2024年10月

以前から行われていたようなのですが、一昨年までは気づきませんでご紹介していませんでした。今年はこれで項目を立てます。

秋の紅葉ライトアップ&夜間無料開放

期 日 : 2024年11月2日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 17:00~19:00
料 金 : 無料

本年も一晩だけ、 碌山館をライトアップ✨✨🍁
雨天中止 無料開放
展示室は碌山館のみご覧いただけます。
暖かい服装でお出掛けください。
ぜひお楽しみください📷
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013通常、17時で閉館となる同館ですが、この日に限りそこから2時間延長でライトアップが行われるとのこと。

ライトアップされるのは本館的な碌山館のみ。その竣工(昭和33年=1958)を見ずに亡くなりましたが、この建設には光太郎も力を貸したということで、入口裏側に設置されたプレートには光太郎の名も刻まれています。

ライトアップ時間帯の入場も碌山館のみ。光太郎のブロンズが多数展示されている第1展示棟や他の棟には入れません。入場料がかかりますが閉館前の時間に入場いただければ、他の棟も観覧できますね。

ちなみに弟2展示棟まるまると、第1展示棟の一部では、現代彫刻家の森靖(おさむ)氏の木彫を展示する「森靖展 -Gigantization Manifesto-」が開催中(12/9まで)。
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不思議な魅力のある作品群ですね。

しかし、ライトアップは雨天の場合には中止とのこと。そこで気になる長野県の天気予報を調べてみましたところ……
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「ありゃりゃりゃりゃ」という感じですね。

「一夜限りの」ということでプレミア感を狙ってらっしゃるようですし、日を改めて、というわけにもいかないようで……。その時間帯だけでも奇跡的に雨が上がっていることを期待します。

それにつけても館の建造物自体のライトアップで集客できてしまうところがすごいと思います。うらやましがっている他館のキュレーターさんなども多いのではないでしょうか。岩手花巻高村山荘あたりでもライトアップされるとそれなりに美しいとは思いますが、いかんせん熊の出没多発地帯ですし……。

【折々のことば・光太郎】

小生のその後無事、寒いので元気です。


昭和25年(1950)3月3日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

「寒いので元気」、一般的な感覚では矛盾していますが、夏の暑さにとことん弱かった光太郎にとっては、やせ我慢でも何でもなくそういうものでした。

10月27日(日)のこのブログで「拝観に行きました」的なことだけは書いておきました高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」。個々の出品作品等について解説させていただきます。
 
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左下は「美ならざるなし」(昭和25年頃=1950頃)。光太郎が好んで揮毫した文言の一つです。直訳すれば「美しくないものは無い」。右下は「乾坤美にみつ」。こちらの方が古く、昭和14年(1939)の揮毫だそうです。「乾坤」は「天地」と同義。「美ならざるなし」と同様に、「この世の全ては美に満ちているのだ」的な意味合いでしょう。
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光太郎、文章でも「どこにでも美は存在する」的なこと繰り返しを書いています。「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」昭和4年=1929)。これは、ネット上などで光太郎の名言の一つとしてよく引用されています。が、孫引きの孫引き、伝言ゲームみたいになっており、「路傍」が「道端」になっていたり、「瓦礫」が「がれき」になっていたりと、無茶苦茶です。引用したいのならあくまで原文の通りでお願いします。

さらに「枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。」(「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」昭和18年=1943)。こちらは戦時中の文章で、この部分の直前に「整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、」とあり、きな臭い内容ですが。

同様の文言が書かれたものがもう二点。「義にして美ならざるなし」(昭和20年=1945)、「うつくしきもの満つ」(昭和15年頃=1940頃)。
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「うつくしきもの……」も光太郎が好んで書いた文言で、複数の揮毫例が確認できています。「満」を変体仮名的に片仮名の「ミ」としている例があり、山梨県富士川町に建てられた光太郎文学碑には「ミ」を採用した揮毫が彫りつけられています。
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何度も書きましたが、この「ミ」を漢字の「三」と誤読、「光太郎が讃えたこの地の三つの美しいもの――富士山、柚子、そして人々の心」などという噴飯ものの解説が為されたページもネット上に散見されます。

なぜ光太郎は「満つ」としない場合があったのか、色々考えてみました。一つはバランスの問題かな、と。どうも「満」だけ漢字だと、そこだけ画数が多くなり、美しくありません。今回出品されているものはそうなっていますが……。では、ひらがなで「みつ」とすれば誤読されることもありませんが、そうもしませんでした。これには「字母」の問題があるのでしょう。ひらがなの「み」は漢字の「美」を崩したもので、そう考えると「美しきもの美つ」となり、変じゃん、ということでひらがなの「み」は避けたのでしょう。

この「うつくしきもの満つ」は、画家・宅野田夫(でんぷ)の画に書かれた画讃です。宅野は明治28年(1895)、福岡県の生まれ。本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事したのち、田口米舫に日本画を学びました。さらに大正5年(1916)、中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、呉昌碩、王一亭に南画を学んでいます。帰国後、昭和10年(1935)には大日本新聞社を興し、右翼の巨魁・頭山満らと親交を持ちました。

光太郎とは早くから親交があり、大正期の渡航に際しては「につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に」の歌を贈られています。対を為す、宅野帰朝の大正10年(1921)に贈られた短歌「これやこの田夫もやまとこひしきか支那の酒をばすててかへれる」という短歌も最近発見しました。

さらに昭和18年(1943)、新宿三越で開催された宅野の個展に寄せられた「第二『所感』」という文章も最近発見しました。

 宅野田夫君の画は進んだ。進んだといふのは唯うまくなつたといふ事ではない。筆はむろんうまくもなつた。墨はむろん深くもなつた。しかし、もつと重要なことは、画心が澄み、画境が一層あたたかくなつた事である。実にあたたかい。世には、外、巧妙にして、内、冷淡疎懶な画が多い。同君の画の珍重すべきは、外、簡の如くにして、内、密であつて、しかも些少の窮屈もなく、おのづから流露して渋滞するところのないのは特筆に値する。晴朗洞豁、無類である。同君は更に織部の研究から画法に一新生面を開かうとしてゐる。駸駸として進んでやまない其の画境は、国事に尽心してとゞまるところを知らない其の至誠の念に淵源する。彼こそはわれらの謂ふ真の画人である。

おそらく今回出品されている光太郎画賛の入った画は、この時(あるいはその前後)の個展に出品されたものではないかというのが当方の推理です。

おっと、随分道草を食いました(笑)。続いての出品物。
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心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」(昭和24年=1949)。山小屋のあった旧太田村の太田中学校に校訓的に贈った言葉です。

その前半部分を翌25年(1950)に、盛岡少年刑務所に贈りましたが、その習作と思われる書(左下)。太田中に贈った書で「いつでも」が「いつも」に変わっています。しかし結局、贈った書は「いつでも」でしたが。
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右上は昭和11年(1936)花巻市桜町に建てられた宮沢賢治「雨ニモマケズ」碑の拓本の縮小複製です。

仏典の言葉から2点。「顕真実」(昭和23年=1948)、「皆共成仏道」(同じ頃)。
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これらは習慣としていた新年の書き初めで書かれ、村人達に贈られたものです。

最後に「書についての漫談」原稿(昭和30年=1955)。
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「漫談」とある通り、評論と言うより随筆ですが、光太郎の書論が端的に表されていますし、ペン書きの文字も実に味があります。
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企画展としての出品物は以上です。こんな感じで並んでいます。
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他に、常設展示の方でも書がたくさん。
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光太郎自身、己を「書家」と意識したことはありませんでしたが、近代書道史上、他に類例がないとしながらも、石川九楊氏などはその書業を高く評価して下さっています。

書に興味のおありの方、ぜひとも足をお運び下さい。企画展会期は11月30日(土)までです。

【折々のことば・光太郎】

雪のため電燈は断線で修理の見込つかず、ランプでやつてゐます。

昭和25年(1950)2月11日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎68歳

旧太田村での光太郎の書、こうした厳しい環境の中で書かれました。

2泊3日の行程を終えて、昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻より帰って参りました。都度都度、レポートいたしましたが、書ききれなかった件等を。

10月27日(日)、「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演のため訪れた東北本線花巻駅前のなはんプラザさん。
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午後からの本番に向け、午前中に会場設営を行い、それが終わったところで館内をぶらぶら。すると、一階ロビーでこんな看板を見つけました。阿部正介氏という方の作品だそうで。
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「切り絵「昔の花巻展」」。3階の展示コーナーで開催中とのこと。光太郎が7年間の蟄居生活を送った山小屋・高村山荘もあるじゃん、というわけで、早速拝見に。
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ずらっと10点の色鮮やかな切り絵作品が並んでいました。

雪に覆われた高村山荘。
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よく見ると(よく見なくても(笑))、入口には光太郎の姿も。
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石ノ森章太郎先生の「サイボーグ009」に出てくる死の商人「ブラックゴースト」の首領・スカール(じつは自身もサイボーグで傀儡でしたが)か、と突っ込みたくなりましたが(笑)。
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キャプション。
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他にも光太郎ゆかりのスポットが。

光太郎も愛した大沢温泉さんにかつてあった建造物。
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当方手持ちの古絵葉書。
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今の山水閣さんの新しい建物がある一角だと思うのですが、これが残っていないのは残念です。

光太郎が訪れ、息女・聡子さんのピアノ演奏を聴かせてもらった旧菊池捍(まもる)邸
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光太郎にピアノ演奏を聴かせた聡子さんは、今回の対談のメインテーマ「花巻賢治子供の会」の児童劇で、劇中歌の作曲も担当していました。
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宮沢賢治がらみも。
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帰ってから調べましたところ、作者の阿部正介氏、元は市の職員であらせられたそうで、これまでも同じなはんプラザさんや市内の図書館、宮沢賢治イーハトーブセンターさんなどで作品展が繰り返し開催されていました。

花巻にはこの手の作品の題材となる建造物等がかなり現存していますし、観光推進のためにも、さらなるご活躍を期待したいところです。

ところで、このコーナーの裏側では、こんな催しも。いわずもがなですが、大谷翔平選手は花巻東高校さんのご出身ですので。
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この日は第2戦。
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意外と人がまばらでした。皆さん、ご自宅などでBSの放映をご覧になっていたのではないでしょうか。旅人の当方としてはありがたいところでした。

ちょうど9回表のヤンキースの反撃の場面で、大谷選手、山本投手を擁するドジャースは1点返され4-2、なおも2死満塁のピンチ。「うわぁ~」と思いながら観ました。しかし、最後の打者が中飛に倒れ、「よっしゃ~」。

大谷選手は走塁の際のアクシデントで負傷とのことでしたが、今日も先発出場だそうで、大事に至っていないことを祈念いたしております。

ちなみに花巻の街は、どこへいっても大谷一色。

新花巻駅(左下)。伊藤園さんの自販機(右下)。
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一泊させていただいたホテルグランシェールさんロビー。
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リンゴを買いに立ち寄った道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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肖像権の問題等もあるかもしれませんが、切り絵の阿部正介氏、大谷選手やその先輩・菊池雄星投手らの切り絵も手がけられてはいかが? などとも思いました(笑)。もっとも、すでにやられているかもしれませんが。

以上、花巻レポート補遺を終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生の足のサイズを御記憶ありて心にかけてこの短靴をお探し下さった御厚情に心をうたれました、使用中のもの既に破れはてて居りましたので此の春から早速役に立ち、まことにありがたく存じます、


昭和25年(1950)2月14日 田口弘宛書簡より 光太郎68歳

身長180センチ超と、当時としては大男だった光太郎、足のサイズも昭和5年(1930)のアンケート回答「自画像」には、「十三文半」と書いています。一文が約2.5㌢ですので、おおむね33.75㌢となります。実際にはもう少し小さかったようですが、それでも既製品ではなかなか合うものが見つけられず苦労のし通しでした。

のちに埼玉県東松山市教育長となられた故・田口弘氏。進駐軍の横流し品か何かで大きな靴を見つけ、光太郎に送って下さいました。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻に参りまして、現在、光太郎も愛した大沢温泉♨️さんにてこれを書いております。画像は昨夕の到着時ですが。
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昨日は東北本線花巻駅前のなはんプラザさんでされた「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演させていただきました。
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「花巻賢治子供の会」は、戦後の花巻で児童教育に携わっていた照井謹二郎.登久子夫妻が主宰していた児童劇団で、戦争で荒んだ子供たちに宮沢賢治の童話などを通じて豊かな情操を育てたいとするものでした。

そもそもはそれほど肩肘張ったものではなく、花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲していた光太郎の慰問から始まりましたが、光太郎らの援助や助言を糧に、地域に根付いて行きました。光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)までは、おおむね春(太田村)と秋(花巻中心街)で年2回公演し、記録に残る限り光太郎はそれらを7回観覧、毎回非常に楽しみにしていました。

光太郎が岩手を去り、さらに没してからも活動は続き、賢治作品に新たな形で息を吹き込むことに多大な貢献がありました。

−−というようなアウトライン的な内容を、まず当方が語らせていただきました。

続いて、当時実際に光太郎の前で劇を披露なさったお二人、熊谷光さん、高橋則子さんによる「雪渡り」朗読劇上演。
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さらに地元のラジオで光太郎作品等の朗読もなさっている高橋さんは、光太郎詩「山からの贈り物」(昭和24年=1949)もご披露くださいました。

休憩をはさみ、賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏。お母様の潤子さんが「花巻賢治子供の会」の役者さんでしたし、お祖母さまの愛子さんも照井夫妻と親しく、劇団創設に関わられました。
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こちらでも貴重なお話を伺えました。

最後に4人で登壇、さらにやはり「花巻賢治子供の会」のメンバーだった(在籍されていたのは光太郎没後)元アナウンサーの田中しのぶさんの司会で、フリートーク。熊谷さん、高橋さんに光太郎とのそれを含む当時の思い出を語って頂いたりしました。

あまり知られていないさまざまなエピソードなども紹介され、非常に良かったと思いました。

さらに会場には照井夫妻の子息にして、「花巻賢治子供の会」ではアコーディオンで劇伴音楽を担当されていた義彦氏もいらしていて(当初予定ではいらっしゃらないとのことだったのですが)、終演後にこれまた貴重なお話を伺うことができました。
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第二の故郷・花巻にはまだまだ生前の光太郎をご存知の方々がご健在。今後ともその方々の証言など掘り起こされて行って欲しいものです。

報道など為されましたらまた改めてご紹介いたします。

昨日から2泊3日の予定で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。今日がメインの目的で、東北本線花巻駅前のなはんプラザさんで開催される「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」で登壇、宮沢賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏、昭和20年代に児童劇団「花巻賢治子供の会」で光太郎に演劇を披露なさったお二人、計4名での公開対談です。

昨日、花巻入りし、あちこち廻りました。賢治にもからむ対談を控えていますので、賢治テイストにも触れておこうと、まずは新花巻駅で借りたレンタカーを東に向け、遠野市へ。賢治が「銀河鉄道の夜」の構想を得た場所の一つとされる「めがね橋」へ。橋上を走る釜石線に乗って通ったことはありましたが、下から見るのは初めてでした。
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すぐ目の前の道の駅みやもりさん。賢治関連のミニ展示などもなされていました。
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反転して西へ。いったん賢治から離れ、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。企画展「高村光太郎 書の世界」が始まっており、そちらの観覧。
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いい感じに紅葉も始まりました。
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相変わらず案内板や看板類には熊の爪とぎ痕が。くわばらくわばら(死語ですね(笑))。

さて、書を拝見。
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各出品物の細かなご紹介は帰ってからまた改めて致します。今回、これまで展示したことがないものも出ています。特に「へー」と思ったのは、戦前の書で、一時期交流が深かった画家の宅野田夫(でんぷ)の画に光太郎が賛を書いたもの。戦後にはそういう例もありましたが、戦前にもこういうものがあったかという感じでした。
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隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)へ。
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毎度のことながら光太郎遺影に手を合わせて参りました。

小屋の周りには光太郎がこよなく愛した栗。
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レンタカーを花巻市街に向けました。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったら、先月も並んでいた案山子(かかし)がパワーアップしていました。道の駅はなまき西南(愛称.賢治と光太郎の郷)さんに並んでいたものもこちらに集約されていました。
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光太郎案山子も。
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久々に桜町の賢治詩碑に詣でました。碑文の揮毫は光太郎、日本初の賢治詩碑です。
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記憶がはっきりしないのですが平成28年(2016)の賢治祭でこの碑の前に立って講話をさせていただいた時以来かな、という感じでした。

そこから見える「下の畑」も遠望。
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定宿の大沢温泉さんは土曜日は一人だと予約を受け付けておらず、駅前のグランシェール花巻さんに宿泊(今夜は大沢温泉さんですが)。
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昨年、リニューアルがなされ、やはり賢治関連のミニ展示コーナーが設けられました。名付けて「宮沢賢治探索隊本部」だそうで(笑)。

パネル展示など意外と充実していますし、面積もそこそこ確保されています。宿泊客意外にも公開しているようです。
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夕食はすぐ近くのいとう屋さんで。光太郎が花巻市街で最も多く足を運んだ食堂です。
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そして夜が明け、今朝の日の出。
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これからなはんプラザさんで会場設営です。

