽「株式会社ジンタイ」胆のう君(草彅)がなぜか苦手にしている舌主任の話題に。「口がうまくて調子がいいイメージ」と持論を語るが、脾ぞう君(稲垣)が別の一面を語りはじめると…?

【出演】稲垣吾郎,草彅剛,香取慎吾,塚地武雅,【声】平野正人,【語り】是永千恵
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西郷像に関しては、軽く触れられる程度だと思われますが。それにしても、塚地武雅さん、伝え聞く西郷の風貌に似ているといえば似ているかも知れませんね(笑)。

もう1件。光太郎智恵子に触れられるかどうか……。

秘湯ロマン

地上波テレビ朝日 1月18日(土)  03:00〜03:30 

日本全国の秘湯と呼ばれる温泉の魅力を紹介します。今回の秘湯は栃木県、塩原温泉郷「柏屋旅館」、「静観荘 古山」、「やまなみ荘」、那須湯本温泉「雲海閣」。

出演者 【旅人】佐藤あかり 【ナレーション】丸山未沙希
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塩原温泉郷の柏屋旅館さん。心の病が昂進した智恵子をなんとかしようと、昭和8年(1933)に一ヶ月ほど東北から北関東の温泉巡りをした際、最後に光太郎智恵子が逗留した宿です。

同じ番組で令和2年(2020)にも柏屋さんが取り上げられ、その際には光太郎智恵子にも触れて下さいました。今回も期待したいところです。
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柏屋さん、意外とその点を売りになさっているようで、ちょくちょく各種メディアにその件が。

テレビ番組ですと、令和3年(2021)、当方も制作に協力させていただいた日テレさんの5分間番組「心に刻む風景」でも「最後の旅 泣きやまぬ童女(どうじょ)のやうに慟哭(どうこく)する」というサブタイトルで取り上げられました。
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近年の書籍では令和元年(2019)、『“裸”になって本音を見せた 文豪が泊まった温泉宿50』
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週刊朝日』さん連載の単行本化でした。

さて、「ワルイコあつまれ」「秘湯ロマン」、それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」については御返事が少々厄介です。もともと澤田さんが発行してゐたもので、言はば澤田さんによつて地上にひろめられたやうなものですから、白玉書房は一時刊行したものの、龍星閣く復起したとすれば、龍星閣に返して上げたら如何ですか。さうすればおだやかだと思いますが如何でせう。
昭和26年(1951)4月24日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎69歳

詩集『智恵子抄』は、澤田伊四郎の龍星閣から昭和16年(1941)に初版が刊行されました。その後、太平洋戦争の激化に伴い、龍星閣は一時休業。戦後になって鎌田の白玉書房から復刊されました。その際、光太郎は鎌田から、龍星閣に版権をゆずられたという説明を受けていたようですが、どうもそのあたりの真相が闇の中なのですが、澤田としてはゆずった覚えはない、龍星閣を再興するので版権を返して欲しい、という申し出があったようです。

結局、白玉書房版は絶版となり、龍星閣から戦後版が刊行されることとなります。赤い布表紙の有名な版です。

若干先の話ですが(このところネタ不足なもので(笑))、青森県からイベント情報です。

十和田湖冬物語2025 冬、十和田湖びより

期 日 : 2025年1月31日(金)~2月24日(月・振休)
会 場 : 十和田湖畔休屋 多目的広場 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
休 業 : 火曜・水曜 

八甲田山の麓、標高約400メートルに位置する十和田湖は平安の頃から信仰の対象として、脈々とその歴史を紡ぎながら観光地としてもたくさんの人々に親しまれるようになりました。その神秘的な情景は、訪れた人を感動へと導いてくれます。

深い深い雪に包まれる冬も同様。峠を越える、容易い道ではないからこそたどり着いた先の感動もひとしおです。

真っ白な衣を纏った十和田湖を舞台に冬を思い切り楽しんでもらおうと開催してきた十和田湖冬物語は今年で27回目を迎えます。

「冬、十和田湖びより」

皆さまと一緒に、そんな思いを共有するためさまざまなコンテンツを用意して会場でお待ちしております。冬の十和田湖で会いましょう!
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FIREWORKS -冬花火-
 真冬の澄み切った夜空を彩る冬花火。音楽との競演もお見逃しなく! 全日20:00〜
 メッセージ花火受付中! 大切なあの人へ。感謝の気持ちを花火に込めてみませんか?
 8800円/発〜
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FOOD MARKET-雪灯り横丁-
 ローカルの食材を使った美味しいグルメを楽しもう!
 平日16:00〜20:30 休日11:00〜21:00
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TRADITIONAL ARTS-冬の国境まつり-
 北東北の祭りや、地元有志によるパフォーマンスは必見! 週末限定!
  青森 ねぶた囃子「ラッセラー♪」みんなで歌おう! 踊ろう!
  ・2月8日(土)16:00〜、19:00〜 ・2月9日(日)16:00〜
  秋田 なまはげ太鼓 なまはげの太鼓パフォーマンスは圧巻!
  ・2月15日(土)16:00〜、19:00〜 ・2月16日(日)16:00〜
  岩手 花巻鹿踊り 平安と悪霊退散を願って、高く舞い上がる鹿たち!
  ・2月23日(日)16:00〜、19:00〜 ・2月24日(月・振休)16:00〜
  協力:新渡戸友好都市交流委員会
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SNOW PARK-雪遊び-
 会場には大きな雪の滑り台が誕生! あなたは何して遊ぶ?
 平日16:00〜19:30 休日11:00〜19:30
 ・すべり台(そり、チューブ) ・バナナボート
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昨年から、永らく行われてきた湖畔休屋地区での屋台村を中心としたスタイルで復活しました。そのスタイルだった時代に2度、イルミネーション系のイベントとなっていた時期に1度お邪魔しましたが、とにかく寒い!(笑)。その寒さを逆手にとって楽しんでしまおうというイベントです。

問い合わせたところ、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されるとのこと。辿りつくまでがなかなか大変ですが、実に幻想的です。画像は過去のものです。
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手前の雪灯籠にあかりが灯されます。

予約が必要なようですが、JRさんのバス「おいらせ号」が八戸駅から、十和田観光電鉄さんのバスが十和田市中心街から出ます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】002

「天上の炎」の小生の印税は五分でいいです。この本は余り売れないでせう。今日ヹルハアランを読む人は少いでせうから。


昭和26年(1951)4月24日 鎌田敬止宛書簡より
 光太郎69歳

『天上の炎』は、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。光太郎訳で大正14年(1925)にハードカバーが刊行されましたが、鎌田の白玉書房からペーパーバックで復刊されました。

今日ヹルハアランを読む人は少いでせう」の言葉通り、さらにましてや現代では忘れられかけた詩人となった感があります。

DMM.comさんから配信されているブラウザ・アプリゲーム「文豪とアルケミスト」を舞台化した公演。何作かあったうち、光太郎も登場人物として名を連ねた昨夏の「旗手達ノ協奏(デュエット)」を収録したBlu-rayとDVDが発売されます。

文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)

発行日 : 2025年1月29日(水)
発行元 : TCエンタテインメント
定 価 : Blu-ray ¥10,890(税込み) DVD ¥9,790(税込み)

"文学作品を守る

今後の戦いの激しさを憂い小林の転生を目論む志賀だったが、その間にも有碍書は増え続け……。危機が迫る中も挫けず、現状を打開する策を練る志賀。それを武者小路実篤ただ一人がそっと遠くから見守っていた。

キャスト
 志賀直哉:谷佳樹 武者小路実篤:杉江大志 有島武郎:杉咲真広 里見弴:澤邊寧央
 石川啄木:櫻井圭登 高村光太郎:松井勇歩 広津和郎:新正俊 小林多喜二:泰江和明

封入特典(Blu-ray/DVD共通)
◆特典映像
・メイキング ・キャスト座談会 ・アンサンブル座談会 ・オープニング全景映像
・アフターイベント映像(全6回 ※映像は一部カットになる場合がございます)
・稽古場ミニ配信ダイジェスト
 (全3回 ※Youtubeで配信された映像とは別アングルの映像を含めたオリジナルカット版)
◆初回生産限定封入特典:オリジナルステッカー
◆永続封入特典:ブックレット
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この系列をご紹介する際にはいつも書いていますが、こういうアプローチから文豪たちに触れていくのも有りでしょう。ただし、そこで終わりにして欲しくはありませんが。

