2024年12月

まず、訃報から。時事通信さん配信記事。

冬木透さん死去、89歳 「ウルトラセブン」、作曲家

001 テレビの人気特撮番組「ウルトラセブン」などの音楽を手掛けた作曲家の冬木透(ふゆき・とおる、本名蒔田尚昊=まいた・しょうこう)さんが26日午後10時51分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都内の病院で死去した。
 89歳だった。中国東北部(旧満州)出身。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻良子(りょうこ)さんと長女和可女(わかな)さん。
 エリザベト音楽短大、国立音楽大で作曲を学び、1956年、TBSの前身「ラジオ東京」に入社し、テレビドラマ「鞍馬天狗」で作曲家デビューした。61年に退社後は「ウルトラセブン」など円谷プロの特撮シリーズの音楽を担当。「セブン」の主題歌や、「帰ってきたウルトラマン」で「ワンダバ」という男性コーラスが印象的な防衛隊出撃時のテーマ曲など、シリーズを代表する楽曲を生み、「ウルトラ音楽の父」と呼ばれた。NHK連続テレビ小説「鳩子の海」の音楽も担当した。
 蒔田尚昊名義では多くの合唱曲や賛美歌を作り、桐朋学園大で後進の指導にも当たった。 

昨日まで、今年1年を振り返る内容でこのブログを書いておりましたが、昨夜になって訃報がネット上に。今年1年を振り返る中でも、生前の光太郎をご存じで、当方もさんざんお世話になった浅沼隆氏をはじめ、関係の方々の訃報を少なからずご紹介しましたが、またお一人、加わってしまわれかた……という感じです。

蒔田氏、昭和45年(1970)頃に「歌曲集 智恵子抄」を作曲なさいました。ラインナップは「I 樹下の二人」「II あどけない話」「 III 同棲同類」「IV 千鳥と遊ぶ智恵子」「V レモン哀歌」。このうち「あどけない話」は全音さんから昭和45年(1970)に刊行され、未だ入手可能な『日本歌曲集 3』に掲載されており、今年も複数の演奏会で取り上げられました。

YouTubeでは、昨年開催された「男声合唱のためのウルトラセブン」 楽譜出版記念コンサートでの、加耒徹氏による歌唱の動画がアップされています。


他に「レモン哀歌」「千鳥と遊ぶ智恵子」も。

そして、「冬木透」クレジットでのウルトラ系。なんとも荘厳なイントロの「ウルトラセブンの歌」、英語の歌詞が実にかっこよかった挿入歌「ULTRA SEVEN」、いやがうえにもやる気を喚起させられる「帰ってきたウルトラマン」の「ワンダバ」(正式には「MATのテーマ」)など、当方の世代としてはどストライクでした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、今年も大晦日。昨日までのこのブログで1年間を振り返ることを致しまして、当会として取り組んださまざまな事柄も載せました。

それ以外に、これも毎年ご紹介している活動のご報告。

まず、皆様方からいただいた郵便物に貼られていた切手。毎年の恒例ですが公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会さんにお送りしました。途上国の保健医療協力などのため役立てられます。
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同様に、ベルマーク。こちらはベルマーク教育助成財団さんに送付。「今月の寄贈者」としてご紹介いただいております。
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「高村幸太郎」となっているのはご愛敬(笑)。

それにしても、ベルマーク、年々対象商品が減り続けていて、以前ほど送れなくなってしまい、心苦しく思っております。ベルマークが付いているから石鹸は○○石鹸、コンビニおにぎりは××マートと決めていたのですが、そのあたりがマークを付けなくなってしまいました。しかたがないのかもしれませんが、せちがらい世の中ですね……。その意味では全商品にマークを付け続けている湖池屋さんは素晴らしいと思います。

それから、講演等でいただいたギャラの中から、クラウドファンディング。二本松の大山忠作美術館さんの開館15周年特別企画展「成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」に向けて、さらに東京都小平市の「平櫛田中応援プロジェクト~平櫛田中旧宅を後世に残すために~第2弾」へ。来年以降、光太郎の終焉の地にして第一回連翹忌会場となった中野の中西利雄アトリエ保存につき、クラウドファンディングを行うことになりそうなので、「情けは人のためならず」という下心もありますが(笑)。

というわけで、来年も変わらぬご厚誼の程、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小包の方を炉辺でひらきまして、お心のこもつた品々に感謝しました。抹茶は新年に口あけする事にいたしました。 生干も丸干も実に結構です、この甘味も湯をつぎながら子供の頃を思ひ出しました。皆様お揃で健康で新年を迎へられますやうに。


昭和25年(1950)12月29日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎68歳

お心のこもつた品々」はお歳暮的な意味合いでしょう。戦前から交流のあった美術史家・奥平英雄夫人のちゑ子から。「生干」「丸干」は「甘味」とあるので干し芋(乾燥芋)と思われます。サツマイモは光太郎の子供の頃からの好物の一つでした。

皆様方も「健康で新年を迎へられますやうに」。

今年一年を振り返る最終回です。「芸術の秋」ということで、この3ヶ月が最も事項の多い時期でした。

10月1日(火)
岩波書店さんから『図書』10月号が発行されました。中村佑子氏「冷たい乙女たち――高村智恵子に寄する」を含みます。
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10月1日(火)~12月22日(日)
千代田区の東京国立近代美術館さんで「ハニワと土偶の近代」展が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

10月3日(木)~11月17日(日)
福島県二本松市の智恵子の生家/智恵子記念館さんで「高村智恵子 レモン祭」が開催され、生家二階部分の特別公開、生家ライトアップ、坂本富江氏による「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演などが行われました。
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10月4日(金)・10月5日(土)
岩手県花巻市の田舎laboさんで、智恵子の命日、10月5日にちなむ「レモンの日イベント」が開催され、複数の地元飲食店によるレモンを使った食品が販売されました。

10月5日(土)
当会から『光太郎資料』62集を発行しました。
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10月5日(土)~11月30日(土)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで「令和6年度高村光太郎記念館企画展 高村光太郎 書の世界」が開催されました。

10月8日(火)~11月19日(火)
神奈川県鎌倉市の笛ギャラリーさんで「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11」が開催されました。
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10月9日(水)・10月10日(木)

10月10日(木)~10月14日(月)
新宿区の雑遊さんで「平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』」公演がありました。智恵子を主人公とした一人芝居、野田秀樹氏の脚本でした。
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10月12日(土)
台東区のレンタルギャラリーブレーメンハウスさんで朗読イベント「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」が開催され、当方も光太郎について語らせていただきました。

10月12日(土)~2025年1月13日(月)
文京区立森鷗外記念館さんで特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」が開催され、光太郎書簡も展示されました。
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10月13日(日)
 岩手県花巻市の土沢商店街さん、萬鉄五郎記念美術館さん前を会場に「土澤アートクラフトフェア」が開催され、やつかの森LLCさんによる「こうたろう弁当」、花巻南高校家庭クラブさんによる「レモンケーキ」が振る舞われました。

10月14日(月)
福島県二本松市の智恵子生家近くで「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」が開催されました。光太郎と智恵子の言葉を印刷した大きなボードが設置され、その除幕式を兼ねての実施。ボードの題字揮毫は書家の菊地雪渓氏でした。
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10月17日(木)
美術評論家の高階秀爾氏が亡くなりました。光太郎に触れる玉稿等もおありでした。

10月18日(金)~10月27日(日) 
渋谷区の黒田陶苑さんで「五十五周年記念 特別展 【 粋 II 近代巨匠名品展】」が開催され、光太郎色紙が展示即売されました。
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10月18日(金)~12月15日(日)
山口県宇部市のときわ湖水ホールさんで「彫刻世界 かたち・つくり・ひらく」展が開催され、光太郎ブロンズ「手」が出品されました。

10月19日(土)~11月17日(日)
金沢市の石川県立歴史博物館さんで「令和6年能登半島地震復興応援特別展 七尾美術館 in れきはく」が開催され、光太郎の父・光雲作の聖観音像が展示されました。
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10月23日(水)
国書刊行会さんから藤井明氏著『明治・大正・昭和 メダル全史』が刊行されました。光太郎作のメダルも紹介されました。

10月24日(木)
兵庫県西宮市の県立芸術文化センターさんで「関西歌曲研究会 日本歌曲の流れ 第101回演奏会 シリーズ 詩人 ~うたびと~vol.1 詩(うた)はどこから来た?」公演があり、別宮貞雄氏作曲「レモン哀歌」が演奏されました。
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10月26日(土)
神奈川県逗子市の旧逗子高等学校武道場において「余白露光 テルミンと民族楽器のライブ演奏」上演があり、聖和学院中学校・髙等学校美術部さんによる「智恵子抄」朗読がありました。

10月26日(土)~12月1日(日)
荒川区のふるさと文化館さんで「令和6年度荒川ふるさと文化館企画展 鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」が開催され、光雲に関わる展示も為されました。
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10月27日(日)
岩手県花巻市のなはんプラザCOMZ ホールさんで「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」が開催され、生前の光太郎をご存じの元宮沢賢治子供の会会員のお二人、賢治実弟清六令孫・宮沢和樹氏と当方による公開対談が行われました。

同日、京都市の文星堂さんで「文星堂 定期演奏会 秋の音楽会」が開催され、「智恵子抄」から詩篇の朗読がありました。
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さらに同日、大阪市のATC海辺のステージさんで「第15回サンセットファミリーコンサート 海辺の音楽会~あなたに贈る歌~」が開催され、蒔田尚昊氏作曲「あどけない話」が演奏されました。
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11月3日(日)
福島県郡山市のけんしん郡山文化センターさんで「郡山市市制施行100周年記念式典音楽祭」が開催され、湯浅譲二氏作曲「あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による」が演奏されました。

11月4日(月)
広島市の日本キリスト教団 広島流川教会さんで演奏会「広島中央合唱団 Autmun Concert~Can't wait for Christmas~」が開催され、鈴木憲夫氏作曲の「混声合唱曲 レモン哀歌」が演奏されました。
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11月5日(火)
江東区の豊洲シビックセンターホールさんで「サウンド・ランドスケープ Vol.4~現代音楽の今~」が開催され、別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」より「僕等」「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」が演奏されました。

11月8日(金) ・11月22日(金)・ 12月13日(金)
 NHKカルチャーさんのオンライン講座「心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編」が行われ、光太郎詩「あどけない話」が教材として使用されました。講師は朗読家・神戸女学院大学非常勤講師、川邊暁美氏でした。
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11月10日(日)~11月18日(月)
中野区のなかのZEROさんで「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」が開催され、保存運動が展開されている光太郎終焉の地・中西利雄アトリエを中心とした展示が行われました。関連行事として11月10日(日)、渡辺えりさんと当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が行われました。

11月13日(水)
戦後日本を代表する詩人として海外でも評価された谷川俊太郎氏が亡くなりました。「二十億光年の孤独」他初期の詩集を光太郎に贈り、礼状を受け取られていました。
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同日、BSよしもとさんで「又吉・せきしろのなにもしない散歩 #137」が放映され、福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館が取り上げられました。再放送が11月15日(金)でした。

11月17日(日)
千葉市の千葉大学さんキャンパスで、光雲が原型を制作し、戦時中の金属供出で失われていた長尾精一胸像が再建されました。
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11月18日(月)~12月13日(金)
仙台市の東北大学附属図書館さんで「東北大学総合知デジタルアーカイブ公開記念展示 チベット仏教の精華」が開催され、光雲作の木彫釈迦如来座像が出品されました。

11月20日
青土社さんから中野敏男氏著『継続する植民地主義の思想史』が刊行されました。第三章が「近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程」でした。
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11月21日(木)~11月24日(日)
杉並区の荻窪小劇場さんで「劇団「喜び」40回記念公演 一人芝居 智恵子抄」が上演されました。茶山千恵子さんによる一人芝居、一柳みるさん、西山水木さん、小飯塚貴世江さんによる宮崎春子「紙絵のおもいで」朗読でした。

11月23日(土)
文京区の文京シビックセンターさんで「第67回高村光太郎研究会」が開催されました。発表は熊谷健一氏「智恵子と光太郎の人間学――美の求道者の生涯に思う――」、大島裕子氏「智恵子について、今思うこと」でした。
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11月23日(土)~2025年1月19日(日)
栃木県那須塩原市の那須野が原博物館さんで「開館20周年記念特別展 松方正義と那須野が原」が開催され、光雲作の「松方正義像」が出品されました。

12月1日(日)
白水社さんから雑誌『ふらんす』2024年12月号が発行されました。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」を取り上げた仏文学者の鹿島茂氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が載っています。
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12月7日(土)
『岩手日報』さんに掲載された「みちのく随想」というコーナーの、「私たちのリレー」というエッセイ。お書きになったのは、宮澤賢治の妹・トシの母校にしてトシ自身も教壇に立った花巻南高等学校さんの菊池久恵先生。文芸部さんの顧問をお務めです。昨年11月の花巻高村光太郎記念館さん企画展「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展での当方の講座、今年6月のイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」での智恵子のエプロン復刻などについてご紹介して下さいました。
 
12月7日(土)・12月8日(日)
金沢市の金沢美術工芸大学さんで「カナビフォトフェス」が開催され、光雲令曾孫・髙村達氏撮影による光雲、光太郎彫刻の大判写真が展示されました。
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12月7日(土)~2025年1月26日(金)
花巻市の高村光太郎記念館さん他で、同一テーマによる「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」展が開催されました。高村光太郎記念館さんでは「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」と題した展示でした。
 
12月10日(火)
文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』の第十九号が発行されました。中野区の中西利雄アトリエ保存に関する記事、当方の連載「連翹忌通信」などが掲載されました。
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同日、中央公論新社さんから辻田真佐憲氏著『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』が発行されました。光太郎詩碑を取り上げた「よみがえった「一億の号泣」碑」、光雲原型作のモニュメントに触れた「東の靖国、西の護国塔」という章を含みます。
 
さらに同日、中央公論新社さんから『中央公論』2025年1月号が発行されました。東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏による連載「皇室のお宝拝見」で、光太郎の父・光雲作の木彫「矮鶏置物」が取り上げられています。
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12月12日(木)
報道されたのが先週末でして、項目を設けてご紹介しませんでしたが、京都の清水三年坂美術館さん館長の村田理如氏が亡くなりました。いわゆる「超絶技巧」系の明治工芸の蒐集に力を入れられ、現在、山梨県立美術館さんを巡回中の「超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA」展など、多くの展覧会にご協力、ご自身でも関連行事としての講演会講師なども務められました。

12月14日(土)~2025年2月11日(火)
広島県呉市の呉市立美術館さんで「コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション」が開催され、光太郎ブロンズ「手」が出品されました。
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12月15日(日)
福島県二本松市で「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」の発会20年を祝うつどいが開催され、『記念文集』、坂本富江氏著絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』が発行されました。

12月20日(金)~12月22日(日)
世田谷区のAPOCシアターさんで、「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花の家」が上演されました。光太郎智恵子をモチーフとした人物が登場する演劇でした。
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最後は年間通しての話になりますが、毎月15日、花巻市の道の駅はなまき西南さん内のテナント・ミレットキッチンフラワーさんで、豪華弁当「光太郎ランチ」が販売されました。また、同じく花巻市のワンデイシェフの大食堂さんで不定期に8回「こうたろうカフェ」。共に主に食を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、光太郎の日記などを元にメニューを考案、「こうたろうカフェ」では調理も担当なさいました。

いろいろあった1年間でした。ご関係の皆様のさらなるご活躍とご健勝を祈念いたします。同時に、来年も今年を上回る勢いでいろいろあることを期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

晶子会発起人中へ加はる事は承諾いたします、 歌碑の方の御相談については御返事を保留して、もつと考へます、多分小生には無理でせう、やはり建設の場に居ないとやりにくいと思ひます、


昭和25年(1950)12月29日 中原綾子宛書簡より 光太郎68歳

与謝野晶子の一番弟子を自負していた中原綾子。顕彰のための会を起ち上げ、晶子の弟分だった光太郎にも協力を要請しました。

今年一年の回顧、7~9月編です。

7月3日(水)
渋谷プロダクション/スタンス・カンパニーさんからブルーレイ「火だるま槐多よ」が発行されました。光太郎と交流のあった鬼才の画家・村山槐多をモチーフとし、昨年封切られたた映画「火だるま槐多よ」の映像ソフト化でした。劇中で光太郎詩「村山槐多」が使われました。
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7月6日(土)
名古屋市の宗次ホールさんで「藤木大地(カウンターテナー)&佐藤卓史(ピアノ)リサイタル 白鳥の歌/智恵子抄」公演がありました。佐藤卓史氏作曲「あどけない話」(世界初演)、加藤昌則氏作曲「レモン哀歌」が演奏されました。

7月13日(土)~8月31日(土)
花巻高村光太郎記念館さんで企画展示「山口山(やまぐちやま)のなつやすみ」が開催され、木工房さとう(さとうつかさ氏)の制作した高村光太郎や宮沢賢治をモチーフにした木工のオブジェが展示されました。
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7月13日(土)~9月1日(日)
兵庫県たつの市の霞城館・矢野勘治記念館さんで企画展示「三木露風と交流のあった人々」が開催され、光太郎から三木露風宛の絵葉書(『全集』等未収録)が展示されました。

7月13日(土)~9月23日(月)
愛知県小牧市のメナード美術館さんで「なつやすみ所蔵企画展 額縁のむこうのFRANCE -心惹かれる芸術の地-」が開催され、光太郎木彫「鯰」が展示されました。
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7月18日(木)~7月23日(火)
箏曲奏者元井美智子氏と、朗読家・荒井真澄氏のコラボによる「智恵子抄」朗読を含むコンサートツアーが岩手・宮城で開催されました。7/13、花巻市の賢治の広場 ハナマルカフェさんで「夏、花巻で奏であう 光太郎、賢治、箏と声」、7/19、仙台市のとなりのえんがわさんで「旅するお箏 となりのえんがわdeコンサート」、7/23、同じくAntique & Cafe TiTiさんで「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」でした。

7月27日(土)~10月20日(日)
北海道釧路市の釧路文学館さんで、企画展「来釧した文豪たち 「文豪とアルケミスト」も釧路に来た!!」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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7月31日(水) 
岩手県花巻市で行われた市長さんの定例記者会見の中で、光太郎から歌人中原綾子宛ての手紙・原稿等64点が、中原ご遺族から寄贈された件が発表されました。

8月9日(金)
宮城県牡鹿郡女川町の高村光太郎文学碑、まちなか交流館さんで第33回女川光太郎祭が開催されました。県内外の方々の光太郎詩文朗読、当方の記念講演などが行われました。
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8月10日(土)~9月23日(月)
北海道伊達市のだて歴史文化ミュージアムさんで「佐々木寒湖の書」展が開催され、光太郎詩に題を採った書も複数展示されました。

8月24日(土)
福島県二本松市の市民交流センターさんで「親子で楽しめるワークショップ Satoyamaのはなしとものづくり」 の第2回「智恵子の紙絵 紙絵のラブレター」が開催されました。
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8月24日(土)・8月25日(日)
岐阜県美濃加茂市立東図書館さん及び岐阜市のクララザールじゅうろく音楽堂さんで「リートデュオコンサート「二人の肖像」大梅慶子×内多瑞子」が開催され、蒔田尚昊氏作曲「歌曲集 智恵子抄」が演奏されました。

8月24日(土)~9月15日(日)
福島県白河市の白河市立図書館さん他を会場に「福島ビエンナーレ2024"風月の芸術祭 in 白河―起" 」が開催され、墨絵や版画などを手がけられている小松美羽氏による智恵子オマージュの作品も展示されました。
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8月28日(水)
筑摩書房さんから早川茉莉氏編のアンソロジー『ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編』が刊行されました。光太郎エッセイ「ビールの味」を含みます。

8月28日(水)~9月9日(月)
渋谷区の新宿高島屋10階美術画廊さんで「齊藤秀樹展 ― 一木(いちぼく)―」が開催され、光太郎の父・光雲オマージュの木彫作品も展示されました。
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8月29日(木)
花巻南高校文芸部誌『門 ⅩⅧ』が発行されました。「特集Ⅰ わたしたちの高村光太郎」と銘打ち、約30ページ(全体の3分の1ほど)費やして下さいました。

同日、大阪市の本願寺津村別院(北御堂)さんで「北御堂コンサートvol.255〜ロマンの饗宴〜」が開催され、蒔田尚昊氏作曲「あどけない話」が演奏されました。
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9月6日(金)~10月20日(日)
台東区の東京藝術大学大学美術館さんで「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」展が開催され、光雲・光太郎作品も展示されました。