取り急ぎ、ぃったん終わります。

美術評論家の高階秀爾氏が亡くなりました。

共同通信さん配信記事。

美術評論家の高階秀爾さん死去 西洋美術史研究の第一人者

 日本の西洋美術史研究の第一人者で、理知的で明快な美術評論で知られた東京大名誉教授の高階秀爾(たかしな・しゅうじ)さんが17日、心不全のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀は家族で行った。お別れの会を開く予定。
 1953年東京大卒。フランスに留学し、西洋近代美術史を専攻。帰国後、国立西洋美術館勤務などを経て、79年東京大教授に就いた。退職後、国立西洋美術館や岡山県の大原美術館の館長、日本芸術院長などを歴任した。
 豊かな教養と優れた感性で、ルネサンスから近現代までの西洋美術を研究。ロングセラーとなった「名画を見る眼」や「近代絵画史」など入門書の執筆に加え、留学時代から晩年まで、新聞や雑誌の寄稿を通じて同時代の美術を精力的に批評し、美術の魅力を多くの人に伝えた。明治の洋画家高橋由一の再評価など、近代日本美術の研究でも業績を残した。
 著書に「ルネッサンスの光と闇」「ピカソ 剽窃の論理」「日本近代美術史論」など多数。2001年に設置された文化審議会の初代会長や、京都造形芸術大大学院長も務めた。
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高階氏、昭和47年(1972)発行の雑誌『ユリイカ』第4巻第8号の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」中の「共同討議 高村光太郎の世界」に、昨日もご紹介した高田博厚、当会顧問であらせられた故・北川太一先生、その盟友・吉本隆明と共にご臨席。30ページ超にわたる対談を展開されました。これで全員が鬼籍に入られてしまいましたが、今にして思うと凄い顔ぶれでした。
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今読んでも「なるほど」の連続です。

当方、一度、氏のご講演を拝聴しました。平成26年(2014)の新宿中村屋サロン美術館さん開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」。ここでも光太郎に触れて下さり、時にユーモラスに、非常にわかりやすく語られていました。もう10年経つか、という感じですが。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

この間御恵贈の見事な干柿をいただきました。此前にもハムをいただき、重ね重ねで恐縮です。干し柿の縄おもしろく、智恵子だつたら早速切抜絵にする事だらうなどと考へました。

昭和25年(1950)2月10日 真壁仁宛書簡より 光太郎68歳

ちょっと面白い形のものを見ると、すぐに創作意欲が湧いてくる、亡き智恵子もそうだったろうと、これももうおそらく造型作家の「業」のようなものですね。

毎年恒例のイベントです。衆議院選挙の関係で、当初予定から開催期間が変更となっています。

彫刻家 高田博厚展2024

期 日 : 2024年10月29日(火)~11月14日(木)
会 場 : 東松山市総合会館 埼玉県東松山市松葉町1-2-3
時 間 : 午前9時から午後5時まで
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

東松山市では、高田博厚のアトリエに残されていた彫刻作品や絵画等を2017年にご遺族から寄贈していただきました。以来、顕彰事業として展示会や講演会を毎年開催しています。今回は彫刻作品に加え、デッサンの一部を展示します。ぜひこの機会に彫刻家、高田博厚の世界をご堪能ください。
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関連行事 高田の音楽ノート

 戦前から戦後まで長くフランスで暮らした彫刻家高田博厚は音楽にも造詣が深いことで知られています。高田博厚の彫刻作品とともに、地域のゆかりの音楽家による弦楽四重奏による音楽を楽しむコンサートを実施します。

開催日時:11月9日(土曜日) 午後3時から午後4時15分まで
出演:榎本郁(ヴァイオリン)、松本聖菜(ヴァイオリン)、角田峻史(ヴィオラ)、
   石井沙和子(チェロ)
場所:総合会館4階 多目的ホール
定員:100名(申込順)
申込期間:10月4日(金曜日)から10月25日(金曜日)まで
申込方法:電話(21-1431)または以下の電子申請フォームにてお申し込みください。

高田博厚は、光太郎との交流から彫刻家を志した人物です。まだ海の物とも山の物とも判らない学生時代に高田の才能にいち早く気づき、戦前のフランス留学等の際援助を惜しまなかった光太郎の眼力には恐れ入ります。

お返しに、といっては何ですが、戦後、光太郎が歿してから帰国した高田は、10回限定で行われた「高村光太郎賞」の審査など、亡き光太郎の顕彰活動に様々な形で関わりました。

同市の元教育長、故・田口弘氏は、戦時中から光太郎と面識があり、南方から復員した戦後、花巻郊外旧太田村の光太郎を2度訪れ、その後も手紙のやりとり等を続けました。

高田と田口氏、光太郎を偲ぶ連翹忌の集いで知り合って意気投合。同市に於ける高田の個展の開催、さらに東武東上線高坂駅前から伸びる通りに高田の彫刻作品をずらっと配した高坂彫刻プロムナードの整備なども行われました。

そうした縁があって、高田の遺族から同市に高田の作品がごそっと寄贈され、それを一般公開するのが「彫刻家 高田博厚展」。平成30年(2018)からコロナ禍の年を除いて開催され続けています。

昨年一昨年は市民文化センターさんで開催。地元の高校生などによる光太郎、田口氏関連の展示も充実していました。今年はコロナ禍前の会場だった総合会館さんに戻っての開催。光太郎、田口氏にどの程度触れられるか、というところですが、一応拝見に伺います。

皆さまも是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生盛岡の少年刑務所で七百人の少年達に話をしました。


昭和25年(1950)2月8日 野末亀治宛書簡より 光太郎68歳

昨日のこの項でも触れましたが、1月13日から22日にかけ、盛岡、さらに郊外の西山村を歴訪し、盛岡では様々な会場で7回講演を行いました。そのうちの1ヶ所、盛岡少年刑務所さんではそれを記念して現在でも年に一度「高村光太郎祭」を開催して下さっています。当方も一度招かれ、受刑者さん達を前に講演をさせていただきました。

上記東松山市の高田博厚とのそれもそうですが、こうした奇縁というのは大切にしていきたいものですね。

一昨日、光太郎終焉の地・中野の「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合に出席するために上京しておりました。来月10日(日)開幕の「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」(無料)の最終確認など。あまり宣伝が為されていないようで、初日に開催予定の関連行事としての渡辺えりさんと当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」(無料)など、まだ予約定員に達していないとのこと。ぜひお申し込み下さい。

それはそうと、そちらの会合に行く前に、竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さんに立ち寄りました。こちらでは企画展「ハニワと土偶の近代」が開催中。
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光太郎がらみの展示もあるという情報を得まして、参じました。

MOMATさん、攻めてるな、という感想でした。何が、というと、ある意味およそ美術館らしからぬ展示構成だったためです。しかし、非常に興味深く拝見しました。

「ハニワと土偶」と謳いつつ、埴輪や土偶そのものにスポットを当てるのではなく、近代美術史・社会史の中で埴輪や土偶がどのように受容されていったのか、その変遷史といった趣でした。そこで美術作品そのものよりも、史料類の展示が多く、その意味で「ある意味およそ美術館らしからぬ」と感じた次第です。

特に興味深かったのが、満州事変から太平洋戦争終戦に到る15年戦争時。
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「武人埴輪」=「大王を警護する武人を象(かたど)ったもの」。そこで、近代の「皇軍兵士」へと類推が働き、さまざまな美術作品や工芸品、書籍類の表紙その他に埴輪や古墳時代の武人の姿などが「国威発揚」「戦意高揚」といった使命を担わされ、多用されるようになっていったとのこと。
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下は光太郎とも交流のあった中村直人(なおんど)の「草薙剣」(昭和16年=1941)。
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こうした流れの中で、光太郎も埴輪について言及していました。昭和17年(1942)7月から12月にかけ、雑誌『婦人公論』に連載された「美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)中の「埴輪の美」という項です。
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 埴輪といふのは上代古墳の周辺に輪のやうに並べ立てた素焼の人物鳥獣其の他の造型物であつて、今日はかなり多数に遺品が発掘されてゐる。これはわれわれの持つ文化に直接つながる美の源泉の一つであつて、同じ出土品でも所謂縄文式の土偶や土面のやうな、異種を感じさせるものではない。縄文式のものの持つ形式的に繁縟な、暗い、陰鬱な表現とはまるで違つて、われわれの祖先が作つた埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸であり、直接自然から汲み取つた美への満足があり、いかにも清らかである。そこには野蛮蒙昧な民族によく見かける怪奇異様への崇拝がない。所謂グロテスクの不健康な惑溺がない。天真らんまんな、大づかみの美が、日常性の健康さを以て表現されてゐる。此の清らかさは上代の禊の行事と相通ずる日本美の源泉の一つのあらはれであつて、これがわれわれ民族の審美と倫理との上に他民族に見られない強力な枢軸を成して、綿々として古今の歴史と風俗とを貫いて生きてゐる。此の明るく清らかな美の感覚はやがて人類一般にもあまねく感得せられねばならないものであり、日本が未来に於て世界に与へ世界に加へ得る美の大源泉の一特質である。此の「鷹匠埴輪」の無邪気さと、やさしい強さと、清らかさとはよく此の特質を示してゐる。美の健康性がここに在る。

掲載誌の『婦人公論』が展示されていました。
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また、遡って昭和11年(1936)には、野間清六の著書『埴輪美』の序文も光太郎が書いています。

 日本に遺つてゐる造型芸術の中で、埴輪ほど今日のわれらにとつて親しさを感じさせるものはない。埴輪ほど表現に民族の直接性を持つてゐるものはない。それはまるで昨日作られたもののやうである。その面貌は大陸や南方で戦つてゐるわれらの兵士の面貌と少しも変つてゐない。その表情の明るさ、単純素朴さ、清らかさ。これらの美は大和民族を貫いて永久に其の健康性を保有せしめ、決して民族の廃頽を来さしめないところの重要因子である。世界の歴史に見る過剰文化による民族滅亡の悲劇が日本に起り得ないのは、国体の尊厳に基く事はもとよりであるが、又此の重要因子の作用するところも大きいのである。
 古代も今も同じ清浄の美を見よ。今後の世界の美の源泉の一つとして埴輪の持つ意味は深い。これを未来に生かし得る者は当面世界文化の廃頽爛熟を匡正し得るであらう。造型芸術の基本たるものが此此処にある。


そういうわけで、ここのパートのキャプションには光太郎が大きく紹介されていました。
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黒歴史ですね。引用のため入力していて痛ましい気持になりました。

ただし、光太郎、このように文筆では戦争推進に多大な役割を果たしましたが、造型の部分では戦意高揚のための作品(いわゆる「爆弾三勇士の像」のような)を作りませんでした。そこに光太郎の良心の残滓が認められますが、それでも「ペンは剣よりも強し」。「言葉」として印刷され、刊行され、全国や植民地にまであまねく届けられた光太郎の言葉を読んで奮い立ち、死地に赴いた数多くの前途有為な若者達がいたことは忘れてはいけません。「綸言汗の如し」です。

さて、戦後。
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墨塗りの教科書まで展示されていました。

埴輪を皇軍兵士に重ね合わせるという事態は無くなりましたが、光太郎が提唱した「清浄な美」としての埴輪の美しさは、形を変えて生かされ続けます。

やはり光太郎と交流のあった佐藤忠良や猪熊弦一郎の作品。
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光太郎の前に中西利雄アトリエを借りていたイサム・ノグチも。
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古墳時代の埴輪そのものの展示もありました。
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再び光太郎。盟友の武者小路実篤を評した最晩年の「埴輪の美と武者小路氏」(昭和30年=1955)関係。武者が「縄文土器を愛するあまり調布に移住した」というのは存じませんでした。たしかに武者の作品には古代に通じるプリミティブな部分が感じられますね。
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戦後、考古学の飛躍的進展により、また、皇国史観からの解放といった追い風もあって、縄文時代の研究が進みます。そんな中で埴輪より古い土偶にもスポットが当たるようになりました。

ただ、今回、土偶に関する展示は少なかった印象でした。右下は光太郎の同級生だった岡本一平の子息・岡本太郎。
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現代になっても、埴輪は日本人の心を掴み続け……というわけで、サブカルチャーにも着目。映画「大魔神」や、水木しげる氏、石ノ森章太郎氏、諸星大二郎氏らのコミックまで。このあたりも「攻めてる」感が半端ないと思いました。
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出口付近にはNHKさんの「おーい!はに丸」も。お約束と言えばお約束ですが(笑)。
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企画展示拝観後、常設展示的な「MOMATコレクション」展へ。光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)がよく出ているのですが、現在はお休み中でした。

「おっ!」と思ったのが、中西利雄。光太郎の終の棲家となったアトリエを建てた人物ですが、アトリエ竣工直前に急逝し、没後、遺族が貸しアトリエとして運用、イサム・ノグチや光太郎が借りたわけです。
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光太郎実弟にして人間国宝だった豊周の鋳金作品も3点出ていまして、久しぶりに豊周作品を目にしました。ただし、撮影禁止でしたのでキャプションのみ画像を載せます。

さて、「ハニワと土偶の近代」、12月22日(日)迄の開催です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

出かける日は風速十五―二十米突といふ吹雪を冒しての行進だつたのですが、二人迎へに来て荷を持つてくれたので助かりました。帰る日も若い人三人で小屋まで送つてきてくれました、盛岡から二ツ堰までは刑務所の自働車が運んでくれました、西山村では一理余の雪原を馬橇にのりました、


昭和25年(1950)2月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

1月13日から22日にかけ、盛岡、さらに郊外の西山村を歴訪しました。盛岡では県立美術工芸学校婦人之友生活学校少年刑務所などで7回講演。西山村では、深沢省三・紅子夫妻の子息にして戦時中に詩「四人の学生」のモデルとなった故・深沢竜一氏宅に滞在、好物の牛乳を一升も飲んだそうです(笑)。

今日も演奏会情報。若干先の話になりますが、一昨日、昨日も同様の情報でしたので、流れを考え、早めにご紹介します。

まず、智恵子のソウルマウンテン・安達太良山を望む福島県郡山市から。ただ、入場無料・整理券配付というシステムで、既に1ヶ月前に申し込みが終わっています。こういった場合、いつも書いていますが、それでもキャンセル等があるかもしれませんし、記録のためにもご紹介しておきます。

郡山市市制施行100周年記念式典音楽祭

期 日 : 2024年11月3日(日・祝)
会 場 : けんしん郡山文化センター 福島県郡山市堤下町1番2号
時 間 : 第一部(合唱)11:00~ 第二部(交響楽)15:30~
料 金 : 無料

市制施行100周年を記念した音楽祭を開催します。

(1)合唱コンサート(11時開演)
 ♪出演者♪
  指揮:佐藤守廣
  ソリスト:渡邊仁美(ソプラノ)、藤田彩歌(メゾソプラノ)、
       小原啓楼(テノール)、初鹿野 剛(バリトン)
  100周年メモリアルオーケストラ・合唱団
 ♪曲目♪
  「Believe」 作詞・作曲:杉本竜一
  「群青」 作曲:小田美樹 編曲:信長貴富
  カンタータ「土の歌」より「大地讃頌」 作詞:大木惇夫 作曲:佐藤眞 
  「キセキ」 作詞・作曲:GReeeeN
  市制施行100周年記念楽曲「ゼロ年目からのバインダー」 作詞・作曲:GRe4N BOYZ
  「安積野」 作詞:倉木文緒 作曲:須田くにお
  交響曲第9番「合唱付き」より第4楽章 作曲:ベートーヴェン 

(2)オーケストラコンサート(15時30分開演)
 ♪出演者♪
  指揮:本名徹次 ソリスト:初鹿野 剛(バリトン) 100周年メモリアルオーケストラ
 ♪曲目♪
  交響曲第6番「田園」より第1楽章 作曲:ベートーヴェン 
  あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による
   作詞:高村光太郎 作曲:湯浅譲二
  交響詩「ローマの松」より  作曲:レスピーギ
   「ボルゲーゼ荘の松」「カタコンバ付近の松」「ジャニコロの松」「アッピア街道の松」
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郡山ご出身で、今年8月に亡くなった作曲家・湯浅譲二氏の「あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による」がプログラムに入っています。平成28年(2016)、市政90周年を祈念しての委嘱作品でした。

続いては合唱で、広島から。

広島中央合唱団 Autmun Concert~Can't wait for Christmas~

期 日 : 2024年11月4日(月・振休)
会 場 : 日本キリスト教団 広島流川教会  広島市中区上幟町8-30
時 間 : 14:00~15:00 
料 金 : 無料

指揮:寺沢希  ピアノ:梶矢民子  ソプラノソロ:昆野智佳子/山口水蛍

広島流川教会(中区上幟町)礼拝堂をお借りし、”Christmasを待ちきれない⭐広島中央合唱団“ から、ミニコンサートをお送りします。大好きな教会で、いつもと違うJazzy なCarol などをお楽しみいただきたいと思います。14時開演、入場無料です。ぜひお立ち寄り下さい。

演奏曲目

 Ⅰ.Jazz Missa Brevis Will Todd作曲
 Ⅱ.混声合唱曲 レモン哀歌 高村光太郎作詞 鈴木憲夫作曲
 Ⅲ.3つのジャズ・キャロル
    Away in a manger Once in royal David's city Silent night
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鈴木憲夫氏作曲の混声合唱曲「レモン哀歌」。組曲の一つというわけではなく、単体の作品です。女声版が最初に作曲され、平成23年(2011)にカワイ楽譜さんから出版されています。続いて独唱版と混声版が翌年に刊行されました。
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8分弱の長めの曲で、最初から最後まで奇を衒わずゆったりと清澄な響きで展開し、メロディーラインの美しい曲です。

ラストは独唱歌曲。都内での開催です。

サウンド・ランドスケープ Vol.4~現代音楽の今~

期 日 : 2024年11月5日(火)
会 場 : 豊洲シビックセンターホール 東京都江東区豊洲2-2-18
時 間 : 19:00~
料 金 : 全席自由 2,800円

プログラム(演奏順ではありません)
 城代悠子 渡り鳥 〜フルート・ピアノ〜 <初演>
  フルート:陣内幸恵 ピアノ:赤司美苗
 黒田昭 チェロとピアノのための作品より〜Vol.2 <初演>
  チェロ:中村浩太郎 ピアノ:樋口真千子
 DAKOKU ソプラノとピアノの為のヴォカリーズ ・舞魚 ・再会
  ソプラノ:MAKI ピアノ:DAKOKU 
 佐倉圭史 アマデウスは生きている—ピアノ連弾(1台4手)のための— <初演>
  ピアノ:首藤那咲 ピアノ:中矢美里
 服部和彦 
  たまゆり 〜ソプラノとピアノのために~ ソプラノ:笠井真由美 ピアノ:澤田尚美
  水の色彩~ピアノのために~ ピアノ:澤田尚美
 岩井奈美<メゾ・ソプラノ> 
  別宮貞雄:「智恵子抄」より 僕等 あどけない話 千鳥と遊ぶ智恵子 レモン哀歌
  なかにしあかね:ケヤキ 小鳥たち 沈丁花によせて 歌が生まれる
   ピアノ:尾崎克典
 古荘達郎<テノール>
  P.チマーラ:郷愁 Nostalgia  R.ザンドナイ:みみずく~六つのメロディーエより~
  中田喜直:木兎(みみずく)  團伊玖磨:旅上 はる
   ピアノ:高橋ドレミ
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昨日ご紹介した「関西歌曲研究会 日本歌曲の流れ 第101回演奏会 シリーズ 詩人 ~うたびと~vol.1 詩(うた)はどこから来た?」でも取り上げられる故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」から4曲。「僕等」「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」そして「レモン哀歌」。

一昨日は朗読を伴う演奏会情報をお届けしましたが、こちらで把握しているもの、これで計7件ご紹介しました。まだあるかもしれません。曲名だけ告知されていて「作詞:高村光太郎」という記述がなかったりすると、なかなか気づけません。

内容等によりけりですが、お知らせいただければ、出来る限りご紹介いたしますので、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

捺印の薄いのもありますが、それは〇下二十度の頃捺したもので、どうしても印肉がのらないでやむを得ませんでした。萬年筆は破裂しました。


昭和25年(1950)1月24日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の厳寒期。水分は凍結すると膨張しますので、万年筆が破裂、朱肉も凍結して息でも吹きかけながら捺印したのでしょうか。昔の書籍の奥付に貼られていた検印紙に関わります。つくづく凄まじい生活でした。

芸術の秋、ということなのでしょう。毎年のことですが、この時期は各種イベントが目白押しです。

今月末から来月頭にかけ全国で行われる演奏会等でも、光太郎智恵子にからむものを、昨日ご紹介した2件以外に5件ばかり把握しております。

さすがに5件一気にというわけには行きませんので、分割して。

まずは兵庫県西宮市から。

関西歌曲研究会 日本歌曲の流れ 第101回演奏会 シリーズ 詩人 ~うたびと~vol.1 詩(うた)はどこから来た?