ご興味おありの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

今日は上天気、棟上となりました。夕方小屋組が出来、大工さんのりとをあげ、小生餅をまき、部落の子供達が喜んでそれをひろひました。今夜は駿河さん宅で一同饗宴の様です。 小屋組はひどく丈夫です。高さも高く、四寸角の柱が三尺に一本づつ立つてゐます、思の外立派なので、小屋とは言へなくなりさうです。


昭和26年(1951)4月15日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎69歳

元々暮らしていた鉱山の飯場小屋に隣接し、新たな小屋の増築普請が始まりました。

左側の白い壁が新小屋。右が元々の小屋です。さらにその右は厠と風呂場。
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この年の秋に撮影されたショット。手前に新小屋が写っています。
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新小屋は50㍍ほど動かされ、現在は倉庫になっています。
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昨日は、今年初めての上京でした。

まずは初詣を兼ねて、足立区の西新井大師五智山遍照院總持寺さんへ。押すな押すなというほどではありませんでしたが、善男善女(当方を除く)でかなりの人出でした。
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まずは当然ですが本堂に参拝。
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大枚5円(笑)を賽銭箱に投入、合掌し、今年一年、平穏無事でありますように、的な祈願を。

なぜわざわざ足立区に、というと、本堂から見えるこちらの三匝堂(さんそうどう)拝見が主目的です。
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このところ、光太郎の父・光雲や、その師・東雲の彫刻を各地で拝見しておりまして、その流れです。こちらにも光雲によるとされる木彫の扁額が掲げられているという情報を以前から得ており、いい機会だと思って参上しました。
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一見、三重の塔のようにも見えますが、三層の楼閣で、いわゆる「栄螺(さざえ)堂」の一種です。天保5年(1834)に建てられ、明治17年(1884)に改修。光太郎が生まれた翌年ですね。

階段は外部にしつらえてあります。元は堂内にも階段があったそうですが、改修の際に取り払われたとのこと。
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栄螺堂でも、有名な会津飯盛山のそれは二重螺旋階段になっていますが、あれはかえって特殊なものです。

内部は拝観出来ません。しかし、当方が見たかったのは軒下に掲げられた扁額。
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中央に刻まれた数字の「3」のような文字は梵字ですね。

そして周囲を取り囲む龍。
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足立区さんのサイトによれば、これが光雲の手によるものだと伝わっている、とのこと。伝わっている、ということは確定ではないのでしょうが、この精緻な彫りは確かに光雲を彷彿とさせられます。ただ、明治17年(1884)の改修の際のものであるとすれば、光雲は独立はしていたものの、まだ一流の職人と認められていなかった時期ですので、疑義が生じます。光雲が斯界でブイブイ言わせるようになるのは、明治20年(1887)に皇居の造営に関わり、さらに同22年(1889)に東京美術学校に奉職してから。しかし、いきなり皇居の内部装飾に抜擢されたとも考えにくく、西新井大師さんのこうした仕事などでその技倆を認められたからなのかな、とも考えられます。

参拝後、世田谷の下北沢へ。当方、公共交通機関で上京する際には東京駅に降り立つのがほとんどで、東京駅を起点に考えると西新井と下北沢では真逆ですが、西新井に近い北千住から小田急線直通の地下鉄千代田線に乗れば意外と便はよく、そうしました。

目指すは本多劇場さん。お世話になっている渡辺えりさんの古稀記念公演が行われています。
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本多劇場さんは、令和元年(2019)にやはり渡辺さん作の「私の恋人」を拝見に伺って以来でした。

今回の古稀公演は「鯨よ!私の手に乗れ」と「りぼん」の2本立て。
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昨日は「鯨……」でした。「りぼん」の方で、光太郎詩「道程」に触れる箇所があるというお話でしたが、招待枠で「りぼん」を観に行ける日がなく、「鯨……」を拝見。「鯨……」でも光太郎に触れる部分があるかなと思っていたのですが、残念ながらそれはありませんでした。

「鯨……」は、昨秋亡くなったお母さまの介護体験等も反映されながら、笑いあり涙あり、なかなかに壮大な物語でした。えりさんは古稀ですが、共演されていた木野花さんは喜寿というのには驚きましたし、共演と言えば、黒島結菜さんは小顔だな、とつくづく思いました(えりさんが顔が大きいとは言いませんが(笑))。ベテランの三田和代さん、広岡由里子さん、宇梶剛士さん、ラサール石井さんらの芸達者ぶり、若い役者さんたちも、劇中で楽器の生演奏やらダンスやらで芝居を盛り上げています。

下記は公式パンフ中の「りぼん」の部分から。
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「道程」がプロパガンダに利用された一面、確かにあるでしょう。詩集『道程』の初版は大正3年(1914)ですが、日中戦争中の昭和15年(1940)には山雅房から「改訂版」が出、同17年(1942)にはそれを対象に光太郎が第一回帝国芸術院賞を受賞しています。「改訂版」は豪華本的な「150部限定版」、普通の装丁の「書店版」、そして簡易な造本の「普及版」の三種が発行され、「普及版」は昭和18年(1943)の9刷まで確認出来ています。
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左から「150部限定版」、「書店版」、「普及版」です。

ちなみに当方手持ちの「普及版」はサイン入りです。
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小池吉昌はマイナーな詩人でした。

プロパガンダ、というと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」もそういう使われ方をしました。本当に不幸な時代だったと言わざるを得ませんね。

ところで光太郎、「道程」が戦意高揚に使われることに違和感を感じる部分もあったようで、大戦末期の昭和20年(1945)になって、さらに青磁社から『道程再訂版』を出しました。こちらは戦時に関する詩を全く含まず、生涯の詩作から作品を選び、改訂を加えています。消極的な抵抗のようにも思えます。

その年4月10日、下町方面の空襲がひどいと言うことで、えりさんのお父さま・渡辺正治氏が勤務していた中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場から自転車で本郷区駒込林町に光太郎の安否を確認に来ました。その際に「わざわざありがとう」と、光太郎が正治氏に贈ったのがこの「再訂版」です。しかし、3日後の空襲で光太郎アトリエ兼住居は灰燼に帰してしまいます。
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えりさん、そういう部分でも「道程」への思い入れがあるのでしょう。

古稀記念公演、夜の部はまだ空席があるようです。それから西新井大師さん。それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小屋に手入をはじめる事になり、ごたごたとしてゐます、

昭和26年(1951)4月15日 出雲正明宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に、増築工事が始まりました。明確な印税制を採らなかった『智恵子抄』版元の龍星閣の肝煎りです。

都内から朗読会の情報です。

チャリティー朗読会 和・輪・話

期 日 : 2025年1月27日(月)
会 場 : 紀尾井小ホール 東京都千代田区紀尾井町6番5号
時 間 : 13時30分
料 金 : 全席自由 2,500円

会場にお越しいただいた皆様からの募金は、『令和6年能登半島地震災害義援金』として、日本赤十字社東京都支部を通して現地へお送りいたします。皆様のご賛同を心よりお待ち申し上げます。

演目
 佐藤春夫 作 『小説智恵子抄』より 中島悦代
 平岩弓枝 作 『女の休暇』 佐々木冨紀
 北村薫 作 「語り女たち」より『梅の木』 船山則子
 角田光代 作 『口紅のとき』 和田幾子
 海野弘 作 『枕売り』 森実あき子
 芥川龍之介 作 『羅生門』 田島みどり
 西澤實 版 『芝浜』 斉藤由織
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演目のうち、「小説智恵子抄」は、光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、光太郎と親交の深かった佐藤春夫が雑誌『新女苑』に連載したジュブナイルです。連載当時のタイトルは「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」。昭和32年(1957)に実業之日本社さんで単行本化、のち、角川文庫のラインナップに入り、現在も版を重ねています。また、丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演の松竹映画「智恵子抄」原作と位置づけられました。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

どうして斯かるものを入手されたか、不思議に思ひます。確におぼえのあるもので、小生十三、四才の頃の作。日清戦争の直後にあたります。まことになつかしく、あの頃のいろいろの事を思ひ出しました。


昭和26年(1951)4月14日 菊岡久利宛書簡より 光太郎69歳

斯かるもの」は光太郎作の手板浮彫。明治29年(1896)、光太郎数え14歳、東京美術学校の予備校的な共立美術学館在学中の作品です。
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光太郎随筆「わたしの青銅時代」(昭和29年=1954)には次の記述があります。

 この間、菊岡久利君が鎌倉の古道具屋で見つけたといつて、板に彫つた彫刻をもつて来た。それには十四歳と記されていた。菊岡君が見つけてくれた時は、わたしはちょうど岩手の山にいた時だつたが、それを送つて来て、本当か嘘かと問い合せてきた。見ると、確に彫つた覚えがある。五十五年ぐらい前のもので、青い葡萄が刻まれていた。