9月7日(土)~9月23日(月)
渋谷区のエンパシーギャラリーさんで「瀬戸優個展 Time Traveler」が開催され、光雲オマージュのテラコッタ作品も展示されました。
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9月9日(月)~9月15日(日)
京都市のぎゃらりい思文閣さんで「令和6年9月 思文閣大入札会 下見会」が開催され、中原綾子に贈られた光太郎色紙二点が展示されました。

9月12日(木)
音楽家の田中信昭氏が亡くなりました。平成元年(1989)10月6日、赤坂の草月ホールで開催された「オペラ智恵子抄」初演の際、伴奏の10人編成アンサンブルの指揮をなさって下さいました。

9月13日(金)
仙台市のアクテデュースさんで、ピアニスト・齋藤卓子氏による「サロンコンサート《 いざなう月の琴》 vol.32 ~古典調律で楽しむ, 小さなお部屋コンサート『 ひとり シューマンと智恵子抄 』クララ・シューマンの生誕日に寄せて~」が開催されました。
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9月13日(金)
オンラインで全国の公民館をつなげ、各地のご当地体操に大人数で取り組む「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」が開催されました。福島県二本松市の「ほんとの空体操」も取り上げられました。

9月14日(土)
TokyoFMさん他で「yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ」がオンエアされ、サブタイトルが「己の後悔と向き合う -【千葉県にまつわるレジェンド篇】芸術家 高村光太郎-」でした。語りは長塚圭史さん、脚本は北阪昌人氏でした。
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9月15日(日)
神奈川県逗子市のテルミンミュージアムさんで「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」が開催されました。テルミン奏者の大西ようこさん、箏曲奏者の元井美智子さんのコラボで、元井さんオリジナルの「智恵子抄」が演奏されました。
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同日、花巻市の『広報はなまき』の連載「花巻歴史探訪郷土ゆかりの文化財編」で、今年寄贈された光太郎から歌人の中原綾子宛史料のうち、直筆草稿が紹介されました。

9月15日(日)~10月8日(火)
千葉県多古町のコミュニティプラザさんで「多古町合併70周年記念 第48回千葉県移動美術館~田んぼの美~」が開催され、千葉県立美術館さん所蔵の光太郎ブロンズ「手」が出品されました。
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9月20日(金)~9月30日(月)
神戸市のGallery301さんで「山下和也個展 星尘詩(ほしくずのうた)」が開催され、光太郎オマージュのアート作品が展示されました。

9月22日(日)
盛岡市の岩手県産業会館さんで「同人誌展示即売会 岩漫63」が開催され、花巻高村光太郎記念館さんも参加なさいました。
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9月27日(金)
講談社さんから神永曉氏監修『日本のことばずかん いきもの』が刊行されました。光太郎詩「春駒」が取り上げられました。

明日はこの項最終回で、10~12月をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

この一ヶ月ばかり小生ひどくいそがしい思をしました。こんな山の中にゐて用事や原稿に追ひかけられるのは滑稽です。

昭和25年(1950)12月23日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳

この年は詩集『典型』や詩文集『智恵子抄その後』などの出版が相次ぎ、実際に忙しかったようです。数え68歳、当時としては「ご隠居」と呼ばれてもおかしくない年齢。まぁ、年齢に負けない精力的な活動ということでしたが。

今年一年を振り返る2回目です。

4月2日(火)
千代田区の日比谷松本楼さんで、光太郎忌日・第68回連翹忌の集いを開催いたしました。
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同日、刊行物として高村光太郎研究会さんから『高村光太郎研究(45)』、文治堂書店さんから勝畑耕一氏著『中野・中西家と光太郎』、当会から『光太郎資料』第61集が発行されました。
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4月3日(水)
花巻市太田地区ご在住で、生前の光太郎をご存じ、語り部として様々なご活動をなさっていた浅沼隆氏が亡くなりました。連翹忌の集いにも複数回ご参加下さっていました。
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4月5日(金)
豊島区のヤマノミュージックサロン池袋さんで、山野楽器落語の一日 第二部 熱血・若手落語会が開催されました。光太郎の父・光雲の「光雲懐古談」に材を採った鈴々舎馬桜師匠の創作落語「名人傳」が演目に入りました。
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4月5日(金)~4月14日(日)
渋谷区のデザイン&ギャラリー装丁夜話さんで「ASAKO展 春、在りし日、過ぎし日」が開催されました。水彩画家ASAKO氏の「智恵子抄」オマージュの作品などが展示されました。
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4月9日(火)
荒川区の日暮里サニーホール コンサートサロンで朗読と音楽をコラボしたコンサート「My Favorite Music 春の風に寄せて」が開催されました。桜さゆり氏による朗読「高村光雲:佐竹の原へ大仏をこしらえたはなしより抜粋」がプログラムに入っていました。
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4月10日(水)
みすず書房さんから土田昇氏著『瀏瀏と研ぐ――職人と芸術家』が刊行されました。伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀を中心に、光雲、光太郎にも随所で触れて下さいました。

4月13日(土)~6月30日(日)
文京区立森鷗外記念館さんで 特別展「教壇に立った鴎外先生」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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4月16日(火)
宮沢賢治実弟・清六の息女にして、光太郎が様々な支援を行った児童劇団「花巻賢治子供の会」メンバーだった宮沢潤子氏が亡くなりました。

4月19日(金)
光太郎がらみの玉稿が複数おありだった、福島県いわき市立草野心平記念文学館名誉館長の粟津則雄氏が亡くなりました。

4月20日(土)
夜学舎さんから雑誌『B面の歌を聞け』第4号が発行されました。「アートを通じて社会をほぐす 谷澤紗和子さんのアートと「ことば」」と題し、智恵子紙絵オマージュ作品等を手がけられている現代アート作家・谷澤紗和子氏が取り上げられました。
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4月23日(火)
講談社さんから野村進氏著『丹波哲郎 見事な生涯』が刊行されました。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」にスポットを当てた「病身の妻 志麻子にかけた催眠術 「智恵子抄」から「貞子抄」へ」という章を含みます。

4月25日(木)
婦人之友社さんから森まゆみ氏著『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』が刊行されました。夫・吉一と共に、現代でも続く雑誌『婦人之友』を創刊し、都内に自由学園を創立した羽仁もと子の評伝です。同誌には光太郎・智恵子もたびたび寄稿しましたし、同校を光太郎が訪れたこともあり、光太郎に触れられています。
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4月25日(木)~5月26日(日)
福島県二本松市の智恵子生家/高村智恵子記念館さんで「高村智恵子生誕祭」が開催され、生家二階特別公開、「紙絵」実物展示、「上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験」、「智恵子を偲ぶ鎮魂のつどい」など様々なコンテンツが行われました。
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4月27日(土)~7月7日(日)
花巻高村光太郎記念館さんで「令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催されました。

4月27日(土)~6月30日(日)
仙台市の仙台文学館さんで「開館25周年記念特別展 詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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4月29日(月)
渡邉茂男氏著『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』が東京図書出版さんから刊行されました。随所で光太郎に触れられています。

同日、中央区の第一生命ホールさんで「大阪コレギウム・ムジクム演奏会 大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団第21回東京定期公演」が開催されました。西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」が演奏されました。
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5月5日(日)
亜紀書房さんから若松英輔氏著『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』が刊行されました。「書くとはおもいを手放すことである……高村光太郎と内村鑑三」という項を含みます。

5月11日(土)
大和書房さんから阿川佐和子氏他著『おいしいアンソロジー 喫茶店  少しだけ、私だけの時間』が刊行されました。光太郎の随筆「珈琲店より」を含みます。
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5月15日(水)
武蔵野美術大学さんの前田恭二教授による『読売新聞』さんの連載「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」に「若きフジタの「漫画展」――青春時代の藤田嗣治」が掲載され、神田淡路町にあったほぼほぼ我が国初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)がらみで光太郎、そして智恵子にも言及されました。以後の同連載、5月29日(水)「高村光太郎と荻原碌山――1910年4月の群像」、6月12日(水)「東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅠ――上司小剣の“匿名日記”を読む」、6月26日(水)「東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅡ――人見東明とフュウザン会」、7月10日(水)「最も新しい女性画家――高村智恵子の青春」で光太郎智恵子に触れられました。

5月19日(日)
愛知県西尾市の古民家カフェすず助さんで「語り部リサイタルvol.5 みーみーの世界〜私のまわりのものたちのこと」公演がありました。「智恵子抄」から朗読が為されました。
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5月26日(日)
富山県高岡市の生涯学習センターさんで「令和6年度市民大学たかおか学遊塾 高村光太郎『智恵子抄』講座」が始まりました。講師は同市ご在住の茶山千恵子氏でした。

6月1日(土)
NHKさんの東北6県向けの情報番組「ウイークエンド東北」で、中西利雄アトリエ保存運動、東北各地で光太郎智恵子顕彰等に取り組まれる方々が紹介されました。
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6月2日(日)
文京区のトッパンホ-ルさんでコール淡水・東京(CTT)さんの第11回定期演奏会が開催されました。次郎丸智希氏が光太郎詩『雨にうたるるカテドラル』に曲を付けた作品が委嘱作品として初演されました。

6月6日(木)~6月16日(日)
品川区のシアターHさんで、オンラインゲーム「文豪とアルケミスト」に材を採った演劇「文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)」東京公演が行われました。京都公演は6月21日(金)~6月23日(日)、京都市の京都劇場さんでした。
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6月9日(日)
岩手県花巻市のなはんプラザさんでシンポジウム「五感で楽しむ光太郎ライフ」が開催されました。発表は「光太郎にかかわる総合学習の状況について」(花巻市立太田小学校長 藤田聖子氏)、「文芸誌作品・詩朗読及び感想」「智恵子のエプロン紹介」(花巻南高等学校文芸部・家庭クラブ生徒・担当教師)、「光太郎の愛した山口山の自然」(岩手県環境アドバイザー 望月達也氏)、「おいしいランチ 光太郎を食べよう TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当」(やつかの森LLCさん)。当方がコメンテーターを務めさせていただきました。

6月10日(月)
文治堂書店さんからPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』第十八号が発行されました。中西利雄アトリエ保存に関しての記事、当方の連載「連翹忌通信」などが載りました。
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6月15日(土)
東京都府中市の中央文化センターにおいて「葵の会第二十三回公演 青鞜の女たち」が開催されました。令和3年(2021)に上演されたものの再演で、光太郎智恵子も登場しました。

6月19日(水)~6月23日(日)
中野区のテアトルBONBONさんで演劇「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」公演がありました。
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6月29日(土)
杉並区の名曲喫茶ヴィオロンさんで「ノスタルジックな世界」公演がありました。藤澤由二氏のピアノ演奏に乗せて、MIHOE氏が歌われたり朗読されたりという構成でした。

6月30日(日)
三重県四日市市の市立図書館さんで「第3回文色草子朗読ライブ 詩人、四人。 高村光太郎×柴田トヨ 茨木のり子×東君平」が開催されました。
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明日は7~9月です。

【折々のことば・光太郎】

いただいたレコードもまだ本当にはきけないでゐます、一度持つて花巻にいつた時は停電にぶつかつて駄目、とあるパン屋さんの店さきにあつたポータブルをかりてききましたが、まるで音が狂つてしまつてこれも駄目でした、山には蓄音機まるでなくいつかゆつくりいい電蓄できかうと思つてゐます、

昭和25年(1950)12月1日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

「レコード」は、舞踊家の藤間がリサイタルで取り上げた「智恵子抄」の伴奏を吹き込んだレコードです。小村三千三作曲で、「浜辺」「ひたむき」「切紙細工」の三曲でした。藤間が山形に講演に行った光太郎にわざわざ届けてくれました。くわしくはこちら

毎年恒例、今年一年を振り返ります。

と、その前に、昨年のこの項で漏れていた件から。

2023年10月7日(土)~2024年3月31日(日)
世田谷区の世田谷文学館さんで「コレクション展 衣裳は語る──映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事」が開催され、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」の衣裳デザイン原画が展示されました。
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2023年11月15日(水)
沢本ひろみ氏著の歌集『燃える花』が文芸社さんから刊行されました。「智恵子抄」オマージュの短歌群を含みます。

2023年11月17日(金)~2024年2月12日(月・祝)
長野市の北野美術館さんで所蔵品展「冬の精華-語り来る入魂の作品たち-」が開催されました。光太郎の父・光雲作の木彫仁王像一対が出品されました。
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2023年11月30日(木)
青土社さんから小田原のどか氏著『モニュメント原論 思想的課題としての彫刻』が刊行されました。「3.彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく」などの項で光太郎に触れられています。

2023年12月5日(火)
大塚信一氏著の評伝『津田青楓 近代日本を生き抜いた画家』が作品社さんから刊行されました。随所で光太郎に言及されています。
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2023年12月27日(水)
俳人・小津夜景氏著のエッセイ集『ロゴスと巻貝』がアノニマ・スタジオさんから刊行されました。「『智恵子抄』の影と光」という項を含みます。

これより純粋に今年です。

1月1日(月)
清流出版さん発行の『月刊清流』2024年2月号に、安芸正宏氏による「『智恵子抄』と智恵子」という記事が載りました。
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1月4日(木)~3月3日(日)
千代田区の皇居三の丸尚蔵館さんで「開館記念展 皇室のみやび 第2期 近代皇室を彩る技と美」が開催されました。光雲作木彫「猿置物」が出品されました。

1月5日(金)~3月9日(土)
新潟市の敦井美術館さんで「新春特別展 新春工芸名品展」が開催され、光雲作の木彫「ちゃぼ」が展示されました。
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1月12日(金)
『東京新聞』さんに「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野  残したい 代表作「乙女の像」塑像も制作」という記事が載りました。

1月20日(土)~2月18日(日)
岩手県花巻市の花巻新渡戸記念館さん、萬鉄五郎記念美術館さん、高村光太郎記念館さんの3館が連携し、統一テーマによる同一時期の企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」が開催されました。高村光太郎記念館さんでは「光太郎からの手紙」でした。
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1月22日(月)
彩図社さんから同社文芸部さん編『大作家でも口はすべる 文豪の本音・失言・暴言集』が刊行され、「高村光太郎、酔ったせいか森鷗外を怒らせる」という項が含まれました。
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2月3日(土)~3月24日(日)
札幌市の北海道立文学館さんで、特別展「100年の時を超える ―〈明治・大正期刊行本〉探訪―」が開催され、光太郎第一詩集『道程』(大正3年=1914)の通常版と「異本」と、二種類が出展されました。

2月17日(土)
中野区の新井区民活動センターさんで「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の最初の会合が持たれました。
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2月21日(水)
BSよしもとさんで、「又吉・せきしろのなにもしない散歩 #99」の放映がありました。花巻市の高村光太郎記念館/高村山荘が取り上げられました。
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2月21日(水)~2月25日(日)
台東区の東京都美術館さんで「出張!江戸東京博物館」が開催され、光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」を描いた錦絵が展示されました。

2月23日(金)
岩手県花巻市の喫茶店ココ・タベルバ・ラパンさんで「VALENTINE CONCERT 朗読と音楽で楽しむお茶時間 高村光太郎『智恵子抄』より」が開催されました。
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2月29日(木)
栃木県を中心とした同人詩誌『馴鹿』第80号記念号が刊行されました。「特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」」の中で、吹木文音氏が光太郎詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)から象徴的なリフレイン『わたしもうぢき駄目になる』について書かれています。

3月1日(金)~3月10日(日)
渋谷区のデザイン&ギャラリー装丁夜話さんで「星センセイと一郎くんと珈琲」という個展が開かれました。山口一郎氏による「レモン哀歌」オマージュの作品が出展され、さらにそれを元にしたポストカードブックが発行・販売されました。
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3月5日(火)
あるきみ屋さんから黄瀛詩集『瑞枝』復刻版が刊行されました。元版は昭和9年(1934)。光太郎による序文が掲載されています。

3月7日(木)
稲賀繁美氏著・末木文美士氏/中島隆博氏責任編集『日本の近代思想を読みなおす3 美/藝術』が東京大学出版会さんから刊行されました。「高村光雲『高村光雲懐古譚』」「高村光太郎「ポール・セザンヌ」『印象派の思想と藝術』/「触覚の世界」」という項を含みます。
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3月15日(金)~3月17日(日)
千代田区の東京交通会館展示会場に於いて「ABAJ 国際 2024稀覯本フェア」が開催され、萩原朔太郎追悼の光太郎草稿が展示されました。

3月17日(日)
台東区の秋葉原コンシールシアターさんで朗読劇「天野まり単独公演 ソレを、私は恋と呼ぶ。/智恵子抄」が開催されました。 
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3月20日(水)
中央区の王子ホールさんを会場に「朝岡真木子歌曲コンサート 第7回」が開催されました。作曲家の朝岡氏が光太郎詩「冬が来た」に曲を付けた独唱歌曲が初演されました。

3月20日(水)~4月6日(土)
中央区のギャラリーせいほうさんで「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」が開催され、光雲木彫「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)が出品されました。
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3月23日(土)
台東区の一般社団法人落語協会さんで「彌生・初演の会 =お楽しみ宿題三題噺=」が開催されました。『光雲懐古談』に題を採った鈴々舎馬桜師匠による「名人傳」が初演されました。

3月25日(月)
福島県郡山市のNHKカルチャー郡山教室さんで「澤正宏先生の春の講座 与謝野晶子と高村光太郎」が開催されました。
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同日、生活の友社さんから『月刊 アートコレクターズ』№181 2024年4月号が発行されました。元神奈川県理知近代美術館長・水沢勉氏の連載「色と形は呼び交わす」の第13回「盛田亜耶 被膜の虚実」で、智恵子紙絵が紹介されました。

まだ安心は出来ませんが、コロナ禍も今や昔、さまざまなイベントもあり、胸をなで下ろした年明けからの3ヶ月でした。しかし抜けも多いかと思われます。「こんなこともあったよ」という情報がありましたらご教示下さい。

明日は4~6月をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

新潮社から文庫詩集が届きまして早速貴下の文章をよみました、まことに深く小生のものをよんで下さつてゐて、よみながらいろいろの事に自分でも気づきました、雑然としてゐた自己批判が整理されたやうに思ひました、大変おもひやりのある御意見には心があたためられ、今後の進み方に勇気が持てるやうに感じました、

昭和25年(1950)11月30日 伊藤信吉宛書簡より 光太郎68歳

文庫詩集」は現在も版を重ねている新潮文庫版『高村光太郎詩集』。昭和43年(1968)に改版となり、それまでの版に載っていた伊藤の解説は書き改められました。

最近の地方紙さん2紙の一面コラムで光太郎に言及されたものを2件。偶然でしょうが、どちらも「光太郎」以外に「登山」もキーワードでした。まぁ、「光太郎」はそれぞれ枕ですが(笑)。

まず12月22日(日)、『信濃毎日新聞』さん。

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「東京に空が無い」と話す妻、智恵子の言葉をうたった高村光太郎の詩に、阿多多羅山(あたたらやま)という山が出てくる。その上に毎日出ている青い空こそが「ほんとの空」だと。福島県の中部にある標高約1700メートルの活火山安達太良山(あだたらやま)のことだ◆直近の噴火は1900年。火口付近の硫黄採掘所で働いていた60人以上が犠牲になった。最初の小噴火で親方の言うことを聞かずに逃げた少年1人が無事だったが、まだ大丈夫とみた親方の指示で他の人はとどまり、すぐ後の噴火で爆風に巻き込まれた◆木曽町で先月開かれた御嶽山噴火10年のシンポジウムで磐梯山噴火記念館の佐藤公(ひろし)館長が説明していた。1888年に起きた同じ福島の磐梯山噴火と違い安達太良山の犠牲者はほぼ地元以外の人たち。地域で慰霊の機会は少なく、災害の事実はいつしか忘れられていったという◆時を経て1997年、安達太良山で再び犠牲者が出る。登山グループの女性4人が火山ガスに襲われ、次々に中毒死した。気象台は当時、火山活動の活発化に注意を呼びかけていた。もし約100年前の教訓が浸透していたら別の展開もあっただろうか◆深田久弥は著書の「日本百名山」で1900年の噴火を振り返り、火口の印象を「悲惨な歴史は知らずげに、こっそり秘められた仙境といった感じ」と書いた。「あれから10年、40年…」。そんな災害関連報道を今年もよく目にした。節目は来年も訪れる。諦めず粘り強く、伝え続けたい。

自然災害の多い国です。今年も特に能登の皆さんは元日の大地震に、その後の豪雨にと、大変な年でした。火山噴火に伴う甚大な被害はなかったように思いますが、安心は出来ませんね。地震にしても雨にしても噴火にしても、被害が出ない程度の規模で少しずつエネルギーを分散して発生するということであればいいのでしょうが、こればかりは……というところです。