期 日 : 2024年10月24日(木)
会 場 : 兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホール 兵庫県西宮市高松町2-22
時 間 : 18:30~
料 金 : 全席自由 3,000円

出演・曲目(五十音順)
 声楽
  青木耕平  レモン哀歌  詩:高村光太郎 曲:別宮貞雄
  大岡美佐  はなのいろは    歌:小野小町 曲:山田耕筰
  尾崎比佐子 椰子の実   詩:島崎藤村 曲:大中寅二
  木寺聖子  日本の雨の歌 歌:詠み人知らず 曲:マルクス
  総毛創   秋の眸    詩:竹久夢二 曲:松下倫二
  松井るみ  「3つの日本の抒情詩」より 
歌:山部赤人/源当純 曲:ストラヴィンスキー
  矢野文香  もう一度の春 詩:ロセッティ 曲:木下牧子
  山本久代  花のゆくえ  詩:竹久夢二 曲:木下牧子
  吉岡仁美  ひさかたの  歌:紀友則 曲:伊能美智子
  吉永裕恵  わすれな草  詩:竹久夢二 曲:藤井清水   
 ピアノ
  丸山耕路

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昭和57年(1982)、故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」から「レモン哀歌」がプログラムに入っています。別宮氏の「歌曲集 智恵子抄」、息が長いというか、また最近になってけっこう取り上げられるようになった感があります。

もう1件、こちらは大阪から。

第15回サンセットファミリーコンサート 海辺の音楽会~あなたに贈る歌~

期 日 : 2024年10月27日(日)
会 場 : ATC海辺のステージ 大阪市住之江区南港北2丁目1-10
時 間 : 15:00~16:30
料 金 : 無料

◆プログラム◆
【第1部】相愛大学音楽学部 コーラスグループ「Lilla」によるステージ
 ・アラン・メンケン/映画「リトル・マーメイド」より"アンダー・ザ・シー"
 ・コブクロ/この地球の続きを
 ・ゴダイゴ/銀河鉄道999
 ・ミマス/COSMOS
 ・夏の歌・秋の歌メドレー
  「茶摘み~夏は来ぬ~我は海の子~旅愁~故郷の空~夕焼け小焼け」
 ・クロード=ミッシェル・シェーンベルク/ミュージカル「レ・ミゼラブル」より"民衆の歌"
  ほか
【第2部】相愛大学大学院音楽研究科生、音楽専攻科生による独唱
 ・A.ドヴォルザーク/歌劇《ルサルカ》より"月に寄せる歌"
 ・蒔田尚昊/高村光太郎 詩《智恵子抄》より「あどけない話」
 ・小林秀雄/日記帳
 ・G.F.ヘンデル/《イタリア語のデュエット集》より"夜明けに微笑むあの花を"HWV 192
 ・W.A.モーツァルト/アヴェ・ヴェルム・コルプス
  ほか
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蒔田尚昊氏作曲の歌曲集『智恵子抄』から「あどけない話」が取り上げられます。

ご出演の皆さんが相愛大学さんのご関係の方々。相愛大学さんといえば今年8月に大学近くの本願寺津村別院(北御堂)さんで開催された「北御堂コンサートvol.255〜ロマンの饗宴〜」でも、同曲が演奏されました。

その際に歌われた永山玲奈さんという方、今回のフライヤーにもお名前があり、その方の歌唱なのでしょう。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おてがみやポスターなどいただきました、智恵子の切り抜き絵につき大変皆様のお世話さまになります事恐縮至極です、智恵子もあの頃、盛岡でこれらの作品が人々の目に触れやうとは思ひもかけなかつた事でせう、不思議な因縁だと思ひます、
昭和25年(1950)1月10日 黒須忠宛書簡より 光太郎68歳

前年の山形での開催に続き、この年は4月に盛岡の川徳画廊、5月には花巻の寿デパートで智恵子の紙絵の展覧会が開催されました。

盛岡展に関しては、黒須が勤務していた新岩手日報社の肝煎りでした。

光太郎詩の朗読がプログラムに組み込まれている演奏会情報を2件。

まずは演奏会と言うよりインスタレーションの一部ですが。

余白露光 テルミンと民族楽器のライブ演奏

期 日 : 2024年10月26日(土)
会 場 : 旧逗子高等学校武道場 神奈川県逗子市池子4丁目1025
時 間 : 14:00〜15:00
料 金 : 無料

出 演 : テルミン(大西ようこ) 民族楽器(杵淵三朗)
      朗読(聖和学院中学校・髙等学校 美術部)

 切絵、映像、音楽のインスタレーション展示。
 旧逗子高等学校の武道場という広い空間に、逗子の学校の生徒さんとの共同製作の切り絵を含めて立体的に作品を配置、逗子市の風景をつなげた映像を投影します。切り絵を抜けた光は映像につれて時々刻々と変化し、来場者が光の中を歩いて中央に設置されたテルミンに近づくと、テルミンが発する音が変化します。
 昨年の逗子アートフェスティバルの参加型インスタレーション企画「余白の自然」において、別アーティストによって制作されたオブジェも一部、コラボレーション展示される予定です。
各日14時より日替わりで専門家によるテルミン演奏あり。
 最終日26日には、14時より、テルミンと民族楽器のライブを行います。
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以前にもちらっとご紹介した「余白露光~境界剪画(切絵)、映像、音楽のインスタレーション」の一環で、展示自体は10月12日(土)から始まっています。電子楽器・テルミンを展示に組み込んだり、テルミン奏者の方々の演奏が為されたりしています。

で、最終10月26日(土)に、切り絵も担当された地元の聖和学院中学校・高等学校美術部の生徒さんによる詩の朗読に乗せ、テルミン奏者・大西ようこさんの演奏。詩は「ウクライナの子守唄 夢は窓辺を過ぎて」、峠三吉「原爆詩集」より、そして「智恵子抄」から「風にのる智恵子」だそうです。

大西さん、10月19日(土)にも演奏をなさったそうですが、その際には箏曲奏者の元井美智子さんとのコラボで、先月、やはり逗子で開催された「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」に組み込まれていた「智恵子抄」の演奏もされたとのこと。急遽決まったようで、こちらでは事前に告知できませんでしたが。


今度は中高生の朗読。聖和学院中学校・高等学校美術部の生徒さんたち、期間中にこれまでも他の演奏者の方々と朗読のコラボをなさったそうです。そして26日(土)が千秋楽。

ぜひ足をお運びください。

もう1件、京都から。

文星堂 定期演奏会 秋の音楽会

期 日 : 2024年10月27日(日)
会 場 : 文星堂 京都市伏見区醍醐下山口町1
時 間 : 13:30~
料 金 : 無料

10/27秋の音楽会(入場無料)今回の朗読担当は京ふさこさんです!

朗読  智恵子抄より「樹下の二人」
歌 「サンタルチア」     「荒城の月」     「私の愛の日々」など
演奏  バッハ 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043

朗読:京ふさこ  歌:吉岡誠 喜多村澄映  ヴァイオリン:細辻都美子 堀井明子
ピアノ:出野奈穂子 細辻都美子 池田彩乃 吉岡亮
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コンサート専用ブースではなく、あくまでも、本屋と古物のお店です。お客様には、お詰め合わせのうえ、お座りいただくことをご了承いただきご参加くださいませ。しかしながら、そのおかげか、お客様と演奏者との距離が近く、間近で迫力ある音をお楽しみいただけますよ^^」だそうです。

きちんとしたホールでの演奏会ももちろんですが、こうしたアットホームなそれもいいものです。

こちらもぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

亡妻智恵子の思出を書きましても、それは「妻」といふやうな一つの典型を成す事は出来ない気がいたします、相互の愛こそありましたが、智恵子は御承知の通りの病疾者でありましたし、又決して普通にいふ妻の資格を備へてゐる女性でもなかつたのでありました。


昭和25年(1950)1月11日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

松下が務めていた中央公論社で、「母」「妻」といったテーマごとのアンソロジーのシリーズを企画、「妻」の巻に智恵子の思い出を書き下ろして欲しい、というような依頼があったようで、それへの返答です。

戦前には「智恵子の半生」という長い随筆を書き、『智恵子抄』にも収められましたが、その際は自分の中で智恵子との日々を総括するといった意味がありました。今、この時期に改めて、という気にはならなかったのでしょうし、「智恵子の半生」でも語ったように、自分たち夫婦のケースはあまりに特殊で、一般の人々の普遍的な参考にはしがたい、という考えもあったのでしょう。

たまたま偶然でしょうが、昨日、東北の地方紙二紙の一面コラムで光太郎が取り上げられました。

まずは『秋田魁新報』さん。

北斗星

2人の女性が向き合う姿で知られる十和田湖畔の「乙女の像」だが、作者の高村光太郎は当初1人だけの像を考えていたという。湖や森を思い浮かべながら構想を練るうち、同じ像を二つ並べるアイデアが浮かんだ。例のない像だったが、現地で見れば周囲と調和していると分かると語っている(「高村光太郎全集11」より)▼「地上に割れてくづれるまで/この原始林の圧力に堪へて/立つなら幾千年でも黙って立ってろ」。像に寄せた詩からは、この場所にふさわしいものを作ったという自負が伝わってくるようだ▼乙女の像が建立されて約70年、十和田湖周辺は変わり続けた。観光客が増え、ホテルや観光施設ができた。しかしバブル崩壊や東日本大震災で客足は減少。ここ十数年は、像がある休屋地区などでホテルや店舗の廃屋が目に付くようになっていた▼先日、久々に乙女の像を訪れると、対岸に新しい建物があるのが見えた。小坂町などが整備した道の駅だ。「十和田湖開発の父」とされる和井内貞行と妻カツが寄り添う銅像もあり、特産のヒメマスをPRしている▼国は十和田湖などの国立公園に、訪日外国人らを呼び込む事業に力を入れている。道の駅もその一環。廃屋も徐々に撤去されて、新たな宿泊施設の誘致に向けて地元で協議が始まった▼再び変わり始めた十和田湖。期待もあるが、オーバーツーリズムなどの不安もよぎる。観光地と国立公園。開発と保全。さて、どんな調和を目指すべきか。

十和田湖は秋田県と青森県にまたがり、光太郎最後の大作「乙女の像」は青森県側の十和田市休屋地区に存在します。
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指摘されている通り、周辺にはかつてホテルや土産物店、飲食店だった建物の廃屋が目立ちます。地元で自嘲的に「ゴーストタウン」と称されることも。残念です。

そんな中、これもコラム中にありますが、秋田県側の小坂町に新たに「道の駅「十和田湖」」がオープンしました。今月12日のことでした。

NHKさんのローカルニュース。

小坂町に道の駅「十和田湖」オープン 観光客でにぎわう

 12日、小坂町に道の駅「十和田湖」がオープンし、十和田湖観光に訪れた大勢の人たちでにぎわいました。
 道の駅「十和田湖」は、小坂町の新たな観光拠点として十和田湖の南側の湖畔に整備されました。
 建物は湖が見渡せる高台にあり、施設の中には、十和田湖の成り立ちや名産のヒメマスの養殖の歴史、それに小坂町の観光名所などがわかりやすく展示されています。
 また、ワインや蜂蜜といった町の特産品や隣接する鹿角市のりんごやぶどうを販売するコーナーも設けられています。
 オープン初日となった12日は好天にも恵まれたこともあり、周辺の道路が一時渋滞するほどで、訪れた大勢の人たちは展示コーナーを見学したり、施設から望む十和田湖の写真を撮ったりして楽しんでいました。
 岩手県の40代の男性は「きれいでとてもいい施設ですね。これから奥入瀬渓流など十和田観光を楽しみたいです」と話していました。
 道の駅は、去年10月にオープンする予定でしたが、特別名勝などに指定されている十和田湖での工事には文化庁の許可が必要で、その申請に向けた事務手続きが行われていなかったため、駐車場の工事が遅れ、オープンが延期されていました。
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観光の新たな拠点となることを期待いたします。

続いて『岩手日日』さん。

日日草

「沈深牛の如(ごと)し」。詩人で彫刻家の高村光太郎は詩「岩手の人」の中で、県人を寡黙で辛抱強く、思慮深い牛のようだと評した。牛は昔から岩手の人々にとって馬と同様に極めて身近な存在だった▼そんな牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展。肉牛や乳製品のほか、農耕や運搬に使う役牛として人々の暮らしを支えた歴史、文化などを豊富な資料で紹介した▼江戸時代に沿岸部の産物を内陸に運んだルートを「塩の道」と呼び、重い荷を背に北上高地を越えるには馬より足腰の強い牛が適していたこと。途中、歌われたのが「南部牛追唄」で、隊列の先頭に立つ最強の雄牛を決めるため闘牛大会があったことなどを展示で知った▼開催中、牛を通年で山に放牧する山地酪農に挑み続ける田野畑村の酪農家を24年間追ったドキュメンタリー映画も上映。豊かな自然の中で厳しい現実に向き合いながら希望を持って暮らす大家族の日常が丹念に描かれていて引き込まれた▼日本短角種の産地、久慈市は闘牛の素牛を全国に供給する。東北で唯一の闘牛大会が年4回あり、今年最後の「もみじ場所」があす開かれる。普段は目にすることのない迫力ある闘牛を間近に見れば、牛へのイメージが変わるかもしれない。

008牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展」は、「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」。タイトルからして光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)由来でした。

会期中の6月に花巻に行きましたので、その際に盛岡まで足を延ばせば良かったのですが、失念しておりました。直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに「岩手の人」が紹介されていた程度のようでしたが、今になって後悔しております。

同様に直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに光太郎の文章が引用されているという企画展示が都内で開催中という情報を得まして、明後日、また上京する用事がありますから廻ってきます。

【折々のことば・光太郎】

雪の上の足あとウサギ キツネ一列なり


昭和25年(1950)1月11日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳
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便箋(というかおそらく原稿用紙)の余白に描いたスケッチから。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺でのものですね。

松下は中央公論社の編集者。

同じ日に、美術史家の奥平英雄の妻・ちゑ子に贈った書簡にはさらに詳しいキャプション入りのスケッチが描かれていました。
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まずは状況をわかりやすくするために地方紙『岩手日日』さん報道から。

お気に入り求めどっと 東和・土澤アートクラフトフェア 商店街に活気 光太郎作品基にレモンケーキ 花巻南高家庭クラブ提供

 県内外のものづくり作家らが集う「土澤アートクラフトフェア2024秋」(実行委主催)は13日、花巻市東和町の土沢商店街、萬鉄五郎記念美術館前を会場に2日間の日程で始まった。好天の下にクラフトやグルメなど約380店が軒を連ね、大勢の来場者で初日から活況を呈した。
 歩行者天国となった会場には、木工品や革製品、似顔絵、手作り雑貨、楽器、衣類、陶芸、釣り具、ペット用品など多種多様のブースが並び、訪れた人が店主と会話を弾ませながらお気に入り商品を買い求めた。
 飲食の出店や食材・菓子などの販売ブースも並び、フードコートで昼食を取る家族連れの姿も。沿岸ならではの海の幸や地元特産品などが人気を集めていた。
 彫金の宝飾などを製造するアトリエKAZU(東京都)の高田和彦さん(77)は、オリジナルの指輪やネックレスのほか、さまざまな職業の商売道具をモチーフとする「IKIGAIシリーズ」のペンダントトップなどを販売。「何度も出店しているが、今年は天気が良く、特に人出が多いと感じる。みんなおしゃれをして集まっており、雰囲気が良いのものこイベントの魅力だ」と語った。
 10回以上訪れているという盛岡市の齊藤直美さん(55)は「県外の作家に出会えるチャンスは、岩手では貴重。例年通り、良いものがそろっている。帽子やアクセサリーが欲しくて見に来た。幅広い年齢の人たちが遊びに来ているのが素晴らしい」と話していた。
 県立花巻南高校家庭クラブは13日、花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の「レモン哀歌」を基に製造した「レモンのパウンドケーキ」を土澤アートクラフトフェアで提供した。
 同クラブは、光太郎について調査・研究する団体と交流したり、顕彰イベントに参加したりして先人への学びを深めている。
 ケーキは、表面を覆うアイシングや生地にレモン汁を加えており、中までレモンの風味を感じられる。光太郎の顕彰活動に取り組む「やつかの森合同会社」(藤原正代表)が、同フェアに合わせて土沢商店街のワンデイシェフの大食堂で販売する「こたろう弁当」(1200円)を購入した人に100個限定でプレゼントした。
 レモンの果肉、皮を使うと食感や苦味が残るため、レモン汁だけで酸味や爽やかさを表現したといい、同日は東和町出身の1年生2人が接客。菅原美優さんは「光太郎さんのことはよく知らなかったが、勉強する中ですごい人が花巻にいたんだと感じた」、小原優羽奈さんは「自分たちの世代や、さらに下の小中学生にも光太郎さん、智恵子さんのことを知ってほしい。レモンケーキがそのきっかけになれば」と話していた。
 光太郎が秋の花巻でおいしさを再認識したというキノコやクリ、リンゴなどを使った同弁当は14日も数量限定で販売するが、パウンドケーキは提供されない。