菊岡が昭和28年(1953)に雑誌『芸術新潮』によせた「ぴいぷる」という文章には、次の一節。

 僕はそれを鎌倉の古道具屋で見つけたのだ。人々はまだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思ったらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。(略)当時まだ岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来て、 五十五年 青いぶだうが まだあをい と詩を書いてよこしてくれたものだ。

光太郎実家の髙村家にはこの類の手板が、光雲による手本用のものから、弟子たちの成績品まで数多く残されていましたが、戦後、土蔵を整理した際、誤って流出したものと思われます。他にも紅葉と宝珠を彫った光太郎の手板も鎌倉で平櫛田中が発見し、現在は東京藝術大学に収められています。

後から書き込んだ「五十五年 青いぶだうが まだあをい」は、字余りになるものの、季語もあり、俳句と言っていいのではと思われます。

一昨日は千葉市に行っておりました。目的地は中央区亥鼻の千葉大学医学部さん。
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こちらに昨秋、光太郎の父・光雲が手がけた同大医学部前身の県立千葉医学校の校長などを務めた長尾精一の銅像が再建され、それを拝見に伺いました。

入口に面した通りからも望見出来る位置にあり、すぐにわかりました。台座はずっと残っていたそうですが、このあたり、以前は何度か通ったことがあっても台座があったことにはまったく気づきませんでしたが。
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説明板にあるように、戦時中の金属供出でいったんは失われたものの光雲原型の塑像(石膏?)が残っていたということで、それを使って復活。

台座は明治44年(1911)のものですが、おそらく金属供出で像が一度失われた後、原型が残っていたことも分かっていなかった時期に、元の像を偲ぶよすがとしてレリーフが新たに作られて嵌め込まれたようです。
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側面には「昭和卅二年十一月」と書かれた石のプレートも嵌め込まれていましたので、おそらくその時でしょう。

同じような例として、光太郎が原型を作った青沼彦治像があります。こちらは大正14年(1925)に宮城県荒尾村(現・大崎市)設置、昭和19年(1944)に金属供出、昭和41年(1966)に新たにレリーフが嵌め込まれました。
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申し訳ありませんが、長尾像にしても青沼像にしても、後からのレリーフはどうしても見劣りがしてしまいますね。

青沼像は現在も台座と後からのレリーフのみ。その点、原型から復刻された長尾像は幸運な例です。光雲原型のものとしては、四国の広瀬宰平像もそうした例ですし、谷中霊園の小川源兵衛像もそうかもしれません。

光太郎原型で、金属供出に遭った像は三体。青沼像、岐阜の浅見与一右衛門像、そして千葉県松戸市の千葉大園芸学部さんにある赤星朝暉像。これらは原型も残って居らず、青沼像は上記の通りですし、浅見像と赤星像は別の作者による像で再建されました。赤星像に関しては、関係者が光太郎に「原型が残っていないなら供出はしない」と言ったところ、光太郎が「原型は私が保管している」というわけで供出。ところがその原型は昭和20年(1945)の空襲で、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居もろとも灰燼に帰してしまったという経緯が伝わっています。

まったく戦争というものは、人々の命のみならず、こうした文化的遺産をも破壊し尽くす蛮行・愚行と言わざるを得ませんね。

さて、再建された長尾像、千葉市方面にご用の際はぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山も雪が大分とけて早春の気が立ちこめてきましたので神経痛の方も幾分よくなりかけました。慢性になるといけないので、やはり注射で一度よく治してしまはうと思つてゐます。不日東京の友人がテブロンと注射器一式を持参の予定です。この部落には医者も保健婦さんも居ません。


昭和26年(1951)3月31日 野末亀治宛書簡より 光太郎69歳

「テブロン」は自律神経遮断剤。宿痾の結核性肋間神経痛の鎮痛効果を狙ってのことでしょう。光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村山口地区、村の中心部まで行けば医院はあったのかもしれませんが、山口地区には現在も医院も診療所もありません。

面目ない話で、第1回放映が終わってから気づきましたが、記録のためにご紹介しておきます。来週以降も放映は続きますし、各種配信もありますし。

花は咲く、 修羅の如く #01 花奈と瑞希

地上波日本テレビ 2025年1月8日(水) 01:35〜02:05
BS日テレ       2025年1月8日(水) 23:30~00:00

<ストーリー>
人口600人の小さな島・十鳴島(となきじま)に住む花奈(はな)は、島の子供たちに向けて朗読会を行うほど朗読が好きだった。花奈の“読み”に人を惹きつける力を感じた瑞希(みずき)は、自身が部長を務める放送部へ誘う。「お前の本当の願いを言え、アタシが叶えてやる」「私、放送部に入りたいです」入部を決意した花奈は、たくさんの“初めて”を放送部のメンバーと共にし、大好きな朗読を深めていく…。
<キャスト>
春山花奈:藤寺美徳/薄頼瑞希:島袋美由利/夏江杏:和泉風花/冬賀萩大:千葉翔也/秋山松雪:山下誠一郎/整井良子:安野希世乃/箱山瀬太郎:坂泰斗
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原作・武田綾乃氏、むっしゅ氏作画のコミックが原作で、令和4年(2022)に単行本第1巻が集英社さんから発売されています。いきなり第1話で光太郎詩「道程」。
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アニメでは……
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それから、宮沢賢治も。
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タイトルの「修羅」は賢治の『春と修羅』から来ているのでしょう。
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原作は単行本1巻以降読んでいないのですが、その後も光太郎や賢治に触れられたシーンはあったのでしょうか。詳しい方、ご教示いただけると幸いです。最近は新刊書店で立ち読みも出来ませんし、千葉のど田舎ですと漫画喫茶等もありませんし……(笑)。

何はともあれ、若い皆さんが朗読や近現代文学に親しむひとつのきっかけとなってもらえれば、と存じます。

ちなみに4月にはアニメのブルーレイが発売されるようです。またその頃、取り上げさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

五月に又リサイタルをやられるさうですが相変らず小生東京へは行かれないでせう。宮沢さんのものの事は実家へ直接申送られていいでせう。そのうち小生からも其由申上げて置きます。


昭和26年(1951)3月28日 藤間節子宛書簡より 光太郎69歳

藤間節子は舞踊家。昭和24年(1949)に「智恵子抄」を舞踊化し、帝国劇場でのリサイタルで発表しました。その後もたびたび「智恵子抄」を取り上げています。賢治作品の舞踊化にも意欲を示し、光太郎没後の昭和33年(1958)には「原体剣舞連」を発表しました。