続いて『千葉日報』さん、一昨日の掲載分。

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「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。大正、昭和に活躍した彫刻家で詩人の高村光太郎の代表作「道程」の一節。将来を切り開こうとする強い意志が感じられ、若き日に愛唱した方も多かろう▼気概はいつまでも大切にしたいものの、夏山登山では整備された登山道を歩くことが原則。貴重な植生を守り、道迷いや滑落による遭難防止につながる▼その登山道の維持には人の手が欠かせない。多くは山小屋や山岳団体の関係者が手弁当で担い、地元の自治体が維持費を工面しているケースもあるようだ▼「秩父三山」の一座、両神山(標高1723㍍)は日本百名山にも数えられ、鋸(のこぎり)歯のような山容が特徴。山頂近くの尾根にツツジの一種のアカヤシオが群生しており、春は山肌が桃色に染まる▼年間約3万人が訪れる人気山域の故に登山道は劣化し、台風による倒木や崩落箇所も増加。地元の小鹿野町は対策費を捻出すべくクラウドファンディング(CF)を開始。何度か歩いた経験がある身として、些少(さしょう)ながら寄付をさせていただいた▼県内で唯一「岳」の名を冠した伊予ヶ岳も南房総市が登山環境整備を掲げCFに挑戦。当初の目標額200万円を早々に達成、市は目標額を500万円に引き上げた。郷土の誇る低名山が安全に登山を楽しめる場所であってほしい。支援の広がりを願ってやまない。

千葉県民ですが、「伊予ヶ岳」は存じませんでした。「県内で唯一「岳」の名を冠した」だそうで。そもそも千葉県は県全体が東京スカイツリーより低い県(笑)。「岳」があるとは思ってもいませんでした。

伊予ヶ岳、埼玉の両神山、そういえば『信毎』さんで取り上げられた安達太良山でも登山道整備のためのCFが行われていました。自然災害の多い国ですが、それを補って余りある人々の支援の輪で、この国をよりよくしていけるような来年となることを期待します。

【折々のことば・光太郎】

御申越の原稿は暇があれば書かうと思ひますが今月中はとてもダメなのでもつとあとになるでせう、「彫刻になる顔」とでもするか、「山口淑子の首」とでも題しませうか、

昭和25年(1950)11月20日 藤島宇内宛書簡より 光太郎68歳

李香蘭こと故・山口淑子さん。光太郎は写真で見たそのお顔に、彫刻的興味を惹かれていたようです。山小屋を訪ねた藤島にもそういう話をし、藤島が当時務めていた新潮社の雑誌にそうした内容をエッセイで書いてくれ、と頼んだようです。しかし結局、彫刻もエッセイも実現しませんでした。

まずは状況をわかりやすくするために、地方紙『福島民友』さん記事から。

高村智恵子の古里にふさわしいまちづくりを 福島県二本松市の「夢くらぶ」 発会20年を祝うつどい

 「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」の発会20年を祝うつどいは15日、福島県二本松市油井の智恵子の湯で開かれた。同市出身の洋画家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家高村光太郎の愛と芸術に生涯をささげた姿を語り継ぎ、智恵子の古里にふさわしいまちづくりを進めていくことを誓い合った。
 約30人が出席した。熊谷健一代表が「二人の生き方が今の私たちに感動を与える。日本や世界中の人に訪ねてもらえる地域づくりをしよう」とあいさつ。市内の小中学校などに贈る絵本「夢を描くひと―高村智恵子―」を三保恵一市長に手渡した。作者の坂本富江さんが思いを語った。
 三保市長、本多勝実市議会議長、加藤和信あだち観光協会長が祝辞を述べた。乾杯して歓談した。トランペッターのNobyさんが演奏を披露した。出席者がスピーチし、エピソードなどを語った。
 夢くらぶは2005(平成17)年1月に発足。「智恵子純愛通り」記念碑建立や高村智恵子生誕祭、智恵子講座、朗読会、「智恵子抄」総選挙など多彩な事業を催している。発会20年と光太郎・智恵子の結婚110年、光太郎の詩集「道程」出版110年の記念文集を発行した。
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というわけで、智恵子の故郷・福島二本松でさまざまな智恵子顕彰活動をなさっている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんが20周年だそうで、おめでとうございます。

記事にある『記念文集』、絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』は下記画像。それぞれA4判横長です。
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『記念文集』目次はこちら。
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拙稿も載せていただいております。

絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』は、10月14日(月)、智恵子生家とその周辺で行われた「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」において、著者で太平洋美術会さんご所属の坂本富江さんが行った紙芝居を元に書かれています。当方、校閲いたしまして、「監修」ということでクレジットされています。奥付画像を載せておきます。
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記事に有る通り市内の学校さんに贈られたということで、智恵子の母校・油井小学校さんのサイトに報告が。

智恵子の絵本 贈呈式

高村智恵子さんの顕彰をしている「智恵子のまち夢くらぶ」より、市内の小中学校に絵本を寄贈いただきました。絵本は「夢を描くひと-高村智恵子-」というタイトルで、智恵子さんの生涯や生き方をわかりやすく紹介している絵本です。先日、絵本を作った作家の坂本富江さんが油井小に来校し、絵本に対する思いなどをうかがいました。そして、6年生が直接坂本さんから市内の学校を代表して絵本を受け取りました。6年生は感謝の言葉と「智恵子抄」の朗読をして、坂本さんと夢くらぶの皆様に感謝の気持ちを伝えました。
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関係の皆様の今後とものご活躍、さらに若い方々への継承といったあたりを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

毎年方々から請はれるままに新年の詩をこれまでうんざりするほど書いて来ましたが、もう一切書かない事にきめましたから此事御了承願ひます、


昭和25年(1950)11月18日 三宅正太郎宛書簡より 光太郎68歳

三宅は『北海道新聞』『中日新聞』『西日本新聞』3社で組んだブロック紙三社連合に勤務していました。その各紙で翌年元日に掲載する詩を書いてくれと言う依頼に対しての返答です。

ただ、結局、ぶつぶつ言いながらも、三宅からの重ねての依頼に根負けし、次の詩を送りました。

    船沈まず005

 酔はないのは船長とわたくしだけだつた。
 キヤビンの羽目につるしたステツキが
 振子のやうに四十五度かしいだ。
 ボートはさらはれ、
 手すりはもがれた。
 船は真横からくる吹雪を避けて
 コースを棄ててただよつた。
 とんでもない方角に
 船首は向いて波におされた。
 一人も客の出て来ない食堂で7f456cef
 その時わたくしは雑煮を祝つた。
 枠のはまつた食卓で
 ころがる箸をやつと取つた。
 それでも船は沈まなかつた。
 囲炉裏の上で餅を焼いてるこの小屋が、
 日本島の土台ぐるみ、
 今にも四十五度に傾きさうな新年だが、
 あの船の沈まなかつた経験を
 わたくしはもう一度はつきり思ひ出す。

遠く明治39年(1906)、横浜港からカナダ太平洋汽船の貨客船アセニアン号でアメリカ大陸を目指した際の体験を元にしています。「雑煮を祝つた」は、2月3日に出航し、航海中に旧正月を迎えたためでしょうか。この季節の太平洋は大荒れで、船は大きく北のアリューシャン方面までを迂回し、3月7日にバンクーバーに到着しました。「四十五度かしいだ」などは実話だったとのことですし、その後、流木が窓を突き破って船内に入ってきたこともあったそうです。

ひるがえって昭和26年(1951)の新年は「今にも四十五度に傾きさうな新年」。令和7年(2025)の新年もそんな感じですね(笑)。

2ヶ月経ってしまいましたが、新刊です。著者はお世話になっている藤井明氏。小平市平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員です。

明治・大正・昭和 メダル全史

発行日 : 2024年10月25日
著 者 : 藤井明
版 元 : 国書刊行会
定 価 : 12,000円+税

はじめての日本メダル大図鑑!
手のひらに載せれば心地よい金属の重みと質感を湛える、美しき世界――
明治初めに誕生し、大正に一大ブームを迎えるメダル。
オリンピック、高校野球、箱根駅伝、内国博覧会、皇室のご即位・ご成婚、従軍記章、創立記念、あるいはグリコのおまけ……
多種多様のメダルが製造され、なかには畑正吉、日名子実三、朝倉文夫、あるいは岡本太郎など美術家が関わりユニークで芸術性の高いものもある。
賞牌、勲章、記章、コインの類義語としてこれまであいまいにされてきた存在を、約280点のメダルと豊富な資料により、日本の近代化とともに歩んだ歴史と美術的価値を与えて詳らかにする、初のメダル集成。
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目次
 [プロローグ]メダルとは何か
 ようこそメダルの世界へ/メダルの名称
 i章 メダル事始
  1. 日本メダル前史
  2. メダルのはじまり
  3. 徽章業の誕生と発展
  §コラム1 西洋のメダル
 ii章 活用されゆくメダル
  1. 博覧会のメダル——文明開化のかがやき
  2. 皇室の祝賀
  3. 学校のメダル——「皆さん勉強なさい メダルを上げます」
  4 .会社・店舗のメダル
  5. 啓発のメダル
  §コラム2 初期デザインと様式
 iii章 メダルブームの到来
  1. 航空のメダル——大空に賭けた夢のかけら
  2. スポーツのメダル——ああ栄冠は君に輝く
  3. 活気づく徽章業
  4 .コレクターの出現
  5. 子どもたちの憧れ
  6. メダル事件簿
  §コラム3 オリンピックのメダル
 iv章 彫刻家とメダル
  1. メダルと彫刻
  2. 岩村透と畑正吉
  3. 日名子実三と構造社
  4. その他の作家たち
  5. 肖像メダル
  §コラム4 ノーベル賞のメダル
 v章 戦争とメダル
  1. 戦時下のメダル
  2.「桃太郎さがし」とメダル
  3. 戦時下の徽章業
  4. 今日のメダル
  §コラム5 メダルコレクターの素顔
 [エピローグ]ふたたびメダルとは何か
 注/主要参考文献/掲載図版一覧

表紙画像と目次、さらには紹介文でおおよそお判りかと存じますが、とにかく「メダル」です。250ページ超、ほぼオールカラーで、これでもかこれでもか、と、各種のメダルの図版が次々に。それぞれに解説も。紹介文に依ればその数約280点。さらに表裏双方の画像が掲載されていたり、メダルそのもの以外の関連する画像も豊富に収録されたりしています。

しかし、そもそも「メダル」っていったい何だ? ということになります。そのあたり、「プロローグ」で述べられていますが、「勲章」や「賞牌」といった、似たものとの線引きが曖昧ですね。さらに「貨幣」も絡んできたり……。そこで、勝手な想像ですが、約280点の紹介を通し、いわば帰納法的に「こういうものだ」とするという意図もあるのかな、と思いました。

さて、我らが光太郎の制作したメダルも4点、紹介されています。
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掲載順に並べましたが、左上が岩波書店の岩波茂雄に依頼されて造った同社の社章「種蒔く人」(昭和8年=1933頃)。右上は「園田孝吉像」(大正4年=1915)。左下に「嘉納治五郎像」(昭和9年=1934))、右下で「大町桂月像」(昭和28年=1953)。

「種蒔く人」は、岩波書店の岩波茂雄に依頼されて造った同社の社章。ただし不採用となりました。岩波が嫌っていた軍国主義っぽいと言う理由でした。しかし、「ボツになった」という事実も忘れられつつあるようで、現在の岩波書店さんでは社章は光太郎に作って貰った的な受け止め方でいます。そのあたり、くわしくはこちら

「園田孝吉像」。園田は十五銀行の頭取。同時に大きな胸像も制作されました。光太郎がアメリカ留学中に知り合った同行行員の熊井運祐、佐藤五百巌の斡旋で作られました。胸像の方は、信州安曇野の碌山美術館さんで展示されることがあります。

「嘉納治五郎像」は、「メダル」と言っていいのかどうか、当方としては疑問が残ります。縦長の長辺が20センチ超で、一般的な「メダル」よりかなり大きいので。ちなみに存命人物の肖像をやや苦手としていた、光太郎の父・光雲の代作です。画像はおそらく髙村家に遺された原型を元に、新たにブロンズで鋳造したもの。当方、制作当時のものを入手しましたが、ブロンズではなく石膏着色と思われます。ブロンズと比べ、恐ろしく軽いので。抜きが甘く、あまりいい出来ではありません。
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同様の光雲の代作として、「徳富蘇峰胸像」(昭和7年=1932)があります。こちらも入手しまして、先月、中野区のなかのZEROさんで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品いたしました。
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こちらはきちんとブロンズで、重量があります。頒布は翌昭和8年(1933)、その際の趣意書もついていました。光太郎が代作したものなのに、光雲が如何に素晴らしいかといった記述に溢れ、こうしたインチキがまかり通っていたのですね(現代でも似たようなケースがありそうですが)。サイズ的には「嘉納治五郎像」とほぼ同じ。これも「メダル」と言っていいのかどうか……と感じます。

閑話休題。最後は「大町桂月像」。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に配付されたもので、光太郎生涯最後の完成作です。上の画像は原型。鋳造されたメダルは十和田湖畔の観光交流センターぷらっとさんに展示されています。
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『明治・大正・昭和 メダル全史』。他に、名のある彫刻家、工芸家、画家等が原型を制作したメダルも多数。畑正吉、日名子実三、齋藤素巌、陽咸二、藤井浩祐、朝倉文夫、荻原守衛、戸張孤雁、藤井達吉、岡田三郎助、北村西望、小杉未醒(放菴)、香取正彦、武石弘三郎などなど。

しかし、それらより圧倒的に多いのは、名も無き職人さん達の作。かえってそちらの作品群の方が、当時の世相や世の中の需要などを如実に反映しているようにも見えました。

なかなか高価なものですが、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

三十日から三日まで山形へゆき、酒の御馳走になつてきました、蔵王山麓が美しくみえました、 ここではもう冬です、


昭和25年(1950)11月8日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

山形では県総合美術展覧会の批評、講演会を二回行いました。このうち、山形市教育会館で開催された方を、渡辺えりさんの御両親が聴かれたそうです。

一昨日、中途半端なところで終わってしまった花巻レポートの続きです。

豊沢町のカフェ羅須さん。お世話になっている泉沢義雄氏と賢治研究のお仲間が新たに開店なさったお店ですが、花巻市さんの広報誌『広報はなまき』12月15日号に紹介されています。
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展示されていました地元の方の賢治オマージュの作品、画像がアップロードし切れていませんでしたので、追加です。
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店内には他にも常設的に賢治関連の展示も。
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それ以外にも、写真を取り忘れましたが、ジャズを中心に、クラシックや懐かしのJ-POP、果ては演歌にいたるアナログレコードがずらり。

そこそこ面積もあり、キャパ数十のちょっとしたコンサートなど音楽や朗読イベント等も可能なようです。光太郎関連でもやらせてくれそうです。
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今後のますますのご繁昌を祈念いたします。

さて、市街地を後に、旧太田村方面へレンタカーを走らせました。目指すは光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋・高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館さん。一見平坦な道に見えて徐々に標高が上がっていき、少しずつ積雪も。

まずは手前の高村光太郎記念館さん。驚くほどの積雪ではありません。というか、逆にこの時期としては雪が少なくて、驚くほどです。以前はスタッフの方が小型の除雪車でメートル単位の雪を排除していました。
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こちらでは、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館、花巻市総合文化センターの4館が連携し、統一テーマ「イーハトーブの先人たち」による同一時期開催の企画展「ぐるっと花巻再発見」の一環として「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」が開催中。
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スペース中央に、どん!と蓄音機。
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パネルは、クラシック音楽に関わる光太郎詩や尾崎喜八、宮沢清六ら周辺人物の回想等。
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SPレコードが4枚。うち2枚は当方がお貸しした、太平洋戦争前の光太郎作詞のものです(楽譜も)。
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自宅兼事務所にはアナログレコードの音声データをPCに取り込めるレコードプレーヤー(SPの78回転にも対応しています)がありますので、こちらで作成したデータも一緒に提供しましたところ、QRコードで聴くことが出来るようにしてありました。
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この2枚以外にもSPレコードを数枚お貸ししたのですが、スペースや予算の関係でしょうか、そちらは展示されていませんでした。以前に使っていた展示ケースが不具合、その後新たに補充されていないそうで、それさえあればずらっと並べられるのに改善されていません。マストの備品なので何とかして下さいと前々から言っているのですが、何だかなぁ、という感じです。

他に、光太郎も聴いたであろう戦後くらいのクラシックの盤。こちらは地元の方のご提供。
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会場内ではこちらから採ったと思われる音楽をエンドレスで流しています。

隣接する(といっても数百㍍)高村山荘へ。市街地でも熊の出没情報が相次いでいますので、十分注意しつつ。この積雪の少なさで、まだ冬眠していないようです。
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ルーティンで、光太郎遺影にご挨拶。

その後、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに立ち寄り、リンゴを一箱購入して自宅に発送。少し前にやつかの森LLCさんからいただいた一箱も食べきっていないのですが、あったらあったで困りませんので。

そして定宿の、光太郎や賢治も愛した大沢温泉さん。
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渓流側の部屋にしていただき、ラッキーでした。

当方、ここのところ毎年冬の初めには手指に内出血系のしもやけが出来て、痛くて堪らないのですが、大沢温泉さんに浸かると不思議と治ります。以前もそうでした。恐るべし、温泉パワー(笑)。

そして翌朝。この日は世田谷の千歳船橋で演劇公演「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花(ノウゼンカズラ)の家」拝見のため、8時台のはやぶさ号で帰りました。

また来月も花巻行きの予定です。カフェ羅須さん、高村光太郎記念館さん、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

三日に胆沢郡水沢町といふ町の水沢公民館で智恵子の切抜絵の展覧会をやつたやうです。そこには智恵子の旧知の人が居ます。山形市、盛岡市、花巻町でもやりました。


昭和25年(1950)11月8日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

水沢町は現在の奥州市。こちらの公民館で1日限定で智恵子の紙絵の展示が行われました。作品は花巻の佐藤隆房宅に疎開させておいたものからチョイスし、「智恵子の旧知の人」日本画家の夏目利政が骨折って実現しました。夏目は明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が下宿していた家の息子でした。水沢方面に疎開して、戦後もしばらくいたようです。

パンフレットには夏目による在りし日の智恵子を思い出して描かれた絵も載せられました。
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昨日のこのブログでは、一昨日、昨日と滞在しておりました光太郎第二の故郷・岩手花巻のレポートを途中まで致しておりましたが、一旦中断し、その後向かいました世田谷での観劇レポートを。そちらの公演が今日までですので、これを見て行ってみようという方が一人でもいらっしゃれば、と思いまして。

燦燦たる午餐さんの第二回公演「凌霄花の家」。ハコは小田急線千歳船橋駅近くのAPOCシアターさん。キャパ20名ちょいくらいの小劇場でした。しかし天井は高く狭苦しい感じではなく、奈落(?)に降りる階段なども劇中で効果的に活用されていました。
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こちらは終演後。左端に階段。
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登場人物は三人(劇中劇的に、他の人物の役どころを演じる役回りも設定されていましたが)。それぞれ熱の籠もった演技でした。

まず令和の現代を生きる若い女性・遙佳(中嶋真由佳さん)。彼女がさまざまな鬱屈を抱え、鬱蒼とした森の中を歩いている中で、凌霄花(ノウゼンカズラ)に包まれたあばら屋を見つけ、屋内に。そこで見つけた古い絵や日記、手紙などに見入っていると、一人の男(石倉来輝さん)が現れ、「この家のゆかりの者」的な自己紹介。そしてかつてこの家であったことを語り出す、という流れです。この手法、能の定石ですね。実はその語っている人物の正体は……という所まで含めて。

男の語る昔語りは、この家(実はアトリエ)で100年ほど前にあった画家夫婦、孝治(石倉さん)と夕子(畑中咲菜さん)の話。この画家夫婦というのが、光太郎智恵子をモチーフとしています。ただ、孝治は彫刻家ではなく画家。彫刻家とするより画家の方が描きやすそうですし、一般の理解も得られるかなとは思いました。評論や翻訳なども書いているという設定は、光太郎そのままです。しかし、詩を書いているという設定にはなっていませんでした。後述しますが、史実の光太郎が書いていた詩も含め、孝治の絵がその役割を担っている感じの描き方でした。

光太郎の「緑色の太陽」を彷彿とさせる評論を読んだ、自身も絵を描いている夕子が孝治のアトリエを訪れ、意気投合、双方の両親の反対を押し切って、結婚。この辺りも光太郎智恵子の史実に近い設定です。また、あまり強調されませんでしたが、孝治の父は、光太郎の父・光雲同様、斯界の権威ということになっていました。