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こちらが問題の(特に問題はありませんが(笑)))パウンドケーキ。
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ラッピングなど、高校生の手作りのレベルを超えていますね。もちろんお味もよろしかったようで。
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家庭クラブのお二人、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の際に発表のあった智恵子のエプロンの再現にも関わられました。こういう若い世代が関心を持って下さるのは実に有り難いところです。

やつかの森LLCさんが手がけた「こうたろう弁当」はこちら。やつかの森さんのメニュー構成は光太郎が実際に作った料理の現代風アレンジや、光太郎が使った食材の使用など、常に光太郎がらみです。
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2日間でそれぞれ異なるメニューで販売されたそうです。
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14日こうたろう弁当メニュー
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これも素晴らしいと思いました。

さらにやつかの森さんがメニュー考案に協力され、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のテナント「ミレットキッチンフラワー」さんで毎月15日に販売されている弁当「光太郎ランチ」の今月分。
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道の駅2
生野菜系が苦手な当方としては、今月のメニューはナイスだと感じました。これなら毎日食べてもいいかな、と(笑)。

何度も引用していますが、光太郎、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」で「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。この背後には、野菜類の自給自足、山林での食材採集に余念がなかった光太郎ならではの信念が込められています。

その信念を受け継ぎ、花巻南高校家庭クラブさん、やつかの森さんがさらなるご活躍をなさることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ローマイヤアの店が又出来たと見えます、お贈りのハムはすばらしい事でせう。

昭和25年(1950)1月11日 中原綾子宛書簡より光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の光太郎、東京の友人知己達から食材を贈られることも多く、それでかなり助かっていました。特に好物なのに自給できない肉類などはことのほか有り難く感じていたようです。

「ローマイヤア」は現代でも続く「ローマイヤ」さんですね。光太郎、おそらく戦前に銀座のレストラン部門、あるいは商品を卸していた上野の精養軒さんあたりで舌鼓を打っていたのでは、と思われます。

昭和23年(1948)に結成され、光太郎が名付け親となった「花巻賢治子供の会」という児童劇団がありました。主に宮沢賢治の童話を劇化、第一回の公演は光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の山小屋前で行われ、その後しばらく、春には旧太田村、秋には花巻町中心街での公演というスパンで続きました。光太郎が花巻を離れた後も活動は続き、平成9年(1997)までに公演回数は160回を超えたそうです。

その「花巻賢治子供の会」で実際に光太郎の前で演技をなさった当時のお子さん、お母さまが「花巻賢治子供の会」のメンバーだった宮沢和樹氏(賢治実弟・清六令孫)、そして当方でのトークショーです。

令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」

期 日 : 2024年10月27日(日)
会 場 : なはんプラザCOMZ ホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号 
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた花巻賢治子供の会の会員より当時の活動の思い出をうかがい、光太郎の想いや賢治とのかかわりを学びます。

講 師 : 宮沢和樹  株式会社林風舎代表取締役
      熊谷 光  花巻賢治子供の会元会員
      高橋則子  花巻賢治子供の会元会員
      小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
司 会 : 田中しのぶ 花巻賢治子供の会元会員
チラシ表
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「花巻賢治子供の会」。主宰していたのは、花巻農学校での賢治の教え子の故・照井謹二郎氏と奥様の登久子氏。お二人とも小学校教諭、退職後は花巻で幼稚園経営をなさっていました。戦前から近所の子供達を集め、賢治の詩や童話の読み聞かせ、朗読の指導などを行っていました。戦後になり、戦争は終わったにも関わらず、戦争ごっこを続けている子供達の姿に愕然とし「これではいけない」と活動を再開したとのこと。

その頃、賢治実弟・清六の妻、愛子に「一緒に光太郎先生の山小屋に行こう」と誘われた登久子氏(戦時中から光太郎と面識はありました)、「何の手土産も用意できないから……」といったんは断ったものの、子供達の演劇を披露して娯楽の少ない山村暮らしの光太郎を慰問しようと思い立ったとのこと。そして昭和22年(1947)の6月に、旧太田村の光太郎の山小屋前で第一回公演を打ちました。

以後、記録に残る限り、太田村と花巻町中心街で光太郎は7回公演を観ています。光太郎が観た演目で把握できている賢治作品は「雪渡り」「カイロ団長」「どんぐりと山猫」「雁の童子」「風の又三郎」「狼森と笊森、盗森」「かしわ林の夜」。他にオリジナルの劇もあったようです。元々若い頃から芝居好きだった光太郎でしたし、特に戦後、青少年の健全育成には協力を惜しまなかったところもあり、公演の観覧を楽しみにしていました。

子供達の素朴で、しかし生き生きと演じる姿に好感を感じていたらしく、公演回数を重ねだんだん手応えを感じてきた登久子氏が「東京に出て本格的に演出などを学びたい」ともらすと、「そんなことをして変な児童劇臭さがついたらどうするのか。今のままが一番良い」とたしなめたそうです。

賢治童話の劇化ということで、賢治実弟の清六・愛子夫妻もサポート。お二人の令嬢で今年亡くなられた潤子さんも団員の一人として舞台に立たれていました。そこで潤子さん令息の和樹氏にもお話を伺います。

そして、実際に光太郎の前で演じられたお二人。貴重なお話が聴けることと存じます。
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画像の左下に写っている熊谷光さんと高橋則子さんのお二人です。ちなみに光太郎が二列めの右から3番目にいますが、その左後ろが清六、最後列には潤子さんもいらっしゃるようです。昭和27年(1952)、光太郎最後の観覧の際の集合写真です。
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登久子氏は昭和25年(1950)に脚本集『どんぐりと山猫』を十字屋書店から出版。光太郎にも触れられていますし、光太郎はこれを贈られて絶賛しました。

また、照井夫妻の近所に住んでいた菊池捍(まもる)の息女で、光太郎にピアノ演奏を聴かせてあげた聡子氏も音楽方面でサポートしていたこともわかりました。

そんなこんなでの1時間半。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

東京の連中はどうしてゐるかと時々おもひます、みな生活が中々困難だらうと思ひます、勢ひいろんなアルバイトをやらねばならないでせう。此間ラジオの娯楽番組の中へ草野心平が出てきて、唄をうたつたので面白かつたのですが、これもアルバイトの一つでせう。


昭和25年(1950)1月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎68歳

当会の祖・心平。「何やってんだ」という感じですが(笑)。

光太郎の彫刻、書、光太郎の父・光雲の彫刻が出る展覧会等の情報を3件。やはり取り上げるべき事項が山積しており、3件一気にご紹介いたします。

開催日順にまずは山口県から。「UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)」の一環というか、関連行事というか。

彫刻世界 かたち・つくり・ひらく

期 日 : 2024年10月18日(金)~12月15日(日)
会 場 : ときわ湖水ホール 山口県宇部市大字沖宇部254
時 間 : 10:00〜16:00
休 館 : 火曜日
料 金 : 無料

 彫刻がすぐそばにあると世界はまるで別のものに感じられます。
 すぐれた作品であればあるほど、そのかたちとそれを包む世界との対話と交流が生まれ、世界も彫刻もおたがいに豊かで汲み尽くせない一体状態になるのです。それは彫刻と世界が不可分になったことの証しです。
 本展タイトルの「彫刻世界」という四文字は、その現れを表現しようとするものです。空間のなかの「かたち」である立体としての彫刻は、ひとの手が「つくり」、そこから未体験の世界が生まれる=「ひらく」ことになる。「彫刻世界」が立ち現れるのです。
 暮らしのなかにはひとの手によって作られたかたちは無数に存在しています。そうした三次元の立体は、機能が目的としっかり結びつけば、具体的にコップであったり、椅子であったり、ロケットであったりします。でも、目的との結びつきが失われると、名前は消えただの適当な「もの」のように感じられ、逆に「彫刻世界」が誕生するきっかけとなります。
 彫刻のかたちは、それを包む空間と不可分であり、そこに揺らぎが潜んでいる。堂々たる不滅の記念碑と見えても、世界との関わりではじつはどこかで微妙に揺れている。手のひらのうえの小石も、巨大な石積みの古代のピラミッドも、絶え間なく変化する「彫刻世界」のなかにあるのです。
 本展は、「彫刻世界」を「かたち つくる ひらく」ことに取り組んで、ギネス世界記録 ™️認定された宇部市の彫刻コレクションの素晴らしさを紹介するものです。
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光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)が出ます。ただし、新しい鋳造のものです。他に光太郎の親友・荻原守衛の絶作「女」(明治43年=1910)、光太郎と交流のあったところでは中原悌二郎、木内克、柳原義達らの作品。さらに、昨年亡くなられた澄川喜一氏のものも。

続いては光雲木彫。石川県から。

令和6年能登半島地震復興応援特別展 七尾美術館 in れきはく

期 日 : 2024年10月19日(土)~11月17日(日)
会 場 : 石川県立歴史博物館 石川県金沢市出羽町3-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般800(640)円 大学生・専門学校生640(510)円 *高校生以下無料
      ( )内は20名以上の団体料金 65歳以上の方は団体料金


 能登地区唯一の総合美術館である石川県七尾美術館は、平成7年(1995)の開館から約30年、能登の文化活動の拠点施設として広く親しまれてきました。
 しかしながら、当館は令和6年1月1日の能登半島地震により建物・設備に被害を受けて臨時休館中となっています。
 本展は当館が石川県立歴史博物館と共同で企画するもので、七尾美術館の所蔵品および寄託品を3つのテーマで広く紹介します。
 七尾美術館が地域との関わりの中で大切に守り伝えてきた作品群が、金沢で一堂に展示されるのは初めてのこととなります。
 その魅力に触れ、能登の豊かな歴史・文化を再確認する機会となれば幸いです。
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七尾市の七尾美術館さん。今年元日の能登半島地震で大きな被害を受け、休館中なのですね。存じませんでした。

ちょうど地震のあった時は、「彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜」展が開催中でしたが、途中で打ちきりとなったのでしょう。

そちらで展示されていた光雲作の「聖観音像」(昭和6年=1931)、光太郎と縁の深かった高田博厚の「うずくまる女」(昭和50年=1975)などが出品されます。
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最後に、都内から光太郎の書。展示即売会です。

五十五周年記念 特別展 【 粋 II 近代巨匠名品展】

期 日 : 2024年10月18日(金)~10月27日(日)
会 場 : 黒田陶苑 渋谷区渋谷1-16-14 メトロプラザ1F
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 木曜日
料 金 : 無料

 この度、開苑五十五周年を記念しまして「粋 II」を開催する運びとなりました。
東京美術倶楽部の第二十二回東美特別展の当苑のブースでは富本憲吉先生の三十糎を超える白磁大壷二点と師弟関係のあっ た加守田章二先生、栗木達介先生の晩年の貴重な作品、京都陶芸界の次世代として認めていた八木一夫先生の作品を展示い
たします。
 京橋の魯卿あんでは北大路魯山人先生の里帰りの作品や、某芸術家旧蔵の名作二点を中心に先生の偉業をご紹介いたしま す。しぶや黒田陶苑では内容を広げまして川喜田半泥子先生や加藤唐九郎先生の名碗、加藤土師萌先生が文化庁に納められ た黄地紅彩の姉妹品などの近現代の工藝から、俳優の神山繁さんが何よりも愛されていたジョルジュ・ルオーの小品、山口 薫先生が描かれた愛犬のクマや愛猫のクロの二枚の絵、村上華岳先生が自らのために残されていたと言われる美しい仏画などの書画を含め、名作三十二点を一堂に並べさせていただきます。
 
三年に一度の「粋」のそれぞれを三つの会場にてお楽しみくださいますようお願いいたします。
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軸装の光太郎色紙が出ます。
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No.32 天極をさす Hanging scroll, Calligraphy "天極をさす(pointing the celestial pole)”

 箱Box 北川太一識
 with box signed by KITAGAWA Taichi
 サイズ Size27.0 / 24.0cm 軸寸 / Scroll size: 109.0 / 43.0cm
 ¥2,750,000 (税込/including tax)

 高村光太郎先生は上野の西郷隆盛像や重要文化財の「老猿」を作った高村光雲先生の子である。叙情的で生命が宿る木彫の「鯰」や「蝉」、「柘榴」などの彫刻家として、また「道程」「智恵子抄」などの詩人としても知られている。
 本作は「いくらまはされても針は天極をさす」と揮毫している。昭和2年4月に作られ6月号の『手帖』に発表された詩「詩人」の一部である。「いくら目隠をされても己は向く方へ向く。いくら廻されても針は天極をさす。」指針にしたい美しい言葉である。

この文言、光太郎が好んで揮毫し、複数の作例が存在します。表装にも手が込んでいるのでしょう。価格は強気の設定です。懐に余裕のある方、ぜひどうぞ。

以上、それぞれ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩に書いた通り原稿紙にポスター・カラアで描いた日の丸の旗を積雪の上に立てました。

昭和25年(1950)1月11日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎68歳

「詩」は『読売新聞』に発表された以下のものです。
田村茂現代日本の百人
   この年
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。

若き日には、西洋諸国とのあまりの文化的落差に絶望し、「根付の国」(明治44年=1911)などの詩でさんざんにこきおろした日本。老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」と讃えねばならなかった日本。そうした一切の軛(くびき)から解き放たれ、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみやたらと否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本に過ぎないのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。もっとも、原稿用紙の日の丸自体は、遡って昭和22年(1947)から行っていましたが。

一昨日、昨日と、10月13日(日)・14日(月)にお邪魔した智恵子の故郷・福島二本松のレポートを書きましたが、これから書く内容が10月12日(土)の件ですので、時系列的には古い話です。ネタに困る時期には1件ずつ細かくレポートいたしますが、紹介すべき事項が山積しつつあり、申し訳ありませんが、一気に。関係の方々、ご寛恕の程。

まず、千駄木の文京区立森鷗外記念館さんの特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」を拝観。
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茶道・江戸千家家元の川上宗雪氏がご自身のコレクションを同館に寄贈なさり、そのお披露目です。

明治20年代から昭和50年代までの、森鷗外を含む100名弱の著名人が書いたはがき111通。差出人も宛先も様々です。おそらく、古書市場に出たものが中心なのでしょう。
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我らが光太郎のはがきも一通。事前のプレスリリース等で、光太郎のそれについては詳しく紹介されて居らず、宛先、発信年月日等、実際に拝見するまで不明でした。

で、結局、滋賀県在住の野田守雄というアマチュア歌人に送った大正7年(1918)12月25日付の葉書で、『高村光太郎全集』既収のものでした。『全集』等未収録の新発見の可能性もあるなと思って見に行ったのですが、その意味では残念でした。しかしやはり直筆の実物を拝見できたので、それはそれで良かったと思いました。

ちなみに文面は以下の通り。

 あなたが待たれて居られるだらうとおもつていつも済まない気がして居りながら色々の都合で遅れてゐて心苦しくおもひますがどうか今少し待つて下さい 此間のお葉書で御希望が拝察出来ました故小さいけれども人物の全体の習作をお送りするにきめました
 仕事が重なつてゐる為め毎日追はれてゐます 鋳金が間に合はないで閉口です今日はクリスマスですね


これだけだといったい何のことかよくわかりませんが、野田は光太郎のファンで、光太郎が興した絵画の頒布会、彫刻の頒布会に申し込み、作品を購入していました。この葉書はブロンズ彫刻「裸婦坐像」購入に関わります。

野田宛書簡は散逸していて、抜けもあるかとは思われますが、この前後の書簡がかなり把握できており、作家から愛好者へと作品が渡る過程の記録として貴重です。平成25年(2013)に千葉市立美術館さんを皮切りに巡回した「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」の図録には、同館学芸員の藁科英也氏が「この一連の書簡、面白いですね」と、収録なさいました。

ちなみに展示されているはがきに先立つ12月11日には「こんな作品ですよ」ということで、光太郎による粗いスケッチが附されています。
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光太郎以外にも、上記出品目録の通り、ビッグネームがずらり。「この人はこんな字を書くんだ」「この二人がこうつながっていたのか」などと、興味深く拝見しました。ただ、111通の全てを細かくは見ていられない、という感じでして、2期ぐらいに分けての開催でも良かったんじゃないか、とも思いました。

図録(1,600円)と、無料配付の『記念館NEWS』をゲット。
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図録の方は後で細かく拝読いたします。多忙につき読めていません。

さて、千駄木を後に、続いて浅草へ。浅草寺さんにほど近いギャラリー兼イベントスペースのブレーメンハウスさんでのイベント「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」への参加が目的。

若干早く着いてしまいまして、浅草寺さんを参拝しました。土曜ということもあって、人山の黒だかりでした。7割方は海外からのインバウンドと思われました。
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ご存じ雷門。このはす向かい当たりに、光太郎が1日に5回も通ったというカフェ「よか楼」があったのですが、今は跡形もありません。