やはり年またぎの案件です。昨年12月30日(火)の『読売新聞』さんから。

[時代の証言者]キッチンから幸せ 平野レミ<23>神さまは靴のかかとに

  父は、私たちが結婚した時に「はいよ」と色紙を渡してくれました。そこには筆で父の詩が書いてありました。
   「風つよければ 神さまは 靴のかかとに  棲す み給う」
 父に「どんな意味?」と尋ねたけれど、「いいんだ、詩というものは自由に解釈をすればいいんだ」と、何も教えてくれませんでした。
 結婚してからも、私はしょっちゅう千葉の松戸の実家に帰ったり、父や母に我が家に来てもらったりして、子育てを助けてもらいました。
 父は息子たちをかわいがり、少し実家に帰らないと「寂しくて死んじゃうよ」と電話してくる。松戸の家は高台にあり、遠くからでも、家の前でステテコをはいて仁王立ちになって私たち家族を待つ父の姿が見えました。おんぶひもで長男の唱を背負ってあやす写真も残っています。
 父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。終戦日には「今後一体どうしたらいいかわからぬ」、私が結婚した72年の暮れには、私が幸せそうなので「今年はとにかくよかった よかった」と書いています。
 86年11月の朝に「今日は何かが起こるかもしれぬ」と筆で書き、その日に心筋 梗塞こうそく で入院します。いつもと違う何かを感じたのかもしれません。父は集中治療室から帰ってきても「詩を書くぞ」と、意識がはっきりしていたけれど、急変します。父の日記の最後は私が病室で「お父さん大好き、死んじゃだめ」と書きました。入院して1週間ほど、11月11日に86歳で亡くなりました。
 《平野威馬雄は、大杉栄や菊池寛、高村光太郎ら多くの作家・詩人たちと親交を結んだ。「フランス象徴詩の研究」といった学術書、戦中に薬に溺れた自伝「アウトロウ半歴史」、超常現象に関する「お化け博物館」「UFO入門」など多彩な本を残す》
 病室の父が「死んだら横浜の外人墓地がいいね」と言ったことがあります。「どうして?」と聞くと、「日本の墓は暗くて幽霊が出そうでおっかないや」。純日本風の暮らしが好きで、お化けの研究もしていたほどなのに。
 父は生まれが横浜で、祖父の兄で鉱山技師だったオアーガスタス・ブイの墓が外人墓地にあり、みんなで墓参りにも行ったことがあります。父の遺言と思い、横浜外人墓地に父の墓を作ることにしました。
 父が亡くなって、父にもらった色紙を読み返しました。私につらいことが強風のように襲いかかっても、神様がかかとを支えているから大丈夫。風に負けずに前に進め、いつも支えているというエール。父は神様と書きましたが、私にとって、かかとにいてくれたのは父でした。そんな感謝の思いを込め、父の墓に色紙の文字を彫りました。いまその墓には母も夫の和田(誠)さんも眠っています。
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料理研究家の平野レミさんによる連載。昨年11月から始まり、まだ続いているようです。この日はお父さまで詩人・仏文学者の平野威馬雄氏に関する内容。編集さんによる注で、威馬雄氏が光太郎と関わりがあったことに触れられました。
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記事にある威馬雄氏の自伝『アウトロウ半歴史』(昭和53年=1978 株式会社 話の特集)、だいぶ前に拝読しましたが、「高村光太郎の抒情詩的エピソード」という項を含み、興味深いものでした。
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威馬雄氏は、当会の祖・草野心平や尾崎喜八ほどには光太郎との縁は深くなかったのですが、わずかな僅かな関わり合いだったからこそ見せた一面があったように思われます。

時は太平洋戦争開戦前年の昭和15年(1940)、日中戦争は既に泥沼化していた時期ですし、日独伊三国同盟が締結される年です。防共協定は既に結ばれていました。

所は三河島のトンカツ屋「アメリカ屋」(のち「東方亭」)。光太郎戦前からの行きつけの店で、店主の細田藤明とは個人的にも懇意にしていました。細田の長女・明子は苦学の末、戦後に医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりもしています。

威馬雄氏も「アメリカ屋」常連の一人で、ここで光太郎と知り合い、駒込林町のアトリエ兼住居にも招かれたり、光太郎も威馬雄氏の家を訪ねたりしたとのこと。その中で、ドイツ軍によるパリ占拠に憤っていた光太郎の姿が描かれています。

「平野さん、この新聞見てごらんなさい。どうお考えになりますか?」と、ある夜、レインコートのポケットからしわくちゃになった新聞をとり出して、テーブルの上にひろげた高村さんの手は心もち顫えていた。
 それは、西部戦線ドイツ軍陣地で、タス特派員が発したリポートで、ドイツ軍の機動力は驚異的で、ヒトラーの軍はパリへ、ロンドンへと破竹の勢いで突進している……という意味の記事だった。
「とにかくナチは野蛮ですからね。私はとても心配なのです……パリが心配なのです……もし独軍にやられたら、ロダンもセザンヌも、ミレーも、いやルーブル美術館そのものが灰になってしまうのではなかろうか。あの美しいシャンゼリゼの並木、凱旋門……何もかもが、こうして眼をつぶっていると……みえてくるのです。ノートルダムの怪獣が苦悶の叫びをあげている……その声がきこえるようです……セイヌ河の波上……あの碧く澄んだ照り返しすら、血の色に染まってしまうのではないかとおもうと……」老詩人の眼はうるんでいた。
(略)
 それから数日後の夕方……高村さんはアメリカ屋でぼくを待っていた。その表情からはいつものにこやかな人なつこい微笑が消えて、妙にこわばった顔つきだった。
「大変なことになりました。ご存じでしょうが、とうとう……やっぱりわれわれの古里は野獣の手に落ちてしまったんです……」老詩人の眼は涙で一杯だった。
「これ見てください……もうお読みになったでしょうが……」と、又しても、しわくちゃな新聞を卓上に拡げた。
「仏国遂に独へ降伏――ペタン首相は十七日(昭和十五年六月十七日)ドイツに対し遂に降伏を申し出ると共に、フランス全軍に対し既に戦闘行為を停止すべき命令を発したる旨正式に発表した……」
 六月四日から本格的なフランス総攻撃を始めたドイツ軍は、十四日にはパリに入城したのだ。
「今ごろ、勝ち誇ったドイツ兵は、なだれを打ってパリに侵入しているでしょう。どんなに多くの芸術家たちの命が消されていることでしょう」高村さんはとても今日は一人でいるに耐えられない、と言った。そして、一緒にぜひうちに来てくれという。孤独な老詩人は、魂のよりどころともいうべき芸術の都パリを失った悲しみに、がまんできなかったのだろう。

光太郎、オフィシャルな場面では日本の同盟国・ドイツを非難する発言はしませんでした。さりとて擁護する発言もしていませんし、『高村光太郎全集』にはヒトラーの名は一回も出て来ず、注意深く言及を避けていたようにも思われます。仏文学者だった威馬雄氏が日米ハーフの、当時としては社会的弱者だったこともあり、本音の部分を吐露したというところでしょうか。

ところで、レミさんによれば「父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。」とのこと。昨年末に再放送された、レミさんの生涯を追ったNHKさんの「だから、私は平野レミ」(初回放映は昨年2月)でも、威馬雄氏の日記が取り上げられていました。おそらく光太郎の名もところどころに記されているのでしょう。ぜひ読みたいものだと思いました。なかなか難しいのかも知れませんが、公刊されることを望みます。

自伝『アウトロウ半歴史』には、光太郎以外にも多くの人物との交流の様子が描かれています。もちろん威馬雄氏のドラマチックな来し方も。
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古書市場等で入手可。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

お手伝の人を考へて下さつた事忝い事ですが、やはり一人で静養してゐた方が結局いいやうです。お手伝がゐると却つて身心を使ふやうになりますから。

昭和26年(1951)3月21日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

結核が昂進し、苦しんでいる光太郎に対し、心平が家政婦さんを雇ったら? 必要なら手配します的な申し出をしたようですが、断りました。1年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京し、さらに3年経った昭和30年(1955)になって、初めて自分では食事の支度などどうすることも出来なくなり、家政婦を雇います。

先月、ちょぼちょぼといろいろなところに光太郎の名が出たのですが、速報の必要のないものは紹介しきれていませんでしたので、今日明日あたりで取り上げます。

今日は地方紙『岩手日日』さん、12月15日(日)の記事。

花巻の物知り度は ご当地検定に18人挑戦 歴史や文化、先人、方言も

 花巻観光協会のご当地検定「はなまき通検定」が14日、花巻市葛の市交流会館で行われた。市民らが花巻の歴史や文化、先人、観光など知る人ぞ知る花巻の難問に挑んだ。
 はなまき通検定は、花巻に関する知識の深さを認定する検定試験で、観光従事者だけでなく市民が観光客をもてなせるよう、花巻の知識習得を目的に実施。8回目となった今回は市内を中心に18人が挑戦した。
 受検者は、事前配布された検定の問題作成の基本となるテキストなどで学習。宮沢賢治や高村光太郎、新渡戸稲造らゆかりの先人に関わる設問をはじめ、市内にある高速道路のインターチェンジの数、わんこそば全日本大会の制限時間、国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産に登録された花巻の郷土芸能、方言「とのげる」の意味、メジャーリーガーの菊池雄星投手がプロデュースするトレーニング施設名など多岐にわたった。
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主催は花巻観光協会さん。4択問題が50問出され、1問2点の計算で80点以上が合格だそうです。事前に配付されるテキスト『はなまき通検定 往来物』は全75ページ。結構な分量ですね。
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今回で8回目ということですが、その都度改訂も入っているそうです。確かに記事には花巻東高出身の菊池雄星投手の件など、最近のネタも出題されたとあります。

我らが光太郎についても〈キラリと輝く先人達〉という章で「高村光太郎」の項を設けて下さっています。ありがたし。
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他にも大沢温泉さん、鳥谷崎神社さん、萬鉄五郎、多田等観、佐藤隆房、金田一国士などの項にも光太郎の名。よそ者でも地域に貢献すればこういう扱いになるのですね。