当初は売れない画家だった孝治は、特に夕子をモデルに描いた絵が徐々に世の中に認められていき、夕子も細々と雑誌の挿絵や絵葉書を描いて……という二人の生活。史実だと光太郎は智恵子をモデルとした彫刻も複数作り、発表もしましたが、その数は多くありませんでした。
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しかし、のちに『智恵子抄』に収められる詩群に智恵子を謳い、それによって智恵子のイメージが世に広まった部分はありました。そう考えると、劇中での孝治の智恵子を描いて好評を博した絵は、『智恵子抄』の詩群と置き換えられるように思いました。

細々と夕子に舞い込む仕事の依頼は、「絵にも描かれた孝治の妻」という形容詞がついてのものだったり、孝治の絵と違う服装でいると世間から違和感を感じられたり、と、このあたりはさもありなん、でした。ただし史実では、智恵子は主に母校の日本女子大学校の関係で挿絵や絵葉書などの依頼を受けていましたが、結婚後はそれもほぼ無くなっています。結婚後、智恵子が対外的に行っていたのは雑誌への文章等の寄稿。これも「新進芸術家・光太郎の妻」ということで依頼されていたのかも知れない、と、これは当方、そこまでは深く考えていませんでしたので、目から鱗でした。

『智恵子抄』オマージュは劇中に色々ちりばめられていて、例えば詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)関連のエピソード。

   あなたはだんだんきれいになる

 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。318486bb-s
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属。
 見えも外聞もてんで歯のたたない
 中身ばかりの清冽な生きものが
 生きて動いてさつさつと意慾する。
 をんながをんなを取りもどすのは
 かうした世紀の修業によるのか。
 あなたが黙つて立つてゐると
 まことに神の造りしものだ。
 時時内心おどろくほど
 あなたはだんだんきれいになる。

この詩に関しては、光太郎の散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)に、次のように語られています。

彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。

と私が書いたのも其の頃である。

このあたり、劇中ではかなり効果的に使われていました。孝治は夕子をモデルにした絵を「彼女の内面の美を引き出すんだ」と意気込み、実際、ある程度成功したり、古着屋のエピソードは「質屋」と置き換えられていましたが、夕子が対応して自分の着物を「もう着ない柄だから」と言って換金したり、と。「スエタアとヅボン」も。

しかし、そうやって「描かれた自分」と「実際の自分」とのギャップ、孝治や世間による自らの「聖女化」(それとて悪意は無いわけですし)、自身の絵は「孝治の妻が描いた絵」としてしか見られないことなどに耐えられなくなった夕子は壊れ始め……というあたりで終わります。それ以降を語るにはしのびない、あとは想像に任せる、という感じでしょうか。

というわけで、光太郎智恵子をモチーフとしながらも、一般的な話に落とし込み、よりリアリティが増しているように感じました。

会場では製本された台本(月森葵氏著)の販売も行われていまして、一部購入してきました。100ページ近くで1,000円也。お買い得です。公演は今日の昼の部まで。台本は主宰の「燦燦たる午餐」さんに申し込めば入手可能かも知れません。
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スタッフ・キャストなど関係の方々の今後のさらなるご活躍、さらに出来れば再演を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

検印紙は捺印しかけてありますが明三十日は小生山形市へ行かねばならなくなり、三日に帰つてきますから、帰つたらすぐ全部捺印して速達で送ります、

昭和25年(1950)10月29日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

「検印紙」は澤田の龍星閣から翌月刊行された詩文集『智恵子抄その後』のためのもの。この年1月に発表した同題の連作詩を根幹とします。

その「あとがき」の最後にはこうあります。

「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。「智恵子抄その後」の奥底に何があるか、書いてから一年ばかりにしかならないので、まだ自分にもよく分からない。おそらくこれを読む人々が卻てそれを鋭く見ぬいてくれることであらう。

智恵子が歿して既に12年、この年は13回忌でした。それだけ経っても智恵子の姿はありありと光太郎の中に残っていたわけで……。

昨日正午頃、光太郎第二の故郷、岩手花巻に参りまして、ほぼトンボ帰り。帰りの東北新幹線はやぶさ号車内で書いております。光太郎がらみ以外の雑事に追われておりまして、こんな日程になってしまいました。

昨日はまず東北新幹線新花巻駅でレンタカーを借りた後、宮沢賢治記念館さんと、宮沢賢治イーハトーブ館さんへ。ほぼ雪は無く、若干拍子抜けでした。今年2月もそんな感じでしたし、やはり地球温暖化の影響なのでしょうか?
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賢治記念館さん駐車場展望台からの早池峰山。山はともかく、下界には積雪が見えません。
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両館ともに、『春と修羅』『注文の多い料理店』の刊行100周年に関わる企画展が開催中。特にイーハトーブ館さんの方では展示解説パネルに光太郎の名も出して下さいました。
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賢治記念館さんでも常設のパネル、人物相関図に光太郎。
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こちらに伺うのは数年ぶりで(イーハトーブ館さんでは昨年、シンポジウムのパネラーをさせていただきましたが)、賢治のチェロ、妹・トシのヴァイオリンなど興味深く拝見しました。
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もちろん企画展も。
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2ヶ月ほど前にやはり花巻で出演させていただきました「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に関連する内容も含まれましたし、来年も花巻で光太郎と賢治、特に数回にわたり光太郎が関わった『宮沢賢治全集』に特化した講演をさせていただく予定ですので、その予習にもなりました。

この後、市街地へ。

目的地は、豊沢町のカフェ羅須さん。お世話になっている泉沢義雄氏と賢治研究のお仲間が新たに開店なさり、その開店祝いも兼ねて。
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思いがけず「光太郎を知る会」メンバーの方もスタッフとしていらっしゃり、美味しいコーヒーをいただきつつ、賢治・光太郎談義に花を咲かせました。

結構広い店内はギャラリーも兼ね、地元の方の賢治オマージュの作品が掲げられていました。
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賢治関連の展示も。

と、ここまで書いたところで、画像のアップロードが出来なくなりました。撮った画像をサイズ変更せず上げて来ましたので、スマホからの投稿だとパンクするようです😢

この後、旧太田村の光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを廻り、定宿の大沢温泉♨️さんに泊めていただきましたが、そのあたり、明日以降に回します。

今日は真っ直ぐ千葉に帰らず、大宮で下車し、湘南新宿ラインに乗り換えて世田谷方面に向かいます。過日ご紹介した演劇公演「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花(ノウゼンカズラ)の家」を拝見に伺います。そのレポートも後ほど。

テレビ放映情報を2件。

まずは10月に亡くなった美術史家・高階秀爾氏の追悼番組です。

日曜美術館 名画は語る 美術史家・高階秀爾のメッセージ

地上波NHK Eテレ 2024年12月22日(日) 午前9:00〜午前9:45

西洋美術史入門のバイブルとして、半世紀を超えて読み継がれる名著『名画を見る眼』。その著者である美術史家の高階秀爾さんが、今年10月、92歳で亡くなった。日曜美術館では、今年6月、高階さん自身が、著書の世界を語る番組を放送。その番組を中心に、1970年代から、日曜美術館で、さまざまな画家や名画について語った貴重な映像を発掘。美術の楽しみ方から、美術史家の使命まで、高階さんが語ったメッセージを届ける。

【出演】美術史家…高階秀爾,辻惟雄 大原美術館館長…三浦篤 アーティスト…布施琳太郎
【語り】守本奈実

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光太郎がらみの話にはならないような気もしますが、一応ご紹介しておきます。

もう1件、こちらは光太郎に触れられます。初回放映が今年8月27日(火)だった回の再放送、および系列のBSテレ東さんでは初放映です。

開運!なんでも鑑定団 中島健人の秘蔵宝&金色江戸小判全11種

地上波テレビ東京 2024年12月22日(日) 12:54〜14:00
BSテレ東 2024年12月26日(木) 19:54~20:54

■エッ…魯山人!?伝説<美食陶芸家>作に<中島健人>も仰天
■アノ<人気飲料>の超貴重お宝に…ド級鑑定額
■輝く金色秘宝…<江戸小判>全11種一挙鑑定で超絶値■

最強アイドル・中島健人が鑑定団に登場!“親族一同期待している”お宝とは?驚きの鑑定結果に思わず絶叫!?「自慢のお宝で鑑定団に出たい!」毎晩神棚に祈り続けた祖父の願いを叶えるべく、孫娘が立ち上がった!お宝は美食家にして陶芸家の北大路魯山人の焼物。今田、ケンティーも絶句する衝撃の鑑定結果とは…?

【MC】今田耕司、福澤朗、菅井友香   【ゲスト】中島健人
【出張鑑定】第15回 強気のお宝鑑定大会 リポーター 岡田圭右 コメンテーター 北斗晶
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな
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スタジオでの鑑定依頼2件中の一つ、「アノ<人気飲料>の超貴重お宝に…ド級鑑定額」の項で、1920年代、1940年代のコカ・コーラの販売機が出品。
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コカ・コーラといえば光太郎(笑)。(大正元年=1912)、まず雑誌『白樺』に発表され、大正3年(1914)には詩集『道程』に収められた詩「狂者の詩」に「コカコオラ」の語が3回出てきます。これが今のところ、日本の文学作品におけるコカ・コーラ初登場とされています。このあたり、下記をご参照下さい。

「昭和32年 コーラ本格上陸 みんな作って、みんないい」/「「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演」。
テレビ放映情報-詩句の読み方。
都内レポートその2 「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」。
岩手日報「風土計」。

そこで、番組内で光太郎に触れて下さいました。
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さらに当時の広告。
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本放送視聴後、国会図書館さんのデジタルデータで調べてみましたところ、こんな広告も。
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シロップを薄めて飲む形もあったようです。

で、依頼品。本国アメリカで使われていたもののようで、番組説明欄の「ド級鑑定額」の後は羊頭狗肉ではありませんでした。やはりコーラ関連、好きな方は好きなんでしょうね。
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ちなみにそちらとは別に、番組冒頭近くでゲストの山崎健人さん。MCの今田耕司さんと誕生日が一緒ということでお二人で盛り上がっていました。
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「ありゃま!」でした。3月13日、光太郎の誕生日でもあります(笑)。吉永小百合さんが一緒だというのは存じていましたが、このお二人もそうだったのか、という感じでした。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】
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昨日おてがみいただき、今日「典型」五冊おうけとりしました、いろいろ御面倒をかけたおかげでともかく出来ましてありがたく存じました、厚く御礼申上げます、お世話になつた社中の諸賢にも小生の謝意をおつたへ下さい、


昭和25年(1950)10月28日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの選詩集的なものを除き、光太郎生涯最後の詩集となった『典型』が上梓されました。

以前にも書きましたが、奥付では刊行日が10月25日。遠く大正3年(1914)に出した第一詩集『道程』も10月25日。偶然なのか、狙ったのか、何とも不明ですが。

新刊です。

継続する植民地主義の思想史

発行日 : 2024年11月20日
著者等 : 中野敏男
版 元 : 青土社
定 価 : 3,600円+税

過去の歴史を引き受け、未来の歴史をつくりだすために
「戦後八〇年」を迎える現在、いまもなお植民地主義は継続している――。近代から戦前―戦後を結ぶ独自の思想史を描き、暴力の歴史を掘り起こす。日本と東アジアの現在地を問う著者の集大成。
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目次
 序章 継続する植民地主義を問題とする視角
  はじめに――植民地主義の継続という問題
  一 暴力の世紀――「冷戦」という語りが隠したもの
  二 「戦後」に継続する植民地主義――日本の暴力の世紀
  三 植民地主義の様態変化とそれを通した継続――思想史への問い
 第一部 植民地主義の総力戦体制と合理性/主体性―合理主義と主体形成の隘路
  第一章 植民地主義の変容と合理主義の行方―合理主義に拠る参与と抵抗の罠
   はじめに――システム合理性への志向と植民地主義の変容
   一 産業の合理化と植民地経済の計画――「満州国」という経験
   二 総力戦体制の合理的編成と革新官僚
   三 参与する合理的な社会科学
  第二章 植民地帝国の総力戦体制と主体性希求の隘路―三木清の弁証法と主体
   はじめに――植民地主義の総力戦体制と「転向」という思想問題
   一 方向転換と知識人の主体性
   二 有機体説批判と主体の弁証法
   三 ヒューマニズムから時務の論理へ
   四 帝国の主体というファンタジー
 第二部 詩人たちの戦時翼賛と戦後詩への継続
  第三章 近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程
   はじめに――近代詩人=高村光太郎の「暗愚」
   一 「自然」による救済の原構成――第一の危機と「智恵子」の聖化
   二 神話を要求するモダニティ――第二の危機と「日本」の聖化
   三 「暗愚」という悔恨とモダニズムの救済――第三の危機と「生命」の聖化
   小括

  第四章 戦後文化運動・サークル詩運動に継続する戦時経験―近藤東のモダニズム
   はじめに――継続する詩運動のリーダー近藤東の記憶
   一 戦後詩の場を開示する戦中詩
   二 「勤労詩」という愛国の形
   三 「戦後」への詩歌曲翼賛
   四 排除/隠蔽されていくもの
   小括
 第三部 「戦後言論」の生成と植民地主義の継続―岐路を精査する
  第五章 戦後言説空間の生成と封印される植民地支配の記憶
   はじめに――「国全体の価値の一八〇度転換」?
   一 敗戦国への「反省」、総力戦体制の遺産
   二 ポツダム宣言の条件と天皇制民主主義という思想
   三 「八月革命」という神話――構成された断絶
   四 加害の記憶の封印、民族の被害意識の再覚醒
   五 「自由なる主体」と「ドレイ」――主体と反主体
  第六章 戦後経済政策思想の合理主義と複合化する植民地主義
   はじめに――有沢広巳の戦後の始動
   一 「植民地帝国の敗戦後」という経済問題
   二 戦後経済政策の始動と自立経済への課題
   三 「もはや戦後ではない」という危機感とその解決――賠償特需
   四 「開発独裁」と連携する植民地主義
   五 技術革新の生産力と国際分業の植民地主義
   六 原子力という袋小路――植民地主義に依存する経済成長主義の帰結   
 第四部 戦後革命の挫折/「アジア」への視座の罠
  第七章 自閉していく戦後革命路線と植民地主義の忘却
   はじめに――日本共産党の「戦後」を総括すること
   一 金斗鎔の国際主義と日本共産党の責務
   二 戦後革命路線の生成と帝国主義・植民地主義との対決回避
   三 五五年の分かれ
   四 正当化された「被害」の立場/忘却される植民地主義
  第八章 「方法としてのアジア」の陥穽/主体を割るという対抗
   はじめに――「アジア」への関心へ
   一 「戦後」をいかに引きうけるか
   二 アジア主義という陥穽
   三 主体を割るという対抗
 第五部 植民地主義を超克する道への模索
  第九章 植民地主義を超克する民衆の出逢いを求めて
   はじめに――「反復帰」という思想経験に学ぶ
   一 「反復帰」という対決の形
   二 共生の可能性を求めて――「集団自決」の経験から
   三 植民地主義の記憶の分断に抗して――「重層する戦場と占領と復興」への視野
   四 民衆における異集団との接触の経験
   五 沖縄の移動と出会いの経験に別の可能性を見る
  結章
   一 合理性と主体性という罠
   二 植民地主義の様態変化と資本主義・社会主義の行方
   三 植民地主義の「継続」を問う意味。「小さな民」の視点
 あとがき
 文献目録
 索引


「文献目録」「索引」まで含めると500ページほどの労作です。

過日ご紹介した辻田真佐憲氏著『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』(中央公論新社)にしてもそうですが、来年で第二次大戦終結80年、ついでにいうなら昭和100年ということもあり、あの時代への考察が今後とも流行りとなるような気がします。

ただし、「あの時代」と区切ってしまうのではなく、戦後、そして現在へと継続して通底する何かが存在するわけで、本書ではそのうちタイトルにもある「植民地主義」にスポットをあてています。

一部の書き下ろし部分を除き、大半は90年代末から一昨年までのものの集成。したがって、現在も泥沼化しているウクライナ問題への言及はほぼありませんが、逆に忘れ去られかけている(しかし解決したとは言い難い)諸問題への言及も多く、いろいろ考えさせられます。

「第二部 詩人たちの戦時翼賛と戦後詩への継続」中の「第三章 近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程」30ページ超がまるっと光太郎がらみ。元は平成8年(1996)に柏書房さんから刊行された『ナショナリティの脱構築』という書籍に収められたものだそうですが、存じませんでした。

青年期に「根付の国」(明治44年=1911)などでさんざんに日本をこきおろしていた光太郎が、十五年戦争時には一転して翼賛に走ったことに対し、そこに到るまでをつぶさに辿りつつ、ある種の必然性を見出しています。ちち・光雲や妻・智恵子との生活史、そして精神史の変遷を抜きに語れない、そしてそれは「豹変」ではなかった、的な。この読み方には好感を覚えました。ある人間の、「それまで」をあまり考えず、「その時」だけに着目したところで、正しく考察出来るわけがありませんから。

そして戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活を、連作詩「暗愚小伝」を元に読み解き、さらに最晩年、開拓や原子力へ期待を寄せる詩文を書いていたことに触れ、それとて形を変えた「翼賛」だったと、かなり手厳しい評。曰く「「悔恨」の陥穽に落ちて総括されずに残った、戦中と戦後との連続の一例」。なるほど、そういわれても仕方がありません。しかし、「悔恨」すらしなかった多くの文学者、美術家たちと比較し、光太郎はとにもかくにも「悔恨」を形にした数少ない例であることは声を大にして言いたいところですが。

というわけで、ぜひお買い求めの上、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

このやうな記念碑が温泉に出来て、今日はその除幕式でした。秋晴れのいい天気で一ぱいやつてきました。


昭和25年(1950)10月8日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳
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「記念碑」はグループ企業としての花巻温泉社長だった故・金田一国士の業績を称える碑で、碑文の詩「金田一国士頌」を光太郎がこのために作りました。光太郎生前唯一の、オフィシャルな光太郎詩碑です。ただし、書は光太郎の筆跡ではなく金田一の腹心でもあった太田孝太郎の手になるもの。太田は盛岡銀行の常務などを務めるかたわら、書家としても活動していました。

下は除幕式の集合写真です。
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雑誌『中央公論』さんの最新号である2025年1月号
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テレビの歴史番組等でもよく尊顔を拝見する東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏による連載「皇室のお宝拝見」で、光太郎の父・光雲作の木彫「矮鶏置物」(明治22年=1889)が取り上げられています。巻頭のグラビアページで作品のカラー写真と解説のさわり、後の方のページで解説の続き。
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主に昭和4年(1929)に刊行された光雲談話筆記『光雲懐古談』を参照されたようで、制作背景等を簡潔にご紹介下さいました。

『光雲懐古談』の当該部分は下記の通り。「青空文庫」さんで公開されています。

鶏の製作を引き受けたはなし 矮鶏のモデルを探したはなし 矮鶏の製作に取り掛かったこと 矮鶏の作が計らず展覧会に出品されたいきさつ 聖上行幸当日のはなし 叡覧後の矮鶏のはなし

作品は宮内庁三の丸尚蔵館さんに収蔵されています。同館、リニューアルオープンして約1年。当方、まだその後足を運んでおりません。以前の手狭だった頃はぶらっと行ってすぐ入れたのですが、再開後は基本的に予約制となり、ネット上でのその予約が以外と面倒くさいシステムです。昨今問題のオーバーツーリズムの回避などのためには致し方ないのかも知れませんが、何だかなぁ、という感じです。もう少し改善してほしいような……。

さて、このブログで紹介すべき事項、意外と溜まっておりまして、光雲がらみということでもう1件。

『日本経済新聞』さんの関連会社・日経アートさんの販売サイトが検索に引っかかりまして、来年の干支・巳にちなむ縁起物です。

銀製品 髙村光雲 吉祥 巳006

彫刻家・髙村光雲原型作の純銀レリーフです。写実に優れ、「野猪」や「老猿」など動物の作品が有名ですが、彫刻家としては仏師から作歴を重ねています。本作は頭に巳(へび)を乗せた姿で表される十二神将の因陀羅(いんだら)をモチーフとしており、精悍な顔つきや逆立つ髪の表現から仏師としての高い技術を感じることができます。