雷門の後側には、光太郎の父・光雲弟子筋の一人・平櫛田中と、菅原安男による天龍像、金龍像。
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本堂右手前の手水舎には、光雲の沙竭羅竜王像。
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久しぶりに拝見しましたが、やっぱりいいな、と思いました。様式美の部分では光太郎もかないません。

さて、ブレーメンハウスさん。
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一階はギャラリーです。
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その名の通り「ブレーメンの音楽隊」をモチーフにしたステンドグラス。築60年ほどの建物だそうでしたが、ステンドグラスは古いものなのか、現代のものなのか判別がつきませんでした。
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二階は和室になっていて、イベントスペースに使っているそうです。こちらには懐かしい型板ガラス。こちらは60年ほど前のものでしょう。レトロ建築好きにはたまりません(笑)。
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左は紅葉、右は富士山。これで幼い頃暮らしていた官舎に使われていた銀河があったら涙が出るところでした(笑)。

「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」開幕。連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏の主催で、お仲間の方々がご参集。一人8分の持ち時間で、自作詩や好きな詩などを朗読したり解説したり。
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当方にも光太郎について語れ、という指示でして、語りました。彫刻を第一の仕事と考えていた光太郎が、なぜ詩を書き続けたのかというあたりをメインとしました。欧米留学前、当時の流行に乗って喜んで作っていたストーリー性あふれる彫刻の愚劣さにあとになって気づき、彫刻に物語や主義主張は不要、そういう心の内面は詩で表現しようと考えた、という感じで。ストーリー性あふれる彫刻の例としては、左下画像の「薄命児」(明治38年=1905)を紹介しました。浅草花やしきで興行を打っていたサーカス団の幼い兄妹がモデルです。
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従って光太郎にとっての詩は、自己内面のストレートな表出、球速100マイル・フォーシームのど直球、きらびやかな美辞麗句に彩られたものでは決してない、などとも。そんな姿勢が良く表された、来月開催される「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品予定で額装しておいた光太郎のはがき(右上)も持参、皆さんに見ていただきました。

正富汪洋主宰の新進詩人社のアンケート「詩界について」に回答するためのはがきで「詩を書かないでゐると死にたくなる人だけ詩を書くといいと思ひます。」と認(したた)められています。

それから、詩も一篇朗読せよとの指令でしたので、光太郎の目指した詩の姿、的な詩「その詩」(昭和3年=1928)を読みました。はがきにしても「その詩」にしても、ご参集の詩人の皆さんへのメッセージでもあるという仕掛け(というほでもありませんが(笑))でした。

まことに申し訳なかったのですが、こちらのイベントは途中で退席させていただきました。新宿で上演される「平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』」観覧のためです。上京するとできるだけ複数の用件をこなすのが常でして。

というわけで、新宿へ。
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野田秀樹氏の脚本で、平成14年(2002)、大竹しのぶさんの一人芝居として初演されたものです。今回は「虎に翼」にも出演されていた文学座ご所属の平体まひろさんによる一人芝居。
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当方、野田氏の脚本は読みましたが、演劇としては初見でした。大竹さんの初演をテレビ放映で拝見したことはあったのですが。

開演前の会場内。
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中央で平体さんが智恵子を演じられ、観客は両サイドに設けられた客席で観おろすという配置でした。ここで平体さん、90分超をお一人でまさに熱演。素晴らしい。

数ある「智恵子抄」二次創作の中で、光太郎ディスり度が最も高い作品です。吉本隆明曰く「高村の一人角力(ずもう)としかおもえない」、伊藤信吉曰く「強いられたものの堆積」という、光太郎からの一種のモラハラによって徐々に壊れていく智恵子の姿が痛ましいまでに表されました。野田氏の脚本ですでにそうなっているのですが、劇中、智恵子の故郷の福島弁が効果的に使われ、光太郎は「こうたろう」ではなく、「コウダロウ」。「芸術家としてあるべき姿はこうだろう?」と常に要求を突きつけていた光太郎の姿が暗示されています。

そして智恵子も「ちえこ」ではなく、やはりなまって「ツエエ子」。智恵子が自分自身、「強え子」でありつづけたいと思っていた反映にもなっています。今回、改めて感じたのは、光太郎のモラハラの強烈さよりも、「自縄自縛」に陥ってしまった智恵子へのやるせなさでした。元は光太郎の「芸術家としてあるべき姿はこうだろう?」でも、智恵子はそれに抗わず、「その通り」と思い込み、逃げることもせず、そうなれない自分をどんどん追い込んでいく……というわけで。

「いや、そこ、違うだろ、逃げろよ」と言いたくなる場面が多々。しかし、その「逃げる」が出来なかったのが智恵子の悲劇だったんだなぁと、改めて思いました。まるで現代のDV被害者などが、加害者からのマインドコントロールに支配されてしまうような……。

ただ、それだけでなく、光太郎と出会う前から、智恵子にはそういう「強え子」を目指して「自縄自縛」に陥る性向があったという描き方になっています。その通りなのでしょう。

光太郎自身、智恵子が病んでから自分の過ちに気づきます。散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)に曰く「私との此の生活では外に往く道はなかつた」。それを踏まえての『智恵子抄』出版です。決して亡き妻との思い出を語ったノーテンキな「純愛の詩集」ではないのです。そのあたり、少し前に書きましたのでご覧下さい。

そんなわけで、光太郎は昭和25年(1950)に上梓した『智恵子抄その後』の「あとがき」には「「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。」と書きました。本当に、「智恵子抄」の読みは一筋縄ではいきません。

そうした点を踏まえた上で、平体さんの再演なり、他の劇団や個人方による上演なりが続くことを祈念いたします。

以上、長くなりましたが都内レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

お抹茶と甘味とありがたく、これは元旦に若水を汲みましてまづ朝の一杯を心爽やかにいただき、それから村人からもらつた餅でお雑煮をいはひました。

昭和25年(1950)1月11日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎68歳

昭和25年(1950)となり、花巻郊外旧太田村の生活も数え6年目となりました。

昨日、智恵子の故郷・福島二本松で開催されたイベント「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」についてレポートいたします。

「智恵子純愛通り記念碑」というのは、智恵子生家前の約2キロに「智恵子純愛通り」と愛称を付け、智恵子没後70年の顕彰事業として平成20年(2008)に建立されたものです。揮毫は光太郎の令甥、故・髙村規氏でした。 この碑の前にベンチ等設置されていてちょっとしたスペースになっており、そこが最初の会場でした。
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今年、新たに碑のかたわらに光太郎と智恵子の言葉を印刷した大きなボードが設置され、その除幕式を兼ねての実施。ボードの題字揮毫は書家の菊地雪渓氏でした。
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上記は式典後の画像ですが、ここから時系列に沿ってご紹介します。
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除幕に続き、主催者挨拶。三保恵一二本松市長他の祝辞。
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智恵子母校・油井小学校の児童さんなどによる碑への献花。
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油井小学校児童さん、安達中学校生徒さん、さらにやはり智恵子母校・福島高等女学校の後身である橘高等学校生徒さんによる光太郎詩朗読。
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一般の方々も。

光太郎智恵子に関わる文章等も書かれている吹木文音氏。
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主催団体「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの会員の方。
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全員で「ふるさと」を唄ったり、記念撮影をしたりで、ここでのプログラムは終了。

続いて智恵子生家に移動。
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こちらの座敷で、紙芝居「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演。作者で、智恵子が学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会ご所属の坂本富江氏によるものでした。坂本氏、書籍『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行なさったり、光太郎智恵子それぞれの母校、荒川区立第一日暮里小学校さん、油井小学校さんに招かれたりと、多方面でご活躍中です。
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智恵子の生涯を追うのがメインですが、没後のことも。そこで、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、終焉の地となった中野の貸しアトリエなども。
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この紙芝居を元にした絵本が制作中で、今年中には刊行されるようです。

その後、近くの地区集会所的な建物に移動して、昼食。
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献花や朗読をして下さった児童生徒さん達にもあらためてスピーチをしてもらったりと、盛りだくさんでした。

ちなみにこちらの壁には、裏山にある光太郎詩「樹下の二人」碑の拓本が掲げられていました。
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昼食後、再び智恵子生家に戻り、吹木氏をご案内。「高村智恵子 レモン祭」期間ということで11月4日(月)までの土日・祝日には通常非公開の生家二階部分の公開が行われています。
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一階もドサクサに紛れて(笑)。
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毎年、春には「高村智恵子 生誕祭」、秋には「高村智恵子 レモン祭」としていろいろなコンテンツが用意されますが、マンネリとならないよう、さらに進化し続けていって欲しいものです。

以上、二本松レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

一昨夜足をすべらして前額に擦過傷をうけ、一太刀うけた形でございます。カサブタが多分その頃までにはとれないだらうとも考へますのでどうかと存じます。

昭和24年(1949)12月27日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

正月となるし、町へ出て来ないかという誘いに対する返答です。結局、例年通り花巻郊外旧太田村の山小屋で越年しました。

昨日から一泊二日で智恵子の故郷、福島二本松に来ております。

今日行われる、地元の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催のイベント出席のためですが、他にも廻りたいところが色々あって、前乗りいたしました。

色々のその1、大山忠作美術館さんでの「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」。智恵子と同郷で、智恵子をモチーフとした作品も複数描かれている日本画家の故・大山忠作画伯が、成田山新勝寺さんに依頼された襖絵をメインとしたものです。
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襖絵は撮影可でした。ありがたし。
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新勝寺さんは当方自宅兼事務所の隣町にあるのですが、初めて拝見しました。大迫力と美しさに圧倒されました。

ロビーには画伯の本作制作風景のパネル展示なども。
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画伯のご息女で女優の一色采子さんは昨日はいらっしゃらず残念でしたが。

普段、常設で展示されている作品群は、他の展示スペースに。こちらには智恵子モチーフの作品も(撮影不可)。
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拝観後、すぐ目の前の二本松駅へ。光太郎の父.光雲の孫弟子、故・橋本堅太郎氏制作の智恵子像にご挨拶。
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その後、安達太良山に向かいました。
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山頂までは登りませんでしたが、ロープウェイで薬師岳パノラマパークへ。
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天気が良かったのが幸いでした。

下山し、道の駅「安達」智恵子の里さんへ。
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宿泊は郡山。

このあとまた二本松に戻り、イベントに参加してまいります。

昨日は上京しておりまして、千駄木浅草新宿と三ヶ所を廻っておりました。レポートしなくてはならないのですが、今日もこれから二本松でして、ゆっくり書いている暇がありません。後に回します。

そこで本日は、群馬の地方紙『上毛新聞』さんの一面コラム、10月9日(水)掲載分です。

三山春秋

▼彫刻家で詩人の高村光太郎は晩年、岩手・花巻に暮らした。空襲で東京のアトリエを焼け出され、宮沢賢治の実家を頼って疎開した。山小屋での1人暮らしはおよそ7年に及んだ▼畑に育つもの、山に生えるものを食べる自給自足の生活。キノコは図鑑と見比べ、「食」と書いてあるものは何でも食べてみた。小屋は栗林の真ん中にあり、採りきれないほどたくさん実がなった。栗飯を炊いたり、ゆでたり、いろりで焼き栗にしたりして毎日味わった▼時には村の人たちがかごを持って栗拾いにやって来た。山の奥へ奥へと入っていき、クマの気配に驚いて逃げ帰った人もいたという。クマもまた冬眠に備え、秋の味覚を満喫していたのである▼近年は山奥だけでなく、人里や、地域によっては市街地でも出くわすことがある。この秋も注意が必要だと県が呼びかけている。主食となるドングリや栗などの実りが悪いらしく、山に餌がなければ人里に出てくる危険が高まる▼廃棄の農作物を放置しない。果樹は早めに収穫し、収穫しない木は切る。隠れ場所となるやぶを刈り払うなど、人里に引き寄せないことが重要だという。対策を万全にして、すみ分けを目指したい▼暑さが去ってようやく秋の味覚の出番になったが、山中と同様にわが家の栗も今年は不作である。「9月末になるとほとんど栗責め」だったという光太郎がちょっとうらやましい。

秋の味覚のシーズンとなり、旬の話題ですね。

光太郎が戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までまる7年間、独居自炊の生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋、「栗林の真ん中」というわけではありませんが、確かに周囲には栗の木がたくさん自生しています。そこで、貴重な食料源の一つでした。

しかし、奥羽国境山脈の麓ゆえ、クマったことに(笑)クマの生息地でもあります。光太郎が居た頃はあまり人里に降りてくることも多くなかったのですが、現代は却って昔よりひどい状況になっています。先般、現地に行った際も、山小屋裏手の智恵子展望台方面への散策路は立ち入り禁止にしてありました。隣接する高村光太郎記念館さんの看板などは、クマの爪とぎ痕で傷だらけです。
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花巻市では、市街地でもクマの出没情報が多数出ています。当方も昨年だったと記憶していますが、夕方、市街地でレンタカー運転中、河原に黒い塊が見え、「ありゃクマなんじゃないか?」でした。

また、今年の4月でしたか、光太郎や宮沢賢治に愛された大沢温泉さんの駐車場にあるゴミ捨て場にクマが現れた映像がニュースで取り上げられていました。

ところでクマと言えば、X(旧ツイッター)上の書き込みなどに、「光太郎が素手でクマを倒したことがある」的な書き込みが散見されます。
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サンドー式体操(ボディビル)で肉体を鍛え、ニューヨークではレスリングだかボクシングだかの経験者だった同級生をねじ伏せた、身長180センチ超の光太郎でしたが、残念ながら「素手でクマを倒した」という事実は確認できていません。

上記画像最後の方が書いてらっしゃるように、ゲームか何かの二次創作でそういうエピソードがあったのかも知れませんが、真に受けないようにお願いいたします。

それにしても、クマにも罪はないわけで、「倒す」のではなく、何とか共存共栄を図りたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

詩集を編さんしてもいいとの事、感謝します、批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます。


昭和24年(1949)12月17日 伊藤信吉宛書簡より 光太郎67歳

「詩集」は翌年刊行され、現在でも版を重ねている新潮文庫版『高村光太郎詩集』。ただ、昭和43年(1968)に改版となり、それまでの版に含まれていない昭和25年(1950)以後の詩も収められました。

次のようなやりとりがあったようです。

新潮社「高村先生のお若い頃から近作までを集めた詩集を文庫で出したいのですが」
光太郎「そりゃかまいませんが、自分で編んでいる暇がありません」
新潮社「では、どなたか信頼の置ける方に編集と解説をお願いするというのはどうでしょう」
光太郎「草野心平君が適任でしょうが、彼は他社でやってますからね。他の心当たりに頼もうと思うのですが」
新潮社「なるほど、では、高村先生の方で内諾を取っていただけますか?」
光太郎「お願いしてみましょう」

そして伊藤に打診、すると伊藤からは、作品選択(戦時中の翼賛詩も含める)や解説で「批判的」な態度を取るやもしれませんがそれでもいいのなら、的な返答が来たようで、さらにそれへの返信です。

批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます」。まさしく『論語』の「六十而耳順(六十にして耳したがう)」ですね。

小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの新蒐品目録『書架』147号。先々週くらいに届きました。
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同店、肉筆系に力を入れられていて、時折、光太郎のそれも出るのですが、今号では3点も収録されていました。
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画像右上、表装されていないマクリの書で、短歌「天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」が書かれています。「天然の湯に入ったら、あなたの身も心もその湯に溶け出して、さながら美しい白玉に似た輝きを放ったことでしょう」といった意でしょうか。

ちなみにえびな書店さん、「湯」を「畑」としていますが、「畑」では意味が通りませんね(笑)。

さらに「人におくれる」の詞書(ことばがき)。「人」は新潟佐渡の素封家にして、与謝野夫妻の新詩社に依った歌人でもあった渡辺湖畔です。湖畔は光太郎に幼くして亡くなった娘の肖像画(大正7年=1918)を書いてもらったり、蟬の木彫を依頼したり、自身の歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀・装画を頼んだりしました。

短歌「天然の……」は大正9年(1920)3月の湖畔宛書簡に認(したた)められた四首のうちの一つで、伊豆の修善寺温泉に行ったという湖畔からの書簡への返歌です。

他の三首は以下の通り。

 いみじくもふかき地中のこゝろより天然の湯は涌きてあふるる
 天然の湯に身をひたし人の世のこゝろのことを君はおもふか
 天然の湯をしおもはむしばらくは魂とびて夢のこゝちする


書簡には「修善寺においでありし由、湯の好きな小生それをききしだけにて恍惚といたし候」とあります。くれぐれも「畑」ではありませんのでよろしく(笑)。

この書自体は、湖畔ではなく、他の人物のために書かれたのではないかと推定されます。「他の人に贈った短歌だけど……」という意味で「人におくれる」の詞書が添えられたのでしょう。

その左に色紙で「満目蕭条(まんもくしょうじょう)の美」。「満目蕭条」は光太郎が好んで揮毫した熟語です。見渡すかぎりのもの全てが物寂しい様子である、の意味。戦後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺のことかな、とも思ったのですが、やはり「満目蕭条」と書いた戦後の書はもっと崩しが激しく為されており、戦前の筆跡のように思われます。色紙も凝ったものですし、昭和7年(1932)には東京に居ながらにして「満目蕭条の美」という題名の散文も書いていますし。

もう一点、短冊も出ていました。
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やはり短歌で「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」。

欧米留学から帰った明治42年(1909)、『スバル』に「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」の総題で発表された二十五首のうちの一つです。「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」はイタリア語で「祖国歌」というほどの意味。

他の二十四首の中には、帰国して改めて接した日本人女性への幻滅が歌われているものが多く含まれます。

 ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや
 弘法の修行が巌の洞(ほら)に似る大口あけて何を語るや
 何事か重き科ありうつくしき少女を吾等あたへられざり
 この中の少女のひとり妻とせよ斯く人いはば涙ながれむ
 女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
 海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
 太ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと
 仏蘭西の髭の生えたる女をもあしく思はずこの国みれば


