昨日は隣町にあります千葉県立東部図書館さん主催の文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」で、講師を務めさせていただきました。レポートいたします。
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館内に入って直ぐ左、以前にもご紹介しましたが、光太郎コーナーを作って下さっています(今月いっぱい)。
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会場は3階研修室。定員30名ということで募集をかけ、集まらないんじゃないかと危惧していましたが、杞憂でした。地元の方々はもちろん、遠くは柏市や茨城県土浦市の方もいらしてくださいました。ありがたし。

約2時間与えられましたので、前半50分程は予備知識的に光太郎智恵子の生涯のアウトラインを、休憩を挟み後半50分程でメインとも云うべき光太郎智恵子と房総との関わりを、それぞれ紹介させていただきました。

スライドショー画面を何枚か。
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まずは大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼。二人が泊まった暁鶏館(後、ぎょうけい館)の廃業の件、詩「犬吠の太郎」の話他。続いて、大正12年(1923)に光太郎の親友・水野葉舟が移り住み、光太郎も何度か訪れた成田三里塚、そして昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養生活を送った九十九里。この3箇所については詳しく取り上げました。

その他、館山にも二人の足跡が残っていること、千葉市の千葉県立美術館さんには光太郎ブロンズが8点収蔵されていること、市川の中山法華経寺さんには光雲原型の日蓮上人銅像が据えられていることなどなど。

やはり地元の話題ですので、皆さん、熱心に聴かれ、非常に有り難く存じました。終了後の質問もかなり出ましたし。

今回も取り上げた、九十九里で智恵子が暮らしていた家屋、田村別荘の間取り等も詳細に研究なさった千葉県職員の安藤仁隆氏もいらしてくださいましたし、お名前だけは存じていた意外な方もいらっしゃり、驚きました。一昨年になりますが、茨城県取手市のたまたま入った蕎麦屋さんで見た地元紙『茨城新聞』さんの投稿俳句欄に光太郎を呼んだ句が掲載されていまして、このブログでご紹介させていただきました。その句を詠まれた方がお見えで(先述の茨城土浦からの方)、しかも2年前のブログの記事も御覧になっていたとのこと。驚きました。

この方、『茨城新聞』さん投稿俳句欄入選のご常連で、他にも光太郎智恵子がらみの句が何度も掲載されているそうで、わざわざそのコピーも御持参下さいました。多謝。
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こういうこともあるのですね。

だいたい月に一度、こうした市民講座や講演の講師を仰せつかっている感じです。来月は福島県川内村、再来月は宮城県女川町。秋以降、花巻でもありそうです。交通費程度を支弁していただければどちらにでも参りますので、お声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

槐多は私も好きでした、殊に居なくなつてから思ひ出すとその生命をはつきり感じます、彼は消えません。


大正14年(1925)9月3日 八束清宛書簡より 光太郎43歳

「槐多」は村山槐多、光太郎を慕っていた画家です。大正8年(1919)、猛威をふるっていたスペイン風邪のため、数え24歳の若さで没しました。

光太郎には詩「村山槐多」(昭和10年=1935)、槐多没後に刊行された槐多詩集『槐多の歌へる』の推薦文(大正9年=1920)などがあり、槐多には光太郎が高く評価した画家という評がついてまわっていますが、この他には槐多に触れたものは実は多くなく、書簡でも確認できているものはこれ一通のみです。