額(軸)寸法:30.0×30.0cm
レリーフ寸:径9.5cm
素材 純銀(レリーフ)・アルミ(額)
価格:165,000円(消費税10%込)
タトウ箱付

これまで気づきませんでしたが、日経アートさんでは昨年(卯年)、今年(辰年)のレリーフも扱われていました。
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制作元は富山県高岡市の竹中銅器さん。高岡と言えば鋳造の街ですね。竹中さんのサイトでも巳年バージョン、直販が為されていました。
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で、やはり以前から、十二支分全てを扱われていたようで、存じませんでした。それぞれ見事ですね。
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来年の巳年バージョン、特に年男・年女の皆さん、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今年は父の十七回忌、智恵子の十三回忌にあたるので十日に此処の昌歓寺といふ大きな寺で法要を営む事にし、昨日寺へ行つてたのんで来ました。


昭和25年(1950)10月1日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎68歳

例年、花巻町中心街の松庵寺さんで行っていた法要、この年に限り、旧太田村の昌歓寺さんで営みました。宗派が違うということでしたが、あまり気にしなかったようです。

平成31年(2019)に起きた大火災からの修復工事が終わり、12月8日(日)に一般公開が再開されたパリ・ノートルダム大聖堂と、大正10年(1921)に留学中の体験をベースに書かれた光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」に関わる件で、2つ。

まずは『産経新聞』さん、12月11日(水)掲載のコラム。

<産経抄>「連帯」もたらす福音となるか、再建かなったノートルダム大聖堂

002高村光太郎といえば、亡き妻をしのぶ純愛の詩集『智恵子抄』が思い浮かぶ。智恵子と出会ったのは明治44(1911)年の暮れだった。光太郎はしかし、その2年前まで滞在していたパリで、ある〝女性〟に心を奪われていた。▼ご執心だったようで、その人のもとへ日参したと打ち明けてもいる。<外套(がいとう)の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、あなたを見上げてゐるのはわたくしです。毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。あの日本人です>と詩の一節にある。▼その女性はいまも、「私たちの貴婦人」の名で人々に愛されている。ノートルダム大聖堂である。光太郎がありせば、思いを寄せた人の悲運と恋敵の多さに色を失ったかもしれない。5年前の火事で尖塔(せんとう)などが焼けた後、悲嘆は世界に広がり1300億円を超す寄付が集まった。▼再建を記念して開かれた先日の式典では、各国首脳やトランプ米次期大統領らが列席した。ポピュリズムの台頭で政治的な窮地に立つフランスのマクロン大統領は、大聖堂を「連帯」の象徴として位置づけようとした節がある。現実はどうだろう。▼光太郎が滞在した頃のパリは、あらゆる人種や思想、芸術文化に寛容な街だった。いまのフランスは移民の増加で社会がひずみ、少数与党の内閣が総辞職するなど政治も混乱する。心のよりどころとされる大聖堂の再建を横目に、人々を分かつ亀裂の修復は簡単ではないようだ。▼大聖堂前の広場には、距離の起点となる道路元標が置かれている。いわばフランスの中心点である。大聖堂は再び、迷走する社会の結び目となるだろうか。今年は、わが国をはじめ世界各地でも政治が揺れた。できれば、再建の福音にあやかりたいものである。

せっかくの復旧が政治的な駆け引きの道具にされることの無いようにしてほしいものですが……。

続いて白水社さんから出ている雑誌『ふらんす』今月号。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、建築史がご専門の三宅理一・東京理科大学客員教授と仏文学者の鹿島茂氏の玉稿、日本科学未来館さんで開催中の「特別展 パリ・ノートルダム大聖堂展 タブレットを手に巡る時空の旅」のレポートが載っています。
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そのうち、鹿島氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が、「雨にうたるるカテドラル」考察を含みます。氏が注目されたのは、「あの日本人です。」のリフレイン。「日本人」の語がなければパリジャンが書いた詩といっても通る「普遍性」があるとし、「あの日本人です」と繰り返すことで「特殊性」も併せ持つ詩だ、というご指摘。さらに今回焼け落ちた木造部分から「原始の森」へと発想を飛ばし、「森」といえば日本人、的な。

三宅氏の「よみがえるノートルダム大聖堂」も、建築大好き人間としては実に興味深い内容でした。元々がどういう建築だったのか、火災の状況や修復の過程など、わかりやすくまとめられていました。

ところで雑誌『ふらんす』さん。かつては光太郎も寄稿したことのある雑誌で、その意味でも驚きました。失礼ながらまだ健在だったんだ、と。『中央公論』さん、『文藝春秋』さん、『婦人之友』さんなど、そうした例は他にもありますが、それらと異なり、不躾とは存じますがメジャーな雑誌ではありませんので。

光太郎の寄稿は昭和16年(1941)6月の第17巻第6号。「日夏耿之介著 英吉利浪曼象徴詩風を読んで」という短文でした。それに先立つ同12年8月の第13巻第8号広告欄に出たアーサー・シモンズ著、宍戸儀一訳「象徴主義の文学」広告にも光太郎の短評が出ていますが、こちらは寄稿という訳ではない感じです。

で、今月号が第99巻第12号。末永く続いて欲しいものです。末永く、といえば、ノートルダム大聖堂自体も、もちろんです。

【折々のことば・光太郎】

もう山も秋、明月にはひとりで酒をくみ、雉子の飛ぶ羽音をききながら心ゆくまで観月しました、数里に及ぶススキの原はまるで海です、


昭和25年(1950)9月30日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の森、光太郎はパリ郊外のフォンテーヌブローの森になぞらえることもありました。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。地元で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、光太郎の実際に作ったメニュー、使った食材などを参考にされてメニューを考案なさっています。

昨日販売された今月分がこちら。
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献立は「鶏の唐揚げ」「イカと大根の煮物」「野菜炒め」「塩麹入り卵焼き」「大学芋」「チーズ入り蒸しパン」「白六穀ごはん」「みかん」。

唐揚げはクリスマス感を醸し出していますし、みかんも旬ですね。光太郎の大好物の一つでした。

さて、メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんのお一人、新渕和子さんがこのたび快挙を成し遂げられました。

地方紙『岩手日日』さん。

新たに5人 「食の匠」認定

 県は、郷土食の優れた技術を持ち、伝承する人を認定する2024年度「食の匠(たくみ)」として、新たに花巻市の新渕和子さん(73)ら5人を認定した。
 盛岡市内で11日、認定書の交付式が行われ、佐藤法之県農林水産部長から一人一人に認定書が手渡された。
 代表して新渕さんは「先人から受け継がれてきた食文化や豊かな農林水産物を生かしたふるさとの味を大事に思っている。岩手の素晴らしい食を若い世代へ伝承するとともに、地域内外に向けて発信し、地域活性化に尽力したい」と意欲を示した。
 認定制度は1996年度に始まり、今回を含めこれまでの認定数は306人・団体となった。
 新規認定者と認定料理は次の通り。(敬称略)
 ▽簗場五月(雫石町)=かまやき▽佐々木チヨ子(葛巻町)=凍みじゃがいももち▽新渕和子(花巻市)=ばくろう(香茸)おこわ▽加藤敏子(一関市)=凍み餅▽竹野牧子(宮古市)=ごぼう巻

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IAT岩手朝日テレビさん。

岩手の食文化を受け継ぐ 食の匠 新たに5人が認定

 岩手の食文化を長年受け継いできた「食の匠」に新たに5人が認定され、認定証が贈られました。
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 県は地域の食文化を受け継ぎ、発信を続ける人たちを毎年、食の匠として認定しています。
 今年は5人が選ばれ、認定証が贈られました。
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 宮古市の竹野牧子さんが作る「ごぼう巻き」は、甘辛く味付けされたゴボウとニンジンをシソの葉で巻いた漬物です。
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 花巻市の新渕和子さんが作る貴重な「ばくろう茸」を使用して作った「ばくろうおこわ」は正月などに振舞われるごちそうです。
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 県が認定する食の匠は283の個人と23の団体になりました。
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 今後イベントなどで料理の実演や指導を行う予定です。
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新渕さんは昨年、今年と連翹忌の集いにもご参加下さいまして、当方もお世話になっている方です。生前の光太郎をご存じで永らく語り部を務められた故・高橋愛子さんのご親戚の由。「ばくろうおこわ」の原材料の一つ、香茸もご自分で採集なさり、以前、ごっそりいただいたこともありました。当方はおこわではなく白米に混ぜた炊き込みご飯にしてみましたが、その名の通り香ばしく、その上なかなかに美味で、妻にも好評でした。

今後ともご活躍を祈念いたします。また、「食の匠」制度は団体での認定もあるようなので、やつかの森LLCさんとしてもオーソライズされてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

昨日は花巻で豚肉を仕入れて来て、今日はスズメマヒコといふ茸と一緒に煮てくひました、この茸は楢の木に出る珍らしいもので中々美味です。丁度今は栗がさかんに屋根に落ち、たくさん拾ひます、栗飯も山の景物です、


昭和25年(1950)9月30日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に自生する茸も、貴重な食材でした。ただ「スズメマヒコ」という茸はネットで調べても情報が出て来ません。方言でしょうか?

新聞各紙から2件。

まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん、12月11日(水)の記事。

宮沢賢治「注文の多い料理店」誕生から100年 実は「注文の少ない」童話集だった 出版秘話をひもとく

 岩手県花巻市出身の作家、宮沢賢治(1896~1933年)の短編集「注文の多い料理店」が誕生から今月で100年を迎えた。ほぼ無名だった生前に出版した唯一の童話集。時代を超えて「世界の賢治」へと導いた始まりの一冊の出版秘話をひもといた。
■自筆原稿がないのは…
 「出版100年記念ウイーク」と銘打った公演が今月、盛岡市のもりおか啄木・賢治青春館で始まり、4日は「3・11絵本プロジェクト」が6作品を朗読やタペストリー劇で表現。メンバーの佐々木優子さん(64)は「賢治の広く深い知識が土台にあり、誰でも楽しめる童話ばかり。少しも古びていない」と強調した。
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 「注文の多い料理店」は1924年12月1日、賢治が28歳の時に刊行された。青年2人が山奥の奇妙な西洋料理店に迷い込む表題作や「どんぐりと山猫」「山男の四月」「鹿踊のはじまり」など9編を所収する。
 出版元は盛岡市材木町にある光原社。現在は民芸品などを販売し、同じく今月1日に100周年を迎えた。
 創業者の及川四郎氏(1896~1974年)は盛岡高等農林学校(現岩手大農学部)で賢治の1年後輩だった。卒業後、友人と興した「東北農業薬剤研究所」で農薬や農業関係書を販売。売り込み先の花巻農学校(現花巻農高)教師だった賢治から童話の出版話を受けたのがきっかけだった。
 「出版社らしい名前にしよう」。文芸書を手がけるに当たり「光原社」の屋号は賢治が提案した。及川氏の孫で6代目社長、川島富三雄さん(76)は「賢治が夢見ていたユートピア的な発想や思いを込めたのではないか」と想像する。
 川島さんが小学5年の時、出版時の逸話を知った。学校で「よだかの星」を習い、賢治がどんな字を書くのか見たくなった。祖父に頼むと「従業員が東京で原稿を印刷してもらい、盛岡へ戻る途中に上野駅で置引に遭った」と聞かされた。
 賢治の自筆原稿が数多く残っているにもかかわらず、出版元の光原社に「注文の多い料理店」の原稿が現存していない真相だった。
 曲折を経て、光源社は1000部を発刊。定価1円60銭で表紙絵や挿絵も充実し、当時としては豪華な作りだった。無名作家ながら高村光太郎や草野心平ら詩人から絶賛されたが、世間の反応は鈍かった。見かねた賢治が200冊購入するほどで、採算は取れなかった。
 「『注文の多い料理店』はまことに『注文の少ない童話集』でありました」。光原社は当時の様子をホームページで伝える。
 花巻市の宮沢賢治記念館では、1924年に賢治が唯一自費出版した詩集「春と修羅」と合わせ特別展「刊行100周年 二冊の初版本」を開催している。所収作品や書き損じ原稿など貴重な資料を紹介する。
 この2冊以降、賢治が37歳で早世するまで作品集を出版できなかった理由について、賢治の弟清六氏の孫で学芸員の宮沢明裕さん(46)は「体調の問題に加え、自信を持って出した2冊があまりに売れなかったことが大きい」と推測する。
 未発表の原稿は清六氏らが守り、世に広めた。記念館では直筆原稿など約3500枚を所蔵し、資料の修復を進める。宮沢さんは「出版できなくても作品の構想と執筆を生涯続けた賢治と、作品を後世に残すことに生涯を懸けた祖父の思いを大事にしている」と話す。
 出版時に売れなかった一冊は、関係者の尽力が結晶し、不朽の名作となった。川島さんも「祖父は賢治作品が世界中で読まれるよう願っていた」と思いをはせる。「一つの星を見るように、100年受け継いできた及川四郎の思いと賢治の夢。この先も変わることなく生き続けるでしょう」
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よく使われる表現ですが、賢治は時代を突き抜けて早すぎた、ということでしょう。我が国口語自由詩史上の金字塔である光太郎の詩集『道程』(大正3年=1914)にしても、刊行時にきちんと書店を通して売れたのは7冊だけだったらしいと、光太郎自身ものちに回想しています。賢治の『春と修羅』、『注文の多い料理店』ともに売れ残り残本の処理には困ったそうで。

当時からその才に目を付けていた光太郎や心平、炯眼と言わざるを得ません。

心平の回想「光太郎と賢治」(昭和31年=1956)から。おそらく大正末か昭和初めのことと思われます。

 ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。

光太郎が親友・水野葉舟へ送った書簡(大正15年=1926)から。

宮沢氏からの本先日女中さんに托しましたが、此前の「注文の多い料理店」は黄瀛君に返却しなければなりませんから、お手許へ出して置いて下さい。

「宮沢氏からの本」が『春と修羅』で、その前に『注文の多い料理店』を貸していたようです。ただし黄瀛(光太郎や心平の仲間うちで唯一、賢治本人と会ったことがある人物でした)から借りたものの又貸しだったようですが。

その光太郎にしても心平にしても、賢治の全貌を知るのは賢治が歿してからのことでした。未発表の原稿がたくさん遺されていたことは何となくわかっていたらしく、昭和8年(1933)に賢治が亡くなるや、光太郎は心平に金を握らせて、花巻の宮沢家に向かわせます。遺稿はどうなっているのか、それを確認して来てくれ、というわけで。光太郎自身は智恵子の心の病が昂進していた時期で、動けませんでした。

心平が宮沢家に着くと、賢治実弟の清六が賢治から託された遺稿をしっかり管理していることがわかり、一安心。そして膨大な原稿を見た心平が清六に、一度東京に持ってきてごらんなさい、的なアドバイスをしたのでしょう。翌昭和9年(1934)、新宿モナミで開催された賢治追悼会に清六が原稿の詰まったトランクを持参、光太郎や永瀬清子、新美南吉らはそれを見て仰天。さらにトランクのポケットから「雨ニモマケズ」の書かれた有名な手帳が見つかりました。

おそらく光太郎にしても心平にしても、もっと早くに賢治手を差しのべておくべきだったという悔恨が生じたのでしょう。罪滅ぼしというと何ですが、その後繰り返された『宮沢賢治全集』出版に二人が関わっていくことになるわけです。光太郎は装幀までも手がけました。

さらに光太郎は宮沢家の依頼で、昭和11年(1936)に花巻の桜町、羅須地人協会跡地に建てられた「雨ニモマケズ」碑の揮毫も行いました。そのあたりで光太郎に恩義を感じていた清六や父・政次郎が、昭和20年(1945)の空襲で駒込林町のアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招く、というわけで、本当に人の縁(えにし)というのは不思議なものだな、と思います。

今週末、また花巻に行って参りますので、記事にある賢治記念館さんの特別展 「刊行100周年 二冊の初版本」も見てこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

果して選集など出す資格があるかどうか、これまで何ひとつまとまつた仕事もしてゐない者がただ原稿をかき集めて何冊かの出版にしたところで江湖の読者がそれを更に要求しなかつたら甚だ滑稽な仕儀と存じます。この点がまだ気がかりで躊躇せずにゐられない気持に左右されてゐます。世上多くの選集全集の中にはさういふものもあるやうな気がします、徒らに無用の残骸をさらすやうではどうかと思はずにはゐられません、


昭和25年(1950)9月29日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

結局、翌年から松下の勤務していた中央公論社から全六巻の『高村光太郎選集』が出されるのですが、賢治の全集や選集の出版には協力を惜しまなかった光太郎も、自身の選集出版には気乗りがしなかったようです。

都内から演劇公演の情報です。

凌霄花の家

期 日 : 2024年12月20日(金)~12月22日(日)
会 場 : APOCシアター 東京都世田谷区桜丘5-47-4
時 間 : 12/20(金) 19:00 12/21日(土) 13:00/18:00 12/22日(日) 13:00
料 金 : 一般/4500円 学割/2000円(要学生証)

鬱蒼とした森の中に佇む一棟の廃屋。床から壁から屋根まで季節外れの凌霄花(ノウゼンカズラ)に覆われ、古びた画材や生活の痕跡が置き去られている。偶然そこに足を踏み入れた少女が黴と埃にまみれた日記帳を開いたとき、どこからともなく一人の男が現れる。彼は少女に、この家にまつわる話を聞いてほしいと頼む。かつてこの家に確かに在った、或る愛についての物語を――

作:月森 葵(燦燦たる午餐)  演出:戸塚萌(燦燦たる午餐)
出演:石倉来輝、畑中咲菜、中嶋真由佳
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フライヤーには智恵子による『青鞜』創刊号の表紙絵(明治44年=1911)があしらわれています。内容的にも出演者の方のX(旧ツイッター)投稿などによれば「高村光太郎・智恵子夫妻をモチーフに書かれたオリジナル台本です。」「能「定家」と高村光太郎『智恵子抄』にインスピレーションを得た、愛と芸術についての物語。」だそうで、これは観に行かねば、と思い、12月21日(土)の昼の部を予約しました。

今年は光太郎智恵子がらみの演劇を3本観ました。

心を病んでからの智恵子を主人公とし、自分の中に「かつての光太郎」や光太郎自身の思う「あるべき自分」はもはやここには居ないという描き方だった「哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー」、「かくあらねば」という姿に囚われ、自縄自縛に自らを追い込み、光太郎のモラハラを剔抉し、智恵子が壊れていく様を追った「売り言葉」、病んでなお紙絵を通して光太郎への愛のメッセージを送り続けた智恵子、的な「智恵子抄」……。今回、どんな光太郎智恵子が表わされるのか、興味深いところです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

其後閲読してゐましたが、此書は大変親切によく出来てゐます、本文はもとより、挿画その他も甚だ趣味が健康です。明るさがあり、又謎のやうなものもあり、おもしろいです。実地に演出した経験が見事に生かされて、細かいところまで注意が行届いてゐます、読者は大いに喜ぶでせう、


昭和25年(1950)9月19日 花巻賢治子供の会・照井登久子宛書簡より
 光太郎68歳

宮沢賢治の教え子だった照井謹二郎と、妻・登久子が起ち上げた児童劇団「花巻賢治子供の会」。昭和22年(1947)、郊外旧太田村に隠棲していた光太郎の慰問のために始められましたが、その後、活動の場を広げていきました。毎年春から初夏には太田村で、秋には花巻町中心街で公演を行い、光太郎も確認出来ている限り7回、それらを観ています。光太郎、若い頃から演劇鑑賞は大好きでした。

昭和25年(1950)には登久子がそれまで上演してきた脚本をまとめ、『どんぐりと山猫』を上梓、光太郎にも贈りました。それに対する礼状の一節です。
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明日開幕です。

コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション

期 日 : 2024年12月14日(土)~2025年2月11日(火・祝)
会 場 : 呉市立美術館 広島県呉市幸町入船山公園内
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 火曜日 12月29日(日)~2025年1月3日(金)
料 金 : 一般 300円、高校生 180円、中学生・小学生 120円

日本では古来より仏像などを中心に立体作品が制作されてきました。西洋の制度や文化が流入した明治以降、美術教育にも外来の手法が取り入れられ、そのなかで「彫刻」という概念も誕生します。特にロダンの生命感溢れる人体表現は多くの日本人芸術家や文人たちを魅了し、高村光太郎ら「白樺」の面々を中心に明治から大正期の日本で積極的に紹介され、日本近代彫刻の形成に多大な影響を与えました。また日本の木彫の技術も、西洋の彫刻術を研究したうえで伝統を深化させた木彫家たちによって継承されてきました。戦後は使用される素材や圭太も多様となり、こんにちでは彫刻作品は美術館に限らず街の至るところに点在して、私たちの目を楽しませてくれます。