これでもか、これでもかと日本の女の醜さを嘆いています。

圧巻は以下の二首。 

 顔つくる術(すべ)も知らぬをふるさとの女はほこるさびしからずや
 少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし


「メイクもきちんとできず奇妙な化粧をした顔をさらしているその風貌を、ふるさとの女は却って誇りに思っている。それでいいのか?」「少女たちよ、眉墨をきちんと引きなさい。それができないと、この世界にこれほどに醜いものはないぞ」といったところでしょうか。特に眉墨云々は、某党の総裁候補だったあの人に贈りたい言葉です(笑)。「少女」ではありませんが(笑)。
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逆に留学中に懇ろになった西洋の女性(詳細は不明です)を讃える歌も。

 ふるさとはいともなつかしかのひとのかのふるさとはさらになつかし
 ふるさとの少女を一のたのみとし火の唇はすて来しものを
 きらきらと暗き夜半にも汝が耳の耳環の玉は近く光りき

この流れで、短冊に書かれている「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」です。

おそらくニューヨークやロンドンではなく、パリでのことと思われますが、「火の唇」を持ち、「きらきら」の「耳環」を着けていた「あたたかくふくよかなりし君」と、どんなロマンスがあったのか……というところです。

当方、この手の肉筆物は、よほどの事がないと購入しません。財力が保(も)ちませんから。ところがつい先日、「よほどの事」が出来(しゅったい)しました。

京都の思文閣さんで売りに出した、歌人・中原綾子旧蔵の光太郎色紙

中原令孫から花巻市に光太郎書簡等がごっそり寄贈され、来年以降、花巻高村光太郎記念館さんで展示されることとなりそうです。また、市では寄贈資料を図版入りで紹介する書籍を刊行することを検討されている由。予算が通れば当方が解説等執筆します。

そこへ来て、中原旧蔵の書ですから、これは一緒に展示されるべきものです。市で購入して下さればそれで済むのですが、そんな予算は組んでいないわけで、こちらで手に入れました。2点出ていたのですが、そのうち、今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたもので、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)で口絵として使われていたものです。

オークション形式で、開始価格では落とせないだろうと思い、色を付けて入札しました。それでも無理かな、とも思ったのですが、落とせまして、先日、届きました。
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当時のものと思われるタトウにくるまれていました。
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中原の直筆なのでしょう。「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりりたるもの。 綾子誌す」の但し書き。調べてみましたところ、昭和26年(1951)9月15日の日記に確かに「十二時頃中原さんくる。午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。」の記述がありました。

色紙裏面には中原の蔵印も捺されていました。
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表(おもて)面は「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。「観自在」は観音菩薩。そこで、無理くり現代語訳してみると、こんな感じでしょうか。「観音菩薩は何ととうといのだろう(「こそ」+已然形「けれ」で強調の係り結びです)。眼を開いて今日改めてそのお姿を見てみると、この世にある平凡ないつものお姿で、我が身を離れずに寄り添って下さっている」。

若干、意味不明です。どうやって観音様のお姿を見るのでしょうか。手元に観音像があった時期もありました。しかし、異論もありましょうが、当方はこう読みます。「観音菩薩」=「亡き智恵子」。

光太郎の感覚としては、「我が身を離れずに寄り添って下さっている」のは、亡き智恵子でした。

  亡き人に

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし 
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処そこにゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ


   元素智恵子 

 智恵子はすでに元素にかへった。
 わたくしは心霊独存の理を信じない。
 智恵子はしかも実存する。
 智恵子はわたくしの肉に居る。
 智恵子はわたくしに密着し、
 わたくしの細胞に燐火を燃やし、
 わたくしと戯れ、
 わたくしをたたき、
 わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
 精神とは肉体の別の名だ、
 わたくしの肉に居る智恵子は、
 そのままわたくしの精神の極北。
 智恵子はこよなき審判者であり、
 うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
 耳に智恵子の声をきくときわたくしは正しい。
 智恵子はただ嬉々としてとびはね、
 わたくしの全存在をかけめぐる。
 元素智恵子は今でもなほ
 わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。

光太郎は敬虔な仏教徒だったわけでもなく、あながち牽強付会とも言えないような気がするのですが……。

ただ、そうだとすると、死してなおそこまで「聖女」化された智恵子は、ある意味、可哀想だったようにも思えますが……。

閑話休題、上記えびなさんの出品物、収まるべき所に収まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

お手紙拝見しましたが「智恵子抄」以後には一冊になるほどの数量がありません、これはまづものにならないと思ひます、


昭和24年(1949)12月20日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎67歳

澤田は昭和16年(1941)、オリジナルの『智恵子抄』を上梓した版元・龍星閣主です。龍星閣は戦時中に休業し、この年ふたたび出版業を始めました。そこで、『智恵子抄』の続篇的なものを出したい、という懇願に対する返答の一節です。

結局、翌年の元日に雑誌『新女苑』に発表した連作詩「智恵子抄その後」(「元素智恵子」も含みます)を根幹とした詩文集『智恵子抄その後』が出版されることにはなるのですが、題名とは裏腹に、智恵子とは全く無関係の随筆も多く含みます。

昨日に続き、智恵子の故郷・福島二本松ネタで。告知ではなく、レポート系ですが。

二本松市内の岩代公民館さんで発行している『岩代公民館だより』から。

9月13日(金) 新殿セミナー オンラインでつなぐ 全国ご当地体操教室

9月の新殿セミナーとして、「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」を開催。オンラインで全国の公民館とつながって、各地のご当地体操で体を動かしました。岡山県玉野市中央公民館から「タマニサイズ」、福岡県福岡市別府公民館からは「黒田節体操」、千葉県流山市東部公民館から「ゆめみるチーバくん体操」、岡山県矢掛町小田公民館からは「矢掛町オリジナル体操」を紹介いただき、新鮮な気持ちで音楽に合わせて頭も身体も動かして楽しみました。二本松市の体操としては、「ほんとの空体操」を紹介しました。全国各地のお祭りやゆるキャラ、地域の特徴などもご紹介いただき、旅行気分で楽しみました。講座の最後にはみんなで「チーバくんのポーズ」で締めました。岡山県在住の福島県出身の方とオンラインでお話する機会もあり、全国とのつながりを感じました。
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「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」。その名の通りのイベントで、全国の6県の公民館をオンラインでつなぎ、参加者が一緒に健康体操をするというものだそうです。定期的なのか不定期なのか、ともかく初の試みではないということですが。

当方自宅兼事務所のある千葉県からは県北西部の流山市東部公民館さんが参戦(って、別に戦っていませんが(笑))。

流山市さんのサイトから。

東部公民館「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」

 令和6年9月13日(金曜日)、東部公民館で全国の公民館をオンラインでつなぎ、参加者が一緒に健康体操をする「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」が開催されました。6月に続き、2回目の開催です。東部公民館からは総勢31人の方が参加し、ファシリテーターの水代登紀子さん(当公民館講座「いきいきスクエアステップ」講師)と一緒に、千葉県のマスコットキャラクター・チーバくんのテーマソング&ダンス「ゆめみるチーバくん」を披露しました。
 今回オンラインで繋がった公民館は、富山県高岡市福岡公民館、福井県永平寺町上志比公民館、福島県二本松市岩代公民館、福岡県福岡市別府公民館、岡山県玉野市中央公民館、同県小田郡矢掛町小田公民館と千葉県流山市東部公民館の全国6県7館です。
 最初に、参加者の皆さんが交代で、各地域の今日のお天気や、地域のお祭り、ゆるキャラを紹介しました。その後実施した健康体操は、「タマニサイズ」(岡山県玉野市)や「矢掛町オリジナル体操」(岡山県矢掛町)、「智恵子抄」の詩に由来する「ほんとの空体操」(福島県二本松市)など、ご当地色豊かな内容でした。また、「黒田節体操」(福岡県福岡市)では、事前に別府公民館から届けられた扇子を使って、会場の全員で黒田節の曲に合わせて体操をしました。
 東部公民館は、千葉県の成田市と茂原市の夏祭りを紹介したあと、ご当地ダンスとして「ゆめみるチーバくん」を全国各地の会場の皆さんと練習し、皆で踊りました。会場は大変盛り上がり、最後の記念撮影では、千葉県の形を表現したチーバくんポーズを参加者全員で決めました。終わってからのおしゃべりタイムでは、他会場から「昔、流山に兄が住んでいました。なつかしいです」という声もありました。
 参加者からは「楽しく体を動かせてよかった」「全国各地の特色ある体操を知れて新鮮だった」「次回も参加したい」「故郷が福岡なので懐かしい気持ちになった」などの声があり、オンラインで全国と繋がる新たな形の交流に大きな反響がありました。オンラインご当地体操は、12月13日(金曜日)、令和7年3月14日(金曜日)にも開催予定です。お時間ある方は、ぜひ一緒に楽しみましょう。

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「智恵子抄」の詩に由来する「ほんとの空体操」」の一節があったので、こちらの情報が先にヒットしました。

「ほんとの空体操」は、二本松市さんで平成27年(2015)に作られたもので、その2年前に故・湯浅譲二氏作曲で制定された「二本松市民の歌」に合わせて振り付けられました。元々のコンセプトが「介護予防のための健康体操」ということでしたが、かつては市役所職員の皆さんが朝礼で毎朝演舞していたとのこと。かつて、というか、今でもやられているのでしょうか? また、コロナ禍で「ステイホーム」と騒がれていた時期には、各家庭での実施を市で広く呼びかけてもいました。
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ところで我が千葉県からは「ゆめみるチーバくん」。パパイヤ鈴木さんの振り付けで作られたものですが、なかなかハード。高齢者の皆さん、これをやって大丈夫? という感じなのですが(笑)。
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千葉県には別に「なのはな体操」というのがあるのですが、どうもオワコン化しつつあるようで(笑)……。

「ほんとの空体操」は滅びずに愛され続けてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

いろいろ妨げられる事が多く、先日も北陸の方から山師坊主がおしかけてきて下らぬことに小生を参加させようとして追つぱらふのに骨でした。


昭和24年(1949)12月15日 西出大三宛書簡より 光太郎67歳

詳細はわかりませんが、こういうことが常態化していたようで……。

JR東日本さん主催のイベントです。

駅からハイキング&ウオーキング 秋のにほんまつ奥州街道 新旧のスイーツ店が点在する城下町を散策

期  日 : 2024年10月1日(火)~12月25日(水)
会  場 : 東北本線二本松駅~同安達駅 約6.0km
受付場所 : 二本松駅構内観光案内所
受付時間 : 9:30~11:30
ゴール時間 : 安全にご参加いただくため16:30までにゴールしてください。
料  金 : 無料

二本松~安達駅間、スイーツ求める美味しい旅
 JR東日本の「駅からハイキング&ウオーキング」イベントで、和洋菓子店をめぐりながら二本松~安達駅間を歩く「秋のにほんまつ奥州街道 新旧のスイーツ店が点在する城下町を散策」が10月スタートします。春プランに続く第2弾で、12月25日まで。
 両駅では高村智恵子をイメージした彫刻家・橋本堅太郎氏(二本松市名誉市民)の作品「ほんとの空」(二本松駅前)、「今ここから」(安達駅前)が出迎えます。コースは大山忠作美術館、亀谷坂、芭蕉と露伴の句碑、竹田坂、智恵子の生家などをめぐる約6㎞。途中、老舗菓子店など16店あり、自分へのご褒美やお土産に多彩なスイーツを味わったり、買い物が楽しめます。
 10月1日~11月17日に大山忠作襖絵展(美術館)、10月3日~11月17日には高村智恵子レモン祭(生家など)、10月10日~11月20日には二本松の菊人形(霞ヶ城公園)が開かれます。
 参加は自由(予約不要)ですが、JR東日本のアプリが必要。二本松駅観光案内所でコースマップ、スイーツガイドを配布します。受け付けは午前9時30分~同11時30分。問い合わせは、にほんまつDMO(電話0243-24-7702)へ。
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「駅からハイキング」は、JR東日本さんのキャンペーン的なイベントです。実に様々なコースが設定されています。一部を除き参加予約は不要で、専用のスマートフォンアプリ「駅からハイキング」をダウンロードして、「コースに参加する」ボタンを押し、参加するコースを選択後、コースマップを元にハイキングスタート! 同一日の受付時間内にスタートし、ゴール時間内までにゴールするというものです。参加回数に応じてプレゼント抽選に参加できるとのことです。

以前に銚子電鉄さんとのコラボで行われた「駅からハイキング ~関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ~」をご紹介させていただきました。。

こちらのコースは、共に故・橋本堅太郎氏作の智恵子像である二本松駅前の「ほんとの空」から安達駅前の「今 ここから」までの約6㌔。途中に智恵子生家/智恵子記念館さんが佇み、智恵子づくしコースですね。

さらに玉羊羹の玉嶋屋さんなどの地元スイーツをからめて血糖値を上げながら(笑)。摂取カロリーと消費カロリー、どちらが上回るでしょうか(笑)。

ぜひご参加下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の重版書は以前の「造型美論」が厚すぎるので二冊に分けて「造型美論」と「印象主義」とにして筑摩書房が出したのです。


昭和24年(1949)12月6日 東正巳宛書簡より 光太郎67歳

書き下ろし評論『印象主義の思想と芸術』は、遠く大正4年(1915)に天弦堂から刊行。それを含む評論集『造型美論』が戦時中の昭和17年(1942)、筑摩書房から刊行されました。

そしてこの年、筑摩選書のラインナップとして二分冊で再版されました。
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岩波書店さんで出しているPR誌的な月刊の『図書』。今月号で光太郎智恵子が論じられています。
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「論じる」というよりはエッセイのような感じですが、映画監督の中村佑子氏による連載「女が狂うとき」の第4回で「冷たい乙女たち――高村智恵子に寄する」。

乙女」は「乙女の像」の「乙女」。青森県の十和田湖畔に立つ光太郎最後の大作「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦像」(昭和28年=1953)です。

光太郎、この像の身体部分は藤井照子というプールヴーモデル紹介所に所属していたプロのモデルを雇ってデッサンを重ねましたが、その顔はまぎれもなく、智恵子。ただし光太郎自身は公的には智恵子の顔だとは発言していません。それでも生前の智恵子を知る人々は一様にそう思いました。戦後のかなり早い段階から光太郎が「智恵子観音を作りたい」と言っていたのを知る人々も多かったようですし。
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冷たい」は中村氏が十和田湖畔を訪れたのが真冬で、「私はこの像を、ある人に寒いねと抱きしめられた肩越しに見た。こんな場所で裸をさらして、なんて寒そうなのか」というところから。また、象徴的な意味合いでも「冷たい」の語を選択し、冠したのだと思われます。すなわち、光太郎智恵子の関係性などなど。

吉本隆明が「高村の一人角力(ずもう)としかおもえないのである」(『高村光太郎』昭和32年=1957)と断じ、それを受けて黒澤亜里子氏がジェンダー的な視点を持ち込んで『女の首 逆光の「智恵子抄」』などで論じ、さらに多くの追随者で一時期賑わった、『智恵子抄』における生身の智恵子の不在、的なイメージです。

曰く

「自分の成長があなたのためにもなる……光太郎は智恵子と対等だと言いながら、庇護者のような気でいたのだろうか。家父長制が色濃く残る時代にあって、芸術家として歴然と地位も評価もあった光太郎が、智恵子の創作の力や情熱を吸い取っていったのではないのか。」

「東京に空がないのではなく、光太郎との生活に空がなかったのである。」

「理念と現実との深い落差に、幾重にも智恵子は追い詰められただろう。」


などなど。

先述の吉本隆明や黒澤亜里子氏やその他の人々によって同様の論は展開され続けてきたので、新しい知見というわけではありませんが、先行の論も今やほとんど絶版となっている今日、改めてこういうことを論じるのも、それはそれで意義のあることだと思われます。

ただし、光太郎はこういった批判を百も承知で居たのではないかというのが当方の見解です。ところが、それに気づいたのは智恵子の心の病が顕在化してから、さらには智恵子が歿してからではないか、とも思えますが。

それでもあえて『智恵子抄』出版に踏み切ったところに、『智恵子抄』の持つ重層性、多相性が見て取れます。

『智恵子抄』は、浅い読み方で読めば、「純愛の詩集」にしか過ぎません。そこで止まって肯定的に捉えれば「素晴らしい! 我が国相聞歌の金字塔だ」。否定的に読めば「高村の一人角力(ずもう)」。しかし、それに留まらず、もっともっと深い読み方が出来るはずです。

例えば「贖罪の詩集」。「済まなかった、智恵子よ」というわけで。戦後の連作詩「暗愚小伝」にも通じる、自らの「暗愚」の暴露と反省の表明とも読めます。

「訣別の詩集」とも読めましょう。昭和16年(1941)のオリジナル『智恵子抄』収録詩篇のうち、最後に書かれたのは、智恵子の葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」。おそらく『智恵子抄』のための書き下ろしです。それ以前に智恵子没後のことを題材にした「梅酒」や「亡き人に」が作られていたにも関わらず、時間を逆行してあえて葬儀の日の模様を謳いあげました。

光太郎としては「一心同体」のつもりでいた智恵子が歿したことで、同時にそれまでの自分も一度死んだという気になったのではないでしょうか。しかし再生するのです、全く違う面貌で。

「荒涼たる帰宅」執筆後、すなわち『智恵子抄』刊行後、光太郎は詩の中で智恵子を扱うことを一時やめます。それから終戦までは、身辺雑記的なものを除き、殆ど戦意高揚のための翼賛詩一辺倒となります。ここには「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交わらない生活が智恵子を追い詰めたという反省から、真逆の積極的に社会と関わろうという方向性への転換が見て取れます。そうしないと自分もおかしくなる、と考えたのかも知れません。