ちなみに令和2年(2020)に行われた第4回の際にも報道に光太郎の名があったので、このブログでご紹介していました。
「はなまき通検定」問題。

全国の自治体さん社会教育のご担当、観光協会さんなど、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

おてがみによると来月見舞に来訪との事ですが、これは取りやめにしてください。無駄な旅費をかけることになります。おめにかかるのはうれしい事ですが実際は病気にはよくありません。静かにしてゐるのが一番いいわけですから。見舞いといふものは精神的慰撫ですが、小生は精神的には堅固です。

昭和26年(1951)3月15日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

宮崎は光太郎姻族。結核性の肋間神経痛でペンを持つのも一苦労という光太郎を見舞おうとしましたが、光太郎の方で謝絶。「見舞いといふものは精神的慰撫ですが、小生は精神的には堅固です」。これは決して強がりではなかったように思われます。

一昨日、光太郎の父・光雲がらみをご紹介しましたので、今日はさらにその師・髙村東雲関連です。

やはり年またぎ案件なのですが、昨年12月10日、千葉県野田市に行って参りました。目的地は琴平神社さん。こちらの本殿の胴羽目彫刻が、東雲の手になるものだという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

場所は野田を代表する企業・キッコーマンさんの中央研究所の敷地内。
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通常はこのゲートが閉ざされていて、入れません。毎月10日のみ参拝出来るということで、実はそれを知らずに昨夏にも一度行ったのですが、その日は10日ではありませんでしたので、空しく帰って参りました。そこでリベンジ、というわけです。

ちなみにこの周辺、戦時中の空襲の被害はなかったようで、古い建築が点在しています。
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さて、琴平神社さん。
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こぢんまりとした境内ですが、杜は意外と鬱蒼としています。12月も中旬になろうかというのにまだ紅葉が見事でした。
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めざす本殿。明治5年(1872)に建てられたそうです。
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拝礼後、周りをぐるりと反時計回りに一周し、彫刻をつぶさに拝見。
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恐ろしいほどに緻密です。
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雲などは様式化された感じですが、葉の表現などは、初期のロダンが装飾彫刻の職人だった時代に師匠から叩き込まれた、葉の先端を手前に持ってきて奥行きや立体感を醸し出す技法に通じるような気がします。
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鳥にしてもかなり写実性を意識しているようにも見うけられました。こういう点が弟子の光雲にも受け継がれていったのかな、などとも。

ただ、場所によって微妙に異なるタッチもあるように感じ、もしかすると工房作で、光雲を含む弟子達の手も入っているのかな、などとも思いました。あまり大きな建物ではありませんが、何せぐるりと一周でかなりの点数になりますし、光雲が師の元を離れ、独立したのは明治8年(1875)のことでしたし。

本殿の前に佇む額堂。
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中に入って仰天しました。こんな額があったので。
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この面については全く存じませんでした。左の方は烏天狗。本殿の唐破風下、兎の毛通し(うのけどおし)の部分にも天狗が配されていましたし、少し離れた神楽殿にも天狗の彫刻、それから天狗の団扇を象(かたど)ったオブジェも境内にあり、どうもこの地には天狗伝説があったようです。すると右も牙が見えますし、やはり天狗系なのでしょう。
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「茂木佐平治」はキッコーマンさんで代々受け継がれる名で、おそらくその前身だった野田醤油時代のさらに前と推定されます。

迷惑かな、と思いつつ、敷地内の茂木家を訪(おとな)い、面について訊いてみました。すぐ近くに茂木本家美術館さんがあり、光雲の木彫なども展示されているので、そちらにでも収蔵されているのかな、と思ったもので。ところが、家宝として保管していて、公開は行っていないとのことでした。いつかはこの目で見てみたいものです。

野田市内でもう一箇所、廻りました。埼玉との県境に近い、中野台地区の大師山報恩寺さん。
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こちらの本堂におわす御本尊の弘法大師像、さらにもう一体の大師像も、東雲の作だそうです。東雲と野田、つながりが深いと言わざるを得ませんね。
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「高村光雲の義父」というのは誤りで、光雲は徴兵逃れのために東雲の姉の養子になったので、正しくは義理の叔父です。

こちらにも昨夏お邪魔しましたが、本堂の改修工事中で、内部の拝観が出来ませんでした。その際、12月には工事が終わると聞いたので、行ってみた次第です。ところが、工事は終わったものの、漆喰が乾いていないということで、またもや拝観出来ませんでした。その時点で月末には元通りになるというお話でした。また近いうちにお邪魔しようと思っております。

さて、もうすぐ10日、琴平神社さんの門が開きます。報恩寺さんの大師像も拝観可能かと存じます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

誕生日のお祝を心にかけて送つて下さつて忝く存じました。今朝はあのおいしいコーヒーをいれ、トーストにあの珍らしいチーズのスプレツドを塗つてひどくハイカラなブレツクフアストをいただきました。そして今いいかをりの紫烟をマドロスパイプで一ぷくやつたところです。

昭和26年(1951)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

結核性の肋間神経痛で苦しんでいたわりに、刻み煙草をパイプでくゆらせ……自殺行為ですが……。

3件ご紹介します。

まずは光太郎に関わるかどうか、微妙なところですが……。

日曜美術館 人生で美しいとは何か 彫刻家・舟越保武と子どもたち

NHK Eテレ 2025年1月12日(日) 9:00~9:45 再放送 1月19日(日)  20:00~20:45

戦後日本を代表する彫刻家・舟越保武(1912−2002)。カトリックの信仰を主題にした精緻で存在感あふれる作品は見るものに「美しさとは何か?」を問いかける。保武の7人の子どもたちは、その多くが芸術関係の道を選んだ。長女は児童図書出版の世界で活躍。次男と三男は父と同じ彫刻家に。そして末娘は紆余曲折を経てアーティストへ。子どもたちの人生と言葉を通して、舟越保武が体現した「美しさ」を考察する。

【出演】舟越保武 舟越桂 末盛千枝子 【語り】守本奈美

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光太郎と交流があり、そのDNAを受け継いだと言える彫刻家の一人、舟越保武。同じ彫刻の道に進み、昨年亡くなった次男の桂氏、そのお姉様で、光太郎が名付け親となった編集者の末盛千枝子氏がビデオ出演。ちらっとでも光太郎に触れていただきたいところですが、どうなりますやら……。

続いて、やはり微妙なところでもう1件。明日の放映です。

又吉・せきしろのなにもしない散歩 #144

BSよしもと 2025年1月8日(水) 19:00~19:30 再放送 1月10日(金) 16:00〜16:30

ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は青森県十和田市をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!?
新渡戸記念館、食事処とちの茶屋 ほか
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この番組、訪れる場所は東北限定でして、昨年には花巻高村光太郎記念館さん及び高村山荘、福島二本松の智恵子記念館さんと智恵子生家、さらに当会の祖・草野心平の別荘「天山文庫」(福島県川内村)が取り上げられました。

今回は十和田湖。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」近くの砂浜で撮られたカットも公開されており、そのまま「乙女の像」まで行かれたのか、行かれなかったのか、というところです。
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ぜひともお二人に「乙女の像」ポーズをとってもらいたいものですが(笑)。

最後は2時間ドラマの再放送。

<BSフジサスペンス傑作選>浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件

BSフジ 2025年1月10日(金) 12:00〜14:00

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は? 宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは? 浅見光彦が事件の真相にせまる!!

<出演者>
中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作
榎木孝明 野際陽子 ほか
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推理作家の故・内田康夫氏が昭和61年(1986)に発表された「「首の女(ひと)」殺人事件」を原作に、ほぼ忠実に映像化した2時間ドラマです。初回放映は平成18年(2006)、光太郎彫刻の贋作を巡る殺人事件が描かれ、二本松の智恵子生家、花巻の旧高村記念館等でのロケが敢行されました。その後、繰り返し再放送が為されています。
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それぞれぜひ御覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

貴下からいただいた即席餅といふものを今日作つてみましたら、大変おもしろく、煮小豆に入れたり、黄粉にくるんだりして賞味しました。今日は小生の誕生日でした。

昭和26年(1951)3月13日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

元日に数え69歳となった光太郎、この日で満68歳になりました。

前年の誕生日はたまたま講演旅行中で、岩手県立美術工芸学校長・森口多里の家で饗応にあずかりましたが、この年は一人寂しく誕生日を餅で祝いました。

昨日同様、昨年暮れに発行された雑誌のご紹介です。

小さな蕾 2025 2月号

発行日 : 2024年12月26日発売
版 元 : 創樹社美術出版
定 価 : 838円(税込)