本展では当館の収蔵作品より近現代の彫刻作品約50点を紹介します。ロダンやブールデルの彫刻を熱心に学んだ高村光太郎、佐藤忠良、舟越保武らをはじめ、平櫛田中の木彫作品、堀内正和や清水九兵衛らによる抽象表現、そして上田直次や水船六洲といった呉ゆかりの彫刻家の作品を通じて、彫刻の多様な表現をお楽しみください。
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関連行事

 鋳造体験ワークショップ「低融点合金を使ってペーパーウェイトを作ろう」
  日 時:2025年2月9日(日) 13:00~15:00
  会 場:地下講座室
  定 員:10名(小学生以上、小学生は要保護者同伴)
  参加費:1,000円(含入館料)
  申 込:12月4日(水)~1月31日(金)に電話もしくはweb専用フォームから

 館長講座 「近代彫刻と現代彫刻について」
  日 時:2025年1月19日(日)、1月26日(日)
  時 間:13:30~15:00
  講 師:横山勝彦館長
  定 員:30名(予約不要・先着順)

 学芸員によるギャラリートーク
  日 時:12月14日(土)、1月11日(土)、2月8日(土)  11:00~(約30分)


同館、近現代の彫刻作品の収集・展示に力を入れられていて、そのコレクション展です。総数約50点を出すというので、かなり見応えがありそうです。

フライヤー表面、メインで光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)。ありがたし。他にも光太郎作品は「裸婦坐像」(大正6年=1917)が収蔵されており、出展があるかもしれませんが、出品目録がネット上に出ていません。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

岩手人には素質がある。必ずいまに続々いい画家や彫刻家が出ると確信してゐる。のぼせないでしっかりやることだ。

昭和25年(1950)9月30日 金野照夫宛書簡より 光太郎68歳

金野はこの時岩手県立美術工芸学校在学中。おそらく新制作派展入賞の知らせに対する祝辞的な書簡と思われます。

戦争協力への悔悟から、自らに対する罰として花巻郊外旧太田村に隠棲し、彫刻の実作からは離れていた光太郎ですが、岩手の若い芸術家たちへの期待は大きいものがありました。

いきなり自分の名が出て来たので「ありゃま」という感じでした。

『岩手日報』さん、12月7日(土)に掲載された「みちのく随想」というコーナーの、「私たちのリレー」というエッセイ。お書きになったのは、宮澤賢治の妹・トシの母校にしてトシ自身も教壇に立った花巻南高等学校さんの菊池久恵先生。文芸部さんの顧問をお務めです。

みちのく随想 私たちのリレー 

 「だれか、智恵子さんのエプロンを作ってくれませんかね。」
 去年の秋、小山弘明さんが呼びかけた。氏は、彫刻家で詩人の高村光太郎の研究家。「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展講座での一声に、最前列にいた勤務校の文芸部員とわたしは、目を上げた。光太郎の妻智恵子のデザインのエプロンの図面が、大スクリーンに映っている。
 もとは高村夫妻が寄稿していた『婦人之友』の百年前の号に載る。この雑誌は青森県八戸市出身の羽仁(はに)もと子と、吉一(よしかず)の夫妻が創刊。「家庭から良い社会を作ろう」を理念に今に至る。
 ここに何度も寄稿した芸術家同士だからこそ、エプロンには二人の暮らしぶりがうかがえるのでは。なぜか、小山さんがわたしたちへ声をかけている気がした。ついでなぜか、バトンを手渡すように勤務校の家庭クラブに持ちかけた。快諾をもらい、智恵子のエプロン復刻プロジェクトが走り出す。
 講座後、光太郎の食を通して顕彰する「やつかの森合同会社」の方々と知り合い、寸劇や朗読を披露いただいた。その方々と、光太郎が名づけた「花巻賢治子供の会」の元会員の方を囲み、彼と直(じか)に交流した思い出をうかがう。「高校生と一緒にできてうれしい。」という一言が、わたしたちにはうれしい。
 改めて知る宮沢賢治の、花巻の、岩手の「恩人」である彼の足跡。この地の雲を見、土を嗅ぎ、雪積むうちにほりさげた、自己流謫(るたく)としての戦後七年間の山荘暮らしとその詩。実際、訪問者が結構いたとか。一方、「花巻における光太郎を知る会」では、彼の日記を読み、当時をつぶさに描く時間をいただいた。
 去る六月。花巻市太田地区振興会主催「五感で楽しむ光太郎ライフ」での発表に、これらがみな、つながった。百名あまりの参加者を前に、勤務校の文芸部員がエプロンの復刻のいきさつを説明。一年生は、光太郎が取りに語りかける詩「クロツグミ」を、三年生は、まさにこの季節の詩「若(も)しも智恵子が」を、一心に朗読した。「もしも智恵子が私といつしよに/(略)いま六月の草木の中のここに居たら、/(中略)サフアイヤ色の朝の食事に興じるでせう。」
 昼食は、光太郎のレシピによるそば粉のガレットロールやパンケーキ、鶏肉のコンフィほか。味わううちに、そのテーブルに光太郎と智恵子が、むこうには羽仁夫妻もいて、サファイヤ色の昼の食事にほほえむ気配がする。
 さて、復刻エプロン姿の家庭クラブ一年生が登場するや場内がどよめいた。智恵子が実家の酒屋で使っていた柿渋染めの酒袋を再利用したエプロンの復刻には、発見があいつぐ。
 図面と酒袋の縦の長さはほぼ同じ。生地がむだなく使え、そこから智恵子の身長は約一五〇㌢と推定できる。酒袋は防水・防腐効果があり、生地が固くミシン針が折れるくらい。だが、丈夫で長持ちする。中央のポケットも大きい。三角形の胸のデザインは授乳しやすく工夫したもので、古代更紗(さらさ)で縁を飾り、さすが、しゃれている。
 講評では、「伝えていく人がいるから、その人のことが伝わる。」と、小山さん。うなずきながら、受けとめるときも伝えるときも、新しい景色を見、世界が開かれていくようにと思う。たどり着くところはわからないが、進むべき方向は決まっている。わたしたちのリレーとはきっと、そのようなものだ。
 この十月、智恵子の命日五日の「レモン忌」も近く、家庭クラブは詩「レモン哀歌」にちなむレモンケーキを完成した。月半ば、土澤アートクラフトフェアで「やつかのもり」の方々が販売する「こうたろう弁当」に添えプレゼント。喜ばれた。同じ頃文芸部は、たしかに目を見張る走りをした「復刻智恵子のエプロン」特集を部誌に載せ、その人の故郷、福島県二本松市の智恵子記念館へとどけた。
 どちらも、どこへつながり、どのような景色が見えるかわからない。胸が鳴る。わたしたちは本日も「継走中」。


実に熱く語って下さいました。ありがとうございました。

冒頭の「「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展講座」は、昨年11月。花巻高村光太郎記念館さんで当方が講師を務めさせていただきました。
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盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を設立し、学校ぐるみで光太郎と交流のあった吉田幾世とのつながりをご紹介するものでしたが、学校や吉田自身が深く関わった雑誌『婦人之友』への光太郎智恵子の寄稿や受けた取材の話の中で、「智恵子のエプロン」にふれたところ、興味を持って下さったというわけです。

そのお披露目が今年6月。文中にある通り、イベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の一環でした。
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その後も家庭クラブさんは「レモンのパウンドケーキ」、文芸部さんは部誌『門』と、継続しての取り組み。ありがたし。

さらに活動が発展していくことを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

東北はまだ暑いです。こんなに暑くては東北に居る甲斐がありません。来年はどこかの山へ避暑しようかと思つてゐます。


昭和25年(1950)9月16日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、標高としてはそれほどでもなく、また、とにかく夏の暑さには弱かった光太郎、残暑に悩まされていたようです。

来年はどこかの山へ」は結局実現しませんでした。翌年には持病の結核性の肋間神経痛が悪化したのも一因でしょう。

12月7日(土)の『東京新聞』さんから、中川越氏の連載。

文人たちの日々好日 コーヒー讃歌

 竹久夢二は最晩年の昭和9(1934)年49歳のとき、療養地の信州から人形作家岡山さだみ宛に次の手紙を書きました。
 「旅先(たびさ)きで食べたあれやこれや思出(おもいだ)してはその地方からよりよせています。ホノルルから次の船でコーヒーがつくでしょう。そしたら西洋菓子をほしい、コロンバンよりも私は尾張町の裏通りのドイツベイカリイ(或(あるい)はジヤアマンベイカリイ)の菓子がほしい」
 夢二はこの手紙の3年前、46歳のときにホノルルを経て渡米、1年余滞在した後に渡欧。思い出深い異国の香味コーヒーをわざわざ取り寄せ、病に塞(ふさ)ぐ心を癒(いや)したようです。
 また、支援者から贈られたコーヒーにより自身の孤独を温めたのは高村光太郎です。戦後岩手県の花巻で独居自炊の生活を始めた高村は、後輩詩人宮崎稔への手紙の中でこう述べました。東京を離れて2年が過ぎた同22(1947)年63歳のときのことでした。
 「昨日高崎の方の人からコーヒーの缶入(かんいり)とサッカリン錠といふものをもらいました。早速いれて久しぶりのカフェ ノワールを賞味しました。クラッカアの無いのだけが残念でした」
 サッカリン(合成甘味料)は入れず、カフェノワール(ブラックコーヒー)を味わいながら、亡き智恵子との生活を思い出していたのでしょう。

 そして、ドイツ留学中にその味に魅了された寺田寅彦にとってコーヒーは、科学者としてのインスピレーションを得るための不思議な装置となりました。「コーヒー哲学序説」という随筆で、こう述べています。
 「研究している仕事が行き詰まってしまってどうにもならないような時に、前記の意味でのコーヒーを飲む。コーヒー茶わんの縁がまさにくちびると相触れようとする瞬間にぱっと頭の中に一道の光が流れ込むような気がすると同時に、やすやすと解決の手掛かりを思いつくことがしばしばあるようである」
 そんな口唇とコーヒーとの意外な関係を別な趣向でイメージしたのは日本現代詩人会会長の郷原宏です。半世紀前青年郷原は「珈琲讃歌(コーヒーさんか)」と題する詩の中で、若い娘に告白しました。
 「暗い夜を逃れて/ふたたび、おまえにめぐり合う/このひとときの安息/おまえはいつも/容器のかたちに身を添わせながら/ひかえめに/しかし、きっぱりと/自己を主張する/白い花と赤い実から生まれた/黒い少女よ/お前に熱いくちづけをおくろう」
 初めてのキス、そしてほろ苦い失恋を彷彿(ほうふつ)とさせられます。以上は全て男たちのコーヒー讃歌。女性にとってコーヒーとは? どなたかいつか教えてください。
(手紙文化研究家・イラストも)
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当方も珈琲党で(別に豆は何々で焙煎の具合はどうこうでというようなこだわりは全くなく、インスタントだろうが缶コーヒーだろうがかまわないのですが(笑))、1日に5,6杯は軽く飲みますので、それぞれのコーヒー談義、あるあると思って読みました。

夢二の文章に出て来るコロンバンさん、当時からあったのですね。学生時代には毎年この時期、三越さんで配送のアルバイトをしていましたが、かなりの頻度でコロンバンさんやヨックモックさんの商品を扱いました(笑)。

筆者の中川氏、「手紙文化研究家」ということで、文豪たちの手紙に冠する御著書等多数おありです。

『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』。
『愛の手紙の決めゼリフ 文豪はこうして心をつかんだ』。
新潮文庫『すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―』。

氏とはフェイスブックでつながらせていただいておりまして、過日は当方もスタッフとして詰めていた中野区のなかのZEROさんでの「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」にもいらして下さり、初めてお会いすることができました。

今後ともご健筆を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

おてがみがこんな山の中へまで来ました、小生の作つたものが若い人達の心に触れたといふお話をきくと不思議のやうにも思はれ、又大変はげまされます、おてがみに感謝します、この山にゐて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居ります、
昭和25年(1950)9月9日 高橋光枝宛書簡より 光太郎68歳

令和元年(2019)、この書簡は受け取ったご本人から花巻市に寄贈されました。現代はSNS全盛の時代ですが、やはり直筆の手紙というものは貴重ですね。

一昨日、12月8日(日)の『北海道新聞』さん一面コラム。

卓上四季

重くたちこめていた暗雲が吹き払われ、日本の命運に光がさした―。83年前のきょう、米ハワイ真珠湾への奇襲が成功し、太平洋戦争が始まる。大多数の国民は熱狂的に受け入れた▼人道主義を説いた白樺派作家の武者小路実篤は高揚していた。<くるものなら来いと云(い)う気持だ。自分の実力を示して見せる>。詩人・彫刻家の高村光太郎も感動を抑えられない。<世界は一新せられた。現在そのものは(略)純一深遠な意味を帯び光を発し>た。興奮が広がる▼憂うる者もいた。作家の幸田露伴は国の将来を案じて涙を流した。「若い者たちをつぶしてしまって事が成り立つはずがない。これではもういっぺんでひどい事になる」。先が見通せた少数者だった▼真珠湾攻撃は遠く離れた英国でも速報された。ラジオで知ったチャーチル首相はすぐに米国へ電話で問い合わせた。なにが起きたのか? ルーズベルト大統領は答えた。「日本の攻撃です。いまやわれわれ(米英)は同じ船に乗りました」▼<世界史的事件>と受けとめたチャーチルは記している。これでヒトラーとムソリーニの運命は決まった。いずれ日本も木っ端みじんに打ち砕かれるだろう―▼日本は序盤こそ快進撃を続けたものの続かない。軍事力も経済力も米国との差は圧倒的だ。チャーチルの予測は4年弱で現実となる。

光太郎が「感動を抑えられない」として引用されているのは詩ではなく、エッセイ「十二月八日の記」から。太平洋戦争開戦から約1ヶ月後の昭和17年(1947)元日、『中央公論』に載ったものです。後に随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)に収められました。

真珠湾攻撃のあった昭和16年(1941)12月8日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していました。「十二月八日の記」はそのレポート的なものです。引用されている一節は、会場の大政翼賛会本部で開戦の詔勅(昭和天皇本人によるものではありませんでしたが)を聴いたときのもの。

その前後も併せて紹介します。

 時計の針が十一時半を過ぎた頃、議場の方で何かアナウンスのやうな声が聞えるので、はつと我に返つて議場の入口に行つた。丁度詔勅が捧読され始めたところであつた。かなりの数の人が皆立つて首をたれてそれに聴き入つてゐた。思はず其処に釘づけになつて私も床を見つめた。聴きゆくうちにおのづから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇つて来た。私はそのままでゐた。捧読が終ると皆目がさめたやうに急に歩きはじめた。私も緊張して控室に戻り、もとの椅子に坐して、ゆつくり、しかし強くこの宣戦布告のみことのりを頭の中で繰りかへした。頭の中が透きとほるやうな気がした。
 世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである。現在そのものは高められ、確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなつた。
 この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いてゐる時間だなと思つた。時間の重量を感じた。

結局、第二回中央協力会議は当初5日間の日程でしたが、それどころではなくなり、1日に短縮。光太郎が発議する予定だった「工場施設への美術家の動員」はカットされました。

以後、ほとんどすべての文学者がそうであったように、雪崩を打って光太郎も発表するものは翼賛詩文一辺倒となっていきます。後述しますが、発表しなかった戦争とは無関係の詩も多くありましたが。

『北海道新聞』さんでは例外として幸田露伴の発言を引いています。当方、寡聞にしてそのソースは存じませんが、その露伴にしても、徳富蘇峰を日本文学報国会会長に推挙したり、その前身とも言える日本文芸中央会の相談役、報国会と『朝日新聞』共催の「国民座右銘」選定委員に就任したりと、決して「無罪」ではありませんでした。

驚いたのは、開戦当時満10歳だった谷川俊太郎氏。やはり12月8日(日)の『長崎新聞』さん一面コラム。

水や空

いのちと愛の言葉を最後まで手放さなかった詩人もその時代は“軍国少年”だった。谷川俊太郎さんが模型ヒコーキへの熱をつづった作文を〈僕の模型よ、お前もほんとの飛行機と一緒にニューヨーク爆撃に行け!〉と結んだのは10歳の春。開戦の翌年だった▲もう、少国民教育が行き渡っていた時代だったのですね-の問いに「そのようですね」と短く応じている。文芸評論家・尾崎真理子さんとの対談集「詩人なんて呼ばれて」(新潮文庫)から▲戦争は知らずに、結末だけを知る私たちが当時の空気を後知恵で非難するのはルール違反でしかない。ただ、大和魂だ、日本は神の国だ-という高揚感や興奮が無謀な戦争を支えていたことは、何度でも胸に刻んでおきたい▲高揚感はやがて消える。谷川さんよりも5歳年長の詩人・茨木のり子さんは「わたしが一番きれいだったとき」に戦争の現実を詰め込んで語った。〈街々はがらがら崩れていって〉〈まわりの人達が沢山(たくさん)死んだ〉〈男たちは挙手の礼しか知らなくて〉▲〈わたしの国は戦争で負けた/そんな馬鹿なことってあるものか〉-青春を返して。でも、戦争が始まってしまったらその叫びはどこにも届かない。「馬鹿なこと」は「敗戦」ではなく「開戦」だ▲太平洋戦争の開戦から8日で83年になる。

「教育」の力は、時に恐ろしい結果をもたらすものだと改めて感じました。

話を光太郎に戻します。光太郎にはずばり「十二月八日」という詩もあります。昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』に発表されました。
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毎年、12月8日には幼稚なネトウヨがこの詩の一節をSNSに挙げて(ついでに言うなら誤字だらけで)喜んでいます。昨年はそれほどでもなかったので、そうした動きは沈静化したかなと思っていたのですが、今年はまた以前以上に花盛り。光太郎本人が戦後、こうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔い、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。

もう取り消せない、という意味では「デジタルタトゥー」に近いものがあるかも知れません。また、「綸言汗の如し」という言葉も思い浮かびます。「無かったことにしよう」というのではありませんが(多くの文学者の同様の作品は、本人や取り巻きによって、「無かったこと」にされている現状もあります。あまっさえ、「無かった」どころでなく「反戦の姿勢を貫いた」とされている詩人も居ますし、現代の有名な評論家のセンセイもそれに騙されています)。

つくづく戦争というものは人の心を狂わせるものだと思わざるを得ませんね。

【折々のことば・光太郎】

「花と実」も予定ばかりで出版にはなりさうもありません。


昭和25年(1950)9月9日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳

光太郎は戦時中、一切戦争には関わらない詩も書いていました。それらは発表することなく書きためていて、『花と実』というタイトルの詩集にまとめる予定でした。しかし、今更感もあったのでしょう、結局実現しませんでした。

昨日は上京し、お茶の水のワイム貸会議室さんで開催された「第18回明星研究会シンポジウム 大逆事件に震撼した時代~平出修・啄木・晶子」を拝聴して参りました。
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コロナ禍となって以後はオンライン限定でした明星研究会さんのシンポジウム。久しぶりに対面方式も復活(web上でも)ということで、自宅兼事務所がZOOM対応になっていませんので、ここぞとばかりに参加いたしました。

今回メインで取り上げられたのは平出修。光太郎より5歳上の明治11年(1878)、新潟の生まれ。筆名は「露花」。光太郎と同じ頃、与謝野夫妻の新詩社に加わり、明治41年(1908)に『明星』が終刊となると、翌年発刊されたその系譜を継ぐ『スバル』の編集等にあたりました。

横浜の神奈川近代文学館さんには、木下杢太郎に宛てられた書簡がごっそり所蔵されており、その中に『スバル』としての明治44年(1911)の年賀状が含まれています。

恭賀新年 明治四拾四年一月元旦 昴発行所 高村光太郎 吉井勇 江南文三 平出修

本文は印刷で、文面はこれだけですが、なぜか光太郎のが筆頭で、発行名義人だった江南の名が三番目(前年までの江南の前の発行名義人は石川啄木でした)、最後に平出の名も。

明治44年(1911)といえば、幸徳秋水・管野スガ等の大逆事件。平出は弁護士でもあり、被告の弁護にあたりました。

平出の令孫・洸氏は、明星研究会さんの世話役も務められた方でしたが、今年亡くなったそうで、昨日はその追悼を兼ねてのシンポジウムでした。
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ご発表はお三方。

まず、中川滋氏。やはり平出令孫で、洸氏の従兄弟にあたられます。
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血縁の方ということで、平出の系譜、没後の顕彰活動などについてのお話でした。

お二人目が明治大学教授・池田功氏。
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大逆事件のアウトライン、啄木は社会主義的思想に興味を持っていましたし、平出との関係もあり、この事件には非常に関心が高かったこと、事件を描いた平出の小説三編についてなど。