そこで、愛する者の死を謳うことで、同時にそれまでの自分への「訣別」を宣言するための『智恵子抄』。やはり戦後の「暗愚小伝」に通じますね。

それから「抄」一字に込められた思い。以前にも書きましたが、これは「全著作の中から智恵子に関するものの抄出」という表面的な意味以外に、「ここに表されている智恵子が智恵子の全てではないよ」という意味も込められているような気がします。「生身の智恵子はもっともっといろいろな悩みを抱え、必死に生きようとしていた素晴らしい女性だった。愚かだった自分は偏った見方で一部分しか見なかった。だから「抄」だ」と。

それでも光太郎は、「亡き人に」の中で「私はあなたの愛に値しないと思ふけれど/あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」と謳いました。「一切」には上記のもろもろが含まれるのではないでしょうか。何やかやと言っても、智恵子との日々はかげがえのないものでもあったわけで……。

そういう部分を考えると「鎮魂の詩集」という意味合いも感じられます。西洋音楽のレクイエムのような……。

というわけで、『智恵子抄』。決して単なる「純愛の詩集」ではありません。それに疑義を挟む批判的な読み方もけっこうですし、さらに突っ込んだ解釈が今後とも成され続けることを期待します。

ただし、史実と異なることを書かれるのは困ります。今回も、「智恵子が光太郎のブロンズ作品を袂に入れて散歩」「「乙女の像」は光太郎最後の彫刻」といった誤りが散見されて、残念でした。

そうした点は差っ引いても一読の価値がありますので、『図書』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

学芸会では小生サンタクロースのお爺さんに扮して舞台に出ました。部落の子供達はとても可愛いいです。


昭和24年(1949)12月6日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎67歳
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戦前には「芸術家あるある」で関係を極力絶とうとし、戦時中には戦意高揚の詩文で鼓舞し、と、いびつな形でしか社会との関わりを持ててこなかった光太郎、ようやく戦後になって自然な形での交わりが出来るようになったと言えましょう。

それにしても、この写真に写っていて、永らく光太郎の語り部を務められた高橋征一氏浅沼隆氏も今はもう虹の橋を渡られてしまったんだなぁ、と、改めて寂しい思いです。

昨日、当会刊行の冊子『光太郎資料』62集についてご紹介しました。

毎号、同時代人の光太郎訪問記や回想のうち、広く紹介されていないものを掲載するコーナーを設けていますが、今号では「木像生」という人物の書いた「都会情景 カフエー譚」(大正3年=1914 1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号)を取り上げました。

明治末から大正初めにかけての、東京市内のカフェ事情をまとめたもので、光太郎の名と共に、さまざまなカフェが紹介されています。それと合わせ、実際に光太郎の詩文にそれらのカフェがどう描かれているか、『光太郎資料』では解説欄に記しました。

一部、骨子をご紹介します。

まず、明治44年(1911)に京橋日吉町(現・銀座八丁目)に上野の精養軒が開店した「カフェー・プランタン」。この年に発表された光太郎の短章連作詩「泥七宝」(『全集』第一巻)にその名が現れます。

 八重次の首はへちまにて
    小雛の唄は風鈴にて
 さてもよ、がちやがちやの虫の籠は
 「プランタン」てね、轡蟲の竹の籠
 

他にも「泥七宝」中にはその名は現れないものの、プランタンで書かれたものがあると、後年の光太郎が回想しています。「八重次、小雛は新橋の芸妓」の一節と共に。

続いて「カフェー・ライオン」。プランタンと同じく精養軒の経営で、やはり明治44年(1911)、銀座尾張町に開店し、こちらも光太郎詩、ずばり「カフェライオンにて」(大正2年=1913)に謳われています。

「都会情景 カフエー譚」に曰く「カフエー、ライオンは尾張町の電車交差点にある。三階は二百名ばかり居るカフエークラブ会員の遊ぶ処で二階は食堂、階下が賑やかなバーだ。此処でビールが一杯売れるとライオンの形をしたものがヌツと現はれてウヲ――と自働車のラッパの様な声を出す。即ちライオンといふ店の名がある所以だらう」。

さらに、光太郎も中心人物の一人だった芸術運動「パンの会」御用達の「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」。鎧橋の袂に開店し、その後移転を重ねましたが、発祥の地には中央区教委さんによる案内板が立っています。

そして、浅草雷門の「よか楼」。

欧米留学から帰朝した翌年、明治43年(1910)に入れあげていた「モナ・リザ」こと吉原河内楼の娼妓・若太夫にふられた後、光太郎は今度は「よか楼」の女給・お梅に首ったけになります。お梅目当てで、一日に5回も「よか楼」に足を運んだことも。お梅が他の客の元に行っていて自分の方に来ないと癇癪を起こして暴れたり……(笑)。ほとんどストーカーですね。

そのお梅、若太夫以上に光太郎詩文にたくさん登場します。

わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ/辛き酒を再びわれにすすむる/マドモワゼル・ウメの瞳の深さ
(「食後の酒」 明治44年=1911)

「霧島つつじの真赤なかげに/サツポロの泡をみつむる/マドモワゼルもねむたし」
(「なまけもの」 同)

「マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り/白いナプキンにボルドオはしみ/夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ」
(「ビフテキの皿」 同)

「さう、さう/流行(はやり)の小唄をうたひながら/夕方、雷門のレストオランで/怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで/待つてゐる、マドモワゼルが/待つてゐる、私を――」
(「あをい雨」明治45年=1912)

「真面目、不真面目、馬鹿、利口/THANK YOU VERY MUCH, VERY VERY MUCH,/お花さん、お梅さん、河内楼の若太夫さん/己を知るのは己ぎりだ」
(「狂者の詩」 大正元年=1912)

雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。」
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

「都会情景 カフエー譚」では、お梅は以下のように紹介されています。

又下膨れの丸顔で銀杏返しに結つて居る梅子(二〇)は『元禄梅子』と定連から呼ばれて居るが、此の女は多少文字の素養もあつて永井荷風の小説や晶子の歌集を始め、新らしい作家の著作は片つ端からドンドン渉猟して、衣裳は僅か小さな葛籠(つづら)一つしか持たない代りに書物ならば大葛籠三杯も持つて居るといふ風変りな女だ。そんな所から正宗白鳥、高村光太郎、前田木城、海野美盛、其他の文士画家連には随分肝膽相照して居る人が多い。竹子が踊や長唄を相応にやれる程に多芸ではないが、ハーモニカだけは袖の中から放したことはなく、竹子の歌ふ仏蘭西の国歌に合わせて之を吹くのが唯一つの芸である。

文学好きだったということは、光太郎等の回想にも書かれていましたが、より詳しく描かれています。さらに年齢。「都会情景 カフエー譚」が書かれた大正3年(1914)の時点で二十歳となっています。ということは、光太郎に尻を追いかけ回されていた明治44年(1911)にはまだ17かそこら。ただ、この業界の常で、さばを読んでいた可能性も大いにありますが。

そしてこんな記述も。

ヨカローは実に此の官能世界の一歩を約して思ひ切り繁昌して居るので。これは例の美人の首を利用した新聞広告のきゝ目であること勿論であるが、実際にも此処の女中は粒選りの代物が多い。

注目すべきは「例の美人の首を利用した新聞広告」。「例の」ということは、かなり有名だったと思われます。

光太郎の「ヒウザン会とパンの会」にも、

「よか楼」の女給には、お梅さんはじめ、お竹さん、お松さんお福さんなんてのがゐて、新聞に写真入りで広告してゐた。

とあり、松崎天民ら他の同時代人の回想等にも「よか楼」の新聞広告の件が語られています。

この広告、何としても実地に見てみたいものだと思っておりました。そこでまず活用したのが国会図書館さんのデジタルデータ。すると、まず新聞ではありませんが、『東京大正博覧会要覧』(大正3年=1914)に広告そのもの(左下)を発見しました。
東京大正博覧会要覧 19130815都新聞 案内広告百年史 東京日日新聞2
それから、戦後の書籍で、明治大正の広告事情を紹介したものの中に、『都新聞』(大正2年=1913、中央)と『東京日日新聞』(大正3年=1914、右上)に載った広告。

なるほど、女給たちの写真入りです。しかし、大正2、3年では、光太郎が通っていた明治44年(1911)より少し後なので、もしかするとお梅はもう居ないかも知れません。そこで「明治44年当時の広告はないか」。思い出したのが、「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」。武蔵野美術大学さんの前田恭二教授によって継続中の連載で、『読売新聞』さんの明治期からの過去記事データベース「ヨミダス」が活用されています。「もしかすると「ヨミダス」、広告も検索対象にしているんじゃないか?」と思ったわけです。

隣町の県立図書館さんの分館にダッシュ(笑)。閲覧用PCで「ヨミダス」を立ち上げて頂き、キーワード「よか楼」でポン。すると、ビンゴでした! 何度も広告が出ており、同一の写真を使ったものが多かったのですが、写真の種類で言うと5種類、見つかりました。
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古い順に、明治44年(1911)7月4日(左上)、同9月7日(右上)、同10月31日(左下)、明治45年(1912)3月6日(下中央)、同7月12日(右下)です。
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さらに他紙のデータベースも当たりました。『毎日新聞』さんの「毎索」ではヒットせず。しかし、『朝日新聞』さんの「クロスサーチ」では、「ヨミダス」以上の大漁。

明らかに『読売新聞』さんのものと同一の写真を除くと、8件。
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2a19120515 2a19120713
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左上から順に、明治45年(1912)1月28日、同3月17日、同5月15日、同7月13日、同じ1912年で改元後の大正元年12月9日、大正3年(1914)3月7日、同10月20日、同11月3日です。

お梅はナンバー2くらいだったようですので、上記画像の中にお梅がいるとみて間違いないでしょう。どれがお梅だかは特定できませんが。

お梅にぞっこんだった明治44年(1911)の暮、光太郎の前に智恵子が現れます。それまで素人女性には興味を抱かなかった光太郎、すぐに智恵子に鞍替えというわけではありませんが、ずっと智恵子は気になる存在として光太郎内部に居続け、しかし、こんな自分と一緒になっても苦労するだけだとか、自分に智恵子と添い遂げる資格があるのだろうかなどと悩みます。そのあたりの逡巡が翌年の詩「涙」「おそれ」などに謳われました。そういいつつ、その前に「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」(「人に」 のちに『智恵子抄』巻頭を飾りました)などとも語りかけ、ズルい奴です(笑)。

まあ、結局は大正元年(1912)、銚子犬吠埼に智恵子が光太郎を追ってやってきたことで、光太郎も覚悟を固めたのだと思います。そしてお梅との関係も解消。この前後でしょう。

お梅さんが朋輩と私の家へ押しかけて来た時、智恵子の電報が机の上にあつたので怒つて帰つたのが最後だつた。その頃、私の前に智恵子が出現して、私は急に浄化されたのである。お梅さんはある大学生と一緒になり、二年ほどして盲腸で死んだ。谷中の一乗寺にその墓があるが、今でも時々思ひ出してお詣りしてゐる。(「ヒウザン会とパンの会」)

お梅も可哀想な女性だったと思います。

ところで、お梅の前に入れ込んでいた吉原河内楼の若太夫についても、後日譚等わかってきましたので、いずれご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

又いただいたカフエはまことに珍しく、此の山の中がまるでフランスのやうに感ぜられ、ここの森のたたずまひさへフオンテンブロオの森の心地いたします。
昭和24年(1949)11月23日 立花貞志宛書簡より 光太郎67歳

こちらの「カフエ」はコーヒーの意味ですね。

立花貞志は戦前に岩手県芸術協会の立ち上げに関わり、宮沢賢治と面識もあった人物で、この頃盛岡のサン書房という出版社に勤務していました。

ところで、コーヒーと言えば、コーヒーをメインにしていた「カフェ・パウリスタ」。「都会情景 カフエー譚」にも紹介されていますし、江口渙などの回想に依れば智恵子や青鞜社のメンバー等が通っていたそうですが、光太郎詩文にはその名が出て来ません。同時代人の回想でも光太郎がパウリスタに通っていたという記述は見当たりません。

ところが、ネット上では「高村光太郎も通っていたパウリスタ」的な記述が溢れています。老婆心ながら「違うよ」と言わせていただきます。全く行ったことがないというわけでもないのでしょうが、上記のさまざまなカフェは酒がメインで、パウリスタは後の純喫茶に近い形。光太郎のニーズとは少し異なっていたようです。

当会発行の冊子『光太郎資料』62集、完成しました。関係各所には先週末に発送いたしまして、そろそろお手元に届いていることかと存じます。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、光太郎や周辺人物に関するさまざまな「資料」を紹介する目的で不定期に発行されていたものです。その名跡をお譲りいただき、現在は4月2日の連翹忌と10月5日のレモンの日に合わせ(その差がほぼ半年ですので)年2回の刊行としております。

「刊行」と言っても印刷のみ地元の印刷やさんにお願いし、丁合、ホチキス留めは手作業。手作りの冊子です。

今号の内容は以下の通り。

・「光太郎遺珠」から 装幀・題字
平成10年(1998)の『高村光太郎全集』完結後も、続々と見つかり続けている光太郎作品の紹介を、「光太郎遺珠」の題名で『高村光太郎研究』という雑誌に連載させていただいておりますが、そちらをテーマ別に再編。今回は光太郎が手がけた装幀と書籍題字など。

『高村光太郎全集』別巻に光太郎が手がけた装幀と書籍題字のリストが掲載されていますが、やはりもれがありまして、その辺を画像入りで。

いくつか例を。
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左が昭和5年11月25日発行、竹内てるよ著「曙の手紙」表紙。光太郎は昭和7年(1932)刊行の『第二曙の手紙』など、他にも複数の竹内著書の題字揮毫を手がけていますが、それらのうち最も古いものでした。

中央は昭和13年(1938)11月28日、東京農業大学農友会文芸部発行の部誌『土』。昭和16年1(1941)1月25日発行第31号の筆跡の異なる題字は知られていましたが、それ以前の号でも光太郎が筆を揮っていました。「土」一文字、単純な字だけに難しいと思うのですが、味のある字ですし、何よりバランスが絶妙だと思います。

右は大正15年(1926)7月25日発行の雑誌『デツサン』第三輯。題字は光太郎の筆跡とは異なるものですが、絵は光太郎で「光 1916」のサインが入っています。古いデッサンを編集者が懇願して使わせて貰ったそうです。

光太郎回想・訪問記 都会情景 カフエー譚
同時代の人々による光太郎回想等のうち、光太郎研究書等で紹介されていないものを取り上げています。今号は大正3年(1914)1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号に載った「都会情景 カフエー譚」。「木像生」の署名がありますが執筆者の詳細は不明です。

光太郎の名は2回程しか出て来ないのですが、明治末から大正初めにかけての東京のカフェ事情が詳しく記されています。このうち、光太郎も足繁く通い、詩文にその名が登場する「よか楼」「ライオン」「プランタン」「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」等についての部分。

これについては、調べていくうちにちょっとした発見がありまして、明日また詳しくご紹介します。

・光雲談話筆記集成 『書道』より
光太郎の父・光雲の談話筆記はさまざまな雑誌等に載ったのですが、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』以外にはまとめられていません。今号では昭和7年(1932)、泰東書道院出版部発行の雑誌『書道』に掲載された「大圓寺感話集」「鶴」の2篇を収めました。いずれも彫刻制作に関する内容です。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 犬吠埼その二
前号に続き、大正元年(1912)に光太郎智恵子が滞在し、愛を確かめ合った千葉銚子犬吠埼関連。手持ちの古絵葉書画像と共に、二人の泊まった宿、二人が歩いた場所などをご紹介しました。
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・音楽・レコードに見る光太郎 清水脩作品
光太郎生前の昭和30年(1955)に一部が作曲、初演された「歌曲集 智恵子抄」をはじめ、清水脩作曲の光太郎詩に曲を付けたりしたさまざまな音楽の紹介です。

・高村光太郎初出索引
さまざまな光太郎文筆作品等を索引にしていますが、昭和5年(1930)、6年(1931)に初出のあったものを掲載誌順にご紹介しています。

・第六十八回連翹忌報告
今年4月2日(火)の日比谷松本楼さんでの連翹忌の集いの記録です。

ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーで、品切れとなっていない号も)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。申し訳ありませんが手数料はご負担下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

盛岡では寸暇もなく引つぱりまはされて弱りましたが、小生の昔作つた大倉喜八郎の小さな首の彫刻を再入手する事が出来てよかつたと思ひました。盛岡の彫刻家が預かつてゐてくれたのでした。


昭和24年(1949)11月22日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

日記が失われていて詳細不明ですが、11月17日から一週間程、盛岡に滞在。県立美術工芸学校、盛岡公会堂で講演などを行いました。

経緯は不明ですが、工芸学校で教鞭を執っていた堀江赳がテラコッタ「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)を保管していて、光太郎の手元に戻りました。

昨日開幕の企画展示です。

令和6年度高村光太郎記念館企画展「高村光太郎 書の世界」

期 日 : 2024年10月5日(土)~11月30日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を送り、彫刻制作を一切封印します。山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、大小さまざまな「書」を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では光太郎による晩年に執筆された芸術評論『書についての漫談』を紹介しながら、彫刻・文芸と並び、光太郎第三の芸術とも言われる「書」を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。

展示構成
 書額および書軸等 8点
 直筆原稿 7点
 拓本(縮小複製)      1点
 資料合計 16点(参考 常設展示の書は大小各種合わせて18点)

展示の見どころ
 出品する書額及び書軸はすべて実物で、光太郎の肉筆を間近でご覧いただけます。
『書額 乾坤美にみつ』『色紙幅 義にして美ならざるなし』『画賛幅 うつきしきもの満つ』の三作は旧展示施設の高村記念館を通じて、当地では初公開の作品です。
 また、最晩年に執筆された『書についての漫談』からは、光太郎幼少時代の書との出会いから、著名人の作風を例示しての批評など、光太郎の「書」についての考え方を窺い知ることができます。
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同館での同様の展示は、平成29年(2017)12月~翌年2月令和元年(2019)9月~11月に続き、これで3回目になります。所蔵している光太郎書の数が多く、常設展でもかなりの数を出していますが、それでも展示しきれないのでこうして普段は所蔵庫にしまわれているものを出しています。今回が初展示という作品も出ています。