【巻頭特集】●鍋島 上野コレクション
【第2特集】●高村光雲 木彫阿弥陀如来像 ◆加瀬 礼二
【展示紹介】
・仏教美学 柳宗悦が見届けたもの ◆日本民藝館企画展より
・古筆切-わかちあう名筆の美- ◆根津美術館企画展より
・仏・菩薩の誓願と供養者の願い ◆龍谷大学 龍谷ミュージアム特別展より
・千変万化-革新期の古伊万里- ◆戸栗美術館企画展より
・運慶 女人の作善と鎌倉幕府 ◆神奈川県立金沢文庫特別展より
【連載】
・明治の陶磁シリーズ73 世界が見惚れた京都のやきもの~明治の神業
 京都市京セラ美術館特別展より ◆後藤 結美子(京都市京セラ美術館)
・仏教美術の脇役たち172 流転 第二十四話 ◆松田 光
・逸品珍品を語る48 明治版タブレット 石盤と石筆 ◆北川 和夫
・骨董拾遺選10 貧数寄コレクターの呟き 2024年を振り返って思うこと
-中国・遼三彩の陶枕- ◆伊藤 マサヒコ
・江戸絵皿の絵解き13 北斎漫画を謎解く 江戸絵皿事典 ◆河村 通夫
・政治と書40 宮島詠士 清朝継承者の工と文 ◆松宮 貴之
・近世長崎の発掘陶磁6 ◆扇浦 正義
・絵のある待合室135 馬3題 ◆平園 賢一
原稿募集と読者プレゼント
全国美術館・博物館・骨董市情報
注目の展示会・催し
在庫図書一覧
蕾特選サロン
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004古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん最新号。古美術蒐集家・加瀬礼二氏という方による「高村光雲 木彫阿弥陀如来像」という記事が載っています。

紹介されている阿弥陀如来像、年銘が入っておらずいつのものか不明ですが、実にいいお姿をされています。正面から撮られた右画像以外にも別角度からのショット、光雲の銘や台座部分の拡大写真なども掲載されていました。

銘を見ると、工房作ではなく光雲が一人で手がけたものと推定されます。その銘も加瀬氏曰く「文字の確かさ、まるで毛筆で記名したように刻る」。的確な評です。光雲レベルになると、彫刻刀も筆と同様に意のままになるのでしょう。

光雲には阿弥陀如来像の作例は多くなく、当方、広島の耕三寺博物館さん所蔵のものを見たことがあるだけです。その意味でも興味深く拝読いたしました。

昨日ご紹介した芸術新聞社さんの『墨』が複数回光太郎書を取り上げて下さったのと同様、こちらの『小さな蕾』はたびたび光雲作品を紹介して下さっています。ありがたし。
 『小さな蕾』2021年9月号。
 『小さな蕾』2024年2月号。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

春になつたら山へカマを築いて食パンを一週間分づつ焼きたいと思つてゐます。

昭和26年(1951)3月1日 神保光太郎宛書簡より 光太郎69歳

結局、実現には到りませんでしたが、こんなことも考えていました。当時の岩手では光太郎の口に合うパンがなかなか入手出来なかったためでした。

またしても年またぎのご紹介となりますが……。

墨 2025年1・2月号

発行日 : 2024年12月27日発売
版 元 : 芸術新聞社
定 価 : 2,700円(税込)

特集 昭和100年記念 時代の書
 1926年に改元され、日本史上最長の元号となった昭和。2025年は昭和100年に当たります。今号は激動の時代、昭和を振り返るとともに昭和書道史を概観します。昭和の書壇で活躍した作家の名品を主要な展覧会の歴史・書道団体成立の系図など、便利な資料とともにお届けします。書を通じて、昭和という時代を回顧してみましょう。

★インタビュー 昭和の書文化と書壇を語る 談/西嶋慎一

視点 私の見た書の昭和
★「読む」から「見る」へ 書が美術へ接近した時代 談/菅原教夫
★激動と秩序の共存していた昭和は身近にいつも書があった 文/比田井和子
★周囲一メートルの昭和 文/桐山正寿
・衝突と賛否両論が多様性を育んだ 談/松原清 

鑑賞  昭和を生きた書人、書と言葉 選/井口尚樹 
 比田井天来 川谷尚亭 中村不折 吉田苞竹 会津八一 鈴木翠軒 高村光太郎
 比田井南谷 川村驥山 津金寉仙 上田桑鳩 大澤雅休 井上有一 尾上柴舟 西川寧
 辻本史邑 豊道春海 上條信山 松本芳翠 安東聖空 深山龍洞 赤羽雲庭 手島右卿
 木村知石 青木香流 日比野五鳳 松井如流 森田竹華 金子鷗亭 森田子龍 村上三島
 西谷卯木 殿村藍田 小坂奇石 柳田泰雲 宇野雪村 桑田笹舟 今井凌雪 青山杉雨
 河井荃廬 石井雙石 中村蘭台二世 山田正平

コラム 昭和の書家のしごと 固形墨の題字
コラム 昭和の書家のしごと 筆墨店の看板文字
資料室 近現代書の人脈
資料室 近現代書 団体の成立と変遷
資料室 墨展覧会リバイバル
第36回毎日書道展/第1回読売書法展/ 第1回サンケイ国際書展
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芸術新聞社さん発行の隔月刊書道雑誌『墨』。新春っぽい表紙です。特集が「昭和100年記念 時代の書」

その中で元同誌編集長の井口尚樹氏が選んだ「鑑賞  昭和を生きた書人、書と言葉」。光太郎を含む昭和を代表する書の達人たちをその作品と共に紹介しています。その数43名。大半が職業的書家ですが、それ以外が4人。すなわち中村不折、会津八一、尾上柴舟、そして光太郎。ここに光太郎を含めて下さったのは誇らしいところです。

光太郎の作品としては、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で揮毫された色紙「うつくしきもの満つ」。さらに書論「書について」(昭和14年=1939)の一節を取り上げて下さっています。
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「うつくしきもの満つ」、光太郎が好んで揮毫した文言です。中には「満つ」を変体仮名的に片仮名で「ミつ」としたものもあります。以前にも書きましたがこの「ミつ」を「三つ」と誤読し、「三つのうち、一つ目が○○、二つ目で××、そして三つ目は……」という噴飯ものの解釈がまかり通っている部分があります。噴飯ものと笑って済ませられるうちはいいのですが、さもそれが定説だと言わんばかりにSNS等でたくさん横行してくると、義憤も感じますね。

閑話休題。『墨』誌、これまでにも光太郎特集を3回組んで下さいました(昭和52年=1977 第8号、昭和60年=1985 第53号、平成12年=2000 第142号)し、般若心経特集の号(平成2年=1990 第83号)などでも光太郎書を取り上げて下さっています。当会顧問であらせられた北川太一先生、その盟友・吉本隆明氏などの玉稿も載り、それぞれ光太郎書を知る上で保存版といっていい濃密な内容です。
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古書市場で入手可、ぜひお買い求めを。それから最新号も。

【折々のことば・光太郎】

先日は雪の中をはるばるおいで下され、御難儀の事恐縮に存じました。山の事とて何のお構ひも出来ず失礼いたしました、ゼンマイ、ワラビの頃又おいであらば中々風情ある事と存じます、

昭和26年(1951)2月26日 八重樫マサ宛書簡より 光太郎69歳

八重樫は花巻温泉の旅館・松雲閣の仲居。たびたび宿泊客を太田村の光太郎山小屋に案内しました。

この年2月21日の日記には、「「せんてつ」の鈴木氏松雲閣の女中八重樫さんと同道来訪」の記述があります。この際の八重樫の体験談及びこの書簡について、佐藤隆房編『高村光太郎 山居七年』(昭和37年=1962 筑摩書房)に詳しく記されています。「鈴木氏」は鈴木肆郎。当時、仙台鉄道局刊行の雑誌『せんてつ』の編輯に当たっていました。

このようにたびたび来訪者を案内してくれることに対し、申し訳なく思ったのでしょうか、光太郎は書を礼代わりに贈りました。これも好んで揮毫した今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたものでした。
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このブログサイトでご紹介すべき昨年いろいろあった事柄のうち、主なものは昨年のうちに何とかご紹介し終えましたが、中には越年となり申し訳なく思うものも。