最後に会の中心人物・松平盟子氏。
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管野スガが晶子の短歌を激賞していたこと、スガ自身も晶子ばりの短歌を詠んでいたこと、収監後に平出が『スバル』や晶子の歌集を差し入れたりしたこと等々。

ご発表と並行し、晶子の短歌や、瀬戸内寂聴の小説『遠い声 管野須賀子』の一節を、ゲストの津田真澄氏(劇団青年座)が朗読なさいました。
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それぞれのご発表、特に新事実の披露等を含むと言うわけでは無かったようですが、平出や晶子、啄木についてそれほど詳しいわけではない当方としては、「そうだったのか」の連続で、実に興味深いものでした。

ちなみに光太郎と平出。先述の年賀状以外の関わりとしては、明治38年(1905)に光太郎から平出に宛てた書簡が一通知られています。

しばらく御無沙汰いたし居り候処益々御清福の段奉賀候 このたび御転居の御由御祝申上候 談論の筆も此より愈々麹町式の権威に神田式の辛辣を加ふべき事と存上候 失礼ながらはがきにて御移転御祝まで。

この転居に伴い、平出は自宅に法律事務所を開いたそうです。

光太郎と平出が共に写った写真が二葉確認出来ています。
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明治37年(1904)、新詩社小集での集合写真です。後列ののっぽが光太郎、その右下が平出、その右隣には鉄幹がどんと構えています。

これより前、明治34年(1901)のショット。
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投稿雑誌『文庫』(内外出版協会)が百号発行を記念し、上野の韻松亭で投書家の集まり「春期松風会」を催した際の集合写真。総勢約80人、前から六列目の左端が光太郎です。ただ、平出は写っていることはわかっていますが、何処にいるのか当方には判りません。他にも窪田空穂や水野葉舟、横瀬夜雨、伊良子清白、河合酔茗などが写っているとのことです。

そして平出は大正3年(1914)、数え37歳で骨腫瘍のため早世。光太郎はその三日前に書いた詩「瀕死の人に与ふ」で平出を謳いました。この詩は雑誌『我等』に発表され、この年刊行された光太郎第一詩集『道程』にも収められました。

   瀕死の人に与ふ

 汝の病あつく
 汝はいま死に瀕んでゐる
 暗い、深い、無間の底から不可抗の手が
 すでに汝の手を握つた
 汝はいま何を考へ
 また何を望んでゐるか
 こんこんとして睡る者よ

 汝の縁者はみな涙にひたり
 汝の友はみな愁に凍えてゐる
 感動が人人の心に常習の魔術をかけた
 その中で
 汝は睡つてゐる
 しづかに、またやすらかに
 こんこんとして睡る者よ

 起きよ、めざめよ
 汝のその從順のこころを棄てよ
 汝のそのつつしみ深い忍默を破れよ
 死に背け
 死の面上に拳(こぶし)を与へよ
 死に降服する事なく
 ひたすらに生きよ
 死はただ空洞(うつろ)である
 死はただ敗残である
 死に落つるは人間の墮落である事を知れよ
 死ぬなかれ、死ぬなかれ
 こんこんとして睡る者よ

 汝は今まで生きながら死んでゐた
 汝の仕事は皆生(いのち)のない破片に過ぎなかつた
 汝の本能と良心とがめざめかけて來た時
 汝は死の力におさへられた
 そして脆くも死んでゆかうとする
 涙と哀悼とに囲まれ
 萬人の死を死なうとする
 起きよ、睡るものよ
 その甘美の情念を却けよ
 その卑屈な平安を軽んぜよ
 汝の生きる時また汝の一生に値ふ時が
 今こそ來たのである
 ひたすらに生きよ
 生きる事のまことを捉へよ
 汝の余命は短い
 疾く起きよ
 起きて此の広大無辺のいのちを得よ
 こんこんとして睡る者よ

 汝に濺ぎかけられる多くの涙を
 汝は明かに心読せよ
 人の感情の淫奔性を洞察せよ
 汝は正しく、たじろがず、乱れず
 汝の魂に人間の本体をめざましめ
 さらにその源泉たる自然を体感せよ
 現実の微妙に溶け込めよ
 謙讓を極めた今の汝の心をもつて
 いのちに入るはただ力の有無(ありなし)である
 起きよ、めざめよ
 死は醜し
 愚かなあきらめの小康に身をまかす事なかれ
 死に勝ち、死を滅ぼし
 あくまで汝のいのちに荘厳せられつつ
 肉体の敗闕と共に
 美しく、確然たる運命に帰れ
 起きよ、めざめよ
 こんこんとして睡る者よ

けっこうな長詩ですが、それだけに理不尽な死に対する怒りがよく表されています。

話があちこちに飛びますが、光太郎、大逆事件に関してはほとんど沈黙していました。僅かに事件をモチーフとした木下杢太郎の「和泉屋染物店」を面白いとした程度です。『高村光太郎全集』に、幸徳やスガの名は出て来ません。

しかし、『平民新聞』を購読し、後には幸徳の系譜に連なる大杉栄等のシンパに近い立場にもなった光太郎、何も感じていなかったわけがありません。

その答は最晩年、当会顧問であらせられた故・北川先生が残された「高村光太郎聞き書」に。

 洋行から帰ってきても、その問題にぶつかったな。はじめっから終りまで、それはあった。それで非常に困っちゃって、どうしても最後にはその壁にぶつかる。われわれは考えないでいるよりしょうがないと思った。
 その方にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。


狡いといえば狡い考え方ですが、ある意味、仕方がなかったかも知れません。

こういう社会と無縁に芸術精進、という生活が、後の智恵子の悲劇にも繋がったわけで、智恵子が病んでからはそれを是とせず180度方向転換。自ら積極的に世の中と関わろうとします。ところがその世の中の方が15年戦争でおかしな方向に進んでしまっていたわけで、それに加担した光太郎、最大の過ちでした。

閑話休題、幸徳やスガ、そして平出修。これからも語り継がれていって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

今朝スバルの阿部三夫さんが友達と一緒に来訪。お名刺の紹介と委託のビール五本とを拝受しました。早速三人でビール三本をいただき、時ならぬ山の会飲をいたしました。阿部氏は自作詩朗読、尚浜離宮での写真も拝見しました。

昭和25年(1950)9月9日 中原綾子宛書簡より 光太郎68歳

「スバル」は戦後の第三次。与謝野夫妻の長男・光や吉井勇の勧奨で始められ、晶子の衣鉢を継いだ中原が主宰でした。光太郎はその題字を手がけた他、寄稿も多数行いました。

今年、花巻市に中原令孫から寄贈された大量の光太郎関連史料の中に、この書簡や「スバル」への寄稿原稿も含まれていました。

一昨日届きまして、半分ほど読んだところです。

ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く

発行日 : 2024年12月10日
著 者 : 辻田真佐憲
版 元 : 中央公論新社
定 価 : 2,400円+税

何がわれわれを煽情するのか? 北海道から沖縄までの日本各地、さらにアメリカ、インド、ドイツ、フィリピンなど各国に足を運び、徹底取材。歴史や文化が武器となり、記念碑や博物館が戦場となる――SNS時代の「新しい愛国」の正体に気鋭が迫る!
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目次
はじめに
【第一部】個人崇拝の最前線 偉大さを演出する
 第一章 トランプの本拠地に潜入する 米国/トランプタワー
 第二章 親日台湾の新たな「聖地」 台湾/紅毛港保安堂、桃園神社
 第三章 安倍晋三は神となった 長野県/安倍神像神社
 第四章 世界一の巨像を求めて インド/統一の像
 第五章 忘れられた連合艦隊司令長官 佐賀県/陶山神社、奥村五百子女史像
 第六章 「大逆」の汚名は消えない 山口県/向山文庫、伊藤公記念公園
【第二部】「われわれ」の系譜学 祖国を再発見する
 第七章 わが故郷の靖国神社 大阪府/伴林氏神社、教育塔
 第八章 消費される軍神たち 長崎県/橘神社、大分県/広瀬神社
 第九章 自衛隊資料館の苦悩 福岡県/久留米駐屯地広報資料館、山川招魂社
 第十章 「日の丸校長」の神武天皇像 高知県/旧繁藤小学校、横山隆一記念まんが館
 第十一章 旧皇居に泊まりに行く 奈良県/HOTEL賀名生旧皇居、吉水神社
 第十二章 「ナチス聖杯城」の真実 ドイツ/ヴェーヴェルスブルク城、ヘルマン記念碑
 第十三章 感動を呼び起こす星条旗 米国/マクヘンリー砦、星条旗の家
【第三部】燃え上がる国境地帯 敵を名指しする
 第十四章 祖国は敵を求めた ドイツ/ニーダーヴァルト記念碑
 第十五章 「保守の島」の運転手たち 沖縄県/尖閣神社、戦争マラリア慰霊碑
 第十六章 観光資源としての北方領土 北海道/根室市役所、納沙布岬
 第十七章 「歴史戦」の最前線へ 東京都/産業遺産情報センター、長崎県/軍艦島
 第十八章 差別的煽情の果てに 京都府/靖国寺、ウトロ平和記念館
 第十九章 竹島より熱心な「島内紛争」 島根県/隠岐諸島
 第二十章 エンタメ化する国境 インド/アタリ・ワガ国境、中国/丹東
【第四部】記念碑という戦場 永遠を希求する
 第二十一章 もうひとつの「八紘一宇の塔」 兵庫県/みどりの塔
 第二十二章 東の靖国、西の護国塔 静岡県/可睡齋
 第二十三章 よみがえった「一億の号泣」碑
 岩手県/鳥谷崎神社、福島県、高村智恵子記念館
 第二十四章 隠された郷土の偉人たち 秋田県/秋田県民歌碑、佐藤信淵顕彰碑
 第二十五章 コンクリートの軍人群像 愛知県/中之院、熊野宮新雅王御塋墓
 第二十六章 ムッソリーニの生家を訪ねて イタリア/プレダッピオ
 第二十七章 記念碑は呼吸している ベトナム/マケイン撃墜記念碑、大飢饉追悼碑
 第二十八章 けっして忘れたわけではない 
フィリピン/メモラーレ・マニラ1945、バンバン第二次大戦博物館
【第五部】熱狂と利害の狭間 自発的に国を愛する
 第二十九章 戦時下の温泉報国をたどる 
和歌山県/湯の峰温泉、奈良県/湯泉地温泉、入之波温泉
 第三十章  発泡スチロール製の神武天皇像 岡山県/高島行宮遺阯碑、神武天皇像
 第三十一章 軍隊を求める地方の声 新潟県/白壁兵舎広報史料館、高田駐屯地郷土記念館
 第三十二章 コスプレ乃木大将の軍事博物館 栃木県/戦争博物館、大丸温泉旅館
 第三十三章 「救国おかきや」の本物志向 兵庫県/皇三重塔、中嶋神社
 第三十四章 右翼民族派を駆り立てる歌 岐阜県/「青年日本の歌」史料館
 第三十五章 郷土史家と「萌えミリ」の威力 
熊本県/高木惣吉記念館、軽巡洋艦球磨記念館
総論
あとがき
地図
参考文献 

日本全国、そして海外のいわば「キナ臭い」場所を訪れてのレポートです。目次を見れば自ずと著者の辻田氏のスタンスは見えてくるでしょう。

さらに「まえがき」から。

 愛国的な物語や神話のたぐいは「つくられた伝統」だと批判され、ファクトにもとづかない俗説としてすぐに切って捨てられやすい。だが、歴史や社会はしばしばその俗説とされるものに動かされてきた。
 たとえば、神武天皇が唱えたとされる八紘一宇(はっこういちう)という理念は、歴史の専門家からは取るに足りないものと笑われるのかもしれない。だが、この理念ほど日本社会に影響を与えたものも少ないのであって、それにくらべれば最新の学説なるもののほうがかえって蜉蝣(かげろう)の命に過ぎない。
 そのため本書では、国威発揚にまつわるものごとを頭ごなしに否定しない。ただし、それを手放しで礼讃することもしない。言い換えれば、「二流」「三流」と見下される史跡にも真剣に向き合い、それを軽視することなく、と同時にそれに飲み込まれることなく、内部に取り込んでいく。こうした取り組みこそが、戦後八〇年と昭和一〇〇年の節目を迎えようとする今日、きわめて重要だと考えるからである。


また、ある章の末尾には、

 わたしはかつて『「戦前」の正体』という本のなかで、戦前の日本を六五点と評価したことがある。過去を採点するなどという傲慢な行為をあえてしたのは、ここで述べたような戦前と戦後の適切な接続を試みたかったからにほかならない。
 戦前の評価となると、ひとつの過ちも認めず一〇〇点満点をつけて恥じない右派と、完全に暗黒時代だと断じて〇点をつけて憚らない左派にわかれやすい。だが、欧米列強の侵略に対抗して、あの短期間で近代国家を築き上げた功績をまったく否定することはできない。かといって、その過程で問題行為がまったくなかったというのも無理があろう。そこで、反省すべきは反省し、継承すべきは継承するという是々非々の立場を取るべきということで、六五点という数字をつけたのである。

とあります。辻田氏のバランス感覚がよく表されています。六十五点には異論もありましょうが。

さて、われらが光太郎。「第二十三章 よみがえった「一億の号泣」碑」で、花巻市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社さんにある「一億の号泣」詩碑がメインで扱われています。「一億の号泣」は鳥谷崎神社で終戦の玉音放送を聴いた体験を描いた詩です。

この章、昨年発行された『文學界』2023年11月号に掲載の連載「煽情の考古学」の第二十二回「花巻に高村光太郎の戦争詩碑を訪ねる」に加筆したものでした。本書全体としては「煽情の考古学」プラス他誌に載った玉稿も取り入れられています。

目次にはありませんが、花巻郊外旧太田村の高村山荘(光太郎が七年間過ごした山小屋)、隣接する高村光太郎記念館さんもレポートされています。

そして、福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館さん。直接的には戦争に関わる展示はありませんが、智恵子が遺した紙絵の中に、光太郎の父・光雲が原型を手がけた皇居前広場の楠木正成像をモチーフとした作品があり、「まるでその後の光太郎の歩む道を暗示しているかのようだった」。
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なるほど。

その光雲については、一つ前の章「第二十二章 東の靖国、西の護国塔 静岡県/可睡齋」で触れられています。日清戦争がらみで建てられた「活人剣の碑」についてです。

同碑に関してはこちら。
 光雲関連報道。
 光雲関連追補。
 「<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井」。
 活人剣の碑 紙芝居に 地元有志ら、小中学校へ贈呈 袋井 /静岡
 静岡袋井「YUKIKO展(可睡齋の「活人剣物語」と地域の昔話他)」。

それにしても、目次の通り北は北海道から南は沖縄まで、さらに海外と、こんなにたくさん廻ったのかと、脱帽です。まさに労作。それから、ルポに登場する人々。箱物であればその館長さんやらキュレーターさんやら、神社であれば宮司さん、タクシー運転手の方(地元民代表的な)等々。ほんとに世の中にはいろんな人がいるもんだと時に呆(あき)れたりもしました。

ところで今日は太平洋戦争開戦の日。辻田氏曰くの戦前と戦後の連続性、非連続性といった点、まだまだ検証が必要な事柄だと思いますし、今後もそれが変容していくまさにリアルな流れの中に我々が置かれているわけで、他人事ではありませんね。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

抽象美もさる事ながら、人間の具象に対する慾求本能は時代の如何に拘らず強大なものと存ぜられます、


昭和25年(1950)9月2日 西出大三宛書簡より 光太郎68歳

あくまで具象彫刻にこだわった光太郎ならではの言です。

だからといって、『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』でいくつも取り上げられている銅像など全てがいいものとは思えませんが。

毎年恒例ですが、今年度は本日開幕です。

花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~

期 日 : 2024年12月7日(土)~2025年1月26日(金)

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館、花巻市総合文化センターの4館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。
 
■花巻新渡戸記念館 テーマ「島善鄰 没後60年」
 島善鄰は1889年、広島生まれ。善鄰8歳の時に父の故郷、花巻に帰ってきました。「リンゴの神様」「リンゴの恩人」と称されるリンゴ研究の第一人者、島善鄰について紹介します。

■萬鉄五郎記念美術館 テーマ「東和モンパルナスー岩手の小さな町に集った美術家たち―」
 萬鉄五郎の出身地である岩手県花巻市東和町には、1990年代から現在に至るまで多くの画家や彫刻家、陶芸家たちが移り住み活動の場とするなど、岩手の小さな町を拠点に多彩な表現活動を繰り広げてきました。
 本展では、パリのモンパルナスに集った画家たちにちなみ、「東和モンパルナス」と銘打って、この町に集った多様な美術家を紹介します。

■高村光太郎記念館 テーマ「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」
 昭和20年5月に花巻へ疎開し、同年秋に太田村へ移住した高村光太郎。留学中に欧米の音楽に触れた光太郎は帰国後もレコードやラジオを通じ、時にはオーケストラによる生演奏でクラシック音楽を楽しんでいました。太田村への移住後、ラジオを入手した光太郎は放送での演奏のほか、蓄音機でも音楽を楽しみました。
 この企画展では、音楽をテーマに光太郎が山の暮らしの中で執筆した詩など、光太郎にゆかりある楽曲や関連する資料を紹介します。

■花巻市総合文化財センター 「縄文ムラの人々」
 花巻市内から出土する埋蔵文化財の7割は縄文時代のものです。本企画展では、縄文の人々のムラ・信仰・生業など考古資料からひもといてみます。

《関連イベント》
★ぐるっとまわろう!スタンプラリーを実施します!
共同企画展の会期中、開催館4館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。この機会にぜひ足を運んでみてください。
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年によって参加館数が異なったりするのですが、今年は4館。

そのうち花巻高村光太郎記念館さんでは、地元の音楽関係の方にご協力いただき、SPレコード等の展示を行うそうです。関連行事としてレコードコンサート的な催しも。
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当方も史料をお貸ししました。光太郎作詞の戦時歌謡のSPレコードを4枚、それから戦時歌謡ではなく歌曲「ぼろぼろな駝鳥」(弘田龍太郎作曲 昭和18年=1943)、戦後の光太郎詩朗読が吹き込まれたSPもそれぞれ1枚ずつ。さらにそれらの楽譜、歌詞カードなども。全て展示されるかどうか不明ですが。

戦時歌謡4枚のうち3枚は、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)です。「隣組」も歌った徳山璉の歌唱でちょっとしたヒット曲となり、現在再放送中のNHKさんの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」でも戦時中のシーンで使われました。徳山歌唱の盤が2種類、それから日本ビクター管絃楽団によるインストゥルメンタルバージョンです。もう1枚は文部省の日本国民歌全5曲の一つとして箕作秋吉が作曲し、関種子が歌った「こどもの報告」(昭和14年=1939)。まぁ、それぞれ光太郎の黒歴史ですね。

戦後の朗読は光太郎最晩年の昭和30年(1955)、家の光協会でリリースした「家の光つどいの歌」。B面に詩朗読で光太郎の「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)、光太郎とも交流のあった竹内てるよの「わたくし」が吹き込まれています。朗読者は不明です。
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通常の盤も存在しましたが、当方手持ちのものは絵が印刷されたピクチャーレコードです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

明六日放送の由、丁度いまラジオ受信機がこはれてゐて残念です、ますます御元気であられる様にいのります。

昭和25年(1950)9月5日 新井克輔宛書簡より 光太郎68歳

故・新井克輔氏はハーモニカ奏者。かつて連翹忌の集いに20回近くご参加下さり、アトラクションとして見事な演奏を披露していただきました。

光太郎、ラジオの音楽番組をよく聴いた他、花巻町中心街に出た際は宮沢家に立ち寄って、賢治実弟の清六にさまざまなレコードを聴かせてもらってもいました。中には賢治の遺品などもあったのでしょうか? そんな中で詩「ブランデンブルグ」(昭和23年=1948)なども生まれました。

明日、明後日と2日間限りの展示です。

カナビフォトフェス

期 日 : 2024年12月7日(土)・12月8日(日)
会 場 : 金沢美術工芸大学4号館アートコモンズA 石川県金沢市小立野2-40-1
時 間 : 12/7 10:00~17:00 12/8 10:00~14:00
料 金 : 無料

金沢でなかなか実機を触る機会が無い、というお悩みをここで解決しようと、各企業様のご協力を得て開催する撮影機材展示会です。カメラはもちろん、照明や周辺機器も取り揃え、プロのテクニックや著作権を学ぶ講座も同時開催します。
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光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった豊周(会場の金沢美術工芸大学さん名誉教授)の令孫にして写真家の髙村達氏が、「髙村光雲、高村光太郎、彫刻の写真をフレスコジクレーA0にプリント作品も展示致します」とのことです。