それにしても、市から詳細情報が出たのが開会前日の午後。もう少し早く告知できませんかと常々申し上げているのですが、無視されている状態です。何だかなぁ、という感じですが……。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生自然の中に包まれてゐるやうな生活をしてゐますが、東洋の先輩賢哲の例にはならはぬ気で居ります。小生の彫刻製作をはばむものはもつと現世的な諸条件であり卻つて深刻な感があります。


昭和24年11月21日 森荘已池宛書簡より 光太郎67歳

東洋の先輩賢哲」は、俗世間との交わりを絶って山に隠遁していた中国の竹林の七賢、我が国の兼好法師あたりをイメージしているのでしょうか。彼等とは異なり、自らの戦争責任に対する処罰を自ら行っているという感覚が見て取れます。

今日、10月5日はレモンの日。昭和13年(1938)の今日、南品川ゼームス坂病院の15号室で、光太郎の持参したレモンをがりりと噛んで亡くなった智恵子に因みます。

さきにお伝えしたように、智恵子の故郷・福島二本松では「高村智恵子レモン祭」として、さまざまなコンテンツが展開中。そのうち、智恵子生家のライトアップについて『福島民友』さんが報じて下さいました。

2階に浮かぶ幻想的なシルエット 智恵子の生家をライトアップ、5日まで

 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で、光太郎の詩集「智恵子抄」の「レモン哀歌」でも知られる二本松市出身の洋画家高村智恵子の命日を前に、同市の智恵子の生家・記念館は3日、ライトアップイベントを始めた。生家に智恵子と光太郎のシルエットが浮かび上がり、背景に月や「二本松の提灯(ちょうちん)祭り」などをイメージした幻想的な映像で彩った。
 「高村智恵子レモン祭」の一環として昨年に続き実施した。生家内や庭園は竹明かりや和紙ランプシェードで演出され、来場者が智恵子への思いをはせた。
 ライトアップは命日の5日までで、時間は午後5時〜同8時。ライトアップ時は生家を無料開放する。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。
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市のSNSから。
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いい感じですね。夜中に突如二階の障子に灯りがともり、浮かんだ智恵子のシルエットが動き出しそうな……(笑)。

ライトアップは今夜も行われ、いったん休止。その後、11月5日(火)~17日(日)の期間に再び点灯だそうです。

もう1件、光太郎第二の故郷・岩手花巻での「食」イベント。

【初開催】レモンの日イベント

期 日 : 2024年10月4日(金)・5日(土)
会 場 : 田舎labo 岩手県花巻市湯口字蟹沢13−1
時 間 : 11:00~16:00
料 金 : 無料

10月5日〈レモンの日〉にちなんで開催! いろんなジャンルの飲食店が、いちおしのレモンメニューを持って集まります。レモン尽くしの爽やかな2日間をぜひお楽しみください。

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地図を見ると光太郎が足繁く通った大沢温泉さんや鉛温泉さんを含む花巻南温泉峡の入口、当方もよく立ち寄るファミリーマートさんの隣の隣(笑)ですね。

情報に気づいたのが昨日で、申し訳ありませんでした。言い訳させていただけるなら公式サイトに光太郎智恵子の名が無かったもので……。他地域などでも光太郎智恵子をあまり意識せずに「レモンの日」ということでのイベントがあったりするのでしょうか。

とにもかくにも、お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子切抜絵展」少しも差支へないと考へます。未知の人々に見ていただくのも愉快です。

昭和24年(1949)11月14日 真壁仁宛書簡より 光太郎67歳

真壁は山形在住の詩人。戦争末期の昭和20年春、光太郎は南品川ゼームス坂病院で智恵子が作った紙絵千数百枚のうち約3分の1を真壁の元に疎開させました。他の3分の2も花巻の佐藤隆房宅、茨城の宮崎仁十郎宅に分散疎開。そのため、4月の空襲でアトリエ兼住居は灰燼に帰しましたが、智恵子紙絵は無事でした。

書簡は手元にある紙絵を山形の人々に見てもらいたいので、展覧会を開きたいという真壁の提案に対する返答です。これを受けて11月19日~28日、山形市美術ホールで「智恵子遺作切抜絵展覧会」が開催されました。これが初の智恵子紙絵展でした。

開催中の展覧会を報じた報道から2件。

まずは上野の東京藝術大学大学美術館さんでの「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」につき、『朝日新聞』さん。

西洋彫刻で見いだす台湾 黄土水展

 台湾出身者で初めて東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学した彫刻家・黄土水(こうどすい)(1895~1930)に焦点を当てた「黄土水とその時代」展が、東京・上野の東京芸術大学大学美術館で開かれている。
 黄土水は、高村光雲に師事して彫刻を学び、計4度の帝展入選を重ねた。将来を期待されたが、病のため35歳で急逝。今展では黄土水の作品群と共に、芸大コレクションの中から黄土水が学んでいた頃の日本の洋画や彫刻なども展示し、当時の美術界の様子を浮かび上がらせている。 展示の目玉は、帝展入選作の一つで、昨年台湾の国宝に指定された大理石彫刻の「甘露水」(1919年)だ。長らく所在が分からなくなっていたが、2021年に見つかった。同美術館の村上敬準教授は「西洋彫刻を学びながらも、自分のルーツである台湾を表現しようとしていた。『甘露水』も、西洋の理想化された身体ではなく、東洋人の体格で作られている」と話す。10月20日まで。
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続いて、智恵子の故郷・二本松市の大山忠作美術館さんで始まった「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」。KFB福島放送さんのローカルニュースから。

大山忠作さんの襖絵 二本松市に里帰り(福島)

 千葉県の成田山新勝寺で、門外不出とされていた襖絵が、作者である大山忠作さんのふるさとの二本松市に里帰りしました。
 6枚から8枚のふすまを組み合わせて1つの作品となる襖絵。二本松市出身の画家・大山忠作さんが約45年前に手掛けた物で、千葉県の成田山新勝寺に飾られていました。
 「日月春秋」をテーマに描かれた襖絵には、ふるさと福島の自然美も表現されています。
初日の1日はオープニングセレモニーが行われた後、大山さんの長女の采子さんが作品を「戦争で生きるか死ぬかの時に、もし生きて帰ることができたら、自分は絵だけを描いて生きていこう、そういう風に決めて見ていたお日さま。それを父は昇る朝日に置き換えまして、成田山に奉納する襖絵の題材として描きました。」と解説しました。
 訪れた人は「一度見てみたいなと思っていたので、間近に見れて本当に素晴らしいなって。今感動しています。」と話していました。
 この襖絵は、大山忠作美術館の開館15周年を記念して、11月17日まで展示されています。
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画伯のお嬢様・一色采子さん。女優としてのお仕事でない時は、ご本名の「大山采子」さんで通されています。談話の中に戦争云々のお話がありますが、画伯、昭和18年(1943)に東京美術学校を繰り上げ卒業となり、熊谷の航空基地に。その後、フィリピン、台湾と転戦されたそうです。
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ある時、一色さんとお話をしていて信州上田の無言館さんの話題となり、「うちの父も、もしかするとあそこに作品が展示されるようになっていたかも」とおっしゃっていました。

そう考えると、朝日を描いた襖絵、地上からの眺めでなく、軍用機のコックピットで観た俯瞰のような気もします。こじつけでしょうか。

さて、両展、是非とも足をお運びいただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

自分ながら変な親爺と思ひますが争ひがたい都会性と野人性との混淆を感じました。

昭和24年(1949)11月8日 濱谷浩宛書簡より 光太郎67歳

写真雑誌『アサヒカメラ』の取材で、光太郎の蟄居する花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた写真家・濱谷から贈られた自らの写真に対する感想です。
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都会性と野人性との混淆」は、遠く明治44年(1911)に書かれた詩「声」で、既に扱われていたテーマです。

頼まれましたので、出演して参ります。

☆ポエトリーユニオン☆@浅草

期 日 : 2024年10月12日(土)
会 場 : 浅草の和モダン レンタルギャラリーブレーメンハウス 東京都台東区浅草1-37-7
時 間 : 14:00~
料 金 : 1,000円

浅草寺の近くのギャラリーで味わい深いオープンマイクをやります。

当イベントはオープンマイクです。1人の持ち時間8分。好きな絵について語った後、詩を1篇(時間内なら2篇OK)朗読して下さい。

会場1階は萩原哲夫氏の展覧会となっています。ご都合の良い方は早めにお越しいただき、鑑賞していただければ幸いです。

飲み物はペットボトル持参でゴミはお持ち帰りいただけますよう、お願い申し上げます。

『私達の日々は風景の連続ともいえるでしょう。
 美しい瞬間を画家が描いた風景の前に、人は立ちどまります。
 詩人の語る詩情にも絵はあります。
 朗読する詩人達の肉声を通してそれぞれの風景を想像して
 分かち合う午後のひと時をご一緒しましょう。』

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仕掛け人は連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏。この手のイベントをよく主催されているようです。

氏から「光太郎について語ってくれ」と言われ、お受けすることに致しました。他は現役の詩人の皆さんがマイクを握られるのでは、と思われます。

聴くだけでも可でしょうし、ぜひ語りたいという方もまだ受付中と思われます。上記フライヤー画像ご参照の上、お申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩を六篇自分勝手に選択して書きぬき、別封で送ります。多分明日二ツ堰の局までゆけるでせう。今日は暴風雨ですが。「続智恵子抄」ではあまり月並みと思ひ、「智恵子抄その後」としましたがおかしいでせうか。

昭和24年(1949)10月30日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎67歳

粕谷は編集者。連作詩「智恵子抄その後」6篇――「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」――は、翌年1月の『新女苑』に発表されました。

時折、光太郎に関連する企画展示をなさって下さっている文京区の森鷗外記念館さんで、またしてもです。

特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」

期 日 : 2024年10月12日(土)~2025年1月13日(月・祝)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10:00〜18:00
休 館 : 11月26日(火) 12月23日(月)・24日(火) 12月29日(日)~2025年1月3日(金)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円)  中学生以下無料

 文京区立森鴎外記念館では2024年10月12日(土)から2025年1月13日(月・祝)まで、特別展「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」を開催いたします。
 当館では2023(令和5)年、江戸千家家元・川上宗雪氏より、明治20年代から昭和50年代に交わされたはがきコレクション111枚を一括でご寄贈いただきました。
 差出人は森鴎外を始め、夏目漱石、与謝野晶子、石川啄木、芥川龍之介、宮沢賢治ら文学者。竹久夢二、藤田嗣治、竹内栖鳳、恩地孝四郎ら美術家。他にも幸徳秋水、田中正造、山川菊栄、南方熊楠、柳宗悦など、各分野において近現代史に名を遺す著名人ばかりです。
 内容は、季節の挨拶、礼状、お祝い、事務連絡など暮らしや仕事のやり取りもあれば、私信ならではの本音や心安さが見られるものもあります。手書きでしたためられたはがきには、書き手の個性や受取人との関係性、当時の社会の雰囲気に思いを巡らせる魅力が詰まっています。
 本展では、はがき一枚一枚の魅力や、それらが伝える人物交流、文化的・社会的背景を紹介します。各人の全集に未収録のものや、文京区ゆかりの文化人のもの等、明治から昭和に至る通信環境の変化とあわせて、111枚のはがきの世界をお楽しみください。

■はがきの差出人(五十音順)
文学者
芥川龍之介、石川啄木、伊藤左千夫、井伏鱒二、伊良子清白、氏家信、円地文子、岡本かの子、尾山篤二郎、山本露葉、北原白秋、木下利玄、古泉千樫、齋藤茂吉、島木赤彦、杉田久女、高村光太郎、立原道造、谷崎潤一郎、田山花袋、坪内逍遙、土岐善麿、内藤鳴雪、永井荷風、長塚節、中西悟堂、夏目漱石、萩原朔太郎、馬場弧蝶、二葉亭四迷、堀辰雄、正岡子規、三木露風、宮沢賢治、三好達治、武者小路実篤、室生犀星、森鴎外、吉井勇、若山牧水、柳原白蓮、与謝野晶子、吉川英次 ほか

美術家、工芸家
會津八一、梅原龍三郎、小川芋銭、織田一磨、恩地孝四郎、香月泰男、川端龍子、小出楢重、近藤浩一路、坂本繁二郎、芹沢銈介、竹内栖鳳、竹久夢二、寺崎廣業、堂本印象、富岡鉄斎、橋本関雪、平福百穂、藤田嗣治、前田青邨、松林桂月、松本竣介 ほか

ジャーナリストほか
大川周明、緒方竹虎、木下尚江、幸徳秋水、高田早苗、田中正造、山川菊栄、山川均

哲学者、評論家、芸能ほか
阿部次郎、安倍能成、仮名垣魯文、三遊亭円朝、寺田寅彦、新村出、西田幾多郎、野上豊一郎、久松潜一、藤原銀次郎、正木直彦、南方熊楠、柳宗悦、和辻哲郎
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関連事業

○展示監修者、調査研究協力者による講演会
 ・講演会「111枚のはがきが織りなすタペストリー」
   講師:須田 喜代次 氏(大妻女子大学名誉教授・森鷗外記念会会長)
   日時:2024年11月10日(日)14時~15時30分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ・講演会「はがきの世界1」
   前半「芥川龍之介のはがきをめぐる三題噺
-〈六朝書体〉・海軍機関学校・小説「河童」」
    講師:伊藤 一郎 氏(東海大学名誉教授)
   後半「夏目漱石のはがきから-漱石の文人趣味」
    講師:松村 茂樹 氏(大妻女子大学教授)
   日時:2024年11月24日(日)14時~16時15分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ・講演会「はがきの世界2」
   前半「宮沢賢治「臨終の詩」の謎-松本竣介はどこでこの詩に出会ったのか?」
    講師:杉浦 静 氏(大妻女子大学名誉教授)
   後半「翻字作業の裏側で-文字に向きあうということ」
    講師:出口 智之 氏(東京大学准教授)
   日時:2024年12月14日(土)14時~16時15分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ※講演会はいずれも定員50名

はじめ、鷗外宛のはがきの集成かと思ったのですが、さにあらず。個人のコレクターの方からの寄贈で、とにかく近代著名人の葉書をコレクションするという集め方だったようで、差出人はもちろん、宛先もバラバラのようです。

我らが光太郎の葉書も含まれています。比較的長命だった上に、特に戦後はやたらと筆まめだった光太郎ですので、そう珍しいものではありませんが、『高村光太郎全集』未収録のものであれば嬉しいなと思っております。そうであれば、たった一通でも、通説を覆すようなことが書かれていたり、これまで知られていなかった事実が書かれていたりということがよくありますので。

8月に行って参りました兵庫県たつの市の 霞城館・矢野勘治記念館さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」に出た光太郎葉書もそんな例で、この発見により、大正年間に埼玉の秩父山麓を周遊していたという知られていなかった事実が判明したりしました。

ところで、光太郎と異なり早世したため、残っている書簡の少ない石川啄木や宮沢賢治のそれも出品され、かえってそちらで「ほおー」と思いました。啄木からは大恩人の金田一京助宛、賢治は高橋秀松という人物に送ったものだそうです。高橋は盛岡高等農林学校の寄宿舎で賢治と同室、戦後、郷里の宮城県名取町(のちに名取市)の町長/市長を務めた人物でした。

他にも文学、美術、さらにその他の分野でも光太郎と縁のあった人物がずらり。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

しかしお彼岸の頃から健康恢復、只今ではもうすつかり元気になりました、夏に弱いことまつたく白熊のやうです。その代りこれから冬にかけては得意の季節です。
昭和24年(1949)10月26日 東正巳宛所感より 光太郎67歳

少し前のこの項でご紹介した、この年の夏、おそらく熱中症で4回ぶっ倒れたという話からの繋がりです。自らを白熊に例えるあたり、笑えます(笑)。

愛知からコンサート情報ですが、8月の段階でチケット完売とのこと。ただ、キャンセル等があるかも知れませんし、記録のためにもご紹介しておきます。

HITOMIホールプリズムステージ 朗読と音楽が紡ぐ愛、「智恵子抄~田園交響楽より~」

期 日 : 2024年10月9日(水)/10月10日(木)
時 間 : 15:00~ 
会 場 : HITOMIホール 名古屋市中区葵三丁目21番19号メニコンアネックス5F
料 金 : 一般 前売り3,000円/当日3,500円  大学生迄 前売り・当日ともに1,500円

「智恵子抄」は、詩人・高村光太郎によって書かれた詩集。妻・智恵子との出会いから死後までの約30年間に書かれた、彼女にまつわる作品集です。プリズムステージでは、智恵子が愛したと言われているベートーヴェンの「交響曲第6番『田園』」をモチーフにしたオリジナル音楽とともに構成します。
●作曲 宗川諭理夫
●朗読 たかべしげこ、大田翔
●演奏 ヴァイオリン 寺田史人 チェロ 佐藤光 ハープ 天野世理
光太郎の描いた精神世界、届かない智恵子への憧れと渇望、そして絶望。理性的な美しい言葉たち。挑戦のステージです。
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同じ会場で、似たタイトル(今回の「愛」が「純愛」でした)の公演が平成28年(2016)同29年(2017)同30年(2018)と3年連続で開催されました。基本的には再演なのでしょうが、演者の方々は過去のそれとは異なっています。

昨日ご紹介した野田秀樹氏作の演劇「売り言葉」にしてもそうですが、「智恵子抄」、様々な切り口からの二次創作が可能な素材です。今後ともこういったものが作り続けられ、上演され続けられて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

小鳥も多くなり、木ツツキが小屋の屋根をたたきます、木ツツキが来ると冬が近づきます。今はススキの穂がいちめんに銀いろで海のやうです。木々は既に紅葉をはじめ、山口山は上の方から赤くなつて来ました。今に路傍の草までまつかになることでせう。


昭和24年(1949)10月26日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の秋。約2ヶ月後に発表した連作詩「智恵子抄その後」の中では、「智恵さん斯ういふところ好きでせう。」と謳いました。

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