そのうち『東京新聞』さんで12月27日(土)に掲載された記事。

TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機 俳優・渡辺えりさんら尽力 保存活動

 2024年も残りわずか。TOKYO発では今年も街のトレンドや知られざる地域の歴史、ヒューマンストーリーなど、多彩な話題を取り上げてきた。今日は「その後」を――。
 中野区に残る、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)ゆかりのアトリエの所有者が亡くなり、存続の危機にあると1月12日に紹介した。
 アトリエは洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てた。光太郎は晩年の52~56年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作した。
 記事の掲載後、若手建築家をはじめ、さまざまな立場の人から保存・活用法の提案が寄せられたという。有志らは4月、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、署名活動を始めた。
 会の代表に就いたのは、俳優で劇作家の渡辺えりさん。えりさんの父は生前光太郎と交流があり、えりさん自身も光太郎の半生をもとに戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 11月、会は区内でアトリエを紹介する展示を行い、講演会を開催。えりさんは「光太郎の肌合いが残る場所が中野区にあるのはすごいこと。何とかいい形で保存できないか」と語り、「生きるための糧の一つとして文化芸術がある」と理解を求めた。
 今後、会は区への働きかけや新たな講演会の企画など、地道に活動を続ける。署名への協力などは会の名前で検索。
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昨年1月12日の記事はこちら

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」サイトはこちら。当方も幹事を務めさせていただいております。こちらからインターネット署名も可能ですので、よろしくお願い申し上げます。

アトリエを紹介する展示」は11月10日(土)~19日(月)の日程で行いました。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。

新たな講演会」は、2月15日(土)の予定です。詳細が決まりましたらまたお知らせいたしますが、とりあえず中西利雄に特化した内容となるとのこと。

また、クラウドファンディングを立ち上げ、ご支援を募ることも視野に入れております。そうなりました場合には、ぜひともよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生旧臘来肋間神経痛といふ厄介なものにひつかかり、一ヶ月近く小屋を留守にいたし、病院長さん邸や温泉などに滞在、最近、雪中を橇で帰つてまゐりましたがまだ病気は残つてゐます、字を書くと病気にひびくのでテガミや原稿がかけずにゐます、


昭和26年(1951)2月26日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

肋間神経痛」は結核性のもの。結核も抗生物質の普及により、戦前ほどは怖れられる病ではなくなりましたが、さりとてもはや完治は不能でした。約5年後には光太郎の命を奪います。

病院長さん」は、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房、「温泉」は大沢温泉さん。1月23日から2月2日まで、かなり長く滞在しました。

活動を継続中の中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会会長にして、劇作家・女優の渡辺えりさん。この5日にはめでたく古稀を迎えられるそうで、それを記念した公演です。

渡辺えり古稀記念2作連続公演『鯨よ!私の手に乗れ』『りぼん』

東京公演
 期 日 : 2025年1月8日(水)~1月19日(日)
 会 場 : 本多劇場 東京都世田谷区北沢2-10-15
 時 間 : 
  『鯨よ!私の手に乗れ』 
   1月8日(水) ・11日(土)~14日(火)・16日(木) 18:00~
   1月9日(木) ・13日(月)・15日(水)・17日(金) 13:00~
  『りぼん』
   1月11日(土)・12日(日)・14日(火)・16日(木)・19日(日) 13:00~
   1月15日(水)・17日(金) 18:00~
   1月18日(土) 13:00~/18:00~(連続公演)
 休 演 : 1月10日(金)
 料 金 : 平日 一般10,000円 学生 4,000円  土日祝 一般11,000円 学生 5,000円

山形公演(『りぼん』のみ)
 期 日 : 2025年1月22日(水)
 会 場 : 山形市民会館 山形市香澄町2-9-45
 時 間 : 18:00~
 料 金 : 平日 一般10,000円 学生 4,000円

『鯨よ!私の手に乗れ』
架空の地方都市の町、山崎県山崎市にある介護施設に神林絵夢がやってくる。ここは母・生子が入所しているのだ。久しぶりに見舞いにきた神林絵夢。母・生子は認知症で、絵夢の弟・公男やその妻・美代子が世話をしているものの、二人が誰かはわからない。絵夢が60歳になるまで演劇を続けてきたのは母のおかげ。晩年ぐらいは自分のために自由に生きてほしいという思いとは裏腹に、時間や規則に縛られて暮らす母の様子を見て絵夢はショックを受け介護士たちに不満をぶちまける。介護施設には元美術教師だった藍原佐和子、看護婦のように振る舞う涼子ら入所者、ヘルパーとして働く水島貴子と生子と同世代の人々がいる。彼女たちは次々に語り出す。彼女らは40年前に解散した劇団のメンバーで、主宰が行方不明になったため上演できなかった作品をいつかやりたいと約束をしていた。生子もその劇団のメンバーだった。ところが彼らの持っている台本は、認知症の患者が認知症の老人を演じるというもの。悲しい結末を知った介護士が途中から破り捨ててしまっていた。その状況に絵夢は台本を書くと言い出す――。2017年に上演された本作品。『演劇』を通して人生を見つめる。人生の中に「演劇」がある力強さを今一度、現代に問いかける。
キャスト
 木野花 三田和代 黒島結菜 広岡由里子 土屋良太 宇梶剛士 ラサール石井 渡辺えり 他

『りぼん』
現代の横浜。「すみれ」、「百合子」、「桜子」3人は関東大震災後に建てられ、最近取り壊された「同潤会アパート」の同じ住人であった。彼女らが住むアパートには、シベリアで抑留されていた夫を持つという「春子」、影を背負う謎の老女「馬場」ら、過去に心の傷を負った女性たちが支え合いながら暮らしていた。そしてそれぞれに「水色のりぼん」の記憶を持っていた。一方、欲情すると水色のりぼんを吐くという奇病を持つ青年「潤一」は、母の遺骨を探す旅の途中、横浜で“浜野リボン”と出会う。リボンは、赤子であった自分の胸に水色のりぼんを縫い付け、墓場に捨てた母の消息を求め、娼婦であった母を知る人物の目に留まるようにと、自らを娼婦の姿に変え、横浜を徘徊している青年と出会った。母から体に水色のりぼんを十字架のように背負わされる2人は、その謎を解くために鍵となる「同潤会アパート」へと向かう。まるで水色のりぼんが彼らを引き寄せるように……。同潤会アパートで潤ーたちと春子らアパートの住人達は初めて出会い、皆の生い立ちと記憶の謎が明らかになってゆく。住人の一人「春子」は愛娘を夫に殺されたという過去を持っていた。戦後娼婦として働かされたという春子の境遇に逆上した夫が春子と娘とを見間違え、首をりぼんで絞めてしまった。そして、実は愛娘の死体のお腹から産まれたのが潤ーであった。2003年に上演、2007年に再演された本作品。未だ混沌と尽きない悩みの最中にある現代日本で蘇る。バンドネオン・ピアノ・ギターの生演奏と共にお送りする音楽劇。
キャスト
 室井滋 シルビア・グラブ 大和田美帆 広岡由里子 土屋良太 宇梶剛士 ラサール石井 渡辺えり 他

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昨年12月25日の『山形新聞』さんに、こちらに関連する渡辺さんのご寄稿。