「ジクレー」はファイン紙、A0は紙の大きさの規格で841mm×1189mm。一般的なA4サイズの実に16枚分ですね。
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同様のパネルは東京藝術大学大学美術館さんでの「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」、そして光太郎実家にして現在も達氏がお住まいの旧本郷区駒込林町155番地に隣接する旧安田楠雄邸庭園さんにおける「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」などでも展示されました。小さい画像ではわかりにくい細部まで確認できるのは素晴らしいと思いました。

また、達氏、8日にはセミナー講師も務められるとのこと。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

琅玕洞の広告を発見されたやうですが、この高村道利といふのは小生の次の弟で、例のドイツへ行つた言語学研究をしてゐた死んだ弟です。この弟の生活保障といふことも琅玕洞経営の半分の動機だつたのです。


昭和25年(1950)8月30日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

「琅玕洞(ろうかんどう)」は、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた日本初といわれる本格的な画廊。「広告」は当時の雑誌『方寸』などに載りました。
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道利は光太郎の3歳下。東京外国語学校を卒業後、当時の徴兵制の関係もあり、おそらく1年志願兵で横須賀の要塞砲兵第二聯隊に入り、除隊後、琅玕洞の名目上の店主となりました。ただしあまり熱心に仕事はしませんでした。それもあって琅玕洞は1年でつぶれます。その後道利は、子供の頃から艦艇オタクでしたし、横須賀での軍隊生活が面白かったのでしょうか、職業軍人になることを考えましたが、父・光雲に反対されます。さらにドイツ語の個人教授をしていた近所に住む歌手・関鑑子と結婚したいと申し出ますが、これも光雲が却下。すると、半ば自暴自棄となり、ふいっと渡欧してしまいました。しばらくは手紙が届いていたそうですが、やがて音信不通に。

長男光太郎が家督相続を放棄、次男道利は行方不明、そこで三男豊周が髙村家を嗣ぎました。髙村家は戸籍上は「高村」ですが、慣習として「髙」の字を使い、しかし光太郎は「俺は分家だから」と、戸籍通りに「高」の字を使い続けました。

道利は、光雲没後の昭和10年(1935)になって、フランスの日本大使館から、慈善病院のようなところに入院しているが、日本に送還するので引き取って欲しい、と髙村家に連絡があり、光太郎が神戸まで迎えに行ったそうです。帰国後は実家に住み、豊周から頼まれた翻訳などをしていたのですが、昭和20年(1945)、自宅敷地内に作った防空壕に誤って転落、それが元で亡くなりました。

さて、当会の祖・心平。この頃、中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻の編集を始めたようで、その中で明治期の琅玕洞広告を目にしたようです。ことによると『選集』編集に際して元埼玉県東松山市教育長・田口弘氏が心平に貸した光太郎関連スクラップに入っていたのかも知れません。

過日、光太郎の父・光雲作の木彫が出ている栃木の那須野が原博物館さんの「開館20周年記念特別展 松方正義と那須野が原」をご紹介しましたが、同様に光雲の木彫が出ている企画展示がもう1件開催中でした。

東北大学総合知デジタルアーカイブ公開記念展示「チベット仏教の精華」

期 日 : 2024年11月18日(月)~12月13日(金)
会 場 : 東北大学附属図書館 宮城県仙台市青葉区川内27-1
時 間 : 10:00~16:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

東北大学では、附属図書館所蔵の貴重資料であるデルゲ版チベット大蔵経のデジタル画像化事業を継続して行なっております。今回は本学デジタルアーカイブToUDAの公開を記念し、このチベット大蔵経に加え、文学研究科所蔵の河口慧海がチベットから日本に持ち帰った仏教美術や工芸品などの名品を紹介する展覧会を開催いたします。
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公式サイトにそうした記述や出品目録がありませんで気がつきませんでしたが、X(旧ツイッター)の東北大学総合学術博物館さんの投稿で、光雲木彫が出ていることをつかみました。
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僧侶にしてチベット仏教学者だった河口慧海旧蔵、というか光雲に依頼して作ってもらった釈迦如来座像(大正11年=1922)。

慧海は、光雲・光太郎父子の住まいがあった本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)に近い本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。

その慧海旧蔵の光雲作品、散逸してしまった感じなのでしょうか、あちこちで異なるものが収蔵/展示されています。

 京都/堺・新着情報(その2)。
 河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」。
 仙台市博物館 特集展示「福島美術館の優品」。
 都内レポート その3 東京国立博物館「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」。

今回展示されているものは、東北大学総合学術博物館さんで収蔵しているものだそうです。

他にも慧海がチベットから持ち帰った品々なども展示されていますし、さらにもう一人、慧海と同じくチベットに足を運んだ多田等観がらみの展示も為されている由。等観は戦後、光太郎が隠棲していた花巻郊外旧太田村の隣村・旧湯口村の円万寺観音堂で堂守を務めていた時期があり、光太郎の知遇を得てお互いに行き来していました。

khb東日本放送さんのローカルニュース。

チベット仏教の経典や美術品を紹介する展示会 東北大学附属図書館

チベット仏教の経典や美術品を紹介する展示会が、東北大学附属図書館で開催されています。
チベット仏教は、インド仏教の教えを直接受け継いでいます。
展示されているのは、その教えを求め約120年前にチベットに入国した河口慧海が持ち帰った資料など37点です。
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約300年前に刷られたデルゲ版チベット大蔵経は、日本人で最初に正式なチベット仏教僧となった多田等観がダライ・ラマ13世から贈られました。
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東北大学文学研究科杉本欣久教授「資料、お経を持って帰るのは多大な熱意があったはずです。是非ご覧いただきながら感じ取っていただければ」
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展示会は12月13日まで、仙台市青葉区の東北大学附属図書館で開催されています。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変な御苦労であつたことと身につまされて思ひます、しかしこれで「草の葉」も日本に初めて正しく伝へられるわけで貴下に対する感謝の念は絶大です。

昭和25年(1950)8月28日 長沼重隆宛書簡より 光太郎68歳

長沼は英文学者。アメリカのウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』翻訳を上下二巻で刊行しました。

ホイットマンの訳にはかつて光太郎も取り組み、大正10年(1921)には『自選日記』訳を刊行するなど、ホイットマンのファンでした。

年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』。最新号の第十九号が届きました。
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いつも書いていますが、同人にしてくれと頼んだ覚えは一切ありませんが、「連翹忌通信」という連載を持っています。評論ともエッセイともつかない駄文ですが(笑)。

前号に引き続き、キーワードは「佐佐野旅夫」。当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、明治45年(1912)の雑誌『スバル』に載った「佐佐野旅夫」署名の戯曲「地獄へ落つる人々」を、光太郎の変名によるものではないかと推理され、「参考作品」として『高村光太郎全集』の別巻に掲載された件について。

残念ながら北川先生の推理は外れで、「佐佐野旅夫」は佐々木好母という人物が使っていたペンネームだと判明した件を前号に書きましたが、佐々木は明治末から戦後にかけて(途中、疎遠になっていた時期もあったようですが)光太郎と交流があり、そんなわけで北川先生が光太郎作品と見まごうような戯曲を書いていたのだ、的なことを今号には書きました。さらに佐々木の経歴、光太郎やその親友・水野葉舟との交流などについても。

ちなみに戯曲「地獄へ落つる人々」、『スバル』本誌では「佐佐野旅夫」クレジットでしたが、他誌に載った広告では本名の「佐々木好母」で紹介されていました。
地獄へ落つる人々
詳しくは奥付画像を載せておきますので、御注文の上『とんぼ』をお読み下さい。
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拙稿の件を先にご紹介して申し訳なかったのですが、目次は以下の通り。
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編集に当たられている曽我貢誠氏が、当方も幹事に名を連ねています「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の世話役、版元の文治堂書店さんの社主・勝畑耕一氏も同会メンバーで、随所に保存運動の件も書かれています。

他に北川先生の御子息・光彦氏、朗読のイベントなどでお世話になっている服部剛氏などの玉稿も。

頒価は600円だそうです。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「典型」の表紙、見返し、扉、外函の装幀原図がやつと決定しましたので、宮崎さん宛送ります。書留にするには集配人をつかまへるのが一苦労です。


昭和25年(1950)8月23日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの選詩集的なものを除き、光太郎生涯最後の詩集となった『典型』。おそらく自分でも生涯最後の詩集とするつもりだったようで、装幀は気合いを入れて自分で行い、題字も自分で刻んだ木版でした。
tenkei
無題
典型
扉の案のうち、左の二つはボツにしたもの、一番右を採用しました。いわずもがなですが文字も自筆です。

先週の話になりますが、妻と二人で茨城県笠間市に行きました。

別に笠間でなくてもよかったのですが、妻のリクエストが以下の通りで、そうなると笠間かな、というわけで。
 ① 気合いの入ったモンブランが食べたい
 ② 美味しい新蕎麦が食べたい
 ③ 御朱印が欲しい
 ④ 紅葉も見たい

笠間は以前にも何度か足を運びました。昨年にはやはり妻と隣接する水戸市の偕楽園さんで梅を見た後、笠間に移動して、光雲・光太郎父子の作品も出ていた茨城県陶芸美術館さんでの「生誕150年記念 板谷波山の陶芸 帝室のマエストロによる至高のわざ」を拝観。それ以外にも笠間稲荷さん、常陸国出雲大社さんに御朱印をもらいに行ったりしたこともありました。また、自分一人では日動美術館さんにお邪魔したことも。千葉の自宅兼事務所から車で1時間程です。

さて、まずは旧岩間町の愛宕神社さんに。
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この日、午前中は霧が深く、その分神秘的といえば神秘的でしたが、晴れていたら見えたはずの関東平野の眺望が拝めず、そこは残念でした。

入母屋造の大きな拝殿と、奥には流造の本殿。拝殿の飾り彫刻も見事でした。左右に鶴でしょうか。
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その上、中央には龍。しかし濃霧でよく見えませんでした。
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拝殿に入れていただくと、この地に残る天狗伝説にちなみ、奉納された巨大な天狗面が多数。
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妻はこちらで御朱印を頂き、ミッション③はクリア。

さらに本殿奥の摂社と思われる飯綱神社さんには銅製の見事な六角殿が。
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ちょうど先日、荒川区で「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」展を観覧したばかりで、興味深く拝見しました。江戸期には既にここにあったそうですが。

下山して笠間駅近くへ。スマホの検索画面で探した蕎麦屋さんを見つけ、ミッション②もクリア。

続いてミッション④、紅葉を見に、ということで、日動美術館さんの分館と位置づけられている「春風萬里荘」さんへ。北大路魯山人が北鎌倉でアトリエとして使っていた農家建築です。昭和40年(1965)に笠間に移築されました。

ちなみにイサム・ノグチは魯山人に陶芸を学ぶため、元々この建物のあった北鎌倉に移り、それまで借りていた中西利雄アトリエの契約を解除しました。その後に光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、同アトリエに入ったといういわくもあります。
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魯山人と光太郎、明治16年(1883)の同年生まれです。しかも、誕生日が光太郎は3月13日、魯山人は3月23日と10日しか違いません。ところが、二人の間に直接的な交流は無かったようで、『高村光太郎全集』に魯山人の名は見あたりません。どこかで顔を合わせたりしたことはあるんじゃないかな、などとは思うのですが。

また、直接の縁はなくとも、中西利雄・高村光太郎アトリエの保存運動のからみもあり、この手の建築は見ておきたいと常々考えております。

そんなことを考えながら受付の券売機で入場券1,000円×2を購入し、少し歩いて建物へ。
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この段階ですでに紅葉が見事です。
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茅葺きの屋根が実にいい感じですし、破風まで茅葺きとは恐れ入りました。

入口に掲げられた扁額を見て、仰天。
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署名をたしかめるまでもなく、見た瞬間に、当会の祖・草野心平の字です。
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建物内には額に写す前の直筆も掲げられていました。
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そういえば、日動美術館さん本体にも心平の扁額があったっけと思い出しました。日動画廊の創業者、長谷川仁と交流があったのでしょう。

直筆の方にはキャプションも。
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ここで光太郎や宮澤賢治、萩原朔太郎の名を目にするとは思っていませんでした。

ちなみに玄関の扁額の上、破風の下には貂(てん)の木彫。最初、猫かと思ったのですが、しげしげ見ていたら係員の方が貂だと教えて下さいました。
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さて、改めて建物内。

魯山人が実用していたという衣桁。
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こちらもいい感じの木彫が施されています。

魯山人の陶芸作品。
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唐獅子の釘隠や杉戸などは当時のものなのでしょう。
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芹沢銈介の幅、中村不折の書などはあとから日動さんによって持ち込まれたものかな、と思いました。
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庭もいい感じでした。
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正面向かって右側の茶室は魯山人の設計だそうで。
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逆サイドには元々厩だったエリア。同じ屋根の下に厩があるのは東北の曲屋に似ています。
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素朴なステンドグラス。左は内側から、右は屋外から撮影しました。
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ここには日動さんによる様々な彫刻作品が展示されていて、それは存じませんでした。
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左上は朝倉文夫、右上で藤井浩佑、左下が澤田政廣、右下には北村四海。それぞれ光雲・光太郎父子と大なり小なりの縁はありました。
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さらに奥には魯山人作の、何と便器(笑)。
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ひととおり内部を拝見した後、外の庭園へ。
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少し離れた場所には長屋門もありました。
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そんなこんなでミッション④、紅葉もクリア。

最後にミッション①、「気合いの入ったモンブラン」。道の駅かさまさんでいただきました。ただし、ここはセコく、二人で一つ(笑)。
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素麺か冷や麦のように見えますが、特産の栗がふんだんに練り込まれています。美味でした。

茨城県、都道府県魅力度ランキングでは毎回のように最下位ですが、こういういいところもいろいろあります。ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

一、お茶  [七月廿五日発送] 一、クマゼミ[シヤンシヤン蟬] 一、香水線香 右受領候也 七月廿八日 クマゼミ無事到着、立派です、

昭和25年(1950)7月28日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

「クマゼミ」は木彫にしたいということで、関東には生息していませんので、静岡にいた澤田(『智恵子抄版元の龍星閣主』)に送ってくれるよう、戦時中から頼んでいました。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で、主に「食」を通して光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさん。様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗する市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんで不定期に「こうたろうカフェ」として参加なさっています。日記などから読み取れる、光太郎が実際に作ったメニュー、使用した食材などを参考になさっています。

今年最後の出店が11月27日(水)だったそうで、画像等お送りいただきましたのでご紹介します。
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メニューは以下の通り。
 ウェルカムドリンク ブルーベリースカッシュ ローストポーク ブルーベリーソース
 大根の海老あん 春菊と水菜の胡麻和え 里芋の胡桃かけ キクラゲの佃煮
 お新香 ミズの実ごはん ふわふわ天使のスープ 林檎パイカスタード コーヒー


メインのローストポークには付け合わせとして粉吹きいも、バターナッツかぼちゃ、人参、紅心大根、パプリカが添えられ、ご飯には光太郎が好んだ山菜ミズの実をトッピング。実が成るとか、ましてや食べられるというのは存じませんでした。

しかし、いつも思うのですが、これで1,000円というのは、都会ではあり得ない価格ですね。

お店としては営業が続きますが、最初に書いた通り、やつかの森LLCさんの今年最後のご出店だったそうです。次回は来年3月の予定だとのこと。活動拠点からお店までが意外と遠く、積雪のため食材の搬入等が困難になるためだそうです。

再開以後も変わらず繁昌することを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

御委托の抹茶と中村屋の「石ごろも」とありがたくおうけとりしました。石ごろもといふ日本菓子は小生子供の頃からの好物でした。これは江戸の名残です。

昭和25年(1950)8月3日 奥平英雄宛書簡より 光太郎68歳

「石ごろも」。固有名詞かと思ったらそうではなく、「大福」や「どら焼き」同様、普通名詞なのですね。小豆の漉し餡を固い砂糖の「衣」で包んだ和菓子。現在では無くなっているようですが、当時は中村屋さんでもラインナップに入っていたようです。

書簡からも光太郎の食生活が垣間見え、興味深いところです。

テレビ放映情報です。

開運!なんでも鑑定団【ロダンの弟子<壮絶女性彫刻家>作に超ド級値!】

地上波テレビ東京 2024年12月3日(火) 20:54〜21:54

■東郷青児ら<超有名画家>作&プロレス史に残る<伝説!猪木秘宝>に驚き値■江戸時代…<花鳥画>大作■金色に輝く…壮絶<ロダンの弟子>女性彫刻家作に超ド級鑑定額

出演者

【MC】今田耕司、福澤朗、菅井友香   【ゲスト】大家志津香
【出張鑑定】出張鑑定 IN 愛媛県西予市  【出張リポーター】石田靖
【出張アシスタント】吉川七瀬      【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

光太郎が終生敬愛したロダンの弟子にして、愛人でもあったカミーユ・クローデルの代表作の一つ「ワルツ」が出品されます。
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ブロンズの場合、同一の型から複数の作品が制作出来ますが、その型が正当なものか、誰がいつどんな経緯で鋳造したかなどで、大きく評価が異なります。今回のものは番組サブタイトルに「超ド級鑑定額」とあり、どういったものか、非常に気になりますね。

この番組、鑑定結果の発表の前、出品物にまつわる作者や背景等を紹介するVがなかなか凝った作りで、それだけでも見る価値があると思います。

もう1件。

又吉・せきしろのなにもしない散歩 #140

BSよしもと 2024年12月4日(水) 19:00~19:30 再放送 12月6日(金) 16:00~16:30

ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。 東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は福島県川内村をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!? かわうち草野心平記念館、秋風舎 ほか。

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この番組、30分の枠内でおおむね2~3ヶ所紹介されるのですが、今回は福島県川内村の天山文庫、同じ敷地内のかわうち草野心平記念館(阿武隈民芸館)さん、それから古民家カフェ秋風舎さんを廻ります。

天山文庫はモリアオガエルが縁で、当会の祖・草野心平を名誉村民にしてくださった同村における心平の別荘です。光太郎実弟の髙村豊周も建設委員に名を連ね、村の皆さんが一木一草を持ちより、昭和41年(1966)に竣工しました。

その手前にあるかわうち草野心平記念館(阿武隈民芸館)さん。心平に関する展示が充実し、光太郎に関しても随所で触れられています。心平が経営していたバー「学校」が再現されたりもしています。

そして天山文庫の管理人を務められていた志賀風夏さんが開かれた古民家カフェ秋風舎。こちらでも心平の息吹に接することが出来ます。

志賀さん、昨日の『朝日新聞』さんで大きく取り上げられました。東日本大震災後に始まり、その後に発生した災害を含め、全国の「被災地」で暮らす人々にスポットを当てる「てんでんこ」という連載です。
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先週は川内村特集で、11月26日(火)には心平を祀る天山祭り実行委員長の井出茂氏も。
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ところで同番組、訪れるのは東北限定でして、今年2月の第99回で、花巻の光太郎が戦後7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さん、先月の第137回は智恵子の故郷・福島二本松の観世寺さんと智恵子生家/智恵子記念館さんでのロケでした。

二本松でのお二人の吟の一部。022

又吉さん。
 自力ではなく風に流されていく蜻蛉(とんぼ)
 鬼婆の話を聞く残暑
 不安も混乱も紙絵の川に流す
 和紙に福島の風を込める
 手漉きの和紙のごとく繊細に触れる


せきしろさん。021

 鬼婆も過ごしただろう穏やかな午後
 鬼婆カレーを食べる晩夏
 儚さが充満している額たち
 本当の空を見上げてみる
 レモンの色を探している自分がいる


次回は心平がらみの句を期待しています。

同一映像の使い回しと思われますが、もう1件。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2024年12月6日(金) 17:56〜19:00

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

「二人の星をさがそうよ」田辺靖雄     「ウェディング・ドレス」九重佑三子
「ごめんねチコちゃん」三田明       「智恵子抄」二代目コロムビアローズ
「東京の灯よいつまでも」新川二朗     「桑港のチャイナ街」渡辺はま子
「長崎の鐘」藤山一郎           「別れのブルース」淡谷のり子
「イヨマンテの夜」伊藤久男        「温泉芸者」五月みどり
「お座敷小唄」松平直樹          「浮世街道」畠山みどり
「幸せなら手をたたこう」ボニージャックス 「ラ・ノビア」ペギー葉山
「恋をするなら」橋幸夫          「愛と死をみつめて」青山和子

<司会>合田道人

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今後大いに書くつもりでゐます、行けるところまで行きたい、出来る限り踏み込みたいと考へてゐます、


昭和25年(1950)8月3日 伊藤信吉宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、老いてなお盛んですね。

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