渡辺えりのちょっとブレーク(235)心のもやもやも込めて

006 古希特別記念連続公演の稽古中です。
 一作品に43人が出演する超大作の連続公演で、前代未聞、前人未到の企画に挑戦することになりました。
 「鯨よ!私の手に乗れ」は、母が介護施設にお世話になるようになってからの実話を基にした作品。11月に母が亡くなったので、母親役の三田和代さんの場面になると泣けてきます。幼い頃からの思い出がよみがえり、たまらなくなりますが、それだからこそ母のためにも成功させたいと頑張っています。
 「りぼん」は山形第六中学校の生徒が東京と横浜に修学旅行に来るストーリー。そこで日本の隠された歴史を発見して驚愕(きょうがく)します。私が実際に昭和40年代に六中の修学旅行で初めて横浜の氷川丸に宿泊した思い出を基に創作しました。2作とも、母親たちが女性として苦労してきた今日までの思いを青いりぼんの思い出とともに表現します。
 2作とも山形弁が多く使われていますが、殺陣指導をお願いした山形市出身の大道寺俊典先生が「みんなもっと山形弁を勉強してほしい」とため息つくほど山形弁は難しいらしいです。大枠の演出が済んだ後に、細かい方言指導もやるつもりで張り切っています。
 歌と踊りも素晴らしい方々が多く出演しているので、新年1月22日の山形公演を楽しみにお待ちください。
 ただ、昔と違って徹夜もできなくなり、朝から晩までの稽古は途中で頭がぼうっとしてしまうこともあります。人間年を取ってみないと、この状況は想像できませんね。両親にもっともっと優しく親切にするんだったと、近頃切に思います。年寄りに親切にしてきた人はきっと、自分が年を取った時に周りに優しくしてもらうでしょうね。介護施設にいた両親が介護士の方たちに「ありがとう。ありがとう」といつも声をかけて、頭を下げていたことを思い出します。山形人はみんな昔からテレパシーで会話する人間が多いため、心で思っていても、なかなか口に出してお礼を言うのが苦手な方が多いように思います。私もそうでしたが、両親を思い出して、口に出すように心がけています。
 今回の「りぼん」は関東大震災や第2次世界大戦、シベリア抑留、接収されていた横浜のことなど日本の過去の歴史がいろいろ出てきますが、オーディションで出演する若者たちとの世代のギャップを感じています。東京オリンピックの思い出を語る場面では「アベベってなんですか?」と聞かれ、高村光太郎の詩「道程」も誰も知らないと分かり、それらを説明するだけでも時間がかかります。今回の2本立てを1カ月半で稽古するのは、至難の業だと分かったのでした。そしてそんなことを愚痴る両親も今は亡く、この心のもやもやも含めて舞台の作品に込めていきたいと思います。
 山形公演を手伝ってくれる友人たち、親戚の皆さん、そしていつも応援して下る皆さま、本当にありがとうございます。山形六中からお借りした制服とショルダーバッグも本当にありがたいです。太った人用の制服が足りず、私の分は生地を足して直しています。終了後はクリーニングに出して速やかにお返しする予定です。私の分はまたほどいてからお返しするので時間がかかると思います。
 さまざまなことがあった一年でしたね。暗いニュースもたくさんありましたが、来年が皆さまにとって良い年になりますように心から願っています。みんなで支え合って諦めずに平和な世の中をつくっていきましょうね。昨年は本当にお世話になりました。喪中なので新年のごあいさつは控えさせていただきますが、皆さま良いお年をお迎えください。
(俳優・劇作家、山形市出身)

劇中で光太郎にも触れられるそうで、さらに特に『鯨よ……』の方は、生前の光太郎をご存じで、昨秋亡くなったお母さまの介護体験等も反映されているそうで。ちなみに亡くなられた11月10日には、えりさん、当方と中野でトークショーでした。

そんなこんなもありますし、御招待いただいているので、拝見に伺います。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生ここへ来てからもう満五年二ヶ月になりますが世情ますます紛糾、いつ彫刻が思ふやうに出来るか、まだ見当がつきません。出来ることを出来る時にしてゐる自然の生活を営むばかりです。


昭和26年(1951)1月12日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳


花巻郊外旧太田村での蟄居生活。新しい年が明けて一つの節目と感じてはいたようですが、まだ自らそれを切り上げる気にはなっていませんでした。

この年の秋に山小屋を訪れた詩人の宮静枝によれば、「いま私に彫刻をさせないことは日本の損失だと思います」とまで語ったとのこと。そう考えるなら帰京すれば、と思うのですが、公的に訴追されなかったとしても、自らの戦争犯罪を他が許さないうちは自らも許すことが出来ない、というわけでしょう。

宮曰く、

光太郎は余りにも明治でありすぎたと思うのである。国からの招請を心ひそかに待ち続け、自らの生命を無為に山野に燃焼し尽くした光太郎も、日本の大きい犠牲者であり、まさに悲しみの典型だったのである。(『詩集 山荘 光太郎残影』あとがき「悲しみの典型」平成4年=1992)

昨日、初日の出を見に行って参りました。以前は昭和9年(1934)に智恵子が半年あまり療養生活を送った豊海村(現・九十九里町)まで出向いておりましたが、ここ数年は自宅兼事務所隣町の旭市でご来光を拝んでおります。

午前6時半近くに到着。水平線上には雲がかかっていましたが(西高東低冬型の気圧配置なので毎年のことです)、まずまずの天気です。
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そこそこの人出。
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南の方に目を転じれば、智恵子が療養していた旧豊海村方面。
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千鳥(?)の足跡。
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日の出を待つ間、流木を集めて暖を採りました。焚き付けには昨年の正月飾り。このあたりもルーティンとなっています。見知らぬご家族が「あたらせてくれ」と寄ってきまして、「まぁどうぞ」(笑)。ただでは悪いと思ったか、やはり流木を拾ってきてくれました。こういうのもいいものです。
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午前6時45分過ぎ。雲の上端が金色に。水平線上には既に日が昇っているようで。
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そして……。
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毎年のことながら、やはり感動しますね(笑)。思わず目を閉じて手を合わせてしまいました。今年一年、世の中全体が穏やかな一年でありますように、そして光太郎を取り巻く諸般が盛り上がりますように、関係の皆様のご健勝・ご活躍を、などと祈願。

ほんとうにそういう一年であってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

おてがみと“クルミの木の下に”と感謝、大変きれいな本です、炉辺でよむのがたのしみなやうです。よんだら小学校に寄贈して皆にもよんでもらひませう。山では本が少いので本をもらふ事を皆大変よろこびます。ここの子供達は実にいい子ばかりです。自然にはぐくまれてゐる子達は仕合です。001


昭和26年(1951)1月4日
藤倉四郎宛書簡より 光太郎69歳

藤倉は童話作家。「銭形平次」の野村胡堂と親交があり、その評伝なども複数著しました。胡堂の妻・ハナは智恵子と親しく(共に日本女子大学校卒)、二人の結婚に際しては智恵子がハナの介添えを務めました。そのあたりにもふれた『カタクリの群れ咲く頃の―野村胡堂・あらえびす夫人ハナ』(平成11年=1999、青蛙房)を以前に読んだのですが、藤倉が光太郎と親交があったことに最近まで気づいていませんでした。

あけましておめでとうございます。本年もこのブログサイトをよろしくお願い申し上げます。
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画像は当会としてお送りした年賀状から。中央のヘビの絵は、大正2年(1913)、智恵子と共に一夏を過ごし婚約を果たした信州上高地より、画家の真山孝治に宛てた寄せ書きの葉書から。同じ宿に滞在してい た窪田空穂、谷喜三郎(江風)との寄せ書きで、真山も一時同宿していましたが、先に下山したようです。

令和7年(2025)、下一桁の「5」に注目して、光太郎らとのからみ。

150年前 明治8年(1875) 光太郎生誕前 光太郎の両親・光雲とわかが結婚しました。

130年前 明治28年(1895) 光太郎13歳 第四回内国勧業博覧会審査員だった光雲に連れられて、初めて京都に赴きました。

120年前 明治38年(1905) 光太郎23歳 東京美術学校彫刻科研究生だった5月、上野の竹の台五号館で開催された第一回彫塑同窓会展に塑像二点を出品しました。9月、西洋美術を勉強し直そうと、東京美術学校西洋画科に再入学。教授陣には黒田清輝、藤島武二、同級生に岡本一平、藤田嗣治らがいました。

110年前 大正4年(1915) 光太郎33歳 智恵子と結婚して2年目。『ロダンの言葉』翻訳を始めました。評論集『印象主義の思想と芸術』、与謝野晶子との共著『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』を刊行しました。

100年前 大正14年(1925) 光太郎43歳 ヴェルハーレン訳詩集『天上の炎』を刊行しました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生がご生誕。ご存命なら今年で満100歳でした。

90年前 昭和10年(1935) 光太郎53歳 智恵子が南品川 ゼームス坂病院に入院しました。また、東京美術学校校庭に、光太郎原型の前年に歿した光雲のブロンズ胸像が建てられました(現存)。

80年前 昭和20年(1945) 光太郎63歳 空襲で駒込林町のアトリエが全焼、宮沢賢治実家の誘いで岩手花巻に疎開。終戦後には花巻郊外旧太田村の山小屋に移りました。

70年前 昭和30年(1955) 光太郎73歳 歿する前年で、中野の中西利雄アトリエで病臥生活。4月から7月には赤坂山王病院に入院もしました。 

ことに岩手移住80周年は特筆すべきかと存じます。そのあたりを冠して現地でいろいろ行われることを期待します。

昨年は元日にいきなり能登半島地震がありました。今年はおだやかな一年であってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日の元旦もまだ吹雪やまず、電車も多分不通と存ぜられ如何ともいたしかたなく閉ぢこもつて居ります。


昭和26年(1951)1月1日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎69歳

この項も元日に合わせ、昭和26年(1951)に突入します。

この年は宿痾の結核が昂進、肋間神経痛がひどく、雪が溶けても農作業はほとんど放棄してしまいました。ぼちぼち自らの生の終わりを意識するようになり、それが翌年の生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作開始に繋がっていきます。

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